2001年9月のテロル
−暴力は人間の本能なのか?−
その事を思うと、悲しくて言葉もない。
9月11日の夜、宿泊しているシンガポールのANAホテルに帰って、何気なく、テレビをつけると、驚くべき光景を目の当たりにした。日本時間、午後10時、ニューヨーク時間、午前9時のことだ。NHKのアナウンサーが、臨時ニュースが入りました、とカメラが、突然ニューヨークの世界貿易センタービルに切り替わる。ビルからは黒煙が上がっている。特派員が話し始めて間もなく、二機目が音もなく、もう一棟のビルに突っ込んで大爆発をした。「何だ?これは…?」とテレビ画面に近づいて、息を詰めて見ていると、ニューヨークのマンハッタンにある貿易センタービル(417m110階)にテロリストが旅客機を乗っ取り自爆テロを敢行したと言うではないか。更に驚いたのは、アメリカ経済の繁栄の象徴とも言うべき巨大なツインタワーが、自爆テロから1時間も経たない間に、次々と二棟とも崩壊してしまったことだ。こうして僅か一時間という刹那のうちに、数千の人々の尊い命が失われてしまった・・・。 この時、私の中では、「戦争が始まった?」という漠然とした思いと共に「空しい」という言葉が浮かんだ。この「空しさ」は、やがて私の中で即座に、「空」という概念に変わった。もちろん仏教の「空」(くう)である。周知のように「空」とは、「色即是空」の空であり、単なる空(から)とは違う。仏教の教えるところによれば、存在するものは、これみな「空」ということになる。 在ると思っているものは、次の瞬間には、無くなってしまう。一瞬にして崩壊してしまった世界貿易センタービル同様、人間もまた同じで、たとえ、このテロリスト犯がどのような大儀を持って、このような事件を起こしてしまったとしても、自分の意識が、ビルに中に突入した瞬間に、「空」となったことになる。在るものは無いのだ。この地上に生存するあらゆる個体も生物も、時という限定の中で、存在するに過ぎない。 やがてこの地球も太陽も銀河も、果てなく見える大宇宙さえも、空のなかに消滅してしまうのだ。人はこのような「空」の中に生きている現実を、もっと強く自覚しなければならない。限られた時間の中で生きているからこそ、我々自身の生は尊く、そして貴重なのだ。もう少し、世界中の人々が限定された生の中に生きていることを自覚すれば、世界はもっと違う幸福の価値観を見いだせるかもしれない。しかし世界は、どこか血に飢えている。どうしようもない暴力が世界中に蔓延し、それがガン細胞のように増殖し、世界を食い尽くす勢いだ。 そして私はこんな歌を詠んでいた。 暴力は男の本能かも知れず二千一年九月のテロル
最後に突然の惨劇の犠牲になられた数千の御霊のご冥福をお祈りすると共に、その御家族の深い悲しみに心からお悔やみ申し上げます。
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2001.9.17