島津久基著
義経伝説と文学

序編 第二部 義経文学の概観

 

第一章 義経文学の渉猟と鑑別
 

義経伝説の研究に入るに先だって、義経伝説が生んだ義経文学の全収穫を一瞥して置きたい。但し此処では主としてその種類・書名・作者・著作年代等、書誌学的な側からの極めて簡単な概観略述に留めて置き、性質・内容の詳細な論考は本篇に譲ることとする。

即ち以下は謂わば私の調査蒐集した義経文学の総集積に関するリポートである。つまり義経文学年表でもあり、書誌学的義経文学史といってもよいかも知れぬ。そしてこれによって、如何に義経文学が各種の文学形態に亘り、驚くべき多作に上っているかがわかるであろうし、且義経文学を論評する場合に、個々の群小作品にまでは及ばないのを補う意味でも、是非此処でその題名だけでも示して置く必要を感ずる。

唯、この義経文学の資料の渉猟に際して特に注意すべき一事項のあることを述べて置かなければならない。それは(一)准義経物 (二)擬義経物 (三)仮称義経物 とそれぞれ名づくべき各々の一類の取扱である。(一)は説明を要せぬであろうが、純義経物ではないがそれに准ずる内容の作で、大抵、義経を主人公とはせぬが関係が浅くなく、或は義経伝説を間接的に乃至部分的に採入れたようなものなどがそれであり、二代目福内鬼外の読本『泉親衡物語』、文耕堂の時代物『ひらがな盛衰記』の如きはその例である。但し義経物と准義経物とは、厳密に区別し難い場合もある。それは義経の臣妾を、主人公・女主人公とするものに多い。併しその一篇その一曲を以てしても、独立の意義を有せしめ得べきもの、例えば舞曲『那須与一』『敦盛』、謡曲『佐々木』『吉水』の如きは少くとも義経物とは呼ばれ得ないが、義経に関係せしめて初めて全篇全曲に意義あるもの、例えば忠信に関するもの、静に関するものの如きは、准義経物という以上に、寧ろ皆義経物として取扱うこととしたい。江戸時代の戯曲にあっては、各段に各々主人公を設けて、全曲の統一を破るものが多く、従って題名は義経物ではなく、又全曲の中心人物は義経ではないのであるが、而も殆ど全曲に亘った義経の出現が希望せられているものがあったり、或は各段の幾つかにその骨子として、全然義経伝説が採用せられているのがある。斯様な作品も亦或意味で義経文学と呼ぶことを許されねばなるまい。少くとも准義経物の中で最も純義経物に近い作とすべき『一谷嫩軍記』『ひらがな盛衰記』『那須与市西海硯』の如き、この類のものとして取扱われてよいであろう。

(二)の擬義経物とは、題名は一見義経物のように見えるが、人名も内容も義経に関係が無く、唯形を義経物に擬した作で、浮世草子の西沢与志作『御前義経記』、黄表紙の文渓堂作『敵討鞍馬天狗』の類がそれである。これは勿論義経物として取扱うべきではない。唯義経伝説乃至文学の影響現象として注意すれば足りる。

次に(三)仮称義経物と名づけたのは、人物を義経伝説に仮りたもの、即ち題名及び人物からすればこれ亦義経物のように見えるが、やはり内容は全然別種のものである一群の作品を指すので、この類も亦戯曲中に少くない。そしてそれは概して大阪陣を仕組んだものである。紀海音の『義経新高館』、並木宗輔(?)の『義経腰越状』の如きその例である。この種のものに於ては、大抵秀頼を義経に、家康を頼朝或は時政に、真田幸村を和泉三郎等に宛てるのを常とする。もとより素材上、或は構想の外形上にも、多少義経伝説に倣おうとしているのは明らかであるが、実は唯、時代と人物とを、鎌倉時代と義経伝説中の人物等とに借りたに過ぎない。恰もその他の大阪陣を仕組んだ『近江源氏先陣館』『鎌倉三代記』(作者不詳。海音の作とは別物である)『日本賢女鑑』等が、皆鎌倉時代とその時代の人物とを、借用していると同類であり、又『先代萩』に「奥州秀衡跡目争論」と冠し、或は『忠臣蔵』で師直・高貞を以て義央・長矩に代えたのと軌を一にすると云うべき、徳川幕府を憚った当時の作家の慣用手段である。特に義経伝説にその名を借りたのは、一つには偶々義経伝説の有名なのを利用したのにも依るが、主として秀頼対家康の事情が、義経対頼朝の関係に似た所があったからに外ならない。いずれにせよ義経伝説乃至文学の側から言えば、やはりその影響現象と観るべきであるが、併し此等も義経物として取扱うことが出来ないのは勿論である。唯この傾向と純義経伝説との混合とも見られ、又形の上からすれば、両者の中間に位してその連結の経路を示しているような作、例えば戯曲『源頼朝源義経古戦場鐘懸松』、読本『絵本平泉記』の如きは、義経伝説の研究にも多少の資料となり得る。それから大阪陣物でない仮称義経物の例としては、馬琴の合巻『伊達模様判官贔屓』がある。これは先代萩の事件を義経伝説の形に仮りたものである。

要するに以上挙げた三種のものは、一見義経物らしい外貌を有するけれども、純義経物とは称し得ない類のものである。従って義経文学の考察には唯間接の参考とするだけで足りる。但し准義経物だけは、義経伝説の研究資料としても役立つ場合が屡々あるから、これは一概に捨て去るわけには行かない。下の年表中にも主要な准義経物は含めて提出することにする。

兎もあれ、多種多方面な義経文学は、これを広汎な国文学の作品中に渉猟しつつ一々拾い集めて毫も遺漏なきを期することは頗る困難な、そして無意味にすら近い程の煩労な作業である。又幸にして書名を知り得ても、その内容も所在も明らかでないものがあって、十分の穿鑿を遂げることの出来なかったのもあるが、それらや此処に漏れたもの等は今後補足訂正して行ける機会もあろうと思う。
 
 

第二章 近古の義経文学

一 軍記物
 

先ず義経を主人公とする文学作品で現存最古のものとして、
『義経記』 八巻
がある。軍記物として普通取扱われているが、伝記体の歴史小説で、義経文学の始祖ともいうべき位置を占めている。絵巻や草子としてこれ以前に判官物が存在したでもあろうと推測せられ得るし、又この書の前身としての『判官物語』の名も伝えられるが、十分な徴証に乏しい。

純義経物とは言えないが、『平家物語』及び『源平盛衰記』も亦頗る義経に関係深い文学である。なお幼時に関する義経伝説は『平治物語』『太平記』『曽我物語』等の中にも求め得られる。


二 幸若舞曲
 

幸若舞曲(舞の本)の判官物は

『未来記』『笛之巻』『烏帽子折』『腰越』『堀河夜討』(一名『正尊』)『四国落』『富樫』(一名『安宅』)『笈捜』『八島』『清重』『高館』
(以上十一番『寛文書籍目録』及び『群書一覧』所載の三十六番の中。すべて『新群書類従』舞曲部所収)

『和泉が城』(〔補〕一名『勝負分』)
(『寛文書籍目録』には三十六番中に数え、『群書一覧』には載せてない。『新群書類従』にも収められていないが、曲名から推定すれば、泉三郎忠衡が兄泰衡に討たれることを作った曲で、謡曲『錦戸』と同材であろう)(〔補〕その後筑後大江の幸若家元に伝存、現在演存曲目の一であることが知られ、坂本・奈良絵本等もあったことが明らかになった。全文は拙編著『近古小説新纂』(初輯)に収めてある)

『鞍馬出』(一名『東下り』)『静』
(以上二番、番外舞曲。『新群書類従』所収。『静』は『寛文書籍目録』の「舞井草紙」部に三十六番以外として、その名が見える)
(〔補〕『含状』)(笹野堅氏蔵本。本文は雑誌「国語と国文学」昭和九年十二月号所収)

