ユダヤ人問題について
 
  

通常我々が、ユダヤ人というと、すぐにイスラエルを思い出す。しかし西洋では、日本人とはまったく違 う捉え方をする。西洋のキリスト教徒からすれば、ユダヤ人は異教徒であり、自分たちの利益を奪い取る守銭奴という悪いイメージがある。その為、様々な誤解 と迫害を受けてきた苦難の民族でもある。

ユダヤ人のことを理解できなければ、現代社会は理解できない。そのように言い切る歴史学者さえ いる。そのようにユダヤ人を理解することは、極めて重要である。今日世界の金融市場や穀物市場を牛耳っているのは、そのほとんどがユダヤ資本と言っても過 言ではない。その他、学問や芸術の分野でも、彼らユダヤ人の活躍は、一々上げていたら切りがない。

そして今や、あの世界最高の権威を持つアメリカ大統領すら、ユダヤ人を無視した政治を行うこと はできない。彼らは、それほどの影響力をもっている。

ユダヤ人の故郷は、もちろん中東である。彼らの国家は、イエス・キリストが生まれる少し前に滅 びてしまい、それ以降、彼らは流浪の民となってしまった。もちろん国家を持たず、ユダヤ教という自らの民族宗教を唯一の拠り所として、世界各国に散らばっ ていった。そしてどこへ行っても彼らは異邦人として暮らしてきたのである。

普通であれば、土地に同化し、混血して、その国の人間になってしまうのが当たり前だ。しかし彼 らユダヤ人たちは、混血はしたものの、自らの信仰と民族としての誇りを忘れずに、頑なにユダヤ教の教えを守って生活した。したがって彼らの宝と言えば、そ のユダヤ教と未来を託す子供たち以外にはいなかった。当然、人が嫌がるような仕事にも就いた。やがて貿易に手を染め、金融の分野で大金持ちになる者もでて 来る。

ユダヤ人が信じるユダヤ教の特徴は、一神教(神はひとつ)ということである。つまりユダヤの神 以外の神を認めない。逆に言えば、その排他的精神が、二千年以上にも渡って各国のユダヤ人が、団結を崩さずに生きてこれた理由でもあった。

しかしそのためユダヤ人は、あらぬ誤解をされ、大弾圧を受けてきた。ヨーロッパでは9世紀以 降、世界各地でユダヤ人の迫害が起こった。最近では、1930年代ナチス・ドイツによる600万人の大量虐殺は記憶に新しい。

ユダヤ民族の夢は、神に約束された国家「イスラエル」を建設するという一点であった。1896 年、テオドール=ヘルツルなる人物が「ユダヤ人国家」という本を書き、翌年には彼の指導のもとに、第一回国際シオニスト大会が開催された。このシオニズム と言われる運動は、簡単に言えば「シオンの丘へ帰ろう」「ユダヤ人国家を実現しよう」というユダヤ人国家建設運動である。

そしてついに第二次大戦後の1947年、アメリカとイギリスなどの第二次大戦戦勝国の支持のも とに、国連はアラブ系住民のパレスチナ人が住んでいる土地に、ユダヤ国家「イスラエル」建国を認める決議を採択した。

しかし当然今まで何千年もその土地に暮らしていたパレスチナ人は困ることになる。追い出された パレスチナ人は、難民となって、周辺のアラブ系国家の支援を受けながら、自分たちの権利を守るために武器を持つことになった。これが第一次中東戦争 (1948年)である。我々が中東のニュースで見るときは、まず中東問題の基本的な構図を頭に置いておく必要がある。
 

イスラエル建国前における、ユダヤ人最大の弱点は、国家を持たないということであった。しかし 弱点というものは、考えようによっては、長所にもなり得る。国家を持たないという緊張感が、ユダヤ人をして、世界の歴史を変えるほどパワーのある人物を、 数多く輩出する原動力となった。

そのため、世界の人々は、ユダヤ人に対する嫌悪感と同時に、“ユダヤ人は優秀だ”という羨望 (せんぼう)にも似た感情も抱えてしまったのである。しかし私は、そのようには思わない。彼らは特別の民族でも、彼ら自身が言うように、“神から選ばれた 特別な人間(選民)でもない”。

ユダヤ人が、すぐれた人々を輩出した最大の原因は、常に異邦人として存在し続けてきたこの2千 年間の緊張感そのものである。逆に言えば、厳しい歴史のなかで、ユダヤ人は、優秀でなければ、生き延びて来れなかったということもできる。

今ユダヤ人は、国家として「イスラエル」を再興した。しかし依然としてイスラエルには、他の中 東諸国のように石油やダイヤや金が算出するわけではない。依然としてユダヤの神は、ユダヤ人に対して過酷な運命を与え続けたままである。

