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道中日記

6月13日 (日)

藤沢白旗神社で、源義経公810年鎮霊祭を執り行う。近藤宮司のお導き、近藤禰宜さんの司会で素晴らしい一時を白旗神社の氏子の皆さんと共有させていただいた。失礼な話だが、これほどまでに義経公が、藤沢の地で愛されているとは知らなかった。その後、懇親会にご招待いただいた。そこで藤沢宿の皆様から43日に及ぶ「義経ロマンの旅500キロ」の激励とお祝辞をいただいた。

そしていよいよ藤沢宿を12半時過ぎに出発。藤沢の仲間5名、栗駒の迎霊特使4名、計9人の人々に守られて、義経公「首塚」に参拝。次に鎌倉入りを果たした。

但し、当初予定していた頼朝公を祀る鶴ヶ岡八幡宮内にある白旗神社に行くことは自重した。今年頼朝公800年祭が行われているそうだ。考えてみると、頼朝公も、義経公の没後10年しか生きていなかったのか。そんなことを考えていると、世の無常を思われた。鎌倉の頼朝公の塚がある方向に黙礼をし、頼朝公と義経公の御霊同士の和解をひたすら願ふ。

平野さん本当に色々段取りしていただきありがとう。


6月14日 (月)

早朝、鎌倉を前にして、腰越で足止めされた義経公の無念を想う。腰越状の写しに目をやり、その一節を念じつつ、鎌倉を出発。北に向かう。


6月15日(火)

東京飯田橋まで歩く。途中三回ほど、警察官の職務質問に遭う。何やら、この山伏姿に笈(おい)を背負った姿が奇怪に見えるのであろうか。それにしても三度も職務質問に遭うとは。ともかくこれで御巡幸三日目が無事過ぎた。


6月16日 (水)

上野から日光街道に入る。気温33度。滝のように汗が流れる。隅田川千住大橋を渡ると、四百年の老舗「わらじ屋」でかさを求める。店の大奥様から、よく冷えたジュースを馳走になる。生き返る心地だ。この地の昔話などを面白く拝聴する。

交番の隣には、おくの細道、矢立初の碑がある。その碑に曰く、

「千住という所にて、船をあがらば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそそぐ。

行く春や鳥啼魚の目は泪

これを矢立の初として行道なほすすまず。人々は、途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄はと、見送るべし」

この「おくの細道」の一節が、妙に心に残る。芭蕉翁は、まさに奥羽長途行脚の大先人である。翁にこれからの旅の安堵を願いつつ。今日のわらじを草加の宿にて脱ぐ。


6月17日 (木)

草加を早朝に発つ。日光街道は、実に不思議な道だ。この道の松並木と水辺は、旅人の心をなごませてくれる。もちろん里人にとっても、この古道は、憩いの場所、憩いの道、物流の要であった。今日は春日部に宿をとる。


6月18日(金)

昨日、サポーターが栗駒の里に帰郷したため、ひとり夜明けと同時に歩き出す。杉戸町辺りから、急に緑が多くなり、幸手市を抜けるころになると、旧街道沿いに一里塚なども目につき、なぜか、心がはずむ。

もうすぐ、静御前の眠る栗橋の町だ。予定より一日早い栗橋着となった。義経公と静御前の御霊が、背中を押してくれるような不思議な感覚に包まれる。何しろ、八百十年振りの再会なのである。

昭和四年、同じ思いから義経公招魂碑を建立した小谷部全一郎氏という人物がいる。氏は「成吉思汗は源義経也」の説を公にした人である。

  義経公と小谷部氏の霊に拙き歌二首を捧ぐ

武蔵野に埋もれしたまやさけぶらむ嬉しなむだに君をしたひて

亡き人の霊になき人逢はさむは誰かはあらむ君がいさをぞ


6月19日 (土)

栗橋町役場に表敬訪問させていただく。明日、二十日、十時、栗橋の里人が出迎えてくれることになった。


6月20日 (日)

古河に宿をとる。義経公と静御前のことを想いながら、なかなか寝付けない。今日は素晴らしい一日だった。何か懐かしい恋人に出会ったようなときめきを覚えた。ともかく明日も早い。静に眠ろう。


6月21日 (月)

古河は落ち着きのある街だ。その町並みを楽しみながら、宿を6時前に出る。今日は体調もよく、興に任せて壬生町まで足をのばした。そこで思いもかけず、義経公ゆかりの金売吉次の墓を田んぼの中に見つけた。

