「源 義経」美男説を追う 

-不毛な論争を越えて-

シェー クスピアではないが、「源義経は美男子だったのか。それともブサイクだったのか。それが問題だ。」

美男子説を主張する者は、母の常磐御前が、京の都でも評判の美人だったことをまずあげる。常磐御前は、保延4年(1138)年京都の揚梅町(やまももま ち)に生まれた。生まれた時から、美しいさは際立っていたらしい。

そんな折、久安6年(1150)に、藤原家(九條家)の姫の呈子(ていし)が近衛天皇の中宮(皇后)となることになった。そこでこの姫さまの側に仕える女 性(雑色)を募集することになった。

これは当時の京都の人々にとって、非常に目出度いお祭り事に発展した。九條家だけではなく、京都中の器量自慢の娘が続々と集まった。その数は900人とも 千人とも伝えられる。その時、常磐はまだ13歳であった。ところがまだ幼さの残る常磐は、並み居る美女をけ落として、最後の一人に選ばれたのである。まあ 今でいえばミスユニバース日本代表ということだろうか。

それから瞬く間に3年が過ぎた。常磐は、16歳の娘盛りとなった。かぐや姫の話もあるが、美女に男は弱い。貴い公家の若様や荘園を持つ武家の男たちが、常 磐御前を娶ろうと躍起になった。結局、常磐は、武家で源氏の棟梁の源義朝のもとに嫁ぐことになった。「義経公はそんな絶世の美人常磐の子であるから、義経 がブサイクであるはずがない。」義経美男説を取る人は、このように主張する。

一方、義経「ブサイク」説を主張する者は、平家物語のある段を引き 合いに出してくる。

「平家物語」巻第十一「鶏合・壇ノ浦合戦」の下りだ。

義経容姿について越中次郎兵衛という平家方の武者が語った言葉の原文はこうだ。

「九郎は色白うちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ。ただし直垂と鎧を常に着かふなれば、きっと見わけがたかんなり」

少し臨場感を出して、その場面を現代語で再現してみよう。

平家の大将義経の宿敵平知盛が、壇ノ浦での大決戦を前にして、平家の武者に気合いを入れる。「戦は今日が最後一歩も退くな。古今東西、インド、中国、わが 日本でも、どんな名将勇者といえども、命の尽きぬことはない。だからこそみなの者名こそ惜しめよよ。東国の武者に弱気を見せてはならぬ。今日を戦わずし て、いったい何のための命じゃ。我らの命は今日のこの戦のためにあり・・・」

するとそれに応えて、「ウォー」と平家の武者が雄叫びを挙げる。

上総悪七兵衛という者が、源氏方何するものぞと叫ぶ。、
「板東武者は、馬の上でこそ大きな口を叩けるが、船戦など経験していないのだ。まあ魚が木に登ったようなものでござる。まあ、魚どもをむんずと一匹一匹掴 んで、海に放り投げてやりましょう。」笑いとどよめきが起きる。

今度は、越中次郎兵衛というものが、こんなことを言う。
「いやー、悪七兵衛殿、同じ魚を掴むなら、大将軍の源九郎義経を掴まれよ。九郎は、聞くところによると、色が白くてせいの小さい男らしいですぞ。前歯がと くに目立つからすぐ分かるらしいですぞ。(どっと笑いが起きる。それじゃー白ザルだなとか何とか・・・)ただ、直垂(ひたたれ:鎧の下に着る上着)と鎧を しょっちゅう着替えるからなかなか容易には見分けがつかないかも知れませんな」

悪七兵衛が応える。
「総大将だが何だか知らぬが、心は勇ましいようだが、所詮は青二才の小冠者に過ぎぬ。どれほどのことがあろうか。鯛のようにむんずと掴まえて、小脇に挟ん で、海へ投げ入れてやろうぞ」

軍勢から、歓声があがる。「今日こそあの憎き「義経」に目にものを見せてやりましょうぞ」と叫ぶ者がいた。

この発言が、ブサイク説の唯一の根拠である。平家が、壇ノ浦の一戦に賭けるまさにその時、敵方の総大将の義経を貶(けな)して、味方の軍の志気を高めるの は戦の常道である。おそらく、実際にはもっとえげつない言葉が飛び交ったことだろう。スポーツ紙だって、実際の野球場での放送禁止用語ひん発のヤジを記事 にすることはない。それと同じだ。白ザルとか「奥州のサル面冠者」とか、現在でも憚(はばか)られるような言葉が総大将の義経には浴び掛けられたはずだ。 以上の雰囲気を掴まないと、なかなか物事の真実は見えてこない。

