腰越状とは何か

佐藤弘弥


さて世に言う腰越状は何であるか。腰越状は、義経が京都生まれの頼朝のブレーン大江広元に託した、兄頼朝に対する款状(かんじょう:嘆願書)である。

腰越状には多くの謎がある。これがおもしろい。まずあんな冗長な文章を日本の武者の象徴であるような義経が書くか?という疑問がある。確かに義経筆 跡とされる高野山文書を見た時、義経は太刀で紙をなぞるように、鋭く、そして短い文章を書く人物だということが分かる。ひとつの文書で、全てを類推するこ とは危険だが、義経のとった行動と合わせて見る時、この腰越状に著されて心情は、義経の内面を語っていることは間違いないものの、「もののふ」のエートス (理念;慣習)として考えてみても、また義経個人の行動様式を考えてみても、あのようなお涙頂戴の長い文章を書くことは考えられないのである。

とは云え、この腰越状が源流となって、義経死後、数十年の後に編纂された平家物語や東鑑に収載されることにより、庶民の間で義 経人気がわき上がり、やがて二百年という気の長い熟成期間を経て不幸物語の極限ともいえる「義経記」を生み出し、今日まで、「悲劇の武将義経」の薄幸のイ メージを形成し、ついには「判官贔屓」という特有の心情を醸成したということが言えるのである。

では、もしも義経がこんな長い文章を書かないとしたら、誰が書いたのか。あるいは、鎌倉に入れない理由を頼朝の政策ブレーンである大江広元に相談 し、この文章をしたためたのであろうか。大江広元は、有職故実に長けた学者の家の出である。同じく頼朝側近であった兄中原親能の関係で鎌倉に招かれ、鎌倉 政権の重責を担った人物である。腰越状のような漢籍の深い素養も感じられるような文章を書くとしたら、彼かあるいは義経の右筆と言われる中原信康のような 人物であろうか。この中原信康は、壇ノ浦の義経軍にも従軍して、合戦記を書いた人物と言われる。

中世文献史学の第一人者五味文彦氏も、その著「増補 吾妻鏡の方法」(吉川弘文館2000年)で、こんな記述をしている。
 

「信康は安元二年(1176)正月に算道の拳により左京進(さきょうのじょう)に任ぜられており、いつからか義経の右筆となっ て、おそらく義経の推挙により、内記(ないき)に任ぜられたのであろう。内記とは、いうまでもなく文筆の人の任ぜられる官職である。(中略)義経は鎌倉に 下って頼朝に款状(かじょう)を提出した。『吾妻鏡』に載る有名な腰越状である。あるいはこれらは信康の手になるとはいえないであろうか。」


結局、義経の右筆だったこの中原信康は、義経の没落と共に内記を解かれているのであるが、もしも彼が腰越に義経と共にいたならば、信康と大江広元という京 都育ちの知識人の間で、兄弟の融和の道が模索されていた可能性が高いと思われる。信康も自分の役職の立場もあり、自分のこととして、義経の心情を切々とし た文章に起こしたのでかもしれない。 
 


腰越状のことを考えながら、こんな歌を思い出した。
 

思ひあまり書く言の葉の色に出でば 空のしぐれを涙とは見よ
(意訳:思いあまって書く言葉の端々に私の無念を感じたならば、時雨の雨を私の涙と思って欲しい)


あまりに義経が腰越状を書いた心情にぴったりの歌と思った。義経は、兄頼朝に疎まれ、鎌倉の目と鼻の先の腰越の寺にこもり、腰越状をしたためている。する と、急に空が時雨れて雨が降ってくる。義経は、筆を止めて雨の降る空をじっと見上げているのである。そんな姿がまざまざと浮かんでくる。

実はこの歌は、義経(1159ー1189)と、ほとんど同時代の華厳宗の僧侶明恵(みょうえ:1173?1232)上人の歌である。彼は頼朝に打倒 平家の決起を促したことで知られる真言宗の文覚(1139ー1203)に師事したことで知られる高僧である。

夢日記を付けたことでも有名で、河合隼雄文化庁長官に、この夢日記を心理学の立場から分析を試みた著作もある。彼は美男に生まれ、女性にもたいそう もてたと伝えられているが、そのことで悩み、顔面を自らで傷つけて、出家をしたというエピソードの持ち主である。ある意味では、夢日記を丹念に付けるほど の内省的な人物であったから、私は生きる孤独という点で考えれば、義経と符合する部分があっても不思議はないと思うのである。

明恵が自らを傷つけてまで、断ち切りたいと思ったのは、見かけ上の人間関係であった。明恵にとって、大事なことは、仏が解く不変の真実を体得するこ とで、この世に存在する快楽と安寧ではなかったのかもしれない。

何という孤独であろう。義経もまた幼い頃から、孤独の人生を送った。彼は激情型の行動的人物と見られているが、実は非常に内省的な部分をもった人物 ではなかったかと考えるのである。それが腰越状の端々に見られる。私は実は、腰越状というものは、義経の心情を知っている人物が、代筆したものと考えてい る。あるいは、短い義経直筆の原文を誰かが加筆訂正したとも考えられる。本来義経は、性格的にあのように長い文章を書く性分ではないからだ。しかし今のと ころ、そのような私の説を裏付ける証拠は見つかっていない。但し、世に伝わっている腰越状というものが、義経の心情を伝えていることは異論のないところ だ。

