映画「タイタニック」論

生者の感覚で作った死の映画 


タイタニックという映画を観た。感想を言う前に、映画というものを考えてみよう。そもそも映画というものは、人間の想像力を刺激することによって成立する芸術である。すべてをありのままに映像化しなくとも、そこに少しの真実を伝えようとする熱意があれば、観る者は、自分の想像の力によって状況を補いながら、全体を理解する。ところがアメリカ映画は、多弁でくどすぎる傾向がある。

映画タイタニックは、その意味で、アメリカ映画らしいアメリカ映画だった。要するにくど過ぎる。確かに興行的には成功したかも知れないが、映画史のなかでは、取るに足りない駄作だ。

一言で言えば、死の尊厳を分かっていない生者が作った死の映画ということだ。大体あのディカプリオ演じる主人公のみっともない死の迎え方はいったいなんなのだ。無様(ぶざま)で、不自然だ。

人の死とは、あのようにみっともないものではない。死んでいくものは、人間に限らず、必ずしもあの主人公たちのように生に固執するものではない。

あの映画を見る限り、人は最後の最後まで、生に執着し、死ぬ間際まで、死を忌み嫌って死んでいくかのような錯覚を受けてしまう。あらゆる生あるものは、生というものをまったく別の意味を持って受け入れる瞬間がやってくる。つまり死である。しかし死は肉体の死であって、すべての感覚の消滅ではない。

例えば、アフリカの草原に住むシマウマだって、ライオンの群に囲まれて逃げおおせないと悟った時、抵抗もせず、ただ一粒の涙を流して、死を静に受け入れると聞く。死とはこのように尊厳に満ちた瞬間だ。それは、一回きりの人生を、精一杯生き続けたものが、自分の命運の最後を悟り、自分の魂を天にゆだねる瞬間でもある。

その時、思考回路が変わる。つまり、肉体の眼が停止し、魂がものを直接見るようになる。そして生き物は、自分の魂が、実は永遠に存在するものであることを知るのだ。

だから私が、昨日説明したような、老いによる肉体的な衰えを「老人力」と呼ぶのも、まさに肉体の眼から魂の見る感覚をつけるための無意識の訓練ということになる。

我々は生ある人間である。生は死に通じている。とすれば我々もまた、タイタニックに乗っていた人々と変わることはない。私はタイタニックを観ながら、生者の感覚と、死者の感覚の違いについて考えている自分を発見した。佐藤
 


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1999.1.8