ターナーの絵はどこに

 
 

暗い夜道をとぼとぼと歩いていると、いつもの古本屋が14,5m先に見えてきた。そこまではいつもの日常だった。ところがそこで我と我が目を疑うことが起きた。何とその軒先に横長の絵が立てかけてある。それもターナーの絵ではないか。いったいどうしたんだ?

その古本屋は、いつも無人で、本棚を道端に向けて、良かったら勝手に本を取り、木の貯金箱のようなものにコインを入れる仕組みになっている。私は朝方、まぶしい太陽の光をまともに受けて日焼けをしているこの本屋の本を一度も買ったことがない。こんなに本を邪険にする主人の気持ちが分からない。だから一度も立ち止まった事がない。そんな本屋の前に、ターナーの絵が何故置いてあるのか。実に奇妙だ。目を凝らして近づく・・・。

ターナーのあのぼかしたような色使いそのもの・・・空が白っぽく見え、下側が暗い印象を受ける。いよいよ持って近づく。もしかすると、奴隷船の難破を描いた「奴隷船(The Slave Ship)あの絵か?これは私の大好きな絵のひとつだ。まさか、こんなところにあるはずがない。複製か。それともポスターを額創したものか、ともかく初めてこの本屋の前で、初めて立ち止まることにした。
ターナー作 奴隷船(1840)
すると、どうだ、私が絵と思っていたものは、実は本屋の本棚をシャットアウトするための羽目板に過ぎなかった。素材はベニヤ板、海と思って黒っぽく見えたものは、そのベニヤの板の上の部分が剥がれて、そのような模様に見えたに過ぎなかった。

丁度暗がりで、ロープを蛇と見間違えたようなものだ。考えて見れば、大事な本を日焼けさせて何とも思わないような主人がこともあろうにターナーの絵など飾る美意識など持ち合わせて居るはずはない。

この目の錯覚と大いなる誤解をしみじみ考えてみた。我々は価値の無いものが余りにも多すぎるので、価値有るものとして見てみたいという観念を持っているのかもしれない。よく見れば、薄汚いただのベニヤ板が、印象派の先駆と言われるウィリアム・ターナー(1775-1851)の絵に見えてしまうこともあるという訳か。

無価値なものを価値あるものとして見る錯覚の一例として、様々な胡散臭い新興宗教を上げない訳にはいかない。今日「法の華」なる新興宗教の教祖が捕まったらしいが、その教義は極めてずさんで、何でこんなので、ひっかかる人がいるのか、と思うぐらいのひどいものだ。でもそんなものでも価値を見いだして、はまり込む人も多いのだ。皮肉な言い方を許していただけるならば、この世には騙されたい人が五万といるのである。

人も絵も、光を当て、目を凝らして、よくその本質を見た上での判断をしないと妙なことになる。そう易々とターナーの絵が、街頭に転がっている訳はないのだから…。佐藤
 


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2000.5.9