島津久基著
義経伝説と文学

序編 第一部 日本に於ける武勇伝説の考察

 

 

第三章  日本に於ける武勇伝説上の中心人物
 
 

第一節 日本に於ける武勇伝説の中心時代と大成時代

日本の史上で、国民の間に武勇譚を多く発生せしむべき機会と、そしてその材料とを与えた時期が三度あった。源平の闘戦、南北朝の対立、戦国の乱世、この三つの戦乱時代は、国史上に区劃をなす重要な時期であるばかりでなく、我が武勇伝説史の上に於ても、特にその最も骨子を成した時代であった。戦争は武勇の母であり、又その自由な演武場(アリーナ)である。戦争と武勇伝説との関係の緊密さ、戦争が武勇伝説発生の最も主要な一源泉であること、それは殆ど自明の事と言ってもよいであろう。そしてこの三時代中、最も中心を成している時代は何と言っても源平時代である。後二時代よりも、歴史時代に隔ること遠く、神話的武勇伝説時代の後を承けた、伝説味豊かな史譚的武勇伝説の簇生時代であることがその理由の一である。建国以来、帝都を中心として殆ど日本全土に亘った第一回の戦乱時代であることがその理由の二である。武門興起以後、最初の大戦争の時代であることがその理由の三である。特にその武門を代表する二大豪族間の争闘時代であることがその理由の四である。後世政権を掌握した武家の、祖先発祥活動の時代であることがその理由の五である。約四百有余年の久しい遊宴・文弱の時代の末に、俄然として現出した殺伐闘諍の時代である為に、対照的に一層際立っている点が他二時代に比して著しいことがその理由の六である。そして貴族の社会から武人の社会へ、栄華と恋愛と詩歌管絃の世界から、質樸と剛健と弓馬刀槍の世界へ移ろうとする時代であることが、その理由の七である。従って、詩趣をも欠かぬ武勇があれば、色も香もなき功名もあり、美と醜との対照に風流と腕力との闘が応じ、弱と強との争は、情と意との葛藤に絡み、伝説と歴史との混融、悲劇と祝宴との交錯、哀詩と凱歌との並奏、源平時代は実に武勇伝説の淵叢で、国民的叙事詩の好題目である。花の如き平家の公達は、鬼を欺く坂東武者の刀下に王朝時代の名残の曲を歌い終り、大政入道が二十年の豪華を、一瞬に洗い去った壇の浦の潮波は、なおその夢を追う一門の末路を、結ぶも待たで消え行く水泡の上に示した。かくて我が世界的名品ともいうべきロマンティックな国民的叙事詩たる『平家物語』は生まれた。『保元』『平治』の両戦記物語は、それの序曲をなすものとも見られようし、又説明的附録とも見られよう。『義経記』に至っては又『平家』続篇の観をすらなしている。実にその叙事詩の題材と武勇伝説の主人公とに富むことは、前後ともこの時代に及ぶものを見ないのである。

全く我が国の武勇譚の大部分は、源平時代に関するものである。扇の芝の朝露、石橋山の宵闇、富士川の水鳥、倶利伽羅峠の火牛、宇治川の先陣、鴨越の坂落し、紅梅の箙、青葉の笛、扇の的、弓流し、八艘飛、堀河の夜討、その名を聞くだにも目もあやな合戦絵巻は展がり、詩趣につつまれた雄心の湧くを禁じ得ないではないか。頼政や清盛や或は義経や重忠や、将又知盛や教経や、熊谷次郎・那須与一・無官太夫・悪七兵衛、何れか我等の幼馴染の英雄達でないものがあろう。かてて加えては白河殿の夜討、待賢門の激戦、鎮西八郎の強弓、悪源太の豪勇、又皆源平時代の序幕を開くに十分というべく、吉野山の白雪、安宅関の血涙、忠信の剛、弁慶の忠、恰もこの国民的一大叙事詩篇の終を結ぶに相応はしいではないか。私はやはり源平時代を我が国の英雄時代(ヘルデンツアイト)と呼びたい。源平時代は何としても“Age of Heroes”であり、“Age of Epic”であり、又戦国時代は“Age of Chivalry”であり、“Age of Romance”である(これはカー(Ker)がその著“Epic and Romance”中で使った用語であるが、一寸面白いので借りてみたのである。)。所謂武士道の形づくられたのは、寧ろ源平時代以後の事に属し、源平時代は実にその形成に好範例を提供した時代である。若し上の称呼がピタリとしないとなら、そして英雄と豪傑との二語の間に意味の差があることを許す――支那式にむつかしく論弁せずとも、――とすれば、源平時代は英雄時代で、戦国時代は豪傑時代であるとは言われ得ようと思う。前者は氏族主義中心時代であり、伝説的、韻文的である。後者は個人主義中心時代であり、歴史的、散文的である。この二時代の中間に位する南北朝時代は、畢竟源平時代の繰り返しに過ぎない。而もそれは巳に武家時代に入ってから後の時代である為に、詩趣を減ずること著しいものがある。到底源平時代の比ではない。扇の的の話(『平家物語』巻一一、『盛衰記』巻四二)と、本間孫四郎■(みさご:舟+鳥)を射る話(『太平記』巻一六)とを比較すれば、両時代の姿が自ら判然と浮き出るであろう。源平時代が、国民的叙事詩的英雄伝説の中心なるが故を以て、仮に之を英雄時代と名づけ得るとすれば、マイエルやシモンズの如き人々が英雄伝説(ヘルデンザーゲ)の範囲を、所謂英雄時代(ヘルデンツアイト)に限ったのにも、確に一応肯定の出来る理由が存するのである。要するに、『保元』『平治』『平家』『盛衰記』の人物の活動する舞台は、最も史譚的武勇伝説の材料で満され、而も多少神話的武勇伝説の面影をも残している時代である。之を日本に於ける武勇伝説の中心時代と作すことに於て、恐らく何人も異論はあるまいと思う。後世文学に取扱われる武勇譚でこの期を背景とするものが最も多いのは、又偶この時代が、その中心時代であることを反証するものである。

