春の善光寺紀行


ー聖火問題で揺れた08年4月26日の翌日善光寺の旅に出かけたー


佐藤弘弥
 
善光寺本堂の勇姿

 1 善光寺とはどんな寺

08年4月27日(日)、長野の善光寺に行った。その日は、北京五輪の聖火リレーのあった前日とは、うって変わって、どこまでも穏やか な4月の最終日曜日だった。

いったい26日の、聖火リレーの喧噪はなんだったのか。その日、テレビは、朝から晩まで、過剰な警備によって守られた聖火リレーの中継 が続いた。まるで長野市が、中国本土と化したような錯覚すら覚えるような騒々しさだった。

私が、善光寺にどうしても行きたいと思った理由は、三つある。ひとつは、チベット騒乱で揺れる聖火リレーのコースが、善光寺側の要請に よって、変更されたこと。別の言い方をすれば、政治と宗教の関係について、善光寺という場所にいて考えたいと思ったことだ。

ふたつ目は、今から70年ほど前、わが家の実家で家系が途絶える危機にあった時、急きょピンチヒッターとして養子に入った曾爺さんが、 家運上昇を祈願して善光寺詣でを行っていること。善光寺境内に行って、曾爺さんの思いというものを感じてみたかった。

みっつ目は、ジョン・レノンの名曲「マザー」(1970年のアルバム「ジョンの魂」所収)の冒頭で流れる鐘の音が、「善光寺の鐘であ る」ということを誰かに聞いたことがあり、それが単なる噂なのか、本当であるかどかを、この目と耳で確かめたかったことだった。

善光寺は、日本有数の大寺院であるが、本当にふしぎな寺である。何故、あれほどの寺が、国分寺でもないのに、奈良・京都の都と、かくも 離れた信州信濃の地にあるのか。寺伝によれば、善光寺を開山したのは、若麻績東人(わかおみのあずまびと)で別名を本田善光(ほんだよしみつ)という人物 だった。そこから善光寺という名が付いたとされる。

何でも、この本田善光という人物が、推古十年(603)に、信濃国司の従者として都に行った折り、難波(大阪)の堀江で、ありがたい仏 像を見つける。この仏像は、「欽明天皇十三年(552年)、インドを経て、仏教伝来の折り、百済からわが国へ伝えられた日本最古の仏像」(善光寺HPの善 光寺縁起より引用)と言われる。ところが、この仏像が、蘇我氏と物部氏の仏教をめぐる争いの中で、悪疫流行の禍根と見なされ、難波に放置されていたもの だった。本田善光は、この仏像を長野の飯田に持ち帰って、寺を建てたのが始まりで、後(642)に、それが現在の地に移されたものと言われている。

善光寺の本尊は、阿弥陀三尊像で、一光三尊形式と呼ばれ、絶対の秘仏とされる。中心の阿弥陀仏は蓮の台座に立つ立像で、右手を「やあ、 よくきたな」というような格好で胸の横に掲げ、反対に左手はゆったりと下げ、指を曲げて中を見せ、やってきた者からお布施を受けるポーズにも見える。背の 小さな脇侍が左右にいて、手は前で重ね合わせている。高さは僅か45センチほどだ。この形式の三尊像を善光寺式如来と呼び、全国で関東、東北を中心に、 200例以上ある(「目でみる仏像事典」東京美術 2008年刊)とのことだ。

この善光寺の阿弥陀仏は、戦乱によって、数奇な運命を辿り、各地を転々と旅をした挙げ句戻ってきたものだ。まず武田信玄が、深く善光寺 如来に帰依し、自身の本拠である甲府に「新善光寺」を建てて、本尊を安置(1558)した。次いで織田信長が美濃国岐阜から尾張甚目寺(1582)へ移 す。この一年後の徳川家康が、再び甲府新善光寺(1583)へ移動させた。最後には、豊臣秀吉が、京都方広寺(1597)へ移し、やっと本尊が、善光寺に 戻ったのは、慶長三年(1598)であった。

