源義経伝承へのいざない

-義経公鎮霊祭の由来について-

1999年7月25日の源義経公鎮霊祭
(藤沢白旗神社氏子衆栗駒町判官森に集う)

 

東海道53次藤沢宿
可満くらやミニ資料館
平 野 雅 道


藤沢宿の義経伝承と幼き日々

生まれも育ちも、ここ東海道藤沢宿の住人。ある日、鎌倉屋平野家先祖の位牌を見た。16代目にあたる。300年もの昔から宿場町藤沢に住んでいる。江戸期から伝承史跡となっている「源義経公の首洗い井戸」と義経公を祭る白幡神社は子供のころからの遊び場。このおどろおどろしい伝説の古井戸は鬱蒼とした茂みの中にある。覗くと、生首が歯を出して笑っているようで怖い。7月の夏祭りは義経・弁慶神輿が盛大に練り歩く。各町内の山車と鎌倉囃子は藤沢宿民の血が騒ぐ。

現義経の供養碑は大正期のもの。ある遊びがガキ大将の間で流行っていた。石碑の裏側の訳のわからない文字を、石で擦る。面白いように文字が消える。私もやった。周囲の大人の目を盗みながら。常光寺にある弁慶塚もそうして被害にあった。
 

奥州平泉と私

昭和37年8月平泉高館にて昭和37年夏、私が高校2年の時に岩手県出身の同級生に平泉旅行に誘われた。おじいさんが健在なので一目会いたい。何年も帰郷していないと言う。岩手県前沢町母体村当時タバコの生産地で平泉には近い。平泉中尊寺の諸堂宇、毛越寺そして高館を暑いさなか歩いた。高館は妙に親近感があった。厳美渓・睨美渓もいった。松島を観光して二人の1週間の旅は終った。

2年後、私は鎌倉の寺院を巡った。私の母の実家は長谷観音の近く坂ノ下。拝観料をとる寺院はわずかだった。住職に直接お願いして仏像を鑑賞させて頂いた。平安鎌倉期の秘仏は学生の私を快く受け入れてくれた。その夏、再び一人で平泉を訪ねた。日本中世史の勉強を始めていた私は、宗教史を専門にしようと心に決めていた。再度毛越寺と無量光院跡に佇んだ。芭蕉の句碑をみて長大な歴史の重さを感じた。ふたたび義経最期の地、高館にもいった。一個人などは歴史の流れに翻弄される悲しさに涙した。無量光院跡では、礎石が夏草に覆われ、庭園跡には生き生きとした稲穂が頭をたれていた。すでに私は京都宇治の平等院鳳凰堂に擬して建築された史実を知っていた。時空をこえた人知のはかなさと雄大な歴史の流れの恐ろしさに戦慄さえ感じた。もう40年も前のことである。
 
 

もうひとつの義経伝承との出会い 

平成11年初春、一本の電話が鳴った。宮城県栗原郡栗駒町沼倉で旅館を営んでいる「菅原次男」さんからである。懐かしい東北弁で朴訥としたお話しは、地域歴史を研究している私にとって新鮮な驚きであった。源義経の胴体は衣川館から運ばれ、沼倉の地に供養されて史跡として守られていると言う。首と胴体が別々ではいかにも不運、鎮霊して合同の慰霊祭をしたいとの趣旨。2月に菅原さんはご来藤いただいた。梅が満開の季節である。白幡神社に挨拶に行った。地元の名物「うなぎ」をほうぱりながらじっくりお話しを伺った。合同慰霊祭のあと歩いて約500キロ、奥州路をたどり鎮霊された御霊を栗駒町へもって行きたい。これで2度、驚いた。

4月雪解けをまって私は栗駒町へ足を運んだ。すっかり長年の知己となってしまった菅原さんの大歓迎をうけた。そして稜線のなだらかな栗駒山に魅了された。「くりこま荘」はまだ残雪があり、高原地帯には水芭蕉が咲き乱れている。大穀倉地帯の栗駒町は中世武士の館跡が鮮明に残っている。これほど史跡があり、まだ未調査であることも研究心をそそられる。簡単な史料収集をして白幡神社に報告、単なる伝承ではなく信憑性の高い史実としても世に出しておきたい一心で氏子総代さんに相談した。

分霊の慰霊祭の検討は、快く進行した。腰越の首実検の日、810年目にあたる6月13日挙行と決まった。白幡神社の近藤宮司は、これを記念して慰霊塔を建立すると言う。「平野さん、丁度いい石がある。」江戸期には白幡神社の別当であった荘厳寺の石の鳥居を生かすことになった。これで半永久的な史跡が新しくうまれる。私は興奮した。こうして伝承史跡はあらためて創られる。
 