以上十四番(〔補正〕十五番)、それに常磐に関するもの

『伏見常磐』(一名『伏見落』)『常磐問答』(一名『鞍馬常磐』)
(以上二番、『寛文書籍目録』『群書一覧』共に三十六番中に数え、又共に『新群書類従』に収めてある)
(〔補〕『山中常磐』)(笹野堅氏蔵本。本文は「国語と国文学」昭和七年九月号所収)

の二番(〔補正〕三番)を加えて十六番(〔補正〕十八番)ある。

〔補〕更に御伽草子『相模川』が番外舞曲ならば(山崎美成著『歌曲考』に番外舞曲として挙げてある。雑誌「国語と国文学」昭和三年五月号、拙稿「番外舞曲相模川」参照)、それを准義経物として加えて(同材を取扱った謡曲『橋供養』は義経に直接の関係は無い)十九番、又、御伽草子『皆鶴』(雑誌「国語国文」昭和八年一月号所収)が舞曲ならば(『書物の趣味』第四冊、岡田希雄氏「東勝寺鼠物語に見えたる幸若舞の曲名」参照)二十番(但し、これは猶決定的とは言い難いが)、又『言継卿記』所見の『秀平』が、御伽草子『秀衡入』乃至古浄瑠璃『吹上秀衡入』と同じものか或は類作ならば二十一番(但し『和泉が城』の前半、秀衡臨終の段に対して与えられた称呼ならば重複することになる)を計上することになる。が、確実の所は十四番に『含状』と『山中常磐』とを加えた十六番とすべきで、これに他の常磐物二番を併せて十八番とするもよいであろう)

三 謡曲附狂言
 

次に謡曲の判官物は

『二人静』(世阿弥作) 『八島』(同) 『鞍馬天狗』(宮増某作) 『船弁慶』(観世小次郎作) 『安宅』(同)
(以上五番、内百番の中)

『正尊』(一名『土佐坊』)(観世弥次郎作或は小次郎とも)『橋弁慶』(日吉安清作或は世阿弥とも)『熊坂』(禅竹作)『忠信』(番外前百番には『空腹』)(世阿弥作)『烏帽子折』(一名『九郎判官東下向』)(宮増作)
(以上五番、外百番の中)

『吉野静』(世阿弥作。『二百十番謡目録』には観阿弥)『錦戸』(宮増作)『摂待』(同)
(以上三番、別二十八番の中)

『関原与市』『鶴岡』『野口判官』『櫻間』『二度掛』(一名『坂落』)『空腹(そらばら)』(重出)
(以上五番『空腹』は、加算せず 番外前百番〔二百番外百番〕(貞享三年刊行百番)の中)

『現在熊坂』『安達静』『熊手判官』『追懸鈴木』『語鈴木』『愛寿忠信』『鶴若』
(以上七番、番外後百番〔三百番外百番〕(元禄二年刊行百番)の中)

『蘆屋弁慶』(一名『四国落』)『髻(もとどり)判官』(一名『衣川』)(『新謡曲百番』にも収載)『遠矢』『湛海』
(以上四番、末百番〔四百番外百番〕(正徳六年刊行百番)の中)

『清重』
(上一番、『謡曲叢書』所収)

以上合計三十番、なお佐々木信綱博士校訂の『新謡曲百番』中に含まれるものをも算入すると、

『義経』(一名『高館』)『法事静』『沼捜(ぬまさぐり)』『髻判官』(重出)
(以上三番『髻判官』は、加算せず 新百番の中)

三十三番を数える(以上の作中には江戸時代のものもあろうと思われるが、製作年代の明確でないのが多いし、旁々便宜此処に一括して掲げる)。この外に、稍新しいもので観世流番外曲に『笛之巻』(詳しくは『橋弁慶笛之巻』)がある。舞の本の『笛之巻』とは稍異なって居り、『橋弁慶』の序をなすようなものである。これを加えると、総計三十四番となる。雑誌「能楽」の第一三巻第一〇号(大正四年十月号)所載、丸岡桂氏の「義経の事を作った謡曲四十番」には、上に掲げた三十四番以外に、

『常磐問答』『鞍馬』『継信』(一名『屋島寺』)『吉野三位』『吉水』

の五番を挙げてあるが、『吉水』(番外後百番中)の外は未だ触目せぬ。『吉水』は義経に間接の関係はあるが、義経物と認めるほどでもないから、強いて採るにも及ぶまい。

なお参考として『いろは名寄』『翁草』『能の図式』『熊本作者註文』等に曲名だけ伝わっているもので、判官物と推測し得べき作をも次に列挙してみる(疑わしい作には?を附して置く)。

『常磐』(『熊本作者註文』には三條西実隆公作と見える)『堀川夜討』(但し『熊本作者註文』には世阿の作として「堀」の字の外不明であるが、この曲名かと言われる)『富樫』(『安宅』の一名か)『兼房』『鎌弁慶』『吉野忠信』(『忠信』と同曲か)『鞍馬判官』(?)『嗣信』(『熊本作者註文』には世阿作とある)『鈴木』(『語鈴木』と同曲か)『愛寿』(『愛寿忠信』のことか)
(以上十番、『いろは名寄』『翁草』『能の図式』『熊本作者註文』所載)

『八島判官』(『八島』と同曲か)『風呂弁慶』『御前静』(『安達静』と同曲か)『御前鈴木』(『語鈴木』の一名か)『逆櫓』『吉次』『遮那王』『教経』『秀衡入』(『翁草』『図式』には『秀衡』と見える)『山中常磐』
(以上十番、『名寄』『翁草』『図式』所載)

『壇浦』
(上一番、『名寄』『図式』所載)

『幽霊熊坂』(禅竹作)(『熊坂』と同曲か)
(上一番、『名寄』『作者註文』所載)

『みなづる』『矢倉忠信』『牛若』『未来記』(?)『泉』(?)『鞍馬』(『鞍馬天狗』或は『鞍馬判官』との関係未詳)『新鞍馬』(?)
(以上七番、『いろは名寄』所載)

『亀井』(観世小次郎作)
(上一番、『熊本作者註文』所載)

以上合計三十番に上るが、但し、謡曲は流派により又新古によって、同曲異名のものが多い。上の諸曲に於ても、註加したもの以外でも相互又は既出の数番と同曲であるものも必ずあろうと思われる。

それから曲舞(くせまい)の中に『正尊』『安宅』『先帝』がある。狂言には義経を主人公としたものは無い。傍系的な准義経物でも唯一つ『生捕鈴木』があるに過ぎない。その他には『鬮罪人』の中に、橋弁慶伝説のことが見えるぐらいのものであろう。


四 御伽草子
 

御伽草子の義経物には(皆写本(奈良絵入のものが多い)で行われたが、後には刊行せられたものが多い)、

『御曹司島渡り』/二巻/御伽草子二三編の内
『天狗の内裏』/二巻或は三巻/萬冶二年刊/(〔補〕『近古小説新纂』初輯所収)
『鬼一法眼』(一名『判官都話』)/三巻或は五巻/寛文十年刊/(〔補〕同上)
『秀衡入』/一巻(写)藤井乙男博士蔵//(有朋堂文庫『御伽草紙』所収)
『橋弁慶』/一巻(写)同上
『弁慶物語』(一名『弁慶の草子』)/二巻/寛永板・慶安四年板等/(『室町時代小説集』所収)
『浄瑠璃十二段草子』(一名『浄瑠璃物語』)/二巻/慶長活字本・寛永活字本等新編御伽草子の内
〔補〕『相模川』/二巻/刊年不明
〔補〕『みなづる』/二巻(写)//(昭和八年一月号「国語国文」所載)