金売吉次は、義経公を藤原秀衡に引き合わせた謎の人物である。吾妻鏡や平治物語に登場する堀弥太郎なる人物が、この吉次と言われているが確たる証拠はない。宮城栗原郡金成町に金田八幡神社があり、この社が金売吉次の館跡だと言われている。また平泉衣川の長者原も、吉次の平泉の屋敷跡だと、言い伝えられていたが、最近この地を発掘したところ寺の跡との調査結果が出て、周囲の歴史ファンをがっかりさせている。

また京都の上京区桜井町には首途八幡神社があるが、この神社は、金売吉事の屋敷跡といわれている。偶然ながら、金成の金田八幡社と同じく、八幡社であり、今後の金成吉次という人物の、研究が進み実名が特定される日も近いかもしれない。またこの地以外に、白河にも金売吉次の墓とされる場所があり、もうすぐその地も訪れてみるつもりだ。

壬生町教育委員会の説明文に依れば、

「義経は平家を壇ノ浦でうち破ったあと、頼朝公と不仲になり、奥州平泉に逃れようとした。吉次は義経のお供をして、この稲葉の地まで逃れてきたが、病に倒れ、この地で生涯を終えた。里人は吉次を哀れに想い、塚とともに吉次の守護仏である観音像を祀ったお堂(現存)を建てた」という話である。

また「おくの細道」で、芭蕉翁に随行した曽良の日記にも、

「壬生より楡木(にれき=現鹿沼市内方向)二里。壬生より半道ばかり行きて吉次が塚、右の方に二十間ばかり畠中に有り」とある。。(岩波文庫版86ページ参照)

 


6月22日 (火)

五時に宿を出発。宇都宮から氏家町まで足をのばす。


6月23日(水)

国道4号線から大田原市へ向かう一段と緑が多く、素晴らしい田園風景が広がっている。ところが道幅が一車線で狭く、大きな笈を背負って歩くには少し危険だ。車に気を使いながらしばらく歩く。途中屋島源平合戦にて扇の的を見事射抜いた那須与一の墓所玄性寺で墓参をした。

 福原餅つき唄の由来

1180年余市が義経公の家来となって、平家追討の旅に発つ時領民が集まって、出陣を祝い激励の力餅を面白くついて差し上げたのが始まりと伝える(大田原市文化財指定)

  1. 那須の与一は三国一の男美男で旗頭よ
  2. 福原の温泉林の八重桜八重につんぼで九重に咲く
  3. 九重が一二ひとえに咲くならば温泉林は花でかがやく

6月24日 (木)

那須家ゆかりの那須神社(旧号金丸八幡神社)は大田原市東端にあり、夕刻6時津田宮司と会う。

現在市の方も、神社にある歴史資料、宝物、芸術などを一党にし公開する資料館、伝創館などの計画があり、神社としても協力をし、神社に伝えられる歴史などを信じて、後世に伝え残したいと話していた。昼間、町より自転車を借りて、芭蕉の句碑巡りをして楽しむ。

 野を横に馬牽きむけよほととぎす(芭蕉 常急寺)


6月25日(金)

天候霧雨。

芭蕉が旅中最も長い14日間逗留した黒羽の町を出発。町はずれ那珂川河畔に佐藤継信、忠信兄弟の供養碑があった。里人に建立の経過などを聞くが、ほとんどの人がわからない。熱いお茶をごちうになりながら、佐藤兄弟の話しをしてやる。向こう岸は義経伝説の多い那須町だ。那須温泉に二泊し、東山道、奥大道、陸羽街道と、古道を楽しみ、いよいよ奥州の入口「白河の関」へ入る。心は10歳の少年のようにときめく…。


6月26日 (土)

今日は、東京から佐藤さんと、栗駒から金沢君が車でサポートしてくれる。待合わせ場所は、「遊行柳」である。柳を訪ねると田んぼの中に一本の柳が植えられ、傍らには、芭蕉の「田一枚植て立ち去る柳かな」と、蕪村の「柳散清水涸石慮々=(柳散り清水涸れ石とこどころ」の句碑が並び、道の反対側には西行の「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌碑が立っている。

遊行柳伝説は、遊行14世大空上人が当地巡化のおり、朽木の柳の精が女性になって現れ救いを求めたので成仏させたという説と、室町期の文明3年(1471年)遊行19世尊  人が当地巡錫の折、柳の精が10念を授けられ成仏したという説の二つがあるという。二人の歌人を偲んでいる内に2人と合流し、しばし3人で遊行柳と遊ぶ。

昼食後、陸羽街道より古い東山道を車で下見する。10kmぐらいの谷あいの細道であるが、「義経の足駄石」「弁慶石」「おんべし」「仮屋とホウガン清水」「大畑」「五両沢」「追分明神」「月夜見山」「たらい石」「わらい石」と、多くの伝説があり、那須町では義経街道と命名して、伝説の保存に努めているようだ。