きっと、平家方の武者からすれば、威勢良く歓声などを挙げてはいる が、一ノ谷の逆落としや、嵐をついた屋島の奇襲 など、天狗が妖怪の類の武者のような印象があったはずだ。根底には敗北の不安がある。今日の壇ノ浦の藻くずと消えてしまうかもしれないのだ。そこであの 「むかば」発言がある。「むかば」とは「向歯」あるいは「当門歯」とも表記し、上あごの歯(すなわち前歯)と解釈できる。但しこの発言一つで、現実の義経 を「出歯」の男と表現して良いものか。色が白い。それから小柄というのはまず間違いないであろう。色が白いという点は、母からの遺伝であろうか。父の義朝 や頼朝も背は低いと言われているから、これは父方からの源氏の遺伝的形質ということができる。

京都の高野山神護寺に、源頼朝の肖像と伝えられるものが残っている。この肖像を巡り、これは頼朝の姿ではないという説が出されているが、私は間違いなく、 これを頼朝の肖像だと思っている。実に堂々たる風貌の肖像であるが、この面影の中に、義経も形質的に受け継いだ造作があるはずだ。口の部分を見る。すると やや前歯の辺りが隆起しているようである。そして下あごの部分がやや奥まっている。もしも頼朝が、ヒゲを剃って、正面を向き、笑顔を作ったならば、鼻も相 当大きいので目立つかもしれないが、前歯が目立つ可能性がある。つまり、この頼朝の口元を見て、先の義経の容貌の特徴である「むかば」件を吟味してみれ ば、笑った時に上あご全体が少し秀でて見えるために、歯が目立つように見えるのではないかと思う。さて頼朝の顔は、伝えられる限り、源氏の特徴の大顔であ る。義経の顔が、頼朝同様、大顔だったかは、定かではない。おそらく頼朝と比べれば、小顔ではなかったかと思われる。それは母の形質を受け継いでいると考 えられるからだ。彼は小さな頃から、鞍馬で稚児として育っている。男色だったと伝えられる後白河法皇が、何かと義経に目を掛けたのも、彼が優美で美しい男 であったということも考えられる。

さて、ここで、義経の風貌について、ひとつの仮説を提示してみる。鞍馬山で鍛えられた鋭い運動神経と柔らかな筋肉を持つ人物が浮かぶ。例えば、真田広之と いう役者がいる。少し顔が筋肉質過ぎるが、彼が若い頃、もう少し頬がふっくらとしてた風貌を考えて頂きたい。彼が兜を付け、笑った瞬間を考える。彼も二本 の前歯がよく目立つ。それに彼は下あごがやや奥まっている。

そこでもう一度「むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」という言葉を改めて吟味してみる。「前歯が、殊更に差し出でていて、分かるらしいぞ」
考えて見れば、これは、義経の戦場での表情の特徴である。兜を付けていれば、見えるのは目と鼻と歯である。前歯が殊更見えるというのは、良く笑うという特 徴を捉えているのではないかということだ。戦場での決断力が人並み外れて優れている。そして誰も考えないことをハタと思いついて、実行する。その時、彼は 非常に楽しげに大笑いなどをしながら、鵯越の逆落としのような凄いことをやってのけてしまう。例えば、映画「アマデウス」(ミロス・フォアマン監督 1984年)で、神童のモーツァルトが、凡そ相応しくないような猥談談をし、下卑た大笑いをしながら、一方では素晴らしい曲を書いているシーンがあった が、義経もあの感じではなかったかと思われる。すると戦場でそれを目の当たりにした者は、彼の白い歯しか浮かばないのである。

容貌というものを少し考えてみる。容貌とは、顔の造作よりは、ある 特定の人物を、見た瞬間に感じる全体の雰囲気あ るいは印象を指す言葉だ。つまり顔立ちと体つきを直接示す「容姿」とは、ややニュアンスが異なる。そこで義経の容貌というものを考えてみる。源平の時代に は、現代のように写真がなかったから、義経の容貌というものは、多くの人の「噂」によって、日本中に広まったことになる。それは味方である源氏方にも、敵 方になる平家の武者たちにも、あるいは京都の庶民にも、また奥州藤原氏の里にも、まさに電光石火のスピードで伝わったことであろう。

ところで、「義経」という小説も書いている司馬遼太郎は、1986年に行った講演(「義経と静御前」朝日文庫、司馬遼太郎全講演3所収)の中で義経につい てこんな話をしている。

「義経は戦争の天才でした。・・・義経は騎馬を近代西洋の騎兵(ナポレオン騎兵)のような使い方をした。・・・日本の歴史でスターが登場したのは、義経が 最初です。・・・だから『平家物語』はおもしろい。闇の中から出てきた青年がスターになる。また義経はスター意識のある人でした。・・・義経は、戦のたび にドレスを替えた。平家も、自分たちはダンディーだと思っていたが義経にはかなわない。・・・義経は、演劇的な存在で・・・女の人にもてたのですが・・・ 静御前は京都一の白拍子でした。白拍子というのは独立した婦人です。無位にして関白の前にも出れるし、上皇、法皇の前にも出られる。・・・それを義経が愛 人にしたのですからスターバリューがある」