もとより、斯かる武人に関する武勇伝説の発生は、源平時代に突如として始まったのではない。前章にも略説したが、武門の興起が藤氏の文弱に多大に因由することに相応じて、武勇伝説の発生を促した動機も亦既に平安朝に胚胎している。源平の祖先は、既に保元・平治の乱に先だって、武勇伝説史の上に活動しているのを観るのである。和魂漢才を誇り、三船の誉を競い、恋に溺れ仏に淫した平安貴族は、一度盗人の横行、夷賊の叛乱に際会すれば、東夷と卑む武士の力を借らざるを得ない。鬼魅の怪、狐妖の災にも亦弓矢の徳に頼らねばならない。怪盗袴垂に逢った平井保昌(『今昔物語』巻二五、第七話、『宇治拾遺物語』巻二)が、仁寿殿の東面に簷と見上げる人影におびえて、「身の候はばこそ仰せごとも承らめ」と、物も覚えず逃げ帰った粟田殿(『大鏡』巻下、大政大臣道長)であったとしたらどうであろう。平新皇の乱は、征討使忠文朝臣の下向を待つまでもなく平定した(『平家』巻五、『十訓抄』巻下、第一〇)。白河院を悩まし奉った物怪は、源氏の武将の弓の影にすら怖ぢようというのに(『古事談』第四、勇士、『宇治拾遺物語』巻四)、案山子の擬勢すら示し得ぬ申訳ばかりの弓胡■(竹+録)を負った東男は、愛しの女を鬼一口の犠に供えた後に、ただ「露とこたえて」と空しく涕泣するの他はないのである(『伊勢物語』六段)。加之、「この世をば我が世とぞ思う」と自負した藤氏の槐門も、その権栄と富貴とを恣にする唯一の手段として、他族を斥けて独り外戚の勢威を把握する為には、又有力な武士をその後楯として配下に養うを必要とした時代に於て、彼等が常に消魂する物怪を攘い鬼魅を服し、猛獣・怪賊をも屠り捕える武人が、如何に彼等に懼れられた――蔑みつつも頼もしがられすらした――かは、想像するに難くない。田村麿といい、頼光といい、頼義の如き、忠盛の如き、「さもあらん武士一人」(『著聞集』巻九)と、皇室に、卿相に、頼まれた勇将の上に、幾多の武勇の物語を伝えるのも、そして又それらの武人の多くは、源平二代族の祖先であることも寧ろ自然と言うべきである。かくて源平時代に及んで、材料の上に於て急速にその量を増し、種類も、型態も、亦内容に於ても、優に我が武勇伝説の全般を代表するに足るものが有る。そして比較的、神話的武勇伝説の文献にあらわれた著しいものが少く、代りに史譚的武勇伝説に於て頗る豊富な我が国にあっては、一層源平時代を、日本武勇伝説の中心時代と呼ぶことが至当であると思うのである。

斯く源平時代に於て我々は武勇伝説の中心時代の現出を観るのであるが、伝説の発生乃至形成の時期と、その伝説が語る内容の背景をなす時代とは、必ずしも常に一致するとは限らない。概しては発生形成は稍後れるのが自然で、次代に懐古気分を伴うに於て一段活溌となって来るものである。此処に源平時代を武勇伝説の中心時代と言うのは、発生乃至形成という側からの意味をも勿論籠めてではあるけれども、寧ろ主として伝説に語られている時代という意味でのことであるとする方が一層適切である。そしてこの中心時代を背景として語る伝説が、将、文学が盛に発生乃至形成せられた時代は、即ち武勇伝説の大成時代と呼ぶべき時代は、この後に来たのであった。

奈良朝に撰進せられた『古事記』、平安末に成った『今昔物語集』、孰れもその中にあらわれる神話・伝説は、その時代以前に成ったものと、その時代に生まれたものとを併せ含んでいる。が、仮令前代のものと雖も、多少の改容変化を蒙らないものは稀であろう。恐らく厳密には皆無であるかもしれない。この意味に於てすれば、殆どすべてその時代の所産とも言えるであろうし、少くともその時代に行われたものを集めたのである――全然当代に流布したのでないものを、他の文献から採録したのも或はあるかもしれないが、『今昔』でも「本朝之部」は先ずその頃までに行われたものを載せたと観てよいであろう――から、それらの伝説は又、その時代の伝説であると言っても過大な誤ではなかろう。こうした意味で我が武勇伝説を最も多く作り出した時代は、実に近古特に室町時代である。豊富な材料を与えた源平時代の後に、早晩斯様な時代が来ることは予想出来ようし、更に又斯様な時が来るとすれば、その中心時代の印象が正確さを漸く薄めて来、而も全然は消失せぬ内でなければならず、且、知的、個人的、進取的自覚が、伝説時代の域を脱して歴史時代に入ることを推進せしめて来た戦国時代より以前でなければならなかった。源平時代当時、既に多くの武勇譚を生んだことは疑いを容れない。而もそれが略完成した形となり、或は面貌を新にし、且一層伝説的連想を伴わしめられて、同様に新に発生した多くの伝説団と相並んで国民の間に?炙されるに至ったのは、約二百年後の事に属する。偶々室町時代の時代思潮は、正にこの武勇譚発生並びに大成の機運を、促進形成するに十分であった。

