島津久基著
義経伝説と文学

序編 第一部 日本に於ける武勇伝説の考察

第二章 日本に於ける武勇伝説の展開
 

第一節 収載文献と資料の史的通観

美の国日本は又武の国日本でもある。朝日に色映える山櫻花を愛づる国民は、又その「敷島の大和心」の雄心の持主である。東海文華の誇、源氏物語を生んだ雅びに息ひ長閑けさに遊ぶ玲瓏の詩神と、「大君の御門の護り、我をおきて又人はあらじ」、縦し「海行かば水づく屍、山行かば草むす屍」と競い勇む忠烈の武魂とは、必ずしも相反するものではなくて、寧ろその根柢を通じて流れる純愛と忘我との同じ情念の異なった姿態の現れに過ぎない。高天原の霊雲の中に、「御髪を解き御角髪(みみづら)に纏かして、左右の御角髪にも御鬘(みかづら)にも左右の御手にも、各々八尺勾勾玉(やさかのまがたま)の五百津(いほつ)の御統(みすまる)の珠を纏き持たして、背(そびら)には千入(ちのり)の靭(ゆぎ)を負い、五百入の靭を附け、亦稜威(いつ)の竹靹(たかとも)を取り佩ばして、弓腹(ゆはら)振り立てて、堅庭(かたにわ)は向股(むかも)に踏みなづみ、沫雪(あわゆき)なす蹶(く)えはららかして、稜威の男建(おたけ)び踏み建び」て弟尊を待ち問い給うた、あの荘厳にして崇高の極みと申すべき大御神の御尊容、和やかな慈しみに溢れて優に美しくましつつも、而も猛く雄々しく一際艶に耀しく拝せられる御姿に、象徴せられている島帝国日本其処こそは、地上の楽土、物語に聞くような黄金の島とマルコポーロによって教えられていた五穀豊けく人情濃やかな豊葦原瑞穂の国であるばかりでなく、又実に妖魔も懼れ悪鬼も戦くマルスの神、オーディンの神の力を以てしても勝ち難い、勇武宇内に冠絶した細弋千足(くはしほこちたる)の国であったことを知った全世界が、今更の如く驚異の眼を向けて、曽ての蓬莢の平和境の印象は忘却したかのように、挙って好戦国視して来たのは如何にも笑止ではあるまいか。平和を愛すればこそ、か弱い腕にまでも剣を執って起つのではないか。正義を唱ふればこそ、眠れる子羊も奮然と獅虎の怒を発するのではないか。畏き大御神の御威容は、まさに我が国家の存立を脅さんとするものあるに際しての、日本が凛乎として世界に示す儼たる自衛の武装さながらであることを世界は牢記すべきである。日本の勇武は今にして始まったのではない。鴻毛よりも軽しとした死は、中世武士のみの標識ではなくて、「大君の辺にこそ」と誓言して、「顧みなくて、醜の御楯と出で立つ」己れ自らに、喜と誇と誉とを見出した遠つ世の昔からであった。花鳥風月を詠め娯しむこと渾円球上に最たる国民の有する三千年の歴史の頁が、さても亦夥しい武勇譚の種々(くさぐさ)に彩られているのを奇しむには当らないのである。

上代の武勇伝説の資料としては、主として『古事記』を挙ぐべきは勿論である。もとより猶神話的武勇伝説の域にあるものが主として発生した時代の所産である。『書紀』の中にも同様に含まれている。勇武尊皇の精神は熱烈に高唱せられてあるけれども、武勇伝説を題材とした叙事詩的作品は、『萬葉』には著しいものがないようである。奈良・平安両朝はこの種の材料に最も乏しい時代であるが、なお六国史等の史籍等に折々は散見するものがあり、而も平安末期からは、漸次、鬼神の迷信、盗賊の横行等の結果、常に武人に頼らざるを得ざる文弱な宮廷貴族と無知な庶民等はおのづから必然に幾多の武勇譚を発生せしめて来、その記録は『今昔物語』(主として巻二五、その他二三・二七・二九等の巻々にも)『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古今著聞集』(巻九の第一二、武勇、第一三、弓箭、巻一〇の第一四、馬芸、第一五、相撲強力、巻一七の第二七、変化)『古事談』(第四、勇士)等に求め得られる(これらの中には相当実話もあり、伝説的興味は少いものもあるが)。かくて源平二大族興起対立以後は、資料頗る豊富となり、――その多くが史譚的武勇伝説であることは言うまでもない――全篇武勇譚を以て終始する叙事詩的作品、即ち『保元』『平治』『平家』『盛衰記』、稍後れて『太平記』等の軍記物となって現れ、鎌倉・室町に亘って源平の武将は大抵武勇伝説の主人公として、国民文学の上に活躍し、『曽我物語』『義経記』が生まれるに及んで、戦史的叙事詩は個人的英雄譚に移って、武勇伝説の歴史小説化と共に他面又それの劇詩的転化の傾向を示し、更に舞曲に謡曲に或は御伽草子に向えば、国民的英雄を謡うもの語るもの、殆ど応接に遑なからしめようとする。前代以来の口碑で、未だ文学として筆にのぼせられなかったものが、先を争うかの如くに文学粧を施されて続続と台頭して来たのもこの時代である。羅生門伝説・土蜘蛛伝説・戸隠伝説・橋弁慶伝説・安宅伝説等、今日人口に■炙する殆どすべてに近い武勇譚は、大抵この時代に形成せられたものであるという事実が、又最もよくこの期の情勢を説明してくれるであろう。戦国時代を経ては、伝説的興味のある新材料は次第に減少したが、なお軍記物の流れを受け、且記録の体を学んだ実録物の中に、若しくは戦国の群雄猛士の生活行動を断片的に記述した雑話・随筆等の中に、或は歴史小説的物語として録せられ、或は逸話として伝えられている。『信長記』『太閤記』或は『常山紀談』『武功雑記』等の類に於ける即ちそれである。そして近古と近世との武勇譚の間に介在して、これが連繋の役目を勤めているのは、豪宕蛮勇を旨とした、かの金平浄瑠璃であると言わねばなるまい。尤もそれは伝説味よりは仮作的な成分の方が濃いものが多いのではあるが。

三百年の昌平を持続した江戸時代にあっては、中世に観るような典型的な武人譚は殆ど全く欠如しているのは巳むを得ないばかりでなく、又実にこの時代は、既に空想味豊かな伝説時代を離脱して、科学的唯物的な歴史時代へと歩みを進めて来た時代でもある。併しその代りに、この期とてもなお前代の武勇伝説は諸種の文学的素材として却って盛に利用せられ、特に小説に於ては読本にその安住の地を見出し、戯曲演劇に於ては時代物の骨子となって永く国民の間に生きている。『弓張月』や『巡島記』や『千本櫻』や『嫩軍記』や、一々その名を列挙するの煩に堪えない。又前代の各伝説はそれぞれ地方的色彩を帯びて、この時代に盛に現れた地誌・名勝志の類に収められた。而も概して曽て文学として作られたものから継承せられ、或は派生した口碑を、重ねて記録したという程度のものが多きを占めているようである。

さてこれら各時代の武勇伝説の資料を史的に通観してみると、その展開の段階は印度ゲルマン民族の場合と殆ど軌を一にしている観がある。即ち神話的武勇伝説に始まって史譚的武勇伝説へと移って行き、説話の主人公は神人英雄が漸次史人英雄と転換せられて来る度を増大して来ているのは言うまでもなく、彼我の事情は勿論全然同じではないのであるけれども、武門の興起、源平の闘諍は忽如として華々しい英雄時代を現出して、武勇伝説の中心時代を形成し、尓後新材料は漸減して、やがて殆ど跡を断つに至ったのも、欧洲の英雄時代(ヘルデンツアイト)に比べることが出来る。後世文学にその題材を提供したことの最も多いのはやはりこの時代であるのも似通っている。唯、西歐の英雄時代(ヘルデンツアイト)の来たのは我よりも約五世紀も早く、そして武勇譚的叙事詩の全盛時は十三世紀前後に彼我略々期を同じうして史上に現れたのは面白い現象であるが、日本に於て英雄時代の伝説が文学として大成せられたのをその時期とするは当らず、それよりは稍後れて、西歐ではヘルデンザーゲが漸く衰え初めて来た十四世紀前後に至って、寧ろ伝説大成の時代が来たということは、又対比の興味が無くはない。兎に角、優柔な貴族によって支配せられた王朝時代が武勇拒否の時期として我が武勇伝説史に罅隙を与えたのと、無学平俗で而も尚古気分と英雄熱との瀰漫していた大衆的な室町時代が武人台頭の後に待受けていたこととは、日本武勇伝説の展開史に於て逸目を許さぬ著しい現象である。
 