6月27日 (日)

今日は、いよいよ奥州(東北)入りをする。しかし、天候は、道中初めてのドシャ降りである。袴(はかま)を半部ほどまくりあげ、ポンチョを笈からかける。異様な出で立ちである。街道筋は義経伝説が多く、那須一族の判官びいきがうかがえる。もう一度ゆっくりと歩きたい街道の一つだ。

雨中にもかかわらず、陸羽街道から東山道へ通じる峠の道は、民家もまばらで、身体を休める場所もない。峠の近く一軒家平山家に立ち寄り、「かくかくしかじか、義経公の」と言うと、それだけで、家族総出で出迎えてくれて、お茶と漬け物を馳走になる。奥方からは、疲れが回復するようにと自家製の梅干しを頂戴し、それが実に美味で、いっぺんに疲れが抜けていくような気がした。

義経公の人気未だ衰えず、810年の歳月が経過しても、里の人々は、心のどこかで義経公の無事を祈り続けているのかもしれない。峠を越えると奥州(東北)に出た。結局雨中を20km以上も歩いた計算になるが、思ったより足どりも軽く白河の関に入る。

関では、白河神社の薄井宮司夫妻が出迎えてくれた。我家に帰ってきた様な気持ちになった。背中の義経公も同じであろうか?

 


6月28日(月)

白河市南湖公園にて休んでいると、伊能ウォークと会う。今日も4号線をさけて泉崎村経由で歩く途中、創作舞踏・芳泉流家元の小松芳泉様と、うお政社長・佐藤政章様より激励と支援を受ける。大変ありがとうございました。


6月29日 (火)

矢吹町から「牧場の朝」のイメージタウン・鏡石町を通る。この町の西光寺には、画僧・白雲上人が寛政9年に描かれたとされる杉戸絵が収蔵されている。12枚の杉戸24面に描かれており、スケールの大きさと力強い筆致が今なお鮮やかに迫ってきます。画題は、「凌煙閣功臣画像」を主体として、「牡丹に孔雀」「岩に牡丹」の図。福島県重要文化財に指定されている。


6月30日 〜 7月2日

義経公、大変疲れましたので休養させていただきます。


7月3日(土)

須賀川より車の少ない陸羽街道(旧街道)を歩く。10時頃には露雨もあがり、須賀川の町はずれにある気まぐれレストラン「銀河のほとり」の前で休んでいたら、中から若い女性に茶を勧められごちそうになる。11時30分〜14時30分までの気まぐれ営業ではあるが、地球環境を考えるすばらしい地球人だ。激励とご支援をいただきありがとうございました。名前は、有馬克子様。今日は、この春結婚した長女の家に泊めてもらうことにする。


7月4日(日)

郡山にも静御前の伝説がある。静は、北へ逃げる義経を追う。幾日かが過ぎ、安積の里(郡山市)に着くとこで下僕の小六を病で失う。「義経は平泉に着いたところだ」と、静は耳にする。落胆のあまり、近くの池に身を投げ、この世を去った。池は「美女池」、投身前に服を脱ぎ捨てた沼は「被沼」と呼ばれ、今も水をたたえている。お堂の近くには「静町」、小六が亡くなった地の近くは「小六坂」の地名が残っている。


7月6日 (火)

郡山から旧街道を北上し、日和田の町を過ぎると、小高い松林がある。「万葉集」に詠まれ、歌枕としても有名な安積山である。芭蕉はここで「花かつみ」を尋ね歩いている。

奥の細道に曰く「等躬が宅を出でて五里ばかり、桧皮の宿を離れて、安積山あり。道より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもやや近うなれば、「いづれの草を、花かつみとは言ふぞ」と、人々に尋ねはべれども、更に知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ、「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山の端にかかりぬ。」

随分と芭蕉も「花かつみ」探しで苦労したようだ。「花かつみ」は、学名「姫しゃが」といい、安積山の公園を覗くと入り口から園内にかけて、芭蕉が探し抜いた花「花かつみ」が山ほども植えられていた。山裾より湧き出る山ノ井清水も、昔を偲ぶには十分なほどに保全がなされており、街道筋も、松並木が多く、快適な歩きの旅が楽しめた。

尚、等躬というのは、相良等躬という人物で福島県須賀川の人である。芭蕉は、この等躬宅で元禄2年4月22日から28日まで停泊した。


7月7日 (水)

