兼好の智慧


友人K氏から聞いた話だ。彼の同窓生にS氏という人物がいる。子供の頃から成績優秀で、スポーツマン、快活な性格で行動的、誰からも好かれる好人物と評判の人である。慶大を卒業後、誰もが知る大企業(D社)に就職し、みるみるうちに出世して、青年重役となった。

周囲では、10年後、社長になるのは、彼しか居ないという程のやり手振りであった。美しい奥さんとの間には、一男一女がいて、まさに絵に描いたようなエリートビジネスマンそのものだった。そんなエリートのS氏だったが、同窓会で酒を呑むと、決まって彼の口からは、こんな言葉が発せられたという。「俺はね。やりたいことが一杯あってね。あれも、これも、みんなやりたい。人生は短い。だから早く退職して、その道に進みたいね。」そんな言葉を周囲は本気にしなかった。きっと彼一流の謙遜かあるいは同窓生たちに対する気遣いのようなものだろうと思っていた。何しろ、S氏はに誰もが知っているあの「D社」の社長の椅子が待っている。そんな華々しいな出世コースを棒にふってまで、やりたいことなどあるはずがないと思えた。

”きっと天は、二物も三物も与えるようなこともあるのだ。”K氏はそんなことを思った。しかし突如として、S氏に不幸が舞い込む。端も羨むように仲の良かった奥さんが、当然、癌で倒れて、その僅か数ヶ月後には他界してしまったのだ。S氏の憔悴振りはひどかった。これまで何かにつけて快活で落ち込む者がいる時には、真っ先に励ます人物。それがS氏のイメージだったのに。

K氏はこんなことを思った。”やはり男というものは、カミサンに先立たれると弱い者だな。あのSにしてからがそうなのだから・・・。”慰めの言葉も掛けることもためらわれ、K氏が黙っていると、S氏が自分からこんなことをぼそぼそと語り出した。
「ありがとう。来てくれてありがとう。正直、残念だ。ほんとに残念だ。このカミサンに、結婚前には、一杯二人で旅行しよう。こんなことをしようと、約束したのに、結局、それを叶えて上げれなかった。ビジネスに明け暮れ、家庭のことはO子に任せきりで、何もして上げれなかった。それを枕元で云ったら、『何を云ってるの』と笑い上がった。自分が死にそうなのに俺を気遣ってそう言ったんだ。俺の罪は重いよ。」そして気丈なS氏は男泣きに泣いた。

奥さんの亡くなって一年も経たないうちに今度は、S氏本人が入院した。きっと心身の疲労が蓄積したのだろうと、周囲は考えた。無理もない。S氏は、葬儀から始まってその後の一切を誰にも任せず自分で取り仕切って最愛の人を送った。何もして上げれなかったという呵責の念が後悔となってS氏を襲った。いったい自分の人生は何だったのか。そう思ったのであろう。入院したS氏を見舞うと、急に元気な表情をつくって、「K君、俺はね。前から云っているように、やりたいことが沢山ある。早く退職したい」と語った。

その時、初めてK氏は、ずっと昔から語っていたS氏の言葉が、本心から発せられていたことを知った。一生を貫く仕事に出会うことは、福沢諭吉の云う如く、確かに幸せなことだ。きっとD社のためにもS氏という優秀なビジネスマンを得たことは意味のあることだったと思う。しかし一生を貫く仕事と一口に言っても難しいものがある。特に大企業に入社した場合は、歯車のひとつに徹しなければならぬことも多い。それをもって一生の仕事というのはどうか、という問題もある。芸術家が描く絵画であれば、どこまで行っても、作品は作者のものであり、その署名は永遠に残る。ところが大企業の場合は、よっぽど大きな功績や大転換を指揮したトップならともかく名が残ることなどまずない。やっぱりただの歯車に過ぎない。出世街道をひた走っていたS氏の場合はどうだったのか。

「人生一寸先は闇」という言葉がある。たとえ誰であっても人生の明日は分からない。S氏の人生を見るにつけ、人生のこの急展開をどのように考えればいいのか。入院した彼の体内では癌細胞が増殖し、それが急速に彼の生命を蝕んでいた。それから僅か二ヶ月。奥さんに先立たれて一年余りでエリートビジネスマンS氏は急死した。海外を忙しく飛び廻り、D社の次期社長と噂された人物は露と消えたのだ。最期を看取ったのは、大学を卒業したてのお嬢さんだった。長兄は外資系企業に就職し海外にいた。そこで彼女に家長の役割がまわってきた。それでも彼女は、気丈にお通夜から葬式までの一切を滞りなくこなした。その楚々とした健気な表情が、周囲の涙を誘った。人の運命は、まったくもって分からない。S氏の「やりたいこと」とは、いったい何だったのか。結局、そのことは誰にも明かさなかったようだ。こうしてS氏は、見送る者に永遠のナゾを遺したまま、あの世に旅立ったのである。

いったいS氏の人生とは何だったのだろう。S氏の人生を知るにつけ、兼好法師が、徒然草第七段に書いた次の文章が頭に浮かんできた。
「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。」

達観である。世はさだめが無いからいい。無常であるからこそすばらしい。そんなことは言葉では分かってはいても、ぬけぬけと人に云えるものではない。第七段には、どこか禅の悟りの如き実感ある。確かに病の激痛やざわざわとざわめく心の有り様から解放される死というものは、ある種の解放であり、安らぎの時であり、救いであるかもしれない。

きっと吉田兼好という人間にとって、人間が焼かれる火葬場の鳥辺山から立ち上る煙りを見た瞬間、このように悟ったのであろうか。
「お主もよく頑張られて、逝かれましたなぁ」と。
それは一種死者に対する畏敬の念ではなかったか。結局、弔辞を述べた人もいつかは誰かに弔辞で送られる運命にある。徒然草という作品が、今日古典として我々生者の胸を打つのはこうした作者吉田兼好というさして才能あるとも思えない人物が、深い境地に到達し、それを軽妙な文章にのせて書き残したからだと思うのだが、どうであろう・・・。佐藤
 

兼好の第七段を読みながら死の意味問ふも智慧身に付かず 
兼好が鳥辺山の煙りと表したる死者への畏敬悟りに似たり 
何ひとつ留まる人とてなきものを何執着す生者の我は 
死ぬことを悲しきことと始めから思うていぬか凡夫の我はや 
感傷に浸る間もなき遺児たちの孤高の生の今始まりぬ 
遺児たちよ一度や二度の悲しみは露と流して我が道を行け 
親死して初めて分かる親の愛胸に刻みて永久に忘れず 
弔辞読むあの友の言「良く生きた、君良く生きた」に胸熱くなる 
「生き死にを己のものと思うなよ」我欲の深き我が胸に云う 
人の死に教えを乞えば自ずから分かることありただ泣くなかれ 
訥弁の弔辞ならこそ人の世を旅立つ友へのはなむけとなり 
弔辞読む人もやがては時満ちて読まるゝ人となりにけるかも
人は華、無常の華か、さりとても散りゆくてこそ華は尊し
しずしずと散華の如き雨の降る朝に友は逝き給ふなり
来世なき死後だとしてもそれも良き来世が在れば尚更に良き 
手向けたき蓮は咲かねど合掌の手を蓮と見て逝く友を送る 
  

 


2002.5.8
 

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