『十二段草子』は浄瑠璃であるが、近古のもので、普通御伽草子の中にも数えられるに従って、仮に此処に挙げた。又『八島にこう物語』及び『やしま合戦』というものが伝わっているが、いずれも舞の本『八島』と全く同一の物である。舞の詞が浄瑠璃にも語られたと同じく、或は絵巻として翫ばれ、或は読まれたことは、『静』が殆ど舞の本としては知られずに、長く『静物語』として伝えられた(『考古画譜』『本朝画図品目』『好古図抄』『画図品類』)のによっても、その一斑は証せられるであろう。なお絵巻又は奈良絵本として流布したもので、『義経記』(或は『牛若物語』としても)、『島渡り』『弁慶物語』『天狗内裏』『継信忠信記』(舞の本『八島』)(他の舞の本は一々挙げない)『十二段草子絵巻』(〔補〕『山中常磐絵巻』)等の外には、『九郎判官義経・奥州泰衡等被討伐絵』(一〇巻)、その中の『高館合戦絵詞』(一巻)、それから『堀川夜討絵巻』(徳川光国絵詞という。江戸時代のものであろう)『義経奥州落絵詞』(一巻)等の絵巻がある。又『衣川合戦清悦物語』(一冊)が写本で伝わって居り、これは江戸時代の作と思われるが、体裁は御伽草子式のものである。


第三章 近世の義経文学

一 浄瑠璃
 

江戸時代は、或意味に於ては義経文学最盛の時期である。既に前時代に於て『義経記』によって一度その一生を一層美化された九郎判官は、謡曲・舞曲に多くの素材を提供したと同時に、反対に又これが流行に伴って、益々世人の同情を集めて来、この期に入っては愈々伝説・文学の世界に活動している。就中その最も多くの作品を出したのは浄瑠璃・歌舞伎の方面で、それはやはり前代に於て謡・舞曲の劇詩、歌曲方面が特に義経伝説の活動舞台であった後を承けているので、甚だ自然な傾向でもある。

全くこの期の義経物は、この期文学の一般傾向にも応じて、文学の種類に於ても内容・数量に於ても、豊富複雑となっていて、主なものを列挙するだけでも、少からぬ頁を費さねばならず、片々たる凡作に至っては、殆ど数え尽し難いが、一応兎に角努めて拾集してみることにする。

先ず戯曲・脚本から始める。前章に既に掲げたが、俗に浄瑠璃の始祖と言われる『浄瑠璃十二段草子』が純然たる義経物であるのみならず、其角の『焦尾琴』に見える『登り八島』『下り八島』という女太夫六字南無右衛門が語った十二段物も義経物であったようで、『下りやしま』の事は柳亭種彦の『用捨箱』(下之巻)にも見え、「山城国住人六字南無右衛門正本、やしまみち行一段目」とある寛永十六年の刊記のあるものの一部が掲出せられ、

此草紙は義経が奥州及び羽州なる佐藤荘司が許を訪い給う事を記せり。下りやしまという是なり。矢島は出羽国由利郡の地名、西海の屋島にはあらず。

と説明してある。又その内容詞章に関しては

全文総て舞のさうしのおもむきなり。

と註してあるから大体が推し得られる。その他の古浄瑠璃で義経物及び准義経物を挙げると、

『たかだち五段』(寛永二年刊)『いづみがじやう』(寛永一三年刊)『一の谷逆落』(伊勢島宮内正本、寛永二〇年刊)『吹上秀衡入』(宮内正本、慶安四年刊)『きよしげ』(若狭守吉次正本、正保二年刊)『牛王(ごわう)姫』(寛文一三年刊)『安宅高館』(長門掾為英正本)『ふきあげ』(同)

稍下って、

『熊井太郎』『熊井太郎孝行巻』(山本土佐掾正本)『朝敵橋弁慶』『天狗の内裏』(宇治加賀掾正本、延宝五年刊)『鞍馬山師弟杉』(加賀掾正本、清水三郎兵衛作)『津戸(つのとの)三郎』(義太夫正本、元禄二年刊。近松作の加賀掾正本『門出八島』の外題替少改作)

等の作があり、又金平本に

『判官吉野合戦』(萬冶四年刊)『義経地獄破』(寛文元年刊、初刊は萬冶四年か)『常陸坊海尊』(寛文二年刊)『碁盤忠信』(延宝四年刊)『牛若千人切』(延宝七年刊)『金平本義経記』(元禄二年刊)『山中常磐』(刊年未詳)

等の諸作がある。なお『外題年鑑』『声曲類纂』等によれば、

『新十二段』(『十二段』改作、井上播摩掾正本)『源氏十五段』(井上市郎太夫正本)『源氏東の門出』(清水理兵衛正本)『牛若東下向』(松本冶太夫正本)『八島合戦』(同)『源氏烏帽子折』(山本土佐掾正本、近松作か)『伏見常磐』(加賀掾正本)『弁慶京土産』(同)(〔補〕藤井乙男博士校註『近松全集』には山本角太夫正本と推定)『義経懐中硯』(加賀掾正本)『弁慶出生記』(〔補〕文献書院発行、藤井博士編輯『国文学名著集』の内、『校註浄瑠璃稀本集』に『弁慶誕生記』として収めてあるものが或はこれか)『静法楽舞』『牛若武勇始』
等更に数篇を加え得る(『津戸三郎』を除き、明らかに近松物と推定せられてある作のみは後に譲って、以上の諸作中に含めてない)。この他、前掲外題によっても知られるように、幸若舞曲の或ものが、そのまま或は多少の改補を加えられて古浄瑠璃の正本に用いられたものが尠くない。

次に近松の時代物中の義経物は

外題/興行年代/興行座名
『門出八島』(『津戸三郎』と内容は同じで、人名詞章に少異あるだけである。宇治加賀掾正本/未詳
『凱陣八島』(加賀掾正本)/未詳
『烏帽子折』(以下義太夫正本)/元禄三年一月/竹本座
『十二段』(元禄一四年九月『十二段長生島台』と改題)/同三年三月/同
『源氏烏帽子折』(『烏帽子折』の修正改題)/同一二年一月/同
『源義経将棋経』(前に『義経将棋経』といったのを改作したもののようである)/宝永三年一月/同
『吉野忠信』/同四年一月/同
『源氏冷泉節』/同七年八月/同
『孕常磐』/正徳三年(但し興行年代に疑がある)(〔補〕『近世邦楽年表』には宝永七年八月としてある)/同
『■(歹+粲)静胎内拾(ふたりしずかたいないさぐり)』/同三年五月/同
『俊寛牛若平家女護島』/享保四年八月/同

の十曲(『烏帽子折』と『源氏烏帽子折』とは一曲として数えることとする)であるが(〔補〕『弁慶京土産』(前出。元禄初年頃か))、『佐藤忠信廿日正月』(元禄九年一月、竹本座)『新板腰越状』(元禄一〇年四月、竹本座。『新腰越訴状』の改作かという)も近松物かともいわれている。他に義経伝説に関係のある作には、

『義経追善女舞』(加賀掾正本『曽我七以呂波』と同曲)/元禄九年九月/竹本座
『大磯虎稚物語』/元禄一五年五月/竹本座
『最明寺殿百人上臘』/同一六年三月/同

の三曲があり、仮称義経物に准ずべき天草一揆を取扱ったものに、

『傾城島原蛙合戦』/享保四年十一月/竹本座

がある。

竹本座の近松に対抗した豊竹座の紀海音には、

『末広十二段』/元禄一五年五月/豊竹座

がある。両作者以外では、

外題/興行年代/興行座名
『弁慶出生記』(『外題年鑑』には義太夫語物として出ている)/元禄七年一月/竹本座
『義経東(あずま)六法』(『義経懐中硯』と同曲)/同一一年六月/同
『吉野忠信錦著長(にしきのきせなが)』/正徳五年一月/豊竹座
『伏見常磐昔物語』/享保六年五月/同
〔補〕『冬牡丹女夫獅子』(『孕常磐』改作加賀掾正本)(『校註浄瑠璃稀本集』所収)/未詳/未詳