二本木の宿を5時に出発。安達町、松川町と旧街道を北上する。4号線にでると、車の騒音の中峠を越え、市街地を眺めながら、信夫の里、福島の町へ入る。そう言えば今日は七夕の日である。ふと栗駒の里を思い、家族のことを考えた。依然として空は曇り、星ひとつ見えない。こんなわがままを許してくれた家族に感謝しつつ、心の中に七夕飾りを吊して眠りにつく…。


7月8日(木)

福島から飯坂温泉までは、道筋もよく、信夫山を貫く、トンネルを抜けてインターを過ぎると、目に見えない力に後ろから押されるように順調に歩が進んだ。気が付けば、飯坂温泉駅の前に辿り着いており、目の前に芭蕉さんの像が迎えてくれていた。それが結構立派なお顔で、とても翁(おじいさん)には見えない。それもそのはずである。芭蕉さんが此処に来た時の年齢は、私より十才も若い四十六、七であったはずだ。飯坂は坂の多い町である。古い土塀や石垣、板塀などが次々と目に入って往時を偲ばせる…。まさに飯坂の歴史の片鱗がそこにはあった。それも私の年のせいだろうか。何しろ芭蕉(46、7才)が翁ならば私はさしずめ歳から言って大翁であろう。おっとこれは冗談が過ぎた。足の疲れはいかんともしがたく、吸い込まれるように、本日の宿、司旅館に入る。


7月9日(金)

今日から、自然学校の岩沢君が車でサポートしてくれる。

飯坂温泉から、伊達郡にかけ中世から要害の地であり伝説、歴史が豊富であることから、周辺町村での資料収集、歴史研究者のリスト道路状況などを調査した後、早めに宿に帰りゆっくり温泉につかり休養する。


7月10日 (土)

午前中、東京より潟Tクセスの佐藤社長以下3人が支援のために到着する。

昼食後、飯坂温泉観光協会に挨拶と打ち合わせに行く。

偶然にも、同席した副会長の佐藤吉昭氏は、若柳中学時代の同級生で、話が弾む…

夕食前には、藤沢市から平野氏が、仙台の高橋ご夫妻も到着。

久しぶりににぎやかな夕食会になった。おまけに司旅館の若女将の日本舞踊が披露され、飯坂温泉の夜に花が咲いた。


7月11日(日)

信夫の庄司、佐藤一族は飯坂温泉の大鳥城を本拠として、湯の庄司ともよばれ平泉藤原氏の配下に属し信夫、伊達地方を支配した豪族である。

義経公に藤原秀衡が特に継信、忠信兄弟を家臣として与えたことは秀衡がこの兄弟を深く信頼して、自分の身代わりとしたのだといわれる。期待された通り、兄の継信は壇ノ浦の戦で義経の身代わりとなって勇壮な討死をし、弟の忠信は義経公を吉野からおちのびさせた後、京都で自害をとげた。義経公にとっては、このような特別の思いのある佐藤兄弟の菩提寺、医王寺がこの飯坂温泉にある。

今日は午前中、飯坂八幡宮にて鎮霊祭終了後、司旅館にて栗駒町よりマイクロバスにてかけつけてくれた支援者と飯坂の観光協会関係者により、直会と懇親昼食会が開かれ、義経公と佐藤兄弟を偲びながらも、未来の夢なども話しが出、もりあがる。

午後からは医王寺にて義経公と佐藤兄弟の供養が、道中最大の規模にて執り行われた。

終了後、橋本住職の厚意により、茶と菓子を馳走になり、実に宝物殿まで開放していただいた。住職本当にありがとうございました。

芭蕉さんは飯坂の夜は蚤・蚊になやまされ、あまり良い思い出がなかったようでしたが、今回の義経公は大変居心地が良く、もう一夜ご厄介になり、計4泊飯坂に滞在することになった。


7月12日 (月)

早朝4時、小雨のなか、思い出深い湯の街飯坂を後に出発する。

途中、雨もあがり、朝霧が阿武隈川よりたちこめる。

桃の取入れをする果樹園が広がる桑折を通り、10時前には国見の宿に入る。

昼食をすませ、郷土史家菊地利雄氏を訪ね、国見地方の歴史、伝説、風土等の説明を受け、現地にも案内していただいた。

厚樫山から広がる伊達、信夫の里の景観はすばらしく、その中腹より阿武隈川にかけて約4キロメートルにわたる「二重堀」とよばれる遺跡は、阿津賀志山合戦の往時を偲ばせる雰囲気に満ちあふれていた。

