文学なんかじゃ決してない   山田 消児
                      『Es光の繭』第29号(2015年5月)掲載


 2014年2月3日(月)、日本国内閣総理大臣安倍晋三は国会という公の場で立憲主義を否定した。これは日本現代史におけるきわめて重要な転機である。野党・生活の党の衆議院議員畑浩治の質問に対し、安倍は次のように答えた。

 憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか、このように思います。(「第186回国会 衆議院予算委員会会議録」)

 王権が絶対権力を持っていた時代に憲法などあったはずもないのだが、その部分については、おそらく絶対王制から立憲君主制や共和制へという歴史上の流れを曖昧かつ不正確な言葉で表現したものだろうと、無理して解釈できなくはない。問題は、憲法が国家権力を縛るものだという考え方、すなわち憲法の基本原理であるところの立憲主義を、承知していながら明らかに否定している点にある。
 実は、この質疑応答は憲法を直接的なテーマとして行われたのではなく、道徳教育について政府に対し批判的な見地から取り上げる質問者とのやりとりの中で、やや横道に逸れる形で交わされたものである。上記の答弁を引き出した畑議員の質問を次に記しておく。

 (〜前略〜)ここで教育とちょっと切り離して、厳密に言えば通告しておりませんが、憲法との関係でちょっとお伺いしたいんですが、総理、憲法というのはどういう性格のものだとお考えでしょうか。(「同上」)

 国会での質問は事前に質問者から答弁者に内容を通告しておくのが慣例であり、通告なしでなされたらしいこの質問は、いわば不意打ちだったことになる。とはいえ、憲法の性格を問うだけの簡単な質問であって、一国の総理にとってその場で即答するのに差し障りがあるようなものではなかったはずである。
 前後の脈絡から判断するに、質問する側の意図としては、日本国憲法の三原則などに触れた教科書的な答弁を引き出し、次の新たな質問へのつなぎにしたかっただけのように想像される。ところが、安倍の口から飛び出したのは、まさかの立憲主義を否定する発言だった。さすがに質問者も一応の反論はしたものの、さらなる答弁は求めず、予定された質疑をこなすべく、すぐに次の質問に移ってしまった。よって、それ以上議論が深められることもなかったのだが、ここで端なくも露わになったのは、ほかならぬ国家権力の頂点に立つ者の「憲法なんかに縛られたくない」という本音である。
 さて、話はここから少しずつ矛先を変えていく。
 この件について私が初めて知ったのは、インターネット上のSNSや個人ブログに書かれた情報を通してだった。右の質疑が行われた当日か翌日だと思うが、偶然見つけたこれに関わる書き込みに関心を持って、いろいろ検索してみたのが発端であった。
 私にとっていちばん意外だったのは、後日、図書館で新聞各紙を閲覧してみても、この件をニュースとして報じた第一報がどこにも見当たらなかったことである。委員会の翌日2月4日付の朝刊数紙に審議の一部を要約紹介した記事があり、畑議員と首相との質疑応答も載っているのだが、いずれも本題である道徳教育に関する部分だけで、憲法のくだりは省かれている。
 全国紙の紙面にこの件が初めて載ったのは、私が確認できた範囲では「毎日新聞」の2月5日付朝刊である。同じ衆議院予算委員会の2月4日の審議で安倍首相が憲法改正の発議要件を緩めるため九十六条の改定に強い意欲を示したという記事の中に、安倍の「独自の憲法観」を示すものとして前日の予算委員会での答弁が紹介されている。その次が「朝日新聞」2月6日付朝刊の社説である。こちらもまた96条改定と絡めての言及だが、立憲主義を否定する安倍の考え方を正面から取り上げて批判している点において、問題のありかはより見えやすい。
 それにしても不思議なのは、安倍がくだんの答弁をした直後に、なぜ大々的にその発言が報道されなかったのかということである。先進民主主義国家のひとつとして世界に認められている日本の現役宰相が、民主主義の基本である憲法の理念を国会審議の場で否定した。それは、国内外を問わず、きわめて衝撃的な一大ニュースではないのか。なのに、新聞は各紙揃いも揃ってこれを報道しようとしなかった。いったいなぜだろうか。質問の本筋からは外れた部分であったことは確かだが、内容からして、通常の国会審議の抄録とは別に、独立した記事として一面で報道し、広く読者に知らせる価値は十二分にあったはずだ。もしその価値なしと各紙が判断したのだとすれば、ずいぶん呑気な話だと思うし、そうした本来の価値判断とは別に何らかの力なり思惑なりが働いてこのような結果になったのだとすれば、もはやジャーナリズムの死というほかないだろう。机上で駄文を書いてるだけの筆者には実際の経緯を知る術などもちろんないが、いずれにしても、ジャーナリズムなんていざというときまるで頼りにならないということだけは、強く強く実感させられた次第であった。
 ところで、ネット上にていち早くこの件について発言した人たちは、どこで情報を得たのだろうか。答は簡単。現在、衆参両院の本会議や委員会での審議は、原則として全てインターネットで生中継されており、過去の一定期間の録画ビデオともども自由に視聴できるのである。これでは隠しようもないわけだが、中継を視ている人の数は限られている以上、やはり報道の役割はきわめて大きいと言わざるをえない。
 ともあれ、これを皮切りに、安倍は国家権力を縛るという憲法の機能を軽視し、また無効化しようとする言動を一気に活発化させ、わずか5ヶ月後の同年7月には、集団的自衛権を行使できるよう閣議決定(つまり一政権の判断)により憲法9条の解釈変更を行った。まさに国家権力が憲法の上位に立った瞬間であり、このときを境に日本国憲法は憲法ではなくなり、日本は立憲国家ではなくなったのである。
 そして、私たち国民は、同年12月の総選挙で政権与党を勝たせ、憲法に対するクーデターとでもいうべきこの劇的な変化にお墨付きを与えた。それは、現政権のみならず、今後誕生するであろうあらゆる政権に、日本国憲法を解釈によって変更する自由を与えたことを意味する。
 この間、私は、宅配購読している「朝日新聞」の紙面で、安倍政権の憲法観や改憲政策に批判的な見地から触れた記事をときおり見かけたように思う。でもね、