容貌については、記していないが、「日本の歴史初のスター」と括りで、当時の義経の存在をうまく伝えている。ここには記していないが、義経には貴種として の毛並みの良さもある。彼は義朝という武運拙く破れはしたが、源氏の頭領の血を受け継いでいる。しかも彼はその父の仇を討つという宿命を負わされている存 在だ。日本人というものは、昔から仇討ちというものに対しては特別の思い入れをもって温かく見守る傾向がある。曾我兄弟の話や赤穂浪士事件などもそうだ。 判官びいきの根底にも、様々な生い立ちの苦難をくぐり抜けて父義朝の汚名を晴らしたという英雄に対する温かい庶民の思い入れが加わっているように感じる。

当時の義経は、今で言えば、戦後日本野球の最大のスター長島茂雄や大リーグのイチローやマツイをスケールアップしたような圧倒的な存在だった。例えば、屋 島の勝利から京都に凱旋する時などは、その凛々しい武者ぶりを一目見ようと、京中の人々が集まってきた。しかも義経は、木曾育ちの義仲と違って、京育ち で、立居振舞いから言葉遣いまで、京の人々を納得させる優美さが備わっていた。当時の庶民が突如として現れた大ヒーローを羨望の眼で見るのも無理からぬこ とだ。その大スター義経が、静という当代一の美人を愛人とした。これはすごいことである。その昔、戦後の野球を変えたとまで言われた巨人軍の長島茂雄が大 女優司葉子と噂になったことがあったが、義経と静の恋愛はこれ以上の大スクープだったはずだ。

ここで、長島茂雄の容貌について少し考えてみる。長島茂雄を美男子あるいはハンサムという人は、余りいないが、とにかく花のある「カッコイイ」人物だとい う点では大方の人が納得する。世の人々は長島について、顔の造作そのものというよりは、長島に「花」があるかどうかということで、「カッコイイ」と評して いることになる。

映画俳優に石原裕次郎がいる。彼は、俳優の容姿としては、決してハ ンサムな部類の役者ではなかった。確かに、身長 は180cmを越えていて当時の日本人離れをした体型をしていた。しかし顔の造作やパーツについてみれば、歯並びも良くない。鼻だって小鼻の拡がったアジ ア人の鼻であった。彼よりハンサムな男優は幾らでもいた。しかし裕次郎には、長島同様、時代そのものを背負っているような「カッコヨサ」と「花」があっ た。裕次郎以後、彼を越える青春スターは現れていない。

同じことが、ジョン・レノンにも言える。ジョンをハンサムという人は少ないが、とにかく多くのファンが、彼を見て「クール」(カッコイイ」という言い方を する。ジョンが、普通のサラリーマンで、髪を七三に分けていたら、もしかしたら「カッコイイ」という人も少ないだろう。つまりジョンから受ける顔の印象 は、彼の人生というか、生き様と折り重なって、「クール」となるのである。つまり容貌ということに関していえば、その判断には、非常に曖昧な感覚が含まれ ている
ということになる。

そこでもう一度、義経の容貌に戻ろう。義経は、当然のごとくその時代の空気を体現する人物だった。庶民からすれば、信じられないような戦法を、次々と編み 出して源氏に勝利をもたらす鬼神のような存在だ。当然、その容貌についての噂は、日本中に広まっていった。噂は噂を呼ぶ。良き噂もあれば悪い噂もでる。お そらく生きている間から、伝説が次々と生まれた。それは現在でも、長島茂雄という人物に関する荒唐無稽な噂が伝説のようにして流布されているのと良く似て いる。

まず「義経」の容貌に関する噂の最初は、まず「カッコイイ」という一点ではなかったか。大体において、人間の心持ちというものは、800年前も今もそんな に変わるものではない。当時の古典を読んでも、今の日本人との違いは、科学の進歩がある位のものだ。当然、「カッコイイ」という噂に対して、それとは逆に 「カッコワルイ」とか、もっと具体的に言えば「天狗か猿のような面持ちの男」「ブサイク」「出っ歯」「猿面」などという噂も駆け回っていたかもしれない。 つまり義経の容貌に関する噂は、生きている当時から伝説のようにして存在していたということだ。平家物語の巻第十一の下りについて言及すれば、義経ブサイ ク論の拠り所が、敵方の兵士の一言だというのであるから、その一言をもってこれを信用し、義経ブサイク論を展開するのはいささか無理があると言わねばなら ない。つづく


佐藤

 


2003.12.19
 

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