義経記
巻第一
義朝都落の事(一)
特になし。
常磐都落の事(二)
大和国宇陀郡岸岡→たいとうじ
義朝が亡くなり困り果てた常磐が知り合いが住んでいた岸岡に向かったが結局拒絶されてたいとうじに隠れ住んだとある。
常磐の母は関屋という名で、京の揚梅町(やまももちょう)に住んでいたが、平家によって、この母が捕まったことを知り、
覚悟を決めた常磐は、京に戻って自首をする。
常磐の美貌に一目惚れした清盛は、常磐を七条朱雀に住まわせて囲い者とする。
常磐は長男、今若を八歳で観音寺で修行させ、一八歳で禅師の君と云われるようになる。
後に駿河国の富士の麓に住んで、悪禅師と呼ばれた。
次男、乙若は、八条に住み、後に東海道の墨俣河(すのまたかわ)で討たれる。
三男、牛若は、四歳まで母と暮らしていたが、清盛の懸念を感じ取った常磐は、京都の山科にいた源氏ゆかりの人物で、
世捨て人のように暮らす人物に預けて七歳まで育てさせた。
牛若鞍馬入りの事(三)
常磐は、牛若7歳の時、義朝の祈祷の師であった鞍馬寺の別当東光坊に預ける。
正確には牛若七歳二ヶ月。東光坊は、山科に牛若を迎えに行った、とある。
しやうもん坊の事(四)
京都四条室町に、僧侶しょうもん坊(義朝の家臣鎌田次郎正清の子三郎正近)が住んでいた。この男が密かに、平家追討を宿望として、鞍馬寺にいる牛若に目をつけた。そして僧侶であることを良いことに牛若に近づき、牛若に平家打倒の話をする。しかし牛若は警戒して、簡単に話には乗らない。
牛若貴船詣の事(五)
この頃、牛若は、僧正ガ谷にある貴船明神に願をかける。「源氏の世に」。この謀反の意志を察知した東光坊は、覚日坊というものに牛若をあずけ、牛若は、遮那王と名乗るようになる。それから牛若の貴船日参も止んで、毘沙門天が祀ってある本堂にいくようになる。
吉次が奥州物語の事(六)
京都三条に住む奥州の金商人吉次信高が、16才の少年遮那王に近づく。
吉次は奥州の事。源氏と奥州の関係などを話し、遮那王を奥州に誘う。
遮那王殿鞍馬出の事(七)
遮那王は奥州に興味を持つ。奥州の秀衡の権勢を以てすれば、平家打倒も夢ではないと考える。
遮那王は奥州に行く決意を固め、「粟田口の十禅師の前で吉次、お前を待っているぞ」と告げる。
承安二年(1172)二月二日早朝、遮那王は、鞍馬を出奔。
その夜、遮那王は、四条のしょうもん坊に会いに行って、奥州に下る決意を告げる。しょうもん坊は、「是非お供を」と言うが、「お前は、京に残って、平家の動勢を探れ」と言って、都に留め置く。
遮那王は、深夜粟田口の十禅師の前で、吉次一行と落ち合う。
一行は松坂を越え、四ノ宮河原を眺めながら、逢坂の関を通り、瀬田の唐橋を渡って、近江の国鏡の宿に停泊する・・・。
以上巻第一終了。
大和国宇陀郡岸岡・・・常磐の知り合いの家。竜門村?「大和国宇陀郡竜門の牧岸岡」(平治巻下)
たいとうじ・・・あるいは「だいどうじ」か?岸岡の近くにある寺か?宇陀郡大宇陀町に「大東」の地あり。 京の揚梅町(やまももちょう)・・・母常磐の実家 七条朱雀・・・平清盛の別邸 義経は四才まで、ここで母と暮らす。現在の千本通り七条。 京都の山科・・・源氏縁の者の住まい 義経は四才から七才まで、ここで暮らす。 鞍馬寺・僧正ガ谷・貴船明神・・・七才から十六才まで暮らす。 粟田口の十禅師の前・・・義経が吉次と奥州に下る時に落ち合った場所。京都から大津に抜ける出口。東三条口とも云い、三条白川橋から山辺までを指す。また「十禅師」は、「日吉十禅師社」(江州坂本から請された社)の事である。 ○それからの義経一行の足取り、
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巻第二
かが見の宿にて吉次宿にがうどう入事
しやなわう殿げんぷくの事
あののぜんじに御たいめんの事
よしつねみさざ木がたちやき給事
伊勢の三郎はじめて臣下に成事
よしつね初て秀衡に御たいめんの事
鬼一法眼の事
つづく
2000.4.20
2000.4.21 Hsato