そこで次には、腰越状を実際に読みながら、義経の心のヒダを読み解いてみようと思う。 
 

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以下は、原本に新訂増補 国史大系 吾妻鏡第一(昭和七年八月二十日第一版発行 黒板勝美 吉川弘文館)を使用して、佐藤が意訳したものである。

義経は腰越状をこのように書き出す。
 

左衛門少尉源義経、恐れながら申し上げます。この度、兄君のお代官の一人 に撰ばれ、天子様のご命令をいただき、父君の汚名を晴らすことができました。私(わたくし)は、その勲功によって、ご褒美をいただけるものとばかり思って おりましたが、あらぬ男の讒言(ざんげん)により、お褒めの言葉すらいただいてはおりません。私は、手柄をこそたてもしましたが、お叱りを受けるいわれは ありません。悔しさで、涙に血が滲む思いでございます。 ・・・

ここまでを考えてみよう。まずいきなり「左衛門少尉」(さえもんのしょうじょう)という官職を置く。周知のようにこの官職は、一ノ谷の戦功によっ て、後白河院から、賜ったもので、武士としては最高の位の従五位の下を賜り、昇殿を許されたのであった。正式には、「検非違使左衛門少尉」というのが本当 かもしれない。(?)検非違使庁は、京都の警護と司法を司る役所で、義経の立場は、その役所の長官の位に相当する。

この義経の任官に関しては、無断任官したということで、義経が政治音痴であった。あるいは兄頼朝の政治的意図が分かっていないと、簡単に切って捨て るように述べる向きがある。

ただし厳密に言えば、この任官は、まず一ノ谷の大勝利の後の元暦元年(1184)2月11日、鎌倉の頼朝がヨリトモ、京キョウトにいる義経に使者シ シャを送り、ン都の治安警護の命令を下したことから、院側がこれを追認したものということになる。何か、現在では、後白河院が勝手に、義経を取り込もう と、官職を与えたことに思っている人が多いが、とんでもない誤解である。

一ノ谷合戦以降、京都の警護を一手に引き受けて、混乱していた京都に秩序をもたらした義経の功績に対し、左衛門少尉という官位を与えたことが、直ち に頼朝と義経を離反させようとした後白河院の戦略とする見方は穿ちすぎなのである。これは義経が敗者となり、頼朝がいったん勝者となったことで、生じた鎌 倉幕府から見た見解に過ぎない。

また院庁は、義経の任官の前の同年3月27日、鎌倉の頼朝に義経より遙かに厚遇の正四位下の位を叙しているのである。義経の任官は、それから5ヶ月 も後の同年8月6日である。院の側から見れば、最大限鎌倉の頼朝に気を遣っているのである。要するに、頼朝は、鎌倉に居ただけで、官位を次々と受け、つい には腰越状を義経が書かさるを得なくなった文治五年5月11日には、武士としては異例の従二位にまで出世しているのである。そこで私は次のように考えるの である。

頼朝が義経を畏れる理由は、義経の周辺に人が集まりだしたことで、自らに従う御家人の利害を中心にした東国の軍事政権を目指す頼朝にとっては、自分 の地位を危うくするリーダーとしての義経の血統とその軍事的天才を畏れたというのが本当であろう、と。

この義経の序の部分の書き出しから、私は義経の並々ならぬ自信のようなものを感じる。鎌倉からみればそれは奢りのようにも見えたかもしれない。それ は「私は兄頼朝殿の代官でもありますが、院のご命令を受けて、朝敵を平らげ、そしてやはり院のご命令で、朝敵宗盛親子を、鎌倉まで護送した参ったのです」 というものである。

これによって、義経の微妙な立場がやや見えてくる。つまり義経はこの書状を書くにあたって、鎌倉で今工作している政治体制に対し、一定の距離を置い ているのである。もっと言えば、義経は検非違使左衛門少尉という院より拝命した肩書きで、正式に東国の御家人のトップの座にある頼朝に書状を送っているこ とになる。私はここまでの序の書き出しから、義経の背後で次第に形成されつつある義経人脈の影をみる。まあ、これは義経にとっては、意識下にない無意識的 な感覚であるかもしれないが、ともかく私は、兄の頼朝が偏狭な政治感覚で、義経を必要以上に疎んじることによって、発生した雲のようなものを感じるのであ る。

大ざっぱな把握の仕方をすれば、義経の顕在意識では、この時点で、素直な気持ちとしては、「兄頼朝殿に、一目お目にかかって、お話しすれば、誤解は 氷のように解けてしまう」と、思っていたに違いないと思うのである。つまり頼朝の猜疑心が義経の潜在意識に影響を与えて微妙な反抗心を醸成しているのでは ないかということである。
 

言い分もお聞き下さらず、鎌倉にも入れず、私は、気持の置き場もないま ま、この数日を腰越の地で虚しく過ごしております。兄君、どうか慈悲深き御顔をお見せください。誠の兄弟(きょうだい)としてお会いしたいのです。それが 叶わぬのなら、兄弟(あにおとうと)に何の意味がありましょう。何故このような巡り合わせとなってしまったのでしょうか。亡くなった父君の御霊が再びこの 世に出てきてくださらない限り、私は、どなたにも胸のうちを申し上げることもできず、また憐れんでもいただけないのでしょうか。


