平泉志巻之上


旧一関藩教成館學頭 故高平眞藤 編

     編者離孫 菅原直諒 増注

 

平泉は、陸中國西磐井郡平泉村にして、古へ陸奥國吾勝郷の邑名なり(陸奥郡郷考に云撰集抄に平泉郡とあれど郷里を指して郡という事多しと) 此邑及び中尊寺戸(と)河内、達谷、衣川(衣川は胆澤郡に属せり)四邑を衣の里といふ是等の諸邑、皆同郷なりしなり。此書平泉の古蹟に係る事を主と記すに由り、其本名を挙て綱領とす。

按に相原友直の平泉雑記に、中尊寺は藤原朝臣清衡建立以後の名にして、元の内なるべし。今二村となれるは後世検地の時に平泉広き故に、是を分ちて、中尊寺村を置きたるにやといへり。中尊寺の縁起に、当寺は慈覚大師の開基にして、其後五十六代清和天皇の御宇貞観元年に、中尊寺の号を賜ひ、四至の境を定めらると云説に豫れば、寺号の起れるは清衡以前にあり、中尊寺の山号を開山と云は、衣関縁ある古名也中尊寺の條下に明記す) 
 

平泉館(ひらいずみやかた) 
伽羅御所も之に属し(又嘉館と称し伽羅楽とも書せり平泉雑記に屋材に伽羅樹を用いたる故に此名ありしならんと云り、或は伽羅と名付けしは黒漆して唐様に造れるより云たるか)旧趾は中尊寺中現在の金色堂正面にあたり十余町を隔つ高館の南にして無量光院(新御堂とも号す)趾の東北なり(従来御所屋敷の名あり其地当時三町南北三町許の平地んみして今田圃となり農家数軒あり、『官道、今の国道を云なれど改修度々ありて以前と小差あり』)

本館は藤朝臣清衡基衡秀衡三代の居館にして秀衡の世子泰衡も相継で居れり。

(按ずるに東鑑も云無量光院の北に並べ宿館を構へ云々同院の東門に一郭を構へ伽羅楽と号す、秀衡居なり、泰衡之を相継て居所となすと、此宿館は即ち平泉の館にして本館に準しては伽羅御所をも柳御所をも相包ね其名を平泉館と呼ぶなるべし)

始め清衡奥六郡を領し、江刺郡餅田郷豊田館に居りしが、嘉保元年此平泉館を営て移れり、之を奥御館(おくのみたて)と称せり。館の南に酒泉の跡あり。昔時、醴泉(れいせん)ここに涌き出て、其水甘味なるを以て、この名ありしは、平泉繁昌の時の祥瑞(しょうずい)と云へり。里俗語伝へて、泉酒と称せしか。今は廃たり、平泉の名出所は、下文骨寺(こつじ)の條(くだり)に述ぶ。
 

西木戸第(にしきどてい)
(或いは錦戸とも書り)旧趾を八花形とも云ふ、此館は秀衡の長子西木戸太郎国衡の居所、其右隣は、同四子本吉冠者高衡(又隆衡)の居所なり。

(東鑑に西木戸に国衡の家、隆衡の宅、相並云々とあり西方の郭門を、西城所と号して其包囲にあたれるなるべし。隆衡の居所は本處は、本吉館と号し本吉郡志津川邑にもあり。本吉は領地にして其治所の館なるべし。之を朝○館ともいへり。又東鑑に観自左王院南大門の南北路の東西及び敷街に、宿倉町を造営し、又数十の宅を建て高屋の西南北数十宇の車宿あり云々。八花形は南大門「寺門なり」趾の近傍にあれば、是等も郭内にして館舎続きなりしなるべし)
 

忠衡第(ただひらてい)
旧趾詳ならず、三男泉三郎忠衡の居所なり

(東鑑に此居所泉屋の東にありといへり、按するに彼の酒泉の辺を泉屋と云うか、若然らば平泉館に属せるなるべし、一説に琵琶の棚即ち泉城にして此に住すといへり)
 

柳御所(やなぎのごしょ)
旧趾平泉館の北にあり清衡基衡の居所にして古来の名称なり、後前民部少輔藤原基成之に居り源義経も亦都を落て秀衡の許に来りし其始め之に居りしなり、此館は高舘の下にして東にありと云も高舘は義経の為に更に此館を分割して築かれしものと見ゆれば(高舘の條下に述るが如し)基成の居所とは別なれと元是同じ、柳御所の境内なるべし、今の地形を察するに河流の変するに随ひ沿岸の地崩壊して狭隘(きょうあい)に至れるなり、今柳御所と称する所高舘の東南新山社の下地倉所田圃の地也(古絵図に二ノ丸をあるは此辺まるへし)
 

猫間淵(ねこまふち)
高舘の東南に其跡あり、平泉館と柳御所の間にして今は田圃なり、地勢を察するに高舘の捏渠(ねっきょ ママ)より続きて当時の要害の所に在しなり(高館の変に二十丈の大蛇此淵より出たりと云ふは清悦物語の怪説なり、中尊寺の宝物中に遺れるは其蛇の歯なりと云伝へり)俗説に猫間は扇前と云ふ、女房此淵に身を投じて死せし故に此名ありとも、(或いは其亡霊大蛇となるともいへり)、また猫間扇に似たる石中島にありし故に号くとも云り

(相原氏の旧跡志に云、按するに京千本釈迦堂は、秀衡の建立にして其地は猫間中納言光隆卿の家司岸高宅地を捨て寺とせしと雍州附志に出ず、猫間といふは是等に縁る事績ありしにやといへり)
 

無量光院跡(むりょうこういんあと)
(新御堂と号す、俗にシンミトウと称し、又訛りてシミンタウともいへり)
高舘の南にして伽羅館跡の西となりなり、秀衡之を建立す、堂内の四壁に観経の大意を図(か)す狩猟の図は秀衡自ら画きしと云へり、本尊丈六の弥陀なり、院の荘厳並びに地形に至るまで宇治平等院を模せりとそ三重堂跡、金棲跡、梵字池(弥陀の種字の形を掘りしと云ふ院跡の前にあり)今此地統て田圃にして其間の礎石、庭石など稀に残れり、毛越寺に属す。按するに東鑑に、平泉炎上の後、頼朝卿歴覧の事あれば泰衡亡滅の時、放火すとの云伝へるは誤りなるべし。

当院の侍僧助公、文治五年一二月泰衡を跡を慕ひ叛逆の聞えあるよし、嫌疑を受け囚虜(とりこ)となり鎌倉の廰(ちょう)に出さる、けだし此詠歌に因るか。

    昔にもかへらぬ夜半(よは)のしるしとて今宵の月もくもりぬるかな

梶原景時の推問に対し九月十三日夜月色浮雲の為に掩(をほ)はれ懐旧の情を堪へず此歌を詠吟せしのみにて、更に異心なき由(よし)、陳(ちん)せしかば景時之を嘉(よみ)し、即ち頼朝卿に言上に及び頼朝卿感心の余り褒賞して本所に遣還さると東鑑に見えたり。
 

金鶏山(きんけいざん)
高舘の西南に当れり、秀衡其象(かた)を富士山に擬し高さ数十丈に築き黄金にて鶏の雌雄を作り、此山上に埋めて平泉の鎮護とせしなりと、又郷説に秀衡漆一万盃に黄金一万を混へて土中に埋蔵し置て子孫に譲り伝ふといへるは、けだし此所なるべしと、其時の歌なりとて口碑に伝へ俗間に唱ふ。

   朝日さし夕日輝く木の下に漆万盃こかねおくゝゝ

按するに昔時、此所に巨万の遺金を埋蔵し且此秘歌を伝へりとも評すへけれど、世には是に類せる諺他所にも間々ある事なり、附会の説なるべし。
山上に古木の杉一樹ありしか、今は枯て無し、昔時築きたる容ち今も瞭然たり、山下の東北に向て熊野社祉金峰山花館造山あり(熊野社花館の事は毛越寺鎮守の條に出つ造山は金峰山は金鶏山を造るに由る名なるへきか、此山の辺は総て新御堂を兼ね伽羅館に属する園地の如し)又山下の北面に瓜破泉といふあり、其水寒冷にして清衡盛夏に瓜を涵(ひた)し、之を破りて食するに用ゐしと言伝ふ(此泉今は農家の側ら竹林の下に湧き出る清水にして常用の井水となれり)

編者云、館蹟の辺、田園広漠人家稀疎にして春は鶯花の艶なるに全盛の昔憶はれて、哀れに夏は地辺の蛍火(けいか)穏見(いんけん)の光、鬼火(きか)を覚へて冷しく秋は野叢(やそう)の風露河水の清音山間の明月殊に淋しく、冬は霜後の落葉雪裏(せつり)の乱鴉(あ)いと寒く、戦時の昔もさながら眼前に浮び懐古の情を惹かさるなし。
 

高舘(たかだて)
(又衣川館と号す)源義経の旧跡なち、里俗之を判官館とも云へり、中尊寺の東にありて八町余を隔つ。今其所在を高舘と云り、此館趾は百年前の古城書を考ふるに東西四百六十間余南北百三十間余高五十間なり、当時北上川東山の麓を流したりしも今は此館の下を流る古昔の図を以て之を見れば百年以来の事にして、しばしば洪水の為に崩壊し、今は狭隘甚しと相原氏の雑記に云り、此記は安永年中にして、今より(今とは明治十八年)百十年前なり、東鑑嘉楽館の條に云く、往時北上川長部山の麓を流れ、其の河東に道路あり、永橋を架して、往来し後年西畔に流れ、亦後に洪水瀰漫(びまん)して舘下の地を失ふとあれば、河流の変せしは最も古き事にして館趾崩壊して狭隘になれるは、後世の事なりき。其地形は山上平坦の所、僅か十間より廿間に至り、東西南北は八十間許高低三段にして西北の高地に義経堂(義経堂に隣りして兼房の墓ありと伝へらる。然れば戦死せし處と墓とは別々となるなり。又謂う後年芭蕉曾良を伴へて此館に上りし時、曾良の句あり。「卯の花に兼房見ゆる白髪かな」此句碑を郷人此館上に建てしとの説あり。句碑と墓とを混同せしにあらずや。今や二つ乍ら何れにあるを知らず。)(今は此堂のみ東面なり)

東南に新山社(古社跡に勧請せるなり、昔時羽黒権現とも云へり)高知は狭隘にして十間四方許(ばかり)なり。堂頭は老木蔚茂(いも)し、堂後の山地切断せり。裏面は崩岸絶壁数十丈俯て、北上川の曲流を見仰ぐて東山の郡峰を見る。昔時は東北に館門あり、士邸あり、市街に続きしなり、今は此館山の過半を没し、殿宇の跡と認むべきなし。後世?下より、殿材の埋木(うもれぎ)出つと是余燼(よじん)ならん。表面は社堂に詣る坂路急ならず、下れば田を隔て官道なり、此辺昔時は捏渠(ねっきょ ママ)なりしとぞ山の半復西に向ひて馬場の跡あり。新山社の東南の麓を今柳御所と云り。

柳御所の條下に詳なり。按に本文に云へる嘉楽館とあるは其地所方位違へり、北上川の柳御所跡に迫り流れて、其下地を失へる上にて、又嘉楽館にも近く、其下地とも云ふべきが如し。相通じては諸官を包稱(ほうしょう)し、平泉館と呼ぶも子細なければ、かく云るにもあるべし。一説に義経基成と共に柳御所に居りしを秀衡義経の為に故らに営を構へられて、之を高舘と号すと云へり。義経亡(なくなり)て後も基成は、此地に居り、平泉没落の際といへども無事にして、後に降参すと見ゆれば、固義経の居所と基成の居所と別なりし事明けし。さて柳御所の境内といへども一層高知なれば、高舘の名ありて、自ら両所に分かれたるべし。又基成柳御所に居ると云ひ義経高舘に滅びしを柳御所とも云るは其区別有を共に混して云るなるべし)

