藤沢の白旗神社に「永訣の月」奉納

 
宝物殿正面に飾られた「永訣の月」平成十四年六月一日、藤沢の白旗神社に村山直儀先生の「永訣の月」をお持ちした。理由は、「六月十三日」という日が間近に迫ってきたからに他ならない。

「六月十三日」とは、八百十三年前の文治五年(1189)六月十三日のことを指す。この日、義経公の首は、藤沢の目と鼻の先の腰越の浜で、源頼朝配下の武将和田義盛と梶原景時によって、首実検に供された。
 
又三年前の平成十一年六月十三日には、その日を期して、菅原次男氏が、義経公の分断されたままの首と胴をひとつにしようと、腰越の浜の土と栗駒沼倉の判官森の土をこの白旗神社にて合祀の儀式を済ませ、それを晴れて「御霊土として朱色の笈(おい)に背負い、山伏の白装束にて、五百キロを踏破に出発した日に当たる。要するに六月十三日は、義経公を白旗大明神として祀る人々にとっては特別の記念日なのである。

 藤沢の里人は皆おしなべて九郎義経「神」とぞ慕ふ

私が画を担いで行くと、藤沢本町駅まで、藤沢の郷土史家平野雅道氏が、わざわざ出迎えに来て頂いた。そこから五分裏の路地を通って、白旗神社の大きな鳥居をくぐった。境内は掃き清められ、亀尾山の森は眩しい夏の日を浴びて、新緑が輝いていた。

社務所に行くと、誰もいない。そこで境内の工事をしている人に近藤宮司の行方を聞けば、「さっき居られましたが、鳥居の方には居られませんでしたか?」と言われたので、その方に目をやれば、白い装束に抜けるような水色の袴を身に付けた近藤宮司の白髪が見えた。お近くによると、「いやー遠くからご苦労様です。夕べ菅原さんからも電話を頂きました。どうぞこちらへ」と、直ぐさま宝物殿(神輿庫)に案内された。近藤宮司の白髪が夏の日に神々しく光っている。きっと宮司は、「永訣の月」の到着を心待ちにしておられたのだ。

宮司に導かれるまま、宝物殿(神輿庫)に案内頂いた。直ぐさま「永訣の月」の荷をほどくと義経公の神々しいお姿が現れた。その瞬間、平野氏の口から、「ウヮー、これは凄い。」という言葉が漏れた。早速、キャンバスのままの画を奉納のお酒が山と積まれている正面に据えた。左右にはそれぞれ義経神輿と弁慶神輿が安置されている。何事にも「納まり」というものがあるが、義経公の肖像は、まるでそこに据えられるためにあるかのようにすぅーっと納まった。いや鎮座されたという表現の方が適切だった。

 水無月朔日、白旗社。九郎判官義経が御霊宿せし真影納む

何か、胸の空くような清々しい気持になり、こんなことを言った。
「いやーここに置かせて頂いて、義経さんの表情が、微笑んでいるようにも見えてしまいます」

すると、「これはモデルはいないのですよね。どこか、大河ドラマの尾上菊五郎にも似ているような気もします。弁慶はどこかしら緒形拳のようにも見えます」と平野氏が言われた。

「確かにそう言われて見ると、似ているかもしれませんね。私は初め、若い頃の長谷川一夫にも似ていると感じました」
「ええ、長谷川一夫ね。どっちにしても本当にいいお顔をしている」

宝物殿(御輿庫)から鳥居の方向を見る間もなく、近藤宮司が見えて、「永訣の月」に正対されて、「ハァー」と一声ため息を漏らされて「これはいい。本当にいい。とても素晴らしい」と感歎の言葉を発せられた。宮司は、「すぐにお祓いをしましょう」と言いながら、手慣れた様子で、装束を整えて、祝詞を発せられて、お祓いの儀が始まった。厳かな声が天上の高い宝物殿の中に反響し、何とも名状しがたい独特の雰囲気が醸成されるのを感じた。今、この殿中には源義経公の御霊が降りてきて居られる、そんなことを強く感じた。やがて静に祝詞は終わり、宮司の振る御幣の「シャー、シャー」という音が聞こえてきた。私は頭を低くし、その音の響きの中に己の心を遊ばせた。

 低くした頭の先を宮司振る御幣の風のただ清々し

「では、榊を取って、義経公に差し上げて下さい。」宮司のその言葉に促されながら、永訣の月の正面に榊の枝を捧げた奉ったのであった。

短い沈黙が、宝物殿の空気を一瞬にして、荘厳なものから、和やかなものに変えた。そして、宮司が言われた。
「いや、本当に遠いところから、ご苦労様でした。素晴らしい画ですね。これは早速、この絵に相応しい額を探して飾らせていただきますよ。」