この文書を読み解いてゆく前に、この時の義経の動きを抑えておく。 

○5月 7日 義経一行、捕虜宗盛親子を伴って京都を発つ。
○同   日 鎌倉に義経の起請文をもって家人の亀井六郎参着。大江広元これを頼朝に渡すも「範頼に比べ 義経は自専 の者」といって勘気を解かず。
○5月15日 義経一行酒匂(さかわ)駅に到着。義経の使者として堀弥太郎景光鎌倉に入る。「明日鎌倉に 入りたい」 旨の話をする。これに対して北条時政が頼朝の使者として酒匂宿に向かう。宗盛親子を鎌倉に連行するためである。ただし義経は許可なく鎌倉に入ることを許さ ず。しばらくここに逗留して命令を待つようにと伝える。
○5月16日 宗盛は輿に乗り、清宗は騎馬にて鎌倉に入る。

さて、ここまでの経緯であるが、平家物語においては、宗盛親子の鎌倉入りについては、5月24日となっていて、8日のズレがある。義経が酒匂で足止 めを 喰った可能性もあるが、私は義経と時政の間で、相当の論争があり、義経自身もしも自分も入れないのであれば、京にこのまま戻るというような話をして、宗盛 親子や時政と共に、酒匂を出て、腰越まで来たと考える。根拠は、平家物語の記述に、頼朝の次のような発言が載っているからだ。「今日義経が入ると言ってい るようだ。各々用心されよ」、さらに頼朝は続ける。「義経は鋭い男だ。この畳の下からでもはい出てくるかもしれぬ。ただし頼朝はその手は喰わぬがな」と。 平家物語では、どうやら義経がむりやり、同行してきて、鎌倉側は苦肉の策で、腰越から東に今の距離にして500mばかり東に行った金洗沢に関所を設け、宗 盛親子のみを預かって、腰越に追い返したということである。

吾妻鏡の記述については、日時は正確であるが、細部が少し抜けているようだ。平家物語の記述は、逆に日時は不正確の可能性が強いが、吾妻鏡で省略さ れている義経の行動を補足していると思われる。

したがって、この間の義経の行動を吟味すれば、酒匂に到着した義経一行は、強行に鎌倉入りを拒む頼朝に対して、やや強引に鎌倉入りを主張し、鎌倉に 入ろうとしたと思われる。義経の一行は一ノ谷や屋島で常に義経につき従ってきた義経軍とも言うべき精鋭部隊70騎とお付きの者を合わせて100名ほどであ ろう。鎌倉側は大あわてとなった。そこで金洗沢に関を設け、大軍をもって、猫の子一匹入れないような厳重な体制を敷いたのであろう。そこで義経は仕方な く、腰越の近くにある寺に入ったのである。厳密に言えば満福寺はひとつの義経足止めを受けた候補地であって、逗留したという確たる証拠は残念ながらない。 おそらく義経の逗留している周辺は、戒厳令が敷かれ、義経一行が動く度に兵士が付いてくる状況が生まれていたに違いない。そうした絶望的な状況の中で腰越 状は書かれたのである。

ところで、こんな話がある。それは頼朝派と言われる一条能保(1147ー1197)が義経と同日京都を発って、5月17日に鎌倉入りしたことであ る。この能保の妻は頼朝の妹で、義経が没落した後、義経に代わって京都守護を任されている。そして頼朝の推挙によって、従二位まで昇進したことを考える と、この人物が京都を発ったのは、義経の行動を見張り、動きを鎌倉方に伝える役割を担っていたとも考えられる。

何故、私がここまで言うかと言えば、吾妻鏡に、鎌倉に入る辺りのゴタゴタであろうが、伊勢三郎義盛の郎等と、この能保の部下が乱闘をしたというので ある。以下吾妻鏡が伝えるところを現代語訳してみる。
 
 

五月一七日、己亥、午前六時頃左典厩の一条能保殿が去る七日義経と同日、京都を出て、本日鎌倉に到着され、直ちに大蔵御 所に入られた。昨日の暑さでいささか日射病になられた気配があったが、旅先でのことなどを話されたのであった。

その中に、能保殿の家来後藤新兵衛尉基清の部下と、判官義経の家来伊勢三郎能盛の部下が乱闘に及んだという話があった。事は、能盛が馬の かいばを部下に命じた時に起こった。基清の部下がその前を馬でそのまま駆け抜けようとした。その男が馬で駆け抜けた後、荷物を持った下男がその後に続いて いったところ、どうしたことか、能盛の馬がこの男を蹴ったのである。これで、基清の部下と義盛の部下の間で口論に発展した。

基清の部下は、もっていた刀を抜き、周囲を馬で奔走した。主人の伊勢三郎能盛は、この事を聞きつけて飛び出してきて、竹根の竹を引き抜い て、残っていた下男を射たのであった。双方、大声を出しての大乱闘となった。

能保の家来の基清もまたこの声を聞きつけて義盛と雌雄を決しようとして輿を回す。能保殿は、これを押しとどめて、使者を判官義経のもとに 差し向けた。義経もまた、「無体なことをするな」と、義盛らを抑えたので事は鎮まった。

この件について、能保殿は、鎌倉に訴え出たわけではないが、自然に頼朝の耳に入り、『これは能盛の部下らの奢り高ぶりを証明するものだ。 実にけしからん』と、たいそう怒ったということである。」(現代語訳佐藤)