東鑑を始め、観蹟聞老志等にも此館阿部頼時築く所にして貞任之に居れりとするものは衣川館とも云ふに依て、彼の衣川柵の事に謬伝せるなるべし。

編者云館上に、古来御所桜とて、ありしと言伝へたれと。今はなし。北面は茫々たる大河を隔て、巌々たる究崖の上に弧堂を望む。南面は樹木森如として、白昼暗く、夜間梟狐の声を聞く。噫物(あいもの)換り、星移り、昔時正門の地、変じて、裏面となり、裏面しりぞきて表面となれり。桑盆海感懐を深む。
 

弁慶宅地跡(べんけいたくちあと)
高館の北(きた)にありて今北上川の流の邊(ほこり)なるへし其居所跡(きょしょあと)を指(さ)し難(がた)し。

 

同墓跡
中尊寺表坂(をもてさか)の下にあり今は櫻川茶亭の庭内(ていない)なり其處の松樹を弁慶松といふ樹下に碑(ひ)あり俳詠(はうえい)を勒(ろく)す。

 

色(いろ)かへぬ松(まつ)のあるしや武蔵坊(むさしぼう)     素鳥

              素鳥は坊中(ぼうちゅう)法泉院より出(い)つ

『或人謂ふ素鳥は江都の僧にして天明年中行脚して來り法泉院に客寓せしなりと。天明八年の奥州筋巡見道中記、文化年代の東山志、文政年代の奥羽名所記には共に松樹の記事あれど碑の記事なし』

又南畔に斜對(しゃたい)し薄墨櫻と云ふあり弁慶の手植(てうゑ)といへと今は原木枯て継木なり。

附云衣川中(なか)の瀬(せ)と称し弁慶最期(俗に弁慶立往生と云へり)の所(ところ)と傳(つた)へたるは今北上川変して是に衣川の落合ひたる其邊なるへしとそ。
 

鈴木宅地跡(すずきたくじあと)
高館下の櫻川下流(かりう)に近し松あり鈴木松といふ昔時生害の所ともいへり。(松は継木なり)
 
 

亀井塚(かめいつか)
高舘の西北二町余にあり亀井六郎重清か墳墓なり。塚上の松を亀井松と云ふ。(之も継木なり)
兼房碑(かねふさひ)
亀井塚の西なり。増尾十郎権頭兼房の墓標にして石塔建てり。高三尺余広一尺余文字煙滅してえず。松もあり(後木)。当時生害せし所とも云り。

(一説に兼房は義経の乳父にして高舘落城の時自害し、其墓は高舘の中段にありと。いずれか是なるを知らず)
 
 

束稲山(たばしねやま)
(一名駒形嶺ご號す諸書に之を多和志根山と出せり。山勢の撓みたる容体より云る名なるべしとぞ。歌枕秋寝覺には、たはしねと書き眞名も、多波志根と副て西行の歌を載す。今の歌人之に、隨へり。此字義を、束稲として、書初しは、何比にや、何れか古く何れか正しからむ。未た考へず。)

『束稲山、袴腰山とも號し、把稲山とも書せり、或は櫻山と唱へ、土俗長部山と謂ふ』

今の東山長部山なり。此山平泉に對し、東より北に蜿曲連亘して、佗山に接し、秀峰清景画くが如し。中に就て袴腰と云う。嶺高く抽て、舞草山全面に蟠踞し、烏兎森の山勢突兀として、東方に並へり。樵路羊膓を攀ち、渓叡幽遂にして、山家林間に隠顯せり。昔時安倍頼時、此山に櫻樹を一萬株植うと云り。

(東鑑に海陸三十里の間を兼ね櫻樹を並へ植う云々と有)

櫻花峰續き爛漫として、河水に影を投せし由、語傅へて其多かりし事は、西行の歌にても知られたれと蚤既(はやすで)に其の木、枯絶えて、今は唯昔の春を想像するも三色水光平泉地方第一の美景なり。

(磐井郡の内北上川東を東山と云ひ、東磐井とす。東山の名は、続日本紀延暦八年の條に見へたれば、最古し、舞草山(もぐさやま)は、山勢金華山に彷彿たり。白山嶽と号し、吉祥山東城寺と云ふ寺ありて、馬頭観音を安ず。大同年中、田村将軍の勧請と云ふ。是本会式内舞草神社の称あるを以て、維新後改革ありて、神社に帰し、今は村社となれり。山の中腹に大夫ケ岩と称する大石あり。鉄落山と云ふは此山の東西にあり。往古鍛冶刀剣を造りし跡にて、源将軍討伐の時、都の刀工を召下し、之に住せしめ、其子孫秀衡の代まで、相続し舞草及平泉に居ると云ふ平泉の阿弥陀堂の獨臺(どくたい)を造りしは舞草森房と云ふ名刀工なり)

因云、東山は、最古名なりといへども、都俗に鄙俗も習ふは、自然の勢いにして、平泉の盛時に何事も相競ひて、都風に擬せし事、其の遺跡に徹して知るべく、当時東山も地勢の似たるを以て洛東に準ずる意にて、専称せし事と思はる。其所部に大原という村名あり。又ヤツセと云ひて八瀬に似たる地名もあるなり。

山家集
みちの国に、平泉にむかいて、たばしねと申す山の侍るに、こと木は少なきように、さくらの、かぎりみえて、花の咲きたるをみてよめる 西行法師

   聞きもせずたはしね山のさくら花吉野の外にかかるべしとは

按ずるに此歌、夫木集にはみちのくのたはしね山の桜花吉野のほかにかかるしら雲と出つ。
附云、束稲山に登りて、仰見れば、東に室根蓬の二山秀出し、西に駒形根雲を戴て聳え、南には七森の青薫を雲外に望み、東南は、遙に海波日に映して、閃くを認む。北は山脈伏起重疊(じゅうちょう)として限界を遮(さえぎ)れり。又附瞰れば、田野綺席を敷き、炊烟羅帷を繞(めぐ)らし、河流翠帯を纏(まと)へり。
 

北上川(きたかみがわ)
(古くは來神川とも書く)
岩手郡厨川柵より直北廿許里余り奥なる地に、北上山通寶寺と云う観音堂あり。里俗御堂観音と号す堂の傍に弓弭(ゆはず)の池とて方一丈なるか。是より清水湧出て懇々として流れるは、即ち其の水源なり。(昔時頼義将軍士卒の渇きを医せんと弓弭にて岸を穿たれ、此冷水湧出たりと言伝へり)

北上川、今は平泉高舘の下を流れる大河なり。東鑑の説を挙け、高舘の條下に云へる如く。昔時は、長部山の(東稲山なり)麓を流れ、今の長部沼と云う所。其の古水脈なり。當初櫻川の稱ありし事。下文に述ぶ。
(此川の水脈岩手、志和、稗貫、和賀、伊澤、江刺、岩井、登米、本吉、遠田、桃生の諸郡を過き文脈し其一脈は牡鹿郡石巻港に、一脈は本吉郡追波海に入る、水源より此に至り大凡五十里に及ぶ)
 

櫻川(さくらがわ)
高舘中尊寺の間にあり。
広さ三間許、其源西山に出て、東流れして、北上川に入る。北上川は、昔時、束稲山の麓を流れて、彼名高き山桜の影相映し、又紛葩瓢零(ふんぱひょうれい)して水面に浮ぶが故に桜川の名あり。水路漸転して、高舘の西畔に及び、旧地に遺れる其名をも移して、桜川と称せしか。

此小川の名の如くなれるなるべしとぞ、是に架せる橋、即ち官道にして、其所に茶屋両三軒あり。屋後の眺望、最桂絶なり。東北束稲山を始め、江刺の衆巒(しゅうらん)岩手の遠岳に連亘(れんこう)し、高低重畳として、雲外の翠嶺に限界を極む。西は関山を隔て、伊澤の駒か嶽、峨々(がが)として常に雪峰を仰げり、北上川一帯水源、杳々(ようよう)として、南流し、又東流し去りて、峡中に入る遠帆の好風近棹(きんとう)の桂景さながら、画くが如し。衣側の下流北上川に入り、一橋其中流に斜にして、青松郊路を夾み、旅客しょうようとして頭を回らせり。ああここに藤豪源雄の形勢い異なりし昔時も想遺られて、其俤(おもかげ)眼前に浮べり。

 
葛西宅地趾(かさいたくちあと)
高館の西中尊寺の南に在り。文治五年?朝卿下向ありし時、葛西三郎清重に命して奥州總奉行として平泉郡内検非違使(えびゐし)の事を管領せしめらる。此所に營(いとな)みて住居し、後登米郡に移住す。(平泉高館藤原氏の條下にも言り)
 

佐藤庄司宅地趾(さとうしょうじたくちあと)
東山長部(おさべ)村長部沼(北上古川)の上にあり。佐藤庄司基治は秀衡の族臣(ぞくしん)なり。居館(きょかん)は伊達の丸山にありて、義經顧問の事見えたり。又基治か二子嗣信忠信は、義經に事(つか)へて爲に死せり。解し難し。是に在し在地は蓋し役邸なるべし。
 

諸士小路並市井趾(しょしこうじならびにしせいあと)
今北上川の東に在り。旧市街の名田圃(なたんぼ)に遺(のこ)れるものあり。北上川長部山の麓を流れたれは、高館近く衣川流れて、其邊より北上川の邊まで市街続き、家並敷りと見えたり。平泉の古図には此間に古道とて山目村(やまめむら)より今の北上川の地を過て徳澤山(とくさやま)の東畔古関所と云邊に通(つう)したるあり。此古道と云るは平泉時代の街道なりし事、今の官道(かんどう)の平泉館跡に通(つう)したるを以て知られたり。東鑑に北上川の東に道路あり。長橋を架して流れりと在は、長部山に據(よ)る道の事にして、是に異なるべし(古関所の事衣関の條下に云へり)

因云士小路跡と云ふは、平泉館より南の地にもあり。秀衡家臣宅地所々に在しと見えたり。
 

藤原氏(ふじわらし)
大職冠(たいしょくかん)鎌足公四代の裔(えい)正二位左大臣魚名公の五男伊豫従四位下(いげ)藤原朝臣藤成五代の孫は、鎭守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)武蔵守従四位下(いげ)田原藤太秀郷朝臣にして、此朝臣より四代下總國の住人五郎太夫頼遠の嫡子亘理(わたり)權太經清陸奥の國に住し(亘理郡を領し其稱を氏とせしなるべし)、安倍頼時の女を娶る。かくて經清、康平五年『康平五年は、紀元一七二二年』頼時及び其嫡子貞任等の反逆に黨(くみ)し、源頼義朝臣に誅(ちゅう)せられ、其妻清原眞人武則に嫁(か)し、二歳の兒を携養(けいよう)せり。武則之を嫡子武貞(荒川太郎)の継子(よつぎ)となす。即ち清衡なり『清衡は則ち紀元一七二一年生れ也』

後に二子を挙け兄を武衡(三郎)弟を家衡と称し、二子共に清衡の異父同母なり。

弟を家衡(四郎)と称し、二子共に清衡の異父同母弟なり。(武貞を太郎と称し、武衡を三郎と称するにて清衡二郎なる事知らる。又一説に彼の未亡人武貞に嫁すとするは誤なるべし。其二子武則の子なる事将軍三郎将軍四郎と称せしにても知るべし。即鎭守府将軍の子なればなり。)