源平の争戦は、政権史の上に一転期を劃して、世は武家の代となった。東夷が雲上人を心のままに左右する時期は来た。詩歌の家は衰えて弓馬の家が独り盛である。達眼の大政治家頼朝は、覇府をその源家代代の根拠地に開いて、七百年の武門政治の基礎を確立し、平家の轍を覆むことを懼れて、王朝の貴族生活に遠ざかろうと努めた。勝利の栄光を担って得々たる者の前には、敗残の痩躯を抱いて泣く者が無ければならぬ。権勢を奪われ、富貴を奪われ、栄華を奪われた朝家の縉紳は、如何に淋しく物足りなく感じたことであろう。幕府の干渉、守護・地頭の権柄は、曽ては我が世をば望月に比して時めいた長袖者流に、如何ばかり忍び難い侮辱と見えたことであろう。鎌倉幕府の基礎愈々固くして、平安の宮廷、王代の昔を恋ふる念は、更に切を加えた。武家政治を興した源家は、僅か三代にして断えた。而も武家政治は倒れないのである。陪臣にして一天の君を遠島に遷し参らせた専横な北條氏は亡びた。而も天下は再び野州足利から起った源氏の手に移って、武家の世は依然として持続した。承久の変も、元弘の乱も、王代の昔を夢みる大宮人達の遺算から、却って自らその勢圏を狭めるの結果に終わらしめてしまった。かくて、朝廷は最早政権から永く離れねばならない。そして平安朝の華やかであった世は、最早到底到達出来ぬ理想の世界として、遙に之を憧憬するの他は無い。学問も、芸術も、敷島の道も、有職故実も、皆前代を範とするのである。何事も、今は『徒然草』の所謂「下れる世」である。「上れる世こそ、物恋ほしけれ」とは、彼等の日夕の繰言であったに違いない。近古の小説が、全然前代のそれの模倣に過ぎぬ如き、或は本歌取が盛に行われたなど、皆この時代の風潮をよく語っている。この尚古の風は、啻に斯かる旧人の社会に止まらないのである。階級的に狭く限られた貴族時代は、映って、広く国民的な時代となったが、その国民は、概ね無学の民衆である。そして修羅闘戦、忽ちにして昨日の勝利者は、今日の敗残者となる、変転定め無き走馬燈に驚かされ、次第に厭世に傾き、平和を希ひ、心の寄るべを捜め、教訓に馴致され易くなった国民である。そして殆どなお因襲的に観念的に雲上の栄貴を羨み崇め、旧古なものに何となく有難さを感ずることを棄て得ない国民である。これが支配階級として武家政治を創めた新人等は戦場での能力者でこそあれ、これ亦何れも土臭い坂東武士、弓矢取る外に芸能のない単純粗野の無風流人で、この点では一般民衆と何程の距りも無いといってよい人々である。彼等は王朝政治を破壊したとはいえ、なお前代の有難く尚ぶべきである事を知悉していた。公卿の柔弱を笑うとはいえ、なお自らの卑賤で教養の無いのとは比すべくもないその高貴さを羨まぬではなく、有職故実・学問・芸能の道にかけては、尊信の手をかざし、雲居を仰いで教を求めようとするのである。之に対して経済生活の基礎と武力とを有せぬ堂上方唯一の淋しい誇りは、その固く守って居る家々の芸道を、秘事秘伝の玉手箱の中に蔵して、愈々有難味と勿体とを附けることであった。そして一方に於ては、勃興して来た新仏教の僧侶が、有為転変の世相と殺戮血腥い弓馬人の無常観とを利して、一般民衆へは勿論、武人の間にまで弥陀の教えを説こうとする。而もその説き方は、無知無学の善男善女を聴衆とするのであるから、自然通俗的となって、愈々その耳に入り易く、こうして益々彼等の信仰迷信を助ける。尚古的であるが故に、昔の伝説が重んぜられ、無学、単純、素朴であるが故に、益々信ぜられる。公卿・武家・民衆それぞれ内容は同じではないが、何れも共通した現実不満の悩苦、自己懐疑の昏冥からは、より美しく完き幻想の世界が憧憬せられようとする。或は過去が感傷せられ、或は未来が冀望せられ、そして奇跡的超現実的な事実の出現が歓迎せられ、大衆の附和性、誇張性、広布性が更にこれに油を添える。この時代流行の「幽玄」の観念は、美意識並びに芸術的神秘と相通ずるものがあり、秘事秘伝の尊重は自ら由来談を生み、その故事来歴の説明、或は説法教訓の方便として、又さまざまの伝説が作り出される。室町時代は実に伝説発生の時代である。

この傾向はもとより鎌倉時代から次第に著しくなって来たが、室町時代に至って、その頂点に達したのを観るのである。幕府が鎌倉から京都に移され、南北両朝の合一されたのは、同時に文と武と、貴族と武士と、柔と剛との混合時代を作り出した。伝説界でも、貴族的物語と武家的説話及び民間口碑との混融時代を現出した。故にこの時代の伝説が、特にその量に於て前後に冠絶しているのと、その内容に於て、史実と共に又著しく童話的及び神話的分子をも加え、荒唐なもの、変異怪奇なもの等が増大して、伝説進展の逆転をなしたかの感があって、一層興趣に富むのは、一つには、神話時代に引続くべき口碑伝説で、教化ある貴族時代の介在によって、民間に埋もれたままにになっていたのが、初めて文字の上にあらわれて来たものも、少くないによるのであると考えられる。その上、従来既に結象し流布した諸伝説も、殆ど悉くこの時代に集大成せられ、新粧を施され、外来の諸伝説も、亦よく日本化された観がある。且すべての伝説は、大抵文学となってあらわれた事が、特に注意を逸することの出来ない現象である。そしてそれには、就中この時代の代表的文学である軍記物及び謡曲の発生・盛行が大に干与している事実、而もその事が又同時に、やはり国民一般の思想風潮が、その根柢をなしていることに起因していることを忘れてはならないのである。室町時代は伝説発生の時代であると同時に、斯様な意味で又実に伝説大成の時代であると言わねばならぬのである。そして武勇伝説も亦無論この傾向に漏れることは出来なかった。