 

平成11年夏、奥州御巡行の旅

平成11年(1999)6月13日白旗神社神楽殿での合祀の儀
6月12日、迎霊特使となった菅原さん一行5名は白幡神社氏子さんたちの計らいで、江ノ島の「恵比寿屋」に宿泊、晩餐会は氏子総代さんの出席のもと盛大に行われ交流会となった。江ノ島の入り口の恵比寿屋は腰越の浜が一望できる老舗である。ご一行を江ノ島見物に誘った。植物園の一角からみる腰越の海岸と境川は、義経の首実検の舞台である。栗駒からは胴体の供養地である御葬礼所の土、そして当地からは腰越の浜砂と首洗い井土の土が源義経公の御魂土(みたまつち)となり合わせて鎮霊される。

晩餐会の折に菅原さんのご用意された、朱塗りの笈と義経の首のシンボルである兜をしみじみと見た。明日から500キロ、御巡行の旅に出る。6月13日、午前10時、白幡神社のご神殿前には記念碑「斎源義経公鎮霊碑」と祭壇が用意されている。神社鳥居から100メートルほど手前から奥州迎霊使の一行は、列を組み法螺貝を吹き、粛々と神輿殿に向かう。氏子全員の拍手と鎌倉囃子につつまれた。神事は手水の儀からスタートした。義経公の霊を呼び戻し、双方の御魂土を合わせ祭り、辛櫃に収められた。つぎは鎮霊碑に魂を入れる儀式である。鎮めの神楽が神職の手によって舞われた。鎌倉神楽である。

この機会は二度とない。知人のビデオ製作会社に依頼して式典すべてを収録した。これはのち「810年目の義経」と題さた。栗駒町へいたる行程と沼倉の神事を合わせてドキュメント作品として完成、藤沢CATVで放映し商品化した。

迎霊使一行は、昼食会に招待された。総勢百人ほどの盛大な歓迎式である。神酒を頂き旅の無事を祈る。「首洗い井土」を奥州巡行のスタートとした。地元藤沢の有志の支援者とお参りをした。さあ、歩くぞ!! 一行は次の宿泊先を鎌倉に定めた。鶴岡八幡宮や兄源頼朝の墓地、鎌倉の白幡神社に参拝。不仲である頼朝公との対面である。もういいじゃないか!と心で叫ぶ。
 
 

菅原さんの義経公鎮霊ロマンの旅のスケッチ

* 6月14日、菅原さんのご一行は、若人2名のサポートに支えられ笈を背負い歩きはじめる。私は仕事の都合で、思うように参加できない。この御巡行の旅のため菅原さんは数ヶ月前から、身体づくりを始めていた。足腰の鍛錬である。奥様とお話しをする機会があった。狭心症の心配があると言う。ドキッとする。そのために栗駒高原自然学校の若者2名が、万一の交代要員であり車の伴走の用意だったことを知る。私は「菅原さん、途中でもいいから中止してもいいですよ。」と思わず言っていた。頑固な菅原さんは「あっ、有難うございます。でも一生に一度だから」と意志を曲げることはしない。携帯電話の番号を控える。

 鎌倉−横浜―東京―千住 (日光街道をたどる)  ―草加―越谷―幸手

  


* 6月20日、埼玉県栗橋町、ここは静御前の墓所の史跡があり静桜の名所。地元の助役や郷土史家などの歓迎を受け、静御前の墓前で報告。この町ては静御前の祭りが毎年催され、町民の誇りになっていた。私は前日から車で駆け付けた。栗橋は関所と宿場町である。利根川の要地で渡し場の歴史がある。ご一行と古河博物館に行き義経伝説を偲ぶ。菅原さんの表情は固い。そしてしずかな穏やかな顔だった。
栗橋から帰った私の車に、菅原さんのビデオカメラが紛れ込んでいた。これはいけない。栗駒町の「くりこま荘」に電話をする。驚いたことに菅原さん本人がいると言う。「いゃぁ----温泉のボイラーが故障して、私でないと修理できなくて一時戻っていんです。若者がいま交代で歩いていますよ。」至急宅配便でカメラを送る。

古河―宇都宮 (日光北街道をたどる) ―氏家―矢板―黒磯―
 

* 6月24日 那須神社参拝
一行は一路栗原寺へ向かう彼方に栗駒山の稜線が見える
 

* 6月27日 白河の関、白河神社参拝、金売り吉次の墓に詣でる

  須賀川--郡山--日本松--福島 (陸羽街道をたどる)
 