判官森腰掛け松(二代目)があり、その根元のほこらの内には、当時の松が保存され義経神社の石宮がまつられている。又、近くには弁慶の硯の井もある。


7月13日(火) 小雨

ねむの木の花が咲き始めた国見峠をこえると宮城県に入る。

今日は芭蕉さんの行程と同じ状況なので、曾良随行日記を紹介する。

 「三日雨降ル。己ノ上尅止。飯坂を立。桑折ヘ入リ。折々小雨降ル。

桑折トかいたノ間ニ伊達ノ大木戸(国見峠)ノ場所有。コスゴウトかいたトノ間ニ福島領ト仙台領トノ堺有。左ノ方、石ヲ重而有。大仏石ト云由。さい川より十町程前ニ、万ギ沼、万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコフシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ、次信、忠信ガ妻・御影堂(甲冑堂)有。同晩、白石ニ宿ス」

斉川の田村神社境内に入ると甲冑堂の前で中川宮司が出迎えてくれた。堂内には、昭和14年再建された小室達作の佐藤継信・忠信兄弟の妻、楓・初音の甲冑姿の木造が祭られている。この甲冑御影(御姿)は、継信・忠信の戦死を聞いて嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、継信・忠信の妻君達は、気丈にも自分の悲しみをこらえて夫の甲冑を身につけ、その雄姿を装ってみせた。この話しは昭和初期まで国定教科書にも載り、又、文部省唱歌として作詞、作曲されている。

一、 義経の家来となりて

   上方にのぼり行きけん

   奥州の兄弟二人

   継信よ 忠信よ

二、 年若き兄と弟

   ををしくも敵とたたかひ

   主のために命をおとしぬ

   梅かとよ 櫻とよ

三、 まのあたり主は帰れども

   かえらざる子供の形見よ

   今し見て母は嘆きぬ

   ことわりよ 母と子よ

四、 なぐさめん いざいざ母を

   いでたちし嫁御の二人

   太刀とりてかぶりぬ甲

   けなげさよ やさしさよ

五、 その姿刻みとどめし

   甲冑堂の木造二つ

   火に焼けて消失せたれど

   などかは失せん そのこころざし


7月14日(水)

早朝小雨のなか白石を4時出発する。

街はずれの白石河を渡る頃には雨も上がり、あたりの山脈も見えてきた。大河原から柴田町と白石川から桜並木の堤防を駅(船岡)まで歩く。駅前にて、宿を探すが見つからず岩沼まで30q近くも歩いて疲労困憊である。したがって今日は早く休ませていただくことにする・・・。

奥の細道に曰く

「鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入れば藤野将実方の塚はいづくのほどならんと、人に問えば『これより遙か下に見ゆる山際の里を、箕輪・笠島といひ、道祖神の社形見の薄今(ススキ)にあり』と教ふ。

この頃の五月雨に道あしく、身疲れはべれば、よそながら、過ぐるに、箕輪・笠島も五月雨のをりに触れたりと、

 笠島はいづこ五月のぬかり道

岩沼に宿をとる。


7月15日(木)

岩沼市は、古内氏の城下町で日本三大稲荷、竹駒神社がある。古内氏の前任地は栗駒町岩ヶ崎で、やはり竹駒神社を崇敬していたという。

早朝、竹駒神社を参拝した後、岩沼を出発する。

国道4号線は、道幅も広くなり、車の交通量も多くなってきたことから、仙台圏に入った感がする。

今日は名取駅あたりから雨が降りだし、名取川を渡るころはどしゃ降りのなか長町に入る。

雨降りの日は笈をおろして休めないので、体はガタガタとなった。


7月16日(金)

今日はかなり温度もあがり、アスファルトの照り返しが体をだるくしている。

長町駅にて河北新報記者の長南さんと待ち合わせ、一緒に歩くことになった。

広瀬橋を渡ると仙台だが、川風の吹く川添を歩く。時々強い日差しをさけて、小陰で涼をとりながら休んでいると、通りすがりの人たちが「がんばって下さい」と激励の言葉を贈ってくれる。

対河畔より見る、繁栄した仙台のビル街を義経公は想像できたてあろうか。今810年目の仙台にいる!