斯かる伝説大成の時代、而も尚古的風潮の盛な時代に於て、武勇伝説の形成に当り、その材料が主としてその中心的時代である源平時代に求められるのは自ら明らかである。況や武家が一度政権を掌握するや、自らその祖先を偉ならしめ、貴からしめようとして、父祖の周囲に、種々の武勇伝説を附帯せしめて来たのは、彼等の大切な用意であり、又一方、一般国民の尊崇を集中した人物の上に起る、自然の情勢であった筈である。そして又足利尊氏に率いられた関東武士が、南朝方君臣の吉野に難を避け給うた後の京師を占拠したのは、彼等の祖先が平家を西海に走らせて、武家政治を創めたのに、何故か事情の相似た処がある。実際尊氏は、頼朝を慕い、頼朝を学んだのであった。勝利の誇りと、懐古の情を以て相似た祖先の功業に対し、之を慕い、之を賛美し、今に比べ、自己に並べて満足した室町の世は、源氏の英雄が崇拝せられなければ巳まない時代である。同時に又粗暴な武辺気質を棄てて、次第に貴族生活を喜ぶ風を示して来たこの時代に、既に『平家物語』の哀音に馴らされ、軍記物を媒として、平安時代の女性的物語文学にも接近して来た武士も国民全体も、堂上方のすなる物のあはれの生活を解し始めたこの時代に、一はその果敢ない末路に同情せられ、一はその同じく武門の一大族であることに共感せられて、平家の人々も亦この時代の文学の、絶好の題目たるを失わなかったのである。その他、田村・利仁・将門・純友を始め、上平太・俵藤太・六孫王・余五将軍の如き、或は軍記物によって親しまれ、或は口碑によってその名を知られて来た源平の祖先、若しくは源平以外の武人も、等しく懐古の情、尊崇の念に包まれて、この時代の武勇伝説界に雄飛した。が、主要な人物の多くはやはり源平の武将であることは言うまでもない。

仮に謡曲二百番を取ってみても、その修羅物の全部と、現在能の大半とは、武勇伝説を素材としたものである。又幸若舞曲四十数番、殆ど悉く武勇譚であると言っても過言ではない。御伽草子の中にも、英雄を主人公とする物語十数種を数え得る。加ふるに、軍記物の殿を為した『義経記』『曽我物語』は、実にこの時代に於ける武勇伝説を題材とする代表的作品である。室町時代の文学が如何に武勇伝説に豊富であるかは、これでも示され得ると共に、その題材が南北朝以後のものは殆ど稀で、否殆どすべて源平時代前後のものである事実は閑却せられ得ない興味ある現象である。ここにも室町時代が武勇伝説の大成時代であることが承認せられねばならぬ理拠と実証とが在る。

又この時代に於ての伝説界の英雄は、同時に軍記物中の大立物たるは勿論、そうでなくとも既に『今昔物語』等にその武名を伝えられる人々であるが、それらの人物が、如何にこの時代に至って特に活躍し、又この時代の伝説が、前代のものをも一層進展複雑化させて併せ含み、集成代表し得るかは、例えば、『今昔物語』(巻二五、第六話)に於ける頼光朝臣の功業は、僅に東三條の東宮御所の庭に眠っている狐をしとめた射術に止まっているに過ぎないのに、謡曲(『大江山』『土蜘蛛』)・御伽草子(『酒顛童子』『土蜘蛛草子』)に於ては、大江山の鬼を誅し、葛城山の土蜘蛛を斬らしめられるに至り、又秀郷の百足退治(『太平記』巻一五)と将門征伐(『将門記』『今昔』巻二五等にも見えるが、なお伝説的分子は殆どない)とは、『俵藤太物語』に更に著しく伝説化して集められている如きに観ても、その一斑は推知せられると思う。これ亦室町時代を武勇伝説の大成時代と呼ばせるに、よい証左を提示するものであろう。

そして又この時代の武勇伝説は、これを盛った文学と共に、後世江戸時代の小説・戯曲・演劇の上に、多大の影響を及ぼし、その読本・時代物の題材の本拠は、大抵一々この時代に求めることが出来る。この点からしても、亦室町時代は武勇伝説の大成時代と称し得るであろう。そして前にも触れたように、この室町時代の後を承けて、製作的な説話の方面ではあるが、前代武勇伝説の気分と内容とを摸創して武勇譚の最後の発展を試みようとしたものが、櫻井丹波少掾平正信が語った所謂金平浄瑠璃であると私は言いたいのである。『勇金平』『公平天狗問答』『公平関やぶり』『公平武者修行』等の主人公は、又実に室町時代の武者譚に於ける有力な英雄、源頼光の四天王の一人として知られる金太郎の坂田公時の子で、性格の上に於ては、伝説上に於ける九郎判官の股肱の荒法師武蔵坊弁慶を、父なる公時に加えて、打って一丸としたような人物である。その周囲に武を競う勇者等は、これ亦同じ四天王の綱・貞光等の子孫である。但しその武勇譚の内容は怪物退治・賊徒補戮・闘戦・勇力等、概ね旧套の種類乃至説話型に属するもので(大抵(に)類であるが、(ろ)類に亘るのもある)、単に極端な武勇の誇張に過ぎぬ荒唐なもののみである。公平一党でない人物を主人公とする曲も、之に准じて作られているが、又皆同巧種類、結局金平浄瑠璃の総称の下に一括せられて然るべきものである。

