1
Hさんよりこのような質問をいただきましたので、お答えしたいと思います。
「義経の実の兄、今若と乙若ってその後どうなったのですか?」
常磐御前を母とした兄弟のことですね。
ところで、「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)によれば、長男「今若」については、このように記されています。
<原文>
阿野全成童名今若丸
有勇力号悪禅師
又号愛智
住醍醐改隆超(超は起又は興)
阿野法橋母九條院雑司
平治二正依為義朝末子母懼公方之
責相伴三人幼児没落于時全成八歳
円成六歳義経二歳云々
赴大和方暫宿貧民屋後於奈良得度之後
令超遠江国住阿野仍
号阿野禅師建保---依左京大夫
平義時命仰金窪左衛門--等誅之云々<読み下し)
童名は今若丸。
勇力が有り、悪禅師と号す。
又、愛智と号す。
醍醐に住み、隆超(超は起又は興)と改める。
阿野法橋(とも)。母は九條院の雑司。
平治二正(年)、義朝末子の母は公方の責に懼れを為すによって、
三人の幼児を相伴い没落す。
時に全成八歳。円成六歳。義経二歳云々。大和の方へ赴き、暫し貧民の屋に宿す。
後に奈良に得度の後、遠江国へ超られ、阿野に住むによりて、
阿野禅師と号す。
建保(年間)左京大夫の平(北条)義時の仰命により金窪左衛門らに誅さる云々。
<現代語訳>
童名は今若丸といった。勇気も体力もあって、人は彼を「悪禅師」と呼んだ。また愛智とも呼ばれた。京都伏見の醍醐山麓に住み、名を隆超(超は起又は興)と 改めた。また阿野姓を名乗り、阿野法橋とも呼ばれた。母は九條院の雑司の常磐である。平治二年、謀反人となった義朝母常磐は、公儀の追求を恐れて、三人の幼子を伴い姿をくらました。時に全成は八 歳。弟の円成六歳。末子の義経は二歳であった。
母子は、奈良に逃れ、しばらく貧しい民の家屋に潜んでいた。
全成は、後に奈良の寺で、仏門に入った後、遠江国(静岡)送られ、阿野庄(沼津)に住んだことによって、阿野禅師と呼ばれるようになった。
建保年間(この「尊卑分脈」の記述は、実は間違いで、「建仁年間」が正しい)、左京大夫の北条義時の命によって、金窪左衛門らに殺されてしまった。
○吾妻鏡の記載
(1203年5月20日)
建仁三年五月二十日、丁亥。将軍家、比企四郎を以て、尼御台所に申されて云く。「法橋全成が叛逆を企てるによって生け虜どる所なり。彼の妾の阿波局を殿内 に官仕するか。早く召し給へ。尋問を子細にすべく有り」と云々。「然る如き事、女性に知らさしむべからずか。随いて、全成去る二月比に駿州に下向の後、音信不通。更に疑う所なきの由」、御返事申せられ、「こ れを進んで出でられず」と云々。
同五月二十五日、壬辰、申の剋、阿野法橋を常陸国に配す。
同六月二十三日、己羊、八田知家仰せを奉り、下野国において、阿野法橋全成を誅す。
同六月二十四日、江兵衛尉能範、使節とし上洛す。これ頼全(全成の子)を誅すべきの由、相模権守、佐々木左衛門尉等に仰せらるる故なり。
同七月二十五日、辛卯、相模権守が使者京都より到著す。申して云はく、去る十六日、在京のご家人等を催し遣わせ、東山延年寺において、播磨公頼 全(全成法橋が息)を窺い、これを誅戮せしむと云々。
○まとめ
以上のことから、義経の兄「今若」は、父義朝の死後、頼朝同様、平清盛の計らいによって、一命を取り留め、醍醐寺において出家し、全成(ぜんじょう)と名
乗った。しかし父譲りの侍の血は、隠すべくもなく、大変な剛直で血気盛んな人物だったようである。現在の静岡の沼津に移り住み、伊豆にいた異母兄の頼朝と
も当然近しい関係であったと推測される。
それは治承四年(1180)に伊豆に挙兵した頼朝のもとに馳せ参じたことからも窺える。また彼の妻は、北条政子の実の妹の阿波の局である。この女性
は、実朝の乳母も務めている。結局、全成は、最後に、源氏一族の血流を止めて、最終的に権力を握るという北条氏の深謀というか陰謀の中(?)で殺害されて
しまうのである。享年五十一歳であった。そして彼の子の頼全もまた、京都において殺害されている。
