半世紀ぶりにヤンキース来る

-ベースボールと野球の違い- 


 
半世紀ぶり(実際には49年ぶり)にヤンキースが来日して、巨人軍と試合をした。そこで昨年いわばヤンキースに婿入りしたマツイ・ヒデキが大リーガーそのものの力強い先制ホームランを放ってヤンキースが6対2で圧勝した。

そこで、日本の野球とベースボールの違いをつくづくと感じた。最初に感じたのは、国歌を斉唱の時の、日米選手の姿勢だった。ヤンキースの選手は、マツイをはじめ多国籍の国からの選手だが、一様に帽子を胸の前に置いて、実に清々しかった。逆に日本の選手は、各自姿勢も帽子バラバラで国歌というものあるいは国旗というものに対して、散漫な態度が見られた。おそらくこの違いは、国歌・国旗というものに対する戦後教育の違いが、このような形で反映しているのだろう。

さらにこの違いをこのベースボールを通じて比較してみたいと思った。その違いは単にどっちがどの位強いというような両軍の戦力比較ではない。むしろ、アメリカで生まれた「ベースボール」が、日本的な変質を遂げて、「野球」となったことに興味がある。どうもちょっと考えただけでも、それぞれ「ベースボール」と「野球」には、アメリカ人と日本人の気質や感受性が色濃く反映していると思われる。

かつて、巨人軍のV9時代の監督川上哲治氏は、「野球道」ということを語った。この川上氏は、全盛時に、ボールが止まって見えるとの有名な言葉を残しているスラッガーだが、彼の場合の「野球道」とは、自己の人間形成の「道」としての「野球」ということを想定していることになる。川上氏は、禅に精通していたとも言われているが、とかく日本人は、このように、本来のスポーツの成り立ちをいったん自己的に解釈し直して、哲学あるいは、人生論として考える傾向がある。

武士道にしても、あるいは相撲道にしてもそうだ。サムライとは、今流に言えば、商業軍人のようなものであるが、その職業軍人に哲学を求めて、様々な理屈が付き「武士道」となる。茶道や華道という「道」もある。本来お茶は、静にお茶を点てて呑めばよいものだそうだが、禅の思想と深く結び付いて、ステータスがグンと上がってしまう。

思うに本来スポーツに「道」を持ち出すのは、ちょっと重すぎて、若い人には馴染めないのではないかと思うのだがどうだろう。要は、見る人が、自分の感性で哲学や人生を感じるのは自由だが、スポーツすることや、スポーツを観戦する時には、はじめから小難しい理屈なんて必要ないのである。

「アメリカを知りたければ、ベースボールを知れ」というような言葉があるらしい。これは、ベースボールのルールや楽しみ方の中に、アメリカ文化の特色がちりばめられていることを意味する。まず日米の球場での応援の違いから見てみる。アメリカの球場は、「ボールパーク」、つまり「ボールの公園」である。公園は、みんなの広場であるから、各自が、めいめいのスタイルでバラバラな応援をするのが基本だ。日本の応援団がまとまってのカネやタイコを打ち鳴らしての、一糸乱れぬ応援とは好対照だ。比較してみると、日本の応援は、北朝鮮のマスゲームほどではないが、ちょっと全体主義的で怖い感じがする。この応援スタイルは、高校野球の応援団と少しも変わらない。むしろ、高校野球の応援スタイルが、プロに導入されたと見ていいだろう。

アメリカの応援で、ひとつになるのは、7回に、「ボールゲームに連れてって」(Take Me Out To The Ball Game)をみんなが立って歌う時くらいだ。ところが日本には、試合なのに、ゲームに背を向けて、手を必死で振る応援団の人がいるのだから凄い。試合に集中している選手以上に、同じような傘を開いたり振ったり、同じような風船を飛ばしている。アメリカ人にこの違いを聞くと、やはりはじめは文化の違いを感じるらしい。

ヤンキースの来日を機に、日本の野球も、アメリカのベースボール文化をもう少し受け入れ、学んでも良さそうだ。もちろんそれは応援だけではない。選手のケガを減らす意味でも、人工芝は避けて、天然芝にすべきだし、球場の金網は、即座に取り払って、「野球動物園状態」を無くすべきだ。そうすることで、選手とファンの距離は、もっと身近になるに違いない。その前には、ファウルボールが避けられるように、席の狭さも改善すべきだ。日本人も体格が大きくなっている。今のままでは、飛行機のシートではないが、エコノミー症候群になりそうである。

日米の子供たちから大人までの共通言語であり夢であるベースボール(野球)が、今後ますます楽しいスポーツとなって行くことを祈りたいものだ。

佐藤

 


2004.3.29
 
 

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