戦の度に、一見、勝ち誇った為政者のものとなったように見えて、やはりこの善光寺如来は、本来あるべき信州信濃の地に戻ってきたのであ る。また、この善光寺には、武田信玄と上杉謙信の戦国時代のライバル同士が、敵味方の違いを越えて、大勧進の中で位牌を並べて供養されている。



 2 聖火リレーの喧噪と善光 寺の心

善光寺は、特定の宗派というもたぬ単立の寺となっている。ただ近世以降は、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願が寺務を分担していて、浄土信仰が隆盛になる鎌 倉時代以降、各宗派のさまざまな高僧が、この善光寺を詣でている。こうしてみると、信州の地に花開いた善光寺は、和歌山にある真言宗の一大霊場高野山とに も比較されるスケールの大寺院ということが分かる。

高野山奥の院にも、それこそ名もなき貧者から、名だたる皇族、貴族、武将、政治家の遺骨、遺髪、位牌、などが、それこそ広大な敷地狭しと並んでいる。高野 山は、差し詰め日本総墓所の面持ちであるが、善光寺もまた、違った意味で、さまざまな立場の民衆を惹きつけるに十分な霊場であるように感じられる。

長野駅に降り立ったのが、午後一時過ぎだった。駅前から善光寺までの距離は、およそ二キロ弱である。かつて善光寺まで真っ直ぐに伸びていた参道には、アー ケードが架けられていて、雨が降っても濡れずに、善光寺まで歩くことができた。しかしアーケードは撤去され、青空がすっかり見える参道になった。アーケー ド街は、全国的な流行であるが、現在の方が遙かに良い。

昨日見た聖火リレーの喧噪は、もはやどこにもない。長野に、あのような騒動はそもそも似つかわしくない。十字路から、旭山と思われる山の稜線が青く見え る。空気も実にうまい。参道の両脇の店も、時代を感じさせる造りで、長野市の人々が、この街の特徴ある風情というものを、保存して行こうとする思いが、ひ しひしと伝わってきた。

参道を歩きながら、感じられたのは、長野市民にとって、善光寺という存在がいかに大きなものであるかということだ。テレビで見ると、長野市は、少し前 に冬季オリンピックを開催した雪国「長野」でしかない。しかしこの街には、土地の人々が、誰しも誇りと感じている善光寺があるのだ。

確か、善光寺の鐘が鳴って、オリンピックが開会された。この意味を考えるならば、鐘の音というものの、深い意味を考えない訳にはいかない。この場合の鐘 は、単に時を告げる音ではない。古来より、鐘の音には、人々を苦しみから解放する意味があった。浄土信仰の考え方で言えば、自分が生きているか、死んでい るかも分からない亡者を救い出し、極楽へその迷える魂を極楽へ送るための音でもある。その昔、奥州藤原氏初代藤原清衡によって、中尊寺に鋳造された梵鐘 (ぼんしょう)には、長い戦乱で亡くなった生きとし生けるものの魂をすべからく、極楽へ送りたいとの祈り(中尊寺落慶供養願文)が刻まれていた。

この長野の鐘楼にある梵鐘もまた、きっと、開山以来、千三百年以上に渡って、日本中の人々の苦しみや、報われず亡くなったものたちの安寧を願って打ち鳴ら されてきたものである。

今年にあっては、チベットにおいて、突如として、騒乱が起き、200名を越える尊い命が亡くなった。また様々な罪科を背負って、この騒乱のために囚われて いる数千の人々がいる。この人々に同じ仏教徒として、シンパシーを感じ、善光寺はこの寺から、北京五輪の聖火がスタートすることを辞退した。善光寺の決断 は、おおむね世界中の人々から好意的に受け止められたようだ。

善光寺の今回の決断の根底にある仏の心とは、どんなものか、それは、昔、承久の乱(1221) の際、圧倒的な北条方の武力に圧倒された後鳥羽上皇方の武者たちを、 栂尾山高山寺(とがのうやまこうざんじ)に匿ったために捕縛され、総大将北条泰時(1183−1243)の前に、連行された明恵上人(1173− 1232)の弁明の弁に集約されているように思われる。