2
「尊卑分脈」によれば、次男「乙若」については、このように記されています。
<原文>
愛智円成(改義円)童名乙若丸。
平治二年母堂懼公方之
責相伴三人幼児没落赴大和方
院中祇候八条宮坊官
号今禅師
卿公
母九條院雑司
全成同母
養和元正二十四於濃州州(墨)俣川
為平家被誅了 二十七歳
<読み下し>
愛智円成(改義円)童名は乙若丸。
平治二年、母堂は公方の
責を懼れ、三人幼児を相伴い没落。
大和方へ赴く。
院中、八条宮の坊官に祇し候。
今禅師と号す。
卿公(とも)。母は九條院の雑司。
全成の同母。
養和元(年)正、二十四、濃州の州(墨)俣川において、
平家の為に誅られ了りぬ 二十七歳。<現代語訳>
愛智円成(あいちえんじょう)(名を改め義円)童名を乙若丸といった。
平治二年、母君は、公儀の追求を怖れ、三人の幼児を伴って、大和地方へ落ちのびていった。後に、院中の八条の宮(円恵法親王)の坊官(ぼうかん =寺僧)として仕え、今禅師と呼ばれた。また卿公(きょうのきみ)とも呼ばれた。
母は九條院の雑司常磐である。これは全成(ぜんじょう)と同じ母である。
養和元年三月十日、美濃の墨俣川で平家のために殺されてしまった。享年は二十七歳。○吾妻鏡の記載
(1181年3月10日)
養和元年三月十日、丙戌、十郎蔵人行家、(武衛の叔父)子息蔵人太郎光家、同次郎、僧義円(卿公と号す)、泉太郎重光等は、尾張参河両国の勇士を相具し て、于墨俣の河辺に陣す。平氏大将軍の頭亮重衡朝臣、左少将維盛朝臣、越前守通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、参河守知度、讃岐守左衛門尉盛綱(高橋と号す)、左兵衛尉盛久等 は、又同河の西岸に在り。
晩に及び侍中、計を廻らす。密々に平家を襲うと欲するの処、重衡朝臣の舎人金石丸が洗馬の為に河俣に至るの間、東士の形勢見る。奔り帰りてその 由を告る。
仍って、侍中未だ出陣の以前、頭亮の随兵は、源氏を襲攻す。縡(こと)は、楚忽に起り、侍中の従軍、頗る度を失う。相い戦うと雖も利無し、義円 禅師は、盛綱が為に討取れる。蔵人次郎は忠度が為に生虜られる。泉太郎、同弟次郎は盛久に討取れる。此外、軍兵あるいは河に入り溺死す。あるいは傷を被り 殞命す。およそ六百九十余人なり。
3
○全体のまとめ
以上、義経のすぐ上の兄、円成(乙若)は、やはりひたすら父義朝の宿望を背負って、平氏追討の動きに呼応しながら、謀(はかりごと)が露見し、志し 半ばで、殺された。常磐御前が産んだ3人の男の子たちは、それぞれに、父の激しい武者の気性を受け継いだというべきだろう。
見たように、義経の兄ふたりは、平家の監視を逃れるために、おそらくは意に反して、仏門に入ったのであろう。それでも、腹違いの兄頼朝が、平氏追討 の旗を挙げると、やはりその旗の下に3人ともに参集し、父の汚名を濯(すす)ごうと精一杯の奮闘をした。
全成(幼名今若)は、頼朝と同じく、静岡の沼津(阿野庄)に住み、北条時政の娘阿波局を妻に迎えて、頼朝を影に日向に補佐したであろう。その現に、 阿波局は、実朝の乳母となり、頼朝死後(1199)の鎌倉幕府の重要人物であった。ところが、謀反を企てたという理由ながら、その解明もなされぬまま、頼 朝の後を追うようにして、建仁3年(1203)に51歳で殺されてしまう。円成(乙若)は、三人の中でもっとも早く、養和元年(1181)に、平重衡との 戦いの中で26歳という若さで死んだ。平家追討の最大の功労者の義経は、31歳で、味方と思っていた奥州藤原氏の4代目泰衡に攻められ、奥州衣川の館で自 らの腹を切って死んでいる。
頼朝の死だって、不自然である。ヤミに真実が隠されている気がしてならない。吾妻鏡の記述をみても、どうもおかしい。すっぽりと、一番大事なところ (死亡時の記述)が抜家落ちている。ここから様々な頼朝の死に関する憶説が作られた。まあ、憶説はともかく、何か大きな力が働いていたことは確かだろう。 それは、おそらく源氏を権力機構から排除して、政治の実権を握ろうという、北条を中心とする関東の武者たちの政治的野望であろうか・・・。
