『Es光の繭』第29号(2015年5月)掲載

 つかつかと「み」の字が歩いてくる。
 ひかり510号東京行きが三島駅を発車してすぐのことだ。自動扉が開く気配で文庫本から顔を上げたのが運の尽き、ちょうどこっちを向いた「み」の字の主とばっちり目が合ってしまっ
た。
 みしまるくんだ!
 額に大きく「み」と記された三島市のマスコットキャラクターみしまるくんは、去年テレビドラマに出て全国的に有名になった。面白いのに視聴率はよくなかったらしいそのドラマで
、みしまるくんは本職の俳優さん顔負けの好演を見せたのだった。
 だが、大きな黒目の中にぽつんと一つ白目の画かれた瞳に浮かぶ豊かな感情は、ドラマの中だけのものであったのか。あんなにも愛らしかったその瞳が、今は無機質にてらてらと光っ
て、不気味に僕の目の中を覗き込んでくる。まずいなと思いつつ視線を逸らせずにいるうちに、みしまるくんはすたすたと近づいてきて、まるで初めから決まっていたかのように、僕の掛けているシートの横で立ち止まると、胴体に比べて大きすぎる頭部をぐいとこちらに向けた。
 東海道新幹線の車両では、通路をはさんで山側に二席、海側に三席が配置されている。すいていて好きに選べるなら、僕はいつも富士山の見える山側の窓際に席を取る。それが仇にな
った。どっかと隣に座ってしまったみしまるくんは、身じろぎもせず、瞼のない目を見開いたまま前ばかりを向いている。富士山はさっき通り過ぎたし、第一、わざわざ隣に来なくても、ほかに空いている席がいくらでもあるではないか。まったくもう、これじゃのんびり本を読んでる気分にもなれない。
 いやな予感は的中した。品川駅のホームに列車が停まろうとしているのに、みしまるくんはぴくりとも動かない。大きな丸っこい頭が前の席の背もたれから倒したテーブルとの間を塞
いでいて、このままでは通路に出られない。一言「すいません」と声をかければいいのだが、そうはさせないオーラがみしまるくんの全身から滲み出し、口に出せずにいるうちに、ひかり号は発車してしまった。
 まあいい、どうせすぐに終点東京だ。と思いながら、ふと視線を巡らすと、車内のあちこちにみしまるくんが座っているのが目に入った。なぜ今まで気づかなかったのだろう。全て通
路側の席で、しかも、その列の窓側には必ず、僕と同じ立場に置かれたヘタレな乗客がいた。これはますますやばい。東京駅に着いても、みしまるくんはきっと席を立たないだろう。予想は確信に変わり、ならばもう永遠に駅に着かなければいいと、僕は心底願った。
 手に持っていた文庫本がぱたりと床に落ち、うたた寝から目が覚める。窓の外を見ると、富士山がゆっくりと後方に遠ざかっていくところだった。よく晴れたとてもさわやかな日。車
内はちょうどいい具合にすいている。
 やがて列車は三島駅にすべり込む。反対側の窓からホームの先の方に目を遣ったとき、僕はあっと思った。額に「み」と書いてあるみしまるくんが開いたばかりのドアから乗り込んだ
のが、ちらっと見えたような気がしたのだ。まだ間に合う。早く通路側に席を移動しなくちゃ。簡単なことだ。過去は変えられないけど、未来なら変えられる。
 悪い夢の中にいるみたいに妙に重たい腰をどうにか持ち上げようと焦っているうちに、自動扉が音もなく開き、「み」の字が入ってきた。だが、何ということだろう。乗ってきたのは
みしまるくんではなく、彼とコンビを組むもう一人のご当地キャラみしまるこちゃんだったのである。
 非常にまずい。相手に先に未来を変えられてしまった以上、前回の経験はもう参考にならない。では今、自分はどうすればいい。動くべきか、動かざるべきか。
 視線を逸らしたら、たぶん負けだ。みしまるくんと同じ目をしたみしまるこちゃんが、「み」の字を額に掲げて、つかつかと僕の方に近づいてくる。


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