兄弟成長して各奥羽両国に分れ居りしが、故ありて武衡・家衡は、鎮撫(ちんぶ)の将軍義家朝臣に反せしがと。清衡は将軍に属し、寛治(かんじ)五年征戦の役に功あるを以て、同六年『寛治六年紀元一七五二年清衡三十二歳』将軍帰洛の時、奥州の目代(もくだい)となし置き、遂に奏聞(そうぶん)を經て、奥羽両国の押領使(おうりょうし)に任せられ、鎭守府将軍を兼ね六郎(膽澤・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手)を領知(りょうち)す。

刺郡豊田に住し両国の軍兵十七萬騎を督(とく)し、政務を司り、其居館を方俗奥御館(おくのみたて)と称し今同郡餅田村に其旧跡あり勲功に由り更に数邑を賜ひ、嘉保年中『嘉保年中紀元一七五四〜六年』(東鑑に康保『康保年中紀元一六二四〜八年』と云へるは誤なり蓋し又康和『康和年中紀元一七五九〜六四年』を康保に誤れるか)岩井郡平泉に館を移し國務を治める事三十三年にして大治元年(だいじがんねん)七月十七日卒す。大治元年紀元一七八六年清衡六十六歳或は保安三年に死去して六十二歳説あり』(一説に年六十七生前数多(せいぜんあまた)の社堂迦藍を建立し、齋燈(さいとう)を寄附し、延暦園城東大興福の四大寺及び宋國の天台山に於て千僧を供養し、臨終諸願(りんじゅうしょがん)を果し、無病にして往生せいしと云ふ。

嫡子基衡『基衡三十年間の治世中割合に泰平なりしか、さしたる記事多くの書に散見せざる如し、異本保物語に曰く、令藤原基衡塞念種関(保元乱)とあり。大治四年記八月二十一日の欄に陸奥國清平二子合戦間公事多関多兄弟基衡惟常云々とあり。清衡系圖には清衡には三子あれど惟常なる者なし清綱の誤りにや』其遺跡(あと)を承(つ)き、此朝臣も両国の押領使鎭守府将軍を兼ね、三十三年間国務を執り、佛刹(ぶつさつ)を増造し、宏模(こうも)を維持し、保元二年三月十九日『保元二年紀元一八一七年』卒し、嫡子秀衡相襲(あひつい)て、両国を管領し、朝貢怠たる事なく上には恭順に、下には慈愛にして、廃れたるを興し、絶たるを継ぎ佛刹を造営す。(京都の千本釋迦堂を建立し是に如球上人『如球上人一説に如輪、又謂ふ求法上人義空と、大報恩寺なり』を請し又出羽の羽黒大堂の如きも其建立に係ると云)

此朝臣の履歴は嘉應二年五月二十五日鎭守府将軍に任し從五位下に叙せらる養和元年八月十三日ョ朝追討の宣旨(せんし)『笠舎に曰く。 ・・・・・養和元年一月十五日。藤原の秀衡を陸奥の守になして、ョ朝を亡ぼすよう仰出さるゝ是れは昔の秀衡の子にて、後三年の乱れに義家の方人なりし清ひらの孫にて基ひらの子なり、祖父の代より年頃奥の民にて、家畜さかへ勢ある者にて公にもしられ奉りしかは、こたびも宣旨下りけるに・・・・・ 義經を我方に置きて、かしつきつれば、源氏の方人にて、宣旨にも從ひ奉らぬ様なり・・・・・以上の如くにて、是の宣旨は平氏の未た甚しく衰へぬ當時の事にありて、平氏としては官を褒り興へて他力に依りてョ朝を亡ぼさん政略なりしなり、義經失脚後のョ朝征伐にはあらず』あり。

同月二十五日陸奥守に任し從五位上に叙せらる。

(上文宣旨の事東鑑源平盛衰記に載す此宣旨を奉て征伐の挙なりしは父祖以來源家の重恩を思うが故に果ささりしならむと云り按に常時義經の請ふ處にして朝家の權道に出たる事を推量し軽挙せさりしなるべし)

文治元年都を落ち来投する所の義經を容て保護せり。同三年十月二十九日卒す。

(一説に歳九十二といへり。之を正説として本年より逆算すれば永長元年の出生なるべし、此年清衡三十六歳に當れば、基衡二十歳以下の時の子なるべし)『九十二歳説に就て、秀衡死去の年齢は九十二歳説、八十歳説、六十六歳説等ありて詳ならず、祖父清衡の年齢も亦一定あらず、秀衡死去の月日亦一定あるなし。偖、秀衡死去の時泰衡三十一歳なれば、兄國衡との年差何歳なるや、不明なれど秀衡冠せぬ時代の子とせん乎、國衡は七十歳以上の老人に當るべし。六十六歳説に從はん乎。後の世に開棺の時拝観せし人の記に依れば、五十左右の老人とあり、死屍となり居るなれば推定に確実性はなけれど、常時は早成にして早婚の風ありし時にはあり、将軍家にもあるに三十歳以上迄独身とも思われず、寧ろ六十六歳説よりも六十歳未満説を主張せんとす。九十二歳説に従えば、清衡死去の時既に三十一歳の壮年にして基衡死去の時は六十二歳の老人なり。六十六歳説に従えば、祖父死去の時五歳の幼童にして父死去の時三十六歳将軍宣旨は四十九歳に當れり、六十歳未満説を唱えん乎、父死去の時三十歳未満にして二十五歳の頃泰衡生れ、二十歳未満にて國衡生れ、二十一、二歳より数年間に先妻に別れしなるべし、死屍の白髪等より六十歳未満にはあらずや。又玉海の記に、秀衡の娘をョ朝に娶はすべく互に約諾を成せりとあれど、秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、否や、後の批判を待つ』

五男あり嫡男(ちゃくなん)西木戸太郎國衡二男泉冠者泰衡(一説に伊達次郎といふへし三男泉三郎忠衡、四男本吉冠者隆衡、五男出羽冠者通衡(一説に仙北五郎利衡といへり。按に五男の事東鑑に見えず平泉實記に挙げたる系國に出羽押領使とあり又大系圖に通衡の弟に錦戸太郎ョ衡あるは信ずるに足らず)なり。二男泰衡を以て家督(かとく)と定め宗族(そうぞく)を封(ほう)し臣子(しんし)を扶持(ふぢ)し官録父祖に超え栄耀(えいよう)身に余り両国の權(けん)を握り威勢を東國(とうごく)に振へり東鑑に基衡の妻は鳥海三郎宗任の女なり秀衡の先妻は近江國に住人佐々木源三秀義の姨母(おば)なり。後妻は前民部少輔基成の女にして泰衡忠衡を生めりとあり。(義經記に西木戸太郎國衡は嫡子なれとも、秀衡いまだ冠せぬ程の子なればとて二男泰衡を家督となせる由見えたり。又一説に、國衡は泰衡の庶兄なるが故に正腹の泰衡を立つともいへり。諺に國衡を父太郎と云い、泰衡を母太郎と云しにても泰衡は正腹と知られたり。)

泰衡其遺跡を承ぎ両国の押領使たる事前代の如し。同四年三月義經追補の宣旨を下されしかど、遅滞に依て同年十一月再び宣旨を下され、ョ朝卿にも総追補使の權を以て義經追討の命ありければ、泰衡一には違勅(いちょく)の罪を恐れ、一には幕府の威に憚(はばか)りて亡父(ぼうふ)の遺言を守らず、同五年閏四月晦日、軍兵を発し高館を襲いて義經を討滅せり(高館の條下に詳なり按に秀衡遺言の主意は一家固く義を守り義經を補佐し、屡鎌倉に申請い叶わずして其征を受るも、相構へて抗衡久しきに耐え、遂に和議を得るに於ては義經を鎭守府将軍と仰ぐを以て目的とすべき旨なりけり)

同年ョ朝卿泰衡を征伐あるべきに決し、其旨奏聞に及はると雖ども速に勅許なかりければ、七月十九日勅許を待たずして鎌倉を発し、同二十九日白川関を越え進軍せらる。泰衡豫め是を知り、伊達苅田宮城を始め、玉造栗原諸郡の城砦(じょうさい)に守備を設け、國分原鞭館に軍を督し出陣せしかと八月八日より同十日に至り厚加志山(あつかしやま)大木と等に防戦利なくして、将士多く戦死せり。ョ朝卿多賀の國府物見岡を経て玉造郡高波々城に向はる。泰衡の軍勢防戦叶わず同二十一日、泰衡同城を出て平泉に退き、直ちに其居館を焼きて奥の地方へと落行きぬ。同日ョ朝卿泰衡を追撃し、松山路より津久茂橋を歴て、同二十二日平泉に着せらる。同日館屋皆灰塵となりて一宇の倉廩残れるを(平泉館の西南の隅に在しとそ)葛西三郎清重小栗十郎重成に命して開かせられ、数多の珍寶(ちんぽう)ありしを収て清重等にも分興へらる。

 

   平泉遺倉の寶物東鑑に載する物左の如し

沈木紫檀以下唐木の厨子数脚あり其内に納る物は牛玉犀角象牙笛。水牛の角。瑠璃等之笏。金沓。玉幡。金華蔓。以玉飾之。蜀紅錦。直不縫帷。金鶴、銀造瑠璃燈爐。南廷白各盛金器此外錦繍綾羅其数挙て記し難し云々

 

南廷は東鑑に南廷十両など数々見ゆ廷はていの略字にして貨幣なるべし。白は金を黄と云い銀を白といえば銀幣なるべし。『今人治銀大廷五十両、中廷半之、小廷又半之也、謂之廷銀、後の丁銀の類にして唐朝に吉字金廷ありしが、宋朝より銀廷あり、其形を記しあらざれば知るに由なけれど明廷は小兒のこまの形に系あるものなり』『常時銀は金より尊ばれしとの説あり、又閻浮檀金の佛像より白金説を唱ふるあり、或は錫にあらずやと云ふあり』

同二十六日ョ朝卿の栄所に一夫来り。泰衡の封書を投して去れり。即ち其書をョ朝卿に捧く書に云

 

進上鎌倉殿侍所泰衡敬白云々、伊豫國司事者父入道奉扶持訖泰衡全不知濫觴亡父之後請貴命奉誅訖、是何謂勲功歟而無罪而忽有征伐何故哉依之去累代在所交山林尤不便也、両國已可爲御沙汰之上者於泰衡蒙免除欲列御家人不燃者被滅死罪可被處遠流若垂慈惠有御返報者可被落置干比内郡邊就其是非帰降可走参云々

 

ョ朝卿評定ありて報書の儀に及ばず、其踪跡を探索すべしとて九月二日平泉を発し岩手郡厨川の邊を指し先つ志波郡陣か岡峰社に詣らる(相傳ふョ義朝臣貞任征伐の時陣栄の地なり清衡此に八幡宮を勧請す故に里俗八社と云しなりと)

泰衡蝦夷に保命を志し、糠部(ぬかべ)郡(今二戸より三戸九戸北郡迄なり)に赴かんとして、先づ比内郡贅(にへ)の柵(郡郷考に五十四郡考を引て云二戸蓋し古への比内郡云々二戸贅方言近し云々今羽洲比内の大館にして其地仙北郡横手の近きにありと比内又肥内に作る)に住せる累代の家人(けにん)河田次郎の許(もと)に潜居せしが、次郎俄に変心し、郎黨をして、之を弑せしむ。同六日泰衡の首を陣か岡に持参し實検に供ふ。然れども捕誅(ほちゅう)は固より掌握の中にあり。譜代の重恩に背き、之れを弑せし事、大逆無道なりとて、次郎を斬せられ、貞任の例を以て泰衡の首をも梟せらる。