結局、確固とした経済的基盤のない源氏は、所詮旗印に利用されたに過ぎなかったというべきであろうか。世に源平合戦と言われていて、源氏が勝ったよ
うに言われているが、結局、関東に土着した平氏の一党の北条氏が鎌倉の覇者となったことを考えれば、勝者はいったい源氏なのか平家なのか、分からなくなっ
てしまうのである。
4
常磐御前の産んだもう一人の男子「能成」について
(父は一条長成)
尊卑分脈は、このように記している。
<原文>
一条能成
侍従
従三
母常磐
同母伊予守源義経
嘉禄元元元出家(六十三)
号鷹司三位<読み下し>
一条能成
侍従。
従三(位)。
母は常磐。
母は伊予守源義経と同じ。
嘉禄元(年)元(月)元(日)出家す(六十三歳)
鷹司三位と号す。<現代語訳>
一条能成
天皇の側に仕える侍従であった。
従三位(正三位)の位を与えられた。
母は常磐。
母は伊予守源義経と同じ。
嘉禄元年(1225)の1月1日に出家した。(時に六十三歳)
鷹司三位(たかつかさのさんみ)と呼ばれた。
○まとめ
<義経の父親違いの弟「能成」(よしなり)の生涯>
出家した嘉禄元年(1225年)から逆算すれば、義経の父違いの弟能成(よしなり)は、1162年(二条天皇の御代)に生まれたことになる。この
1162年は、かの歌人藤原定家と同じである。義経が生れた年は1159年であるから、三歳違いの弟である。彼は兄たちの獅子奮迅の活躍を余所に、一条家
の公家としての人生を送った。きっと母の常磐は、この弟だけには、平穏な一生をさせようと思ったに違いない。しかし、63歳になった彼は、突如として出家
した。何か思うことがあったのだろう。得度(出家)し僧侶となることは、「生きながら死ぬこと」に他ならない。兄たちの菩提を弔いながら、深く人生を思っ
たのであろうか。歴史の行間には、決して語られる事のない、こうしたドラマがある。そこが歴史の面白いところだ。
5
義経にはもう一人母を同じくする妹がいた。
尊卑分脈には、記されていないが、吾妻鏡の文治二年六月十日の条に次のように記されている。
<原文)○まとめ
文治二年 六月小十三日、己未、当番雜色宗廉、自京都参着、去六日、於一條河崎観音堂辺、尋出与州母并妹等、生虜可召進関東歟由云々。<読み下し>
当番の雑色宗廉、京都より参着。「去る六日、一條河崎觀音堂の辺りにおいて、与州の母ならびに妹らを尋ね出しぬ。生虜り関東に召し進ずべきや」の由云々。<現代語訳>
当直の警護の者が京都より帰って申しました。
「さる六月六日、一条河崎にある観音堂の辺りで、源義経殿の母上と妹君を見つけ出しました。どういたしましょう。生け捕りにして関東にお連れ申しましょう か」と。
この常磐御前とその娘と思われる捕縛については、歴史的な事実ではないかと見なされ、誰も疑問を挟んでこなかった。権威の「新訂増補国史大系」(黒 板勝美編纂吉川弘文館昭和7年刊)でも、「尋出与州母并妹等生虜」と区切られて、「与州(義経)の母と妹等を尋ね出して生けどる」と解釈された。岩波文庫 版「吾妻鏡」(龍粛(りょう・すすむ)訳 未完1939年)や新人物往来社の「全訳吾妻鏡」(永原慶二監修1976-79)でも同様の解釈がされている。 また吉川弘文館の人物叢書「源義経」(渡辺保1966)でも、この説を踏襲し、巻末の年表には、6月13日「義経の母と妹捕らえられる」としている。
しかし、これは当時の身分制の常識から考えて、あり得ない話のように思われる。それはここに登場する「宗廉」という雑色が、身分の高い公家の妻の常 磐御前やその姫君を早く言えば、捕縛することなどできるかということに尽きるのである。いったいどんな理由をもって捕縛できるのか。しかも義経派と思われ る勢力が朝廷内には以前としていた。もしこれを実行するとすれば、隠密行動の拉致にほかならない。周到な頼朝がそんな無謀で馬鹿な行動を取るはずがない。 また関東の下級武者が、身分の違う二人とお供の女子たちを、物理的には可能としても、公衆の面前で、これを捕縛することなど到底できるものではない。