その時、上人は、自分の命の危うさを顧みず。このように言い放った。

誰かの味方をするとか、ひいきにするといった気持は、みじんも持合わせていない。・・・だがい くら特別扱いしないといっても、高山寺は殺生禁断の地であ る。鷹に追われた小鳥や猟師から逃げたけだものは、皆この山に隠れて命をつないでいる。いわんや人間が、からくも敵の手を逃れ、木の下・岩のはざまなどに 隠れているのを、自分が罪になるからといって、見捨てることができようか。・・・出来ることなら、袖の中、衣の下にも、隠してやろうと思っているし、今後 もきっとそうするに違いない。(ここまで白洲正子訳。白洲正子著「明恵上人」より)『これを政道のために、いけないことだと思うならば、即刻、愚僧が首 を、はねられよ』(佐藤弘弥訳)」


この言葉を聞いて、後に名政治家と評価されるようになる泰時は、明恵上人の言葉にいたく感動した。そして明恵上人を捕縛したことを詫び、言い分を聞き、最 後には、乗り物を用意して、門の前まで、見送りに立ったとのことだ。

尚、この話には後日談がある。明恵上人を捕縛して、泰時の前に連行した張本人の安達景盛が、後に明恵上人に帰依して、「覚智」という僧名を戴いたのであ る。

私はこのエピソードを考えながら、時の権力者というものが、強い権力を背景にして、ややもすれば、弱き人々を追い詰めがちになるということを忘れるべきで はない、と思うのである。昨今のチベット問題もまた然りである。チベットの民衆の苦を思うならば、中国において権力を持っている人々は、もしも仮に、明恵 上人の住む高山寺での出来事ならば、上人が、どのような言葉で、弱き人々の心を汲み取ろうとするか、想像力を働かすべきではないだろうか。


夕暮 れの善光寺
 (08年4月27日 佐藤弘弥撮影)

 3  善光寺地震を思う

新幹線で長野駅に着く、ほんの少し前、犀川の川沿いに、山が崩落をし、それ以上の被害をコンクリートのようなもので、食い止めている光景が目に入った。石 切場の跡ではないようだ。

どうやら、これは善光寺地震によって、起こった大災害の跡ではないかと気付いた。善光寺地震は、江戸末期の弘化4年(1847)に起こった3月24日夜 10時頃、長野市内を震源地に起きた直下型地震で、マグニチュードは7.4と推定されている。この時のお山崩れによって、犀川がせき止められて、上流の 村、数十箇村が水害に見舞われ、被害は、長野、飯山、中条、戸隠まで拡がって、死者1万2千人を数得る大災害となった。また運の悪いことに、この時善光寺 ではご開帳の年と重なって、多くの参詣者が近くの宿坊に泊まっていた。全国から集まっていた参詣者の多く7、8千人いたとされる。市内だけで、2千4百人 が亡くなったとされ、参詣者の多くもこの犠牲者に含まれていると推測される。一部には、7、8千の参詣者のうち生き残った者は、僅か一割ほどしかいなかっ たという説があるが、これは風説というものだろう。

但し、全国から、善光寺に参詣し、徳を積んで、故郷に戻ろうとの思いを抱きながら、かかる天災に遭い、愛する親類縁者の待つ故郷に帰れないままに、善光寺 の門前町で息絶えた被災者の人々の無念を思うと、参道を歩きながら、空恐ろしいような気持ちに襲われた。

しかし、いざ参道を歩き、ふと空を見上げると、そこにはビルが林立し、空が著しく狭まった東京とは比較にならない広い空があった。同時に景気から見れば、 東京ほど好調なはずはないが、どこまでも青い空が拡がり、若葉が春の陽光に目映く光るさまは、豊かさの極地のようにも思われた。私には、この町の市民の表 情に、信州信濃の善光寺に住んでいるという誇りすら感じられた。