 もう遅いんだってば!

 今さら問題意識をおずおずちょぼちょぼ見せびらかされてもね。ジャーナリズムに限らず、歴史上において取り返しのつかない過ちは数え切れないほどあった。いちいちそれを責める資格など私にはないと思うが、ジャーナリズムを信頼する気持ちももうないから。このごろじゃ、御用新聞丸出しのところから政府批判担当まで、新聞社ごとのカラーの割り振りまでしちゃって。賢いねー、皆さん。各社のお偉いさんたちは安倍と会食して親交を深めてるらしいし、政府からの圧力がどうのこうの言ったところで、トップがアメをもらって舐めちまえば、あとでムチ食らおうがどうされようが文句の一つも言えないのは当たり前じゃん。わしらド素人の目には、萎縮とか自己規制とかいう段階を通り越して、政権とマスコミはとっくに一心同体になってるようにしか見えんわ。
 というわけで、今、日本という国は、見かけ上、報道の自由も言論の自由もあるままで、いや、あるからこそ、グルになった政権とマスコミの主導の下、いつか来た道(いったい、この言葉、これまで何回新聞で読んだことだろう)を自らの意思で歩き始めている。これぞすばらしき民主主義。
 民主主義によって憲法を実質的に無効化する。これまたどこかで聞いたような話だ。元総理大臣で今は副総理兼財務大臣兼金融担当大臣を務める麻生太郎が、民間団体主催のセミナーの場で、憲法改正を成し遂げるためナチスの手口に学んだらどうか、という発言をしたのは2013年7月のことだった。「朝日新聞」などのマスコミはこの発言を批判し、麻生本人は誤解を招いたからとの理由を付けて撤回したが、政府内では特に責任も問われず、社会的にもいつのまにかうやむやになってしまった。約2年後の今も、麻生は閣内にあって同じ職に在位し続けている。要するに、マスコミはこのような超絶問題発言をした人物の首を取れず、結果的に、僕たちちゃんと批判したからね、というアリバイだけを残して、彼を擁する内閣が何ら変わることなくそのまま政権を握り続けることを許したのである。
 そして、先にも記したとおり、安倍内閣は、副総理兼財務大臣兼金融担当大臣麻生太郎の言葉どおり「ナチスの手口」によって、いやいや、強権的ではあれ形式上は一応ワイマール憲法の規定に則っていた「ナチスの手口」よりもさらに不法な手口によって、日本国憲法の無効化に成功した。