したがって、この箇所の区切りは、「尋出与州母并妹等生虜」ではなく、「尋出与州母并妹等」、「生虜可召進関東歟」と区切って解釈すべきである。訳 としては、「義経の母と妹を捜して見つけました。生けどって関東に連れて参りましょうか?」となる。
つまり、この雑色は、早い話が行方知れずとなっている義経探索のスパイだったのであり、この者が、都の中を必死で探索しながら、一条長成の周辺を 探っているうちに、観音堂の側を身分の高い女御たちが通ったのを見かけ、町の者にこのように、聞いたのだろう。
「誰ですが、あの身分の高い女性は?」
「ああ、あのお方は、一条長成さまの奥様とお嫁さんです。」
雑色の宗廉は、びっくりして、「すると、あのお方は、義経さんの生母と妹ですか。へー、よくこの観音堂には参られるのですか?」となったのではなか ろうか。そこで、この雑色は、この事実を伝え、きっと義経の行方を知っているはずだから、関東に連行して、詰問したら、どうですかと進言したのである。も ちろん、そんなことが叶うはずはない。その証拠に、この後、吾妻鏡は、捕縛した母と妹の話を記してはいない。
頼朝の背後には、京都を熟知している大江広元(1184年に鎌倉に下向した朝廷内の高級官僚。頼朝に請われて鎌倉に下向。同10月に公文所の別当と なる)がおり、前例なき非常識を決行させるはずはない。頼朝の公家に対する対応の例としてこんなこともあった。文治5年(1189年)9月、平泉が、滅ぼ された時、平泉には、都市平泉の建設に力を尽くした公家の藤原基成親子が、呆然と佇んでいた。周知のように基成は、泰衡の祖父にあたる公家だが、頼朝は、 この哀れな連中を、武士ではないということで、首は取らずに、丁寧に鎌倉に連行し、その後歴史から消えた。おそらく、京都に送られたと思われるが、このよ うに、頼朝の鎌倉政権は、公家の権力に対しては、一際恭順の情を示していることから考えて、現役の一条長成卿の妻と娘(能成の嫁?)を容易に捕縛などでき ないのである。
以上、この吾妻鏡に描写されている義経の妹については、名は不明である。尊卑分脈に、掲載されていないことから、義経の父違いの弟「能成」の妻の可 能性がある。
20.奥州藤原氏はどんな理由で源義経を受け入れたのか? 2004.4.27
義経さんが、奥州に下向してしたのは1174年頃(義経さん16才)と言われています。
この都市の四年前に、1170年、秀衡さんは、鎮守府将軍に任ぜられています。大変な出世です。大げさに言えば、東北全体と茨城や栃木の付近まで、 その支配権が及んでいたことになります。そんな中で、義経さんを迎え入れることは、平治の乱で敗れたとはいえ、武家の頭領としての源家の御曹司ですから、 それなりの政治的思惑があったと考えることは出来ると思います。そして何よりも、源氏に対して、秀衡公は、後三年の役での恩義というものを源義家公という 人物を通じて源家に抱いていたに違いありません。それはおそらく、初代清衡公からの申し送り事項だったかもしれません。
義経さんの東下りの謎を解くカギは、人脈から考えることです。義経さんの母である常磐御前は、一条長成(藤原)卿に嫁いでいます。この人物は、奥州 二代基衡の時代から、奥州に下ってきた藤原基成公とは親戚筋です。ですから常磐御前の要請により、長成卿→基成公のルートで、まず話が運び、下準備には、 表向きは金商人ということで行動していた金売吉次こと掘弥太郎が携わった可能性があります。
今でも今出川通りには、首途八幡神社がありますが、この場所は、金売吉次邸だったと伝わっています。その近くには、千本釈迦堂の名で有名な大報恩寺 があります。承久三年(1222)に造営された寺で、この寺の開祖は出羽の生まれの義空上人ですが、何と驚くべきことに、この人物は、秀衡の孫と言われる 人です。
もしかするとかなりの可能性で、奥州藤原氏がこの辺り一帯に大使館のような平泉第を持っていた可能性があります。そうすると、金商人金売吉次は、実 は裏の顔で、外交官か、あるいは口悪く言えばスパイのような役割を果たしていたとも考えられます。