長南さんとは河北新報社本社前で分かれ、報道部長岡崎智政氏と歓談させていただいた。その後県庁を表敬訪問したが、熱心な支援者の一人である、熊谷義彦元県議がわざわざ築館から仙台まで応援に駆けつけてくれて、県庁前で合流した。熊谷県議に案内されるままに県庁内をまわり、残念ながら、知事には留守でお会いできなかったが、出納長を御紹介いただいた。また偶然栗駒沼倉出身の文化財保護課の飯川課長と面識を得、佐野教育次長にご挨拶をさせていただいた。

東照宮にて仙台の支援者である栗駒建業(有)社長の高橋さん達の歓迎を受け、明日の御巡行について打ち合せる。安養寺に宿をとる。


7月17日(土)

仙台の支援者、高橋さん達8人と安養寺を8時出発する。

鶴ヶ谷団地を通り、4号線バイパスを横切り七北川沿いに進む。七北川の遠藤木材店の脇に義経石と弁慶石があるというので訪ねると、木材店は廃業して空地になっていた。草むらを探すと、2メートル位の板碑と石宮があったが、標識がないので確認ができなかった。

義経主従が平泉へ落ちのびる途中、高森山(岩切城跡)で一休みをし、長い逃走の憂さ晴らしに、義経と弁慶が石投げ競争をした。その石が七北川までとどき大きい石が弁慶石、小さい石が義経石という。

高橋さんの案内で、2人が石を投げた高森山へ登った。駐車場から天主台まで桜並木が続く。春はみごとな桜の花が咲くであろう。

天主台より七北川はすぐ足元に見えるので、石は投げられるような気がしないでもないが、何しろ2キロ近くありそうだ。天主台で高橋さんが用意してきた弁当とお神酒を義経公に供えて、皆んなで乾杯をし、ご馳走になる。

昼食後、多賀城の「壺の石碑」の保存状況を確認するため立ち寄る。多賀城で支援者の皆様と別れ、泉の街へ急ぐ。今日の旅、一日ありがとうございました。


7月18日(日)

今朝から雨のなか泉ICより大和町の支援者、金野さんが一緒に歩いてくれた。

太りぎみの金野さんには、雨具をつけての歩きは大変苦しそうでしたが、時々17Kgの笈を背負いながら頭にタオルを巻き付けての奮闘ぶりでした。

今日の御巡行は、金野さんおすすめのラーメン屋さんの前で打切り、おいしいラーメンで乾杯。大変御苦労様でした。金野さんの汗のかいた笑顔が印象的でした。


7月19日(月) 休み


7月20日(火)

大和町4号線沿い、元祖ラーメンショップ前に金野さんの友達が大集合。義経公を見送ってくれた。御支援ありがとうございました。

町はずれから車の騒音をさけるため、田んぼの畦道を歩く。国見峠で咲きはじめたねむの木の花は満開に咲いている。田んぼの用水堀には繁殖の時期なのかアメリカザリガニが大集合。コンクリートなので身をかくすことができないのでかわいそうだ。

大衡村のドライブインに入ると、隣にいた青年が同席して話をしてもいいかと寄ってきた。古川市に住む村おこしの活動家という。1時間程食事をしながら意識改革の話をして別れる。青年の地域での活躍を祈る。三本木町、道の駅で今日の歩きを終了する。


7月21日(水) 

朝8時、三本木町、道の駅を出発。

鳴瀬川を渡り、工場地帯を過ぎ古川市内に入るころ通り雨にあう。

江合川を渡る頃は雨もあがり、一里塚附近で一人のワンダラーとあう。朱色の笈と私の年齢を比較してか、少々びっくりした様子。「いい旅を・・・」と言葉を交わす。

いよいよ高清町に入り、栗原郡入りだ。すれちがいの車がクラクションを鳴らしたり、手を振って激励のサインを送ってくれる。

高清水は桂清水の名水の町である。今日の歩きは名水で乾杯をし、終わりにする。


7月22日 (木)

朝7時、高清水の町を出発。炎天下の暑さとなる。

伊藤ハムの工場をとおる頃、汗は腹まで流れ落ちる。黙々と袴を捲り上げて先を急ぐ。

築館は旧街道に入り、お薬師さまを参拝。市街地を歩く。金徳屋さんの前で一迫町の佐藤俊郎さんと会い、激励をうける。金徳屋さんの奥様が出てきて、おじいさんに旅の話をしてくれと。二人で冷たい麦茶をごちそうになる。

俊郎さんは「私の父の名前も金徳といいます」と名のる。「金徳屋さんで金徳さんの息子さんと金売吉次のお話をする」まこと縁起の良い、劇的な一コマでした。

築館の市街地を過ぎ、古官道(松山街道)に入り、栗原郡の語源となる伊治(コレハリ)城跡といわれる城生野に着く。二迫川ごしに栗駒山が迎えてくれた


7月23日 (金)

快晴、午後三時、東京から駆けつけた佐藤弘弥氏とともに、金成町の金田八幡宮(東館)を訪れる。この社は地元では東館(とうだて)と呼ばれ、義経公を奥州に導いた張本人、金売吉次の屋敷と伝えられている。この人物は、謎の多い人物で、今回の旅の中でも、二カ所ほど、その墓と言われている所を訪ねた。代々この社を、奥州の豪族であった清原氏の流れを汲む清水家がこの社を守っておられる。一目で中世の城とわかる様相を呈しており、屋敷は天主部に当たる位置にあり、社殿は、その鬼門の位置に配されている。

