全日本フィギュアの教育論

天才育成 の教育法ー

トリノ五輪の最終選考を兼ねた全日本フィギュアをテレビ観戦した。お世 辞抜きで面白かった。生でなかったのが残念だが、スポーツの素晴らしさを改めて感じた。

特に世界選手権や五輪の最終滑走よりもレベルが高いと感じられた女子は、観戦する者の目を釘付けにするほどの力があった。

アメリカの五輪代表を決める全米陸上の短距離100m決勝にも匹敵するハイレベルな争いであった。アメリカの五輪代表になるのは、オリンピックで勝利する より難しいと言われる。それほど凄い走りをする選手が、一秒の何十分の一の中に存在するのである。それが自分の人生と誇りを賭けてしのぎを削るのだから面 白くない訳がない。そこで勝者となった人間は、五輪の有力な金メダル候補となる。

日本の女子フィギュアのレベルは、今どのように見ても世界一の選手層を持つ。その選手達が、己の青春の全てを観客の前で披露するのである。二年前の世界 チャンピオン荒川は実に貫禄があって、精神面も含めた安定感は日本のエースという雰囲気があった。特にフリーで転びかけながら必死でこらえられたのは、彼 女の五輪への意地が垣間見れた瞬間だった。しかし技と技の繋ぎの部分の丁寧さが欠けているように感じた。もしそれが克服されて、二年前の世界選手権のよう な完璧な演技が出来れば、有力な金メダル候補になる可能性がある。

恩田の滑りは、現在彼女が持っている全てを出し尽くそうという気持が伝わってくる演技で、その思いがびんびんと感じられた。代表になるとか、外れるとか関 係なく、彼女が演技終了の後に何度も行ったガッツポーズに、自分の中での折り合いを付けている姿に美しい魂を感じた。

浅田真央の演技は、ほとんど次元の異なるレベルで、現時点最高のスケーターであることに異存を差し挟む者はいないであろう。いとも簡単にトリプルアクセル を二回跳び、しかも二回目には、コンビネーションで二回転も跳ぶという余裕ぶりは凄いものだ。彼女の素晴らしさは、自分で片手ビールマンを編み出す創造性 にある。これは余談だが、「レゴ」のゲームが好きということで、彼女の創造性の源には、そんなものも好影響を及ぼしているのかもしれない。

中野選手は、まさにシンデレラのように現れた選手であるが、太田選手の代わりで出た選手が、一躍五輪候補に名を連ねるということに日本の女子フィギュアの 選手層の厚みを感じた。

安藤美姫の演技には、今回さまざまなことを感じた。まず彼女自身の中にどことなく見える期待への戸惑いのようなものだ。一六才で全日本チャンピオンにな り、昨年も二年連続でチャンピオン、彼女にかかる期待は、若い才能に重くのしかかった。その結果、「やめたい」という心境になり、アメリカへの渡航。世間 に言いたいのは、彼女はまだ一八才になったばかりということだ。己の18才時分のことを考えたら、大したものだと思う。しかしその「やめたい」という心理 がどこかで、彼女の演技にブレーキを踏んでいる可能性がある。そのトラウマのようなものを演技の中で、人生の影として表現できれば、彼女は大選手になる資 質がある。ともかく彼女の今回のフリーで選んだ「マイファニーバレンタイン」はスローすぎて選曲ミスであったと思う。

村主選手の演技は、彼女の中での完璧な演技で、感動を呼ぶものであったが、技術的には、明らかに浅田に劣っていて気になった。190点を超える点数であっ たが、今や世界のトップは、ビールマンスピンは常識であるが、村主はそれもできていない状況で、配点には少し疑問を感じた。世界の最終滑走を顔で滑るのは 良いが、芸術点に頼り過ぎである。金メダルは難しいかもしれない。それでも演技が終わった後、「かみさま」と感謝の祈りを捧げる姿に強い感動を覚えた。

このフィギュアの平均視聴率は30%を越えたようだ。瞬間最高視聴率は40%代になった。会場での観客のマナーもまた立派だった。フィギュアスケートとい う競技が日本社会の中で一定のステータスを得ていることを強く感じた。

今そして、小さな子供たちが、私も浅田真央ちゃんやミキティのようになりたいと、スケート教室が大流行だという。最高水準の選手達の活躍が、底辺をまた広 げているのである。これを教育システムとして考えると面白い。最優秀の層に対する憧れが、全体をかさ上げし、好循環を生むのである。一時、ゆとり教育など という誤った発想によって、落ち零れを無くすことに重き置いた教育が行われた。その結果起こったことは、日本全体の教育水準の低下という最悪の結果だっ た。

浅田や安藤という天才に一流のコーチが付き、スケート連盟がそれをバックアップするという仕組みから日本の教育界は学ぶべきだ。天才を育み育てる社会的土 壌をこそ確立すべきだ。




2005.12.25 佐藤弘弥

義経伝説
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