平泉志附録



平泉志附録序
吾嬬路(わがあづまぢ)のみちのくの國(くに)は我(わが)みかとのしらすみ國(くに)の中(なか)にもならひなく廣(ひろ)らかなる國(くに)なりしをいにし明治(めいぢ)の二年(ねん)といふ年に五つの國にわかちて今(いま)は我住國(わがぢうこく)はみちのくのみちの中(なか)となんいふなるそか國内(こくない)に磐井郡平泉(いはいぐんひらいづみ)てふ里(さと)はそのかみ藤原朝臣(ふじはらあそん)が世々陸奥出羽(よよむつでは)の二國(こく)をしりて城(しろ)をかまへし処(ところ)なりけり其事しるせし書古くは東鑑(あづまかがみ)近くは享保(けふほ)の年ころ仙臺の佐久間義和か観跡聞老志寛延(くわんせきぶんろうしかんえん)の年に相原友直か平泉実記(ひらいずみじつき)及ひ雑記安永(ざつきあんえい)の年に田邊希元か封内風土記(ほうないふうどき)なとかずかずあれと平泉中尊寺(ひらいづみちうぞんじ)に係る事のみはさらにえらひたる書(しよ)はあらざりしを我友(わがとも)岡屋のきみ是をうれたみかの志料(しれう)をあまたあつめて其中よりしけきをはぶきすくなきをおぎなひはたいかにとおもふふしをも後見(あとみ)ん人(ひと)のかうかへのたづきともなれかしとて附録(ふろく)に書載(かきの)せ藤原氏(し)のさかえし世(よ)より今の大(おほ)み世(よ)となりてあらたまりたる事ともまてくはしう書輯(かきあつ)めて平泉志(ひらいづみし)と名つけ共に三巻とはをしつるはいともどもいそしみつとめられたるかも此書見(このしょみ)ん人は足ゆかずして名たたるありさまをもつばらにしりぬべくそを又(また)こたび世(よ)にひろめんとておのれにもはら附録(ふろく)のおちおちをくはへなともして事由はし書せよとこはるるをいかでかはといなみののいなみしものから麻生(あさふ)の浦梨なりいてん事のねかはしさにさいとて筆(ふで)とりてかくは物(もの)しつるになん明治(めいぢ)の十まり九年(ねん)の秋西磐井郡山目(あきにしいはいぐんやまめの)里人澤田穂國

平泉志跋
平泉(ひらいづみ)の藤原氏三代(だい)を重ねて陸奥出羽(むつでは)をうしはきけむ盛世のありさまはさこそと思(おも)ひやらるるをさしも厳(いかめ)しかりつる家のあへなく亡ひうせてその跡所(あと)の傾(かたむ)きたえ焼(や)けうせてのこれるものは寺々にのみなんありけるそか中に中尊寺(ちうぞんじ)といふにもとのことく遺(のこ)りていまもまのあたり見(み)るへきは光堂経蔵(ひかりどうけうぞう)の二つあるを毛越寺(もうつじ)といふには仏像(ぶつぞう)をはしめもろもろの器(うつは)ともこそ残(のこ)りたれ堂(どう)といふ限は皆うせはてしのみかはその跡所(あと)といへとも年ふるままにやうかはりてあるは艸(くさ)の原(はら)とうつろひあるは田畠淵瀬と替(かは)りはてたる中に金堂の跡大泉(おほいづみ)てふ池のさま類(たぐ)ひ稀(ま)れなる大寺なりしほともしられと礎かたのこと残(のこ)りてそこといちしるくふるき跡尋(あとたづ)ぬるしるへとなんなれりけるさるはそのかみ多くは乱(みだ)れ世(よ)のいくさ火(び)にかかれるなりけむを冶(をさま)る世(よ)となりてそやそや所々(しょしょ)に仮の堂(どう)をいとなみ立て遺(のこ)れる仏像(ぶつぞう)ともをはりつきたりけるかくて此あたら代の昔(むかし)に復(か)へす大御代(おほみよ)となりてはこれかれありしなからに過(す)こし事ともをわいわいしく改(あらた)められしはさるものにて世(よ)の開(ひら)くるままにさすかに古(ふる)き跡(あと)のむげに形(かたち)なく廃果(すたれはつ)るをはあちきなき事と思(おも)へる習(なら)ひとなりて上中下伴を結(むす)ひかたみにあななひ助(たす)くるすへにてここに修理(しうり)の料をし出(だ)しあひ営繕(つくろ)ひて永世(とこしへ)に朽失することなく保ち伝(つた)ふるいろひをもはらとするはいともとも愛(めで)たく尊(たつと)き業(わざ)なりけりされは古跡(こせき)を書巻に記(しる)して千年(ちとせ)の後につたへんとするも亦やうする業なれは今や平泉志(ひらいづみし)の宜(よろ)しく備(そな)はれるものをえらひて世にもひろめ後(のち)の世(よ)の宝(たから)ともなさましと思(おも)ふとち相議(あひはか)りてやかて其撰は成れるをそも此書よりすへて旧跡(きうせき)のよくも伝(つた)へぬはかなきをちをちかきつらねたれと古事好(こじこの)める今の世には似(に)つかはしからましとてなせるなれはこれはた世(よ)にえうある書(しょ)のつらに数(かぞへ)まへられしやはとて摺巻(すりまき)となす事とはなりぬそのよししりへにしるせるは明治(めいぢ)十九年の一月藤原眞藤