この事件を解く前に、まず義経一行と相前後して、頼朝の義理の弟に当たる一条能保という人物が、京都を出るということが実に奇っ怪である。後に義経にとっ て代わって、京都守護を命じたというのであるから、頼朝の頭の中では、すでに義経追放以後のシナリオが出来上がっていたとも考えられる。

院の命令を受けて平家の捕虜を護送している義経一行の前を、無神経にも下馬せずに通り抜けるという行為はやはり礼を欠いた行為である。吾妻鏡の頼朝 は、「奢り高ぶり」と避難するが、事の次第を丁寧に吟味すれば、まず礼を欠いた行為を行った能保側にあると思うのは私だけだろうか。このように考えてみる と、鎌倉方による義経包囲網は着々と敷かれていたことがわかるのである。

義経も馬鹿ではない。義経は何としても会って面と向かって話をすれば、誤解は解けると考えている。ところが頼朝は、まったく別のことを考えている。 武門の棟梁となり得るライバル義経を追い落とすことだ。頼朝は、戦の天才の実弟義経が、自分にとって代わる可能性を有した唯一の逸材であることを誰よりも 熟知し、かつ畏れている。既に義経の周辺で義経派というべき勢力が、院の周辺で自然に形成されつつあることも知っている。

この腰越状で、亡き父義朝を出した義経の心境は、漆黒の闇にも似た絶望に満ちたものであったに違いない。でも義経は怒りを抑え、兄頼朝の心が柔らか くなるのを心待ちにしているのである。
 

再会した折り、あの黄瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされ ると間もなく、既に父君はなく、母上に抱かれて、大和の山野をさまよい、それ以来、一日たりとも、安らかに過ごした日々はありませんでした。その当時、京 の都は戦乱が続き、身の危険もありましたので、数多の里を流れ歩き、里の民百姓にも世話になり、何とかこれまで生き長らえてきました。


義経は文を書きながら回想を始める。兄頼朝との黄瀬川の宿での対面した時のことだ。あの兄弟は間違いなく心通わせるふたりであった。物心がついた時、母と 共に一条長成邸にいた。幼き牛若は自分が反逆者となり一命を落とした源義朝の遺児とは思わずに暮らした。「生みおとされると間もなく、既に父君はなく、母 上に抱かれて、大和の山野をさまよい、それ以来、一日たりとも、安らかに過ごした日々はありませんでした。」という部分は、おそらく鞍馬山に入り、源家の 縁者から聞いて、愕然とした時の回想であろう。具体的に年齢を推測すれば11才前後のことになる。この段を書くにあたって、義経は黄瀬川で頼朝に話した時 のことが脳裏をよぎり、心通わせ、共に涙を流しあった頼朝の顔を思い浮かべながら、筆を進めているのである。つまり回想の中の回想ということになる。

次に「その当時京の都は・・・何とかこれまで生き長らえてきました」という段は重要な部分である。腰越状のこれまでの解釈は、この部分をもって「義 経という人間は、里の百姓の下で下働きなどをしながら何とか生きてきた」という苦労話の解釈に終始してきた。しかし私はこれに異議を唱えたい。
 

さて原文はこのようになっている。
雖存無甲斐之命許。京都之経廻難治之間。令流行諸国。隠身於在在所所。為栖辺士遠国。被服仕土民百姓等。

これを読み下せばこのようになる。
甲斐なき命の許(もと)に存りといへども、京都の経廻難治の間、諸国に流行せしめ、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖(すみか)となして、土民 百姓等に服仕せらる。

さらに直訳すればこのようになる。
甲斐なき命ではありましたが、京都の往来が困難であったので、諸国に流れ行き、身をその在所、その所ごとに隠し、辺土遠国を栖(すみか)とし て、地元の民人や様々な身分の人々に服しされてきました。
 

これまでの通説では、義経の前半生の苦労話全般として捉える解釈だったが、この段には、はっきりと時間の限定が可能だと思われる。すなわちこれは、義経が 平家による義経監視網が強化され、京都を自由に行き来できなくなった16才の時、京都の鞍馬を出て、金売吉次らの手配で奥州に辿り着くまでの時間経過と捉 えることができる。

もちろん「百姓」は、農夫の意味の「ひゃくしょう」ではなく「ひゃくせい」であり、これは単純に解釈すれば、様々な氏を持つ人民というほどの意味に なる。次に義経は、「土民百姓」という文言を、日常使用している慣用表現として言ったのか、それとも「土民」と「百姓」を区別して使ったのか、という疑問 が湧いてくる。私はズバリ、「土民」と「百姓」は、別のイメージで使ったと思っている。そのイメージで言えば、前者は数多の名もない土地の人々であり、後 者はそれぞれ氏も素性もはっきりしているような人物となる。現代風に言えば、後者は名刺交換をして、名前もしっかりと覚えているというほどの感じであろ う。

ともかく、義経が16才で京都を離れて、奥州に行くまでに出会った人間と言えば、ごく限られている。「平治物語」と「義経記」では、奥州までの経路 などが違うが、まず重要な人物で言えば、金売吉次や伊勢三郎、奥州の佐藤一族などであろうか。そうなると彼らは「百姓」ということになるであろうか。その 人間達に従来は、こき使われた。だから可哀相な人生を義経は送ってきたという解釈であった。とんでもない誤解である。