第二節 類別と史的発展の四階程
 

以上極めて概括的に一瞥したのであるが、なお少しく具体的に実例に就いて考察してみよう。上古は既に述べた如く神話的武勇伝説の時代である。我が国の神話的武勇伝説の純粋なものは比較的少いのであるが、その中での最も代表的なものは素盞鳴尊の八岐大蛇退治(『古事記』上巻・『書紀』巻一)の神話である。ヴントの示した分類では所謂神話的英雄伝説の第一種に相当するもので、これをゲルマン民族のベオウルフ(Beowulf)伝説と比べてみると面白い。年毎に来ては犠の八人の少女を奪り喫ふ八頭の怪蛇は、深夜に王宮を荒して数千の武士を捕らえ食う半人半鬼の怪物グレンデル(Grendel)に当り、又素尊が櫛稲田姫を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に取り化(な)し、御角髪に刺して大蛇を待たれるのは、前章に述べた魔術と怪異を特色とする神話的英雄伝説(ミテイシエヘルデンザーゲ)の一般的性質をよく示している。ヴントはこれの第一種型をその代表的な伝説の名に因んでヘラクレス型と呼んでいるが、私は寧ろこれに素尊大蛇退治型、或は略して大蛇退治型と命名して怪物退治型勇者譚の典型としたい。又この特称と共に、この種のものの汎称としては、上の怪物退治型或は怪物退治説話(この方は少し通俗的に堕する嫌はあるが、特殊の型式を具えぬものまで総括し得る便宜がある)という称呼を用いる方が剴切な場合があろうと思う。

〔補〕この説話型はS.Baring-Gouldの分類の中ではアンドロメダ型(Andromeda type)に恰当する。これは

(1) 犠牲少女を貪り喫ふ怪蛇の災害
(2) 国王の愛姫の上に迫る人身御供の厄難
(3) 英雄の怪蛇退治・姫との結婚

という各條件が主要の点に於て略々全く我が素尊の場合と一致する。ヴントのヘラクレス型よりは一段と適切で且内容の明確な称呼と言ってよいであろう。大蛇退治型乃至怪物退治型の称呼は愈々不当でないと信ずる。又、ヴントのヘラクレス型の名も、彼の分類に依る第一種型の総括的称呼としては頗る重宝で、棄て難い所があり、怪物退治型も畢竟その中の一特殊型なのである。

神話的武勇伝説中の同じ怪物退治型に属するもので(特称としての大蛇退治型としては呼び得ないが)、更にその内容が複雑となり、多くの功業が結び付けられているものは日本武尊に関する武勇譚(『古事記』中巻・『書紀』巻七)である。熊襲誅伐(これが大蛇退治神話の転化としても観られ得ることは後に述べる)及び東夷平定(以上二つは個々としては史譚的武勇伝説であるが)の他、山神・河神・宍戸の神をも威服し、白鹿と化して現れた足柄坂の神を蒜の片端で打殺し給うなどの挿話に富み、最後に白猪(『書紀』には大蛇)に化した胆吹(いぶき)山の神に遇って病を獲給うたのは、ベオウルフの最期にも比すべきであろう。私は大蛇退治型のような生贄のモーティフを含まぬ、単なる怪物退治譚の一個又は数個が同一英雄に結びつけられて語られてあるものを日本武尊型或は広く鬼神(或は変化)退治型と呼びたい(大蛇退治も畢竟変化退治であるけれども、それは特殊の型のものであるから別に一型として置きたい)。

ヴントの分類の第二種に相当するのは、天孫降臨神話の一節としての国土奉還に関連する建御雷・建御名方両神の力競説話(『古事記』上巻)などであろう。国土奉還の勤説使派遣に関しての天若日子の事件、高比売(『紀』一書の「或云」には下照媛)の詠歌等の挿話が含まれながら、中心指標に向って説話は進められている。唯、全体から観て建御雷神が最も中心をなす英雄神というのではないけれども、全事件の解決を与える最も重要な役割を勤める神である。なお単に両神の力競という側からだけ言っても、力競型の説話として取扱い得られ(技競・術競・宝競等と同類のものである)、競武型或は闘戦型の説話とも呼んでよいであろうし、汎称としては競勇型勇者譚と呼ぶが妥当で、特に武人時代の一騎打説話の先縦をなす神話的武勇伝説である。神話味の多分にあるという点に即して観るならば、神武天皇東征(『記』中巻・『紀』巻三)・神功皇后三韓征伐(『記』中巻・『紀』巻九)等の史的事件も、この種のものとしても目せられ得るであろうが、史実が濃厚な度合で核髄を形成している点からはヴントの史譚的英雄伝説の第二種に応ずると観る方が当るであろうし、少くとも神話に准ずる史譚的伝説として取扱うのが最も穏当であろうけれど、形成の時代並びに全説話の形相と色調の上からは、やはり神話的英雄伝説の第二種に近いものと観るべきであろう(これらは併し史実として取扱うべき事件であることは勿論であるが、武勇伝説史の側から眺められ得る限りに於てのことである)。

更に史譚的英雄伝説の第一種に相当するものの例としては山中鹿之介生立伝説(『尼子十勇士伝』)、或は義経島渡伝説(『御曹司島渡り』)を、又第二種の例としては曽我伝説を挙げるならば、ヴントの英雄伝説の二大別四分類のそれぞれに相応ずる我が武勇伝説史上の実例を配し得たことになる。鹿之介生立は後に説くように金太郎童話と同型のもの、又、島渡伝説は実は勇者求婚神話(我が神話では大国主神根国行神話がこれに該当する)の変形でもあり、ガリヴァー型巡島説話をも含んでい、それから曾我伝説は敵討説話で、且史実の根拠が明白であるけれども、説話の形態――曾我伝説を形成している個々の説話としてでなく、全体としての曾我伝説の形態だけから言えば、却ってヴントの神話的英雄伝説の第二種の條件に似たものをも具えている。

が、以上は大体に於て我が武勇伝説の展開並びに分類も、西歐のそれと甚だしい相違を示してはいない――従ってヴントの試みた分類法に適合する例証をも、甚だしい困惑なしに拾い出し得るということを証示しただけのことで、ヴントの分類が本邦武勇伝説の分類法としても最も理想的であると認めようとしているのではないのである。ヴントと雖も極めて概論的に取扱っているからこそ比較的簡易に総括することが出来たので、個々のヘルデンザーゲを検討してその部属を定めることになれば、恐らく頗る煩労に悩まされるに違いないことは容易に想像が出来る。それは伝説本来の性質が然らしめるのであるが、国情と個個の説話の結象の実際が必ずしも欧州のと同じでない日本の武勇伝説の分類は、強いてヴント式に倣うことをおのずから沮ませる。但し、概論としてはヴントの考え方が妥当と思われるから、私はそれを参考して、別に自分の見解を交えて大略の分類を本邦武勇伝説の上に試みてみようと思う。

既に今まで使った用語もあるが、改めてヴントのそれと対比してみると、ヴントは

神話的英雄伝説 第一種/第二種 ……… 史譚的英雄伝説 第一種/第二種

と分けているに対して、私は基本的の類別としては

神話的武勇伝説 (い)神話的武勇伝説 例 素尊大蛇退治神話/(ろ)准神話的武勇伝説 例 俵藤太百足退治伝説

史譚的武勇伝説 (は)史譚的武勇伝説 例 朝夷門破伝説/(に)准史譚的武勇伝説 例 (イ)あきみち敵討伝説/(ロ)朝夷島渡伝説/(ハ)小太郎身替説話(寺子屋)

と分類し、且その発展の階程から観てはこれを

(い)神話的→(ろ)准神話的→(に)准史譚的→(は)史譚的

という順序に置きたいのである。この四つの段階は、ヴントの

神話的第一種→神話的第二種→史譚的第一種→史譚的第二種

に似て且大略それぞれに相応ずる如きものではあるが、必ずしも同じではない(例えば准神話的というのがヴントの神話的第二種と全く一致するのではない)。神話から神話味(神話的成分)が漸減するに随って、史実味(史実的成分)が漸増して行く階程を示しているのではあるが、明らかに史上英雄に結びついていても説話の内容が歴史よりは神話に近接しているものは准神話的の中に含ませ、又准史譚的の中には未だ史譚的な段階にまで発展しない程度のもの(あきみち敵討伝説の如き)は勿論、却って一度史譚的になったものから再び史実味が稀薄になったもの(朝夷島渡伝説の如き)や、浄瑠璃の寺子屋説話の如き史譚に類模した稗史小説的説話をも含ませよう(同じ身替説話でも村上義光の大塔宮身替は史譚的の方である)と思うのである。前の場合は謂はば主人公を神話英雄から史上英雄に置き換えたに過ぎないものであり、又後の場合は後二者共いずれも史譚的な段階にまで発展しないものと、成文の上からは差等が無いからである。即ち斯様に発達の逆転することもあり、又先に説いたようにヴントの神話的第二種の條件を形の上で具えた曾我伝説のようなものが史譚的武勇伝説時代に発生して而もその代表をなしていることもあり、義経伝説に於て全体としては史譚的であるけれども、その中の島渡伝説の如きは准神話的であるようなのもあり、個々の実例に就いて観れば、各々を形づくる成文の配合の度合如何によるのと、又後に述べるような説話の成長及び播布の現象がある為に、愈々複雑錯綜を極めているので、四類別の称呼を単一的には与え得ず、二種を重ね用いねばならぬものもあり、簡単に片附けてはしまえない場合がちである。唯、大体に於て、原則として(い)→(ろ)→(に)→(は)の形で発展の道を辿っていると言うことは出来る。そしてこれを更に簡約すれば