平泉志附録

一関 故高平眞藤 編
山目 故澤田穂國 校
一関  菅原直諒 註

平泉旧跡方位 (円隆寺南大門中央の礎石を以て的と為し其町間数を挙記す)
金堂趾(円隆寺と號す子の五分間数六十五間三尺)、鐘樓趾(庚の八分四十八間)、鼓樓趾(丑の二分四十八間)、文球樓趾(子の五分五十二間)、弁才天趾(子の八分二十八間)、大黒天趾(子の八分二十八間)、嘉祥寺趾(亥の二分七十三間三尺)、講堂趾(亥の九分八十間)、経蔵趾(亥の三分五十八間五尺)、常行堂趾(丑の八分七十四間)、法華堂趾(丑の五分七十七間)、聖山塔趾(卯の一分五十二間)、池中島弁天堂(子の九分一丁三十五間)、獨鈷水(子の四分一丁五十九間)、日光社趾(丑の六分四丁三十間)、千手観音堂(子の七分四丁二十五間)、鈴懸森(子の三分十八丁)、金鶏山(子の八分六丁五十間)、金峰山北方鎮守(子の九分五丁四十五間)、新熊野北方鎮守)(丑の五分五丁二十間)、義経舘趾(丑の二分八丁)、大阿弥陀堂趾(観自在王院を號す丑の七分二丁五間)、小阿弥陀堂趾(丑の五分二丁十五間)、基衡室墓(丑の八分二丁三十間)、阿弥陀堂鐘樓趾(寅の六分二丁二十五間)、貴船社(丑の九分四丁十五間)、梵字池 新御堂趾(無量光院と號す丑の九分七丁)、三重宝塔趾(寅の一分七丁二十間)、鐘樓(同上)、猫間淵(寅の三分八丁二十五間)、柳御所(丑の九分八丁三十間)、舞鶴池鐵塔(寅の七分一丁五十間)、普賢堂趾(寅の七分二丁)、五重塔趾(卯の五分一丁四十三間)、車宿(卯の六分五十五間)、時の太鼓趾(卯辰の間一丁三十五間)、粧坂(己の二分四十一間)、正八幡趾(己の六分一丁二十五間)、國衡屋敷趾(己の三分一丁五十間)、隆衡屋敷趾(己の九分二丁五十二間)、兒澤(午の五分二丁)、祇園社南方鎮守(己の七分十一丁廿六間)、薬師堂(午の七分十丁六間)、諏訪社(未の八分二十丁四十間)、鏡山伊豆権現(未の三分十丁二十六間)、吉祥堂(未の三分六丁十間)、不動堂(午未の間七丁二十八間)、最明寺洞(未の八分十一丁十七間)、櫻清水白山社(未の五分九丁四十六間)、北野天神社(未の九分八丁五十六間)、大日堂(未の九分八丁四十八間)、慈覚堂(未の九分八丁四十六間)、稲荷社西方鎮守(申の六分五丁二十間)、文珠堂(申の六分三丁二間)、護摩堂(申の四分一丁四十間)、鐘樓(申の四分一丁四十二間)、鐘嶽(亥の六分十六丁)、瓜破(うりわり)清水(金鶏山の下にあり)、葛西屋敷跡(金鶏山の南北にあり)、三十三間堂跡(新熊野に並ふ)、比丘尼寺跡(達谷道の南小金沢の西にあり)

平泉旧跡志に挙たる儘に記して名称の沿革に関せす中尊寺は山内諸堂接比するを以て故らに方位間数を挙記せさるなり。


古文書拾遺

 頼朝卿送秀衡入道書
御舘者奥六郡主予者東海道総官也尤可成魚水思也但隔行程無所于欲通信又如貢馬貢金者為国土印争不管領哉自当年早予可伝進且所守勅定之趣也者上奥御舘云云
 東鑑云文治二年四月二十四日陸奥守秀衡入道請文参着貢馬貢金等先可沙汰鎌倉可令伝進京都由載之云云  経蔵別当之書
 譲与
中尊寺御経蔵別当職事
所領骨寺 岩井郡之内在之 免田七段燈油新畠所 瀬原村在之
屋敷一所 麓在之 同油畠所 赤岩麓在之
                      眞密房幸玄所

右件於御経蔵別当職者奉以金銀之泥一行交一切経書写佑為其奉行之功自清衡御舘経蔵別当職領其時往古私領骨寺彼令寄進一切経蔵処也雖有若幸玄之弟子第一期之後者蓮光之為親類且為同宿寄相此譲状義城房蓮心所譲与也仍不可有他妨之状如件
 保延六年三月二十八日 『崇徳帝の代紀元一八〇〇年』
中尊寺御経蔵別当自在房蓮光 判
 譲与
金色堂免田参町(伊澤郡黒澤村在之)
同御堂供養法田二町(同郡栃木郷在之)
                      僧蓮心所

右以人譲与也也但有限云寺役云御勤労以不可有懈怠之状如件
 久壽元年三月八日 『近衛帝の代紀元一八一四年』  僧蓮光判

大長しゆいんのこさかひの事
むかしは白山(はくさん)のうしとらのすみの大(おほ)つきの木(き)より、上(うへ)はとう庭のうちしたは大壽院(だいじゅいん)のうちさかひゆやのしりの水(みづ)おちをかきる、南(みなみ)はたほうのほりをかきる、西(にし)はへかなひ川くさひさはゑかきるなり、此(この)ほかひんかしの大(おほ)さかひ大はちもり小(せう)はちもりのあひのふるいとを西(にし)のうゑに白山(はくさん)のしたの大つきの木を見わたして、さかひはちもりの下のあふらはたけの事大日(ことだいにち)とうのあふらはたけの南(みなみ)のねと大とうのあふらはたけならひ也(なり)、よつて為後日(ためごじつ)しやうもん也(なり)。
 弘安二年三月三日 『後宇多帝 代紀元一九三九年』  永栄書判

 北條相模守貞時同陸奥守宣時書
陸奥国平泉中尊寺衆徒中寺領山野事重訴状遣之背下知状早違乱候間差遣使者之処代官明資尚以不承引寔招其咎欠致仕先下知状可令停止濫妨也者依仰執達如件
 永仁二年十二月廿五日 『伏見帝の代紀元一九五四年』 陸奥守判
                        相模守判

 壱岐守殿
平泉雑記云壱岐守は葛西家なるへしと按に此書に先下知状とあるは弘安七年中尊毛越両寺雑掌有信相論條々正應元年両寺住侶等与葛西三郎左衛門尉宗清伊豆太郎左衛門尉時肯葛西彦五郎親時等相論岩井伊澤両郡山野並非法否事と云へる北條家の下知状なるへし煩冗の長文なれは之を略して載せす 『正應元年伏見帝の代紀元一九四八年』

 中尊寺衆徒等上書
嘉元三年三月解状一通 『後二條帝の代紀元一九六五年』
嘉暦二年三月解状一通 『紀元一九八七年後醍醐帝の代』
以上鎌倉下知状に対する弁解なり
正和二年十二月訴状一通 『花園帝の代紀元一九七三年』

他家の濫訴に対する訴訟なり端文、淡海公後胤前之陸奥守藤原朝臣清衡奉送十萬五千両於宋朝帝院凌萬里之波濤越数千之山河奉渡処七千余巻之経也依?従鳥羽院為彼経主是被下等身文珠脇士共奉安置処也然本朝無双之重宝也云々

建武元年八月上書一通 『後醍醐帝の代紀元一九九四年』

当寺の規模保全を願ふ上疏なり端文、欲早被補当寺惣別当以降依修理無沙汰金堂同本尊三重塔婆三基大門三宇都合四十余処仏閣社壇等悉以破壊傾倒間於関東被経御沙汰云云起請文被召置先注進状処案者且任天喜以降当州刺史源頼義義家並時行例且就去年京都鎌倉兵乱祈誠今年津軽合戦御祈祷忠勤宛給便宜関処欠不然者任先規以寺務管領寺領為衆沙汰造立金堂本尊塔婆樓門以下堂社等云云