 どうしてくれんだよ、マスコミさん。

 ナチスの手口に学べと公言する麻生や、麻生のボスであり立憲主義を国会審議の場で公然と否定する内閣総理大臣安倍晋三をやすやすと生き延びさせるからこんなことになっちまったんじゃないか。ジャーリズムには中立性が求められるからそこまでは無理だよ、とあなたたちは言うだろうか。でも、「中立」なんてものはこの世にないんだからね。極端に単純化して、全ての立場や考え方を一本の線上に並べることが仮にできたとして、その真ん中へんに立つのが「中立」かといえば、それは絶対に違う。一方の端が伸びたら伸びた方へとずれる「中立」など、単なる現状への迎合にすぎない。では、いかなる立場にも拠らないのが「中立」なのかといえば、そんなものは、理念としてはともかく、現実上はどこにも存在しえないだろう。もし、ジャーナリズムにとって「中立」がありうるとするなら、それは、社会のありよう、とりわけ権力の動向が特定の方向へ傾こうとしているときに、逆方向の力を加えることではないか。中庸に位置取りするのとはむしろ正反対の態度の中にこそ「中立」は見出しうるのである。
 衆愚という言葉のとおり、人間なんて、一人ひとりはどうあれ、総体としてはバカそのものだから、一旦強い流れができてしまうと、深い考えもなしにどどっとそっちへ流れる。流れ着いた先がいつも悪いものとは限らないが、もしよかったとしても、それは人間が賢かったおかげではなく、バカだったからこその成り行きなのだ。良し悪しなんてどうせ結果論。せめて少しでもバカの程度がましになるように、今できつつある流れのよろしくない点を洗いざらい白日の下に晒し、対抗する流れができやすいように衆愚を焚きつけるのが、お利口さんであるマスコミさん、あんたたちの役目というものだろう。なのに、何だよ。ちまちま報じてお茶を濁すってのは。
 でも、もういいや。どうせ今さら遅いんだから。ここまで来れば、もっと露骨に御用メディア化するか、多少良心的なところでもバカな民衆のお仲間に成り下がるかするのは時間の問題だ。おっと、そういえば、絶妙なタイミングで東京オリンピック・パラリンピックがあるじゃん。
 安倍総理が日本を代表して、福島原発について、状況はコントロールされている、汚染水による影響は港湾内で完全にブロックされている、などと、それこそ日本人ならバカでもわかる大嘘で世界中を騙して盗ってきた2020年東京五輪を、私たちはきっと心から楽しみ、日本代表選手たちの成績に一喜一憂することだろう。そして、マスメディアもまた、バカな私たちの熱狂を率先して煽り立て、あの手この手で雰囲気を盛り上げてくれることだろう。当然だよね、みんながそれを期待してるんだから。お利口さんのマスコミさんたちなら、何としてでもその期待に応えなくっちゃ。
 それにしても、オリンピックとか大震災とか、みんなが同じ方を向いてしまうテーマになると、ジャーナリズムってからっきしだらしないよね。五輪招致で安倍がついた嘘を早期に原発事故を収束させるという「国際公約」だと勝手に位置づけて、その実行を促す記事を見たとき、わしゃ愕然としたね。安倍はIOC(国際オリンピック委員会)の場で日本の代表として原発事故について嘘の現状報告をしてきたのであって、これからこうしますという「公約」なんか何もしてないじゃん。これぞ政権とグルになって読者をだまくらかそうとする詭弁そのもの。東京開催決定の朗報にケチをつけるような記事は批判が怖くて書けないから、日本国のトップが恥知らずにも世界に向かって大嘘ついたという災いを無理やり転じて福となすかのような論理をこしらえ、マスメディアとしての最低限のメンツを保ちつつやり過ごす。中途半端に巧妙な分だけ、誰が見ても大嘘つきだとわかる安倍より、ある意味もっと悪質な所業をやってのけたというわけだ。
 そして、めでたく2020年五輪は東京で開かれることになった。五輪出場を目指す選手や関係者たちはさぞかし喜んだだろうが、忘れないでね、総理大臣が恥知らずにも世界中を大嘘で騙して盗ってきた国恥五輪だってことを。IOC総会の最終プレゼンテーションで総理の前にスピーチした女子障害者陸上の佐藤真海選手も、フェンシングの太田雄貴選手も、安倍のせいで五輪泥棒の共犯者にされちまったってことを。