さて私は本邦武勇伝説史に於て、その中心時代は源平時代であり、そして大成時代は室町時代であることを説くに多くの頁を費し過ぎた。この両時代の武勇伝説の上で活躍している英雄武人は実に夥しいのであるが、その中で何人が最も絶大の人気を負って謡われ讃えられているか、中心時代の中心人物は誰か、大成時代の中心人物は誰か、という問題はかなりに我等の興味を唆るのである。否、それは興味だけでなく、それ以上に大きな意味を我々に語ろうとしている。国民英雄の最高点者として、国民の人気投票は果して何人に集められているか、それをこれから検べてみたい。


 

第二節 両時代に於ける武勇伝説の中心人物

太閤が秀吉の代名詞となり、曽呂利・一休が滑稽奇行の専売屋となったと同じく、多くの武勇伝説が、大にしては一民族の、小にしては一氏族の、祖先中の有力な史的英雄を中心としておのづからこれに凝集せられ、他のさまで有力でない人物の上に伝えられるものまでいつか吸引せられてしまうのも珍しい事ではない。先ず源平時代以前に於ける武勇伝説の主人公として著名な人々はと観ると、源平以外では、坂上田村麿・藤原秀郷・藤原保昌・安倍貞任・宗任がある。源平の祖先では、源氏に経基・満仲・頼光・頼義・義家があれば平氏に将門・貞盛・維茂・忠盛がある。陪臣では源氏の頼光の郎従、綱・公時・貞光・季武の四天王が最も知られている。源平時代となると、余りに多数で、殆ど枚挙に遑ないほどであるが、その主なものは、平家方に清盛・重盛・知盛・忠度があり、源氏方に為義・義朝・頼朝・義経・頼政・義仲があり、彼に教経・景清・実盛があれば、此に重忠・義盛・直実・高綱・景季・継信・忠信があり、僧徒には昌俊・弁慶、女流には巴御前・静御前・和泉三郎の妻があり、続いて鎌倉時代に於ては、曽我兄弟と朝夷義秀及び荏柄胤長・古郡保忠・板額女等を主な勇者とし、南北朝に入って、楠公父子・新田義貞・義顕・脇屋義助・名和長年・児島高徳・村上義光、或は畑時能・篠塚重広等の忠勇の士を加え、室町から戦国織豊の時代に亘っては又実に夥しく、所謂戦国の諸雄は大抵その主人公であるが、就中最も伝説的興趣に富む人物としては、甲越の両雄・山本勘助・豊臣秀吉・加藤清正・真田幸村・後藤基次等を挙げ得べく、江戸時代に降っては、赤穂の四十七士・荒木又右衛門・宮本武蔵等を数え得る。なお並に面白い事は、前章にも説いたが、特に中世以降、かの所謂「異国」の樊?・張良・孔明等も、齊しく「本朝」の勇将と共に、我が武勇伝説界に重んぜられ、彼等に関する伝説は殆ど日本武人のそれと選ぶ所ない程に我が国民の間に親炙せしめられた事実である。

扨以上の諸勇者の中で、各時代を通じて、何人が果して全国民の声望を最も恣にしているかという問題になると、人各々好む所必ずしも同じでないが、公平に観て先ず指を屈せられるに値する第一人者を、我等は案外容易に推挙出来るように思うのである。

『義経地獄破』という五段本(寛文元年、山本九兵衛板)の金平浄瑠璃がある。勇士の亡者連と冥府の閻王との戦争という破天荒の事件を題材とした作で、現世では幾萬の強敵も、矢玉の雨飛も物ともせぬ勇士達も、流石に地獄の責苦に悲鳴を揚げて不服を唱え、解放を叫び、終に合議の上、閻王膺懲の旗を挙げて之を討伐するという筋である。多少の諷刺も無いではなかろうが、奇抜さと可笑しみが寧ろ主になっていて、つまり精進物と魚類との戦(『魚鳥平家』)、仏と鬼との戦(『仏鬼軍』)といった類の中世以後多く戯作せられた所謂異類合戦物の系統に属する軍記物のパロディなのである。全く幼稚なチャリ浄瑠璃ではあるが、古今の武勇譚の主人公たる武将・勇士の外、強盗・追剥・刀鍛冶・卜者の類まで、伝説上の有名な者は殆ど悉く網羅し、且、在来の多くの武勇伝説をも一に集載したような観をなしている点で面白いものである。が、それよりも一層興味ある現象を私は指摘したいのである。修羅道の苦患を免れて、冥府を変じて無比安楽国と為さうが為に、地獄征伐軍を起した亡者方の猛将の顔触を見ると、

九郎太夫判官・悪源太義平・うすひの御曹司・木曽義仲・新田(しんた)義貞兄弟・楠正成・和田義盛・平山武者所・赤松殿・小松三位重盛・能登守教経・薩摩守忠度・無官太夫敦盛・平高時・相馬将門・平馬介・織田信長・田村将軍・源頼光・平三位中将重衡