(A)神話的武勇伝説時代→(B)史譚的武勇伝説時代

ということになるのではあるが、(A)時代には(い)(ろ)の二種類だけしか含まれ得ない代りに、(B)時代には(に)(は)は勿論、(い)(ろ)の伝承流布((B)時代的に変容したものは暫く措くとして)或は(ろ)の発生をすら併せ許して、それらをまでも含むことも可能であるから、(B)時代は四種共に行われる時代と観なければならない。そして(に)(は)が中心を成す時代であることは断るまでもない。

そして

神話時代――神話発生から歴史と融化したままで伝承せられた時代。神代から奈良朝頃まで → 伝説時代――歴史がなお伝説と相半ばして記録せられた時代。平安期から鎌倉・室町時代まで → 歴史時代――伝説味が稀薄となり歴史と伝説が分化して来た時代。戦国時代以後

という観方(この観方は主として説話中心の立場から観たので、普通の文化史的時代区分からの原史時代と歴史時代という分け方に必ずしも一致してはいない)が許されるとすれば(その場合でも、神話時代にも伝説は神話と錯綜して存在し、歴史時代にも伝説は発生流布して屡々史伝に混化している現象を閑却することは出来ないが)、我が武勇伝説の展開は次表によって簡略に示し得られるであろう。

(A) (い)素尊大蛇退治――――奈良朝以前 (神話時代)
 |    (ろ)猿神退治――――――中古    (伝説時代)
 ↓                       | 
(B) (ろ)義経島渡り―――――近古      |
    (に)山口秋道敵討伝説――近古      |
    (は)曾我伝説――――――近古      ↓
       /伊賀越仇討伝説――近世    (歴史時代)
    (に)朝夷島渡り―――――近世    
    (に)寺子屋説話―――――近世
 

第三節 我が武勇伝説の主要な説話型とその典型伝説

我が武勇伝説の展開を史的に概括的に縦観した所は以上の如くであるが、更に性質・型態の側から横に考察類別してもみる必要がある。性質上の大略の分類は前節に既に触れた(い)神話的(ろ)准神話的(は)史譚的(に)准史譚的の四類を、それぞれ単一的或は複合的に用いればよいのであるが、それと共に、如何なる武勇伝説も(一)主人公中心(二)事件中心のいずれかでないものはない。概して(一)は(二)よりも神話に近い英雄譚的傾向のもの、又(二)は主として戦争或は敵討等が主題になっているのが普通である。が、中には(一)と(二)との中間に位し、或は両者に跨っているような場合もあることは、(い)と(ろ)、(ろ)と(に)、(に)と(は)と、それぞれの限界に位置している如きものがあると同様に、分類を煩瑣ならしめるのである。

型態の方面からの分類も頗る煩雑な問題を含み、例えば同一の本拠から転化或は派生して、やはり原型を略々留めていることもあれば、全く異なった型をつくり出すこともあり、又、完型が崩れることもあれば、未完型のままで結象することもあり、他の型と合体することもあり、或は特殊の型態を成さぬ場合もあり、全く千様萬態で、すべての伝説を型態によって類別することは甚だ困難で、到底満足な成果が獲られない――そしてこれは武勇伝説だけに限ったことでなく、すべての説話がそうなのであるけれども――が、実例を掲げて主な説話型を列挙してみよう。

神話的武勇伝説の例示は前節で足りると思うので、繰返すことをせずに、本節では他の三種に就いて述べることにする。

先ず第一は前節に説いた大蛇退治型である。中古以後、大蛇退治神話の流れを引く怪物退治型勇者譚は実に夥しく発生したが、併し大蛇退治型の完形を具えたものは寧ろ少く、却ってこれは民間口碑の人身御供伝説として、或は剱士の武者修行談の一挿話としての形に遺存する場合が多い。美作国の猟師の猿神退治(『今昔』巻二六、第七話、『宇治拾遺』巻一〇)、飛騨国の男の猿神退治(『今昔』巻二六、第八話)、近江国の狩人平次の猿神退治(『藤袋草子』)、駿河国矢奈比売神社の行事由来(同国見付町の口碑)等の一類(これが又猿神退治型と呼んでもよい一の説話型をなしている。この種の民間口碑で最も代表的なのは信濃の義犬早太郎の伝説(上伊那郡赤穂村光善寺の口碑)である)、これが前者の例で、講談の岩見重太郎・宮本武蔵の狒々退治・大蛇退治などは後者の例(形の崩れている場合が多いが)である。後のは先ず仮作物語に属する方であろうが、同じく江戸時代の読本・草双紙類の勇者の上にも、軍将として戦功を立てる以前、所謂試錬時代には、大抵一つ二つこの手柄が負わされているなどいうのは珍しい事ではない。『巡島記』の朝夷義秀、『侠客伝』の達小六等皆それである。猿神退治でも原神話とは余程違っては来ているが、兎も角大蛇退治型の変種で、(ろ)類の准神話的武勇伝説として取扱われ得るであろう。

〔補〕退治者に英雄的な面影が無くて、動物のみが主になっていたり、或は生贄でも信仰などで神助がある――御伽草子『さよ姫』はその例――などの場合は、この型に交渉はあるが武勇伝説としては除外せられねばならない)。

次に日本武尊型のものでは、近古の武勇伝説中からは田村麿の悪鬼退治(『田村草子』『鈴鹿草子』『立鳥帽子』謡曲『田村』等)を挙げ得られる。それの更に単純なものには戸隠伝説、即ち平維茂の悪鬼退治(謡曲『紅葉狩』〔補〕『戸隠山絵巻』)がある。土蜘蛛退治(『土蜘蛛草子』謡曲『土蜘蛛』)もこの型に属せしめてよいが、一面、宝剣説話でもある。同じ頼光に関する一層有名な大江山伝説(『大江山絵詞』『伊吹山絵詞』御伽『酒顛童子』謡曲『大江山』等)も大蛇退治型と日本武尊型との混融して新容をなしたものと解釈出来るが、大蛇退治型の純粋な形ではないから、仮にこの型に属せしめて置くことにする。いずれも史人英雄の人文的功業を語るものであるが、性質の上からは(ろ)類と看てよいと思われる。日本武尊型の特称が少し偏倚し過ぎる嫌があるから、私は普通にはこの型を鬼神(変化)退治型と呼ぼうと思う。

この他に怪物退治型勇者譚中には、俵藤太型と名づけたい秀郷百足退治即ち三上山伝説(『太平記』巻一五、『俵藤太物語』巻上、謡曲『引鐘』同『百足』等)、及び粟津冠者の大蛇退治伝説(『古事談』第五)(この型も大蛇退治神話から脱化して来ているが)、鵺退治型と名づけたい頼政鵺退治伝説(『平家物語』巻四、『盛衰記』巻一六、『太平記』巻二一、『十訓抄』巻下、第一〇、謡曲『鵺』同『現在鵺』等)、清盛化鼠退治伝説(『盛衰記』巻一)、隠岐広有怪鳥退治伝説(『太平記』巻一二)、源義朝変化退治伝説(幸若舞曲『伏見常磐』)等(この二つの型は又武術(義朝を除いて、特に弓術)説話でもある)、羅生門型と名づけたい羅生門伝説(謡曲『羅生門』御伽『酒顛童子』、『太平記』巻三二。〔補〕御伽『羅生門』)、戻橋伝説(『平家』剣巻)等(これも宝剣説話である場合が多い)がある。これらも亦史人英雄の功業として語られてあるが、性質から言えば、すべて(ろ)類の伝説である。

