島津久基著
義経伝説と文学
本篇
第一部 義経伝説


第三章 全集団としての義経伝説

第一節 義経伝説の四要素の統一者――判官贔屓

以上義経伝説を形成する伝説群の個々に就いては大略考察を終った。今これを総括して、全集団として義経伝説を眺めると、宗教伝説・芸術伝説・求婚神話的説話等をも含んではいるが、全体からすれば、言うまでもなく武勇伝説で、而も史譚的武勇伝説である。そして既に各伝説の條項に於いて攻究した結果が示すように、武勇伝説の各種型は大凡これを集め具えていると言ってよい。その各々の説話成分の配合程度は概して第一、史実的、第二、空想(仮構)的(文学的)、第三、神話的の順位である。唯これを義経の一生の年次に応ずる各伝説の成文・色調に就いて順次に眺めて行くと、初期の少年時は神話的・童話的傾向がかなり著しく、中期に赴くに随って漸次史実的濃度を増し、末期には又稍神話的・空想的に逆転した形を示している。要するに義経伝説は個々としても、集団としても、十分に我が史譚的武勇伝説の代表たり得るのである。

この義経伝説を斯く発生させ成長させ、流布させ活躍させて、之を我が国武勇伝説の首位に置き、代表者の地位にまで上せたものは何であろうか。それは義経伝説を形成している四要素を統一指導して、義経伝説に自由の展開を遂げしめたものは何かという問に言い換えられ得る。そしてその答は簡単である。曰く、既に屡々使用した「判官贔屓」の一語によって現されている国民の無限の同情がこれである。実に義経はかかる諺までも生まれさせたほど、国民に愛好せられ同情せられ支援せられる英雄なのである。それは義経の人物と末路の悲惨とがその主因をなしているのは言うまでもない。かくて義経は国民の希望と努力とによって益々偉大となり、国民は又自ら作り上げた偉大なる英雄を尊仰して、その感化恩沢を受けようと希うのである。「判官贔屓」という語は何時頃から起ったかは詳らかでない。少くともこの語に象徴せられている精神は、既に夙く恐らく義経在世中から抬頭していたであろうことは想察に難しくないし、室町期に至っては最早頂点に達し、徳川期には殆ど常識化してしまっていることも事実である。が、この語の明らかに文献に見えるのは正保四年刊(後、明暦元年にも刊行した)の松江重頼著『毛吹草』(巻五、春部)に、

世や花に判官贔屓春の風

とある作者不詳の句などが早いものの一であろう。『毛吹草』は序文によれば寛永十五年の著であるから、この句はそれ以前の作と思われる。そしてこの句のままで意味が直に解せられるほど、判官贔屓の語は既に世人の耳に熟していた証左となり得るから、室町末までには確に造語せられていたと推定してよいであろう。元禄以後に至っては愈々流行語となったことは

判官殿も亦縁者にあらねど、むかしより贔屓せる事今に止まず。(『義経風流鑑』序)(正徳五年刊)
末世の今に至る迄、判官贔屓と犬うつ童迄言い伝えけるは、誠に古今類いなき名大将とは知られける。(『花実義経記』巻之六)(享保五年刊)
八百屋半兵衛が母が、嫁を憎んで姑去りにしたと沙汰あっては、まんまん千代めが悪いになされませ、判官贔屓の世の中、お前の名ほか出ませぬ。(『心中宵庚申』下之巻)(享保七年興行)
弓も引きがた判官様贔屓(『御所櫻堀川夜討』三段目)(元文二年興行)

などと見えるによっても知り得られ、更に風来の作とせられる『そしり草』には、

されば末代の今に至り、児女幼童に至る迄、梶原が讒言を憎みて、既に景時々々と嘲る。一向義経を哀悼して、諺に判官贔屓と称するも、理義の仁心を感ぜしむる所にして、これ則ち義経の陰徳ならずや。