 御判
平泉中尊者陸奥出羽國之甲区堀河鳥羽二代之勅願也因?数代之宰吏帰依年久諸方之道俗渇仰日新爰頃年武士及甲乙人等寄縡於蝦夷梟賊追伐或■入槨門致狼籍或押妨寺領及駈使云々太以濫吹也慥可説停山若有違犯之輩者就律進交名可被処厳科之由國宜所候也仍執達如件
 建武元年九月六日 大蔵権少輔清高奉

 平泉中尊寺所領之書
平泉中尊寺一切経蔵領骨寺村之事
右所者依近年動乱雖令知行世々為無異之間別当遠郷律師行栄方彼所者如元相渡申候池仍如件
 延元三年二月廿八日 『後醍醐帝の代紀元一九九八年』 若狭守行重判

 平泉中尊寺別当領事
任被仰下之旨伊澤郡内黒澤村同郡宇津木禰村同郡北保村江刺郡内辻脇村同郡倉澤村斯波郡乙部村於彼所々相渡別当代頼禅所仍渡状如件
 康永三年六月五日 『北朝光明院の代紀元二〇〇四年』 平泰忠判

 骨寺村在家日記
一かたきしの在家一けんねんく二貫文立木十二そくそなへ三米あふら五盃米五盃むしろこももわた午房うるし一盃つく田百
一まつり田の事
一れい田千かりかんりやう二百そなへ三米(以上略書)
 永和 『北朝後円融院の代紀元二〇三五年』 主行栄

 平泉中尊寺所領骨寺村之事
右件於所領者且大伽藍御事と申次身之為祈祷と申如元相渡申候如件
 至徳二年八月八日 『北朝後小松時代紀元二〇四五年』 前越前守親重 判

経蔵別当
札朱印
一此所土民百性等如前々可有付候尤年貢諸役如年来可相働候如何機遺仕間敷候但乱後之間来年之年貢より可免許事
一百姓横合非分之儀何方目も申懸候は則めやすにて可申上候速可相證事
一百姓作子当作毛付次第定置候若百姓逃失候はは何者に而も百姓に可有付事仍所定如件
 天正十九年七月五日 『正親町帝の代紀元二二五一年』

 是書秀治関白の朱印なり
中尊寺門前百姓等悉令還住耕作可仕候聊不可有非分之儀候自然伝馬人足等之事申懸族雖有之一切不可令承引者也
 八月十七日 浅野弾正 判
  是書年号を記さす天正十九年九戸陣の時の事にて則長政の書なり。

 平泉領之事
一貳貫四百参拾九文 院主坊
一壱貫六百九拾壱文 西谷坊
一壱貫九百六拾八文 竹下坊
右於磐井中尊寺村都合六貫九拾八文之所寄附し訖目録在別紙
 寛永廿一甲申年八月十四日 『後光明帝の代紀元二三〇四年』 黒印
                          平泉坊中

 是書伊達忠宗の黒印なるへし
法度之書
禁制
陸奥國平泉中尊寺領同國岩井郡骨寺村事
右於当所軍勢並甲乙人等不可致乱入狼籍若有違乱之族者可処重科之状如件
 観應二年正月二十八日 『北朝崇光院時代紀元二〇一一年』

 是書は足利家の法令なり
 定
一軍勢於味方地乱妨狼籍之輩可為誅伐事
一対地下人百姓非分之儀不可申懸之事
一於陣所火を出すやから其者を搦捕可出自然於逐電者其主人曲事たるへき事
一薪ぬかわらさうし以下高主に相理可取立之事
一路次筋において為下伝馬人足等申懸やから曲事たるへき事
右條々於違犯之輩者忽可処厳科者也
 天正十九年七月七日  秀次書判

是法令は九戸政実征伐凱陣の時平泉一覧ありて中尊寺にも納置れしなるへしとそ。

 寺僧職事之書

一可被停止別当任符事
右訴陳之趣子細雖多所詮衆徒一両輩帯文治建久下知状寺僧知行領者数代之間不取別当任符之由衆徒雖申之如文永元年下知者寺僧相伝師跡之時為寺務之仁争不成任符哉然則寺僧則可相従別当成敗別当又守先例不可致新儀之沙汰云云者不及異儀焉

一別当取任料由事
右如衆徒所進文永元年下知者取任料事被止之畢而別当背被下知取任料之由衆徒雖申之如取進證文等者文永九年以後令取任料之條所見不分明之間不及沙汰矣

以上分明九年鎌倉知状の文なり 『後土御門帝の代紀元二一三七年

 補任
中尊寺学頭職同免田壱町
屋敷壱所(宇津木根村有之)並佛性院
同小坊地壱ヶ所
  権律師公円

右職任行盛律師今月五日返可領掌之次坊地之事任頼順應長元年十月二十四日譲状不可相違仍補任如件
 正和二年三月九日 『應長元年紀元一九七一年花園帝の代正和二年紀元一九七三年』
 別当法印権大僧都 判

陸奥国平泉関山中尊寺者従往古佛法紹隆之勝地台宗弘通之淨砌也雖然本寺未相定之間請属東叡山直未因?今般被召加御門下訖者自今以後不背本寺之下知佛事勤行等不可有怠慢旨依  輪王寺宮一品法親王之仰執達如件
 寛文五年十二月五日 『後西院帝の時紀元二三二五年』  住心院 判
                        円覚院 判

 中尊寺
奥州平泉関山法度條々
一可抽天下泰平國主清寧之丹祈事
一三季講演並旦夕之勤行不可致懈怠事
一講演神者於山白山神前可相勤之祈禧者経蔵佛事者於光堂可執行事
一寺々自佛前至道迄無油断可掃除事
一結徒党継連署公事沙汰仕間敷事
右條々堅可相守之旨依 輪王寺一品法親王之仰執達仍如件
 延宝四年九月二十四日 『霊元帝の代紀元二三三六年』 見明院 判
                       観理院 判

中尊寺
 衆徒中

 寺領之事
一当州之刺史大膳大夫時行両寺巡礼之時為佛餉燈油之料所毛越寺者柏崎七ヶ村中尊寺者瀬原黒澤白濱三ヶ村被為寄附云云
一鳥羽院御願所平泉毛越寺円隆寺六口供僧参拾六町口別六町六口柏崎之内右之地頭四方田右衛門尉景綱父子四十余年令押領被六供近年訴申之刻被改押被附供僧畢
      奉行雑賀彌次郎
一毛越寺往古之寺領三迫参拾参郷之内大荒木村神社寄進状写

 敬寄進
八幡宮御神田(御こく田ため)松木貳反
五頭天王御神田(御こく田ため)(壱段ひはため壱段ひはため)