昨日の聖火リレーの喧噪など、どこ吹く風と受け流す若い柳のようなしなやかさが、この長野という街にはある。

その精神的な拠り所となっているのが、善光寺なのだろう。おそらく、善光寺地震という大災害を乗り越える時にも、長野の市民は、神仏に一言の文句も言わ ず、目の前に折り重なっている瓦礫から、被害者の遺体や遺品を黙々と探し出し、弔い、被害者の郷里に送り届けたに違いない。

そうでなければ、大地震からおよそ80年後、私の実家の曾爺さんが、宮城県からわざわざ善光寺まで、家運上昇を願って、この善光寺に参詣に来るはずがな い。善光寺は、地元の人々の努力と全国の善光寺を崇敬する庶民の祈りによって、悲劇的な大地震から、見事に復興を遂げたのというべきである。


獅子の威厳本堂前) 

 4 牛に引かれて善光 寺

地元長野の俳人小林一茶(1763-1827)に、

 春風や牛に引かれて善光寺

という句がある。これは善光寺信仰にある「牛に引かれて善光寺」に、「春風や」の季語を附しただけだが、味わいのある良い句だ。「牛に引かれて善光寺」と いう言葉 は、信仰心が薄い者が、ひとつの切っ掛けで、信仰心篤い人間になるとの故事である。

その昔、信濃の国の小県郡(ちいさがたのこおり) に、欲張りで信仰心に欠ける老婆が住んでいた。もちろん善光寺詣でなど考えたこともない。その日も、彼女は、お金を儲けようと、川で布をさらしていた。す ると突然、牛が 向かってきて、さらしていた布を、角に引っかけて、一目散に逃げて行ってしまった。彼女は、大事な布を持ち去られてはたまらないと、牛の後を追いかけて行 く。やがて気がついてみると、善光寺の境内まできてしまっていた。以後、この強欲で信仰心に欠けていた女性にも、信仰心が芽生えたという話である。

一見するところ、「牛に引かれて善光寺参り」、というと、どうも、牛車にでも乗ってゆっくり と、善光寺の長い参道を渡って、善光寺詣でをするイメージがあ る。だが、この話は、これとはまったく違っている。老婆は、自分の財産である布をさらわれたと思い、所有欲にかられて、鬼のような形相で、牛を追いかけ る。ところが、実はこの牛は、仏の使いであり、信仰心を起こさせるための仏の方便であった。つまり、布を奪うことによって、善光寺まで、強欲な老婆を導い てくれたのである。

なるほど、この老婆にとって、大切な布を奪った牛は、一瞬厄の元であった。ところが、もう少し時が経ってみると、厄と思って考えたものは、この老婆にとっ て人生、最終最後の好機だった。それはもちろん己の狭い了見を猛省し、極楽往生を遂げるための仏の配慮とも言える。

善光寺は、女性の参詣者が多いことで有名だ。結局、その根拠は、大本願(浄土宗)の住職(大本願上人)が代々尼さんであること以上に、この「牛に引かれ て」のエピソードそのものが、女人往生の物語であることから来ているのではないかと思う。

このエピソードの成立は、善光寺曼荼羅の生成の年代から推定して、鎌倉前期と思われる。この時期、浄土思想は、日本中を席巻し、極楽往生を遂げるために、 「牛に引かれて善光寺参り」のようなエピソードを描いた善光寺曼荼羅を携えた「善光寺聖」が、全国の人々に、善光寺詣での御利益を説いて廻ったことが大き かったと推測される。

禅宗に、「十牛図」という悟りの道を説く、方便の図絵が伝わっている。これは、牛を己の心に喩えて、自分の心という野生の牛を探し、捕まえ、教育し、乗り こなし、家に連れて帰って、牛という己と一体となり、自分の心のままに、生きる境地に達することが叶うことを、教えてくれる悟りの教本である。この中に、 牛と自分が一体になったことを、示す図が、禅の悟りの境地として使われる「○」の一字の円相である。これを禅語で人のことも牛のことも共に忘れると書いて 「人牛倶忘」(じんぎゅうくぼう)という。

