豊島産廃公害に思う

公と私と民主主義



かつて瀬戸内海に浮かぶテシマという美しい島があった。(四国の香川県に属するこの島は、豊島と書いてテシマと読む。)しかしこの島は、今や産業廃棄物で汚染されたゴミの島と化してしまっている。何故こんなことになってしまったのか。真相をスケッチしてみよう。

この美しい島に公害問題が持ち上がったのは、今から25年前であった。この島に、この四半世紀に渡って、史上最悪とも言える約50万トンに及ぶ産業廃棄物の大量投棄が行われた。この異常な事態は、地元住民の反対運動を無視した、香川県側の誤った行政によってもたらされた人災であった。県側は、産廃業者の不法投棄を黙認し、豊島住民の運動を無視したまま、50万トンにも及ぶ膨大なゴミの島を作ってしまった。その結果、漁業や魚の養殖などで生活していた地元の住民の生活も壊滅的な打撃を受けていった。その間、県側は、住民運動を牽制するように「賠償金を欲しがっている一部の人間が騒いでいる」などと失言を繰り返しては、住民感情を逆撫でした。不法投棄は、その間も続けられ、90年に入り、他県である兵庫県警が廃棄物業者を廃棄物処理法違反で摘発して、始めて内外にこの豊島問題の深刻さが、全国に知られるようになった。

豊島住民は、93年には著名な弁護士中坊公平氏を迎え、何とか香川県に県としての非を認めさせ、豊島を以前のような平和で美しい島に戻すような運動としていくことを住民で決意した。その場で、中坊氏は、豊島住民に、涙ながらに、訴えた。「どこまでみなさん本気なのですか。本気でかからなければ手遅れです。大丈夫ですか。」住民は大きくうなずき、県にその過ちを認めさせると共に、公害の島となってしまったふるさとを以前の状態に戻す運動が本格的に始まったのであった。

その間、住民は地元から、県会議員を排出する運動を展開し、見事に地元の代表を県議会に送り出すことに成功した。その間、知事も代わった。頑なに頭を下げることを拒んでいた県側も、ことの成り行きが、明らかに自分に不利であることを悟った。かつての日本には、「公」というものは間違いを犯さないもので、無知な「私」を導くもの、という一種の「公神話」がある。この考えは、現在の民主主義とは、まったく相容れない概念にも関わらず、以前として根強いお上優先の思考である。そもそも県知事というものは、いまでも中央官庁、特に自治省上がりの知事が多い。それは公である官僚上がりの知事の方が、中央政府に対して、話が通りやすいという、公優先の考え方が、依然として残っていることを意味するものである。

もしも香川県側が、70年代後半に自らの政治的判断の誤りを認めて、素早い解決の方向を模索していたら、このような深刻な事態は招かずに済んだはずだ。水俣公害しかり、今回の豊島産廃公害しかり。公害問題の多くは、公の対処が、自分達の判断の失敗を認めずに、ずるずると先送りすることによって、問題が一層深刻化し、取り返しがつかなくなるものだ。

そんな豊島公害問題にも、決着の日は来た。2000年6月6日、香川県知事が、正式に住民側に直接頭を下げ陳謝し、産廃で溢れた島の産廃物を取り払い、元の美しい島に戻すことを約束した。地元住民の、思いが25年ぶりに叶った瞬間だった。豊島産廃公害問題は、こうして解決の日を迎えた。

この後のインタビューで、中坊弁護士は、「全国各地で、不条理に苦しむ人々に大きな勇気を与える結果だった」と振り返った。思うに、「公」も「私」も、間違いはいつ何時でも、しでかすものである。その間違いをいち早く認め、最小限の被害でくい止めることこそ、肝心なことだ。少し大げさな言い方が許されるなら、今回の豊島公害問題は、日本社会が、真の意味において、民主主義を実現するための、試金石だったかもしれない。すなわち「公」とは、あくまでも「私」の幸福とその意志を実現するための仕組みに過ぎないということである。豊島住民の真摯な努力に心からの拍手を送りたい。佐藤
 


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2000.6.7