 合四段者
右神は人の敬によって位をまし人は神のめくみによって徳をます内大臣大僧都御坊代として成清寄進したてまつる子々孫々にいたるまてこのむねをまもりて知行あるへき状如件
 建武二年十二月二日 『後醍醐帝の代紀元一九九五年』 若狭中務亟 藤原成清

 平泉毛越寺権別当
 俊明卿之語
源亜相俊明営造佛像奥藤清衡(奥押領使鎮守府将軍)使遺黄金託言聊献望金之用亜相不受語人曰清衡負固東裔恐有不?朝廷若遺追討使自亦将与其議 大東世話

 忠道公之書
法性藤公(法性寺太政大臣忠通知足院忠実之子)善書有乞寺務者率書与之既而奥聞基衡所捨寺榜怒遺舎人於奥取還基衡豪悍恃勢欲不肯還其妻諌乃還之使者勇而有計慮其後悔取輙破齎帰時人謂不減睨柱之氣 同上


藤原氏平泉系図
左大臣魚名公五男 (同色は兄弟)

△藤成――従四位下伊勢守――豊澤――従五位上下野権守――村雄――下野大橡従五位下――河内守――秀郷――従四位下世人俵藤太號――武蔵守――鎮守府将軍――千時――田原太郎――相模介――鎮守府将軍――千清――将軍太郎――正頼――従五位下下野守――頼遠――五郎大太夫下総国住人――経清――亘理権太夫――清衡――鎮守府将軍住奥御舘――家清 小舘『尊卑分脉に弟正衡あり(兄弟■人)』/基衡(――平泉鎮守府将軍――陸奥出羽押領使――秀衡――従五位上出羽押領使――鎮守府将軍――陸奥守――國衡 西木戸太郎/泰衡 泉冠者/忠衡 泉三郎/高衡 又隆衡 本吉冠者/通衡 出羽押領使『尊卑分脉に弟頼衡錦戸太郎泰衡誅之あり(兄弟六人)』)/清綱(――俊衡 (――樋爪太郎入道――師衡 太田冠者/義衡 樋爪次郎 又兼衡/忠衡  樋爪冠者 子聖円あり) /季衡 (――樋爪五郎――経衡 新田冠者) / 佐藤庄司妻 継信忠信之母)


御舘氏
盛衰記曰昔時将門(まさかど)か合戦の時御方したりし俵藤太秀郷か末葉(まつえふ)に陸奥出羽両国(むつではれうごく)の地頭にて権太夫常清其一男権太郎御舘(みたて)清衡其男に御舘元衡其男に御舘秀衡其男に安衡是なり

按に御舘と云ふ事公文(こうぶん)にも見え又奥の御舘とも称せり亘(わたり)権太夫の亘と同して苗字(めうじ)の如く聞(きこ)えたれと自称に如何なり常は経元は基に安は泰に作るへし


秀衡朝臣父子の事(或筆記に載せたるを其儘此に挙く)
奥州(おうしゅう)の秀衡は男子五人あり兄錦戸太郎は常によき馬を好(この)みて山野(さんや)を乗(の)る事を勤(つと)め元良の冠者(かんじゃ)は女子を友(とも)として遊(あそ)ふ事を専(もっぱ)ら好み伊達の次郎は山川の漁猟(ぎよれう)を好みて他(た)の事をせす泉の三郎は武具(ぶぐ)を好てよき物ある時は求来たりて自ら試(こころ)み刀剣(とうけん)なとも作物は人にも譲(ゆづ)り与えてよろしからさるはくしき折て捨(すて)たりとそ何れも文学(ぶんがく)は習はするに皆嫌(みなきら)ひて只他の業(げふ)のみを事としたり泉の三郎計(はか)りは夜(よ)を日(ひ)につきて文学(ぶんがく)の道(みち)にこりて勤めけるかある時秀衡は子供等の心(こころ)さしを試(ため)し見んとて秋(あき)の末つかた金鶏山(きんけいざん)へみなみなを伴ない山上に席(せき)をまうけて山河(さんが)の風景(ふうけい)を眺望(てうぼう)する折(をり)から子供をあつめて申けるは何(いづ)れもはるかなるあなたの山(やま)の尾上に一本の櫻(さくら)ありて今をさかりと見えて花の爛漫(らんまん)として開ける事雪かあらぬか皆々(みなみな)の目(め)にも嘸(さぞ)かし見ゆらんと申けるにおのおの延上(のびあが)り立上(たちあが)りつつ見ているにも父か仰(おほせ)の如く櫻花今(おうくわいま)を盛(さかり)と見えてしかもうるはしく見え侍(はべ)るなりといふに泉計(ばかり)は暫(しばら)くなかめつれとも櫻花(おうくわ)の見えさりけれは父の側(そば)に至て仰に随(したが)ひ見参(みまへ)らせ侍(はべ)れとも我目(わがめ)には花(はな)らしきもの少(すこし)も見え侍(はべ)らすとて打(うち)つれて帰(かへ)りぬ秀衡心に思(おも)ふにははななきをありといひしは彼等(かれら)の志を見(み)んとての手(て)たてなるに四人は皆実(じつ)はなき花を我(われ)に諂(へつら)ひて有(あり)といへとも泉計は無故(むこ)にこそなしといへり勇は錦戸すくれたれとも諂(へつら)ふ心あり元良は柔弱(にふじやく)なり伊達は義(ぎ)あるに似て勇(ゆう)なく泉は勇少しといへとも義(ぎ)ありといへり。『平泉地方には四季櫻とて秋も花咲く櫻はあるなり』


秀衡朝臣贈物
平家物語に云壽永二年『壽永二年は「安徳帝の代」紀元一八四三年』五月十二日奥の秀衡か許(もと)より木曽殿へ龍蹄二匹奉(たてまつ)る一匹は白月毛一匹は連銭葦毛(れんせんあしげ)なり軈(やが)て此馬に鏡鞍置て白山の社へ神馬(しんめ)に立らる。

東鑑に云文冶二年五月十日陸奥守秀衡入道有送進貢馬三匹並中持三棹等其馬一両日飼労則相副件使者可進上京師之由被仰左衛門尉朝家云々同冬十月朔陸奥國今年貢金四百五十両秀衡入道送献之二品可伝進之故也同四年夏六月十一日泰衡進貢駿馬黄金桑麻等于京師昨日至大磯駅可召留欠之由義澄申之泰衡同意豫州之間二品依令憤申給度々被尋下去月又被遺官使畢就之言上欠然而其身雖与反逆有限公物難抑留之由被仰出云々


