鹿島神宮 (1)拝殿 「鉄」

 バルトの言う「空虚の中心」が東京、すなわち皇居であるなら、我々は中心から 随分離れたところを彷徨しているのかもしれない。

鹿島の杜をとぼとぼ歩いていて、考えるのは寧ろ円環的な生であるとは一層、情け ない。けれど、ここで森以外のありようは、僕自信以上の世俗をすげなくあらわに している。その中で際だつ、家康によって造られた拝殿は、如何にも、の東照宮風 の極彩色に彩られている。一方では、そのあからさまさに無関係に、参道の焚火か ら静かに昇る煙は木々の間を静謐に沈澱している。僕は、素朴に聖性を感じてしま う。

 ところで、ここに着くまでの間、車窓をぼんやり眺めながら、なにゆえ時の政府 は聖地のかくも側に工業地帯を作ったのかな、などと考えた。なんにもわかってい なかったのか或いは....まあ、空想世界はいいか。ともあれ取って付けたように殖 産興業の神得もあるのだと言う。写真には写っていないけれども、拝殿正面には工 業地帯の企業から献酒された酒樽が積まれてた。住金からの奉納も含まれていたと 思う。鹿島の祭神は

・武甕槌(タケミカヅチ)

であるとされる。さらに、相殿神として、

・経津主(フツヌシ)
・天児屋根(アメノコヤネ)

とされる。これら相殿神は中臣氏が祭祀を司るようになったことに由来する祭神だ ろう。鹿島の駅前に鎌足神社などあって、生誕地とする文書もあるが、なんとなく、 「それは無いだろう」という気がする。タケミカヅチの方はアマテラスの命によっ て国譲りを実現させた神である。鹿島は戦中戦前(そして今でも?)、軍神として 名が高く特攻隊の生き残りの伯父も、霞ヶ浦からここに参詣したらしい。僕は小学 校の頃作ったプラモデルの軍艦の名前で憶えていた。隣の社である香取は、天皇洋 行時のお召し艦(とは言わないのかも知れない)の名だった筈。

 北向きの社殿は対蝦夷戦争、東北の脅威からの防衛を示唆しているなどともされ る。今のところ、なるほど、と素直に感心しておこう。鹿島社は意外にも(確か) 記紀に記述はなく常陸風土記に記されている「香島の天大神」の記述が古いようだ。 それ以外にも万葉に「鹿島立ち」に関係した防人の歌がある。

 その北向きの拝殿の向かい側の宝物館に巨大な直刀が展示されている。これは国 宝とのこと。本当に奈良時代以前のものであるとすると信じ難い保存状態ではある。 刀は記紀で神格化されフツノミタマという。などなどメモっている僕を、やはり見 学している初老の紳士が妙な顔で見ていた。

 フツノミタマは天理市の石上神宮の祭神でもある。ちょっと石上神宮にも行って みたくなった。あそこからは、七支刀なども出土し、これまた戦争に関係した記紀 説話が残っている。石上は朝廷の武器庫であったのではないか、との記述をしばし ば目にする。
 そして鹿島は「神宮」である。最近は、「神宮」が沢山あるが延喜式で「神宮」 と呼ばれるのは伊勢と鹿島・香取だけである。

鹿島に関してはやはり、鉄ではないかと思う。

VANILLA(バニラ);1994

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YABUGUCHI,Ichiro
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