という面々で、その他弁慶・朝比奈・貞光・季武・綱・金時・一人武者(保昌)・高綱・景清・浮島太夫(これは舞曲『信田』の忠臣である)・熊坂・小鍛冶の輩まで、時代の垣なく、呉越同舟、まるで武者人形の玩具函をひっくりかえしたような騒である。これらの人々は信長は別として、主に源平・南北朝の名将勇士である。流石に田村将軍・頼光及び四天王・一人武者等、王代武勇伝説の諸豪もこの中に加えられることの忘れられなかったことにも興味があるが、更に更に注意を喚起させられる一事実があるのである。それはこの地獄征伐の発頭人であり、而も大手の大将で同時に全亡者軍の総帥であるのが、九郎太夫判官義経であるということである。即ちこのいずれも天下無敵極附の勇者を以て自ら任じている点では、互に決して他に譲らぬ龍虎の猛者連を、整然と統轄指揮して一号令下に動かす総司令として、多くの名将中、地位上血統上の関係をも超えさせて義経が擬せられ、且副将軍として之を輔ける搦手の大将には小松内府重盛が配せられてあるというのは、如何にも面白いではないか。源氏では義経、平家では重盛、民衆の通俗英雄観に於ける無造作な評価は頗る徹底している。これはこの浄瑠璃の作者一個の単なる好みではない。実に中世以降の大衆常識であったのである。そして又義経と重盛との人気の高下も、上の正副の関係がおのずから示している通りであること勿論である。この曲の題名から推して、義経が全曲の主人公たるに不思議は無いが、義経を主人公とする斯のような構想を有つ一曲が構え出された傾向なり、上の事実が物語るところのものなりに関しては、偶然でない意味が含まれているのを見逃すことは出来ないのである。そして地獄討伐の勇士軍の総指揮官たる地位に据えられた義経は、同時に我が国武勇伝説界の王座を与えられている第一人者たることを証することにもなりはしないだろうか。

更に後に説くように、中世武勇譚的文学として特異の地歩を占める幸若舞曲は亦判官物によって圧倒的位置を占められている事と、又室町期に始まって江戸期に花と咲いたあの浄瑠璃の最初の題材として、先ず手が染められたのも、やはり義経伝説であったらしい事とは、これ亦同様に義経の国民的人気を語る好資料になりはしないだろうか。

而もこの国民の群を抜いての義経愛好熱は啻に過去の事のみではないのである。黒板勝美博士の『日本史談』第一篇として選ばれたのは『義経伝』ではないか。又中村孝也氏の『英俊伝』第一巻として上梓せられたのも『源九郎義経』ではないか(〔補〕近時直木三十五氏自選の全集に収められた十二巻の作中でも亦『源九郎義経』(上巻)がその第一回配本として先ず世に送り出された)。これは現に我々の触目した偽り無き事実であることを否定することが出来ない。が、「判官贔屓」という特異な諺をさえ生み出したほどの傑れた国民的英雄にとっては、古今渝らぬこの輿望を担い続けているのは、寧ろ当然過ぎることなのかもしれない。

我が武勇伝説に於て、諸勇者中最優越的地位を占める中心人物は、恐らく中心時代たる源平時代の英雄に見出されるであろうことは想測に難くないところである。『平家物語』は関東武士の功名を叙する目的からよりは、平家の公達の末路に注がれた同情の涙から生まれたものであり、其処に『平家』の詩があり生命が在る。同時に『平家』の中に謡われる源家の将士の剛勇と、目も覚めるばかりな武勳とは、やはり長く鎌倉武人に範を垂れたところであろう。彼の平家の哀史と、この源氏の勇範とを一つに併せた如き人物が若しありとすれば、最も同情と崇敬とを一身に集むべきは、もとより怪しむに足りない。そしてそれは即ち九郎判官源義経を外にしては、求め得られないのである。彼の伝奇的な一生は、応に典型的な伝説的英雄として彼を資格づけるに十分であるのみならず、義経その人の性格と運命とに於て、実にこの武勇伝説の中心時代に於ける、源氏の半面と平家の半面との兼具せしめられているのが如何にも誂えたようである。彼は源氏一般の人々に比べて、珍らしく人物野に流れず、而も藤氏・平氏のように懦弱ではなくて、俊敏剛邁軍を行る神の如くである。門地は貴族でこそなけれ、源家の正統、鎌倉の征夷大将軍の族弟であり、平氏追討の大将軍である。情の人、智の人、勇あり、義あり、驕る平家を一戦に追い落して、武家の世の現出を容易ならしめた稀代の名将が、後世武人の典型として仰がれるのも亦当然のことと言わねばならぬ。

本朝の昔を尋ぬれば、田村・利仁・将門・純友・保昌・頼光・漢の樊?・張良は武勇といえども名のみ聞きて目には見す。眼前に芸を世にほどこし、萬事の目を驚かし給ひしは、下野の左馬頭義朝の末の子、源九郎義経とて、我が朝に双びなき名将軍にておはしけり。(『義経記』巻一)

とは独り『義経記』作者の歎美の声のみにとどまらないであろう。況や幼時の逆境と、中頃の赫々たる武勲と、突如として得失地を変えた末路の悲惨との、■忽定め無き宿運の推移には、同情の眼を以て臨まぬ者は恐らくあるまい。讒奸の舌頭に身を誤まられると知りつつ、武門政治の最初の犠牲を、惜しげもなく捧げた英雄の苦衷に、何人も袂を絞らずには措かぬ。公平冷静を以て事実の探究に当るべき史家さえ、古来屡々何時しか詩人と同じ心に、源九郎の伝説的魔力に魅せられ了る理由について、毫も訝るに及ばぬのである。旭に匂う山櫻を好む日本人は、又確に九郎判官を愛する国民として矛盾せぬのである。加ふるにこの稀世の英雄に配するに、弁慶という荒くれた西塔の大法師と、静という優しい京の白拍子とを以てしている。そして父は平治の勇将左馬頭義朝、母は苦節愛児の命を全うした常磐御前である。かくて愈々義経の伝説英雄的資格の完成を助ける。