がある。続いてその後の作者の手に成った義経物及び准義経物の主なものを挙げると、

外題/作者/興行年代/興行座名
『右大将鎌倉実記』/竹田出雲/享保八年十一月/竹本座
『鬼一法眼三略巻』/文耕堂・長谷川千四/同一六年九月/同
(准)『那須与市西海硯』/並木宗助・並木丈助/同一九年八月/豊竹座
『御所櫻堀川夜討』/文耕堂・三好松洛/元文二年一月/竹本座
『逆櫓松矢箙梅ひらがな盛衰記』/文耕堂・出雲・松洛・小出雲/同四年四月/同
『大物船矢倉吉野花矢倉義経千本櫻』/竹田出雲・松洛・並木千柳/延享四年十一月/同
『一谷嫩(ふたば)軍記』/並木宗輔・浅田一鳥等/宝暦元年十二月/豊竹座

の諸曲で、その他には、

『清和源氏十五段』/並木宗助・安田蛙文/享保一三年二月/豊竹座
『須磨都源平躑躅』/文耕堂・長谷川千四/享保一五年十一月/竹本座
『奥州秀衡有■(髟+曾)婿(うそうのむこ)』/並木宗輔/元文四年二月/豊竹座
『鎌倉大系図』/為永太郎兵衛・浅田一鳥等/寛保二年十月/同
『児源氏道中軍記』/竹田出雲・三好松洛等/延享元年三月/竹本座
『女頼朝女義経伊達錦五十四郡』/竹田外記・三好松洛等/宝暦二年十一月/同
『源頼朝源義経古戦場鐘懸松』/近松半二・三好松洛等/同一一年十一月/同
『五條坂のかぎりは建仁寺の陀羅尼番場忠太紅梅箙』/若竹笛躬・中邑阿契/宝暦一三年十二月/豊竹座
『須磨内裏■(孑+孑+勇)弓勢(ふたごのゆんぜい)』/寺田兵蔵/同一四年一月/北の新地芝居

等がある。明和・安永の交には江戸の奇才福内鬼外に、

『源氏大草紙』/明和七年八月/肥前座
『弓勢智勇湊』/同八年一月/同
『嫩■(容+木)葉(わかばのみどり)相生源氏』/安永二年四月/同

等の作がある。同期の他の東西の作者には、

『平家遊君源氏大尽花軍寿永春』/吉田冠子/明和四年八月/竹本座
『蝦夷錦振袖雛形』/玉泉堂・吉田二一・吉田冠子等/同六年三月/肥前座
『寿永楓元歴梅源平鴨鳥越』/豊竹萬三等/同七年九月/豊竹座
『土佐坊空誓文武藏坊借証文吉野静人目千本』/松貫四・吉田仲二/安永四年一月/肥前座

等があり、読本浄瑠璃に次の二作がある。

『源氏の弓流平家の矢合船軍凱陣兜(がいじんのかぶと)』/葉水・李郷/明和八年三月
『平家朗詠源氏管絃相生轡の松』//安永七年九月


二 脚本(歌舞伎狂言)
 

操の時代はやがて歌舞伎時代となった。併し『千本櫻』『三略巻』を始め、歌舞伎に於ける主な義経物は、大抵又皆浄瑠璃に於ける義経物から移植せられて来ている。その他に脚本としての優秀なものは甚だ稀少である。稍知られているものとしては、古くは近松に『御曹司初寅詣』(宝永六年、都萬太夫座)、他に作者未詳の『一谷坂落』があり、後のものでは櫻田冶助の『御摂(ごひいき)勧進帳』、鶴屋南北の『恵咲梅(むろのうめ)判官贔屓』、及びこの期の遺物たる明治初期の黙阿弥物の如きを挙げれば十分であろう。そして演劇に於ける義経物の代表は言うまでもなく、七代目団十郎の海老蔵が復活所演以後、歌舞伎十八番中の大物として今日に至っている『勧進帳』(作者三代目並木五瓶)であると言えば足りよう。その他、文学としては一々挙げるに及ばぬであろうけれども、演劇方面に如何に義経伝説が夥しく取材せられているかの大凡を一瞥する為に、煩を厭わず、歌舞伎芝居の義経物・准義経物の外題で『歌舞伎年代記』『続歌舞伎年代記』『劇場年表』その他に見えるものを拾い出して下に並列して見る。脱漏もなお多かろうと思うが。

外題/興行年代/興行座名
『吉野静碁盤忠信』/元禄一一年十一月/中村座
『握荒冷泉寛濶武藏星合十二段』/同一五年二月(一説一七年春)/同(一説市村座)
『女高砂勢松女熊坂妬松新板高館弁慶状』/同年(一説一四年)七月/同
『栄花(かえりばな)熊谷櫻』/宝永三年九月/早雲座
『鶏奥州源氏』/享保一一年一月/中村座
『兜碁盤忠信』/同一三年顔見世/同
『矢矧長者金石礎(こがねのいしずえ)』/享保一四年顔見世/森田座
『鬼一法眼三略巻』/同一七年三月/角座
『伊豆源氏蓬莢棲(やかた)』/元文元年顔見世/市村座
『硬(さざれいし)末(すえひろ)源氏』/寛保四年春/中村座
『渡初(わたりぞめ)橋弁慶』(所作事)/延享元年一月/同
『殿造(とのつくり)源氏十二段』/同年十一月/市村座
『御所鹿子(かのこ)十二段』/同三年春/森田座
『義経千本櫻』/同五年五月/中村座
『ひらがな盛衰記』/宝暦三年春/市村座
『浄瑠璃十二段』/同三年/中村座
『三浦大助武門寿(ぶもんのことぶき)』/同四年十一月/同
『鬼一法眼指南車』/同年/森田座
『女義経含状』/同五年/角座
『日本花判官贔屓』/同一一年十一月/中村座
『若木花須磨初雪』(『一谷嫩軍記』)/明和元年十一月/市村座
『勝時栄源氏』/同二年/森田座
『道行初音旅』(所作事)/明和四年七月/市村座
『今於盛(いまをさかり)末広源氏』/同五年十一月/中村座
『隈取(くまどり)安宅松』(『雪梅顔見勢(むつのはなうめのかおみせ)』中の所作事)/同六年十一月/市村座
『堀川夜討』(『御所櫻』)/安永二年三月/同
『御摂(ごひいき)勧進帳』/同年十一月/森田座
『一ノ富突(いちのとみつきの)顔見世』/同三年顔見世/同
『稚児鳥居飛入狐(とびいりぎつね)』/安永六年十一月/市村座
『群高松雪旛(むれたかまつゆきのしらはた)』/同九年十一月/同
『時花(ときのはな)雪高館』/天明二年/森田座
『筆始(ふではじめ)勧進帳/同四年春/中村座
『兄弟群高松(つらなるみむれのたかまつ)』/同七年十一月/森田座
『源氏再興黄金橘(こがねのたちばな)』/同八年十一月/市村座
『大■(だいだんな)勧進帳』/寛政二年/森田座
『菊伊達大門(こがねぎくだてのおおきど)』/同四年十一月/市村座
『帰花雪義経(かえりばなゆきもよしつね)』/同七年十一月/都座
『源平柱礎暦(はしらごよみ)』/同年同月/桐座
『伊達熊対鶴(だてとかくつるのおほとり)』/同一三年十一月/中村座
『雪八島(むつのはなやしまの)凱陣』/文化四年十一月/市村座
『橋弁慶』(所作事、中村歌右衛門七変化『遅櫻手尓葉七字(おそざくらてにはななもじ)』の内)/同八年三月/中村座
『大和名所千本櫻』/同一二年十一月/河原崎座
『葉越の月安宅古例(ふるごと)』(所作事、中村芝翫九変化の内)/同一三年三月/中村座
『恵咲梅判官贔屓』/文化一四年十一月/都座
『貢之雪(みつぎのはな)源氏贔屓』/文政一一年十一月/市村座
『碁盤忠信雪黒石(かちぐろ)』/天保三年十一月/同
『橋弁慶』(所作事)/同九年九月/同
『勧進帳』/同一一年三月/河原崎座
『源平勝武■(監+りっとう)(しょうぶがたな)』/同一四年五月/市村座
『稚軍法振袖武藏(おきなぐんはふじふろくむさし)』/同年十一月/河原崎座
『一谷雪見棲(たかどの)』/弘化三年十一月/同
『四季写土佐画拙(しきうつしとさえのつたなさ)』(所作事、七変化)/同四年十一月/中村座
〔『熊坂長範物見松』〕(『月梅摂(ひいき)景清』の四立目)/嘉永元年正月/同
『名橘花(なにたちばなはなの)弁慶』/同年十一月/河原崎屋
『宝楳■源氏(たからのうめみばえげんじ)』/同二年十一月/同
『恋積雪墨染(こいつもるゆきのすみそめ)』/同四年十一月/市村座
『潤嬬児源氏(めぐみのいろふりそでげんじ)』/安政元年十月/同
『鞍馬山』(だんまり)/同三年十一月/同