(泰衡弑せられしは文治五年九月三日にして三十三歳『泰衡の享年二十九歳或は二十七歳と云ふあり、基成の女の子とせんが或二十九歳或二十七歳説信ずべし』なり。寛治六年清衡両國の押領使と爲りしより基衡秀衡を歴て泰衡の今日に至り九十八年にして家社を断つ)

同八日ョ朝卿吉田中納言經房卿に東征(とうせい)合戦の次第奏聞の状を寄せらる。同九日泰衡追討の宣旨陣か岡に到着せりョ朝卿之を拝せらる。(ョ朝郷私に東征急がれ此宣旨は後れて下れり)

 

   文治五年七月十九日

陸奥國住人泰衡等梟心稟性雄張邊境或容隠賊徒而猥同野心或對桿詔使而如忘朝威結構至既渉逆節者歟。加之掠籠奥州羽州之両國不輸公田之乃貢恒例之佛神事納官封家之諸済物其勤空忘其用欲缺奸謀非厳科難遁冀仰正二位源朝臣征伐其身永断後濫。

  藏人官内太輔藤原家實奉

 

同日高水寺(峰社の邊にあり當寺は四十八代稱徳天皇の勅願として観音像を諸國に安し給ふ其随一なりと。山上に清水あり。寺より高きこと数丈故に此名あり。後世寺を盛岡に移し観音像は旧地に安せり。)衆徒訴訟の事あり。之を裁せらる同十日三代の間社堂寺院数多建立あるを以て僧侶の願に任せ佛餉燈油(ぶっしょうとうゆ)の料を宛行(あておこな)はるべき由を達せられ、且資産を負担して山林に遁居(のが)る庶民をして本所に復し安堵せしめらる。同十一日当初清衡勧請せる高水寺鎭守走湯権現(はしりゆごんげん)社の大槻の下に奉納の鏑箭二筋を射らる(里俗之れを矢立槻と云ふ。其樹根残り今継木あり。伊豆の走湯山は卿の崇敬社なるに縁る)同日又厨川の柵に移らる。(今岩手郡盛岡の西に城跡あり。本丸、二ノ丸砦堀井等の跡残れり)

かくて庶民を鎮撫(ちんぶ)せらる宿老には綿衣一領駿馬一匹宛を賜ふ。同十四日両國の省帳田文(今の検地の御圖帳なり)平泉に焼失して詳ならず。依て古実を記せる土人清原實俊及び弟橘藤五實政と云者に尋問せられけば、兄弟共に暗記の状を圖し諸郡の券契里邑の田制を考定し、山野河海を具(つぶ)さにし、一二の條項を漏する外道失あることなし。ョ朝感賞ありて即ち家臣とせらる。

東鑑に鎌倉公事奉行人前豊前介清原眞人實俊とあるは是なり。同廿日諸士の勧賞を行はれ、釆地を賜ふ等の儀あり。同二十二日ョ朝卿平泉に帰られ逗留あり。同二十三日實俊を郷導として無量光院を始め諸堂迦藍を巡検し、其事蹟を詳問せらる。同二十四日膽澤磐井牡鹿等五郡を葛西三郎清重に賜い、平泉検非違使所の事を命ぜらる。(東鑑に膽澤、磐井、牡鹿等の郡郷数箇所を拝領すと見ゆ。郡郷考に葛西七郡と挙しは、清重より十代武治の時の所領なり。始め牡鹿石巻日和山を居城とし、後に登米郡寺池城を築て居ると見えたり。按に日和山在城の始は平泉にも居館ありし故に、平泉より登米に移れりといふ傳もありしなるべし。)同二十七日安倍ョ時か衣川の遺迹を歴覧せらる。同二十八日平泉を発し(従軍二十八萬四千人)十月一日多賀の國府に於て國郡郷荘園所務(こくぐんそうえんしょむ)の條々を地頭等に宣告せられ、國中の事秀衡泰衡の先例に任せ沙汰すべき由の膀文を下附せらる。十月廿一日下野國宇都宮に着。即ち宮に奉幣ありて一庄園を寄附せらる。樋爪俊衡か一族を以て社職とせらる。(一説に河北冠者忠衡なりと)是所願成就の報賽(ほうさい)なり。同二十四日鎌倉に凱旋あり。(進発より九十四日を経)かくて吉田中納言經房卿並一條右衛門督能保朝臣の許に飛書を以て注進せらる泰衡を追討し訖り。彼黨類を召具し、本日帰陣せし趣奏上あるべき由なり。

是より先に(九月十八日)降人等處分の儀を經房卿に具状して奏問せらる。樋爪俊衡法師を安堵せしむる事及び其他の降人等を召具し鎌倉に上道すべく、其上京都に進すべきやとの趣にて折紙の名簿を添らる。又別書に今年は暫と御裁止(ごさいし)ありしかど、軍士を催し黙止すべからざるに依り、左右無く追討に及べり云々。前民部少輔基成父子は武士と指すにあらざる故に、折紙に載せず云々の趣なり。

ョ朝卿征陣の間、節倹を主として民費をなさず。上野下野両國の貢を運輸せしめらる。十一月八日総奉行葛西清重に牧民及び警固の條々を令し、國中市を立る事を嘉賞せらる。又曾て泰衡に黨せし者を追補し、次に泰衡の幼子萬壽の在所を尋て上申し、且其名ョ朝卿の男子(ョ家の幼名を萬壽)と同名たれは之を改むべき由をも令せらる。(一説に秀衡の後室、泰衡の母の墓は羽州庄内邊の寺にありて、其後裔は今の酒田の豪家本間某なりと。顧ふに泰衡の子彼處に匿れ居たるに、其祖母も同居せしならんか)

十二月泰衡を輙(たやす)く征伐ありし。勧賞を行はるべき由、急使を以て奏上せられ、やがて其事宣下あり。此月より建久元年三月に至り大河兼任の乱(兼任の條にいふ)平治し伊澤左近将監家景を陸奥國の留守職とせられ家景総奉行葛西清衡と共に政務を司り衆庶を無育せり。

 

因云天正年中葛西氏大崎氏(伊豫守家兼奥羽の探題職に補し延文元年任に就き居住の地名を家號として大崎と称せり)と共に没落の後其領地を木村伊勢守に賜りて平泉も其領内なり。後伊達家の領地となりて古来数多の沿革を經歴し國主の古文書数通中尊寺に遺れり。

 

泰衡一族家臣事蹟
西木戸太郎國衡は伊達郡大木戸に勇戦すといえども、終に敗走し出羽越大関山の道にして追兵に殺さる時に文治五年八月十日なり。柴田郡福田村に國衡塚あり。國衡討れし所なり。刈田郡曲竹村に白九頭龍の祠あり。國衡が屍を■め叢祠を建て祭ると云り。一説に長野の小山の崩岩の邊に白崩神社『白崩叢祠は曲竹村にありと』というあり。是國衡が首を埋て祭れるなりと)

泉三郎忠衡は曾て義經に同心するを以て泰衡かョ朝卿の命に遵(したが)ひ、父の遺言に背くを不可とし、諫れども、聞かれずして泰衡の爲に忌避せられ、加之ョ朝卿の命もありて、遂に其居館(居館の事其條下に云り)に兵を向けて襲殺せられたり。時に文治五年六月二十六日にして高館陥落より数十日の後なり。『忠衡此時二十三歳なりとあり』(忠衡の首桶秀衡側にあり。一説に忠衡館に火を放ち其死骸を隠せりといふは竊に義經の跡を追ひて蝦夷に赴きしなりと)

本吉冠者隆衡は数箇所に奮戦し、平泉没落の際に俘虜となりて降を請ひければ、(文治五年九月十八日)ョ朝卿其武勇を愛惜せられて死を免し相模國に配流せらる。(按に鎌倉外に置かれて後に放免ありしにや、然るに建仁二年城四郎長茂に黨しョ家に叛し勅許を得て鎌倉を滅さんと企て京都に乱をなし謀せらる或は逃亡して行方知れずとも云)

樋爪太郎俊衡入道は(法名を蓮阿という)清衡の四男泉十郎清綱の嫡男なり。文治五年平泉滅亡後、尚追討を受るに際し同九月四日、其居館(樋爪館を称す志和郡五郎沼といふ沼の東北に其跡あり)を焼て奥地に遁れしが、同十五日三子を具して弟季衡と共に厨川の栄所に詣て降参す。

ョ朝卿その老齢にして法華經を持誦(ぢしょう)し余年なきを憐まれ、故の如く樋爪館を賜はり安堵させらる。

藤原基成は前民部權少輔と称す。平治乱に討誅せられし藤原信頼の兄なり。叛臣(はんしん)の一族なるを以て東國に謫せられしが、秀衡常に憐助を加へ、又秀衡其女を入れて後室となしぬ。高館没落の後も柳御所に居り平泉滅亡の後、説諭に依り三子を率て降参せり。當時降人處分の具状に、基成並息男三人召取る所なり云々。平家の時のと云ひ此時と云ひ、偏に朝威を軽(かろん)ず。その交名を折紙に載ざる事、武士と指すに非ざる故なり云々と見ゆ。

東鑑に建久六年九月故秀衡入道の後家(こうけ)今に存在す。殊に憐愍(れんびん)を加うべし云々。是即基成の女なり(平泉雑記云、按に平治物語曰、信頼の舎兄兵部權太夫基家民部權少輔基通舎弟尾張少将信俊子新侍従信親云々民部權少輔基通は陸奥國に流されける云々。基成の事、平治物語に見えず。東鑑義經記等に出たり。平治物語に據れば基通後に基成と改めしにやといへり)『秀衡の後室・・・基成の女を入れて後室とし、泰衡忠衡を生むとの記あれど、其母たるに於て疑を存すべし、抑も平治の乱は、紀元一八一九年にして秀衡の死は紀元一八四八年なれば、直ちに子を挙げしとしても二十七歳に満たず、泰衡の死去の三十一歳は基成の女の子にあらざるを證すべし』

 

配 流

相模國  隆衡(たかひら)  師衡(もろひら)(俊衡の子太田冠者)  

     經衡(つねひら)(季衡の子新田冠者)

伊豆國  景衡(かげひら)(未だ考へず)

駿河國  兼衡(かねひら)(又義衡俊衡の子二郎)

下野國  季衡(すえひら)(俊衡の弟樋爪五郎)
 

按するに降人の部に河北冠者忠衡(俊衡の三男)見えたり。俊衡と同じく恩免を蒙りしなるべし。忠衡宇都宮社職にせられしといふ説は眞なるべし。
 

佐藤庄司基治清衡朝臣の四男泉十郎清綱か女を娶て継信忠信を生めり。(二子は義經に事へて早く戦没せり)石那坂の戦に誅せらるとも、亦俘虜となりて十月五日に名取郡司熊野別當と共に恩免を蒙るとも云り。(事跡猶居宅の條に云り)

由利八郎友重又維平は泰衡の軍士中(ぐんしちゅう)に最顕る。(一説に羽州由利の領主と)

平泉の戦陣に俘囚となるといえども、勇敢の快士にして言語も屈せず陳述する處一理あるを以てョ朝卿是に感ぜられ、即ち死を免せらる(陳述の事は史乗に傳へ人口に膾炙するを以て爰に略せり。一説に隆衡と同じく配流せられ後共に京都に乱をなして逃亡し行方知らずとも云へり)