○は無限の永久運動を示し、心を表すとも言われる。丸い心を、維持することは、難しい。その意味で、悟りに至る道というものは、英語で言えば常に現在進行 形の「ING」であり、その為に、悟りとは、「悟りつつある」あるいは「これが悟りかな?」と考える一瞬を言うのであって、その瞬間に悟りは、虹のよう に、自分の手の届かないところに、移っている。

小林一茶の、「春風や牛に引かれて善光寺」の句を、味わいながら、私たちの一向に落ち着かない心の有り様を思った。善光寺という聖なる空間に入り、日常の さまざまな喧噪を離れて、静かに自分を見つめ直す機会を得たことを感謝したい気持ちになった。その意味で、私にとって、牛とは、十牛図の説く自分ではな く、北京五輪の聖火の喧噪だった気がした。




善光寺鐘楼

 5 善光寺の鐘は「マザー」の鐘?!

善光寺本堂の右手前(東)に、鐘楼がある。石積みの檀の上にやや反り上がった屋根が付いてい て、中央に鐘が釣られてある。この梵鐘は、長野五輪の開会の鐘として国際的にも有名になった。

この鐘の音が、ジョン・レノンの名曲「マザー」の冒頭で鳴る鐘の音であるか、どうかは不明だ。

確かに、いくら文献を探しても、インターネットを探っても、「マザーの冒頭の鐘の音が善光寺の鐘だ」という確証は得られなかった。

そこで、4月
27日、百 聞は一見にしかずの精神で、この鐘の音を直接、聞いてみようと考えたのである。

私は、この「マザー」の冒頭に流れる鐘の音が気になってきた。この鐘楼の前に着いたのが、3時20分過ぎ。やや西方に傾いた春の陽射しが強烈に、鐘楼に降 り注いでいる。前に板碑があり、

鐘楼 
嘉永六年(一八五三)再建 
六本の柱は「南無阿弥陀仏」六字に
因んだもので類のない形式

梵鐘(重要美術品)
寛文七年(一六六七)鋳造 
高さ一,八米 口径一,六米 
毎日の「時の鐘」年末の「除夜の鐘」として用いられ世評が高い。
更に平成八年には環境庁よる
「日本の音風景百選」中に認定され
又平成十年二月七日には長野
冬期オリンピックにおいて開会を
告げる鐘として全世界にこの音を
響き渡らせました
        善光寺

と記されていた。

さまざまな角度から写真を撮る。近くに寺の掃除をする方が居たので、「この鐘は、何時になりますか。四時には、聞けますか?」と聞けば、「さあ、三時まで は、鳴ったと思うが、近くに居ると、あんまり意識しないもので。三時までは鳴ったと思うが、もう今日は終わりかも・・・」などと言って、一向にラチが明か ない。

そこで、私はアイポッドをポケットから取り出し、「マザー」の冒頭の鐘の音を再度聞いてみた。

確かに、音は余り良くない。ジョンが、テープでプライベートに録音したものだろう。

すると、鐘の音は、低く籠もっており、音さのようなゴーンと共鳴している感じがする。ウェッブを廻ると、教会の鐘の音の回転を換えたもの、との説がある。 しかし教会の鐘は、基本的には「ベル」であり、金属と金属がぶつかる音にしか聞こえない。それに比べ「マザー」の鐘は、日本の寺社の鐘のように、外側から 木の棒で打ったような柔らかな音だ。どことなく、木と金属が響き合う音のように感じられるのだ。

それにしても、「マザー」という曲は、強烈な曲である。もちろん「強烈」の意味は、サウンドが「強烈だ」という意味ではない。「幼い頃、両親に棄てられて た」というジョンの苦い原体験が、そのまま歌詞となっていて、その心の傷が、魂そのものの、叫びのように、強烈に響いてくるという意味である。


鳩と戯れる少女たち(本堂 前)

ジョンは、己の心の傷そのものを、歌に昇華することで、自分の中にある母親像・父親像との決別 宣言をしているようにも思える。このようなストレートな歌詞が、他にあるだろうか。この歌におけるジョンの魂を振り絞るような声は、「音を楽しむ」という 意味の音楽ではなく、歌詞の中に自己のすべてを表出し、己の魂の再生を期すようなところがある。