〔以下補〕
『忠臣晴金鶏(あかつきのとり)』/萬延元年五月/守田座
『四季文台名残花(なごりのはなのざ)』(大切、所作事)/同年同月/同
『滑稽俄(おどけにわか)安宅新関』/慶應元年十月/市村座
『富貴自在魁曽我』/明治元年二月/守田座
『源平魁荘子(さきがけそうし)』/同五年七月/中村座
『鷲淵山(わしがふちさん)鬼若物語』/同年九月/同
『熊坂』(所作事、『色成楓夕映(いろになるもみじのゆうばえ)』の内)/同一五年十一月/猿若座
『石橋山源氏魁』/同二二年五月/吾妻座
『常磐松樹嫩(ふたば)源氏』/同二九年十月/浅草座
『源平常磐操』/同三三年九月/新富座
『吉野山狐忠信』(源九郎狐故郷戻り)同三五年六月/明治座
『雪月花』(所作事、「雪の常磐、月の橋弁慶、花の吉野」)/明治三六年四月/新富座
『熊坂長範物見松』(前出)/同年十月/演伎座

(附記)以上すべて初演の外題と思われるものを年代順に掲げた。常磐津物・清元物等は後に出したのもある。操から移された主な義経物も歌舞伎初演の年月を示してある。但し外題替だけで内容は同じものも幾分あると思われるから、注意はしたつもりであるが、重複があるかも知れない。なお『忠臣晴金鶏』以下は『続々歌舞伎年代記』『歌舞伎新報』その他によって補い、黙阿弥物その他三四、次章に特に説く所のものを除き、次章に譲るべき明治時代の分まで此処に収めたのは、唯便宜簡に就いただけで別に意味は無い。且、それらも概して江戸期の作と大差なき類のものでもある。そして年表として完きを得る為には、次章に挙げた諸狂言と当然並列せらるべきである。


三 浮世草子
 

次に小説の方面を見ると、上方文学を代表する浮世草子の義経物には、

書名/冊数/作者/刊年
『風流?平家』/五/自笑/正徳五年
『義経風流鑑』/五/同/同
『義経倭軍談』/六/其磧/享保四年
『花実義経記』(『倭軍談』後編)/六/同/同五年
『互先(たがいせん)碁盤忠信』/五/自笑・其磧/同九年
『頼朝鎌倉実記』(上改題)/五//同一二年
『風流?軍談』/五/祐佐/同一七年
『僕牛若稚弁慶鬼一法眼虎の巻』/七/其磧/同一八年
『風流西海硯』/五/自笑・其磧/同二〇年
『風流東海硯』(『西海硯』後編)/五/其磧/元文二年

准義経物としては、

『風流扇子軍(あうぎいくさ)』(『御伽平家』後編)/五/其磧・自笑/享保一四年
『大系図蝦夷噺』/五/同/寛保四年

がある。なお西沢与志(一風)の

『風流御前義経記』/八//元禄一三年
『熊坂今物語』/五//享保一四年

は共に擬義経物というが至当であろう。

更に浮世草子の系統を引いたようなものに、『平太后快話』(一名『壇浦夜戦志』)『大東閨語』の類があって、亦義経に関するものである。


四 読本
 

江戸文学最盛の期に当って、一時天下を風靡した京伝・馬琴等の所謂読本の現れる以前に於て、その前哨ともいうべき軍記・実録の体を学んだものに、

『義経興廃記』/一二巻一二冊/小幡邦器著/元禄一七年刊
『義経勲功記』/一九巻二〇冊/馬場信意著/正徳二年刊

同じ系統で後のものに、

『義経勲功図会』/一〇巻一〇冊/浪速好華堂野亭著/安政七年刊(?)
〔補〕上の書には「安政申年」の序がある。なおこの書は明治十九年『絵本義経勲功記』の題名で刊行。又大正六年に坪内逍遙鑑選、実伝小説第三編として『源義経全伝』の題号で発刊せられている。

がある。又、藤英勝作の『通俗義経蝦夷軍談』というこれも実録小説風の通俗軍談が明和五年に刊行せられている。文化文政期の読本時代になってからも、その絶好の題目であり理想的の主人公である義経であるにかかわらず、傑作を生まなかったばかりでなく、その
作品の数に於ても比較的少い。今読本の義経物の主なものを下に掲げる。

書名/冊数/作者・画工/刊年
『繍像義経磐石伝』/六/一舟子遺作・蔀関月画/文化三年
『俊寛僧都島物語』/八/曲亭馬琴・歌川豊広画/同五年
『絵本浄瑠璃姫譚(ものがたり)』/八/狂蝶子文麿・蘆国・花月画/同九年
『武蔵坊弁慶異伝』/一〇/白頭子柳魚・渓齋英泉画/文政一一年
『義経蝦夷勲功記』/二〇/永楽舎一水/嘉永六年
『義経蝦夷軍談』/二五/同/(上の書とは別本である 写本で大橋図書館に伝わっている(〔補〕大正一二年関東大震災焼失))
『新編熊坂物語』/五/栗杖亭鬼卵・一峰齋馬円画/年代未詳

他に草双紙風の読本に、『義経稚(おきな)源氏』(五、笠亭仙果作一勇齋國芳画)『熊坂長範物語』(一、仙果作)がある。

准義経物としては『泉親衡物語』(五、二代目福内鬼外(森島中良)作、文化六)『絵本平泉実記』(一二、速水春暁齋画、文政二)『能登守教経外伝西海浪間月』(五、森川保之画作、天保六)等がある。又『源平外記染分草』(五、東里山人、勝川春好画、文政五)の巻末の予告によれば、その後編は義経に関係あるものであることが明らかであるが、前編のみで後は継がれなかったようである。


五 草双紙
 

次に草双紙類の義経物はというと、赤本・黒本・青本の中にも散見するが、黄表紙・合巻になると更に多い。今主なものを次に記せば(?符を附したのは、未見のもので、疑わしいが義経物かと推せられたもの)、

赤本
書名/冊数/作者・画工/刊年
『義経島めぐり』/一/西村重長/(村田版)

黒本
『新義経記』//未詳/延享元年
『義信義忠錦戸合戦/三/甚四/同三年
『門出八島』/三/未詳/同年
『門出弁慶』/二/未詳/延享三年
『海尊故郷錦』/二/同/同年
『熊坂誕生記』/三/同/同年
『伊勢三郎物見松』/二/同/宝暦八年
『壇浦二人教経』/三/富川房信画/同一二年
?『源九郎狐出世噺』/二/未詳/同年
『風流女忠信』/三/丈阿/明和元年
?『双丘金売橘次分別袋』/三/未詳/同年
『弁慶一代記』/一〇/丈阿・北尾重政画/同四年
『弁慶追加』/二/同/同五年
『くらま山出世の羽団』/三/富川房信画/同七年
『蝦夷島義経大王』//未詳/安永元年
『栄花義経蝦夷錦』/三/奥村政房画/未詳
『智仁勇児源氏三略巻』/三/鳥居清経画/同
『義経一代記』/三/未詳/同
『義経千本櫻』/二/同/同
『義経島渡』/二/鳥居清重画/同
?『女熊坂物語』/二/未詳/同