と「諺に」と明記してある。芝居の外題にも『日本花判官贔屓』(『歌舞伎年代記』)『恵咲(むろのうめ)判官贔屓』(『続歌舞伎年代記』)などというのがある。判官贔屓とは、即ち正しくして而も運命境遇に恵まれざる弱者に同情する世人の声で、その意味での典型的対象を史上に捜めて、我が九郎判官に於いて全く條件の該当する人物が見出された結果、この語にそれが結象したのである。「義経贔屓」とも転用せられ、又同義に用いられる「曽我贔屓」の語も、これから派生したのであろう。同じく中世に義経と並べて同情せられた兄弟の上へ、この語が移用せられるのも極めて自然である。斯様にして、『忠臣蔵』の塩谷高貞の出現するまで、義経は実に「判官」の名さえ独占して、国民同情の中心人物として長く生命を有しているのである。

然からばこの判官贔屓の情念が、如何に伝説・文学の上にはたらいて義経を憐み保護したかは、既に各伝説の條項に於いて説いた所によっても知られると思うが、なお三四の例を以てこれに裏書してみよう。鞍馬天狗伝説で、牛若が夜々僧正が崖に通って棲処を荒すので、集合して法罰を与えようと議した天狗共をして、終に牛若の孝心に愛でて、慢心多き為仏に成り得ずして天狗道に堕ちた我等なりとも、「情を争か知らざるべき。いざや牛若合力し、天狗の法を許し、親の敵を討たせん」と決議させ(舞曲『未来記』)、対頼朝の関係では、鈴木三郎重家に(『語鈴木』)、或は南都の勤修坊得業に(『義経記』巻六)義経の為に弁じ、舎兄の無情を面詰させて語無からしめ、又その頼朝の義経に対する所置に余りに飽き足らぬ所から、『源義経将棋経』(初段)には、若君頼家をして鈴木三郎に「義経公は我が為に正しき叔父にてましまさずや。(中略)御和睦の営み、かねがね心に存ぜしなり。某斯くてあらん中は(中略)折を待って和談を結び、在鎌倉を招くべし。罷下って頼家が等閑なき心底を、よきように披露して、返す返すも御懐かしく存ずる段、懇に申してたべ」と涙を以て言わせ、「これは又其方への礼ならず、叔父君へなす礼儀ぞと、悉くも天下の世嗣、両の御手を畳に付け鳥帽子を下げ」させ、これを承る重家には、「今の御意を御土産に、判官殿へ言上せば、いかばかりの御悦び、この上仮令和談なく、御腹召され候とても、なに御恨の残るべき」と感泣させて以て漸く自ら慰め、『右大将鎌倉実記』(四段目)には鶴ヶ岡伝説を応用して白拍子静が舞の半ばに関東武士を斬るという不自然な脚色を敢えてしてまで憤悶を遣り、又(五段目)は畠山・工藤の助太刀によって静の生んだ義経の若君に、父の仇梶原景時を刺させて勝閧を挙げさせる。舞曲『高館』で、鈴木三郎重家が遙々奥へ下って来た上、義に勇む勇士は故郷へ帰るを肯せず、飽くまで君と死を共にしようと望んで強いて留まり、賜った小櫻縅に「御代が御代の御時に、千町萬町賜ったるより、今この喜びに如かじ」と勇躍するのを見た武蔵坊をして、異国は知らず本朝に於いては、我が君の御内の人ほどに揃った者はよもあるまい。継信兄弟の忠死、伊勢・駿河の血戦、又重家の今の詞、「かほどまで良き郎等を持ち給う我が君の、御果報の程のうたてさは、せめて大国四五ヶ国、御知行なきこそ口惜しけれ」と鬼を欺く眼から覚えず熱涙を落させたのは、判官股肱の従臣等の心胸そのものであると同時に、又実に義経に対する当時も後代も変わらぬ同情者の偽らざる心中であろう。泰衡誅伐が廻る因果と、せめてもの納得と痛快さとを義経ファンに味わせ(『義経記』巻八)たのはもとより、次第に昂奮して来た判官贔屓は終に景時を極端な敵役となり了らしめ、世人をして如何に之を筆誅して快哉を絶叫しようかと腐心させるに至り、延いて、讒者に信頼して骨肉の同胞に冷酷であったが故を以て、武門政治の創始者たる頼朝の政治的大手腕を認める余裕さへ、一般人の間には無きに至らしめられ、秀頼に対する家康と共に、義経に対する彼は意外な不人望者たる迷惑を、恰も当然の刑罰としての如くに、甘んじて引受けさせられることとなった。そして又更に益々飛躍し来った判官贔屓は竟に高館生脱説を生み、義経伝説の主人公を遠く夷域の地に更正君臨させて幸福長寿を享けしめるに至り、かくてこの無限絶大の贔屓意識は終に英雄不死の信仰にまで融化凝成して、史実を伝説化するに止まらず、伝説を亦史実化せんとする驚異的な力を発揮して来たのであった。

