後 序

 

 
千葉君は沼ヶ森生産森組合の副組合長として私を補佐して二百七名の組合員のお世話をしている。

外に郷土研究を道楽としているが、決して本業をおろそかにすることはない。

彼とは、昭和十九年からの交わりであるから、二十五年余になる。戦時中の、追補責任栗駒村森林組合に技術員として就職して来た。私はそのときの組合理事であり、農業会の常務理事であった。

森林組合は役場に事務室があり、村長が組合長であった。山に木を植えることよりも、軍用材の供出に協力していたが、こんな組合を彼は不満であったが時節柄なんとも出来なかった。

組合長や理事と事務室で激論したこともあったが、若い彼は仲々ゆずらなかった。役人や、軍の人々とも激しく論じ合ったので「原子爆弾」とあだ名されたこともあるが、今では大変おとなしくなった。やはり年のせいで、幾分呆けたのかも知れない。

郷土研究は郷土史家で元の村長菅原己之吉翁の弟子であるが、菅原利吉、菅原清兵ェ、佐藤盛等の先輩に影響するところが大いし又、郷土研究か故千葉太郎左ェ門翁の甥であることも因となっていると思うが、なんといっても宮本常一先生(民俗学者)と甲南大学助教授米山俊直先生(文化人類学者)との出会によるもので、彼の人間形成にもまたその因となったことである。

失礼ながら一見粗雑で浅学な彼が本を読むことを知り、ものを書く勇気をおこしたことは、両先生の賜である。ここに集めた雑話のかずかずは、あるいは読む人もなく古雑誌と一緒に屑屋に売払われてしまうかも知れないし、倉庫の一隅に顧みられないまま捨てられてしまうかも知れないが、今日の栗駒の文化は忽然と現れたものではなく、何百年の間に何代もの変遷を経て出来たとするならば、これらは栗駒の文化史の一頁であろう。

千葉君は又、沼倉飛騨守の研究家でもある。沼倉には古館が三つあり、岩の目館、万代館、白岩館(城内館)である。安永風土記には「岩の目館は沼倉飛騨守と申御方の居館なりと申伝候」とあるのみでその他には何ものもなくその実在をも疑われていたところであり、彼はこれをなんとかしてはっきりしたいと念願していたが、ようやくに確認が出来、又、沼倉氏につながる東京の渡辺政人先生の負担によって、旧城下円年寺の境内に沼倉飛騨守顕彰碑が建設されたことは郷党の同じく喜びとするところである。今回多くの方々の好意により千葉君の集めた「栗駒の話」が出版されるにあたって彼の所属団体長として各位に感謝の意を表し御愛読を切願する次第である。
 

沼ヶ森生産森林組合長

菅原栄作


 



 

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2002.4.23