青本
『義経堀河夜討』/二/未詳/延享三年
『化物義経記』/二/鳥居清満画/寛延三年
『弁慶分身石』/三/未詳/宝暦七年
『振袖橋弁慶』/二/同/同八年
『義経八島■(ぐんだん:諢+炎)』/三/同/明和七年
『義経蝦夷合戦』/三/同/同八年
『風流振袖弁慶』/二/富川吟雪画/安永元年
『盲目(めくら)仙人目明(めあき)仙人』/二/同/同年
『熊坂長範世語古跡松』/二/同/同三年
『義経一代記』/一〇/未詳/未詳
『義経千本櫻』/二/同/同
『源頼朝源義経古戦場鐘懸松』/二/同/同
『弁慶の誕生』/二/同/同
?『娘弁慶』/二/富川吟雪画/未詳

黄表紙

『佐藤・鈴木対兄弟天晴梅武士』/二/鳥居清経画/安永四年
?『船軍源氏勝閧』/三/同/同五年
『駿河清重伊達紙子笈捨松』/三/同/同年
『静舞末広源氏』/二/鳥居清永画/同六年
『二人義経堀川合戦』/三/米山鼎峨・鳥居清経画/同七年
『藤沢人道熊坂伝記』/三/鳥居清経画/同年
『通増安宅関』/二/鳥居清長画/天明元年
『野曾喜伽羅久里』/三/井久冶茂内・勝川春朗画/同四年
『鞍馬天狗三略巻』/三/宮村杏李・勝川春道画/同年
?『新義経細見蝦夷』/一/竹杖為軽/同五年
『源平軍物語』/五/南仙笑楚満人・北尾政美画/同七年
『悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)』(一名『義経異国咄』)/三/恋川春町・北尾政美画/同八年
?『蝦夷渡義経実記』/三/宮村杏李・勝川春道画/同年
『其句義経真実情文(せいもん)櫻』/三/山東京伝画作/寛政元年
『無茶志房弁慶島』/二/未詳/同二年
『源九郎狐葛の葉狐いかに弁慶御前二人』/二/櫻川慈悲成〔歌川豊国画〕/同七年
『熊坂長範物見松御休所』/三/十返舎一九画作/同一〇年
『新研十六武蔵坊(しんぱんかわりましたじふろくむさしぼう)』/三/曲亭馬琴〔北尾重政画〕/文化元年
?『源氏再興談』/二/面徳齋夫成/同年
『源家武功記』/五/南仙笑楚満人・勝川春英画/同二年
『義経一代記』/五/十返舎一九画作/同三年
同/五/鳥居清長画/未詳
?『奥州源氏忠臣録』/四/未詳/同

合巻

『絵本勇壮義経録』/三/十返舎一九・勝川春英画/文化四年
?『かちかち山の引返ちょんちょん幕の土舟腹鼓狸忠信』/三/式亭三馬・歌川美丸画/同六年
『新編月熊坂話』(前編)/三/時太郎可候画作/同八年
『二人児女二人牛稚寄愛度金売吉事(よせてめでたきかねうりきちじ)』/六/陽齋南山・岳亭春信画/同一四年
『義経一代記抜萃熊坂物語』/二/柳亭種彦・歌川広重画/文政四年
『鎌倉山黄金千代鶴』/六/市川三升・歌川国安画/同一〇年
『義経誉軍扇』/六/五柳亭徳升・歌川国安画/文政一〇年
『義経越路松』/六/十返舎一九・歌川貞秀画/天保三年
『義経一代記の内伏見常磐』/四/柳亭種彦・歌川国貞・広重画/同四年
『源平武者鑑』/六/宝田千町校・歌川貞秀画/同七年
『鞍馬山源氏之勲功』/五/二世楚満人・歌川広重画/同八年
『弁慶状武勇封』/四/美図垣笑顔・歌川国直画/同一一年
『花櫓詠義経』/五/美図垣笑顔・歌川国芳画/同年
『二人静二人忠信裏表千本櫻』/六/柳下亭種員・二世豊國画/嘉永四年
『義経以佐雄軍記』/八/三亭春馬・歌川国久画/安政三年
『義経千本櫻』自初至三/一二/柳水亭種清・二世国貞画/同四年
『義経一代記』/四/奇石亭寿山・歌川芳虎画/同年

小合巻

『義経一代記』/一/十返舎一九・歌川国直画/文化一三年
『義経千本櫻』/一/歌川広重画作/文政八年

以上の内、例えば『源頼朝源義経古戦場鐘懸松』(青本)の如きは准義経物、又『新研十六武蔵坊』の如きは全然の義経物ではなく、寧ろ仮称義経物に近いものであるが、暫く此処に収めて置く。

(附記)草双紙の義経物は触目した作品の他は『青本年表』及び朝倉氏の『日本小説年表』に就いて拾出したのを、今改めて『新修日本小説年表』で多少補正した。

草双紙と同類ともいうべき絵本にも、義経伝説に関するものが多い。管見に入ったものを下に挙げる。

絵本『義経島巡り』/二/下河辺拾水画作/天明三年
絵本『義経一代実記』/一/勝川春章画作/同七年
『松白波熊坂伝記』/三/春水亭編述・十返舎一九校・一陽齋豊國画/弘化四年
『源九郎義経一代記』/一/神田伯山/安政七年
絵本『義経島巡り』(一名『義経巡島記』)/一/有楽画/未詳
『義経千本櫻』/一/(鶴屋喜右衛門)/同


六 その他の義経文学
 

義経文学の主な種類は殆ど以上で尽きる。その性質上これを含むことが少かるべき洒落本・滑稽本の中には、曽我物は一二種あるけれども、義経物は見当らないようである。人情本も同断である。

演劇と相俟って、音曲界には義経物が少くない。上方系の俗曲である一中節には、

『安宅道行』『安宅勧進帳』『常磐御前道行(妹が宿)』『源氏十二段浄瑠璃供養』

豊後節には、

『駒鳥恋関札』『祝言』(秀衡の饗応に弁慶の舞を作ったもの)

がある。常磐津では(以下、歌舞伎狂言の條に既に出したものもある)、

『道行初音旅』 明和四年七月 市村座
『雪颪卯花籬(ゆきおろしうのはなまがき)』(古忠信) 安永六年四月 森田座
『操の常磐と夢にしら雪恩愛■(目+責)関守(ひとめのせきもり)』(宗清)(『貢之雪(みつぎのはな)源氏贔屓』の二立目)作者奈河本助 文政一一年十一月 市村座
『恋鼓調(しらべの)懸罠』(女夫狐)

が主なものであり、富本節には

『夫婦酒替(めおときけかはら)ぬ中仲』(鞍馬獅子)(『稚児鳥居飛入狐』の二番目)作者中村重助 安永六年十一月 市村座
『十二段君が色音』(十二段又は碁盤忠信) 作者櫻田冶助 安永九年十一月 市村座
『橋霜月長刀』 安永九年十一月 市村座
『幾菊蝶初音道行(いつもきくてふはつねのみちゆき)』(忠信) 文化五年五月 中村座
『伏見常磐の朗詠の意味を砕いて雪解松操繖(ゆきげのまつみさおのきぬがさ)』(常磐御前)(『玉翫椿(たまつばき)源平曽我』の四立目)作者藤本吉兵衛 弘化二年一月 中村座

清元には、

『幾菊蝶初音道行』(旧富本)
『鞍馬獅子其影形(おしえのひながた)』(『勢(きおい)源氏貢扇(みつぎのたまもの)』の四番目下の巻) 天保七年十一月 森田座

の如きものがある。是等の歌浄瑠璃に対して、単に所謂語り物としての義太夫節の中、最も普通に語られるのは『御所櫻』三段目「弁慶上使の段」である(准義経物の『嫩軍記』の「熊谷陣屋の段」や『盛衰記』の「逆櫓」即ち「松右衛門内の段」等がこれに次いでいる)。

