歌を思考する


1 歌と実感

少し大げさになるが、日本人というものが古くから、敬神を歌い又己の心を伝える手段として用いてきた和歌というものを少しばかり考えてみよう。

兎角日本人は、何かというと道という言葉が好み、歌の道、茶の道、能の道、と何でも道を作りたがる傾向がある。歌の道について考えれば、そもそも先人が詠んだ無数の歌を「何々集」等としてまとめて、それがひとつの道の役目を担ってきたことになる。

一般にどんな単純明快なことでも、文章の巧みな人が、それなりの論理構成力をもって、ひとつの文章に残すと、なるほど、と唸ってしまう傾向にある。歌の場合も同じで、耳障りの良い文言の並びに長けた人が、流れるようなリズムと音韻をもって歌を詠むと、その人はすぐに結社などを作ってたちまち一団を形成し、一家言を持つようになる。

しかし本当に優れた歌というものは、そうあるものでもないし、「折々の歌」(大岡信の選朝日新聞に連載中)に取り上げられている歌でも、何でこんな歌をという歌が選歌されている場合がある。

思うに歌で大切なことは、自分の感受性とか感性というもので、それが誰にも真似の出来ぬ自分なりの個性あるものであれば、その実感を言の葉に代えて、卵からやがて鄙鳥が孵(かえ)るようにその人の歌は、自ずと誕生するはずである。

このように歌は、個々の人間の心の中に潜んでいる歌の種(あるいは卵子)のようなものが、外界からの刺激を受けて、受精し、命を得て、短い推敲の間を経て、作品として生まれてくるものなのである。だから概ね名歌として今日の世に遺っていくような歌も、言葉を捻って作るようなものではなく、自然に生まれてくる類のものが多いように思われる。

確か藤原定家(1162-1241)は、歌について、「心と詞(言葉)」が「鳥の両方の翼のようだ」と表現していたように思うが、心に湧いた実感が、素直な形で、詞となって結晶した時に、心に残るような歌というようなものは生まれてくるのであろう。ここで名歌の条件のようなものを考えてみれば、歌という鳥の両翼としての「心」と「言葉」がどちらも勝ちすぎず程よくバランスが取れ、瑞々しい感性が今誕生したかのように感じられるような歌ということができるかもしれない。もちろんその場合、言葉としては、万葉の時代の古い言い回しでであっても、歌に込められている感性が瑞々(みずみず)しければ、歌の端々(はしはし)からその実感は伝わってくるものである。

そう考えると、歌は、まさに人の心から生まれた生き物のようなものである。だからこそ、人の心を打ち、天土をも動かす力がある、と先人たちも表現してきたのであろう。これはひとつのエピソードであるが、昔時、自分が詠んだ歌が、盗作をされ、勅撰集に収載されたのであるが、そのことで思い悩んだその作者は、死んだ後に、盗作をした人物の枕辺に立って、「私の歌を返せ」と迫ったのだそうである。もちろん盗作したものは、びっくりして、一度選ばれた勅撰集からもその歌は抜かれたそうである。

もちろん歌は、先のエピソードのようにおどろおどろしいものではなく、一般的な表現で言えば「その気持ちよく分かるねー」とか「きっと、悲しかったんだろうねー」」と言った、その作者の実感を共有しうる実に楽しい芸術だ。

歌は誰でも作れるが、名歌はそう簡単には誕生しない、と言う人がいる。その通りであろう。別に名歌を作ろうとして名歌が誕生するのではない。その人物の実感を込めた歌の感性と詞の選び方、リズム、思想、そうした諸々の要素が渾然一体となって、世に名歌として遺るような歌も生まれてくるのである。

平安中期の歌人の能因法師(988-没年不祥?)の奥州を訪ねた時の歌にこのような歌がある。

 都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関(後拾遺和歌集)
(訳:京の都を旅立ったのが、霞み棚引く春であったのに、白河の関に来てみればもう秋風が吹いているではないか・・・)

極めてシンプルな歌ではあるが、「白河の関」という歌枕の醸し出す叙情性もあって、いつの間にか名歌にされ今日に至っている。この歌を題材にした岡本綺堂(おかもときどう):1872-1939)の戯曲がある。この中では、この歌は、実は都で詠まれていたという設定になっている。でも、能因としては、それが口惜しいのである。せっかく良い歌ができたのに、これだけの歌が、実は都で出来たものと知れては、「無念である」というわけだ。そこで、奥州の旅に出たことにして、都の自室にこもり、旅ですっかり黒くなったように日焼けの細工をしている所を他人に見つかるという実にコミカルな劇なのである。元々能因にまつわるこの話は、昔から口承されていたらしく、教訓的な説話を集めた「十訓抄」(1250年前後に成立か?)にも記載されている。きっと作者の岡本は、歌というものの本質論に分け入りたかったのかもしれない。

私は奥州の歌枕の数々を都の歌人たちに紹介した能因法師が、先の作品を都に居て作ったとは間違ってもあり得ない事と思っているが、歌というものの本質である感性とか実感をというものを考える時には、実に面白いエピソードであると思う。

というのは、少なくても能因以後の歌詠みの傾向をみれば、能因のような旅の歌人が収拾してきた歌枕という便利なもの(ツール?)を使いながら、都にいる貴族の連中は、先の能因法師の虚言の歌のように、都にじっといて、あたかも歌枕の土地に行ったかのような、あるいはその歌枕が醸し出す囲気を細工として使いながら、書斎で歌を詠んで、歌の優劣などを「歌合わせ」と称して競っていたのである。このような歌の詠み方そのものを、岡本綺堂は皮肉りたかったのではなかっただろうか。「所詮、歌詠みと言ったところで、皆、逸話の能因の如き存在ではないのか?!」と。もちろん中にも優れた歌人もいる。しかし古代から中世に至る時代の歌の多くは、やはり貴族を主流とした雅な言葉遊びの傾向が強かったことは否定できないであろう。

私は、その点で、今日、歌の家、冷泉家の中で連綿として受け継がれている藤原俊成(1114--1204)やその子、藤原定家(1162-1241)の歌も、歌を詠む技法や細工の仕方音韻の醸すリズム感には長けていたとしても、能因や西行のような苦しい旅の実感や想像を絶するほどの美しい景色との出会いや深い人生の陰翳を、歌に詠む込むという点では、遙かに及ばないものがあると思う。

西行は、鎌倉にある時、頼朝に歌のことを聞かれ、
「詠歌者。対花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。」(吾妻鏡)とだけ答えたと言う。簡略すれば、「歌の道については、奥義などというものはまったくありません。ただただ花や月を見ては心に感ずるままに三十一にまとめて書き連ねるだけのことですよ。人にお教えするほどのものは何もありません」ということになる。これこそが西行の歌に対する考え方であり、何も頼朝にもったいをつけて教えないのではない。

私は一家一流を残さない能因を歌の道の先達として西行が慕い、同じく旅に明け暮れ、旅を志して歌を詠み、亡くなった心意気にこそ、歌というものの本質があり、そのことを五百年後に直感により理解して、やはり一家をなすことをせず、旅に殉ずる形で亡くなった俳諧の松尾芭蕉という人物がいると思うのである。

つづく

 


2002.6.5
 

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