誤解の原因は、「被服仕土民百姓等」という箇所である。従来この部分を「土民や百姓らに服仕せられ」と読み下し、この「被」を他人に動作を強要され る「受身」の意味で捉えてきた。それでは意味が通じないのである。私はこれを読み下しは一緒であるが、「土民百姓らに服仕されて」と解釈するのである。義 経が、土地の者や行く先々でアルバイトのような農作業などをしたことなど考えられない。義経は平家の追っ手の目を避けながら奥州に向かったことは事実であ ろうが、そこには奥州藤原秀衡の支援があり、場合によっては、平治物語に記載されている通り、伊豆の頼朝の何らかの支援だって考えられるのである。

この部分の解釈については、保立道久東大史料編纂所教授も、「義経の登場」(NHKブックス2004年刊)の注の中で、次のように言っている。
 

「『土民百姓等に服仕せらる』という一説は、これまで『土民百姓にこき使われる生活を送ってきた』と解釈され、それが義経の放浪 のロマンという図式の重要な根拠となってきた。(中略)しかし武士が、自身のことを『土民百姓等にこき使われた』と自称することは常識的に考えてもありえ ない」(P144ー145)
また小学館の「平家物語」(市古貞次 校注、訳1994年刊)でも、市古氏は、注において、「土民百姓らの服従奉仕を受けた、土 民百姓らに服従し召し使われたの二様に解される」としながら、現代語訳では、「土民や百姓などに奉仕され養われた」と訳しておられる。


要するに、義経は、頼朝に向かって、「不幸な境遇に遭いながらも周囲の人々の暖かい献身的な支えによって、これまで何とか生きてきたのです」と語っている のである。
 

その時、兄君が旗揚げをなさったという心ときめく報に接し、矢も盾もたま らず馳せ参じたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手始めに木曽義仲を倒し、次ぎに平家を攻めたてました。その後は、ありとあらゆ る困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父君の御霊を鎮めました。私には父君の汚名を晴らす以外、いかなる望みもありませんでした。


ここで義経の気分は一変する。宿望だった平家打倒の光景を思い出したからだ。義経は頼朝の命令にしたがって上洛し、まず木曽義仲を倒し、次に平家一族を打 ち破る。筆を進める義経には、その光景がありありと見えている。義経の精神が明らかに昂揚しているのが分かる。ライフワークともいうべき平家打倒を果たし たその時が、義経の脳裏にありありと浮かんでいるようだ。
 

この部分の原文はこのようになっている。
然而幸慶忽純熟而為平家一族追討令上洛之。手合誅戮木曾義仲之後。為責傾平氏。或時峨峨巌石策駿馬。不顧為敵亡命。或時漫漫大海凌風波之難。不 痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之為甲冑於枕。為弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年来宿望之外無他事。

直訳すれば以下のようになる。
しかしながら幸いにも機はたちまちに熟し、平家一族追討のご命令をいただき上洛をいたしました。手始めに、木曽義仲を討伐し、その後、平家を征 伐するため、ある時は嶮しく聳える崖にいて愛馬を杖としたこともあります。また自らの命の危険もかえりみず、漫々たる大海の風波の中にこぎ出したこともあ りました。さらには身を海底に沈め、大鯨の餌となることも覚悟して戦いました。加えて甲冑を枕とし、弓箭(きゅうさ)を業とする本意は、(戦ではなく)た だ(父上)の亡魂の憤りを鎮め、年来の宿望を遂げようとしたのみで他意はありませんでした。


「峨峨巌石策駿馬」は、明らかに一ノ谷をイメージしている。愛馬の背に乗り、人馬一体となって、急峻な崖を転げるようにして下ったその時を彷彿とさせる。

「不顧為敵亡命。或時漫漫大海凌風波之難」は、大荒れの海を突いて屋島に向かった時の心境が語られていると思われる。

「不痛沈身於海底、懸骸於鯨鯢之鰓」(身を海底に沈め、骸(むくろ)鯨鯢(げいげい)の鰓(あぎと=えら)に懸くることを痛まず)は、古来より捕鯨 の盛んだった壇ノ浦周辺の海を意識し、壇ノ浦合戦の折、次々と平家の人々が身を海に沈めていった光景を義経自身が感慨をもって思い出しているのである。

「加之為甲冑於枕。為弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年来宿望之外無他事」という箇所の中の「加」は、「加えて申し上げれば」、という付け足しの 意味だと思われるが、この箇所は、以外に重要である。それは好戦的な人物と思われる義経であるが、私はこの部分に義経の戦争というものに対する考え方がに じみ出ているように思うからだ。またこの箇所から気分が変わって、現実の自らの理不尽な状況に置かれた境遇が彼に強烈なストレスを与えていることがわか る。まるで大波に揺られる木の葉のように定めなく揺れている。

義経は素直に、「私が命もかえりみずに甲冑と弓矢をとって戦った本意はただただ父の御霊を鎮めるためであって、戦が目的であったのでも、恩賞が欲し かった訳ではありません」と言っていることになる。義経は単なる戦争の申し子ではない。少なくても義経自身はそのように思っているのである。

私が法皇様より、五位の尉に任命されまし たのは、ひとり私だけではなく、兄君と源家の名誉を考えてのこと。私には野心など毛頭ございませんでした。にもかかわらず、このようにきついお叱りを受け るとは。これ以上、この義経の気持をどのようにお伝えしたなら、分かっていただけるのでしょうか。度々「神仏に誓って偽りを申しません」と、起請文を差し 上げましたが、いまだお許しのご返事はいただいてはおりません。