この武勇伝説の中心時代に於ける中心人物義経が、後代の伝説・文学に及ぼした影響は、真に驚くべきものがある。日本文学から義経を除き去るならば、我が国の武勇譚は如何に淋しいものとなるであろう。先ず中世の文学に就いて一瞥すると、今日伝存する幸若舞曲四十四番(〔補正〕四十八番。疑問のものをも合算すれば四十九番乃至五十一番)中最も多きを占めるものは、即ち義経物(判官物)で、十四曲乃至十六曲を数える(〔補正〕十六曲乃至十八曲、疑問のものまで含めれば約二十曲)。これに次ぐのが曽我物の七曲である。又これを謡曲に観ても、例えば現行の所謂内外二百番中最も多いのはやはり判官物で(その中には「勧進帳」(『安宅』)「起請文」(『正尊』)「願書」(『木曽』)の三読物も二つまで義経伝説が占めている)、源氏物にさえ勝ること四番である。若し二百番中の武勇譚を素材とする曲(約三十番)中に於てその比を求めれば、曽我物(四番)と、判官物(十二番)とを合して、殆どその二分の一に当る。番外前後二百番、末百番及び新百番等を加算すれば、義経物は実に三十四番の多きに上るのである。これに次ぐものは源氏物であるが、その数は曽我物(十三番)と伯仲の間にある。その他には、敦盛物・巴物等の僅に数曲を算するに過ぎないものがあるのみである。武勇譚でないものを調査しても、上に掲げた源氏物の外には、小町物・業平物が多いが、なお各々約七、八番を出ない。又『いろは名寄』『翁草』等で観れば、廃曲になって名のみ伝わっている曲目も少からずあり、此等の中にも亦曽我物・判官物・源氏物・小町物と推し得られるものが多い。偶々その今日に伝わっている曲目中にその数の最も多きを占めるものが、最もよく時好に投じ、世人の同情を集め、最もよく行われたものであることを示すと共に、此等曲目のみ伝わっているものについて検べても亦、義経物が依然として多く、曽我物が之に次いでいる(曲目だけ伝わっているものの中には、異名同曲のものもあろうが、そうした重複があると見ても、なお義経物は相当多く、恐らくやはり遙に他を超えると信ずる)。御伽草子に至っては、曽我物は一もないのに、義経物はここにも六、七種を発見する。況やこの期を代表する小説的作品として、『曽我物語』と並んで、彼の一生を物語る伝記的叙事文学『義経記』の出現を見たではないか。実際、義経は武勇伝説の大成時代に於ても亦、その中心人物なのである。そしてこの中心時代の中心人物がまた大成時代の中心人物でもあることは、屡々説いた中心時代と大成時代との関係から観て、甚だ当然の事でなければならない。義経物が武勇文学中に於て最も大量を占めるのは、江戸時代に於ても同様で、却って益々その多きを加えているように見える。浄瑠璃・歌舞伎の時代物はその最も得意の壇場である。徳川期にあってもなお国民大衆間に義経の人気が圧倒的である事は、試にこの期に流行した『和漢勇者鑑』(元文三年刊西川祐信画)、『絵本勇武鑑』(寛延二年刊同人画)、『武勇功亀鑑』(天保元年刊、十返舎一九作、勝川春英画)のような古今の武人を画き集めた所謂武者絵本を取って見ると、大抵その最も多くの分量(枚数)を占めるものは、やはり義経伝説に関係ある絵で、『勇武鑑』の如きは全二十八図の四分の一を占めているほどなのでも知られ、前に引いた『義経地獄破』が例示している所のものと全く相応じている。特にこの期も代表的な民衆娯楽の一たる歌舞伎芝居で、殆ど毎年義経物の上場を見ない年はなく、而もその都度大抵大入大当りを取って居り、就中屡々出ているのは『千本櫻』、次が『ひらがな盛衰記』であり、殊に最も盛であったのは文化文政の間で、『続歌舞伎年代記』を披くと、文化十二年、文政十一年などいう年は、殆ど隔月位の割に諸座で義経物が演ぜられているのを観るのである。

以上述べたところで、源九郎義経が我が国武勇伝説の中心時代の中心人物であって、同時に亦大成時代の中心人物であること、及び義経伝説と国文学とは極めて密接な関係を有していることが略々明らかにせられたと思う。従って彼に関する伝説・説話の数も甚だ多く、そしてそれらの諸伝説によって、武勇伝説の各種型の多くが代表せしめられ得るし、且、それらの諸伝説に於て吸引変容せられた前代の武勇譚の面影も同時に窺い得られ、更に以後の武勇譚が範を此処に取っているのも亦少くない。頼光の四天王は義経の四天王となっている。赤い公時は真黒な武蔵坊と形を変えている。鬼ヶ島に渡ったのは『保元物語』の為朝に終らず、安達ヶ原伝説の降魔の功力は武勇の色彩を帯びて船弁慶伝説と現れ、兵法伝授の説話は義経に於て完成を看、安宅の勧進帳は摸倣の後継者を続出させた。そしてそれらの伝説に取材した文学も、全体として、量に於ても質に於ても、他の英雄を主人公とする武勇譚に遙に優越している。この意味から、義経伝説を考察し、義経文学を吟味するのは、即ち日本武勇伝説を論究し、日本武勇文学を批判することにもなるのである。