なお降魔攘妖ということに関連して、この怪物退治型に附帯し或はそれから派生した説話に、武器の威徳を説くもの(特に宝剣説話が多いことは前に挙げた例でも知られるであろう)があり、降魔の法力や神呪・神符等の効力乃至神仏の冥助を併せて説くものがある。草薙剣の霊験伝説(『古事記』中巻)、白河院御悩に際しての義家の献弓(『古事談』第四)、鬼丸・蜘蛛切の宝剣を座右から遠ざけた為、義家が病魔に苦しめられる話(『前太平記』巻三六)等は前者の例(稲村ヶ崎の義貞太刀流し伝説(『太平記』巻一〇)は史譚的であると同時に、降魔ではないが、宝剣の威徳・奇瑞を説く准神話的の説話である点では同種のものである)、船弁慶伝説(謡曲『船弁慶』舞曲『四国落』同『笈さがし』)の如きは後者の例で、すべて(ろ)類のものである。尤もこの後者の方は純粋の意味の武勇伝説とは言えないであろうし、安達ヶ原伝説(謡曲『安達原』)、殺生石伝説(謡曲『殺生石』)(玄翁和尚の場合を指す。三浦介・上野介の狐狩の方は変化退治型の武勇伝説として取扱うべきは言うまでもない)等と同様の法力説話で、寧ろ宗教伝説乃至高僧譚の部属に入るべきものであるが(そして又、孝子・忠臣等に神仏の加護がある説話の如きは寧ろ霊験譚である)、唯その法力の霊威を顕す人物が偶々武勇伝説中の典型的な英雄僧である為、特に弁慶の場合の如きは史譚的武勇伝説なる義経伝説圏の一説話としても取扱われねばならないから、此処に挙げてみたのである。而もその原形たる弓術を以て悪霊を譲ふ形(『義経記』巻四)に至っては明らかに准神話的武勇伝説である。且、安達ヶ原伝説に於ける東光坊祐慶、殺生石伝説に於ける玄翁和尚、いずれも怪物退治の高僧は又一種の英雄僧としての面影を具えているのが通則で、その意味からやはり一種の英雄譚的法力説話と目することも可能で、従ってこの怪物退治型勇者譚の准神話的な一特殊型降魔型としても取扱い得ると思う。又、魔術・怪異という点に関係を有ちつつ、説話型として特殊なものでないまでも、神話的武勇伝説の流れを承け、且法力説話の系統をも継いでいるものもある。児雷也の蝦蟇の妖術(『児雷也豪傑譚』)や天竺徳兵衛のそれ(操『天竺徳兵衛』歌舞伎『天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)』)の如き、上のような意味の神人的面影を遺存する准神話的・准史譚的説話と目することが出来よう。

それから怪物退治型の系統に属する伝説で、史譚的の時代に結象したものには、最早神話味は殆ど消失して、単なる猛獣或は盗賊捕戮の現実的な物譚(ものがたり)が幾分誇張された形で語られているに止まる如きものが多い。仁田忠常刺猪の武功譚(『曾我物語』巻八)や鬼同丸伝説(『古今著聞集』巻九、第一二)はそれで、いずれも(は)類の史譚的武勇伝説として取扱わるべきものであろう(鬼同丸伝説の如き、神話的分子が些か残留してはいるが)。

次に怪物退治に類し、或は時にはこれに連結せられてもいるものに冒険譚がある。その中での特殊な説話型は一は陸上冒険の怪窟探検型で、これには仁田忠常の富士人穴探険(『富士人穴草子』謡曲『人穴』)、荏柄胤長の富士人穴探険(『富士人穴草子』)、甲賀三郎の怪洞探検(『諏訪の本地』)があり、今一は海上冒険の巡島型(ガリヴァー型)で、これには為朝鬼ヶ島渡(『保元物語』巻三、狂言『首引』。但しこの原形では未だ完型ではないが)、朝夷島巡(金平本『朝夷島渡り』(これもこの原形では完型でないが)、黄表紙『朝夷島めぐり』)、義経島渡(『御曹司島渡り』)がある。最後のものだけは前にも言及したように、勇者求婚神話型でもあって(ろ)類の伝説であるが、その他は(は)類のものである。但し、朝夷島巡は進展した後の形は准史譚的((に)類)への逆転と目せられ得るし、その進展の過程にあると観るべき、金平本『朝夷島渡り』に現れた朝夷の渡島は又、鬼神退治型の准神話的武勇伝説即ち(ろ)類であり、又甲賀三郎の怪洞探険は未だ史譚的((は)類)にまで発展しない類の准史譚的((に)類)探険説話で且鬼神退治型の准神話的武勇伝説((ろ)類)である(この伝説は又末子成功説話でもあり、大国主神話と類型をなしている)。そして又この甲賀三郎の冒険譚と、忠常の人穴探険とは勇者地獄巡型をも形成してい、これに属するものには他に義経の地獄極楽廻(『天狗の内裏』)があり、その観点からは(ろ)類の武勇伝説であると同時に、宗教伝説にも跨っている。

英雄出生乃至立譚も著しく神話的成分と空想的特に童話的要素とが濃く、概して(ろ)類のものとして取扱うべきものであるが、これには弁慶の誕生(『義経記』巻三、『弁慶物語』巻上、〔補〕古浄瑠璃『弁慶誕生記』)のような出生児の怪奇を説く、所謂鬼子の誕生を語る型――鬼若丸型と呼びたい――と、文覚の誕生(『盛衰記』巻一八)、多聞丸の誕生(『太平記』巻三)、日吉丸の誕生(『太閤記』巻一)のように夢想の奇瑞がある型――日吉丸と呼びたい。弁慶の誕生もこの夢想受胎の点から言えばこれと同型である。なおこの型は申子モーティフを含むことが多い――と、山中鹿之介の生立のような動物伝育型の変種――私は金太郎型と名づけている。これの純粋な型で且誕生に関連する場合は棄子モーティフを含むことが多く、弁慶の場合はこれにも共通点を有している――とがある。生立にはこれも鬼若丸・日吉丸・牛若丸のように稚児として寺へ上せられながら、乱暴を好み、或は武技にのみ没頭して一山に持て余される型((は)類)もある――これも鬼若丸型の生立と呼んで誕生に附帯しても取扱い得られ、又或は分離して取扱う方がよい場合もあろう。なおこの種の説話には今一つ卵生(朝鮮説話に特にその流布を観る)或は植物胎生のような桃太郎型もあり得るが、我が史人英雄の上にはその適例に乏しいようである。又非凡の英雄児の出生・系譜は屡々神婚或は怪婚説話と結合している。外国特に支那には珍らしくないが、我が国では三輪山型の怪婚説話と合体していて、蛇神の後裔たることを説く緒方惟義の家系に関する伝説(『平家』巻八、『盛衰記』巻二三、謡曲『小環』)はその好例証である。神や動物の子という意味は申子の祈願の有無に関せず、夢想受胎乃至卵生説話等にも結びついていることが多い。

出生・生立に対して英雄最期乃至終焉譚がある。これは前の種類のものほど童話味は濃くは無いが、代りに史的空間つまり伝説味が多分で、それに神話的成分が加わる場合が多い。英雄最期譚としては、古くは日本武尊の御最期があり、武人興起以後は枚挙に遑ない程夥しいが、村上義光(『太平記』巻七)や佐藤忠信(『義経記』巻六)の立腹、武蔵有国(『平家』巻七)や弁慶(『義経記』巻八、舞曲『高館』)の立死などの特殊な型もある。大体皆(は)類に属する。英雄の終焉が死滅の形で語られない類のものには、『弓張月』(残編、巻五)の為朝のような昇天型(これは生きながら昇天して神仙となるという型である)、これに准ずる型、即ち常陸坊海尊のような化仙型(必ずしも昇天せずとも神仙に化するので、『八犬伝』の八犬士もそれであり、武人英雄ではないが藤原藤房の化仙――『吉野拾遺』(上巻)の遁世隠棲伝説が進展した――も種類である)、それに生脱型(その又最後には普通の死が来るのも当然あり得るが、説話型としてはそれは主要な重点ではない)がある。英雄生脱説話の称呼は志田義秀氏の使用(「東亜の光」第九巻第六号「死せずとせらるる英雄に就て」)を踏襲したのであるが、不遇の英雄の末路に関して生成せられて来る説話型で、為朝・義経等の上に伝えられるのがそれで、朝夷の高麗国渡伝説(『本朝神社考』『続本朝通鑑』巻八七)もその一例である。昇天型と化仙型は(ろ)類、生脱型は概して(は)類なのが普通である(昇天と化仙は英雄譚でなくてもある)。

なお英雄の生死に関係したものでは、英雄回生説話、英雄再誕説話がある。共に(ろ)類に属せしめてよいであろう。前者は神仏の助力や霊薬・奇法等に由る奇蹟が多く、大国主神回生神話(『古事記』上巻)、児雷也夫妻回生説話(『児雷也豪傑譚』三九・四〇編)等はその例であり、後者は仏教の輪廻説に関係しているのが一般で、北條時政の時政(じせい)法師再誕伝説(『太平記』巻五)、武田信玄の曾我五郎再生伝説(『広益俗説弁』後編巻三、士庶)等を例示することが出来る。又これらと種類を成すもので、源義経の毘沙門天化身伝説(『御曹司島渡り』)、北條義時の八幡化身伝説(『俗説弁』後編巻三、士庶)の如き本地説に基づく神仏化現説話、平知盛の怨霊伝説(謡曲『船弁慶』)、楠正成の怨霊伝説(『太平記』巻二三、大森彦七事)、新田義興の怨霊伝説(同巻三三)の如き英雄怨念説話――義興の矢口渡伝説のように、縁起伝説(この場合は新田大明神の縁起である)を形成することがある――もある。亦共に(ろ)類の説話である(回生・再誕・化現・怨念の各説話は、いずれも英雄だけのものでないこと勿論であるが、それが英雄を主人公とする限り、武勇伝説でもなければならない。