陸奥国五箇荘年貢之事
台記云仁平三年『仁平三年は「近衛帝の代」紀元一八一三年』七月十四日去々年厩舎人長勝延貞為使下向奥州先年可増奥州高鞍庄年貢之由禅閤被仰基衡(金五十両布千段馬三匹)基衡不肯増之久安四年『久安四年は「近衛帝の時」紀元一八〇八年』禅閤以五箇庄譲余同五年以雑色源國元為使仰基衡曰可増高鞍金五十両、布千段、馬三疋(本数金十両布二百段細布十段馬二疋)大曽禰布七百段、馬二疋(本数布二百段馬二疋)本良金五十両、布二百段、馬四疋(本数金十両馬二疋預所分金五両馬一疋)屋代布二百段、漆二斗、馬三疋(本数布百段漆一斗馬二疋)遊佐金十両、鷲羽十尻、馬二疋(本数金五両鷲羽三尻馬一疋)其衡不聴國元其性弱不能責之空以上洛重遣延貞責之去年基衡申曰不得増所仰之数可増進高鞍金十両、細布十段、布三百段、御馬三疋、大曽禰布二百段、水豹皮五枚、御馬二疋、本良金二十両、布五千段、御馬三疋、遊佐金十両、鷲羽五尻、御馬一匹、屋代布百五段、漆一斗五升、御馬三疋者仰曰三箇所(本良、遊佐、屋代)所申非無其理依請至高鞍大曽禰両庄者田多地廣所増不幾猶減本数可進高鞍馬三疋、金二十五両、布五百段、大曽禰馬二疋、布三百段也今日任此数延貞持来三箇年年貢(久安六仁平元年二)年来貢数然而返却不受今年相合三箇年欠受之増年貢事成隆朝臣高倉預俊通本良預所勤進也


義経学兵法
俗説(ぞくせつ)に鞍馬寺(くらまでら)の奥に僧正か谷といふ所あり僧正といふ天狗栖(すみ)ける故に號(なづ)く義経此処に夜々(よなよな)行て天狗(てんぐ)に剣術(けんじゅつ)を学ひ軽捷(けいせう)を得たりと(平泉雑記に之を駁して義経か復讐の志を抱き豪氣にして身體軽捷なるを天狗に配し是に剣術を学ひたりなと形容していへるにやといへり)一説に京都北白川に鬼一法眼(ほふげん)と云ふ陰陽師六韜(とう)を蔵する由義経伝聞(つたへきき)て懇望(こんぼう)すれとも見るを許ささりけれは潜(ひそか)に其女に通(つう)し件(くだん)の書(しよ)を私閲(しえつ)し得て其術を得たりと云り(会津風土記に云義経鬼一か所蔵の兵書を携へて奥州平泉に赴くに鬼一か女皆鶴其跡を慕ひ会津藤倉に至り義経の事を土人に問ひけるに土人答て義経此処を通られしは五日以前なり今は追究ひ難かろへしといへは皆鶴再会期すへからぬを悲傷し難波池に身を投して死せり義経猶近傍に在しか之を聞て哀歎し其屍を歛め墓を築かしむ後人此に寺を創し難波寺と號す鬼一か兵書今に残れりと見へたり又義経高舘にある間行状繁雑なりし説も多かれと之を略せり)


清悦之事 海尊之事
土人相伝(つたへ)て云昔平泉に清悦といふ異人(いじん)あり自ら云(い)へらく余は本と洛人(らくじん)にして嘗(かつ)て源豫州の東行(とうかう)に従(したが)ひ平泉(ひらいづみ)に来りしか豫州滅後に生残(いきのこ)り民間に落魄(らくはく)して剣客(けんかく)となれりと(鎌倉実記に義経の雑色喜三太か名を清悦と云へり)所々(しょしょ)に徘徊(はいくわい)して時々(ときどき)旧時(きうじ)を談(だん)せしか其説多(せつかほ)くは世(よ)に伝(つた)ふる所(ところ)と異(こと)なり許多(いくた)の星霜(せいさう)を経(へ)て容貌衰(ようぼうおとろ)へす顔色(がんしょく)常に壮年(さうねん)の如(ごと)くなれは土人之を怪(あやし)み問(と)ひけるに清悦(きよえみ)答て云く先君(せんくん)景時に讒(ざん)せられて右大将の譴(しかり)を蒙(かうむ)り平泉に下(くだ)りて秀衡朝臣の保護(ほご)を頼(たの)み高舘に居(を)らるれは上下安堵(あんど)して間日(かんじつ)も亦多(おほ)かりき余一日伴を結ひ衣川に釣漁に出て水源(すいげん)に溯(さかのぼ)り終に路(みち)を失して忙然(ぼうぜん)たり忽ち磯上に釣(つり)を垂(た)るる翁に逢(あ)へり対話数刻(たいわすうこく)にして稍日暮(ややひくれ)に及ふ此(ころ)翁に誘(さそ)はれて行くに杳然(えうぜん)として??に入り飄然(へうぜん)として異境(いけう)に至る眞(しん)に武陵桃源の如し翁此に幽居獨坐(ゆうきよどくざ)するのみにて他(た)に人なし時に座傍(ざほう)に蓄(たくは)へたる赤肉を饗(きやう)せしか其味異(あぢこと)にして人間の物(もの)にあらす翁云く是則人魚(すなはちにんぎよ)にして之を得て嚼(あぢは)ふ者は必延命(えんめい)なりと余等此肉(このにく)の饗ありしを謝(しや)し其余(よ)をは裹(つつみ)となして更(さら)に他日(たじつ)を期(き)して別(わかれ)を告(つ)け本処に帰(かへ)るを得と雖とも嗟(ああ)既に世(よ)の変改(へんかい)して昔日にあらさるを見る彼処(あすこ)は定て仙境(せんけう)なるへし彼の肉(にく)を食(しよく)せしより稍身躰(しんたい)の壮健(そうけん)なるを覚(おぼへ)たりと云へり人々此奇談(きだん)を聞て驚嘆(けうたん)せりさて寛永の頃迄(ころまで)は猶世(なほよ)に在しか其後踪跡(さうせき)を絶て終(をは)る所を知らすとそ文治五年の旧話を記し清悦物語と題(だい)せし一書俗間(ぞくかん)に存(そん)せり寛永六年の頃小野太左衛門と云る者清悦に聞書せしものにして文治の頃より当時まて四百六十余年(よねん)なり(太左衛門は伊達政宗卿の七男柴田郡村田の城主伊達右衛門太夫宗高の家臣にして清悦を師とし剣術を学ひたりとそ)又常陸房海尊も義経従臣(じうしん)の一人なりしか彼の変乱(へんらん)に先ち他出して其難(なん)に遭遇(そうぐう)せす山中に遁(のがれ)て仙人となりし事清悦に同かりしなるへし(俗説弁に云常陸房海尊は園城寺の者なり後に義経に仕ふ高舘合戦の前山中に遁入り仙人となり今に至り富士浅間湯殿山なとに時々出現すと云り義経勲功記は備中の安達東伯と云者平泉に来り海尊が仙人となりて残夢と名を改て平泉に往来するに逢ひて昔物語の聞書せしを京の馬場玄隆信意潤色して一部の書となしたるなりとそ)神社考の説に奥州に残夢と云ふ者あり自ら字(あざな)を呼白と称し又秋風通人とも称せり所謂優婆塞の姿(すがた)にして風癲狂漢(ふうてんけうかん)に外ならす僧一休と友善(ともとしよし)にして禅法(ぜんほふ)の要(えう)を得たりと自ら云りとそ又元暦文治の間の事(こと)を人に語(かた)りて義経は云々弁慶は云々某は此事あり平氏と某処に戦(たたか)ふなと云り人之を詰問(きつもん)すれは我は忘(わす)れたりと答(こた)へさりしとそ天海僧正及ひ松雪は此残夢に遇(あ)ひけるか好(このん)て枸杞飯を食(くら)ふ故(ゆえ)天海も亦之を喫(きつ)し残夢の長生(ながいき)は蓋(けだ)し此枸杞飯に因(よ)るなるへしといへり残夢は常陸房ならんと云ふを天海聞て喜(よろこ)ひ人々より枸杞の?送を得(え)て之を嗜(たしな)めりと見えたり。