しかしあえて言うならば、何も資源が無いことこそが彼らの幸運かもしれない。今ユダヤ人国家 「イスラエル」は、コンピューターソフトに力を入れているようだ。実際優秀な若者を徹底的に教育して、世界最先端のソフトを作り出すまでになっている。現 在すでに、イスラエルの輸出の3割は、コンピューター関連製品で占められていると言う。今後この傾向は、ますます顕著になってくるはずである。

一方、サウジアラビアやクエート、イラン、イラクには、何もしなくてもあふれるように石油が沸 いてくる。イスラエルと比べてこの違いは極端である。特にサウジやクエートなどは、アラブ穏健派と呼ばれ、一人あたりの利益は、世界最高水準である。しか し人間というものは、天から財産が降って沸いたようにあるとなれば、決まって努力を怠るものである。私からすれば、アラブ諸国にとって、財産を持っている ことが、最大の不幸だと思う。

またもう一つのアラブ諸国の不幸は、イスラム教という、超ユダヤ的な宗教を持ってしまったこと である。歴史をさかのぼれば、アラブ諸国は、ユダヤ人のような排他的な宗教を持つ、民族や国家と戦うために、ユダヤ人の持つ宗教よりもさらに過激で、排他 的な宗教を創り上げてしまった。それが622年のマホメットによって始まったイスラム教である。

今や世界は、イスラム教に代表されるようなユダヤ的なるものであふれている。ユダヤ教からキリ スト教も発生し、イスラム教もでてきた。これらのユダヤ系宗教の特長は、排他主義という一点である。ただその中でキリスト教を始めたイエスの考えたこと は、排他的なユダヤ主義を愛によって、全ての人間を平等にみることを教える革新的な運動であった。

私が考えるに、今、世界(特に欧米社会)に必要なのは、イエスの愛やブッダの寛容さを見直すこ とである。

歴史というものは怖いものだ。ユダヤ的なる排他主義を越えて、愛という概念を世界に広めようと したイエスの運動(キリスト教)も、いつの間にか、ユダヤ教的部分に回帰してしまい、神の名の下に、あらゆる残虐行為がなされるようになった。

何故そのようになったかと言えば、元々人の心には、排他主義的な心とエゴイズム(利己主義)が 備わっていて、その悪い価値観がイエスの純粋な精神を変形させてしまったのである。

幸い東洋においては、すでにブッダが、多様な価値観に対する寛容な精神を広め、日本にもその精 神は広く受け入れられている。イエスとブッダで共通している点があるとすれば、周囲の人々に対する寛容さである。つまり他の民族を認め、共に生きていこう とする優しさである。

もしもそのことが実現したならば、世界はもっと平和で調和に満ちあふれた社会に変化するであろ う。もうそろそろ、人類は、十戒(ユダヤの神が、古代において予言者モーゼを通じて、与えた10の戒め)の持つ誤謬に気づいてもいいのではないだろうか。 何も私は、十戒の全てを考え直せというのではない。

見直すべきは、その第一の戒「あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない」と言う 下りである。今や全世界の人間が、この第一の戒を自分の教えとして身に付けてしまった感じがする。この考えは、どう考えても傲慢で、他の民族の自主と独立 を否定する考え方に行き着いてしまうような気がする。他の民族が信じる神様を認めてもいいではないか。もっと寛容さがあってもいいではないか。

誰の心にもユダヤ的なものは必ず残っている。例えば、西洋人が思うユダヤ人の特徴とは、わし鼻 で、強欲で、自分の利益ばかり考える人物である。我々日本人の中にも、在日韓国人の人々を、意味無く差別する悪しき傾向がある。これはまさしく日本人の中 にあるユダヤ教的な傾向であり、広義の意味では、ユダヤ人問題と言っても差し支えない。

ユダヤ人問題の根深さを示すエピソードがある。これは友人のT氏の実体験である。アメリカにい る時にユダヤ系ベネズエラ女性から、面と向かって「何で、こんなところに中国人がいるの!!」と露骨に言われたというのである。もちろんこの時、T氏は、 彼女とは初対面である。常日頃、差別されて苦労していたはずのユダヤ人が、アジア系の人間を見た瞬間、突然差別する側にまわってしまう構図。これこそがユ ダヤ人問題なのである。

結論である。ユダヤ人問題とは、ひとえにユダヤ人だけの問題ではなく、すぐれて全人類的な問題 である。ユダヤ人の革命家カール・マルクスはこのようにユダヤ人問題を結論付けている。「ユダヤ人の解放は、その究極の意味において、ユダヤ教からの人類 の解放である」と。ユダヤ人宗教家キリストも言っている。「あなたの敵を愛しなさい」と。我々日本人も、自分自身の中にあるユダヤ的なるもの(=排他主義 と選民主義とエゴイズム)を一掃すべきだ。

ユダヤ人問題は、非常に繊細で確かに疲れる問題だ。しかし時には、このような難問と格闘するこ とも人間には必要なのだ。私自身正直な話、いささか疲れてしまった。しかしそれはもちろん、知的な研鑽をした後の心地の良い疲れである。佐藤
 



 

義経伝説ホームへ

1998.3.5