このような背景の中で、義経さんは、繁栄が絶頂期にあった奥州平泉に入ったことになります。そうすると、秀衡さんは、最初、この海の者とも山の者と も分からない人物である義経さんを招いたのは、基成さんの説得で、特に政治的な思惑はないままに、義を持って、客人として、源家の御曹司を預かったという ことになると思います。
しかし段々に奥州を廻る政治状況が変わってきます。特に、関東で、治承4年(1180)源頼朝が平家追討の旗を掲げて立ち上がると、時代は一気に戦 の匂いが日本中に蔓延してきます。こんな中で、突然、頼朝挙兵の報が、奥州にもたらされます。客人として、自由気ままに過ごしていた義経さんは、平家打倒 の大義に駆られて、頼朝の陣に馳せ参じてしまいます。木曾でも源義仲が平家打倒で立ち上がりました。平家は考えます。奥州藤原氏を、味方に引き入れようと して、秀衡さんを陸奥守に任じたのです。時に養和元年(1181)のことでした。
秀衡さんにとっては、誠に青天の霹靂のような時代の変動でした。どうすれば、奥州の平和と独立は保てるのか。何とか、初代清衡公、父基衡公と引き継 いだ平和の都市の理想を掲げながら、非戦の立場、中立の立場を維持したい。そう思ったに違いありません。しかし彼には、時間がありませんでした。彼の命の 蝋燭が尽きようとしていたのです。
そのような中で、秀衡さんの頭に浮かんだのが、源家の御曹司義経さんを、頂点とする奥州藤原氏の新しい権力構造でした。幸い、平家を打倒した後、兄 頼朝に疎まれ義経さんは、無実まま、奥州に逃亡してきていました。秀衡さんは鎌倉の北条時政が考えたのと同じく、権力の頂点に源家の御曹司義経さんを置く 権力を構想したのです。大体人というものは、同じ時期に、同じようなことを考えるものです。この説については、最近、入間田宣夫東北大学教授が、秀衡によ る「奥州幕府構想」という説を発表し話題を呼んでいます。
その根拠となるのが、秀衡さんの遺言からのアプローチです。
吾妻鏡の文治三年十月二十九日(1187)の条に、こんな記述があります。
「今日、秀衡入道、陸奥の刻にの平泉の館において亡くなられた。最近、重病によって心細く思ったのか、前伊予守の義経を(奥州)の大将軍として、国 務を執らせるように、泰衡以下に遺言していたという。」(現代語訳佐藤)
頼朝派の頭目とも云える藤原兼実の日記「玉葉」文治四年正月九日(1188)の条にも次のような、記載があります。
「ある人が言うには、去年(1186)の九月か十月頃、義経は奥州にあったが、秀衡はこれを隠して置いたという。去る十月二十九日、秀衡が死去の折 り、秀衡の息子たち(兄は前妻に産ませた長男、弟は現在の妻の長男である)は、融和を計り、(秀衡は)先妻に産ませた長男に、当時の妻を娶らせたようだ。 そして各自が秀衡の言いつけに逆らうつもりはありませんという起請文を書かせた。同じ起請文を義経にも書かせ、「いいか、義経殿を主君として、ふたりはこ れに付き従うべし」との遺言を告げた。こうして三人は志を同じくする同士となり、頼朝の計略を襲う対抗策を練ったと言うのである。」(現代語訳佐藤)
吾妻鏡は、はっきりと、「義経に国務を執らせる」と明言しています。この時、秀衡さんの構想では、戦の天才である義経さんを頂点として奥州守りを固 め、奥州の支配権を鎌倉に渡すなという明確な意志が見られます。確かに、義経さんの軍事的脅威がある限り、たとえ戦馴れした鎌倉勢としても、うかつに奥州 に入って来ることは難しいと秀衡さんは考えたのです。しかし大政治家秀衡さんが亡くなった後、奥州の意見は、まっぷたつに割れてしまって、秀衡さんの遺言 は、結局水泡として帰してしまいました。そして当然のように仲間割れが起こり、頼りとすべき義経さんは、失意の中で亡くなってしまったのです。もう頼朝に 怖いものはありません。秀衡さんも義経さんもいないのです。奥州はこうして滅びたのです。