大河四郎兼任は泰衡の家臣にして、文治五年十二月の頃より同士と叛逆を企て出羽國の仙北部に軍兵を催し、建久元年二月鎌倉へと志し陸奥國に出て、一萬騎を率て平泉に據らんとす。(一説に衣川館に據るともいへり)

鎌倉より軍勢を派遣し、陸奥國総奉行に命して征伐せらる。兼任(かねたう)等栗原郡一迫の會戦利あらずして落行き(是より先に七千余騎の軍兵を率て、秋田の城より大関山を越え、多賀の國府に出むと行進する時、河氷俄に解て五千余人溺死す。兼任鎌倉に向はす津軽に至るといへども、所々に合戦して黨類又峰起し此に及べるなり)外ヶ濱糠部の間に據り征軍を防ぎ終に戦敗れて所々に奔竄(ほんざん)せしか。同三月十日栗原寺に於て樵夫等に撃殺さる。里人其首を得て鎌倉に送りぬ。是に於て奥羽静謐に帰せり。

平泉藤原氏の家臣、金剛別當秀綱以下東鑑に載する所二十七人其他戦記等に著はれ、或は舊誌郷説に傳ふる者、僅々数名にして、畢竟(ひっきょう)要路の人員なるべし。今前文に挙しは、中にも顕名なる者に限れり。『奥游日記・・・議者見泰衡亡國、爭咎清衡、以爲其淫佛佞僧之所致、然在當時、自非佛教、不可以爲忠孝、又不可以表護國愛民之意、則其殫財力、亦無足深怪者。ョ朝の泰衡を滅ぼし乍ら其佛教に及ぼさざりしは又此にありしなり。則ち別記の如し。』

 

源義經(みなもとよしつね)
源義朝の六男(東鑑による)にして頼朝卿及範頼等の庶弟(しゃてい)なり。平治元年(平治元年は紀元一八一九年)京都に生れ、幼名を牛若丸と云ふ。母を常磐といへり。義朝の妾なり。永暦元年(永暦元年は紀元一八二〇年)義朝死し、義經二歳にして、孤(みなしご)となる。常磐再び平清盛入道の妾となりて、子育てを全せり。一女を生みて、後に寵衰へ、棄てられて、一条大蔵卿長成の室となり、牛若丸も扶持(ふち)せらる。牛若丸七歳の時、鞍馬寺に入り、『東光坊蓮忍の弟子となり、禅林坊覚日の行童となる』遮那王と改名し、僧侶の門下に居ると雖も成長するままに、父の讐(あだ)を復し、耻(はじ)を雪(きよ)めむと志し、一六歳の時、深巣某の紹介を得て、金売三條吉次季春に伴われて、出寺せり。かくて途中、自冠(じかん)して、九郎義經と名称して、奥州に下り、藤原朝臣秀衡に依頼して平泉の館に居れり。一八歳の時、潜(ひそか)に上京し、京人鬼一法眼『鬼一法眼一に紀一に作る』に就て、兵術を学び、又平泉に帰りしと云う。奧に在りては、佐藤基治を師とせりとぞ。

治承四年廿二歳の時、頼朝卿兵を挙らると聞き、やがて平泉を去り、基治附す所の子弟郎党を率て、その陣に参会す。元歴元年正月頼朝卿に代りて範頼と共に木曽義仲を畿内に討滅し、同年二月、又平ら宗盛を摂州一谷に討て功あり。同八月左衛門少尉に任じ、尋(つい)て従五位下に叙し、検非違使判官と云ふを以て、京洛を守護す。文治元年二月風浪を凌ぎ、兵船を発して平家を屋島に攻め敗り、同三月長門国赤間関の舟戦に勝て、平家を滅ぼすといへども、安徳天王を海上に奉迎し得ず宝器の神権空しく。没して還らざるの歎あり。
同四月神鏡璽(しんきょうじ)を奉じて、帰洛す。

頼朝卿義経の挙動其意に適はざるを以て譴責せらる。同五月義経特使を以て誓文を捧げ、謝罪すと雖も、頼朝卿許容なければ、自ら囚人を具し、鎌倉に参向し、かん状を呈す。然れども、其府下にだに入られずして、同六月に至り、又囚人を具し、空しく帰京す。同八月朝廷、義経を以て伊予守に任じ、留めて、洛中を守護せしめられ、堂上に翔こうす。是に於て、頼朝と?鬩檣(げきしょう)の隙あり。堂十月頼朝卿の暗殺使昌俊、却(かえっ)て義経に殺される。堂十一月義経叔父行家と共に苦請して、頼朝卿追討の院宣を賜はり、九国四国を擁し為す所あらむとす。頼朝卿には、更に義経行家追討の勅を奉し、出馬せらるといへども、既に退去せるを以て、引還さる。かくて義経行家追兵を撃破り、大和路及び京洛の間に彷徨せり。義経の妾静は、放たれて、捕へられ、

『静捕らえられて、鎌倉に至る。源頼朝東大寺の落成式に臨むに当たり、政子と同道し静の白拍子たるを尻、祝賀の意を舞はしめ、見んとせり。静固辞すれども、聴されず、依て舞ひ、且つ歌ふて曰く、

 しつやしつしつのおたまきくりかえし昔を今になすよしもかな

 吉野山峯の白雪ふみわけて入にし人の跡ぞ恋しき

頼朝其無礼を怒り、之を斬らんとす。政子袖を扣(ひか)へて諫めて曰く、女地位を換へ、静の身となり、此の歌の如くんば郎や如何と。政子暫く頼朝を注視すれば、頼朝色解けて巳む。此夜、鎌倉政府の顕官、静の寓居に来り、会いし、痛飲する者多し、梶原景茂酔に乗し、静に挑む。静柳眉を逆立て、曰く、女は源二位の連枝予州の妾なり。汝は我集の家人にあらずや。予州にして沈淪(ちんりん)せずば、汝が如き者、我面だも見る能はざるなりと。景茂大に恥づと。偖(さて)現代の女子に顧みて、如何の感やある。女道の頽廃之を救ふの法は学校教育もさる事ながら、各自の自覚に待つ大ならん乎』

後に其生めりし、男子は奪われて、殺さる。同二年義経妻子を携へ、従僕を率て、北陸道を潜行し、再び平泉に来り、秀衡に依頼す。

『義経西下の時、鎮西に没落せんとするを奏し、行粧異様の故を以て、最後の参院を辞謝し奉り、従兵■に二百騎倉皇として、京師を発せり。其逆境に處して、態度の公明を聞かず。平氏及義仲の比にあらず。京都の民皆同情せり。…海に航して風浪に妨げられ、和泉に航し四天王寺に泊し、次て吉野金峯山に泊し、多武峯に上り、文治元年十二月、静捕へられ、男子の生後、放免せらる。義経は、興福寺に遁れ、途を伊勢実のに取り、伝して北国を漂泊して陸奥に到る。…三年春頃には、頼朝これを知れり。…藤原兼実曰く、「義経等の所行実以可謂義士歟、洛中之尊卑無不随喜云々…」。又曰く「九郎賞無如何、定有深由緒歟、凡夫不覚得之」』

秀衡寛仁にして前事を問す。之を容れ、即ち高舘を営み、其居所となし、所領を附して保庇(ほうひ)せり。同十月秀衡卒去し、終に臨み遺言懇切なりければ、泰衡其遺志を継ぎ国事典刑を挙げて、義経に托し、衆庶悉く、心服せり。頼朝卿、是に安んせずして朝栽を仰がれ、即ち義経追討の勅詔を賜はれり。又頼朝卿よりも、るる厳命有ければ、泰衡遂に亡父の遺旨(いし)に背き、翻然兵を挙げて、高舘を襲へり。義経従士と共に防戦して、敗れ、即ち妻子を手刄(しゅじん)して、自殺す。時に文治五年四月晦日なり。

(義経、三十一歳。妻二十三歳。女子四歳なり。妻の事、東鑑に元暦元年九月河越太郎重頼の女とあり。盛衰記には平ら大納言時忠の女を迎ふとあり。又同記に年来の妻なればとて、河越太郎の女を携帯せる由、見えたり。義経記及び義経勲功記に、久我ないだ偉人雅道公の女を妻とし、携帯せるよしも見ゆ。)

『義経の妻拏を携て、北陸道を下りしや否やは、相当疑問せらるる處にして、真偽今断定し難し。唯女子四歳とあれば、同行し来りしにあらざれば、別路を取りて、来り投ぜしものならん。北陸を下りし、途中女子を挙くの記事あるも其子は夭死せしか。其母は誰人にやも不明なり。同行の妻ありとせば、四歳の女子の母は来らざるものや。記して後判を待つ』
 
義経の死骸は、灰塵の中にありて、分明ならず。其似たる首を醇酒(じゅんしゅ)に浸して黒漆に納め伊達次郎隆衡、或は河辺太郎高常を以て、送られるを頼朝卿、和田義盛、梶原景時をして、腰越に於て、監せしめらる此首、鎌倉に入れずして、藤沢に葬れり。

『土人此處に社を建て、白旗神社と祭れり。東鑑に奥州泰衡が飛脚、五月二十二日申刻、鎌倉に参着云々。鎌倉には其此鶴ヶ岡の増築建立あり。三日腰越浦に至りて、此旨を鎌倉へ言上すとあり。鎌倉実記に此首を杉目行信が首と云へり』

古来高舘の跡に義経の墳墓ありて、一拳石(こぶしいし)を遺せり。

『里俗相伝へて、義経腰を掛け、自殺せし石と云此處、昔時の難所の跡とも見えず。義経持仏堂に入て自殺すとも云へば、若しくは仏堂などとありし跡にや』

天和年中伊達綱村朝臣の家士郡司、河東田長兵衛定恒、平泉の衆徒と共に朝臣に申議し、其命を請けて、一宇の祠堂(しどう)を創設し、義経堂と云う(一間四面なり。堂上に梁牌あり。附録に載す)宝歴年中旧像(甲冑の木像)を再興し、白旗神社と號す。

又義経の墓、栗原三迫荘沼倉村にあり。高舘にて、自殺の後、沼倉小次郎と云者、此地に葬りて、墓塚を築きたりとぞ。
(高次が館跡、此處の山上にあり。『上頭の高山を弁慶峯と云へり。弁慶逍遙の地と云うべし』高次は義経に親しかりし者ならんと云へり)

衣川村に曹洞宗如好山雲際寺(昔し牛扁山と號し天台宗なりき)に義経の位牌あり。
通山源公大居士と勒せり。其由来詳ならず。義経の従臣の中、此戦地に係わる者を挙げるに、山科權守兼房、鈴木三郎重家、其弟亀井六郎重清、武蔵坊弁慶、是に戦死せり、とて其舊迹あり。杉目小太郎行信の傅へは前後の文に云へり。伊勢三郎義盛、片岡八郎弘経、鷲尾三郎経春、備前平四郎成貫(一本に定清)等二十四人の蹤迹傅(しょうせきでん)はらすと雖とも、兼房等と共に討死しけんとは、盛衰記に載する首級注進目録にて知られる常陸坊海尊等十一人、高舘没落の朝、社参すとて出舘し、其行方知れずなりしとぞ。

(兼房は一書に増尾十郎とす。又権介ともあり。重家は元紀州の人なり、弟重清と共に義経に従ひ、平氏追討の役に功ありて、義経厚く之を遇せり。義経鬩牆(げきしょう)の為に東奥に遁れ、災難に遭ふ事を兄弟予め知て思へらく。吾等、嘗て其恩誼を蒙る。今は宜く国士の義を以て、報すべき時なりと。即ち旅装を変し、修験道士と称し、風餐露宿して、諸関を過ぎ、数十日にして平泉に到れば、此に高館没落の日に際し、実に文治五年閏四月二十八日なり。翌日を越へ、力戦して死す。「士為知己者死」すとは、此兄弟の謂なりと歎賞せざるはなし。)
 
