62回 目の原爆の日に読む
峠三吉の原爆詩



また今年も広島が原子爆弾の劫火に焼かれた8月6日が廻ってきた。戦後生まれの私たちは、実際にその惨劇がどのようなものだったのか、想像力をもって知っ ていくしかない。

その時、峠三吉(とうげみつよし:1917−1953)の原爆詩が圧倒的な迫力をもって、私たちの胸に迫ってくる。

中でも女優吉永小百合さんの朗読によって有名な「人間をかえせ」(原爆詩集の序として発表された詩)は、近年英訳(「Give Back Human」) され、世界的にも知られるようになった。


ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ


この詩を読む時、誰に向かって、「ちち」や「はは」を返せと言っているのか。原爆を投下したアメリカに向かってだろうか。

 の詩が作者の浮かんだ時には、もしかするとアメリカ憎しの気持があったかもしれないが、作者は推敲するうちに、もっと大きな人間の心の奥底にある「悪 心」というものに向けて、言葉という矢を放ったのではあるまいか。私たち人間の心には、戦争を起こし、殺戮を正当化し、敵と定めたものを暴力で排除する怖 ろしい悪魔のごとき意識が眠っている。

峠三吉は、昭和20年(1945)8月6日、爆心地から三キロ離れた翠町で被爆した。辛うじて命を取り留めた彼は、国立広島療養所で、原爆の傷に苦しみ ながらも、昭和26年(1951)11月、アメリカ大統領トルーマンが、朝鮮戦争においても原爆を使用することを検討しているというニュースを聞き、矢も 立てもたまらずに、「八月六日」と題された詩を書き始めた。


あの閃光がわすれえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿(のうしょう)を踏み
焼け焦げた布を腰にまとって泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれて筏へ這いより折り重なった河岸の群も
灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光の中に
下敷きのまま生きた母や弟の町のあたりも
焼けうつり
兵器廠(へいきしょう)の床の糞尿のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分からぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭のよどんだなかで金ダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
あのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!


この詩を書き終え、何かに憑かれたようにわずか三ケ月ばかりのの間に、彼は48篇の詩を一気呵成に書き上げてしまった。

峠三吉の妻和子夫人の手記によれば、彼は原爆の真実を押さえ込もうとする勢力の圧力を感じつつも、療養所の守衛の目を盗んで「窓ガラスに歯ミガキ粉を溶い てぬり、夜は新聞紙などをピンで止め」て夜中まで書き続けたということである。

何とも凄まじい執念だが、おそらくどうしても書き記して置かねばならないという強い信念が、彼の創作心を支えていたのだろう。あるいは無念の思いを持って 旅立った広島市民の存念が、彼のペンを走らす原動力となったとも考えられる。

そのような思いをして書き上げられた峠三吉の原爆詩のメッセージは、人間の良心を拠り所として、人間が人間を殺戮する戦争という愚かしい行為に対する絶対 的な否定の精神だった。もっと言えば、それは「非戦への誓い」であり、「平和への祈り」そのものだった。

峠の原爆詩は、昭和26年(1951)、「原爆詩集」として、孔版刷りされ「ベルリン世界青年平和祭」に、日本代表作品の一つとして送付された。彼の詩 は、大反響を呼び起こし、平和を願う人々の6億の署名を集める原動力ともなった。

この詩集のあとがきで峠はこのように短い言葉を記している。

 「私はうす暗い広島療養所の一室でこの稿をまとめた。(中略)おそら く此の機会を外したならこの詩集は日のめをみることが出来なくなるであろう‥‥然し ともかくこれは私の、いや広島の私たちから全世界の人々、人々の中にどんな場合にでもひそやかにまばたいている生得の瞳への、人間としてふとしたとき自他 への思いやりとしてさしのべられざるを得ぬ優しい手の中へのせい一ぱい(精一杯:佐藤注)の贈り物である。どうか此の心を受取って頂きたい

それからわずか二年後、昭和28年(1953)3月10日、峠三吉は、持病の気管支拡張症と被爆の後遺症に苦しみながら、国立広島療養所で36歳という 若さで帰らぬ人となったのである。峠三吉の詩は、広島で罪もなく亡くなった人々の平和への無念の思いの表出とも言えるものだ。私たちは今日、それを「広島 の心」と呼ぶ。

◇ ◇ ◇

私たち日本人は、62回目の原爆記念日に当たり、峠三吉の原爆詩の放つ想像力を借りて、「広島で起こった事の深層」を読み解き、教訓としなければならな い。

広島で炸裂した原子爆弾は、一瞬にして14万とも言われる市民の命を奪い、これまでに20万人以上の人々が、長い間、原爆の後遺症に苦しみながら亡くなっ ている。そしてまた被爆後62年目に当たる今日でも、今だ原爆の後遺症に苦しむ人々がいる。

私たち日本人は、原子爆弾の現実を世界に伝え、世界を覆う戦争への脅威を取り払うために、精一杯の努力をしなけらばならない。峠三吉の”Give Back Human”(「人間をかえせ」)を合言葉に!!


<参考文献>
「原爆と峠三吉の詩」(原爆雲の下より すべての声は訴える/編集下関原爆展事務局/取扱長周新聞社)

2007.08.06 佐藤弘弥

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