杉原千畝の名誉回復 

ユダヤ人六千人の命を救った男


 
「日本のシンドラー」と言われる人物がいる。第二次大戦中、六千人のユダヤ人に日本通過のビザを発給した当時のリトアニア領事代理杉原千畝(すぎはらちうね)氏である。

今から六十年ほど前のことである。昭和15(1940)年7月27日早朝、杉原は、いつものようにカウナス(当時のリトアニアの首都)にある日本総領事館で執務に就こうとしていた。ほどなく彼の耳に、喧騒が飛び込んできた。ただならぬ気配を感じ、窓の外を見れば、二、三百人の群衆が激しく手を振って盛んに何かを訴えかけている。

直ちに、杉原は、その群衆が、ナチスドイツのポーランド侵攻によって、祖国を追われたユダヤ系ポーランド人であることを察知した。独裁者ヒットラー率いるナチスドイツは、第三帝国の建設をを標榜し、ユダヤ人の民族としての絶滅を目論んでいた。

命からがら逃れて逃れてきた群衆たちは、杉原に対して、次のような嘆願をした。
「ナチスの迫害から逃れるために、日本通過のビザを発給してもらいたい」

彼らはリトアニアから、ロシアのシベリアを経由して、日本に渡り、中国やアメリカに亡命することを考えていた。

杉原は早速、外務省に人道的見地から「通過ビザ」発給したい旨の打電をする。しかし外務大臣松岡洋右の回答は以外にも「行き先国の入国手続きを完了した者に限り、そうでない場合は、通過ビザを与えないように」という冷たいものだった。この日本政府の冷たい態度の裏には、日本がドイツと同盟関係(日独伊の三国同盟ははこの二ヶ月後に締結された)を結ぼうとしていた時代背景がある。要は松岡は、ユダヤ人の命よりも外務大臣としてドイツのご機嫌を損ねることを気にしていたことになる。

大使館の前にユダヤ系ポ−ランド人たちが現れてから四日間が過ぎた。杉原は人間として悩みに悩んだ。外交官として、外務省の意向をとるべきか、それとも人間として、目の前の助けを乞う人々の命を救うべきか。その時、彼は次のような妻の言葉に勇気を貰った。

「あなたの足かせにはなりたくない。どうぞ思うようになさってください。」
こうして、杉原の気持ちは決まった。
「よし、彼らにビザを発給してやろう」

この行動はもちろん、日本の外交官としては、「訓令違反」となる。国に帰れば、それこそ銃殺になるかもしれない。杉原は、それを承知で、責任を持ってビザを発給することを人々に告げた。大きな歓声が湧いた。杉原は自身の外交官としての職務よりも、今人としてなすべき事を選択した。目前で死の恐怖に曝されている人間の命を救う以上に尊いことはない。強い信念が彼の命がけの行動を支えた。杉原は、述べ六千枚に上るビザを、寝る間も惜しんで発給し続けたのであった・・・。

やがて壮絶を極めた第二次世界大戦は終わる。同盟関係にあった日本とドイツはともに惨めな無条件降伏を受諾して、それぞれ終戦を迎えた。

六千人のユダヤ人の命を救った杉原は、昭和二十二年(1947年)、終戦間もない祖国日本に帰国した。しかし外務省の彼に対する態度は、思いの外に厳しいものだった。何と杉原は、詳しい理由も告げられないまま、首を切られてしまった。後に外務省は、あの時は「人員整理のため」であったと答えているが、正式には現在でもその理由は明かされていない。要するに杉原の勇気ある行動が「訓令違反」であったという四角四面の解任理由が、杉原の処遇の裏に隠されていたと考える方が自然だろう。

祖国日本で、国の命に従わなかった杉原は、長い失意の時を過ごした後、様々な仕事を転々とした。その、語学能力を生かし、私企業の海外駐在員として働き、昭和五十年(1975年)、75歳で、鎌倉の自宅に隠棲した。瞬く間の戦後30年であったが、依然として杉原の名誉は、回復されなかった。

しかし救われた人々は、恩人Tiune Sugihara(チウネスギハラ)を忘れていなかった。昭和六十年(1986年)イスラエルは、「諸国民の中の正義の人賞」を杉原に贈ることを決めた。イスラエルは、杉原の勇気を最大限に讃え、エレサレムの丘の上に顕影碑まで建立した。この時、既に杉原は八十五歳となっていた。

彼の命がけの行為は、こうして世界の人々に知られるようになった。杉原は日本の外交官から、世界の「人道の人、チウネスギハラ」となった。しかし日本の外務省は、杉原の存在を公的には無視し続けた。祖国において名誉の回復がなされぬまま、翌年、杉原は、自宅鎌倉で、波乱に満ちた生涯を閉じたのであった。

これが、「日本のシンドラー」と言われる杉原千畝の物語である。

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去る二〇〇〇年十月十日、あのような勇気ある行為をしたにも関わらず、名誉が回復されないまま不遇の晩年を送った故杉原氏とその家族にとって、待ちに待った時がやってきた。この日、故杉原千畝氏とその家族に対し、故杉原氏の名誉回復を象徴する「杉原千畝を讃える顕影プレートの除幕式」が都内外交資料館であったからだ。

挨拶に立った河野外務大臣は、故杉原氏とその遺族に対して、
「外務省とご家族との間にご無礼があった・・・極限的な局面において、人道的かつ勇気ある判断をした素晴らしい先輩だ」と語り、戦後の外務省の対応について、初めて外務省の非礼を認め正式に謝罪をしたのである

朝日新聞は、翌11日の朝刊で、このことを”杉原千畝氏、半世紀経て「名誉回復」”と小さな枠をつけて報道した。正直に言えば、白川英樹氏のノーベル賞受賞の影で、この素晴らしい出来事が、注目されないのは残念だ。しかしこれから故杉原千畝氏の行為は、戦争の世紀と呼ばれる20世紀の美談として永く語り次がれていくに違いない。佐藤
 


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2000.10.13