『鈴木重家兄弟は、常時の武士道を尊重せし、好例たるは勿論なるか、二人の奥州に下しは他に又大に意義の在せしものありしなり、則特に東海道を選みしは鎌倉の形勢を詳かに探り、之を義経に報じ為す處あらんとせしに、不幸千辛萬苦の功も1日の差にて水泡に帰し空しく怨を呑んで戦死するに至りしなり、然れとも、事の成否は二人の問う所にあらず、要は人道の履行如何にあるなり、現代人は成功をのみ目標とし口に慈愛愛国を説くに此せば、宵壌も啻(ただ)ならざるべし、現代人たる者、文化文明を唱へんよりは古人の糟粕だにても甞試(じょうし)して如何ぞや』

弁慶は始め比叡山の西塔横川邊に住せし故西塔の武蔵坊と號せり。

熊野別當湛増は寛治四年白川上皇の勅を拜し、高野山に登り遍照光院を修繕す、是より高野山大峰兩山初めて関係あり云々、此の時代は紀元一七五〇年時代に當る、弁慶は出雲鰐淵山の僧にして武蔵坊と號し、幼名鬼若丸顯密二教を学ぶ云々と而して同人は紀元一八四年時代に活動しつゝあり、佛家人名辞典に依るに一は祖父と記し一は父子と記せり、年代よりせば祖父孫間然るべくも或いは湛増名二代に続きしものにや。又曰く、辨慶は滑稽の人なりしと、其武蔵坊とつけたるは、辨の字をかたかなにて読めるなるべしと。伊勢平蔵の四季草に曰く、辨慶崎の如きは後世偽造の地名なりと。此推論も相當に理由のあるものなり記して辨を待つ』
 
行家の姪熊野別當湛増の弟にして義経の従弟なり。又辨慶の義経に事ふるに二十四歳死する年卅八歳なり。頗る卓識にして天性正直なる事は散見の古文書にて知らると云り。

『湛増及辨慶に就いて・・・・・諸書を按ずるに其説の一定を見ず源家の系譜に依れば源為義の女熊野の別當教眞に嫁し云々とありて、教眞の子を湛増を累代平氏の恩顧を受けたる者とし源家の盛なるより源家方になりたりと記するあり、或いは湛増を湛快の養子なるも實は為義の子なりと記するあり、一方湛増の弟に湛政なる者ありて其子を辨慶なりと記するあり、而東光坊阿闍梨は為義の十九男なるよりすれば、辨慶と義経とは其血族関係は假令なしとするも、幼少時代よりの知巳たりしは想像し得べし、素より五條橋上の遭遇戦の如きは取るに足らず、又云ふ紀人岩田入道寂昌の子にして仁平元年四月八日を以て生れ眞佛丸と名つくと』」

『海尊清悦(一説に庇間雑色御廐喜三太)の二人は寛永年中まて四百六十年許在命にて當時の事を語れりとて記せし残夢傳或は清悦物語と云ふものあり物語の説は義経戦死の状を云ひ又頼朝郷義経の寃死を後悔し再び奥地に下向して弔はれしなと奇怪の説にして信ずるに足らず。其實其人にまれ當時の事を他に在て傳聞せし説に泥めるならん残夢を海尊と云ふ説及清悦も其の迹を同じくして仙に入りしと云ふ説は附録に載す』

『重野安繹博士の論・・・同氏は辨慶を左程の勇者にあらずとせり、氏の謂ふ所一理なきにあらざるも、歴史の傳る所なきより一蹴し去るは穏當を缺くが如に思はるゝなり、人に依り幼少よりの勇者もあらんも壮年よりの勇者もあらん、他人に功を譲りて自重せし時もあらん、又現代の組織的能力を以て八百年前の兵豪を現代的に批評するは又無理の點なしとも限られず、彼の東鏡に記事なきを以て平凡者流に貶せらるゝは少しく酷の感あり、余は辨慶を以て悉くの勇者なりとも考へざれど、又平凡人にもあらざる如く思はる、博士は素より辨慶を抹殺せしにあらざるは余としても此に記し置く』
 

義経蝦夷渡の説
 
一説に云泰衡の弟忠衡は父の遺言を守り義経に應しければ頼朝卿の命を受け泰衡暴挙の企を豫め義経に報せて蝦夷に遁れしむと或いは義経に授けし錦の袋の遺書中に其謀を貽し置き忠衡其遺志を賛成して蝦夷に趣かしむと。

一説に云閏四月二十八日兵禍に際し忽然として暴風雨の變あり。北上川溢れ敵徒散乱しす。義経是に乗妻子近待を具し(或いは妻此變に頓死すと)搦手の門より出船して遁ると又杉目行信其面貌似たるを以て義経に替りて自盡すと。
(又一説に義経豫め形成を察し出羽の羽黒山に赴かんとするに先ち事不意に起り爰に及へりと)

一説に云蝦夷地方に義経をウギグルミ大明神と祭れるありて、土人之を崇敬し、又辨慶崎「アイヌ語にてベンケイは破壊の義にて岬端の岩石破壊せし所をベンケイ崎と云ふ」と云ふありて辨慶をハシヤマニウクルと稱すと憶ふに辨慶の衣川に立なから死せしと云ふは藁偶人を以て敵を欺き遁れて義経に従ひしなるへしとそ。

(東遊記に奥州三馬屋は松前に渡る海津にて津軽の外ヶ濱にあり云々。義経蝦夷に渡らんと此處迄来りしに数日順風なかりしかは淹留に堪す此に持佛の観音像を出して海中の岩上に置き祈祷せしに忽ち順風を得て恙なく松前の地に渡れり。其像今に此處の寺に在て義経風祈の観音と稱す。又義経の馬を立たりしと云ふ窟三つあるを以て此地を三馬屋と稱すと云り)

「辨慶崎の辨・・・・・・北海道の地名に蝦夷語の附しあるは敢て怪むに足らず、偶々辨慶の音の「アイヌ」語近きものありしより義経辨慶の渡道説に附和との説も強ち捨つ可らず、又義経の渡道説は内地より草紙等の物語に依りて傳はりし物の内地への逆輸入説あり、相當の議論今日尚ほあるは英雄崇拜的同情性に富む日本人の特有なるべし、余は今回は義経辨慶論には深入りを保留して次版に論する事にせり、唯「アイヌ」語のみの引證に止めん、「ペンケナイ」・・・・・上の川の意、「ペンケスマ」・・・・・上の岩の意、此の語辨慶に引用せられしならんかと。
又謂ふ辨慶の七つ道具説・・・・・高舘物語りに曰く、服、刀、首かき刀、三腰まてこそさへたりけれ、當時武人戦場に臨む時は三刀を帯せり、尚ほ其外に武器を持ちしは濁り辨慶のみにあらざりしなり、今日の工兵は七つ道具以上を帯びせり、武器を多く有携せしとて必ずしも勇士にあらざるは辨を待たず」
 

金史列将傳曰(金史別本)範車國大将軍源光録義鎮者日東陸華仙權冠者義行ノ子也始テ入新靺鞨部ニ為千戸邦判事ト身長六尺七寸性温和而勇猛才思甲諸部外夷多随拜メ入学館辨禮義後遷ル咸京録事章宗詔轉シ光録大夫累任大将軍久守範車城ヲ押北方ヲ往昔權冠者東小洋藩君章宗顧厚賞メ定総軍曹事官令入北鑛不メ日破蘇敵得印府ヲ飜来屬幕下ニ築範車護ル焉項ロ侵北天渡龍海ヲ得一島山河麗奇而悉金玉也民知煎霊草ヲ少食五穀屠生肉其嫌故ニ無邪煩老仙伊香保行辰本命法儀ヲ相無異怪徳勝故人ニ義行帰趣メ尊敬得長壽後遊中華隠顯更不定
按に観蹟聞老志義経事實考附録に勲功記に據て、此文を載せ、又鎌倉實記にも、此文を挙けたり。南宋の渟熈四年丁酉は、本朝高倉天皇の治承元年にして、金主二代目の此なり。義経の高舘没落は、文治五年なり。蝦夷に遁れたるべし。金の本名を女眞或は女直と云ふ。蝦夷は金の地続にして、盲人女直と云ふ。蝦夷人義経を信敬する事神の如し。蝦夷を従へて、後金に至り、章宗に仕へしなるべし云へり。按に女直は、即靺鞨國にして、古へ所謂粛愼も是なり。義経を義行と云ふ事は、鎌倉實記に亡命の人にして良経公の名に粉るゝ故、鎌倉にて義行と改め、又義顯と改られしを平泉にても恭順の意を表し義行と稱せしならむと云り。大日本史にも諸書を引き、彼嫌疑あるを以て官符に名を改められし由、見えたり。傍廂に昔時、義経同名三人なりしか。一條良経公攝關の故に、孰れも改名して義経は義行と改めし由、諸書に見ゆと云り。但し義経追捕の此は、良経公權大納言にして大臣にあらす。父兼實公は右大臣なり。義経遁れて、蝦夷に渡りしと云ふ説は、正史の東鑑に所見なし、とて相原氏の雑記に其説を挙くるも、其説を取らす。然れとも彼の事蹟を観察し、  異邦の説、及び稗官の諸説を酌量して事實と認めれば、往々其説を史乗に掲くるもあり。剰へ蝦夷軍談等の説に由り、大清は義経の裔なり。故に清和源氏の清の字を以て國號とすと云へるも多し。抑諸説區々なるは、是義経生害の明證なけれはなり。當時頼朝卿の泰衡を征討ありしも義経の蹤跡、疑はしきに根因せるならん。且や義経の智勇抜群なりし事は、云ふも更に泰衡に國事の托を受け、國民も服し大權を握りしと見ゆれば、此に禍敗を取るも全く徒死すべきにあらず。蝦夷渡りの説あるも信なる哉説に、泰衡は義経征伐の催促に由り秀衡朝臣の遺命に任せ、窃に義経を落し遣り。さて其後に於て留る所の従臣等を討滅し、忠衡をも討殺し其責を塞けりと或は忠衡等を蝦夷の案内として義経に従ひ、泉城を功て討取ると注進し、頼朝卿を謀ると想像せしあり。蓋し泰衡も亦顛末、蝦夷に遁れんとせしは、是に縁て其事ありしなるべし。
「成吉思汗は保元三年(義経より一年前)を以て生れ、義経死後十七年を以て、漸く天下に覇たるを得。其以前の行動は詳細ならず、六十六歳を以て病没せり」


附 言
北院御室守覚法親王左記の略に云爰に聊所思有に依て密に義経を招き合戦軍旨を記す。彼源廷尉の徒勇士のみに非ず張良か三略陣平か六奇其藝を携へ其道を得る者歟(鎌倉實記に據る)傍廂の説に周防國人岩國三郎兼末と云ふ者一條公に仕へし頃判官義経参候したりし時に兼松は配膳の役にて能見知りたり末た一向の小冠者にて木曾なとゝ様替り最優に京馴れ年頃は二十許にて色白面長に髭もなく折々は上の方を見上げる癖ある云々と兼松記し置けりと見ゆ。

 

大将軍
長部村の山中に此社あり。清衡平泉館を築かれし時、平安城の将軍塚を模して勧請せるなるべしと相原氏の雑記に云へり。

 

瀬原柵
舊趾瀬原にあり。是貞任の構ふる所なり。瀬原は半は中尊寺村、半は衣川村に屬せり。

 

