頼朝と「男の嫉妬」心 続々


人類における嫉妬の起源は、旧約聖書「創世記」の冒頭のカインとアベルの物語と思われる。

神によってエデンの園を追放されたアダムは、荒野でイブと知り合って、二人の男子をも うけた。長男カインは、大地を耕す農民となり、弟アベルは羊飼いとなった。ある日、二人は神に捧げ物を携えて神の前にやってきた。カインは穀物を持ち、ア ベルは子羊を神に供えた。何故か、神はアベルの子羊に目を細めていたが、カインの持参した穀物には目を留めなかった。その時、カインに怒りの表情が湧き、 顔を伏せてしまった。

神はカインに言われた。
「何故お前はそのように怒るのか。さあ顔を上げて私を見なさい。そんなことをしていると、悪い心がお前を待ち伏せて、罪を犯すことにもあろう。さあ顔を上 げなさい」

カインがどのようにして神の前を去ったか。聖書は記していない。その後は、いきなり、「カインがアベルを「畑に行こう」と誘い出して、殺害してしまう。

神は不吉な感覚がして、カインにアベルの行方を聞く。するとカインは、「私はアベルの保護者ではありません」と言って、シラを切るのであった。その時、神 には大地から殺害されたアベルの悲痛な叫びが聞こえてくる。

そして神はカインにこのように告げる。
「お前の手で殺害したアベルの血は大地に降り注いだ。お前はそのことで大地に呪われることとなる。もはや大地はお前に実りを与えない。お前は大地をさまよ いさすらう者となる。」

「私は大罪を犯しました。とても私ひとりでは背負いきれません。たった今大地から追放された私は、あなた様の前から身を隠し、風来坊となって大地をさまよ いさすらう者となります。きっと私を見つける者は私を殺そうとするに違いありません」

「それらならば、お前に徴(しるし)をつけて、お前を殺そうとしないようにしよう。そしてカインを殺害する者には七倍の復讐が行くようにしよう」

神は弟を殺害するという大罪を犯したカインを追放すると共に、その罪人カインを殺害す る者にはさらに七倍の復讐の呪いがかかるようにした。これが神を信じる者カインに対する神の温情あるいは愛であるかは分からない・・・。

以上が、カインとアベルの物語である。農民となったカインは、弟の育てた子羊が、尊敬する神の目に留まったのが許せなかった。自分の貢ぎ物が、無視された ことで無性に腹が立って、今の言葉で云えば、「キレ」てしまったのである。

弟アベルの殺害という大変残虐な行為の背景には、心理的に神をめぐるカインとアベルの三角関係があったと推測される。おそらくカインの怒りは、敬愛する神 が、自分を弟のアベルよりも愛していないのではないか。自分が一段低く見られているという不安がどうしようもなく渦巻いていたはずである。

もっとカインの心理に入り込んで考えれば、「神よ私がこれほどあなた様を敬愛し大切に思っているのに、あなた様の心は、いつもアベルの方ばかりを向いてお られる。何故なのですか。考えてみれば、いつもあなた様はそうであった。幼いアベルを可愛がり、お前は兄だから我慢なさい、と言わんばかりの態度でした。 いっそ、アベルが生まれなければ、あなた様の愛は私に留まっておられたはずなのに・・・」

さてこの「カインとアベルと神」という三角関係の構図を、頼朝と義経と後白河院の関係に移して考えてみる。

頼朝が義経に対して決定的に切れたのは、おそらく元暦二年10月(1184)の院への昇殿を許したことだったであろう。弟義経は自分の代官であるに過ぎな いのに、何故それほどまでに義経を優遇しようというのか。頼朝は、カインと同じ理を越えた怒りの気持がわき上がって切れてしまったのである。こうして頼朝 の心の深いところで、カインがアベルを殺害した畑という象徴的な出来事が起こっていたのではないかと推測される。

父を失った頼朝にとって、平家全盛の流人時代から、源氏の棟梁として、影になって気を遣ってくれた後白河法皇は、敬愛の対象であり、まさにカインと神の関 係に置き換えることができる。

法皇としてみれば、鎌倉の頼朝を第一に考え、頼朝の考えに添って、義経を処遇しているつもりだが、遠くにいる頼朝からしてみれば、後白河法皇と義経は相愛 の仲であるのではないかと、ある意味では、恋人を取られたような子供じみた思いも、どこかにあった可能性がある。そうなると権威のある後白河法皇には、文 句を言ったり、暴力をふるう訳には行かないから、法皇の一番大切な者である義経を徹底的にいじめ抜いて、抹殺するという行動に走ることになるのである。