江戸末の俗曲である土佐節一段物には、

『よしつねしのび物語』『あたかくわんじん帳』『高だちべんけい舞の段』『源氏十二段浄瑠璃供養』『橋弁慶』(謡曲『橋弁慶』から出ている)

等の諸曲がある。長唄には、

『勧進帳』(既出)
『安宅勧進帳』 慶應三年 大薩摩絃太夫(杵屋勘五郎)作曲
『隈取安宅松』(安宅) 櫻田治助作(既出)
『渡初橋弁慶』(既出)
『橋弁慶』(『遅櫻手尓葉七字(おそざくらてにはななもじ)』の内)(既出)
『鞍馬山』(だんまり) 河竹黙阿弥作(既出)
『船弁慶』 河竹黙阿弥作 明治一八年十一月 新富座

等を挙げ得る。その他の俗曲中にも、亦詩歌の詠史・狂歌・狂詩・俳句・川柳・俚謡・講談・落語等に亘っても――特に明治以後へまでかけてみれば一層――義経伝説を題材としたものは多い。又他の一面に於て、史伝・史論としての義経に関する文献も少くない(その主なものは『大日本史』列伝、『史鑑』後篇、『読史余論』『日本外史』、平賀源内の『そしり草』等)が、もとより義経文学ではない。

所詮、形に於て義経伝説の既に整っているのを見るのは室町時代であり、又義経文学の量に於て最も多いのは江戸時代である。即ち江戸時代に流布し?炙せられた義経に関する諸伝説は、概ね既に室町時代に成形しているのであるが、これを愈々発達せしめ、益々文学化、戯曲化、劇化したのはこの期のことに属する。江戸時代を以て義経文学最盛期と言ったのは、こうした意味でである。
 

第四章 明治以後の義経文学

茲で明治以後の義経文学に就いて一言を費そう。明治時代は、言うまでもなく義経文学・曽我文学の時代ではない。伝説時代ではなくて、より現実的な時代である。過去を憧憬する保守の時代ではなくして、前途を開拓して発展せんとする進取の時代であった。日本的の時代から世界的の時代に移った時代であった。義経や曽我が、その文壇・劇場に於て、自ら領分を狭められて来たのは亦巳むを得ない。而もチョン髷を切り、大小を捨て、汽車汽船に乗り、電信電話を用い、シェークスピア・ゲーテを論じ、トルストイ・イブセンを談ずる新日本人も、なおその日本服の寛濶をば喜び、米食の止めがたいのを知っていると同じく、長く人心を支配して来た国民的英雄を忘れることはなかった。況や明治の初年、旧日本から新日本へ移る過渡期に在っては、猶前代の遺物が少くない。即ち新を喜ぶ明治時代は義経物の多くを有せぬけれども、猶、江戸末期から明治初期へかけての劇作者たる黙阿弥に(明治以前にも前掲『鞍馬山』の作がある)、

『狐静化粧鏡』(狐静) 明治四年三月 市村座
『猿若三鳥名歌閧(さるわかさんちょうめいかのかちどき)』(義経記) 同五年一月 守田座
『音駒山守護源氏(おとこやまもりたてげんじ)』 同六年十月 同
『千歳曽我源氏礎』(碁盤忠信) 同一八年二月 千歳座開場狂言
『船弁慶』 同年十一月 新富座
『■(みばえ)源氏陸奥(みちのく)日記』(伊勢三郎) 同一九年十二月 同
『西東(にしひがし)恋取組』(矢矧の寮) 同二〇年六月 同
『会稽源氏雪白旗』(浮島ヶ原) 同二一年一月 市村座

等の作がある。就中『船弁慶』(明治三十六年十月歌舞伎座、家橘の羽左衛門改名披露の時には『義経記』と改題してこの狂言を出した)、『伊勢三郎』(『義経記』巻二「伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事」の件を劇化した活歴物)『山伏摂待』(『千歳曽我』の大詰)及び『腰越状』(『名歌閧』の三幕目)の四つまで新歌舞伎十八番の中に数えられている。その後の作者の物では、

『和泉三郎』 宮崎三昧作 明治二四年十月(演劇協会の催し) 中村座 
『女弁慶』 福地櫻痴作 同三三七月 歌舞伎座
『安宅関』 巣林子原作・榎本虎彦脚色 同三七年十一月 同
『堀川夜討』 榎本虎彦作 同三八年五月 同
『碁盤忠信』 黙阿弥原作・右田寅彦補 同四四年十一月 帝国劇場
『花勝見奥譚(はなかつみおくものがたり) 山崎紫紅作 大正三年六月 歌舞伎座

等があり、特に近松の『胎内拾』から出た中幕物『安宅関』は市川八百蔵(〔補〕後、改め中軍)の当り狂言となった。又『碁盤忠信』は活歴を本として荒事を加えたもので、市川高麗蔵から松本幸四郎に改名した披露の出し物であった。史劇の提唱、活歴流行の情勢に伴い、乃至歌舞伎の影響を受けて、壮士芝居の連中までこの方面に手を染め、明治二十五年十一月鳥越座の中幕に『安宅義経問答』を出して川上音二郎が判官義経を勤め、又二十六年七月吾妻座の福井茂兵衛・青柳捨三郎合併興行の中幕に『源義経』、三十年九月真砂座新旧合同の二番目に伊井蓉峰の悲劇『牛若丸』(岩崎蕣花作)が出ているなど面白い。

謡曲の新作に、鶴ヶ岡の静の歌舞を題材とした『卯花重』(高木半作)があるが、特に挙ぐべきほどの作でもないようである。更にこの期の新しい所産たる新体詩に於ては、明治三十六年一月から「明星」に連載された前田林外・与謝野鉄幹・平木白星合作の『源九郎義経』(後中止)を、明治の新史詩の先駆をなしたものとして注意すれば足り、小説界に於ては、歴史小説流行時にも、特筆したい程の義経物の傑作はなく、笹川臨風の『九郎判官』(大正元年同文館)を以てその一般を代表せしめれば十分である。

この期に於て注意すべき一事は、元来童話味の多い義経伝説が、依然として少年文学に重きをなしている事で、この方面の大家である巖谷小波の『牛若丸』(『日本昔噺』第二三篇)『武蔵坊弁慶』(『日本御伽噺』第六篇)以来、今日に至るまで少年雑誌に義経の物語は絶えず掲げられ、これと相伴って明治時代の新所産の一つたる唱歌の題材として取られ、或は『牛若丸』、或は『武蔵坊弁慶』等となって、少年英雄に歌われ、尊崇されることは、毫も昔時に異ならないのである。牛若・弁慶五條橋の物語は、すべての日本国民が、義務教育を受けるに先だって、曽て一度は与えられる幼年時代の最も興味深い不文の教科書の一つである。

今一つ特記すべき事は、義経伝説そのものの歴史からいえば明治時代は義経研究の時代であることである。盲従的崇拝の時期は巳に去って、客観的に観察批評して、その真相を知ろうと試みられた時代である。従って、史論の注意すべきものが多く出て、文学家よりも史学家の活動したのを見るのである。史学の確立発達は、その研究の手を将に最も国民崇拝の的たる人物の上に先ず加えようとするのは当然の事で、これが為に、義経伝説は、次第にその美しい想像の衣を剥ぎ去られようとするの災厄に遭ったかの観があるけれども、これは決して義経伝説の為に悲しむべき現象ではなく、史実の闡明が愈々厳密完全となって、伝説としての価値は一層深きを加えるのである。又その史家研究の興味ある対象となり得るのは、従来如何に甚だしく伝説化せられていたかを反証するものである。併しそれらの研究は、寧ろ明治末期に起ったもので、尚今後に継続せられて行くであろう。史論・史伝としての義経の研究の主なものには、山路愛山の『義経論』(『為朝論』附録(大正二年新潮社))、高瀬火海の『九郎判官源義経』(大正二年文明堂)、黒板博士の『義経伝』(大正三年文会堂書店)、中村孝也氏の『源九郎義経』(大正三年大日本雄弁会)、その他重野安繹博士講演「武蔵坊弁慶」、星野恒博士講演「源義経の話」(『史学叢説』第二集所収)等を始め、雑誌に講演に発表せられたものが多い。更に少し特異のものとしては、これはずっと古いのであるが、明治十八年に内田弥八訳述『義経再興記』(上田屋)(後に同じ題名で藍外堂から重刊せられた)が出て、義経成吉思汗説の一石を投じ、翌十九年には早くも清水米州編輯『通俗義経再興記』(文事堂)という実録風の小説を生んだ。櫻痴居士にも『義経仁義士汗』の作がある。