* 7月10日 福島飯坂温泉泊、ここは源平合戦の活躍であまりに有名、佐藤兄弟の所縁の地である。私ひとり、新幹線で駆け付ける。ご一行は元気である。菅原さんの日焼けに重さが加わっている。宮城県の支援有志の方も加わり盛大に慰労会。宮城県に近いせいか、菅原さんは嬉しそうだった。私はのんびり温泉に浸かっていられない。再訪を心に誓う。
 

* 7月11日 午前、飯坂温泉の八幡神社で神事。地元有志の重奏な太鼓神楽。午後は佐藤兄弟の事跡を偲び医王寺へ。ここ信夫の里は歴史の宝庫。義経伝承の史料が豊富な医王寺の宝物館に感嘆する。いつか再度訪ねたい
いよいよ宮城県入りがまっている。菅原さんの故郷栗駒町などの支援者の出迎えとおともが増える。新聞記者も同行している。
 

* 7月12日 国見阿津賀志山古戦場−義経神社参り−宮城県入り。
菅原さんに電話をかける。「どうですか、大丈夫ですか」「いや----もう奥州路です。歩きやすいですよ。故郷はいいです。」私はかえって元気づけられた。

* 7月13日 白石市、斎川、甲冑堂参拝源義経公御葬礼所に設えられた祭壇
 

* 7月15日 仙台入り、県庁に挨拶

  泉市−富谷町−大和町−古川−築館

様子伺いで菅原さんに電話。式典準備で「くりこま荘」にいる。「やりましたね、夜行で仲間と行きます。」「馬2頭用意しました。平野さん乗ってください。」エッ一度しか乗ったことはない。ままよなんとかなるさ。藤沢の白幡神社から法被を借りる。提灯も借りる。仲間に声をかける。5人大丈夫。記録ビデオ撮影もすることにした。
 

* 7月24日 早朝、築館の富野小学校に集合。藤沢から有志5名はビテオ撮影取材用のワゴン車で夜行、朝4時には近くの古城跡に到着。仮眠していた。富野地区の大人も子供もキチンと挨拶をする。「おはようございます。」見知らぬ人へである。グッと近くなる。すっかり顔なじみの栗駒の人々と再会。これから4キロ歩く。最後のご巡行である。暑い。栗原寺に向かう。水田の稲穂は元気である。穀倉地帯は広い。アスファルトの路は陽炎がたつ。集落ごとにこの珍客行列は歓迎される。冷たいお茶が振舞われる。おいしい。義経伝説はこの地に息づいている。実感である。
栗原寺(りつげんじ)到着。供養祭が挙行された。八鹿踊りも拝見できた。町長の挨拶、「時空を超えた快挙」と激賛される。菅原さんは「準先達」の称号を受ける。昼食のふるまい餅「弁慶餅」の味は忘れない。おおきい甘い。

約2キロの道のりを、栗駒町役場主催の夏祭りに向かう。私は馬にのる。手綱は馬子が引いてくれるので安心。もとは馬場だったと言う路は祭りの広場になっている。義経公願成甲冑合体式が臨時の舞台の上で神事が行われた。これで鎧に魂が入る。そして兜が載せられ無事に合体。ホッと安心したのは私ではなく菅原さんだろう。その日は「くりこま荘」に宿泊、温泉に入りビールを飲む。一挙に酔う。そして熟睡した。

 

白旗神社氏子連中の奉祀 栗駒町沼倉の駒形根神社の鈴杵宮司より榊を受ける筆者

7月25日判官森の義経公の御霊に手を合わせる白幡神社氏子の面々

 

* 7月25日 8時、八丁公民館からご巡行。沼倉判官森御葬礼所に向かう。菅原さんの「義経公が帰ってきました。帰ってきましたよ」と家々に触れて回る。そして法螺貝の音。地元の歓迎の獅子舞。9時、駒形根神社宮司により御葬礼所に祭壇が用意され、改めて御分霊の慰霊祭。花火を合図におごそかに神事が進行された。列席約90名。菅原さんの低い声で「清悦物語」が朗読される。二礼二拍一礼。列席者の参拝が続く。最後には菅原さんの挨拶。声にならず、おもわず感涙される。

義経公の御魂は、往復1000キロの旅をしたことになる。この往復が不運の武将のご鎮霊だった。栗駒町の皆さんが用意された御魂土は、私の家の床の間に安置されている。それを知っている人は私だけである。

このようにして、毎年6月13日は、源義経公鎮霊祭が白幡神社の恒例行事となったのである。

興味のある方は、菅原次男さんの道中日記道中の行程表)を読むとよい。
あの時の感動が、菅原さんの性格そのままに朴訥に語られている。(2002年7月記)
 

(著作権は平野雅道氏にあります。無断転載厳禁)
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2002.7.25 Hsato