義経とジャンヌ・ダルク
義経の復権とジャンヌの聖女化

日本 におけるジャンヌ・ダルク(1412−1431)研究の第一人者高山一彦氏の新 著「ジャンヌ・ダルク」(岩波新書05年9月刊)を読む。冒頭の序章で、義経伝説とジャンヌ・ダルク伝説が比較されていて興味を引いた。氏によれ ば、義経伝説とジャンヌ・ダルク伝説の違いは、「ジャンヌにはその生涯を明らかにする信頼できる特異な大部の史料ー二回にわたる教会裁判の記録ーが残され ている・・・」とのことである。

なるほどと思った。義経の生涯全体を伝える信頼にたる史料は実に少ない。「吾妻鏡」と「玉葉」他の公家達の日記。 それに義経の周辺にいた右筆が綴った義経戦記を元にして書かれたと見られる「平家物語」と「平治物語」の一部である。どれも、それぞれ癖があって、これが 確実だという史料はない。その為にこそ、ここまで義経にまつわる伝説は、増殖を示し、およそ死後200年後に「義経記」という義経伝説決定版が登場したの であった。

さて、この高山氏のジャンヌ・ダルクの真実と伝説の絡み合った「聖女伝説」を読みながら、ふと感じたことがある。 ジャンヌは、一旦、1431年5月、異端裁判によって、有罪となり火あぶりの刑で殺されたが、そのわずか20数年後の1456年7月、復権裁判が開始さ れ、前判決が破棄され、復権を遂げているのである。時代はずっと下って、1919年、ローマカトリック教会は、長い厳密な審議を経て、ついには、彼女に 「聖女」の称号を付与したのである。

このジャンヌの復権と名誉回復の過程を見ながら、西洋流の合理主義と科学的な反省に立っての人物判断を流石と思っ た。我が日本のヒーロー源義経の場合、頼朝によって、罪を着せられ、ついには朝敵とされ、滅ぼされたのであるが、もしも仮に、歴史法廷という裁判を厳格に 開いて再吟味したならば、おそらく、罪があるのは、兄頼朝であって、朝敵との汚名は完全に拭い払われるであろう。

考えてみると日本人は、余り復権、名誉回復ということを好まない民族のようである。かつて朝敵の汚名を着た者が、 後の世になって回復したという話はとんと聞いたことがない。あの菅原道真(845ー903)の場合も、義経同様陰謀によって、太宰府に流され、後には怨霊 となって京都の公家たちを恐怖のドン族にたたき落として、ついには天神さんとなって北野天満宮に祀られることになった。何か日本では、復権という制度はな く、神と崇めて、神社にその怨念を封印することで、誤魔化しているようにも感じる。

権力にも、裁判所にも、人間である限り判定ミスというものは必ずある。だとしたら、怨霊として神社に、封印するば かりではなく、後になって判断を見直し、罪なくして(?)犯罪者となった菅原道真公や源頼朝公のような人物は、名誉回復ができる制度をつくるべきではない かと思う。是非、源義経名誉回復の歴史裁判を開廷したいものだ。そのうちこのサイトで、それぞれ裁判官、検察、弁護士、証人などを決めて、源義経歴史裁判 でも開廷してしてみようか。
2005.11.11 Hsato

義経伝説