夢の果実

 郊外の古い一軒家に移り住んだのは、まだ秋の気配も見えぬ八月の終わりのことであった。蝉しぐれを浴びながら風通しのよい縁側に寝ころんで空を見ていると、ついうつらうつらとまどろみがちになる。そんなおりの夢の断片であったのかもしれない。
 開け放しの玄関からふらりとはいってきた男は、上がり框に腰掛けると、背中から大きなつづらをおろした。富山の薬売りかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「何がはいってると思います?」
 そう言って、ぽんとつづらを叩いてみせる。
「過去ですよ。数え切れないほどの過去がこの中に詰まっているのです。もしよろしければ、あなたの過去もコレクションに加えたいと……。もちろんただでとは申しません。いかがでしょう、これと交換ということでは」
 男がつづらから取り出したのは、みずみずしい夏みかんの一果であった。淡い夕焼けにも似たその輝きに、私はたちまち魅きつけられてしまったのである────。
 ひとつ、ふたつと、緩やかに流れる雲を数える。こおろぎの鳴く季節になっても、私は相変わらず一日中空を眺めて暮らしていた。
 会社から送られてきた「復職希望調査票」は──夏みかんと交換して、ほら、この前ふたりで食べてしまったじゃないか──そう説明するたびに、ますます妻が不機嫌になっていくのが、私にとって、今、最大の悩みなのである。


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