神社をおまいりした後、御当主の清水政雄氏が、神社の御宝物を義経公御霊前にて、御開帳してくれた。義経公の位牌には「捐館通山源公大居神儀(えんかんつうざんげんこうだいこしんぎ)」と書かれており、これは岩手県衣川村の雲際寺の位牌と全く同じである。その他に、義経公が16才・初めて奥州に来たとき、小さい仏像と匕首(アイクチ)を奉納したという、その匕口がある。社伝には、奥州入りの時に、この社を訪れて、鞍馬寺より所持した小さな仏像と匕首を奉納したと記録されているといわれる。

又、金売吉次ぐが砂金を入れた袋を封印した金印等貴重な御宝物が保存されている。清水家が、このような御宝物を保存・伝承されてきたことに、敬意を表したい。併せて今後とも清水家が末永く繁栄され、御宝物が未来の社会に立派に保存継承されることを祈りたい。

午後5時、支援者の熊谷義彦元県議会議員の計らいで、金成町の「ジオマテック」という企業の構内で、宮城県知事浅野史郎氏にお会いすることができた。16日に県庁を訪れた時には、県内の視察とかで、お顔を拝見できなかったので、まさか栗駒町の目と鼻の先まで来てお会いできるとは思わなかった。非常に感激した。さていよいよ明日は栗駒入り。胸が高鳴る心地がする。


7月24日(土)

築館町富野小学校前に藤沢市より5名、栗駒町から5名の迎霊特使が集合。8時30分、栗駒町尾松の白馬山栗原寺に向け出発する。

栗駒山を真正面に見ながら歩く街道はここぐらいで、義経公もきっと悠然と構える霊峰栗駒山の話でもしながら歩いたであろう。栗駒山から流れる一迫川、二迫川、三迫川の沿岸は、古代中世の英雄達が活躍した地域で、歴史の好きな人にはとっておきのロマン街道だ。

二迫川を渡ると栗駒町に入る。栗原沖には故事にならって僧兵の出迎えがあり、馬2頭が用意されていた。栗原寺が近づくにつれて、行列は30人位までふえる。

栗原寺にて町長はじめ里人・鹿踊の皆様の出迎えを受け、歓迎の鹿踊りが披露された。栗原寺本堂にて、浅野一志氏の司会で、栗駒町の三浦町長もご出席され、100名の関係者が見守るなかしめやかに供養祭がとりおこなわれた。全員焼香の後、弁慶の力餅がふるまわれ、ご馳走になる。実に美味しかった。栗原構えの皆さん本当にごちそうさまでした。

12時早々栗原寺後にする。栗原寺より岩ヶ崎まで7Kmの道のりは皆で乗馬を楽しむ。

午後2時、祭り広場入口にて迎霊特使旗を先頭に御ふれ太鼓、御清め、法螺貝、藤沢市と栗駒町の迎霊特使(乗馬)、神宮、白旗の順に隊列を整え、中央特設祭場へ太鼓をたたき、法螺貝を吹きながら行進する。

相州藤沢市からこの栗駒の里まで500キロ、43日間徒歩により多くの支援者に守られながら帰ってきた。その兜神輿の笈が栗駒の鎧神輿の前に安置され、岩本宮司により厳粛に神事がとりおこなわれた。岩本宮司の指示により、迎霊特使が栗駒の鎧の上に藤沢市の兜をしっかりと合体させ810年の大願が成就された。同時に義経公の願成甲胄神輿が誕生し、新しい義経伝説の始まりでもあった。

このあと「腰越の舞」が奉納された。

この「腰越の舞」は佐藤弘弥氏がこの日のために準備され、自ら「腰越状」を現代文に訳して、劇団民芸俳優の岩下浩氏が朗読を、白河の創作舞踏家小松芳泉女史が舞いを、それぞれ担当し、音楽にはジャズの帝王と言われるマイルス・デービスの曲という画期的な試みであり、それが不思議なことに810年を経て義経公の心情をを見事に表現していて感動した。

義経伝説に義経芸術が生まれ、新たな21世紀の義経伝説の始まりか。

義経810年の凝縮されたエネルギーが、今、栗駒高原という空間に見事に咲き、見事に燃えた。

ありがとう 佐藤弘弥氏 おめでとう

ありがとう 小松芳泉女史 おめでとう

ありがとう 岩下 浩氏 おめでとう

永遠の英雄、義経公、そして新しき義経達に万歳!