ジョンの「マザー」を私なりに訳してみると、このようになる。

Mother, you had me, but I never had you
母さん、俺はあんたのものだったが、俺に母親などいなかった。
I wanted you, you didn't want me
俺は母さんが死ぬほど欲しかったが、あんたは俺など眼中になかった。
So I, I just got to tell you
そこで、ズバリと言わせてくれ。
Goodbye, goodbye
「さようなら」、「母さん さようなら」って。

Father, you left me, but I never left you
父さん、あんたは俺を棄ててどっかに消えたが、俺はあんたを決して棄てたりしなかった。
I needed you, you didn't need me
俺は父のあんたが必要だったが、あんたに俺は邪魔者だった。
So I, I just got to tell you
そこで、スバリと言わせてくれ。
Goodbye, goodbye
「さようなら」、「父さん さようなら」って。

Children, don't do what I have done
子たちよ、俺が経験したことをくり返してはいけない。
I couldn't walk and I tried to run
俺は歩くことも走ることも出来なかった・
So I, I just got to tell you
そこで、ズバリと言わせてくれ。
Goodbye, goodbye
「さようなら」、「子どもたち さようなら」と。

Mama don't go
母さん、行かないで!!
Daddy come home
父さん、戻って来て・・・

日本語訳 佐藤弘弥


この曲を魂から、はき出した時、おそらく、ジョンは、ビートルズ時代の名曲「ヘルプ」で「助けて!!」の奥にあった本当の心を、探り当てた瞬間だったかも しれない。

同時に、この曲を耳にした時、多くのビートルズファンは、度肝を抜かれてた。シンプルな歌詞でありながら、父や母との決別宣言とも取れる強烈な内 容・・・。そして絞り出すようなジョンの歌声・・・。

そして気が付いてみると、ジョンのが抜けたビートルズという20世紀を代表する人気ロックグループは、もはや存在意義を失ってしまったのである。

1970年に発表された「ジョンの魂」(原題「ジョン・レノン」)は、それほど、決定的な意味を持つアルバムをだった。そして少なからぬファンたちは、漠 然とではあるが、ビートルズの音楽の根源に、ジョン・レノンという強烈な個性のアーティストが居たことを思い知らされたのであった。もっと言えば、「ビー トルズとはジョン・レノンだったのか」と気づかされたのであった。

そんなことを考えているとゴーンという、腹の底に響き渡るような鐘の音が鳴った。しまったと、思った。それは、鐘楼の鐘から、80mばかり、北に動いてしまっていたからだ。時計を見れば、4時ジャスト。本堂の背後 にある徳川家の御供所の手前まで足を伸ばしていた。

腹に響くような鐘の音が聞こえ、慌てて、ビデオカメラで、音を拾うことにした。「マザー」の冒頭に似ているような似ていないような気がした。残念だが、 「マザー」の冒頭の鐘が、善光寺の鐘楼の音だという確証は出せる状態ではない。

日はいよいよ傾いて、少し陽光の中にアカネ色とも黄金色とも言えるような光が少し混じってきた。その光が、本堂を照らすと、巨大な甍が、青空の中にくっき りと浮き立っているように見えた。本堂の脇には、散り残っているしだれ桜が、名残惜しそうにしていた。

本堂の背後を西に歩くと、善光寺史料館を兼ねた忠魂殿の三重の塔が立っている。白壁を基調に柔らかい薄桃色の柱を組み上げたような美しい塔である。戊辰戦 争から太平洋戦争までの二四〇万の戦没者を祀っている。恒久平和を祈念し、昭和四五年に建てられたもの
だ。この脇には、関東大震災や善光寺大地震の慰霊碑が立ってあった。