第二節 義経伝説の成長と時代色附俚諺と古跡

判官贔屓の情念は義経を弁護、哀憐、崇拝すると共に、義経に関する多くの伝説を発生させ、又既成のそれを益々発展させ、同時に義経の伝説的性格を益々成長せしめた。本節では、全体としての義経伝説の成長現象を概観し、且、それに映現している時代的色彩の変移に注意して見ようと思うのである。

先ず各伝説の発生の順次を一瞥してみると、最も早く文学に現れたのは、逆落・弓流・八艘飛(原形)・逆櫓論・腰越状・堀河夜討等、多くは史実の本拠の明らかな、そして多くは義経の戦功時代に属するもので、主として『平家物語』『源平盛衰記』等に見えるものである。その他には、『平治物語』の伏見常磐伝説を早いものに数え得る。これらは既に鎌倉時代には大略成形した伝説であると思われる。鎌倉の末から室町時代へかけて、新生の伝説が頓に増加して来、或は既成のものが益々進展変容せしめられたことは、他の武勇伝説、否全般の国民伝説の場合に於けると同様である。そこでこの室町期には、史実の不鮮明な部分を埋めると言った形で、続々義経伝説が現れた。即ち既に行われている武勲時代のものを挟む少年時代と失意時代という前後の二大部に属する義経伝説の個々は、大抵皆この期に成形したのであった。鬼一法眼・弁慶生立・吉野静・吉野忠信・鶴ヶ岡舞楽・笈さがし・弁慶立往生の諸伝説、及び熊坂長範・橋弁慶・船弁慶・安宅の各伝説の異伝或は原形、碁盤忠信・摂待の原形、鞍馬天狗・胎内?の萌芽等が『義経記』で成った後、熊坂長範以下は碁盤忠信を除き、すべて謡・舞曲で完成せられた上に、関原与市(〔補〕・山中常磐)・野口判官等を加え、又他に御伽草子或は浄瑠璃で島渡・地獄廻・浄瑠璃姫等の伝説が流布せられているのである。次いで室町末か江戸初世かに含状伝説が生じ、碁盤忠信伝説が完成を観、明らかに徳川期に発生したものと認むべきは蝦夷渡・狐忠信ぐらいで、他には八艘飛と胎内?が愈々完形に到達したというに過ぎない。江戸時代は畢竟新伝説の発生時代では無く、文学の側から言えば、既成の伝説を素材として巧にそれを利用した時代で、伝説の側から言えば、既成の諸伝説が結合或は統一せられようと企てられた時代である。

義経伝説が徳川文学の好題材となった事実は、再び繰返して述べる必要は無いであろう。各伝説の結合に就いても、各伝説の條項で言及したように、『鬼一法眼三略巻』に於いて鞍馬天狗と鬼一法眼の両伝説が結びつけられ、『吉野静碁盤忠信』や『義経風流鑑』に於いて吉野山伝説と碁盤忠信伝説とは合して一つとなり、『源義経将棋経』は浄瑠璃姫伝説に『語鈴木』の伝説を織り込み、『御所櫻堀川夜討』では、牛若千人斬が、伊勢三郎の敵討を中介として、堀河夜討伝説に連関せしめられるに至った等、その例は戯曲・小説中に多く求め得られる。構想の複雑と奇抜、舞台効果の絶大に腐心して、観客の興味喝采を狙った江戸時代の戯曲・脚本に、特にこうした傾向が通有であるのは当然である。『千本櫻』と題しているが、義経に関するもののみに就いて観ても、堀河夜討・船弁慶・吉野山の諸伝説を集め、これに狐忠信の趣向と、知盛碇潜及び教経生存の伝説とを用いて居り、『三略巻』は鬼一と大天狗とを結び付けた外、弁慶出生譚・橋弁慶伝説をも併せているのである。この義経伝説の諸説話を集成統一して義経の生涯を叙する試は『義経記』が早く採っている方法なのであるが、それは即ち縦貫法であり、それに対して戯曲類のは横繋法と言ってよい行き方である。

