覚めぬ夢

 ひやかしのつもりで黙って左手をさし出したのである。
「何を見て進ぜましょう」
 細い透明な声が少し震えている。思わず顔を見ると、せいぜい二十歳ぐらいにしか見えない女が、じっと私を見つめている。
「三千円分だけ、思いつくままに」
 へどもどして出まかせを言うと、女占い師は心なしかきっとした表情になり、それでも、ひんやりとした冷たい指で私の手首を取ると、掌に視線を落とした。が、それも束の間のことで、すぐに目を上げて、再び私の瞳の奥をのぞきこんでくるのである。
「悩みがおありですね」
 そりゃ誰だって悩みのひとつやふたつ……
「隠さなくても結構です。みんなわかっています。だって、わたしは手相見ですもの」
 なおも見つめ続ける女の黒い瞳に、私は危うく吸いこまれそうになる。
「簡単です。夢を見るのです。現実の反映でない純粋の夢を。大丈夫ですよ。本当に、いつでも覚めることはできるのですから。あなたがそれを望みさえしたなら……」
 女の血が指先から私の手首に注ぎこまれ、血管を通じて、あっという間に全身に行きわたる……。
 会議資料の詰まった鞄を失くしたのが、その後であったか前であったか、ともかく、あの夜を境に、私は一切の絆を断ち切ったのである。


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