カインの場合とこれはまったく同じ構図である。「嫉妬の構造」(荻野恒一 紀伊国屋書店 1983年刊)という本がある。このなかに、三角関係にある者 が、恋人を殺すか、それとも恋敵を殺すかという問題は、簡単なようだが非常にやっかいで難しい問題であるとしている。ただカインの場合や頼朝の場合のよう に、恋い慕う対象者があまりにも権威を持つものであったり、偉い立場の場合は、単純に罪意識の低い者、つまりカインであれば弟のアベル、頼朝であれば義経 という方向に向かうのは自然の成り行きであろう。

私は文治二年(1184)11月15日、頼朝が半ば強引に義経追捕の院宣(命令)を院に迫ったと思われる頼朝の慇懃無礼な文面に、まさに「カインの末裔」 たる頼朝が嫉妬というものに突き動かされる姿がにじみ出ていると思う。

行家と義経のことは、天魔の諸行と言われておられますが、おっしゃっている意味が 理解できません。そもそも天魔とは、仏法修行の妨げになり、人の道において迷惑を及ぼすものでございます。これまで頼朝は数多くの朝敵を降伏させてきまし たが、これもひとえに君(法皇さま)のために務めを果たそうとの忠義の心からしてきたことでありました。それがどうしたことが、(私自身が)たちまち反逆 者と見なされるなど、とても(法皇さまの)叡慮とも思われないような院宣をなぜ(彼らに)下されたのでしょう。行家にしても義経にして も、この者たちを召し捕らない限り、諸国は疲弊し、(日本の)人民は滅亡々してしまうのではないかと思います。おそらく、日本第一の大天狗は、さらに他の 者であると思われますが、いがかでございましょう。」(現代語訳佐藤)

これは、同日(文治二年11月15日)、後白河院の使いが、文をもって、鎌倉に来た時の返答である。院側からの内容は、院が義経に渡した「頼朝追討の院 宣」の釈明であった。その中に義経と行家を天魔呼ばわりする下りがある。明らかに頼朝は、怒っている。しかしながら、たとえそうだとしても、実に院に対し て非礼極まりない文面である。私はこの文面の言葉の端々に神の前で開き直ったカインの末裔=頼朝を見てしまう。

この中で、「日本第一の大天狗」という下りは特に有名である。通説では、この大天狗は、後白河院を指す言葉とされてきた。そして後白河院の権謀術数振りが 盛んに喧伝されてきた傾向がある。確かに、一見鎌倉方の意見を聞けば、後白河院のとった政策というものは、権謀術数に長けた人物のようにも見える。しかし これは鎌倉寄りで猜疑心過剰の見方ではないかと思う。単純に言えば、それは当時の院庁という政治権力の構造的弱点からくる政策なのである。つまり院には武 力がないという決定的な弱みがあり、優柔不断な政策しか取れなかったということだ。したがって後白河院の政策が、必ずしも、頼朝と義経を離反させるために 取った理詰めの政策とは思われない。

頼朝は周知のように、後白河院の計らいで、宗盛親子を鎌倉に護送の役目を負わせる。おそらく、兄弟の間を取り持とうという単純な思いがあったと推測され る。ところが頼朝はこれを拒否し、後白河院の思いを無視する形で、義経を拒絶して、一歩たりとも鎌倉に入れないという策をとった。

頼朝は、このようにして、三角関係の弟を追い落とすために手練手管の限りを尽くして、義経の反逆心を煽って行ったのである。土佐坊という刺客まで送り込ま れた義経は、ついに思いあまって、叔父行家と共に、院のもとに駆け込み、頼朝追討の院宣を出すように迫るのであった。この時、義経は、「もしもこの願いが 聞き入れられなければ、義経と行家は、腹を切って、死する覚悟」と申し上げたので、後白河院は、仕方なく、この院宣を出したのであった。

それに対して、頼朝は待ってましたとばかりに猛反撃を開始する。義経らは、鎌倉勢が京に攻め入ってくる勢いであることを聞き、体制を立て直すために西海 (九州豊後)に逃れることを決めるが、文治二年(1185)11月五日、大物浦沖で突然突風が吹き、散り散りとなって、逃亡者となってしまう・・・。

歴史というものの底流には、時代の神という大きな力が働いているとは思うが、実は意外にこうした「嫉妬」や「怒り」や「復讐心」と言った理屈では説明し難 い情動のようなものが関係し、複雑怪奇に出来上がるものかもしれないと思うのである。
2005.10.30 Hsato
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