〔補〕近時、小谷部全一郎氏著『成吉思汗ハ源義経也』(大正十三年、富山房)が出て、又成吉思汗説が抬頭し、諸史家の論駁などがあった。

明治・大正時代は要するに、新しい義経物は多く作られなかった。

〔補〕その中で歌舞伎の外では筑前琵琶にだけは特に義経物の歌曲が多く作成せられている。即ち『伏見の吹雪』(伏見常磐伝説)『烏帽子折』『五條橋』『鴨越』『屋島』『壇の浦』『船弁慶』『吉野静』『吉野の忠信』『静御前』(鶴ヶ岡舞楽伝説)『荒乳の関』『勧進帳』『安宅の関』『信夫の宿』(摂待伝説)『名残の女櫻』(甲冑堂由来伝説と同材)『泉の三郎』『衣川』等である。薩摩琵琶にも錦心流に『奇縁』(橋弁慶伝説)『勧進帳』などの曲が出来ている。『勧進帳』は義太夫(『加賀海文冶荒涛(あらなみ)』という外題が附せられている)にも、浪花節にまでも作られた。

併し従来の義経物は――特に浄瑠璃・歌舞伎の方面に於て――常に断えず繰返されて鑑賞せられつつ今日に及び、伝説・文学の義経は現代と雖も決して死なない事を語って余りがある。

〔補〕この旧稿の一部を草しつつあつた大正五年二月頃も東京朝日新聞に仰天子の『義経』が連載せられていた。同月二十七日夜は説教節の若松若太夫が『弁慶安宅勧進帳』を語って、帝劇に満員に近い聴衆を集めていた。大正・昭和となっても歌舞伎の義経物は猶盛んに上場せられ、特に『勧進帳の如きは、明治・大正・昭和に亘って、初演以来曽て見ない程の上演回数を算し、余りに屡々である所から、「またかの関」の皮肉まで投与せられる位に及んでいる。新作も時折試みられ

外題/作者/興行年代/興行座名
『堀川夜討』/松居松葉/大正八年十一月/帝劇(勘弥文芸座)
『静と西行』/平山晋吉/同九年九月/帝劇
『蝦夷の義経』/山崎紫紅/同年十月/新富座
『静』(明治四二年十一月雑誌「スバル」所載)/森鴎外/大正一〇年三月/帝劇(文芸座)
『義経北國落』/田中智学/同年十一月/国柱会館(国性文芸会)
『栗橋の静』/同/同/同
『鞍馬源氏』(所作事)/岡鬼太郎/昭和三年六月/明治座
『六■三略恋兵法』/松居松翁/同年七月/帝劇
『義経記』(大津次郎の件を脚色した作)/同/同年八月/明治座
『源氏烏帽子折』/岡鬼太郎/同四年四月/帝劇
『出陣絵巻』/吉田絃二郎/昭和七年十一月/歌舞伎座
『静』(静と西行とを取扱った作)(「改造」昭和八年五月号所載)/佐々木信綱/同八年五月/同
『カムイ岩』(蝦夷の義経を取扱った作)/額田六福/同九年十月/新宿歌舞伎座(三升座)

等すべて脚光を浴び、他に正富汪洋の戯曲『義経と静』(「ニコニコ」大正六年六月号)、小杉天外の戯曲『腰越状』(「中央公論」大正十四年三月号)が発表せられている。歴史小説としては笹川臨風に『舞殿』近くは直木三十五作『源九郎義経』(改造社「直木三十五全集」の内)がある。又ラヂオの開設以来、謡曲・義太夫・長唄・常磐津・清元・富本・筑前琵琶・説教節等によって義経物の放送が数々行われていることも附言せねばならぬ。
 

第五章 義経文学以外の義経伝説の資料

義経伝説の研究資料としての義経文学を概観したついでに、文学以外の資料に関しても此処で便宜一わたり眺めて置きたい。

元来伝説研究の最好資料は口碑である。文学作品は、伝説資料としての価値はこれに劣るのみならず、取扱上相当の危険性すらも含んでいることは謂うまでもない。併し口碑は多くの場合文字となって、又屡々文学の形をとって記録されるのが常である。国民的な武勇伝説たる義経伝説に於ては、特にそうである。諸国の地誌・名勝志の類に、義経に関する口碑の掲げられたものがないではないが、その多くは、これが材料となって文学を生んだものと認め得る場合よりも、反対に文学によって知られた人物・事件が、地名に結び付けられたようなものが多いのである。故に、完全な義経伝説の大抵は――少くとも説話の形を具えた義経伝説は――殆どすべて文学に求められ得るし、又求むべきでなければならぬと言ってよい。殊に室町時代の文学の中には、比較的忠実に当時の口碑を録したであろうと思われるものも少くない。いずれにせよ、既に言明した通り、国民伝説の主部分を成す武勇伝説の研究資料は主として文学作品に拠るべきが至当である理由が存するのであるから、その方面の資料が重要視せられねばならぬは勿論であるとして、その文学形態を通しての義経伝説研究の旁証的資料としては、それら地方的口碑も大切なものであり、又、一度文学から生まれた地方的の口碑であっても、それが地方的色彩を帯びて、如何に変容したか――尤も義経伝説に於てはこれは著しくないのではあるが――又、甚だしく変容せずとも、どんな地方的口碑が、文学から生まれたかを考査してみるのも、亦文学の側からしての伝説研究の一任務である。

勿論この側の研究には、多大の不便と困難とを感ずるのであるが、先ず主な資料を求めると、その最も多くが含まれる地誌・名勝志は、京畿附近と、北國及び奥羽のものであるのは、義経伝説の内容上当然のことである。即ち『山城名勝志』『雍州府志』『兵庫名勝記』『越後名所誌』『会津風土記』『奥羽観跡聞老志』『平泉旧蹟志』『新撰陸奥風土記』等を始め、甚だ多い。特に蝦夷地に関するものには、『蝦夷談筆記』『蝦夷地風俗書上』『蝦夷志』『蝦夷随筆』『北海随筆』『北島志』等の類十数種を数え得る。蝦夷に関するものを除けば、大抵『義経記』や謡曲等から出た伝説をば、それらの書を引いて証明しようと試みたのが多いが、中には純粋にその地の口碑と認むべき興味ある資料を提供している場合もある。又これら名勝志と類を同じうする旅行記の類も、少からざる参考資料を与える。『蝦夷島漂着記』や橘南渓の『東遊記』の如き、その主なものである。

更に他の方面では、仮令取るに足らざる愚書や偽作であるとはいえ、『義経知緒記』(写本、上下二冊)『盛長私記』(写本、五一巻)も多少の参考となるし、断片的の材料や考証は天野信景の『塩尻』、志賀忍の『理齋随筆』、山本北山の『孝経棲漫筆』、伴蒿渓の『閑田耕筆』、神沢貞幹の『翁草』、高田与清の『松屋筆記』、新井白蛾の『牛馬問』等の随筆にも散見する。

以上挙げたものは、特に材料を多く含むもの、及び比較的重要なものに限った。その他のものは、必要に応じて随処に引用することとする。
 

序篇 第二部 了
 

 



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2001.12.1
2002.3.25 Hsato