『義経記』式の史伝的縦貫法による義経伝説の集成も、無論江戸時代にも亦多く試みられた。即ち『義経記』を祖とするこの種、一代記風の義経文学を数えれば、『義経興廃記』『義経勲功記』『金平本義経記』及び浮世草子の『風流?平家』同後編『義経風流鑑』『義経倭軍談』同後編『花実義経記』『風流?軍談』、読本の『繍像義経磐石伝』、黒本・青本の『義経一代記』、黄表紙の『義経一代記』『鞍馬天狗三略巻』、合巻の『絵本勇壮義経録』『義経誉軍扇』『鞍馬山源氏之勲功』『花櫓詠義経』『義経一代記』等を挙げ得る。そしてこれら『義経記』系の一代記の義経物には、後の物に至るほど、大抵既成の義経伝説の各個は、殆ど網羅せられている。

なお義経伝説の成長に従って人物も増加し、殊に義経の臣下には黒井次郎・赤井藤太等の輩を加え、『勲功記』に於いては一々その素性を説明しようと試み、『御所櫻』では静は藤弥太という悪人の兄を与えられ、『風流鑑』『千本櫻』には源九郎狐が加わって、意外に主要な幹部役となった。その人物各々の性行も亦複雑化して行ったことは、常磐御前の苦節、鬼一法眼の態度をはじめ興味ある好例証に乏しくない。地名に就いてみても、義経伝説の発生し又遊行している範囲は頗る広く、即ち初めは主として関東から京畿・四国・西海の間であるが、やがて北陸道を侵し、奥州に延長し、遂には海の彼方蝦夷に及び、更に遠く支那に拡り、又啻現世のみならず冥界までも義経伝説の圏内に入れられて来た。又各事件の内容も、その伝説の成長と共に複雑となて来たことは、各伝説の條項に於いて述べた通りであり、又伝説相互の結合混融の現象によっても証せられるであろう。

更に一言添加すべきは曽我伝説との結合現象である。中世武勇伝説の典型として、義経伝説に相次いで略々これと対立するものに、曽我伝説のあることは既に説いた所である。両者が各々優勢に成長流布して来る間に、無意識にも亦有意的にも国民によって結びつけられようとする試が起って来るのも極めて自然である。両者の連繋は『平家物語』(剣巻)及び『曽我物語』(巻八、太刀刀の由来の事)、舞曲『剣讃歎』に於いて先ず之を見る。即ち義経愛用の源家重代の名剣が箱根権現に奉納せられてあったのを、権現の別当から五郎時致に譲与せられたという事実がそれである。が、これはなお有意的に両伝説を関係づけようとした意図から来たのではない。舞曲『元服曽我』の十郎が舞と「しづやしづ」の歌詞も、亦両伝説の連繋でないことはないが、これも勿論両者を結合させようとの有意的な試ではない。意識して両者の説話上の交渉が企てられたのは主に戯曲に於いてであった。特に近松は好んでそれを試みている。『曽我七以呂波』(一名『義経追善女舞』)(初段)では静御前の妙音尼が大磯の遊女等を集めて義経追善の勤進能を催し、『曽我五人兄弟』(三段目「つわものぞろえ」)には頼家の為に賢聖障子に摸して描かれた勇士の画像中に入れて義経・弁慶等、特に碁盤忠信を礼賛し、『大磯虎稚物語』(二段目「静道行」)にも静が虎御前の父小柴郡司の病苦を見て、同病の我が弟磯野四郎の生命を犠牲にして、名薬を与えて急患を救うことがある如き即ちそれである。併し相互の交渉結合は上の例に観るように、末節枝葉に於いてであるに過ぎないのは、両伝説共、余りに史的に輪廓が明瞭であり、無関係さが何人にも知られ過ぎている為、その界線を朧化荒唐にすることが許されないからであろう。唯、歌舞伎では然様な顧慮は全然不必要であるから、『星合十二段』の関所問答の場に曽我伝説に附きものの朝比奈が飛出して、義経主従を助ける珍趣向も構えらるれば、『恋便(こいのたより)仮名書曽我』(天明九年、市村座春狂言)の

