聖バレンタインの生涯

聖バレンタイン殉教の日


 

今日は聖バレンタインデーだそうである。

しかしながらクリスマス同様、その意味を知っている日本人はほとんどいない。日本では、女性が男性にチョコレートなどをプレゼントして愛を告白する日となっているようだが、これはつい最近(広辞苑によれば昭和33年頃からだそうだ)作られた日本独特の風習である。それが最近では、すっかり慣習化して、「義理チョコ」などという妙な言葉まで、一人歩きをはじめている始末だ。世の中には、この貰う義理チョコの数で、自分の男としての価値を計る馬鹿な男もいるらしいが、日本人の愚かさと無宗教振りを映して余りある風俗と言うべきだろう。はっきり言って、”商業主義のチョコレート屋の陰謀にひっかかりあがって、何を仏教徒が!”と大笑いしたいところだが、そこはしっかり我慢して、少しこのバレンタインという人物について考えてみることにしよう。

聖バレンタイン(ローマ読み:バレンティヌス)は、紀元3世頃のキリスト教の司祭だった。もちろんその頃のローマでは、キリスト教徒は、新興宗教であり、幾多の迫害を受けてきた経緯がある。この頃は、日本で言えば、巫女さんである卑弥呼が、怪しげな呪術によって、国というよりも部族の長に収まって、これから各部族を集合して、国家を形成しようとしていた時代で、もちろん文字もなかったような頃だった。その頃既に、ローマは完璧な世界帝国だった。既にその頃ローマには、下水道も完備し、冷暖房のようなものもあった。広い舗装道路が、どこまでも伸び、巨大な円形劇場も何百年の前に建てられていた。その中にあって迫害の民ユダヤ人の大工の小せがれが広めたキリスト教は、その教義の新しさ故に、ローマ帝国の中にも確実にその信者を増やしつつあった。しかしそれはあくまでも異民族の唱える異教であり、幾多の迫害を受けながらの布教活動だった。

概ね宗教というものは迫害を受けながら、鍛えられる。その迫害によって滅ぶものもあれば、その迫害によって、その教義がいっそう磨かれることもある。キリスト教においては、殉教(じゅんきょう)という考え方があるが、そもそもキリスト教の最初の殉教者が、キリスト自身だった。彼は自分が殺されることを、弟子達に予告しながら、ゴルゴダの丘で磔(はりつけ)となって自らが唱えた教えに殉じて天国に召されたのである。

聖バレンタインもまさにそんな殉教者の一人だった。彼は3世紀の後半、ローマ帝国が、キリスト教そのものを受け入れない時代にキリスト教の博愛の精神を何とかローマ国内に広めるために奔走していた。彼はローマの兵士たちの間で結婚が認められないという現実を目の当たりにした時、その事に大いなる矛盾を感じた。そして若い兵士達の思いを入れて、密かに兵士達を結婚させた。しかしローマ法は絶対である。兵士の結婚は、違法であり、それを影で奨励し認めた聖バレンタインは、牢獄送りとなった。おそらくそこでローマ法に従うと一言言えば、おそらく大した罪にはならなかったろうが、そこは彼はキリストの忠実な弟子である。

当然の如くバレンタインは、ローマ法ではなく、自ら命と信ずるイエス・キリストの教えにしたがって、AC269年2月14日に処刑されてしまったのであった。以来キリスト教徒は、このバレンタイン司祭を聖人として讃え、恋人の守護神として祭り、聖バレンタインと呼ぶようになったのである。

この聖バレンタインの殉教は、ローマ帝国の民衆の心を掴み、更に信徒が拡大する先鞭となった。事実、彼が殉教してから44年後のAC313年、コンスタンチヌス大帝は、自らキリスト教徒となり、キリスト教を国教とするという宣言を発布したのであった。

だから諸君、この2月14日を、単なる愛を告白し、チョコレートを配る日としてではなく、「聖バレンタイン殉教の日」と覚えておくべきではないか。

 


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2000.2.14