次に力競型(単に強力(膂力)説話としても看られ得るのであるが)で、両建神の力競神話以後のものでは、野見宿祢と当麻蹶速(『書記』巻六)、紀名虎と伴善雄(『平家』巻八、『盛衰記』巻三二)、河津祐泰と股野景久(『曾我物語』巻一)の相撲伝説などが有名である。朝夷門破(狂言『朝比奈』)、板額門破(『和田合戦女舞鶴』)も強力伝説――板額の方は同時に勇婦伝説であることは下の巴御前の場合でも同様である――で又一種の力競説話である。又この型に属するものでは特に錣引伝説(『平家』巻一一、『盛衰記』巻四二、謡曲『八島』同『景清』)と草摺引伝説(『曾我物語』巻六、謡曲『和田酒盛』舞曲『和田酒盛』)とが膾炙せられ、他には同じく重忠・巴の草摺引(『盛衰記』巻三五)もある。競武型は技競説話の一種でもあるが、これには、源宛・平良文の勝負争(『今昔』巻二五、第三話)、近世では講談物の寛永御前試合の各説話などがあり、橋弁慶伝説(謡曲『橋弁慶』御伽『橋弁慶』)、湛海斬り(『義経記』巻二、『鬼一法眼』、謡曲『湛海』)も、闘戦型でもあると同時に又この種類のものでもある。純粋に闘戦型に於て物語られているものには、真田与市・股野兄弟組討(『盛衰記』巻二〇、狂言『文三』)、曾我十番斬(『曾我物語』巻九、謡曲『夜討曾我』、同『十番切』舞曲『十番斬』)、加藤清正・山路将監組討(『真書太閤記』九編、巻三)、謙信・信玄一騎打(『甲陽軍艦』第三二品、『甲越軍記』第三編)等がある。上はすべて史譚的即ち(は)類のものであるが、小説中の仮作説話で(に)類の准史譚的な競武型の例は馬琴物の中から容易に拾い出すことが出来る。犬江親兵衛が細川管領家の諸勇臣と武芸を較べる話(『八犬伝』第九輯)、大江成勝が末朱之助と射芸を競う話(『新局玉石童子訓』〔『美少年録』〕巻六)は即ちそれである。

競武でなくて単に武術の神技を語る武術説話もある。為朝の射船(『保元物語』巻三、『弓張月』後編、巻三)、扇の的の武功(『平家』巻一一、『盛衰記』巻四二、舞曲『那須与一』)のような弓術説話、佐々木盛綱の藤戸先陣(『平家』巻一〇、『盛衰記』巻四一、謡曲『藤戸』)、明智左馬助の湖水渡り(『常山紀談』巻五)のような馬術説話を始め、各般の武術に亘ってそれぞれ多くの名誉の談柄が伝えられるが、現実味が勝って、伝説として興味の濃いものに割合に乏しく、且、特殊の説話型を具えているものは余り無いようである。勿論大抵(は)類或は(に)類のものである。

戦争に関する武勇伝説も同様で、これも(は)類で且特殊の説話型を具有しているものは殆ど無い。鴨越逆落伝説(『平家』巻九、『盛衰記』巻三六・三七)、七騎落伝説(謡曲『七騎落』狂言『七騎落』)等を挙げて置こう。

兵法武術に関しては伝授説話が特殊な一類をなしていることだけは注意すべきであろう。匡房・義家の兵法相伝(『著聞集』巻九、第一二、武勇)、鞍馬天狗伝説(謡曲『鞍馬天狗』舞曲『未来記』)、いずれも著名である。前者は全然(は)類で、史話と目するも不可なく、後者は寧ろ(ろ)類の純伝説で且これは単純ながら一種の型式に固定しようとしている。

武人の主君に対する献身的な忠義心の凝成は犠牲精神の具体的な表現として身替説話を生む。これには自身主君の身替に立つ村上義光(『太平記』巻七)や佐藤継信(『平家』巻一一、『盛衰記』巻四二、舞曲『八島』)のような義光型(二例ともに(は)類)と、更に一段悲痛な、愛子を主君の御子の身替に立てる仲光伝説(謡曲『仲光』舞曲『満仲』。これは(は)類)や寺子屋説話(『菅原伝授手習鑑』)のような寺子屋型との二種がある(身替説話は武門興起以後に始まったのではない。正史上に見える我が国最古のそれは、壱伎直の祖真根子が、容貌が似ている為、武内宿祢に代って自刃した事件(『書紀』巻一〇)であろう。無論(は)類で、これは両種の中間に立つような形の説話であるが、先ずやはり前書に属せしめてよいであろう)。後のものは既に『寺子屋』より早くやはり仲光伝説の流れを汲んだ近松の『忠臣身替物語』(元禄二年五月竹本座)――源頼義の臣和田為宗の子竹若丸の若君賀茂次郎義綱身替――によって先鞭がつけられてから(なお近松はその後『井筒業平河内通』にも紀有常の妻の二條后御身替の趣向を用いている)、斉藤利行の孫力若丸の若宮御身替(『大塔宮曦鎧(あきひのよろい)』の「身替音頭」)、扇屋娘桂子の敦盛身替(『須磨都源平躑躅』即ち「扇屋熊谷」)、板額女の一子市若丸の将軍若君公暁(きんさと?)身替(『和田合戦女舞鶴』の「市若初陣」)、弁慶娘信夫の京の君身替(『御所櫻堀河夜討』の「弁慶上使」)、松王一子小太郎の菅秀才身替(「寺子屋」)、直実一子小次郎の敦盛身替(『一谷嫩軍記』)等順次に著名な身替説話を生み、その後にも、『花系図都鑑』の「舟岡館」のおよねの櫻姫身替、これから出た『岸姫松轡鑑』の「飯原館」(朝夷上使)で、それは「弁慶上使」の影響であろう)の飯原兵衛娘おそよの範頼息女粧(けわい)姫身替、『神霊矢口渡』の三の切(由良兵庫の一子友千代の新田徳寿丸身替)、『河内通』改作『競(はなくらべ)伊勢物語』の「春日村」(近松では有常の後妻が身替になるのを、これでは有常の娘信夫とその夫豆四郎の両人が齊宮と業平の身替に立つことに変っている)、『一谷凱歌小謡(こうたい)曲』の「鳥目の上使」(上使根井正親の娘紅梅の木曽息女笹鶴姫身替)、或は稍変種としては、「弁慶上使」と共にその「鳥目の上使」に粉本を与えた『玉藻前曦袂(あきひのたもと)』の「道春館」(これは姉に代ろうと望んだ初花姫が助かり、当の桂姫が実父の上使鷲塚金藤次に討たれる。なお書卸は宝暦元年正月の豊竹座で、『都鑑』以下の中、これだけは同年十二月同座の『嫩軍記』より早い作)、『伽羅(めいほく?)先代萩』「政岡忠義の段」の千松の鶴喜代君身替(これは「鳥目の上使」より早い。そしてこの型と前の義光型との中間に位置するようなものであるが、やはりこの型の変種とすべきであろう)等、愈々特に浄瑠璃・歌舞伎の常套の構想となるに至った観がある。従って皆(に)類に属する仮作説話である。そして以上の説話中、小次郎・市若・友千代等の場合は武勇伝説(特に前二者は純粋にそうである)であり、又、竹若・小太郎等を仲光伝説と同じ程度の意味で武勇伝説中に属せしめて取扱うことは許されるであろうけれども、この型の方には純武勇伝説ではない身替説話が多いという事と、斯様な影響を与えた原話としては、幸寿丸の美女丸身替という中光伝説が素より最も重きをなすものではあるが、一方に於て同じ舞曲『百合若大臣』に於ける門脇の翁夫婦の娘の百合若御台所身替の説話も、同じくこの説話型の成長展開に少からず示唆を与えているであろうということが注意せられねばならぬという事とを附言して置きたい。純粋の武勇伝説としては、前の義光型の方が無論無條件に適応する。それの(に)類の例は鬼夜叉の為朝身替(『弓張月』後編、巻三)で、又、『近江源氏先陣館』の「盛綱陣屋」は佐々木高綱の身替贋首(この点はこの説話型)に「市若切腹」と「寺子屋」とを併せ学んだ趣向(この点は寺子屋型に交渉があるが、但し身替説話の本態としてではない)を配したものである(なお武勇伝説でない身替説話には、袈裟御前伝説(『盛衰記』巻一九)のような節婦伝説もあり、これは義光型の方と類型をなしている)。