 

夜は、みんなのエネルギーを結集し、栗駒山のブナ林の中にある「ハイルザム栗駒」で義経公810年鎮霊祭の前夜祭が開催された。夜八時。満月が煌々と栗駒山を照らし出す中、舞台を設え、篝火(かがりび)を焚き、多くの観客が集まった所で、開始の花火が威勢良く「ドドーン」と鳴る。民話風に今回の旅を振り返って話してくださいという司会の炭屋一夫氏からの注文だったが、感激で自分で何をしゃべったか覚えていない。

クライマックスは、小松女史が舞台に上がり、「静御前」という詩吟に合わせて舞いを披露し、最後には再び「腰越の舞い」を篝火の前で悠然と踊られた。昼とは違うイメージでまたまた感激した。

その後は、わが家「くりこま荘」にて、歓迎会が催され、蝦夷料理を頬ばりながら旅の思い出話しに花が咲いた。


7月25日(日)

今日は満願の日。天気も上々、岩ヶ崎安置所を6時出発する。

若木(おさなぎ)より馬に乗り換えて義経公の帰還を告げる法螺貝が鳴り響く。

8時三丁の小畑商店前に到着。織江貞氏(今回の810年祭実行委員長)を始めとする地元の有志の面々や数多くの老若男女が笹リンドウの白旗をなびかせて出迎えてくれた。

源の義家公以来810年ぶりに源氏の白旗が栗駒街道になびく。溢れる涙を抑えるのに必死だった。沿道の声援に照れながらも手を振りつつ判官森をめざす。小学校前より沼倉の獅子舞い連中が出迎えてくれて先導役を努めてくれた。

学校から判官森までは急登坂の参道である。獅子舞の連中が朱色の輿に甲胄を載せて義経神輿とした。神輿の先付けには今回の旅の功労者である金沢君が回り、支援者の元県議熊谷氏も輿を担ぎ、獅子舞の若衆が両脇を固め、一段一段、一歩一歩、息をはずませながら登る。そしてついに盛り土の義経公御葬礼所に到着。義経公の五輪塔の前には、義経公810年鎮霊祭挙行のための祭壇が設えてある。

 「道中大変御苦労様でした」

駒形根神社63代宮司鈴杵氏より、このような慰労の言葉をいただく。感激の極みであった。甲胄神輿は、祭壇向かって左側に、笈はその右側に安置された。続いて、迎霊特使である私が笈の内から栗駒と藤沢の御霊土が取り出し宮司に手渡す。

一瞬の間があり、9時10分、花火の合図により、「義経公810年鎮霊祭」が開催された。鈴杵宮司により祝詞が奏上され神事が進められる。そしてついに1999年7月25日、9時30分頃、栗駒町の御霊土に500キロ離れた藤沢市の御霊土が合せられ、義経公の御霊は一つとなった。6月13日、神奈川県藤沢市を出発して以来、全国の義経ファンの注目の中、43日という時間と500キロという道のりを経て、たった今義経公の御分霊は一つになった。810年という歳月を経て、栗駒町判官森御葬礼所において見事大願は成就した。

 思えば5月12日、5人の有志だけで栗駒の里を出発し、藤沢の鎮礼祭には300人の有志の参集・出迎え・見送りをしていたから、神奈川・埼玉・茨城・栃木・福島・宮城と日を追うごとに支援者が増えていった。感謝の気持ちが湧いてきて胸が熱くなった。次にこの間、陰になり日向になり応援いただいた全国の皆様のお顔が浮かんできた。皆様の応援があって初めて成し得たことだ。ただこれは終了の儀式ではない。むしろ今日は、新たな義経公の誕生、新たな大願(楽土)への出発の日である。

 今日のこの日を次のような拙き詩で締めくくりたい。
 

義経公復活の日を祝す

義公

涙隠さず

感涙一滴

ぶなの木に濯ぐ

その涙

忽ちにして

甘露の雨と化す

雨 小川を渡り大海に濯ぐ

即ちぶなの木 魚を育み

人 その魚を食らう

人 我が子を育て

810年瞬く間

時の旅人我もまた

義公感涙の一子なり

       

義公

感謝惜しまず

謝辞一言

ぶなの木に捧ぐ

その言葉

忽ちにして

ぶなの森に木霊(こだま)す

木霊 森を渡り奥山に至る

即ち蝦夷人(えみし)その木霊を聞き

我が子に語る

その子又子に語り

810年瞬く間

時の旅人我もまた

義公木霊の一子なり                 

一人の名もなき旅人 木霊一滴
菅原 次男
                 

皆様応援ありがとうございました。

道中日記 完


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