五位尉に補任の件にいよいよ話が移る。義経は、五位尉への補任は、希代の重職でありますから、わが源家の面目躍如と思い、源家の歴史に何事かを加えるもの かと思ってこれを受けました」と語る。院もまた義経と頼朝を仲違いさせようなどとの意向などない。前にも述べたが、頼朝が補任を受けた後でもあり、その昇 進もまた兄頼朝と義経には、明確な差を設けている。私は院の鎌倉への配慮さえ感じるのである。

そこで、もう一度この間の事実関係だけを確認しておけば、義経が一ノ谷において平家を打ち破ったのが、元暦元年(1184)2月7日。義経の京都入りが同 月9日。鎌倉への一ノ谷の勝利が伝わったのが15日。これを受け、頼朝は同月18日、義経に京都警護の命じている。さらに同月25日義経に畿内各地の軍事 統率権を与えている。要は義経の威光を最大限に利用して、都への平家の侵入を防ごうとした。頼朝は3月27日、鎌倉軍の最高司令官として、院より正四位下 を院より拝命している。それから5ヶ月後、院は義経に対し8月6日、鎌倉政権の意向を追認する形で、義経に検非違使左衛門尉」を任じている。さらにほぼ 一ヶ月後の9月18日、従五位下を賜っている。

やはり、義経の任官を許さない何らかの理由が鎌倉側にはあったと思われる。私はふたつを、その理由として上げようと思う。ひとつ目は、やはり頼朝の猜疑心 である。彼は流人として、幾度も命を取られる危険に遭遇した人物である。成人してからは、絶えず平家によって、いつ殺害されるかもしれないと思って暮らし てきたであろう。だから一際猜疑心が強いのは仕方のないことである。それに頼朝は、大河では「理の人」ということになっているが、歴史について詳しい。た とえば奥州での泰衡の処刑後の獄門のやり方にしても、陸奥話記で記載されている義家が安部貞任を獄門にかけたエピソードを正確に覚えていて、それと同じや り方を強要するような男である。

さらに義経に付き従う総勢100名ほどの精鋭部隊のことがある。この兵士の大部分は、奥州の騎馬軍団であると考えられる。とすると、義経の背後に、当時頼 朝の器量を凌ぐ藤原秀衡という大政治家が控えていることになる。だからなおさら、義経という人間を信用できないのである。更には、義経の器量を見て、院の 周辺や公家、西国の武者の間で、義経を新しい秩序をもたらす人物として御輿に担ごうとするものが急速に形成されつつあったことも猜疑心の強い頼朝にとって は、脅威と映っていたに違いない。

ふたつ目は、頼朝と御家人たちとの力関係である。これは鎌倉で大工への褒美の馬を義経に引かせたことでも分かるが、頼朝は現代の私たちが思っているほど、 盤石な権力者ではなかったのである。御家人と彼は東国の利害を最大限に守るということで主従の契約を交わしているようなもので、その結びつきは、極めて脆 弱である。だからこそ身内を厚遇することなどできないのである。すべては西国の御家人たちの利害が優先しなければ、彼自身が危ういのである。そこで頼朝 は、最高権力者というよりは、敏腕プロデューサーとしての能力を最大限に活用して、中原親能(1143ー1208)や大江広元(1148ー1208)のよ うな都の官僚をスカウトし、鎌倉政権のグランドデザインを描かせて、これを東国の御家人たちに示しながら、何とか武家の棟梁としての面目を保っているので ある。

大河では、北条政子が義経と頼朝を引き離す役割を演じていたが、義経と頼朝との不仲は、もっと構造的なものある。つまり義経が腰越に来る前から、頼朝とい うよりも、鎌倉政権としては、義経を鎌倉の御家人の利害を奪い、さらには奥州へ通じ、西国の武者の結集まで実現しかねない危険な人物として、排除の論理が 明確に出来上がっていたとみるべきである。その大きな証拠のひとつが義経の鎌倉に同行してきた一条能保の存在である。ここまで来ると、兄を信じたい義経 が、幾度起請文を書いて鎌倉に送ろうと、結果は同じであったことになる。腰越の地で血の涙をこぼしながら、兄に手紙を書いても、既に鎌倉政権の腹は決まっ ていたのである。
 

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もはや頼むところは、大江広元殿の御慈悲 に頼る以外はありません。どうか、情けをもって義経の胸のうちを、兄君にお伝えいただきたいと思います。もしも願いが叶い、疑いが晴れて許されることがあ れば、ご恩は一生忘れません。

今はただ長い不安が取り除かれ て、静かな気持を得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断をお願い申し上げます。

義経恐惶謹言

元暦二年五月 日 
左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿 」 


原文は次のようである。

所憑非于他。 偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之余慶於家門。永伝栄花於子孫。仍開年来之愁眉。得一期之安寧。不書尽 詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義経恐惶謹言。
元暦二年五月日 
左衛門少尉源義経 
進上 因幡前司殿


読み下せば、次のようになる。

たのむ所は他にあらず。ひとえに貴殿広大のご 慈悲を仰ぐ。便宜を伺い高聞を達せしめ。秘計を廻らされ。無誤の旨を優ぜられ。芳免によれば、積善の余慶を家門に及ぼす。永く栄花を子孫に伝え、よって年 来の愁眉をひらく。一期の安寧を得ぬ、詞に尽くし書かず。あわせて省略せしめ候おわりぬ。賢察を垂れられるを欲す。
義経 恐惶謹言
元暦二年五月 日 
左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿


直訳すれば、次のようになる。

もはや他に頼 む所はありません。ひたすら貴殿の広大無辺な慈悲心にお縋りするのみです。便宜をはかって、言い分を聞いてくださり、間に立って、誤りなき旨を代わって申 し述べてください。(その結果)放免となれば、善行を積んだ慶賀は貴殿の家門に及び、その栄花は末永く子々孫々に伝えられることでしょう。それによって、 私の年来の愁眉は開かれ、生涯の安寧を得ることでしょう。(これ以上)言葉に書き尽くさず、省略し終わりたいと思います。どうかご賢察のほどをお願い申し 上げます。義経 恐惶進言・・・


義経は大江広元に慈悲を求め、すがっているようである。何故、大江広元にこれほど期待を抱いているのか。ある意味では不思議である。それはまず、広元が公 文所別当としての実力者ということもあるが、義経が広元に対して、ある種、京都育ち同士ということで、親しみの情のようなものを感じてのことではないかと 感じるられる。またこの文章の起草者が、義経の右筆の中原信康が書いたとなれば、なおさらのことである。あるいは、腰越状という款状(かんじょう:嘆願書 のこと)を出すことについて、広元自らが不仲の兄弟の間に立って努力をしたとも決して考えられないことではない。

ところで、腰越状について、碩学の角田文衛氏(1913ー)は、このように言っている。

「腰越状には、・・・はなはだしい文飾と虚構が見られ、一事が万事真正な款状とは認められない。義経が腰越駅に滞在中、頼朝ないし大江広元宛に款状を提出 したことは否定されない。しかし現存の腰越状は、十三世紀の初め頃、判官贔屓の学者ー義経の祐筆を勧めた中原信康のようなーが鎌倉の幕営に提出された、ま たは差し出されたであろう款状に仮託して筆をとった可能性が高い。なお、腰越状の宛名には、『因幡前司殿』とあるが、それは『因幡守大江広元殿とあるべき であろう。彼は、寿永三年(1184)九月から文治元年(1185)一二月、まで因幡守に在任していたからである。」(腰越状 「歴史読本」第三十八巻第 十一号掲載 新人物往来社 1993)

因幡の守の「前司」ではなく「現職」であったというのは、以前から言われてきたことであるが重要な指摘である。ただこの事実誤認をもって、腰越状を偽文書 とすることも難しい。義経の心情を聞いた上で、義経の右筆である中原信康のような人物が書いたとしたら、かつては同族であった大江広元の肩書きを間違える ことは考えづらい。またこの文書に、大江広元が義経に憐憫の情を感じて、手を入れたとして、自分の地位を誤ることは考えづらい。もしもあるとすれば、鎌倉 の公文所別当という立場を考えて、「前司」と敢えて因幡守を辞しているように表現した可能性は残ると思われる。


以上、腰越状を丹念に読み進めてみたが、ここでもう一度問題点を整理してみる。

大雑把に言って、腰越状が発せられたことについては、事実であろう。しかし今、我々が思っているようなものであるかどうはかなり疑わしい。おそらくもっと 短くあっさりとした原腰越状が存在した可能性がある。では誰がその原腰越状を起草したのか。さらにその原文に筆を入れたのは誰なのか。さらに原本は、鎌倉 の大江広元が保管していたものと推測されているがるが、いったいどのような過程を経て、この書状が、吾妻鏡、平家物語、義経記へと収載されるに至ったの か。

収載順序は三つの流れが考えられる。

a.「吾妻鏡→平家物語→義経記」
b.「平家物語→吾妻鏡→義経記」
c.「吾妻鏡→義経記→平家物語」

平家物語(高野本)を読んでいて感じたことであるが、ある箇所に、義経の素直な感慨がにじみ出ているような箇所があるので現代語訳してみる。丁度、腰越状 の直前の段にあた箇所だ。

「『去年の正月 に木曽義仲を追討して以来、一ノ谷から壇ノ浦にいたる戦場において、命を捨てる覚悟で平家一門を攻め落とし、内侍所へ三種の神器の入った御箱を無事返上奉 り、大将軍の宗盛父子も生け捕りにして、連行して下ってきたにもかかわらず、たとえこの私にどんなにいぶかしい思いがあったとしても、一度も対面くださら ないとはどうしたことか。だいたい九州を鎮圧する総大将にも任命されるか、山陰、山陽、南海道のいずれの国でもお任せくださり、一方(西国)の固めをせ よ、との話があっても良さそうなものなのに、わずかに伊予の国一国を知行せよと、言われて、鎌倉へも入れにぬとは残念なことだ。これはいったい何事なの だ。(平家に支配された)日本国を今のように鎮めたのは義仲と義経のしたことではないのか。たとえ同じ父から生まれた子であっても、先に生まれた者を兄と して、後に生まれた者が弟ということか。私が天下を知らないので治められないとでもいうのか。それどころか今回は(兄弟として)会うことすらできずに、追 い返すように京に戻れということは、遺恨を持てと言っているようなものではないか。どうして謝ることなどできようか・・・』とつぶやくのだが、声に力が く、がっかりしておられた。
(現代語訳佐藤)


この後に、「まったく不忠なきよし、たびたび起請文をもって申されけれども、景時が讒言によって、鎌倉殿用ゐ給はねば、判官泣く泣く一通の状を書いて 広元のもとへつかはす。」という地の文が続いて、腰越状となるのである。

