義経公の位牌を守ってきた

雲際寺火災で焼失

 

 衣川に雲際寺という慈覚大師が開創した古刹があります。

実はこの寺が、昨日6日の午前11時過ぎの真っ昼間、火災に遭って焼失してしまいました。共同通信の報道によれば、「同寺の本堂と位牌堂、住宅部分の計約900平方メートルを全焼、けが人はなかった。」とのことです。

この寺には、源義経にまつわる伝説があります。そしてこの寺には、源義経と北の方の位牌、それと義経の守護仏とされる運慶作と伝えられる不動明王像が存在しました。原因は今のところ調査中ですが、大変なことが起きてしまいました。



源義経を弔う寺 雲際寺消失す
(04年8月13日佐藤弘弥撮影)

雲際寺は、義経を平泉に安全に送り届けた三人の僧侶がいて、その中に民部卿「頼然」という高僧がおりました。おそらく後白河法皇かあるいはその周辺の人物が、義経の身の安全を考えて、付けたものと思います。

したがって、頼朝が当時どの程度の力を全国の関所において、持っていたかは不明ですが、今日能の「安宅」や「勧進帳」に表現されるように大変な苦労をして、逃亡してきたというよりは、もう少し楽な形で、平泉の勢力圏に入ったことが考えられます。

実は平泉に義経が来た後、この寺が荒廃していたのですが、義経は乳母の菩提を弔うためのに北の方を檀那として、この寺を新たに興しました。その上で、頼然に雲際寺の住職になることを懇請しました。

義経が殺害された衣川館は、中尊寺の本殿の直下に近い衣川の対岸に位置する接待館との説が有力になって来ています。義経は聖地平泉ではなく、対岸の衣川地区で殺害され、その後、ここから三キロ以上離れている衣川の張山にあるこの地に運ばれたものと考えられます。現在残っている位牌は、何とも云えませんが、現在の寺が創建された江戸期に判官贔屓の余勢をかって作られ奉納されたと思われます。

そこにはこのように刻まれています。

捐館 通山源公大居士神儀 文治五年閏四月廿八日源之義経

これと同じ銘の入った位牌が、栗原市金成の金売吉次邸跡とされる東館「金田八幡神社」にも存在します。同じ義経の慰霊を発願した人物が義経ゆかりのところに奉納したものと考えられます。

不思議なのは、義経の命日は通常、30日なのに、28日となっていることです。
地元で義経研究を続ける著名な郷土史家菅原次男氏によれば、これは閏年で30日だと4年に一回しか、弔うことができないので、28日になったのではと推測されています。

ともかく、ここから義経北行説が出て、28日に義経は平泉を脱出したとの説が出されました。そして壮大な義経ロマンが生まれました。

ところで「判官贔屓」という言葉は、江戸期に創成された言葉で、初出は、「毛吹草」(けぶきぐさ:松江重頼著 岩波文庫 新村出校閲 竹内若校訂 黄200-1)という俳諧の書物の中にありました。巻第五「春」の部の「花」の項です。つまり、判官贔屓は、俳諧という言葉遊びから生まれたということも言えるのです。

毛吹草の中に、
世や花に判官贔屓春の風
という詠人不詳の句が載っています。


寺の前に掛かっ ていた雲中菩薩の彫刻
 (04年8月13日佐藤弘弥撮影)

まあ、この判官贔屓は、能や歌舞伎などの義経物の芸能を好むマニアを言う言葉で今ならば、「野茂マニア」と同じような言葉だったと推測されます。

また位牌ですが、義経の首塚があったとされる神奈川県の藤沢市の白旗神社(祭神源義経)の別当寺だった荘厳寺にも、天保三年(1832年)の銘が入った義経の位牌(銘は「白旗大明神 神儀」)が安置されています。まさに江戸期は判官ブームだったようです。

今後、衣川の雲際寺の復興を祈らずにはいられません。


2008.8.7 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