静の舞い見れず

平成12年4月9日鶴ヶ岡八幡宮



四月九日、静御前の舞いが、行われるというので、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮に向かった。東京駅より横須賀線に乗り、鎌倉駅で降りる。舞いが、始まるのが三時から三時半だということで、鎌倉の駅前を段葛(だんかずら)まで直進し、桜並木の中を歩こうとしたが、折からの花見客で、容易に前には進めなかった。それでも急ぎ足で、人並みをかき分け、かき分け駅から、15分もかかって、大鳥居の前に立った時には、既に時計は三時二五分を差している。更に大鳥居の前には、信号があり、この信号を抜けるのに、五分ほど経過する有様。やっと境内に入った頃には、既に時計は、無情にも三時半を過ぎている。

ハッピを着て色の浅黒い氏子とおぼしきおじさんに、
「静の舞いは、まだやってますかね」と聞くと、

「今、ちょうど終わった所ですね。もうちょっと早ければね。残念だったね」と慰められる始末。

余りの情けなさに心で「とほほ」と云うが早いか。「まあ仕方ない。今日は見れないことに意義がある」等と、立ち直りの早い佐藤特有の感覚で、否定的な感情保持を排除した。

静の舞いから解放された人々だろう。舞殿の奥から人が、長くて広い路をこちら側に溢れるようにやってくる。まさに人の洪水か、津波のように見える。

カメラの望遠レンズを通して、舞殿の様子を窺う。すでに静の姿はなく。白の着物に、水色の袴を履いた禰宜(ねぎ)さん(?)が後かたづけをしているではないか。

氏子のおじさんが、
「来週の一六日は、流鏑馬(やぶさめ)があるから、来なさいよ。それから秋にも、もう一度静の舞いがあるからいらっしゃいよ。10月の第二週の日曜日だから」とこっちの気持ちを察して慰められる。

いい人だ。鎌倉の人々の人情に触れた気がした。しょうがない。そう思いながら、早々に鎌倉を退散した。

* * * *

さてここからが問題である。この静の舞いの時間に自分が遅れたことに関して、自分が、この静の舞いを見たら、がっがりするから、見たくないという潜在意識が、どこかで働いているように思えた。

静という人物は、神官や陰陽師などが、祈ってもどうしようもない日照りに対して、舞いを舞うことで、たちまち雨を降らすほどの当代一の舞の名手だった。

この鶴ヶ岡八幡宮での舞は、義経と吉野山で別れた後に捕まって、鎌倉に連れて来られた折り、義経の子を身籠もったまま、頼朝の前で、あえて義経を慕う歌を高らかに唱いながら、舞を舞ったという故事にちなんで、復活させたものである。(吾妻鏡によれば、この日は、文治2年4月8日である)

その時の歌が、

 しずやしずしずのおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな
 吉野山峯の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき

というものであった。いずれも強烈に分かれた義経を恋い慕う心情を表明する歌である。

この歌を聞いて、頼朝は当然激怒をする。しかしその時、頼朝をなだめたのは、他ならぬ妻政子であった。

政子は頼朝に向かってこのようなことを言った。
「おやめなさいよ。私だって、あなたが平家追討に立ち上がってからというもの、あの静と同じ感じ心境でした。立場が違えば、あの静が私だったかも知れません」

静にしてみれば、女性として命を懸けた一世一代の舞いであった。もっと大げさに言えば、女の戦争だったのである。しかし静にその後押し寄せる運命は過酷であった。お腹に居たわが子は、男性だった為、直ちに殺されて、由比ヶ浜に捨てられた。さらに夫である義経は、逃亡の果てに、頼朝の命を受けて自刃(じじん)に追いやられる。

こんな過酷な運命を背負った静という女性の舞いを容易に復活させることは、おそらく不可能であろう。静の精神の入っていない、形だけのものを見るのが忍びなかった。

これが私の潜在意識だったかもしれない。何んでも見たから、良いという物ではない。物事には、見る以上に、見ないことも大切なこともあるかもしれない…。佐藤
 


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2000.4.10