これは義経のつぶやきであり、愚痴である。しかもこれは本音であり、妙にリアリティがあるように感じられる。このような義経の本音を聞ける人間が居たとす れば、それはいつも義経の側にいる人間しか考えられない。平家物語に、義経の記述が多いのは、義経のことを常に筆記している右筆の中原信康のような人物が いたからだと言われている。

おそらく腰越状というものは、義経の心情を深く理解していた人間が、義経と頼朝の間を取り持つことを真剣に考えて書いたのであると思う。その人物は、腰越 状を書く時の義経が発したつぶやきのようなものも、日記の中に書き残していたのではないだろうか。つまり平家物語の作者は、義経の腰越での様子を筆記した 日記を引用し、腰越状の前に、和歌の詞書きのようにして、「義経のつぶやき部分」をそっと置いたということになる。

私はこの平家物語の巻第十一の「腰越」の段の義経の本音の「つぶやき」の挿入から、腰越状の取り込みは、義経の右筆中原信康の日記の記述をベースにして、 まず平家物語に取り込まれて、評判になったものが、「吾妻鏡」に収載され、次に義経記にも当然のごとく記載されたものと考えられているのである。そうなる と、腰越状の起草も必然のごとく、右筆の中原信康ということになるであろう。


10 【吾妻鏡と平家物語の腰越状の冒頭と末文の異同について】

腰越状について、吾妻鏡と平家物語を比較すると次のような異同が見られる。

1.吾妻鏡収載の腰越状には、自身の名の 前に「左衛門少尉」という官位を冒頭に持ってきていること。但し「平家物語」においては、官位を入れず、「源義経」とのみ記している。

2.吾妻鏡が「元暦二年六月 日」と、日にちを抜いているのに対して、平家物語では「元暦二年六月五日」と明 記していること。

3.吾妻鏡が「因幡前司殿」の「前司」と現職を前職と官位を間違えたこと。平家物語では、「因幡守殿へ」と誤 りなく表記している。


以上の三点を考えてみると、特に私には、吾妻鏡が「因幡前司」と大江広元の役職を間違えるという致命的なミスを犯して いることに大きな意味があるように感じられる。そもそも、この腰越状というものが、義経の心情を慮って中原信康のような右筆が撰文したとすれば、現役か 「前司」のチャックは、公式文書のイロハのイであり、誤記することなどあり得ないと思う。であるとすれば、吾妻鏡編集時点で、何らかの作為が働いて、手直 しを加えた可能性が浮上する。

同じことは、三点全体でもいえる。つまり、仮に平家物語に掲載された腰越状が、中原信康の所有する腰越状の写しあるいは日記のようなものをベースにして出 来上がったものであるとすれば、先の三点の異同は、吾妻鏡の編集時点で、やはり何らかの作為が働いて改変されたということができる。平家物語は、とくに義 経の記載が多いことについては知られているが、何も義経贔屓とは言えない。平家物語に義経の記録が多く散見されるのは、やはり義経の右筆の史料が、平家物 語の作者によって多く使用された結果であろう。

さてでは、この「何らかの作為」とは何か。
「吾妻鏡」は、「叙述の基調があくまでも北条氏執権政治擁護の立場の上におかれている」(石井進「鎌倉武士の実像」平凡社選書 1987年刊)ことは周知 の事実である。その成立に大江広元は、加わらなかったと言われるものの、政所別当であったこの人物の書庫に集まっていた様々な歴史史料が編纂者によって使 われ引用されたと思われている。その史料の中に「腰越状の原史料」も入っていたはずだ。

吾妻鏡の記載した冒頭の「左衛門少尉」、それから最後の「因幡前司殿」のミスを考えると、これは明らかに義経不利の表記である。

このことを考えるならば、吾妻鏡の表記には、義経の評判に対して、これを成敗した鎌倉方の意思が働いていると考えられるのではないだろうか。ある意味で は、編集者は北条氏という権力の役人な訳だから、民衆のヒーローとなっている源義経という人物の評判を表立っては批判するのではなく、歴史史料としての吾 妻鏡の一部に改ざんを加えた「腰越状」を、そっと掲載したのではないだろうか。

それに対し平家物語では、冒頭に、ただ「源義経」のみ筆記し、鎌倉の頼朝に気を遣った書き方をしている。また「因幡守」と大事な現職を前職とするような恥 ずかしいミスは犯していない。平家物語の作者が、義経を特に良く表記してやろうなどという意図ははじめから無い。だから別に腰越状を改ざんするような意思 が働くとは思われない。

とかく義経を批判する人間は、この吾妻鏡版「腰越状」の「左衛門少尉」という冒頭の表記をもって、「義経という男は、兄の気持などなにも分かっていなかっ たのだ。よって彼は政治的には無能である」というレッテルを貼ってきた。末文の「因幡前司」もやはりおかしい。この「因幡前司殿」という表記は、現在の総 理大臣に対し、「前総理大臣」との敬称を付けて、詫び状を出したに等しく、そのようなミスを右筆の中原信康のようなプロが犯すことは考えにくい。

以上のことを考え合わせ、さらに義経物語としての成立が平家物語→吾妻鏡→義経記という流れできたとすれば、平家物語と吾妻鏡の腰越状の異同の中に、北条 権力の編纂過程における作為の痕跡を視ることは容易であると思う。

つづく



2005.10.4-11,1 Hsato

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