シベリア抑留の歌人


千葉徹夫翁を悼む

− 戦争は人の心に深傷を残す−


序 訃報

敬愛する宮城県栗原市栗駒在住の歌人千葉徹夫氏(1918−2007)の訃報に接した。徹夫翁は、07年8月5日、午後、愛妻の待つ極楽浄土に旅立って いった。享年90歳の大往生だった。生前故人は、周囲の人から「徹ちゃん」と親しみを込めて呼ばれる気取りのなき人一倍の人情家だった。


1 関東軍衛生兵としてチチハルへ

思えば、徹夫翁の生涯は、戦争に翻弄された波瀾万丈の生涯だった。昭和18年(1943)、赤紙一枚で、中国戦線に出征した若き日の徹夫翁は、関東軍第三 八九部隊帰属の衛生兵(二等兵)としてお国の命ずるままに任務を果たした。言語感覚に秀でていた徹夫翁は、中国語の響きに興味を持ち、漢詩に魅せられ、唐 詩などの古典を読むうちに、いつしか自分でも詩を詠むようになった。

結婚も中国黒竜江省中部の都市チチハルで行った。若い夫婦は官舎で新婚生活を送った。新妻は同郷の女性だった。今日考えるような甘い新婚生活ではなかっ た。それでも少しして新妻は身籠もった。しかし一番幸せであるべきこの時期、戦争が拡大する中にあって、徹夫翁は、新妻を内地日本に帰省させる辛い決断を した。日本軍不利の状況はもはや動かし難い状勢だったからだ。何とか妻とやがて生まれて来るわが子を守りたい。徹夫翁の心はそれしかなかった。

 何時の日に妻と会わむか臥し いりて泣きつつ聞きし汽車の遠鳴り 徹夫


2 敗戦とシベリアでの強制労働

20年8月、日本本土に2発の原子爆弾が炸裂し、ついに祖国日本は8月15日ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした。すると、日ソ友好条約を一方的に破 棄して、社会主義国家ソ連が中ソ国境を越境し、もはや指揮権を失っていた日本軍に攻撃を仕掛けてきた。

   戦 いの終わりし街の上空をソ連機南下せり二十年八月 徹夫


徹夫翁は、為す術もなくシベリヤに抑留されてしまう。そこで徹夫翁は、この世の地獄を見せられた。戦友は、ひとり又ひとりと極寒の地での強制労働と栄養失 調により、亡くなっていく。内地に帰った妻を思い徹夫翁は、何としても、生きてこの地獄から抜け出す覚悟をした。そこでもまた翁の言語感覚が、その生存を 支えた。ロシア語を少しずつ覚えながら、ロシア兵と意志の疎通をできるようになった。

 病む友を庇(かば)いてノル マ拒みたるロシア語「駄目」(ネリジャー)いまも忘れず  徹夫

しかしロシアでの苦悩の日々は、家族や知人友人の間でも、徹夫翁は生前余り語りたがらなかった。無理もない。次々と戦友たちが命を失って行く光景を目の当 たりにしているのだ。おそらくこの世の地獄を味わった日々については、記憶の中から消し去りたいと思ったに違いない。そう言えば、私の父もこの徹夫翁と同 じくシベリア抑留組であったが、シベリアの強制収容所(ラーゲリ)でのことは、一切口にしたことはなかった。

 敗れたる国の兵なり言挙げず 吹雪の中に樹を切りつづく 徹夫


3 日本への帰国と最愛の妻の死

昭和23年春、徹夫翁は執念帰国を果たした。しかしそこで聞かされた言葉は、待っているはずの愛妻の病死という現実だった。何という残酷な運命だろう。何 の罪もない市民が、国家による侵略戦争に巻き込まれ、侵略の片棒を担がされた上に愛する人ももぎ取られてしまったのだ。それが戦争というものの、真実の姿 だ。結局、国家の体面やささいな支配層の野望や行き過ぎた欲望が拡大していった挙げ句数百万の夥しい国民を死に追いやったことになる。