忠臣の身替説話と並べて考え得られるのは、敵討説話(復讐譚)で、これは孝行談に結合した武勇伝説である。

その典型は言うまでもなく曾我伝説(『曾我物語』その他謡・舞曲の曽我物等)で、阿新丸伝説(『太平記』巻二、謡曲『檀風』)も知られている。『今昔』(巻二五、第四話)の平維茂の郎等太郎介に父を殺された小侍の敵討などは稍古い点で珍しい。いずれも(は)類のものである。近世には殆ど慣習化義務化した復讐道徳の観念から生まれた無数の敵討の事実談が数えられる。赤補義士の復讐と伊賀越の仇討とはその尤なるもの(共に(は)類)であるが、それらはすべて多少なり伝説化せられて語られていないものはないと言ってよい(近世には又、妻敵討の慣習と説話とが復讐伝説から派生したが、これは武勇伝説の純乎たるものとは言えないであろう)。敵討説話の中で、山口秋道(『あきみち物語』)や国見虎之助(『武道伝来記』巻八、第一「野机の煙くらべ、身は一つを情は二つの事」)に於ける如き、妻の貞操を犠牲にして復讐を遂げるという形のものが、一寸特殊な型を造っている。二例とも(に)類のものであるが、私はこれをあきみち型と呼ぼうと思う。

その他、異色のあるものでは(ろ)類で又(に)類でもある百合若伝説(舞曲『百合若大臣』)があり(〔補〕長年月の間夫の外征中孤閨に節を全うした貞婦とその夫とが終にめでたく再会するという説話型としてならば、ホーマーの『オディッセイ』(Odyssey)に於て看るペネロピー型(Penelope type)であるが、武勇伝説の説話型ではない)、(は)類のものには箙の梅の風流逸話(『長門本平家物語』巻一六、『盛衰記』巻三七、謡曲『箙』)、青葉の笛に絡まる敦盛戦死の哀話(『平家』巻九、『盛衰記』巻三八、謡曲『敦盛』舞曲『敦盛』)――これは熊谷発心伝説でもある――を始め武人に関する有名な伝説が頗る多い。特に源平闘戦時代に於ける主な伝説は大抵この類のものである。総じて史譚的の武勇伝説は史実的要素が骨子を成しているもののみであるから、それぞれ事件を異にし、各人物の性格行動を異にしている為、当然に個々の特殊姿態に結象しているのが常で、雑然としていて典型的な型式を具えているものは殆ど稀である。僅に神話・童話、他種の国民伝説等から変容して史実と合体したもののみに、説話型の輪廓や痕跡が認められるだけである。従って神話的武勇伝説から史譚的武勇伝説へと進展して行くに随い、説話の個々の数は益々増大して行く代りに、特殊の説話型式は却って減少して行く、少くとも増加して行かぬという現象を呈しているのを観るのである。又、今まで掲げて来た各種の説話型なりその実例の伝説なりでも、前にも述べたように、厳密には類別が困難で、互に交錯、重複している場合も甚だ多い。一定の類型的名称の下に統一し得ないものもあるのが寧ろ自然であるが、同時に又、他と共通した類種の型式をおのずから生み出し、且それに摸成しようとする伝説の本質的な特性が、我が武勇伝説史に於てもやはり上述の如き幾つかの主な説話型を作り出した結果を示しているということを、重ねて言い添えねばならぬ。

終に重複を厭わず上に述べて来た説話型の各種を簡約して見易いように次に表示して置こう。

/(い)神/(ろ)准神/(に)准史/(は)史

怪物退治型勇者譚
大蛇退治型(ヘラクレス型〔補〕〔アンドロメダ型〕)/素尊大蛇退治/猿神退治(猿神退治型)//
鬼神(変化)退治型(日本武尊型)//田村麿悪鬼退治//
俵藤太型//秀郷百足退治//
鵺退治型//頼政鵺退治//
羅生門型(〔補〕ベオウルフ型)//羅生門伝説//
降魔型//安達ヶ原伝説//

勇者冒険譚
怪窟探険型////胤長人穴探険
勇者地獄巡型//忠常人穴探険//
巡島型〔ガリヴァー型〕//義経島渡/朝夷島巡/
勇者求婚型/(大国主神根国行)/義経島渡//

英雄出生生立譚
鬼若丸型(出生(〔補〕アタランタ型) 生立)//弁慶(誕生 成長)//
日吉丸//秀吉誕生//
金太郎型//山中鹿之介生立//

英雄最期終焉譚
立腹型////忠信討死
立死型////弁慶立往生
 
昇天型//為朝昇天//
化仙型//海尊化仙//
生脱型////義経蝦夷渡

競勇型勇者譚
力競型/建雷・建御名方二神力競神話///草摺引伝説
競武型///犬江仁の競武/橋弁慶伝説
闘戦型////謙信・信玄一騎打

兵法伝授譚
鞍馬天狗型//鞍馬天狗伝説//

忠臣身替譚
義光型///鬼夜叉身替/義光身替
寺子屋型///寺子屋説話/仲光伝説

勇者復讐譚
あきみち型///山口秋道敵討/

その他、武術説話・戦争説話・兵法伝授説話等史譚的武勇伝説の諸種、及び回生・再誕・化現・怨念等の准神話的武勇伝説の各種。

なお武勇伝説の説話型は決して以上に尽きているのではないが、主要なものは挙げ得たつもりである。

第四節 時代的及び地方的変容

今まで互に形態を同じうする諸伝説をそれぞれの説話型の下に抱括させて列挙して来たが、型の同じものでもそれら各個の伝説はそれぞれに異なった内容を有し、個々独立した価値を有つものであることは勿論であるけれども、なお仔細に一々に就いて検討を加えると、中には単に同型類型をなすに止まらず、実は元来は同一である説話が転化変容した為に当然同型であるものもあれば、却って全く異なった姿に変ってしまっていて、同型と見做し難い場合もある。我が武勇伝説の展開を眺めるに際して、この点――伝説の変容上の二大方向、所謂成長と幡布という問題を閑却してはならない。即ち伝説の時代的変容と地方的変容という現象である。前者は時代の推移に基づき、後者は地域を異にする文化との交渉接触がその主因をなすもので、一方は時間的、他方は空間的である。そしてその場合、前者にあっては主人公の名を変えることが多く、それに伴って時代的衣裳を脱ぎ換え――その主人公の生存活躍した時代、というよりは寧ろその説話を変容させた民衆の生存した時代の思潮・宗教・習俗等に順応した装に改められ、従って部分的に或は全体的にその伝説は原話とは異なった容姿になり了るのである。後者の場合も同様であるが、唯その変容が時代の影響に因るのではなくて、その伝説の移植された地方なり民族なりの風土・習俗・宗教・国民性等に順応せしめられるだけの違いである。いずれにせよ、斯様にしてその変容が極端に行われると、殆どその原話との関係を推知することが不可能となるような場合すらある。説話の本拠の推究が困難を伴うと共に興味を多大ならしめるのはこの為である。

我が国は神話的武勇伝説に比べて、史譚的武勇伝説に非常に富んでいることは既に述べた通りである。実に我が武勇伝説の主人公の名は殆ど大抵史上の有名な人物でないものはない程で――私の所謂准神話的の伝説即ち(ろ)類のものでも、史上英雄の功業として伝承せられていることが多く――、その事件は又史上に明らかに事実の徴証を求め得べきものが少くない。然るにその中には細心に検べてみると、別種の型のもの或は同一系統の他の形のもののように見える説話であって、実は同一伝説の変容であるものが相当に存在していることを知るのである。著しい史的成分がその伝説の大部分を占めていないものにあっては、換言すれば神話的成分と史的成分の結合から成る部分の方が勝っているものは、その性質として、永遠性固定性を有していない為に、主人公たる一勇者の名に伴う回憶が消え去れば、その伝説は、その主人公を棄て去って、概して、次々に来る――而もその伝説の現に流布せんとしつつある時代に最も近い過去の時代に於て重きをなす――史的英雄の上に移って行くのである。そしてこの種の者は、(い)類及び(ろ)類のものに多いのは自ら明らかであろう。一例を(い)類に取れば

(『古事記』上巻)  (『古事記』中巻)  (近古、絵巻・御伽草子)
素盞鳴尊大蛇退治 → 日本武尊熊襲誅戮 → 大江山伝説
神代………………………景行天皇時代……………藤氏(平安)時代

