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中 尊寺蓮は泰衡が蓮


中尊寺蓮という美しい花がある。この花を見るとき、どのような人間も、その圧倒的な美しさに感嘆の声を上げずにはいられない。何故このような花が、800 年以上も前の奥州にはあったのか。そんな気持ちになる…。

 

それまでこのような蓮の存在は誰も知らなかった。昭和二五年(1950)、植物学者の大賀一郎博 士(東大農学部教授:
  1883-1965) は、中尊寺金色堂御遺体調査に参加し、泰衡の首桶(くびおけ)の中から数個の蓮の種子を発見した。更に博士は昭和二六年(1951)千葉検見川の古い土壌 からも三個の古代蓮の種子を発見し、そのうちの一個が発芽し、大賀蓮と名付けられた。

 しかし泰衡の首桶の種子の方は、発芽しないまま博士没後、中尊寺に返還され、そのまま宝物とし て讃衡蔵(さんこうぞう)に眠っていた。その後、数十年を経て中尊寺では、種子の発芽を大賀博士門下の長島時子教授に依頼した。すると平成五年、見事発芽 に成功。そして平成十年、およそ810年振りに薄紅色の大輪の花を結んだ。しかもその蓮は誰もが驚くような美しい花だった。蓮は、中尊寺蓮と名付けられ た。その花の直径は約二十センチもある大輪で、花弁は十八枚。咲き誇る時期は四日間余りと、実に儚い。

遠い昔、この花の種子は泰衡を葬った人々が、その無惨な首に対面した時、涙をこらえながら、心を 込めて痛々しい首のまわりに供えたものにちがいない・・・。だからこの花の美しさは、奥州を滅ぼすに至った泰衡を鎮魂しようとする奥州の人々の心の美しさ でもあるのだ。

藤原泰衡は、奥州藤原氏の四代目の若き御館(みたち)だった。しかし偉大な父秀衡が死ぬと、泰衡 は、頼朝に「義経の首を差し出せ」と脅される。いつしか「奥州は義経公を総大将としてひとつにまとまれ」という父の遺言も忘れるほど混乱し、文治5年 (1189年)4月28日、頼りとすべき義経を高館に攻め、自害に追い込んでしまった。頼朝はまさに稀代の策士だった。気の弱い泰衡に揺さぶりをかけ、同 士討ちを誘い、軍略の天才義経が亡くなるや、己の言葉を翻(ひるがえ)して、二七万の大軍を以て、奥州を一気呵成に攻め滅ぼしてしまう・・・。悲しくも泰 衡は、頼りとした部下に首をはねられ、頼朝の前に哀れな姿をさらした。その首桶から出てきたのが、この余りにも美しい古代蓮の種子だった。

蓮は泥の中に咲く花だ。泥という汚れた水の中にありながら、そこから長い茎を出して見事な花を付 ける。この蓮が象徴しているものは、本質的なる美(イデア)そのものである。中尊寺蓮。私は敢えてこの花を泰衡蓮と呼びたい。この花の美しさに潜む奥州の 歴史を永遠に記憶に留めるために。佐藤
 

 

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敵味方老若男女なにせうぞ泰衡蓮の咲くや嬉しき


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1999.9.23 Hsato