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吉田兼好のウソあしらい

−徒然草が古典となった訳?−


徒然草の第73段で、吉田兼好がこんなことを云っている。
「世に語り傳ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。」
意味とすれば「世の中に伝わっている話は、真実では、余り面白味がないので、その多くはみんな脚色されたウソ話ばっかりだ」というほどのことになるだろう。これは確かに卓見だ。

大体人間というものは、少し時が過ぎると、歴史だろうが、自分の若かりし頃であろうが、自分に都合良く、脚色をして話してしまうものだ。当然それを話される側は、つい面白いものだから、その話(虚言)を、簡単に本当と受け止めて話してしまう。たとえウソでも、人の口を伝い、他人様の耳から耳へと入ってしまうと、面白いことに、誰かがそれを筆記したりすると、それが事実として定まってしまうということになる。

まあ、物事をじっくり見る人にとっては、大概のウソは、どうも可笑しい、きっとウソに違いないと見抜けるものだ。ところが、辻褄を良く合わせた本当のように見えるウソは、実にタチが悪い。妙なリアリティを付けられるとついついウソを本当と信じてしまったりする。要するに兼好は、ウソらしいウソは分かるが、本当らしく脚色したウソは始末が悪いと云っているのである。ともかくいつの世も、兼好の云う通りに、ウソがウソらしくあればいいが、本当らしく脚色されたウソも多い。

さて最後に兼好は、神仏に関する奇跡の話や、英雄や権力者の武勇伝のようなものは、そんなに目くじら立てて「よもあらじ(そんなことはない)」と口からツバを飛ばして、ハナから否定することもなかろう、と言っている。まあ軽くあしらって、「ひとえに信ぜず、また疑いしゃべるべからず」と軽妙に結んでいる。なるほど、吉田兼好という人物は、ウソをニヤリと笑って、あしらうあたりが、さすがに一流の人間だ、ということが分かるのである。こんな所に兼好の書いた著作「徒然草」が古典となった秘密があるのかもしれない。佐藤

 吉田兼好の軽妙洒脱な処世術に一首

「なるほど」と人の虚言もほどほどにニヤリとかわす智慧者兼好
 

 

 


2001.9.18

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