熊襲誅戮の事件は全然事実であったとしても、短剣を懐に呑んで女装して敵を欺き、酒宴の半ばに賊魁を刺して勇を現し給うた小碓命の御行動は、又これを伝説としても意義深く観られ得る程、命が優に一個の伝説的英雄としての資格を具えられることを示している。自ら櫛稲田姫となって賊を謀られた猛き皇子が日本武の名を賊主川上梟師から獲られたのは、計略を用いて■(竹+斯)の川上に怪蛇を斬り、その結果予期せざる収穫として叢雲剣をも獲給うた勇神の御功業と、その間の距離幾許も無いのである。面白い事に、その大蛇の尾端から現れた宝剣によってこの二つの話譚(ものがたり)の主人公は浅からぬ縁に結ばれてあるが、そうした偶然に結びつけられた外面的関係に止まらず、上古の神人的勇者中では特に際立って性行相類似するこの偉大な国民的の両皇族英雄の上に、一箇遊離的な説話型態に盛られる国民伝承が移行するに際しての里標的な位置(ポイント)を求めようとするのは、寧ろ自然ではあるまいか。更に大江山伝説となるに及んで、この説話は武家として大勢力を振ふに至った源氏の勇将頼光の上に移されて来たもので、その変移の時期は恐らく源氏優勢後の事であろうし、その動機は、天下を掌握する豪族の祖先を偉大ならしめんが為なのであろう。

なおこの三説話を比較してみると、主人公がその名を変えていったと同時に、怪物も形を変え、説話の形態も稍変化しているのを観るのである。がそれも、尊の命に依って足名椎・手名椎が醸んだ八塩折の酒は、頼光等を助ける為、八幡・住吉・熊野の三神が賜った神便鬼毒酒となり、八頭の大蛇は熊の如き熊襲や鬼と呼ばれる酒顛童子の形を取ってその暴悪を逞うし、神人英雄の姿は、可憐な女装を経て、武士が仮に扮した山伏の兜巾篠懸と変ったに過ぎない。これらの変化は、唯その変容改作の時代を語るに止まり――大江山伝説には前二者に無い神仏の冥助思想が加わっているのも同じ理由から説明が出来る――、その著せられた衣裳を剥ぎ取って、残る骨子を見れば、全く同一の伝説であると思われる。武勇が主ではあるが、怪敵を欺く計略の手段に酒色を用いるのも、三説話共通であり、後二者は大蛇退治型の純粋なものではないけれども、大江山伝説の鬼に奪られる女性等はやはり生贄で、且これは又一種の猿神退治の特殊型でもあり、この点亦大蛇退治神話の変容として観られ得る可能さが十分にある。即ち大江山伝説は大蛇退治型と日本武尊型との合体した型である上に、大蛇退治神話が日本武尊伝説を経て更に転伝したものとせられ得るのである(大江山伝説を大蛇退治神話の変容と推定する論は、芳賀矢一博士の所説(大正二年度、帝大講義「鎌倉室町時代小説史」、同四年度講義「謡曲之研究」)を基として更にそれを敷衍したものである。)。又(ろ)類に於ける粟津冠者の大蛇退治(これも亦素尊の大蛇退治の系統でその変容でもあろう)が俵藤太の百足退治に移った(これは既に早く伴蒿蹊の『閑田次筆』巻二に指摘せられている)如き(俵藤太の三上山伝説には、他の要素も含まれ、又『淵鑑類函』に見える程霊銑の蜃退治の支那説話の影響も看られるが)、その最も適切な例証として観ることが出来よう。同様に隠岐広有の怪鳥退治は恐らく頼政鵺退治の変容であろう。そして大江山伝説は、神話的武勇伝説の怪物退治型勇者譚から、史譚的武勇伝説の盗賊、捕戮説話及び探険説話に移る経路を示すものであって、唯それが熊襲退治に比べて著しく童話的分子を含むのは、即ち説話の逆転の例となり得るであろう。

時代によって伝説の変容する例は、史譚的武勇伝説にも求め得られる。例えば『吾妻鏡』(巻二一)に見える朝比奈義秀が足利義氏の草摺を引きちぎる勇力譚が、その主人公を重忠及び巴御前と代へ(『盛衰記』巻三五)、更に元に還って、『曾我物語』の挿話として有名な草摺引伝説を生んだような(「東亜の光」第九巻第三号・四号「朝比奈義秀の研究」の中に志田義秀氏の詳論がある。曾我の草摺引が和田合戦のそれから出たとは、新井白蛾の『牛馬問』(巻三)にも既に指摘している。)のがそれである。その朝比奈と五郎の草摺引きは更に鎌倉権五郎と安倍宗任の草摺引(古浄瑠璃『八幡太郎』)と変容した。又『吾妻鏡』(巻一六)に見える同じく朝比奈三郎が兄常盛と相撲のこと、及び小坪の海中で鮫を捕える話は、史実の根拠如何に関せず『今昔物語』(巻二三、第二三話)「相撲人私市平投上鰐語」の伝説の転移を連想させるものがある。少くとも馬琴の『巡島記』(後輯〔第六篇、巻三〕)中の右の『吾妻鏡』の義秀の逸話に取材した一節はこの両説話を一にしたものである。仲光伝説が寺子屋説話と形を変えて後者の方が世に行われるに至ったのもこの種の例である。寺子屋の小太郎身替説話は明らかに仮作物語であるけれども、説話型態及び素材から観ればこれ亦明らかに仲光伝説の転成であり変移であり、而もこの仮作物語中の人物たる武部源蔵の子孫と称する家族が大和の伏見菅原地方に現存するに至っては、偽から生まれた真であると共に、この純仮作物語が既に伝説としての意義と実在性を持ち始めた――民衆によって賦与せられた――ことを証するものである。此処にも文学と伝説とが限界に於て融け合っていることを示して居り、従って仮作物語の説話をも伝説と同価値に取扱ってよい。否それが寧ろ妥当である場合のあり得ることが明らかにせられるであろうと思う。斯く特に史譚的武勇伝説の時代的変容の中には、それが一個人作家の故意の改変に拠る場合が少くないことに注意せねばならぬ。私の所謂准史譚的、つまり(に)類中の多くは即ちそれである。

伝播に因る地方的変容の例は(い)類にあっては大蛇退治神話が美作・飛騨・近江・駿河・信濃を始め、紀伊・丹波・遠江・肥後、その他諸地方の猿神退治伝説の姿として民間伝説化しているのがその一例であろう(これは或は猿神退治型の民間説話の特殊なものが大蛇退治神話であるとも観られ得ないことはない)。(ろ)類の例としては秀郷の百足退治に類した民間伝承が湖沼伝説等に結合して全国の諸地方に散在している如き(それらが秀郷の伝説から出たのでないなら、或は粟津冠者伝説若しくはその原話――若し在ったとすれば今は失われた或地方的口碑、又は外来説話など――が一方では地方的に流布してそれぞれその地方々々の無名の所謂「村の英雄」の功名譚に転化し、他方では時代的に変容して秀郷の武勇伝説となったのかもしれない)、又羅生門伝説が同じく渡邊綱の武勇伝説としてではあるが、妖怪退治の場所が或は京都九條の羅生門(謡曲『羅生門』)、或は一條戻橋(『剱巻』)或は大和国宇多郡の森(『太平記』巻三二)等と所伝を異にし、それに伴って伝説の内容にも各々少異がある如きを挙げ得る。上の羅生門の伝説の場合も同様であるが、(に)(は)特に(は)類にあっては、主人公だけは変えない同一の伝説が僅にその或部分のみを変えて各地に伝播したに過ぎないものが多い。熊坂長範伝説(同伝説の條参照)の如きその好適例である。舞曲『八島』に語られているところと『東遊記』所載の甲冑堂由来譚との如き、或は弁慶の誕生地に関する諸伝説の如きもそれである。

次にもっと広い意味での伝説の伝播、即ち外国種の移入に就いては、研究が甚だ困難である。殊に欧洲のヘルデンザーゲの伝来したものの少ない理由は、我が国の地理と歴史とを知る者の怪しまぬ所であろうが、なお印度・支那等を経由して、或は特に戦国以後は南蛮との直接交通も開かれたことによって、我が国へ移植せられた伝説と思われるものも皆無ではない。もとより彼我偶然の暗合もあろうから、外形の類似のみを以て断定するが如きは慎まねばならぬ。怪物グレンデルの腕を斬り取ったベオウルフに、子の仇を報いようとして、翌夜宮殿に襲い入ったグレンデルの母の妖魔が、却って殺される話を、直ちに羅生門伝説の本拠説話と見作すのはどうであろう(類型の説話とは言えようけれど)。『十訓抄』(第一〇)に見える頼政が鵺退治に際して矢二筋を携えたという話(同じ鵺退治の事を記した『平家』その他の文献にはこの事は見えない)と、かのシルレルの名作で特に我等にも親しいウィルヘルムーテルの話と、交渉があるのではないかと思われる程、弓取の用意が相似ているのも、更に確証を得るのでなければ即断は控えねばならない。併し例の百合若伝説(舞曲『百合若大臣』)がホーマーの『オディッセイ』の移入であろうとは、夙く坪内逍遙博士の推断せられたところ(「早稲田文学」明治三九年一月号)で、又後に説くような荒唐な『天狗の内裏』の内容が、仏教思想に結び付いたとはいえ、ローマ神話のイニーアス(Eneas?)の地獄巡伝説の変容であろうとの推定も、この問題に関して新資料を提供するものであると信ずる。