唯此処に一言せねばならないのは、大成時代並びにその以後に於て、常に義経と並んで、伝説・文学の世界に馳駆する曽我兄弟のあることを忘れてはならないことである。そしてこれも亦「曽我贔屓」の諺を生んでいる。実際、曽我物は如何なる文学の種類に於ても、常に義経物に比肩しようと競い、殊に劇壇に於ては、著しくその勢力を振っている。この拮抗は『曽我物語』と『義経記』の対立によって既に発足せしめられていると言える。が、なお義経と曾我兄弟とでは、家門・地位・境遇・事業・末路及び周囲の人物に於て、著しい規模の大小があり、国民崇拝の上からしても、主要な文学上の作品の質量からしても、曽我は義経に一籌を輸せざるを得ぬ。若し路傍に嬉戯している児童等に向って、「義経と曾我兄弟と、いづれが好きか」と問うたとしたら、極めて特異の場合でない限り、天真の声は必ず言下に、国民一般の意向を代表して、私の所論を裏切らない答を与えてくれるであろうことを疑わぬ。児童は元来年少の主人公(ヒーロー)を好む。そして理窟なしに勇ましい傑れた英雄を好む。童話的な色彩にも十分に富んでいる義経伝説は、この意味でも、かなり道義臭のある曽我伝説――殊に或時代だけの道徳観念の典型化したものがその中心思想をなしている曽我伝説よりは、遙によく彼等小義経を満足せしめるのである。児童の崇拝する英雄には、少年時代の英雄としての意味と、成人の英雄としての意味とがある。義家・時宗の如き、正成・重盛の如き、或は又西郷・東郷の如き、その幼時は余り知られていない。知られていても、その崇拝される所以のものは、彼等の幼時ではなくて、大人となってからの功業にある。之に反して阿新丸や熊王丸や曽我兄弟や蘭丸の如きは、寧ろ幼年若しくは青少年として崇拝されるのである。その中では曽我が成人の一面にも踏み込んではいるが、大人の英雄という感じは薄い。楠公は多聞丸としてよりも、正成として尊まれ、阿新丸を知る者は多いが、南朝の忠臣日野大納言邦光卿の名を知るものは稀である。この間にあって、その両面の崇拝を併せ有つ代表人物は、日吉丸の豊公と、我が牛若丸の義経とであるそしてその伝説的、童話的興趣に於て、日吉丸の牛若丸に及ばざること甚だ遠い。即ち少年英雄としてと成人英雄としてと、両面に恵まれていること、この点にも亦義経伝説が日本武勇伝説を代表し得る一つの理由が存すると観られ得る。更に今一つ重要な点は、曾我兄弟は所謂大成時代の中心人物としては義経と並べ得られるのであるけれども、所謂中心時代の中心人物としては許されない。乃ち此処でも如何しても曽我は義経に譲らざるを得ないのである。

そこで私は、私の所謂中心・大成両時代の中心人物であり、その一生に亘って多くの伝説を有し、最も国民に好まれる義経を主人公とする武勇伝説の集団及びその個々を、調査検討してみることが、我が武勇伝説研究の最も捷径であり同時に究極でもあると考えたいのである。少くとも日本武勇伝説研究の最大の興味と意義とに値する好資料たり好題目たるを失わないと信ずるのである。
 

第三節  義経伝説と義経文学(判官物)

同情は文学を生む。武勇伝説の中心人物として国民の同情と敬慕とを集める義経は又、前節にも述べるように、国文学上に於ても多数の作品を生んだ主要人物である。彼に関する諸伝説は、国民の間に口碑として生きると同時に、小説・戯曲の作家によって文学の花と咲き、読まれ、語られ、謡われ、演ぜられて、我が国文学を賑わした。国文学の作品の中で、数に於て他にその比を見ない程、『源氏物語』と『萬葉集』とは多くの註釈書や研究所や摸倣や末書やを生んでいるが、それにも匹敵する形に於て多くの後世文学の源泉となったものは、義経及び曽我兄弟であることを知るならば、義経伝説と共に、義経文学の論究も、決して徒尓でないのみならず、又国文学史上の特殊の研究題目としての価値を主張していると言い得られるであろう。唯併しながら義経文学は、その数量の大である割合に、不幸にして大傑作を有せぬ点に頗る寂寥を感ずる。恰も義経の一生が、華かな中に淋しさを蔵しているにも似ている。畢竟、義経物研究の興味及び価値は、主として、個々の文学作品として観た処には無くして、その素材となった伝説の上にある。又史上の義経の性行が如何に如実に各作品に描き出されたかの点ではなくて、如何に世人の同情によって、伝説的、文学的に完全な人物となって行ったかにある。併し又義経文学が、その数量に於て優勢なのは否定すべからざる事実である。加之義経伝説は、文学化せられて、弥々国民の間に流布し、親近し、一作品が出る毎に、益々義経の上に集まる世人の同情と敬慕とは色濃きを加え、文学は伝説の糧によって生き、伝説は文学の光によって美化せられ、かくて義経は国民的英雄としての印象を我等の間に不滅ならしめる。

すべての義経文学は、多少の差はあっても、義経伝説を素材とせぬものはない。又義経伝説の研究資料は屡々そして主として義経文学の中に求めざるを得ぬ。又、義経文学から新に派生或は転生した義経伝説も相当ある。伝説が既に広義の文学である上に、伝説と文学との界線が糢糊として、或場合には殆ど同一体としてすら取扱われても可能な場合があり、又文学作品を外にしては資料が求め得られない場合も多い以上、義経伝説と義経文学との取扱はおのづから或程度まで交錯し、或程度まで重複することを免れない。そういう場合には、義経物にあっては大抵伝説価値の方が大きいのが一般と思われるから、主として伝説として論ずることとし、特に必要を感ずる場合のみ文学の側からも考察することにしたいのである。又伝説研究の資料としては、文学作品は決して無條件に採用せられ得るものでなく、寧ろ大きな危険すら包蔵している頗る面倒な資料であり、且この側の立場からは文学的傑作が却って重んぜられずして、殆ど文学価値のない作品の方が寧ろ逸してはならない場合が多い代りに、文学の側からは主として代表的作品を研究の対象とすることになるから、夥多の群小作品が取扱われぬ憾がある点についても、この両面の研究によって、大体互に相補はれ得るであろう。

序篇 第一部 了
 


 



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源義経研究

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2001.12.1
2002.3.25 Hsato