按に清悦物語の説疑ふへき異聞少からす清悦を義経の最後に際会せずして正に其生害の状を云ふものは葢し当時義経は蝦夷に遁れ杉目か代死せしを世には未た其実を知らすして本人の生害と沙汰せしを清悦信して言伝へたるなるへし頼朝卿帰國の後義経の寃を知り梶原を誅せられ再ひ奥州に下向ありて義経を弔はれしなと史伝と大に異にして事実も前後の違ひあり無下に妄誕と覚ゆるもの多し。


義経之従臣

盛衰記に載する注進目録を此に挙記す 伊豫守源義経朝臣之頭妻子息女之頭は不及持参 伊勢三郎義盛 片岡八郎弘経 鈴木三郎重家 亀井六郎重清 江田源三弘元 備前平四郎定清 熊井太郎忠元 武蔵坊弁慶 鷲尾三郎経冶 香川五郎秋季 蒲原太郎正重 同三郎正成 平賀次郎景宗 封戸次郎正則 同六郎正頼 諏訪三郎盛方 藤澤六郎家儀 信夫太郎秀就 秋田太郎盛純 白川右馬太郎廣秀 片岡兵衛尉経俊 権守兼房 川村三郎能高 福島藤次忠澄 右二十四人随豫州自京都来輩也此外侍十余人者於奥州奉仕する輩なる故不印雑兵都合首百十余級也中略義経方侍討死三十五人軽卒以下討るる者八十一人自害死したる女義女共に七人右上下男女共都合百貳拾人


高舘義経堂古器
甲鉢 一 太刀 一振(高舘跡土中より出たりとそ)


静女之書
義経の許に静より送りし文は曽て義経堂にありしか後新山祠に移し置き炎に罹りて失せたりと云(いへ)り。


義経廟上梁文
陸奥州高舘者源氏義経故城也義経薨後遂作墟荒天和年中当州太守仙臺羽林綱村公家臣河東田長兵衛定恒来冶郡之次登此山訪遺塵寒煙蔓草四顧荒凉故老相伝五十年前此地有霊祠定恒慨然而歎曰義経者大将軍頼朝公令弟其軍功威名市竪街童無不知焉豈有不封尺寸地剪一莖茅而安厥神霊乎即平泉衆徒共儀而白公大守命之草創一宇以鐵瓦葺之人咸號之曰義経堂其功其徳雖専帰大守原■濫觴実出自郡吏定恒之善心善心豈可不獲善報乎可嘉可尚仍賦一偈充上梁文偈曰

以平等心為墓趾 霊廣新成輪奐美 爼豆来藻(ころも)川漣潴 ??高舘城蒼翠 ?蒿悽愴如見之 勿疑台霊垂光賁 蓋代功名昨夢回 従前汗馬総兒戯 仮令四海闘英雄 争似早出離生死 血流漂鹵古戦場 純白蓮華棒雙址 我有一巻了義経 天龍八部常側耳 幸是猛烈大丈夫 降伏魔軍超仏地

大功徳主奥州刺史仙臺羽林伊達英冑藤原朝臣綱村公天和第三癸亥十一月七日松島山下比丘通玄達敬識(通玄和尚松島瑞巌寺住職他)


豊田城趾碑
此地也東西五十七歩南北三十九歩在昔亘理権太夫経清所城也経清戦死平泉之役以其子権太郎清衡有勤王之勲乃封奥之六郡復居之当時北上川在城之邊浮梁之称今存東北有高水寺趾東南有鎮岡(しづめをか)の祠白旌の池倶事詳封内風土記多歴年所人不知之立碑以伝焉

安永三年四月十五日 『後桃園帝紀元二四三四年』 藩儒 田邊希元 撰
                            江戸 三井親和 書
                            江刺郡 餅田邑人建之


怡志龍笛記
奥州平泉毛越寺自往古蔵一龍笛亦請余作之記四辻亜相公名以怡志今?丙戌仲一冬陽来復之候試一美之則清韻?亮憤?神暢実可謂奇宝哉按伏滔長笛賦達足以協徳宣猷窮足以怡志保身兼四徳而称雋故名流而器珍云々是乃亜相公摘取其名欠録之以代記幸勿嗤余之蔵拙焉  従四位下行丹波守狛禰好古識

平泉毛越寺(もうつじ)に伝へし龍笛(りうてき)ありいつれのころより伝(つた)はりけん年久(としひさ)しけれは其故(ゆえ)をしらす中ころ乱舞(らんぶ)の笛(ふえ)にものせしと見(み)えてしらへたかへり衆徒雅楽(しうとががく)の道(みち)に心(こころ)さし深(ふか)くもとのしらへにかへさんことを思(おも)へり僕(ぼく)としとし帝京よりゆきかへれはその楽所(がくしょ)につきてもとの音律(おんりつ)かへさせてよといふさらはとて此管をいてゆき奥丹波守好古にみせしめけるに実に行雲をととむるこゑひひきあへれはたたにうちおきかたしとて四辻亜相公説卿にみせ奉りぬ亜相まことにいみしき管にて千歳(ざい)の昔物(むかしもの)なりとていといたう愛(めで)させ給(たま)ひて怡志(たいし)てふ名をおほせてみつからかいつけてたまはりぬされはそのゆゑをしるして衆徒(しうと)のもとにおくることしかり法眼了珪。