時宗半四郎。三立目、箱王にて牛若丸の形、箱根にて剣術修行の所。宇佐美左衛門松本鉄五郎。大勢にて取巻く所へ、団十郎景清、僧正坊の見えにて押出し、荒事あって箱王に允可の一巻を渡す所大評判。(『歌舞伎年代記』巻七)

というナンセンシカルな場面も容易に現出し得る。春狂言の留役として「もさ」詞の鶴の紋が無いと淋しいのでもあろうが、安宅の関ではちと勝手が悪くて流石の糸鬢奴殿も少々戸惑しそうである。又箱王から牛若への移行は如何にもありそうな連想で、それから僧正坊が誘導せられて、団十郎の家の芸の景清に合体するなど確に思いつきではあるが、景清が箱王へ兵法伝授などは、この世界でなければ想到出来ぬ奇抜な出来事である。説話上の交渉は比較的自由を欠く代わりに、人物の性行と気分の上に於いての義経・曽我両伝説の交流は必ず常に営まれたと思われる。「判官贔屓」に対して「曽我贔屓」という諺語が行われ、そして他にはこれに類した熟語が生じなかった事実が之を証して居り、又義経と十郎、弁慶と五郎乃至朝比奈、静と虎、梶原と工藤、富樫と朝比奈といった組合せに、それぞれ相似の人物としての姿が感ぜられ、その各々の伝説的成長に於いて相互に影響し合った点も相当少ないことが認められねばならないからである(尤も曽我伝説に於ける工藤は、歌舞伎の『対面』などになって来ると、全然の奸雄ではなく、却って義経伝説の富樫の一面を加味したような人物となり――これは座頭が扮する所から立役腹で演ぜられる気味が強くなって来た為であろう――、この点梶原が徹頭徹尾敵役で行くのと稍趣を異にしている)。

又義経伝説の成長に伴い、文学・演劇の諸作品と共に、絵画・人形・服飾・調度等に亘ってまで夥しい所産を見、就中絵画では絵巻・絵本以外単なる画題としても競って択び用いられ(純歴史画もあるが、伝説内容を加味したものが無論多い)、鞍馬寺蔵の牛若丸画像、中尊寺蔵の義経画像、及び弁慶画像、小川破笠翁の義経・弁慶・静の三幅対、菊池容斉の牛若講武鞍馬山図、浅草寺絵馬の堀河夜討の喜三太(容斉)、同じく五條橋(顕幽斉源一信)、土佐行光の義経牟礼高松図、土佐光信の屋島合戦屏風絵等いずれも有名で、その他武者絵・芝居絵の題材として常に錦絵類を賑わし、又五月人形には橋弁慶など、神功皇后・武内宿弥や鍾馗・金太郎と共に欠かされぬ一となった。釣鐘弁慶の人形も名高い。