私は一言、「義経公の最後の夜の情景です。」と説明を付け加えるつもりであったが、画がすべてを語っていた。だから敢えて何も説明など加えなかった。

 語るべき言葉は在れど語るまい「永訣の月」自ずと語る

ただ平野氏が「あの川の雰囲気がとてもいいですね。衣川ですか」と言われたので、「衣川でもいいと思いますが一応北上川ということにしております」と言われた。流石に平野氏である。平野氏は、大学で歴史を専攻されたのだが、きっかけとなったのは、高校時代に「平泉」に旅行をして、無量光院や高館を一目見て、「何もないけれども、何て素晴らしい景色だろう」と思い、それから歴史を専攻しようと決めたのだと聞いた。

特に秀衡公が造って、現在は田野の中にその跡だけを留めている景観に感動をしたというのである。その時は、稲穂の中に中島が見え、そこに姿の良い松が立っている。また無量光院の礎石の並び何かを語ってくれているのを感じたというのである。あの田畑になっている昔の池の配置が、もしも農地改良などで、形を変えられ、畦が真っ直ぐにでもなれば、何と風情のないことだろう。畦は昔のまま、かつての池の形状を伝えて曲がりくねっているからこそ価値がある。

   平野氏は無量光院の田畑の畦の曲がりに久遠を見しか

平野氏から、はじめてそのことを聞いた時には、正直言って驚いた。その平野氏が義経公の首塚のある藤沢宿に生を受け、思いもかけず平泉に行ったのがきっかけで歴史を学びこととななる。数十年を経て、そこに宮城県の栗駒に住む菅原次男氏から、電話が入る。もちろん内容は、義経公の首塚の問い合わせであった。そして話はトントン拍子に進み、810年間もの間、ばらばらに埋葬されて義経公の首と胴体を、気持の中でひとつに合祀しようという動きが始まるのである。まさにこれは単なる偶然というよりは、運命によって引き寄せられた必然の結果なのかもしれない。そのように考える方が自然な感じがする。

  人と人、人と土地との関わりは見ゑぬ縁の結ぶさだめやも

間もなく、氏子の小峯晴吉氏が現れた。小峯氏は神社の近くでお菓子屋さん(有 古美根)を経営されている。有名なその銘菓の名も「笹りんどう最中」というのであるが、この藤沢界隈の人々の多くは、熱狂的な義経贔屓の方々が多い。その小峯氏もまた、画を見て、感歎の声を上げられた。もはやこの絵に言葉などは、ほとんど必要ないのである。村山先生が精魂を込めて描かれた義経公の表情の中に、義経という人物の喜怒哀楽、人生の全てが塗り込められていて、それが見る者の魂に直接語りかけて来る何かがきっとあるのだろう。

義経公鎮霊碑の前(右から小峯晴吉氏、近藤宮司、平野雅道氏)近藤宮司が言われた。
「さあ、本殿にご案内しましょう。」宮司に案内されるままに、私たちは亀尾山と言われる小高い所にある「流れ権現造り」の荘厳な本殿へ向かう階段を登って行った。本殿の左下には、三年前の祈念碑が立っている。白い縦長の石には深く「源義経公鎮霊碑」という字が彫られている。

 三年の月日が刻む時がまた風情を醸す鎮霊碑かな
 カメラ持て宮司小峯氏平野氏と鎮霊祭の碑の前に立つ
  白旗の社の森に木漏れ日の微かに揺れて鎮霊碑の照る
 
この碑は、菅原次男氏の発願によって、義経公の御首と御胴が合祀されたことを記念して建てられた碑である。よく見れば、三年の月日は、この碑をますます美しく年輪のようなものを醸し出していた。その周囲には、立派な囲いが設けられていて、宮司や氏子の皆さんが、この碑をどれほど大切にされているのか、ひしひしと感じられた。そしてあの時の(平成十一年六月十三日)鎮霊祭のことが、つい昨日のことのように蘇ってきた。その式の時に、素晴らしい「鎮めの舞」を舞われたのは、宮司の息子さんである近藤禰宜(ねぎ)であった。その数ヶ月後、病の為に亡くなられたのだが、あの時の、禰宜の見事な舞は、今でも私の頭の中に残っていて離れない。きっと禰宜は一世一代の思いで、あのような人の心に残る美しい舞を舞われたのであろうか。実に花の在る禰宜であった。

 花の在る禰宜逝き給ふ熱き日に心に沁みる舞を舞い終ゑ

「さあ、佐藤さんここで記念写真を撮りましょう」と宮司が言われた。そして皆で代わる代わるに記念写真を撮り、三年前の鎮霊祭の思い出話に花が咲いた。「永訣の月」が、完成して、又一段と白旗神社と500キロの距離にある沼倉の判官森ご葬礼所の距離が縮まった気がした。佐藤

 今生ける我らもろとも消ゆるとも語り継がれむ「永訣の月」

 


2002.6.3
 

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