平泉に前鎮守府将軍基衡室安倍宗任女墓仁平二年四月二十日と刻(こく)せる石塔(とう)あり東鑑(九巻)毛越寺(もうつじ)の條下に観自在王院基衡妻(宗任女)建立(こんりう)也とあるにより近代更に造立(ざうりつ)せしものなり東鑑は鎌倉(かまくら)のことは慥(たしか)なれとも他国(たこく)の事は證(せう)に取りかたき事多く事実違(たが)へる由は本志に弁(わきま)へ云(い)へるか如し平泉草創(そうそう)のことも清衡康保年中移江刺郡豊田舘於岩井郡平泉為宿舘歴三十三年卒とあり清衡の死は大治元丙午といへは三十三年前は嘉保元甲戌なり或云羽州上山近所金澤といふに平泉同然の石塔(せきとう)あり何の所縁(しよゑん)にや秀衡室は羽州(うしう)の酒田にて終(をは)り某時(ぼうじ)に遺像(いぞう)あり従行の者の子孫(しそん)も数家相続(すうかそさうぞく)すといへり。


岩土穴
平泉鎮守新熊野社社に遺(のこ)れる岩土穴(神竈と称せり)何(なん)の為(ため)にせしか訝(いぶか)しき由(よし)本志に云へるか如(ごと)し岩(いわ)を鑿(ほ)り作(つく)れるか一所に数箇ありしものにて今も残(のこ)れるは其穴砂石に埋(うづも)れてあり土人之を忌畏(いみおそ)れて其中に物有り無(な)しやを?(しらべ)る者なし今の山徒之を評して昔(むかし)時社内(しやない)に貴族(きぞく)の産子の胞衣(えな)を?(うづ)めたるなるへしと云へり実に今も神社に胞衣祭とてあるを思へは此評当(へうあた)れるか如し。


舎利塚(しやりづか)
光堂(ひかりどう)の傍(かたはら)にあり円光大師の従僧(じうそう)にて奈良大仏権化(くわんげ)の為(ため)に下(くだ)りし阿波之介(元狩人のよし)か墓(はか)なり昔(むかし)時光堂(ひかりどう)の椽(えん)に卒死せるを即(すなはち)火葬しけるに其骨舎利となれるを埋(うづ)みたるなりそと塚(つか)に六字の名號(めいごう)を鐫(けづ)れる碑(ひ)を建たり。


光堂之塔(ひかりどうのとう)
大乗妙典一字一石宝塔(ほうとう)と前面に記し其傍に故鎮守府将軍藤原朝臣三衡英君ノ為ニシ奉ル冥福ヲ薦者ナリ云々嘉永五年十月十七日関山中尊教寺大衆敬白とあり。


千厩旧趾(せんまやきうし)
昔時秀衡此に厩舎(うまや)を設(もう)け馬(うま)を飼(かひ)し地(ち)なり其数千匹に及(および)し故に此名ありといへり其地磐井郡東山厩村にあり平泉より小道四十余里を隔(へだ)てたり『小道一里は六町なり』(義経記に奥の秀衡名馬千疋鎧千領持つ云々○今千厩に於て麻を以て■(革+龍)鞦、(おもかひ)当(しりかひ)胸(むなかひ)を作る之を千厩素生(しらき)三懸と云古来の名産にして國主に貢し諸国の士庶之を賞し用ゆ之を製し始し郷説あれと蓋し秀衡時代の潰伝なるへしとそ)


大門地蔵(だいもんじぞう)
磐井郡金澤村にあり平泉より三里余(よ)を隔(へだて)て東南に当(あた)れる里俗大門地蔵権現(だいもんじぞうごんげん)と云り堂中地蔵(どうちうぢぞう)及多門廣目の二天水月観音(てんすいげつくわんおん)を安置(あんち)す共に運慶の作なり二天元門に在りしを其門荒廃後堂(くわうはいこうどう)に移せり(門趾を今二王原と云ふ)相伝ふ昔(むかし)時秀衡居舘(きよくわん)の大門を此に建て威光(いこう)を輝(かがやか)せしと(因云伊澤郡下り居と云所に平泉北方の大門あり舘より三里余北なり往来人下乗せしより下居の名ありとそ)


花流泉(くわりうせん)
磐井郡花泉村(元清水村といへり)に在り平泉より三里余を隔つ伝て云ふ秀衡茶水を汲(くみ)し石泉なりと岸上に花樹あり春風之を吹て香紅水(みづ)に浮(うか)ふ故に名くとそ。


舞臺趾(ぶだいあと)
平泉より小道七八里東狐禅寺(こぜんじ)村に在り秀衡猿楽を見し舞臺(ぶたい)ありとそ今地名(ちめい)となれり。


芝山坂(しばやまさか)(逆芝とも書り)
五串村本寺(ほんてら)磐井川邊(へん)に古塚あり高さ八尺許(はかり)方二間余是慈慧大師(じえいだいし)の白骨(はくこつ)の首を葬(ほうむ)る地にて骨寺の元(もと)なる事本志に云り土人口疾ある者是に祈(いの)れは即癒(い)ゆといへり。

西行法師(さいぎやうほふし)の撰集抄に過ぬる頃陸奥平泉郡■(木+例)と云ふ里にしはし住侍(すみはべ)りし時坂芝山(さかしばやま)と云山あり里をはなれて十余町の川はたに高一丈余なる石塔(せきとう)を立たり其故を尋(たづ)ぬるに或人の申しは中頃此里(このさと)に猛将有(もうせうあり)其女子なりける者法華経読(ほけけうよみ)たく侍(はべ)りけるか教(おしふ)へき者なしと朝夕なけきけるに天井(てんぜう)の上(うへ)にて聲(こえ)有て汝経(けう)を求(もとめ)て前(まへ)におけ我爰(ここ)に居(い)てをしへんと云あやしく思ひなから経(けう)を得(え)て前に置(おき)けるに天井(てんぜう)の上にて教へ侍(はべ)り八日と云に皆習(なら)ひ終(をは)りぬ其時(そのとき)天井を見るに白く曝(さ)れ苔生(こけはへ)たる首に舌(した)の生(いき)たる人の如くなるあり此白骨の教侍(おしへはべ)るにこそと強(しひ)て尋(たづね)けれは我はこれ延暦寺(えんりやくじ)の昔の住僧慈慧大師(じえいだいし)の首なり汝か志(こころざし)を感(かん)して来て教侍り急(いそ)き我を坂芝山(さかしばやま)に送れと泣々(なくなく)此山に納(おさめ)て如是塔婆を立たり此女は尼(あま)になりて此山中に庵(いほり)を結(むす)ひて侍りしか此二十余年に往生(わうぜう)し侍ると云ふ山の奥に口三間なる屋の形(かたち)はかり残(のこ)れり此女の名を其姓其名流も尋(たづね)たく年月も考(かんがへ)たく侍(はべ)りしかとも詳(つまびらか)に知れる人なくてしるすに及はす此処(ここ)は無下(むげ)に情(つれ)なき里にて廿四回の前の不思議(ふしぎ)をもたしかにしらさりけり。

