教訓 対話の極意

 
どうも最近相手を知らずに応対する人間が多くて困る。別に鼻高々になっているわけではないが、相手がどのような人間かも分からずに、自分の生半可にかじった経験と知識を堂々と語るものだからたまらない。対話や会話、討論というものは、相手のレベルに合わせて語ることによって初めて成立するものだから、まずこれから語ろうとする相手の力量を知る質問などをして、それから本格的な話になるものだ。

この前、ある宴会の場で、七十がらみの老人が、佐藤に二束三文の知識をひけらかしてきた。多分少しの漢籍知識があるのだろうが、私の名刺を見るなり、

「ほう、サトウ・ヒロヤさん。サトウの佐は、分かりますか、誰かを助ける補佐するという意味ですよ。それからトウは藤、藤原氏に通じます。良い名ですね。ヒロという字は弘法太子の弘です。広く普く(あまねく)という大きい字です。うん、それから弥は、いよいよますます、という意味がある。きっとお父上は、いろんなことを考えて、名付けられたのですな」と、延々と自分勝手な講釈を語ってくる。まるでニセ占い師か、新興宗教の手合いのようだ・・・。

こっちは「爺さん、いい加減にしろよ」と、腹の中では思っているのだが、まあ年寄りの楽しみをとってはいけないかと、我慢をした。要するに、私がどんな知識を持っているか、チェックを入れないで、自分のありったけの知識をひけらかした所にこの爺さんの悲劇がある。

最近このような人の何と多いことか。相手がどんな人物かのリサーチもないまま、自分の脳味噌を全てさらけ出そうとするのだから、それを聞く側はたまったものではない。

もしもあの知ったかぶりの爺さんが、

佐藤さん良い名をお持ちですね。お父上はが、名付けられたのですか。ほう、そうですか。なるほど…。やっぱりそんな謂われがありましたか。…系図を訳された。佐藤さんご自身がですか?…それは先祖孝行をなさいましたね。きっと良いことがありますよ。実は私もね・・・」となって、会話が立派に成立したはずだ。

しかしあの爺さんには、会話をするだけの知識がないものだから、一方的に自分の知っている知識を相手に披露して、「このおじさんすごい人だ」と思われたいだけなのである。何も知らない人ならそれで通るかもしれない。しかしそうはいかない人だって世の中にはいっぱいいる。

昨日もこんなことがあった。宴会の席で、和歌の話をしていると、一人の酔った六十がらみの男性がやってきて、私が見ている「種まき桜」の歌に「返歌を詠む」と言いだした。「ほう、そうですか。」と私は、ノートに筆ペンでその人物の歌を筆写した。そこには、ひどく、月並みの、マンネリの、駄歌が横たわってこっちを見ている。思わず吹きそうになった。

この人物は、きっと、興が乗ると、知らない人を相手に、いつも同じような歌を詠んでは、いい気になっているのだろう。そう思うと少し哀れを感じて、「うん、なるほど、ごりっぱですね、いい、なかなかいい」、などとお調子をとってあげた。

しかし次第にエスカレートして、自分の自慢ばかりしてブタが木に登った状態になったので、
ところで○×さん、あなたがこれまで作った作品で一番自身のある作を聞かせてください。それとあなたにとって、人生の中で目標であった人物は誰ですか?」と言ってみた。

この人物は、たたき上げの○×職人で、これまで自分が作った中で自慢の作品を聞いてみたのである。しかし答えは、

「いやね、佐藤さん、今、「孫」という演歌が流行っているでしょ。」

「はあ??孫じゃなくて、あなたが作った作品ですよ。是非教えてください。具体的に」

何度聞いてもさっぱり、答えが返ってこない。どうやら、息子三人を大学の○×科にやって卒業させたこと。それから最近、孫が出来たことを言いたいのらしいのだが、まったく独りよがりで、自分の自慢ばかりで会話にもなにもならないひどい有様となった。

これもまた対話相手を理解することなしに、話したために、こんな無様な姿を晒してしまったのである。私の手元に彼の名刺と、あの即興で詠んだ?という歌があるが、それはそれは、ひどい出来で、もし逆に詠んだのが私だったら、次の日の朝は、恥ずかしくてまともに相手の目を見れない状態になっているだろう。

まさにこれは教訓である。対話が成立するためには、キャッチボールや綾取りの呼吸が必要だ。相手の力量を加味して、相手に呼吸を合わせて、言葉を返してやらなければ、対話というものは、どんなことがあっても成立しない。人を見て、言葉を選ばないと、とんでもないことになるぞ。佐藤
 


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2000.6.13