秀衡の遺言
 

凡例
1. 原文の底本は「奥州藤原史料」(東北大学東北文化研究会編昭和34年吉川弘文館発行)を使用した。 

2.「奥州藤原史料」の凡例によれば、吾妻鏡(NO943)の底本は国史大系本、玉葉(NO944)は図書刊行会本と記されている。

3.本文の文節等の区切りについては、佐藤の責任で、句読点を付し直している。

2004.4.27

佐藤弘弥 記

吾妻鏡

文治三年十月二十九日(1187)

<原文>
今日、秀衡入道於陸奥国平泉館卒去。日来重病、依少恃。其時以前伊予守義顕為大将軍、可令国務之由。令遺言男泰衡以下云々。

鎮守府将軍兼陸奥守従五位上藤原朝臣秀衡法師 出羽押領使基衡男嘉応二年五月廿五日任鎮守府将軍。叙従五位下 養和元年八月廿五日任陸奥守。同日叙従五位上。

<読み下し>
今日、秀衡入道、陸奥国平泉館に於いて卒去す。日来重病にて、恃(たの)み少なきに依り、その時をもって前伊予守義顕を大将軍と為して、国務をせしむべきの由、男(むすこ)泰衡以下に遺言せしむと云々。

鎮守府将軍兼陸奥守従五位上藤原朝臣秀衡法師。出羽押領使基衡の男(むすこ)。嘉応二年五月二十五日、鎮守府将軍に任ぜられ、従五位下を叙す。養和元年八月二十五日、陸奥守に任ぜられる。同日従五位上を叙す。

<現代語訳>
今日、秀衡入道、陸奥の刻にの平泉の館において亡くなられた。最近、重病によって心細く思ったのか、前伊予守の義経を(奥州)の大将軍として、国務を執らせるように、泰衡以下に遺言していたという。

鎮守府将軍、陸奥守、従五位上、藤原朝臣秀衡法師は、出羽押領使基衡の男(むすこ)にして、嘉応二年五月二十五日(1170)、鎮守府将軍に任ぜられ、従五位下を叙す。養和元年八月二十五日(1181)、陸奥守に任ぜられる。同日従五位上を叙す。
 
 

玉葉

文治四年正月九日(1188)
 

<原文>
乙巳、(中略)或人云、去年九十月之比、義顕在奥州、秀衡隠而置之、即十月廿九日秀衡死去之刻、為兄弟和融(兄他腹之嫡男也、弟当腹太郎云々)、以他腹嫡男令娶当時之妻云々、各不可有異心之由、令書祭文了、又義顕同令書祭文、以義顕為主君、両人可給仕之由有遺言、仍三人一味、廻可襲頼朝之籌策云々、(後略)
 

<読む下し>
乙巳(きのとみ)、(中略)或人の云く、去年九、十月の比(ころ)、義顕(義経改め)奥州にあり。秀衡これを隠し置く。十月廿九日、秀衡死去の刻に即し、兄弟は融和をなせ、(兄は他腹の嫡男也、弟は当腹太郎云々)、他腹嫡男に当時の妻を娶らせしむをもって云々。各に異心あるべからずの由、祭文(さいもん)を書かせ了りぬ。又、義顕に同じく祭文を書かせぬ。義顕をもって主君となし、両人給仕すべくの由遺言あり。よって三人一味となり、頼朝の籌栄(ちゅうさく)を襲うべく(策を)廻らすと云々、(後略)
 

<現代語訳>
ある人が言うには、去年(1186)の九月か十月頃、義経は奥州にあったが、秀衡はこれを隠して置いたという。去る十月二十九日、秀衡が死去の折り、秀衡の息子たち(兄は前妻に産ませた長男、弟は現在の妻の長男である)は、融和を計り、(秀衡は)先妻に産ませた長男に、当時の妻を娶らせたようだ。そして各自が秀衡の言いつけに逆らうつもりはありませんという起請文を書かせた。同じ起請文を義経にも書かせ、「いいか、義経殿を主君として、ふたりはこれに付き従うべし」との遺言を告げた。こうして三人は志を同じくする同士となり、頼朝の計略を襲う対抗策を練ったと言うのである。



2004.4.29 Hsato
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