 ところで、正々堂々のスポーツマンシップを大切にする選手や元選手の中に、ウソついてまで東京で五輪なんかやりたくないと社会に向かって発言した人が誰か一人でもいただろうか。ま、うっかり自己主張しようもんならバカな世間がよってたかって叩くからね。日本て国は。選手たちも気の毒だよ。言論の自由さえ認められていないかわいそうなアスリートたち。せいぜい汚れちまった五輪でメダルがたくさん獲れるよう、過去なんか忘れてがんばってほしい。そのときは、わしも微力ながら、バカな世間の一員としてテレビの前で応援させてもらうよ(これは本心のつもり)。五輪にかかる費用を東日本大震災の被災地復興に使っていたら……、なんて野暮は言いっこなしだ。
 2020年まであと5年。たぶんあっという間だ。でも、1940年に開催予定だった最初の東京オリンピックは、準備期間中の1937年に日中戦争が始まって、自ら返上したんだっけ。安倍がしゅうだんてきじえいけんしゅうだんてきじえいけん言って前のめりになってる大きな理由の一つが中国の海洋進出や尖閣諸島をめぐる領有権問題であるらしいことを考えると、いろいろ重なって見えてきて怖いんですけど。中東のホルムズ海峡にどっかの国が撒くかもしれない機雷を自衛隊が除去しに行くという話では、経済的打撃を受けるだけでも集団的自衛権行使の要件を満たしうるとか安倍が言ってて、これなんか、むかーし日本史の授業で習ったABCD何ちゃら(よう知らんけど)を思い出しちゃって、ますます怖いんですけど。
 実はもうすぐそこまで来てる、んじゃないの。違うの。どうなの。お利口さんのマスコミちゃん、お願いだからおちえて。1940年東京オリンピックのように中止になるのはいやだけど、その4年前、ナチス政権下のベルリンで開催されたプロパガンダ五輪みたくなるのはもっといやかも。
 近い将来、日本は世界のどこかで戦争に参加している。もしくは、直接どこか特定の国と戦争をしているだろう。今からわしゃそう予言しとくよ。そして、東京五輪もまた、そんな国際情勢と無縁ではいられないはずだ。時の政府は戦争遂行について国民に文句を言わせないため、五輪を最大限に利用しようとするに違いない。そのとき日本のマスメディアはどんな役割を担っているだろうか。
 日本は取り戻すけど沖縄はアメリカにくれてやる。アメリカに押し付けられた憲法だから、もっとアメリカに都合がいいように変えて、戦争のお手伝いができるようにする。アメリカのためなら地球の裏側へでも軍隊出して助けに行くが、日本人の個人は自己責任だから助けられなくてもしょうがない。不思議の国ニッポンの不思議な不思議な指導者たち。選挙で選ばれたんだから俺たちのやりたいようにやらせろ、って、それ民主主義じゃねーから。んでいて、自分より強いアメリカには媚び売りまくる。インターネットを覗けば、そんなコビコビ安倍とその子分らに声援を送り、なぜか同じ東洋の他民族を見下して愛国者気取りの、ネトウヨとかいう提灯持ちたち。
 まあ、長いものには巻かれておけ。似たような構図は世の中の至るところに昔からある。強い者の後ろについておけばとりあえずは安心だし、おこぼれに預かったり、運がよければ自分も権力の末端ぐらいには席を得られたりするかもしれない。こりゃいかんと思うことがあっても、逆らうのは得策じゃない。コビコビッ。ただし、上が間違えたら万事休す。これは「奴ら」の問題ではなく、ほかならぬ「僕」や「わたし」の問題なのだ。
 戦争はイヤだ。だけど民衆はバカだから、ただ巻き込まれるしか能がない。この前の戦争では、帝国日本の最大の共犯者として巻き込む側に回ったのがマスメディアだった。今度はどうする? もう遅いと私は思っているが、いや遅くないと言うなら実践で証明してほしい。何だかんだ言っても、どうにかできるのはお利口さんのあんたたちしかいないんだから。バカを騙すより強者をへこます方が、きっとずーっと楽しいはずだ。

 頼りにしてまっせ、マスコミさんッ!


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