そこから本堂の西に回り込んで、本堂に入る。薄暗い本堂は、驚くほど、天上が高く、奥が深い。何しろ、この本堂は、正面が23m、奥行き53、6m、高さ が29、5mもある。この中に、日本最古と呼ばれる善光寺の一光三尊阿弥陀如来像が安置されているのである。外に出ようとした時、また鐘が鳴り、鐘の鳴る 方を見ると、本堂正面東側に吊されている鐘を打つ音だった。この鐘は本日の善光寺の参詣の終わりを告げる鐘だった。少し甲高い音で、「マザー」の鐘とは、 まるで違うものに聞こえた。

本日参詣に訪れた人々も、その鐘の音を聞くと、本堂を後にして、三門の方に向かって歩き始める人が多い。もう直に、西の空は茜色に染まり、山々は夕映え て、夜の帳が善光寺全体を優しく包むことだろう。

私は山門の前で、タクシーに乗り込むと、長野駅に向かって くれるように行った。ドライバーに「昨日はどうでした。聖火で大変な喧噪でしたね?」と言うと、少し微笑みながら、「びっくりしました。でも大丈夫で す・・・。」と短く言われた。「でも大丈夫」という言葉の中に、私は善光寺の門前町という歴史的伝統に裏打ちされた自信のようなものを感じ取った。つまり それは、世の中がどのように動こうとも、善光寺のある長野の街はビクともするものではない、という思いが、言葉を発した長野市民の心に明確にあるというこ とではあるまいか。


大勧進の水子観音前を詣でる人は絶えない

 6 善光寺を離れる 

二キロに満たない善光寺山門から長野駅までの距離は、車に乗るとあっという間に過ぎてしまう。 参道を歩くという行為がいかに大切か、しみじみと分かった。

昔、善光寺に来るのに、松尾芭蕉(1644−1694)は、美濃(岐阜県)から木曽路を北上し、老婆を口減らしで山に置き去りにするとの怖い伝説のある姥 捨山(おばすてやま)を 越えて善光寺に来た。途中木曽路では、芭蕉が大変だというので、馬を借りて乗ったまではよかったが、狭い崖のような小道を、馬がよれよれと転げ落ちそうに なって進む。気の小さな芭蕉は、転げ落ちてはたまらんと、連れの者を、何とか言って、馬に乗せ、後ろから見ていると、馬が今にも崖下に転落しそうになる。

ところが、馬上にいる連れの男は、無神経な男で、居眠りをこきながら、呑気にしている姿を、「更科紀行」(1688)にユーモラスに記している。危ないか ら、連れに乗せて、それを後ろから見ている芭蕉の姿を想像すると、芭蕉の神経質さや、ユーモアのセンスが偲ばれて、やたらと可笑しい。この旅は、「奥の細 道」の旅に出る1年前のものだ。

芭蕉は、牛に引かれてではなく、馬に揺られて善光寺に来て、江戸深川の芭蕉庵に戻っていくことになる。そんな芭蕉は善光寺で次のような句を詠んでいる。

月影や四 門四宗も只一つ

この句は、浄土宗の開祖法然上人(1133−1212)の、

月かげの至らぬ里はなけれどもながむる人の心 にぞすむ

という和歌を踏まえての詠んだ芭蕉の挨拶句だろう。この歌は、月の光というものは、あまねく人 の下に平等に降り注がれるものだが、阿弥陀様の慈悲の光というものは、それを眺め感じとることの出来る信仰心のある人の心にのみ降り注ぐもの、との意味 だ。

芭蕉の句を味わって見れば、四つの門と四つの宗派に分かれるという善光寺ではあるが、そこに射 す月の光は、ただひとつである、と言うほどの意味になる。同時に、天からあまねく平 等に射してくる光をありがたい阿弥陀様の御利益の光として、スケール大きく捉えているところが、芭蕉らしい。大本願(浄土宗)の表書院の前に、この句の句碑が建立されている。

私は、五時十分過ぎ、東京行きの新幹線に飛び乗った。すると、ジョンの「マザー」の鐘の音が頭の中で、鳴り響いてきた。結局、答えを得られぬまま、ジョ ン・レノンに後ろ髪を引かれる思いで、春たけなわの長野を後にしたのだった。

 
つづく


 
長 野善光寺スライドショー


2008.4.28-5.15 佐藤弘弥

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