以上のことをまとめてみれば、はじめ秀衡公は、義経さんがどのような人物であるかどうかということを考えて、自分から呼んだのではなく、人づてに、 源家に対する累代の恩義のような感情があって、招き入れたものと考えられます。時に、奥州平泉は、繁栄の絶頂期に差し掛かっていました。ところが、時代が どんどん変わってきます。平家と源氏の対立は激しくなり、ついには、側にいた義経さんもその流れに巻き込まれてしまうのです。
戦の天才ぶりを遺憾なく発揮した義経さんは、兄頼朝というよりも、兄弟の絆が強まるのを極度に畏れた北条家(時政)の陰の力によって、疎んじられと も推測できます。そして、無実の逃亡者となった義経さんは、奥州に戻る。秀衡さんは、直ちに、義経さんを権力の中心に据えた奥州の権力を考えたのだと思い ます。了
参考原典 秀衡の遺言
勧進帳が何故作られたか、という質問ですが、面白いというか、難しい質問ですね。勧進帳のレポートを書き上げるつもりでしょうか。勧進帳の解説書を 書いても、レポートにはなりません。大切なことは、勧進帳に込められた意味が何かということを勧進帳という芝居を観て自分の言葉にすることです。
「勧進帳」は、江戸後期に創作された歌舞伎の出し物ですが、この本にはタネ本がありました。能の「安宅」という作品です。能は、基本的には、動きも 少なく、能舞台という小さな空間で舞われる静かで内省的演技を特徴とする芸事です。その生い立ちから、足利将軍家が後ろ盾となり、観阿弥や世阿弥のような スターが誕生した芸能です。一方歌舞伎は、能と比べて動きも大きく、江戸時代の人々に受けるように、役者の動きもセリフも全てが派手に演出されています。 歌舞伎は、西洋のオペラとよく比較されます。音楽と芝居が一体になった総合芸術ということでしょう。ただ歌舞伎は、王侯貴族に庇護されていたオペラと違っ て、江戸の民衆の趣向(好み)をよく取り入れた出し物が多く、能やオペラと比較し、より大衆的な芸能だったと思います。
歌舞伎「勧進帳」の源流となった「能」の「安宅」という台本(謡曲という)にも、実は「義経記」というタネになる本が存在しました。この本の成立期 は、室町初期の頃と言われていますから、義経さんが亡くなってから、様々な伝説が生まれて200年位の歳月が経ってまとめられたことになります。内容から 言えば、「義経記」は、義経さんの一代記という格好の本ですが、実はこの本は、奇妙なことに、義経さんが一躍世に名をはせた一ノ谷や屋島、壇ノ浦の合戦な どの下りはありません。その華やかな部分は、皆「平家物語」に任せて、「義経記」の中で、義経さんは、父の義朝公が、平治の乱で殺されてから、苦労して 育った事や兄頼朝と不仲になって、ひたすら逃げること、最後に平泉の高館で妻子を殺し自害して果てることを描いているのです。したがってここから義経記と いう本が、成立した秘密が浮き彫りとなります。それは世の中に、可哀想な義経さんの物語をもっと聞きたい、知りたいという「思い」です。この日本人の「思 い」が、義経記という本を成立させる原(源)動力となりました。
さてこの日本人の義経さんへの「思い」ですが、これを「判官贔屓」と呼ぶようになりました。判官贔屓と言えば、弱い立場にある人を応援してしまうと いう日本人独特の感性ですが、その源流は、義経さんが、平家を滅亡させるのに第一の功労者にも拘わらず、兄頼朝に疑われ、ついには謀反人として逃亡者にな り、最後に自害までしてしまうという生涯を憐れんで応援してしまったという心情にあったのです。
これで、勧進帳が何故書かれたかが明らかになりましたね。大胆なことを言えば、弁慶という人物のセリフや所作(うごき)には、日本人の義経さんを憐 れむ「判官贔屓」の心情が入っているのです。つまり弁慶は、私たち日本人そのものの心が入っていることになります。だからこれほど、勧進帳は、日本人に受 けているのですね。
最後になりますが、まず「勧進帳」を舞台で自分の目で観ることが肝心です。泣ける自分が発見できるかもしれなません。舞台が無理なら、DVDも出て
いますから観てください。まず自分の心で、「勧進帳」にある「判官贔屓」の本質を感じることです。