徹夫翁は、帰国すると役場に働き口を得て、新しい妻を迎える決心をする。お産婆さんの資格を持つ美しい女性(ハルヨさん)だった。やがて夫妻には、ふたり の女の子とひとりの男の子が授かる。それからの徹夫翁の人生は、自らの戦争で負った心の深傷を癒しながら、妻子と共に故郷栗駒山の麓にある沼倉に居を構 え、歌を詠み、時には社会風刺の川柳を詠み、また中国で覚えた漢詩を詠んで、悠々自適の慎ましい生涯を送った。丁度今年は、先だった二度目の妻の13回忌 も無事済ませての8月5日の大往生となった。


4 戦争の深傷は生涯消えない

8月は戦争終結の月である。8月7日には、広島の原爆の日が、9日には長崎の原爆の日、そして8月15日は、終戦記念日である。その前の5日に逝った徹夫 翁は、私の思い過ごしかも知れないが、戦争の記憶を呼び戻したくなかったと思うのである。

有り余る言語に対する天賦の才に恵まれながら、幼い頃に家庭の事情から、進学して勉強できなかったことを生涯のコンプレックスとして内に秘めていたと遺児 の長女貞枝氏から伺った。

しかしそれは逆に言えば、学校を出たエリートや学士さまに何か、負けてたまるか、という生きるための強い反発心(バネ)になっていたのではと思う。


5 戦後の代表歌を味わう

ここで生前いただいた手ぬぐい染め抜かれている千葉徹夫翁の代表歌を紹介しよう。

 手ぬぐいを包んだ白地に真ん中朱色の帯には 上に「2000年 記念品」と。 

 下に「関東軍黒河陸軍病院 戦友会第三八九部隊会」とある。

そして肝心の手ぬぐいには、桜の花びらが左上隅に見え、

 「東天紅」三十九階高層に従 軍看護婦黒田節舞う 徹夫

赤十字のマークの下に、やはり「関東軍黒河陸軍病院 戦友会第三八九部隊会」とある。

この手ぬぐいは、以前東京の高層ビルにある中華料理店「東天紅」の戦友が集まった折、同僚の看護婦だった女性が、黒田節を颯爽と舞った様子を歌にしたもの で、2000年の戦友会の記念品として、参加者にそれぞれ配られたものである。この手ぬぐいが、徹夫翁の自慢だった。このことを嬉しそうに話された笑顔が 思い出される。徹夫翁の人柄が偲ばれる秀歌である。


6 歌人徹翁の死と非戦の誓い

ここに千葉徹夫翁の90年に及ぶ生涯を讃え、同時に戦争に翻弄されながらも、自らの優れた言語感覚を磨いて、歌に川柳に漢詩に、独自の境地を開かれたこと に心からの敬意と讃辞を送りたい。

それにしても、千葉徹夫翁の生涯を辿って明らかとなるのは、戦争というものの真実の姿だ。戦争はそれを経験した人間の中で、深傷となって、一生涯に暗い影 となってつきまとい続ける怖いものだ。だからこそ、日本人は二度と戦争を起こさないと、世界人類に先立ち日本国憲法に刻印して、非戦の誓いを行ったのであ る。

佐藤弘弥 拝


跋 献歌

 千葉徹夫翁に捧げる歌八首
季節ごと暦めくれ ば徹ちゃんの歌は生まれた真白き紙に
徹翁の歌読み聞けば戦など二度と起こしてならじと思う
もう二度と起こしてならぬ戦争の生き証人千葉徹夫氏逝く
人の世のひきこもごもの有り様を
ユー モア交へ徹ちゃん詠う
我讃ふシベリア抑留徹夫氏の齢九十大往生の栄(えい)
青春とふ春のよき日にお国より赤紙一枚徹ちゃんの春
シベリアの辛苦に耐へて栗駒の土に戻るや出棺の時
残されし戦後世代の我として「非戦の誓い」墓前にぞする



2007.08.17 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