平泉の歴史的景観を詠った歌の系譜

尾山篤二郎翁の平泉の歌を巡って


歌人にして「西行法師全集」の編集者である故尾山篤二郎翁は、かつて大正9年7月に芭蕉の奥の細道の跡を辿るべく陸奥への旅を敢行した。もちろん西行の研究者である翁にとって、平泉は特別な場所であることは当然である。元々芭蕉自身の奥の細道の旅そのものが、西行の旅を追憶する旅でもあった。尾山翁は、二人の先達の心の軌跡を探しての旅で在ったのであろう。

翁は、平泉に来て、かつて吉野山にも比肩するほどの桜の名所であった束稲山に足を運んで、次のような歌を詠んだ。

束稲の山の桜はむかしこそ人見けむかもいまは草山

この歌は、当然西行の「聞きもせずたはしね山の桜はな吉野の外にかかるべしとは」という名歌を意識していることは明らかである。ここでいう「人見けむ」の人とは、多くの桜を愛でる人一般を指しているというよりは、特に西行を指しているように思われる。したがってこれを解釈するならば、
”西行法師がその昔見て驚いたという束稲山の桜の花はいったい何処に消えてしまったのだろう。私がこうして見ている同じ山は、ただ茫々と夏草が生い茂っているばかりではないか”とすべきであろう。

また高館山に登った翁はこのように詠った。

みなもとの九郎の館に美草生ひ木立まばらにして蜩(ひぐらし)なけり

この歌はもちろん芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」を意識しながら、「みなもとの九郎」と義経公を特定することで、独特の味わいを醸し出している名歌である。翁が平泉に入ったのは、残暑厳しい八月の初めであった。日は西へ傾き、金鶏山の辺りが黄金に輝いていたことであろう。夏草が生い茂り葛の葉が義経堂のすぐ近くまで迫っていたはずだ。その前を滔々と北上川が流れていく。翁は芭蕉が、刹那の中に感じた永遠なるものを追体験し、鳥肌が立っていたに違いない。

それは「歌人よ。吾が歌を詠え。吾が思いを三十一文字の中に刻み込め」そんな義経公の声が、聞こえてくる瞬間でもあった。するとどこからともなくヒグラシの鳴く声が切なく響いてきたのである。芭蕉の歌に「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」という句があるが、翁は亡者である義経公の声をヒグラシの声の中に聞いたのではあるまいか。

この歌の中で、亡者である義経公とまさに生き生きと生い茂っている「美草」を媒介するものとして蝉の声がある。風景の中で聞こえてくる音というものは、いわば自然が奏でる音楽のようなものだ。この歌には言葉としては盛られていないが、おそらく北上川のせせらぎの音と夏の風の音が暗に含ませていたことであろう。そうすると歌人がこの歌を詠んだ時の生気に満ち溢れた夏の高館の情景が、沸々と浮かび上がってくるのである。美草としたのは、この雑草がただの雑草ではないぞ、という高館の景観に対する並々ならぬ思いを表している。

その後に翁は、衣川の関に向かった。衣川の関は、古の歌人が、そのイメージを拡げるために歌枕として好んだ景勝の地である。そこで翁はこのように詠った。

衣川関あととめてわがくればただに靡(なび)けり黄昏の草

衣川の関と言っても、そこには関が在るわけではない。ただこの辺りに関所があって、蝦夷の国と大和の国を分ける分岐点があったのではという口承があり、立て札が立っているだけである。しかし歌人のというものは、その何もない風景の中に、かつてそこに蝦夷と大和の軍が対峙していた気配のようなものを感じ、歌が自然に湧き出すのである。

黄昏時に長く伸びた夏草が、夕陽を浴びてゆらゆらと揺れている様を想像していただきたい。この場所に対峙し、蝦夷の血を引く安倍氏と源頼義、義家親子は実に三十八年もの長きに渡って戦争をしたのである。その結果多くの血が流れた。平泉に行って、誰もが感じる切なく人の心に迫ってくるような景色は、実は多くの生者が命を賭して戦いそして亡者になった哀感のようなものが、景観として塗り込められたいることによるものである。

この戦によって傷ついた奥州を何とか、しようとした者が登場する。その人物こそが、平泉に都を移した藤原清衡公その人である。この人物は、自らを蝦夷の血を引く者という事実を隠さず、戦によって傷ついた人と奥州そのものを仏教の大乗精神をもって極楽浄土しようという高邁な精神をもって平泉の都を建設しようとしたのである。

清衡公が「中尊寺供養願文」の中に、彼のすべて平泉という都市建設の思いが込められている。

「・・・(前略)吉土を占いては、堂塔を建て、眞(真)金を冶しては、佛経を顯(顕)わす。 経蔵・鐘樓・大門・大垣、高きに依りては築山し、窪に就いては池を穿つ。龍虎は宜しきに協(かな)い、即ちこれ四神具足の地なり。蛮夷は善に歸(帰)し、豈(あに)、諸佛、摩頂の場に非ずや。又萬燈曾(まんどうえ)を設して、十方尊を供(とも)す。薫修は、遍えに法界に定まり、素意は、成して悉地(しつち)を盍(おお)う。」(奥州デジタル文庫所収

この中で清衡公は、平泉の都市建設におけるグランドデザインを説明している。つまり平泉は占いによって決めた吉土である。そして自然の景観をそのまま生かして、高い山には高いまま、窪地には、水を引き入れて池とし、風水の思想から竜がいつでも水が飲めるような寺社の配置にする。このようにすれば、この地上そのものが浄土となり、争いごとも地上からことごとく消えてしまうのではないか、というような趣旨のことを云っている。

中尊寺は、いわば平和の都市平泉の根本中堂として考えられた寺であった。その中でも金色堂は、中尊寺そのものの象徴である。

尾山翁は、金色堂でこのように詠った。

五月雨のなかをとひ来てそのかみの人もわがごと心すみけむ

この歌は、芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」を受けて詠まれている。もちろん翁は五月雨の中ではなく、八月に来たのだから、情景の歌ではなく、金色堂に来た時の翁の心象風景を詠った歌である。奥の細道を辿った芭蕉の心をなぞりながら、翁はそろそろと光堂の中に入った。すると時空がまったく変化して、不思議に心が澄んで行くのを翁は感じたのである。「このように芭蕉さんも心が清浄な光りが射してきたのであろうか」

尾山翁が訪れた平泉の印象が今、消え去ろうとしている。都市の近代化は、必ずしも清衡公の供養願文が規定している都市建設のグランドデザインと合致しているものではない。そこが問題なのだ。永遠に朽ちぬ浄土を建設しようとした都市には、耐用年数が百年にも満たないようなちゃちなコンクリートの構築物ではいかにも相応しくないのである。佐藤


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2001.4.12