白鳥館(しらとりだて)
舊趾膽澤郡白鳥村に在り。安部貞任が弟、白鳥八郎行任が居館趾と云へり。天正中岩淵伊賀守と云者住めり。

 

衣の里
中尊寺村瀬原の邊より衣川村(伊澤郡なり往古磐井郡に屬せり)戸河内村達谷までの古名なり。

六帖題御歌  紅梅衣のさと。

わきもこか衣の郷の梅の花さそくれなゐの色に咲らむ     中 務 み こ

春過て夏のひとへになりなから衣のさとは名こそかはらね   尊 意 法 師

三河國にも同名あり又古歌もあり

『今よりは霞もさこそ立ぬらん衣の里に春し来ぬれば     鷹 司 院 按 察

 白妙に咲かさなれる卯の花は衣の里のつまにそ有ける    忠     隆』

 

衣 川
水源二派にして其一は膽澤郡酸川嶽の麓(酸川岳は磐井郡なれども膽澤郡に寄りたる方を云ふべし)に出つ。其一は同郡下風山の下に出つ増澤大平石納等の数村を経て流通し、其末北上川に合へり。官道の橋あり。又上流に衣瀧(ころものたき)あり。此川鮎を産し梁(やな)ありて、多く漁(あさ)る。桓武天皇延暦八年三月征東将軍に賜ふ勅(みことのり)書に官軍猶滞衣川云々官軍渡河置栄云々と歴史み見えて本名最古し古歌数多あり。其一二を挙く。

拾遺集恋一
  袂(たもと)より落(をつ)るなみだはみちのくのころも川とぞいうべかりける   よみ人しらず

玉 吟 集
  たか袖につゝむ蛍のころも川おもひあまりて玉ともゆらん             家 隆

未木集川瀬
  松近河といふことを

ころも川汀(なぎさ)によりてたつ浪(なみ)は岸の松かねあらふなり鳧(けり)   西行法師

藻 塩 草
  『昨日たち今日来て見れば衣川裾の綻(ほころび)さけのぼるらん』

山 家 集
十月十二日平泉にまかりつきたりけるに、雪降嵐はげしくことのほかに荒たりけり。いつしか衣川見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸につきて衣川の城見まはらしたることからやうかはりて物をみる心ちしにけり。汀氷てとりわけ寒ければ

 
とりわきてこゝろもしみてさえそわたる衣川みにきたるけふしも   西行法師

 

袈裟女(けさじょ)
名を阿都麻といふ。其母衣川と云ふは本是京人にして衣川に居り、後又帰京し衣川嫗と號せり。故に世人此女を袈裟と呼り。嘗て源渡に嫁せしが、絶世の佳人にして遠藤盛遠之を邪恋し、其母(實は盛遠の母なりと云ふ)を劫して云く、此婦を媒して我に取らせずば即ち汝を殺さんと。母恐て之を袈裟に語りければ、袈裟心中に思へらく、抑是に従ふも従はざるも不義不孝両ながら免るべからずと。豫め死を決し盛遠に逢て之を謀りさて夜間潜に家に入り、夫を殺してよと盛遠に契約し、我身は却て夫の姿をなし閨中(けいちゅう)に臥し居て一刀の下に首を落されけり。盛遠其袈裟なるを見て驚き此の婦の貞操を感し己が前非を悔い渡に謝し薙髪して僧となる。是即ち文覚なり。婦の為に鳥羽に塚を営(た)て恋塚といふ。(源平盛衰記に詳なり)

 

照井館(てるいだて)
(照井陣場とも云ふ)舊趾白鳥村にあり。徳澤坂の邊なり。秀衡の臣照井太郎高春(一説高直といえり)が陣場なりと傳へたれど、事跡詳ならず。照井が事東鑑に見えず。義經記に高春等泰衡の令に依り軍兵を率て衣川館を囲み義經を攻し事を載す。又照井の舊跡所ゝにあり。岩井川の上五串村『五串村現時厳美村と書けり』に照井堰あり。

(田圃の用水を引く堰を当初開きし名なるべしとそ平泉村の南に一ノ関あり。続きて二ノ関、三ノ関あり。是関にはあらて堰より謂ふ名なるべしと云ふ説あれど、若くは平泉館に関る要害の名にやありけん。今も五串村の瀧の上に用水堰あり。其水隧道を疎通し来り。黒澤村一関村の田に注けり)『一之関・・・天喜之役、王師構三関、此以其為第一、曰一関・・・其田脾、其民撲(随鑾紀程)。安部氏の乱に関塞を置くにより一、二、三関の地に分てりと。倭名抄に磐本郷とあり。文治の頃より西磐井郡の一部となり、又天正十六年初めて驛を開くと謂はる古は鬼死骸村と合して一村を成し居れり。康平二年には安倍良照に、寛治の頃には藤原清衡に、文治五年には葛西清重に、天正の頃には葛西の摩下小野寺伊賀、藤原道照に、慶長の頃には伊達政景に、寛文の頃には伊達宗勝に、天和二年五月田村建顯領せり。西磐井郡一に櫻野荘と謂ふ、名勝地櫻葉の里は今の花王街にして住昔櫻の名所にてもありにしや。西行の歌に・・・根芹つむ澤に氷のひまたへて春めきわたる櫻葉の里(磐井縣地誌)岩井川 以前一関川と稱せり一関又磐井と稱せり。』『もろひとはいはゐのさとにまとゐしてともにちとせをふべきなりけり 作者不詳』岩井川の下前堀村に照井と云ふ所ありて川の北岸に古石塔(ふるせきとう)あり。照井太郎の墓と云傳へたり。側に碑の如きものあれど文字全く湮滅せり。又其館跡と稱する地も沿岸の農地にあり。柴田郡沼邊村韮上山の西北に照井か古墳あり。此に戦死せし屍を埋みたる所を云るは戦記伊達の大木戸合戦の條に國衡に従て照井太郎遠衡の名見えたり。蓋し是も秀衡の族臣にして名の異なるは父子なとの傳の粉錯(ふんさく)あるにや。

 

陣場張山(じんばりやま)
二箇所下衣川村にあり。徳澤山の西畔なり。ョ義義家の貞任等征伐の時陣せられし地なりとそ(陣場は瀬原の柵より十二丁餘を距り、西北に方れり。ョ義軍勢を張り其数を量るに升形を作り千人を入る。今に升形の趾顯然たり。升形明神と稱し石堂あり。是西磐井膽澤両郡の境なり)

 

吉次宅地跡(きちじたくちあと)
三條吉次信高(一説に季春とも云ふ)が居所(きょしょ)下衣川にあり。衣川の北に館門の舊礎(きゅうそ)今猶残れり。里俗此邊を長者が原といふ。吉次の舊跡とて栗原郡金成村近傍の畑地其他所々にあり。地方に居る大賈にして金銭の商業を以て上京せし。序属鞍馬寺に詣て牛若丸(義經の幼名)に合い、遂に其依頼に任せ平泉に伴来(ともないきた)れり。秀衡之を嘉(よみ)し慰労として此宅地を与へしとそ(按に三條を氏とすれば元京商にして毎に秀衡の家用を辨し功有し故なるべし)『或は云ふ、京都政府方面への間謀に用ゆしとの説あり』

 

小松の館(こまつのたて)
舊趾月山(きゅうしがっさん)の麓にあり。安倍ョ時が子、境講師官照が居所なり。東鑑に凡官照小松館成通(貞任後見)琵琶柵等舊跡彼青厳之間云々。

前太平記には寄ョ時が子、僧良照が居所と云り。ョ朝卿泰衡征伐の時小松柵を敗られ泰衡磐井川まで退くとあり。路次違(みちちが)えるが如し。此柵は必栗原郡より磐井郡にある柵にして館とは異なるべし。

 

衣川の柵(ころもがわのさく)
舊趾下衣川村にあり。今の中尊寺村の衣川橋より五六街許川上にして琵琶柵
(びわのさく)と川を隔て相対せり、安倍ョ時同貞任が居館なり。櫻の古木あり。柵門の外に植並べたる樹木の残れるなりと云ふ。里俗之を間断櫻と言傳へたり。又柵趾を並木屋敷と云り(貞任が曾祖父六郡を領せしより八十餘年是に住居すと云へり)

東鑑に文治五年九月二十七日ョ朝卿安倍ョ時が衣川の遺跡を歴覧あり。廓土空しく残りて秋草鎖す事数十町礎石何處にか在る舊苔埋むこと百餘年と記せり。此柵の事と見えたり平泉の衣川館即ち判官館とするは謬傳なりけり。

『蒲鉾弓、秀衡が用ゆたりと云ふ弓の称、今も陸前陸中の地方に持ち傳ふるあり、高館の下に弓工を置きて十萬挺製せしめたりとて十萬弓の名もあり。其地を十萬坂と云ふ。「十萬坂」衣関邊を指すあり、又一関と隣村との境界を指す處にあり。「末野村十萬坂」奥羽名所記行に云ふ、里俗義經十萬騎の勢を供へしとの事より名づけられたるにて、東都以北第一の坂なりとあり、然れども義經未だ十萬騎に将たりし事なければ、里俗に止るべし、又十萬弓の事より後の世に至り夫々命名せしにや高館の邊には、今は其名なし。「八千坂」貞任八千の兵を率ゆて源兵に対陣せし處と云ふ、衣川の上流の邊にあり』。『游東陬録に曰く・・・山行一里未野、俗傳八幡東征時、賊伏挽強兵十萬處、曰十萬阪、其弓木強少来體今猶散藏民家云々・・・将軍受詔光殿、族施悠々屯木幡、十萬健兒挽強弩、天戈一閃雨雲奔、と時代と事實に於て

差異ある事如此記して後判を待つ。次に明治九年、明治天皇御行幸せられしの時の東巡録の記事に次の如し。・・・・・峻坂多く腰奥に御しt發せらる十萬坂の嶮を踰ゆ二時眞柴村に於て野憩せらる村吏駒ヶ岳の雪を献す。是より又馬車に御す行く十丁許り磐井驛に着せらる・・・・・上板輿に御して舘址に登り玉ふ・・・・・腰輿に御して中尊寺に幸せらる・・・・・竹生島の曲、及び開口能を覧玉ふ・・・・・古拙にして雅ならず云々。當時懸令の奏上文中に曰く・・・・・風俗の陋蝦夷と分ち難く・・・・・野蠻を免れさる今猶昔の如し」

琵琶柵(びわさく)
舊趾中尊寺村の西戸河内村にあり。安倍貞任か兄成道(一説に其後見と云り)か居館を泉か城と稱して泉三郎忠衡之れに居れりと言傳へたり諸書に之れを評して東鑑の説に據れば疑なき事能はすといへり。

(按するに忠衡此舘に居れりとせは其没落は文治五年六月にして頼朝卿の衣川柵の歴覧は同年の九月なれば之に準せしなるべし。忠衡義経に眤近せしを思ふに其所高舘隔絶の地にもあらされは之に居れりとするも由なきにあらす。始め平泉舘の邊に居り後、是に移れるにや忠衡宅地跡の條下の泉屋敷といふに照し考ふへし)