坂芝山の故事は今本寺にありて元骨寺といひしよしは本志骨寺の條に云へるか如しさて撰集抄の評は其跋文に譲りて故らに之を論せす跋文に云く

撰集抄者西行上人之所作也或謂不也葢人物時代和歌作者齟齬者夥矣豈彼上人之作哉雖然難波春夢江口秋雨殆非他人之詞矣余嘗見此書之序曰巻擬九品浄土事此八十随好就而考之凡属事蹟者一百余段想是其三十余事則後人之所添而非上人之記欠読者不取其疑只翫其余焉耳慶安辛卯歳八月中瀚桑門無名子題

按に西行は佐藤氏にして其先秀郷朝臣に出て秀衡朝臣同宗の人なりし故に秀衡朝臣を問て平泉に遊ひし事東鑑に見へ又其時の歌諸集に見へたり■(木+例)の里は一本に柳の里とせり西行の柳清水の歌縁ありて覚ゆ。

平泉野、山王窟、六所明神、不動窟、観音、元三大師塚尼寺跡、柳の里(西行庵の跡あり)、馬坂、以上骨寺に属す。


田村堂(たむらどう)
達谷窟の傍にありといへとも今はなし又一関村新山に田村社(八幡宮相殿)あり坂上将軍を祭(まつ)れり(新山の社は元禄七年三月田村因幡守坂上建顕建立)『隊蜂、台峯とも書し下黒澤にあり泰衡陣を張り西軍と戦ひし処なり』


神楽岡(かぐらをか)
遠田郡筧嶽観音堂北一町余に願念嶽(ぐわんねんだけ)と云所あり是田村将軍の夷賊高丸を殺せし神楽岡(かぐらをか)なりと云ふ但し奥州中同名(おうしうちうどうめい)の地所々にありとそ。

神楽岡(かぐらをか)
其地詳ならす坂上将軍夷賊(えぞ)を誅(ちう)せられし所にして達谷窟に近かかるへし或は営か岡とも云り営か岡は栗原なり。
名迹古今詩歌追加


衣郷
夫木里類  鷹司院按察
今(いま)よりのかすみもさこそたちぬらめ衣(ころも)のさとにはるしきぬれは

      平為盛
夜(よ)をかさね深山(みやま)たち出るほとときす衣(ころも)のさとにきつつなくなり

此歌為忠朝臣家参河國名所哥合衣里と端書あり三河國にも同名ありしなり


衣関
詞花集別  和泉式部
もろともにたたましものをみちのくの衣(ころも)の関(せき)をよそに見るかな

続拾遺集旅  大蔵卿行宗
みやこいてて立(たち)かへるへき程ちかみ衣(ころも)のせきをけふそとひぬる

同  衣笠内大臣
たひひとのころもの関(せき)をはるはるとみやこへたてていくかきぬらん

同戀五 宝治百首哥奉りける時寄関戀  前参議忠定
あとたえて人(ひと)もかよはぬひとり寝(ね)の衣(ころも)のせきをもるなみたかな

続千載集賀   贈従三位 為子
ゆく人(ひと)もえそあけやらぬ吹(ふき)かへすころもの関(せき)のけさのあらしに

夫木集書 洞院攝政百首花  大納言経成
花(はな)のかをゆくてにとめよ旅人(たびうと)のころもの関(せき)のはるのやまかせ

嘉元百首奉りける時旅  津守國助
たひ寝するころものせきをもるものははるはるきぬるなみたなりけり

堀河百首  藤原顕仲朝臣
しらくものよそにききしをみちのくの衣のせきをきてそこえぬる

嘉應二年十月法性寺殿歌合関路落葉  土御門内大臣
ちりかかる紅葉(もみぢ)のにしきうへにきてころもの関(せき)をすくるたひ人


衣川
新古今集  源重之
衣(ころも)かは見(み)なれし人(ひと)のわかれにはたもとまてこそ浪はこえけれ

新勅撰戀一 左京大夫顕輔家歌合に  法性寺入道前関白太政大臣
人(ひと)しれす音をのみなけはころも川袖(かはそで)のしからみせかぬ日そなき

六百番歌合  隆信
はるかなる程とそききし衣川かたしくそての名にこそありけれ

玉吟  家隆
ころも川(がは)けさたちわたる春(はる)かせにとちしこほりもとけやしぬらむ

夫木集 永承五年十一月俊総朝臣家歌合水鳥  
  読人しらす
ころも川(がは)つまなき鴛のこえきけはまつわかそてそさえまさりける

  ○
きのふたちけふきてみれは衣川裾(ころもがはすそ)ほころひてさけのほるらん

  山縣内務大臣
ほころひし衣(ころも)の舘のあととへはつゆけき袖(そで)に秋風(あきかぜ)そふく

  島地默雷
月影(つきかげ)も光(ひかり)をとめてますらをの形見(かたみ)に照(て)らす関山(せきやま)のそら

  中尊寺行誡
いろいろに替(かは)るむかしもかはりなき法(のり)の光(ひかり)をけふ見つる哉(かな)

  大立目守拙
琵琶柵上春花落。 楊柳営前禾黍繁。 事去千年人不見。 緑陽深処聴玄猿。

  大槻磐渓
三世豪華擬帝京。 朱樓碧殿接雲長。 唯今唯有東山月。 来照当年金色堂。

  同
一宮楊柳是平泉。 掌握二州兵馬権。 上國戦塵飛不到。 春風占断九十年。

  同
菅月絃風鎮奥州。 余音嫋々託緇流。 一聲龍笛伝家秘。 吹起三衡全盛秋。

  久米水屋
六郡青山一水長。 春風吊古立斜陽。 英雄割拠陳迹。 蕭寺只余金色堂。

  内藤碧海
豪奢聞説学帝京。 楽曲猶伝当日聲。 乃父胎謀留一剣。 阿兄誤事破長城。
百年陳跡空梵宇。 三世遺珍古釈経。 奥地如今多感慨。 更教弔客動愁情。


達谷
  大岡粟齋
鼠賊魂飛莫敢前。 田公一箭覆山川。 余威萬世不銷尽。 化為多門百八天。
 
 
 

平泉志附録終
 


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2002.5.27 Hsato