支那の武勇伝説が移入せられて日本化したのは、相当多いであろう。既に言及した程霊銑の伝説の俵藤太の百足退治に於ける如き、その一例であるが、(〔補〕別に朝鮮の高麗太祖王建の白龍退治及び龍宮行伝説(三輪環氏著『伝説の朝鮮』)も同様に、上の支那説話とも亦日本説話とも恐らくは交渉があるのではないかと推し得られるように思う)、鞍馬天狗伝説(舞曲『未来記』謡曲『鞍馬天狗』)の原形は、恐らくは張良・黄石公の伝説(『史記』留侯世家、謡曲『張良』舞曲『張良』)であろうし、朝比奈の門破りが、『吾妻鏡』(巻二一)に見えるような事実を根拠とするものであるとしても、張良と並べられて異国の勇者の例として引かれるを常とする漢高の臣樊■の鴻門の勇力譚(『史記』項羽本紀)がこの伝説の完成に必ずや手伝っているであろうということは容易に連想せられ得る。張良・樊■、この二人は、軍記物時代に於ては、殆ど我が国の勇士とその生国を異にするのを忘れられたかのようにまで、日本人に親しまれたもので、これを主人公とする伝説の日本化したものが一つも無かったならば、寧ろ不思議と謂うべきである。『太平記』の楠公、『真田三代記』の真田幸村の人物と智略が『三国志』の諸葛孔明に負ふ所の大きいのは言うまでもない。『太平記』(巻七)吉野軍で村上義光が大塔宮に代って討死した身替説話は、伝説を収載したとしても、或は『太平記』作者の筆端から作り出されたものとしても、その原話なり粉本なりは『史記』『通鑑綱目』等に載する栄陽城に於て高祖に代った紀信の壮烈な最期の話譚であろうし(『太平記』の同條に義光自身の口を借りておのずからこの本拠を説明させている観がある)、『八犬伝』(第九輯)長坂橋の犬飼現八の胆勇は、出処余りに明白に過ぎて、『三国志』『水滸』を宗とするとはいえ、馬琴が読者を愚にするも亦甚だしい(尤も笠翁自らは寧ろ得意満面の独壇場ではあろうが)。これらの中には所謂国民伝説とは称し得ぬものもあるけれども、その伝説改易の動機並びに法則に於ては、一詩人の場合も、国民全体の場合も、個性の著しい作家の場合も、多数国民を代表する無名詩人の場合も強いて分ければ、意識的と非意識的との差があると言い得る外、殆ど異なるところが無く、又その限界も決して明確であるとは限らず、少くとも結果に於て形態上に於ては殆ど全く差等が無い場合が多いから、単に外国種伝説の変容の例示としては、一般に知られた説話を以てする方が適切と信じたが為であるに他ならない。印度説話も亦我が伝説界に影響していることは驚くべきものがあるが、すべてではなくても、その範囲は主として宗教伝説の方面に限られていると言ってもよいであろう。但し原形は全然宗教的意味のものであっても、移って話が武勇伝説の一部分を成すに至ったものも少くないであろう。『田村草子』の内容を成す田村麿の悪鬼退治伝説が本地物としての意味をも有すると共に、鬼王に関する説話の本筋の上に印度説話らしい影響を認め得るようなのがそれである。

すべて伝説はその流布の間、時代(a)及び土地(a')によって同一説話の形が変ることがあるだけでなく、又原始的の形から種々の新しい形の説話を派生する(b)だけに止まらず、或は或種の伝説が、時代(c)・地方(c')等の感化によって、異種の伝説と変じて来るのもあり、同種の諸伝説が結合されて更に別個の伝説となって成長する(d)こともあり、神話(e)・童話(e')又は異種の伝説(e'')をも集め合せて、尨大な伝説に成長進展して来ることもあって、後世のものに至るほど、概してその形式・内容共に複雑となるのが一般である。武勇伝説もやはりこの現象に漏れない。上に挙げたような各種の場合を含んでいて、この現象をよく説明する適切な一例は、別表に示す如く俵藤太秀郷の武勇譚である(もとより変容した新説話に、最本源の原形が同時に影響することのあるのも珍しくはないし、又一の伝説自身にも成長変化もあるが、その関係をも入れると却って煩瑣になる虞れがあるから、この表には省略した)。

なお童話の金太郎の生立説話が前にも既に引いた『尼子十勇士伝』の山中鹿之介の上に転じ(前には両者同型の説話とだけ説いて置いたが実は同一説話の時代的変容と看るべきであろう。更に又その本拠は平安時代の仮作物語である『宇津保物語』(俊蔭巻)の仲忠母子の生立説話にまで溯り得ると私は考えている)、大国主神話の一部を成している因幡の白兎の伝説が弁慶の成長談である弁慶島の伝説(『和漢三才図会』『懐橘談』上、『雲陽志』)と形を変じた(森洽蔵氏遺稿『弁慶法師』中にその考証がある)(〔補〕なおこの白兎と鰐の伝説は原形は釈尊本生譚に含まれる猿の生肝取の寓話的童話で、即ち印度説話から転化した外来説話であるとは、堀謙徳氏の説(「東亜の光」第五巻第七号「文学上兎鰐噺の起原及び変遷」)であるが、それと同時にそれよりも一層我が兎と鰐説話に近似した形の小鹿と鰐の童話を南洋説話(西ボルネオ)中に見出すのである(同童話は『神話伝説大系』「インドネシア神話伝説集」にも「だまされ鰐」として出ている)。寧ろそれからの移入と目する方が、より自然ではあるまいか)など、時代的・地方的両様の変容に関連して神話・童話乃至異種説話との転換交錯等の問題を解明するに興味ある幾多の好例証を挙げて来ることが出来るのであるが、個々の武勇伝説に就いてその本拠を一々列挙するのが本章の目的ではないから、別表を補足する意味でこの二つの説話の場合を言い添えて置くに止めて、次章へ移ろうと思う。

その前に尚一言附け加えて置く必要を感ずる。以上我が国武勇伝説の展開を叙するに、内容的よりも形態的な方面に偏し過ぎた憾が無いでもない。併し伝説の変容進展という現象は特にその形態的な変化に於て顕著であり特異さがあるので、特に説明を費したのである。我が武勇伝説の内容的成長乃至進展としては、既に随処に言及しても来たが、改めて要約すれば、即ち神秘的から漸次に現実的となり、神話的から次第に歴史的となり、宗教的から倫理的となり、外形と同様に単一素朴なものから複雑変化に富んだものとなり、小規模から大規模となり、叙事詩的から劇詩的となって来たというのがその概観である。そしてそれら伝説内容の展開に最も関係の深いものは時代思潮並びに文化の発展と、外国文化との接触と、及び史的事件、特に戦争であり、又各伝説の中心思想或は内容的特色の上にも、各伝説の変移、新伝説の発生にも、時代々々の風尚傾向が如実に語られていることを形態に就いて述べたと同様に繰返さねばならぬ。

即ち神話時代は暫く措き、『今昔物語』に現れる平安中期以後の武勇譚の種類が、僅に動物・盗人の捕戮、射芸、夷賊の征討等に過ぎないのに、保元・平治の乱から源平二氏の大争戦、南北両朝の対立を叙する軍記物に含まれる武勇伝説になると、著しくその内容の複雑さと戦争的題材とを増し、且すべての説話は皆、動的、観死的で大きく、前代のそれの、比較的静的な眠気ざまし的で小さいのに較ぶべくもない。降って戦国時代の英雄の武勇伝説にあっては大抵は殆ど唯功名譚の形に成りきってしまい、且いずれもじみで源平時代のそれの華かさと詩味に乏しく、更に江戸時代の人物に関する武勇伝説に至っては、武者修行でなければ敵討・果合、盗人の捕戮でなければ義賊・男達の侠勇の類を出ぬ等、皆、国史の上に起伏している武勇中心の史的事件の大小の波動の形と幅とに相応じてい、それら形成された武勇伝説及び文学に就いて検すれば、上古のそれの神奇的、原始的、中古のそれの情趣的、迷信的、近古の所産の誇張的、教訓的説法的、近世の所産の所謂武士道的で、而も道徳的に偏している等、亦皆一般の文学史に於て我々の看取し得る各時代の特色に濡れぬのを観るのである。そして、何れの時代を問わず、一般に日本武勇伝説が、尚武健闘の精神は言うまでもなく、敬神・尊皇・護国・忠孝・節義等の徳目によって示される日本武人本来の伝統思想と常によく結合して、国民性と国民精神の核髄を発揮反映していることは贅言を要せぬであろう。


 



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2001.12.1
2002.3.25 Hsato