衣關
東鑑に西白川の關に至り。東外濱を限り各十餘日の行程にして關門を立て衣關と名つくとあり。

(一説に膽澤白鳥村鵜木と云ふ所に關の跡あり。其傍に關山明神あり。今之を關門宅と云ふと按するに其地勢中尊寺■西部は險隘にして古来同寺の山號を關山と號し寺塔建立の時に中間に關路を開き旅人往還の道となすと言傳へさて金色堂の西北に方て關神社あり。中古北野神社を配祀せしか今は観音堂となせり此堂の北の麓に關の跡あれば此處なりし事論なし。平泉の古圖には衣川の東北の山下に古關とて柵門番所を畫り相原氏の雑記に今古圖とて見るも後世の製圖と見え全く信するに足らさる由云り。但し後人の製圖といへども地方の古傳説に成れるものねるへけれは用ゐて取捨せさるへからす抑も最初の衣關若くは此古關なりけんも知るへからす古道は今の道と別にして玉造郡より栗原を経て磐井郡に入りては黒澤村赤荻村「此二村古の萩莊荻莊にして其境の磐井川に橋を架し荻萩橋と云しとそ」平泉村より中尊寺に掛り衣川に出しと云り是當時の官道なり。又一方は平泉時代の山ノ目村より平泉舘の東北を過て彼古關に通せし古道と云へるあり。是亦官道に次く道なりしなるべし。頼義朝臣日吉白山を月見坂に於て遙拜せられしと云ふ事あり。其月見坂は中尊寺の東畔の坂上なれと廣く指しては衣關と続けて云へるなるべし)
 

後撰集雜一                        読人しらす
たゝちともたのまさらなん身に近き衣のせきもありといふなり
詞花集別
道貞忘れて待りける後みちの國の守にて下りけるにつかはしける
諸ともにたゝましものをみちのくの衣の關をよ所に見るかな  和泉式部
続後撰集冬
    健保六年歌合冬關月                順徳院御製
影さゆるよはの衣の關守はねられるまゝの月を見るらん
夫木集春
    嘉元百首歌奉し時旅                前中納言定家
さくら色に四方の山風そめてけり衣の關の春の曙
 

衣の瀧(ころものたき)
衣川村にあり高さ七丈二尺廣さ十三間餘なり飛流は雷聲をなし漂水は碧藍を染む。
 

月山社(がっさんしゃ)
衣川柵の西にあり長治年中清衡社を建立すと云り棟牌に文明十七年田野勘四郎作とあるは再建なるべし。今の三峰社の奥にあり、此山松樹蔚蒼として全面山峰社下峭崖巉巖峙てり巌上の霜葉錦紅を晒して風景他に殊なるを覚ゆ。
編者云衣琶二柵の奮墟狐兎を棲ましめ春禽徒に人を呼ひ秋花空しく愁を惹く行客野老に問て其處と知るも猶其跡を尋ねて躊躇たり抑二柵は康平の跡にして琶戌は、文治の跡を兼ね観客宜く其事實を察し、地形を顧て是非の疑ひを解くべきにこそ『石生坂、源義家の貞任を此所に戦ひ貞任敗れて遁れんとせし時義家、衣の館はひころびにけり、とよびかけしに貞任、年を經し糸の乱れの苦しさに、と返しければ義家之に感じ弓を扣へしとぞ、此の故事よし、一首坂と称せしを後世石生坂と謂へり』
 

安倍氏(あべし)
安倍頼時は初名(はじめな)を頼良と云り。先祖安東(安日の末孫にして津軽卒士濱安東浦に住す。安倍此羅夫に従ひ征戦に功あるを賞して其姓を与えらる)の名を襲ひ安東太郎と称せり。祖父忠頼は俘囚(ふしゅう)の酋長となり父忠良は陸奥大椽(むつだいじょう)となれり。頼良八男三女あり。嫡男日井は盲目なり。(一説に長男早世すとあり)二男厨川次郎貞任、三男鳥海三郎宗任、四男境講師官照(義經記境冠者龍相一書に友照とも良照ともあり。友及び官の草字体良に似たるを以て誤れるにや)五男黒澤尻五郎正任、六男此浦六郎重任、七男此興鳥七郎則任、八男白鳥八郎行任、女子は有加一乃末陪、中加一乃末陪、一加一乃末陪なり(女子一人は亘理經清が妻、一人は清原武則が後妻、一人は伊具十郎永衡が妻也)『經清の妻、經清の死後、武則の後妻となりしなるに、頼時の次女も武則の後妻となり居るにては經清の妻「未亡人」は後妻の後妻にや、疑う點なり』

父子先業を借り俘囚を馭し、勢力盆強大なり。遂に六郡を略し、朝憲を蔑如して貢賦を収納せずと云とも國守之を制する事能はず。七十代後冷泉天皇御宇(ごれいぜいてんのうぎょう)永承六年、陸奥守藤原登任、出羽國秋田城介平重成と共に頼良等を討て敗績し、登任には上洛し重成には帰国せり。更に又朝議あり。源頼義朝臣を、陸奥守兼鎭守府将軍に任して、頼良等を討せらる。頼良其威名を恐れて、即ち國司の名を憚り先名を、頼時に改て順伏せり。天喜二年に至り貞任狼藉(ろうぜき)の事あり。朝臣之を罰せんとせらるゝを頼時憤懣し、衣川柵に寄據て叛逆を企てければ、頼義之を征伐せらる時に頼時が婿亘理權太夫經清伊具十郎永衡官軍に属し、数戦を經て永衡誅せられ、經清又頼時に帰せり。同五年頼時流矢に中(あた)り、鳥海柵(岩井郡東山郷鳥海村にあり。按に舊館にして宗任之に居りしか)に還りて死す。貞任残黨を集めて、川崎の柵に據る(或は河堰城とも云ふ)

官軍之を攻むといへども、既に初冬に際し風雪に合ひ兵糧盡(へいろうつき)て大敗し國府に退く。貞任彌逆威を振ひ、官物を掠奪(りゃくだつ)す。康平五年頼義朝臣國司の任了り、高橋重任に就くといへども賊勢に屈し、且土人頼義朝臣の恩威に懐くが故に、經重爲す事なくして帰洛せり。清原眞人武則大兵を挙げ、羽州を發し栗原郡営か岡に頼義朝臣に會して、敗軍を恢復し小松柵『磐井郡中山大風の澤に次し翌日同郡萩馬場に到る小松の柵を去る五町有餘なり・・・陸奥話記』を攻む貞任の陣敗れて岩井川まで退き猶追撃せられて衣川の柵に遁れしか。此にも亦敗を取り、鳥海柵にも留得ずして厨川の柵に籠りぬ。険を擁し晝夜(ちょうや)苦戦すといへども、遂に敗れ經清は虜となりて斬らて貞任も終に官兵の手に斃(たお)る。其長男千世童十三歳にして柵を出て、勇戦せしも捕へて斬らる。二男高星は乳母抱て津軽藤崎に遁匿(のが)れぬ。(後終に其地を領せり)宗任は虜となる。(後免せられて義家『八幡太郎義家童名を曹司子と謂へり、故に源家の子等を御曹司と呼ぶに至りしなり』朝臣に仕ふ)其餘の族黨(ぞくとう)或は斬られ、或は降を許さる。
 

清原氏(きよはらし)
出羽國の住人清原眞人武則は元仙北の俘囚長にして貞任征討(せいとう)の功に依り貞任が所領を賜はり、奥六郡の押領使とせられ鎭守府将軍に任し従五位下に叙せられたり。(大日本史に系圖を按ずるに、武則父兵部太輔方祖父左京權太夫墓光右大臣夏野之裔なりとあるも他に所見なければ取らずとあり)

七子あり。嫡男荒川太郎武貞、二男班目二郎武忠、三男貝澤三郎武道、四男權太郎清衡、五男将軍三郎武衡、六男将軍四郎家衡なり。武貞の次は女子にして、義彦秀武に嫁す。清衡は武衡家衡とは異父同母の兄弟なり。
其由緒平泉藤氏の條に譲り之を略す。大日本史に同母は家衡のみを挙く。按ずるに武則多子ある中に就て、武貞、清衡、武衡、家衡の四子最顯はる。是其事蹟に由るといへども、四子は蓋し正腹にして別れたるにや。清衡は異父にして後に武貞の継子となるといへども元三郎四郎の同母兄にして二郎と称すべきが如し。さて清衡継子とあれど、武貞の跡に其實子眞衡継りと見ゆ)

武貞父武則が遺跡を継ぎ其子眞衡威勢父祖に超ゐ奥羽両國の一族皆其の臣列に居る眞衡子なくして海道小太郎成衡を養子とす。

(鎌倉實記に云奥州岩城判官代府主兼帯海道小太郎成衡の後室徳尼と云ふは、源頼義朝臣の女にて、母は多気権守宗基が女なり。後三年の時義家朝臣養女として亘理清衡に預て常陸大椽清行嫡子小太郎成衡に嫁す。基衡が媒なりと徳尼の遺跡今も岩城國平にありて此平に対し泉といふ所もあるは平泉の名を襲へるなりと云。又出羽國羽黒大堂は秀衡の建立にして本社中に秀衡の妹徳尼子の木像ありと云傳ふ系圖を考ふるに秀衡に妹なし。疑らくは同人にして異説なるべしと雑記にいへり)

武則の甥且つ婿なる秀武は眞衡に讐怨(しゅうえん)の事ありて矛盾し、清衡家衡を依頼す。眞衡之れを聞て秀武を襲撃せんと出羽に發向せしが、清衡家衡は武衡に結び、其の留守を襲ふを聞き、又子の成衡病に罹るを以て眞衡途中より軍を返しければ、清衡等一戦にも及ばず引退けり。源頼義朝臣の嫡子義家朝臣永保三年『永保三年は紀元一七四三年』陸奥守鎭守府将軍に任せらる眞衡重て出羽に發向するに際し、清衡家衡再び眞衡が留守を襲へり。眞衡の妻此難を受け義家朝臣の家人にして所部を検察する兵藤太正經伴次郎助兼に保助を請ひければ、両人即ち之を諾し其要害を固む清衡家衡之を攻て勝たす。

爰に正經助兼の説諭を清衡は肯(うけか)ひて退き家衡は肯はさりしも戦負て退散せり。助兼國府に詣(いたり)て之を具状しければ、義家朝臣使節を出羽に遣(や)り、眞衡及び秀武を召されぬ。両人即ち軍(いくさ)を止め、其命を奉し和睦をなすに至り。尚清衡武衡家衡を召されしに、清衡武衡は其命に遵(したが)いしかど、家衡は遵はずして出羽に赴き、沼柵に籠もれり。義家朝臣出羽に出陣し之を征せらるといへども勝利なし。

寛治元年義家朝臣任了(おわ)るといへども、國民の望に依て再任あり。武衡又変心して家衡の許に行き、共に仙北金澤の柵に移り、守備をなす是に義家朝臣秀武秀衡を始め、國中の兵を挙げ國府を發して征伐せられ、屡ゝ會戦ありと云ども兵糧乏しくして引帰らる。

同四年武衡金澤を發して國府に迫らんとせしも敗北して帰國せり。かくて義家朝臣には所労に由り出陣叶はず。弟新羅三郎義光並に嫡子河内判官義忠軍を率て金澤を攻らる。眞衡去る寛治元年に病死し、其子成衡官軍の陣に在り。武衡を謀らんとして城中に入り、事発覚して戦死す。官軍数ゝ攻戦し、會(たまた)ま陣中失火の騒擾(そうじょう)に依て、又國府に引帰る。同年義家朝臣大軍を率て金澤を攻らる。武衡家衡城中兵糧盡て降を請ふも許されず、城に放火して落行くを追補して殺さる。

同六年義家朝臣帰洛し、奥州の目代に清衡を置かる。眞衡死亡し、成衡も戦死しければ清衡こそ遂に奥州を管領する身とはなりにけれ。

平泉志巻之上 終
 
 
 


 

 
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2000.3.31
2000.5.26 Hsato