が、それらよりも特に説述して置かねばならぬのは俚諺と古跡とである。即ち俚諺及びその類のものとしては、「判官贔屓」又は「義経贔屓」、「義経と向脛」(極端な差異のある事の喩であると云う)、「義経の空見、義仲の野卑」(義経は上目づかいをして空見する癖があったとの京童の言い草があったと、『勲功記』巻九、『理斉随筆』巻四等に見える。義仲の野卑の方は『平家』から出て、意味も明瞭である)、「弁慶」(強いものの喩)、「陰弁慶」又「内弁慶」又は「横座弁慶」(人の見ぬ陰だけでの大勇者ぶり、或は外には弱い癖に、内でだけの、又は下の者へだけの強がり。横座は上座の意)、「弁慶の立往生」又は「立往生」(方図を失って立ちすくむ意)、「弁慶は一度ぎり」(弁慶の情事は一生に唯一回)、「弁慶に蕃椒」(真赤な物の喩)、弁慶七戻り(難所の喩)、「長範があて飲み」、それに「判官眉」(相書に短気の相を云うと『理斉随筆』巻四に見える)、「弁慶の泣き所」(中指の最高関節から上の部分、或は三里・盆の窪など、いろいろに言われている)などいう語もある。『羅山文集』には「父の子母の子」という俗諺の来由も義経・弁慶に関しているとして掲げられてある(茶店の老爺が、爺の子六人、嫗の子六人、合して九人と言ったのが弁慶には解せなかったのを、結婚前爺嫗各三子があり、婚してから両人の間に亦三子が出来たのを云うと義経が解いたとの話で、謎々に義経伝説が結びついたものである)。又大阪の廓言葉に遺手のことを「弁慶」又は「弁慶遣手」と呼ぶのは、七つ道具を使うように女郎衆を自在に引廻す事から出ている由であるが、同じく幇間のことをも「弁慶」というのは、義経の膝元去らずの股肱の意から、旦那の御供役の代名詞になったのではあるまいか。ついでに義経伝説から出た品物名をも挙げると、服飾に「義経袴」「義経幕」「弁慶縞」又は「弁慶格子」(或は略して単に「弁慶」とも)、「長範頭巾」、鷹の羽の斑の名称に「大弁慶・小弁慶」(『松屋筆記』巻五)、遊戯具に「弁慶六指(むさし)」(陸奥地方の方言で「十六六指」のこと。武藏に掛けたのであること言うまでもない)、器具に「弁慶」(炙り魚の串刺の巻藁にも、団扇や台所道具挿しに用いる為の敷箇の孔を穿った竹筒にも云う。弁慶の七つ道具を背負った姿に見立てての名であろう)、(〔補〕「弁慶枠」(「鳥居枠」とも云う)、「弁慶土俵」(共に堤防具))、食品に「弁慶力餅」などあり、動物には「弁慶蟹」(赤蟹の異名)、植物には「弁慶草」(〔補〕「弁慶卯花」(錦帯花(はこねうつぎ)の異名)、「吉野静」(あけぼのそうの異名、又くさやつでの異名))の名を出している。なお服飾で狐忠信の衣裳の源氏車は実は『源氏物語』の車争がその名称の基づく所で、且全く偶然の動機から採用せられたのが、同じ源氏の類縁はあり、為に後には殆ど忠信の紋所と信ぜられるにすら至った。

古跡には伝説を生んだ地名・旧蹟ももとより少ないが、義経伝説が生んだものも寧ろ多い程である。その区別は明確には断定出来ぬのもあるけれども、各伝説の條に記した以外の主なものを次に列挙してみると、源義朝屋舗内の牛若丸産湯井(『和漢三才図会』山城国)、義経兵法場・天狗杉・義経背比石(鞍馬山奥の院)、弁慶蹴挙水・血洗池(『雍州府志』)、弁慶石(前に述べた京極寺のそれとは別で、山城国矢瀬天満宮鳥居側の大石で、弁慶が叡山から掲げて来たという物。又同一異伝として坂本に弁慶荷石、伊賀国名張郡簗瀬川に弁慶力石等(『雲根志』)。なおこの類の物は各地に散在する)、弁慶が水(叡山山王院附近。弁慶が千日の行をした時に毎日飲んだという井。一名千手又は千寿井)、義経腰掛松(須磨寺境内)、鐘懸松古跡・鷲尾旧跡(『兵庫名所記』)、逆櫓松(摂津国神崎村名主屋敷内(『理斉随筆』巻一))、弁慶背競石・義経腰掛石・弁慶腰掛松(『東海道名所図会』)、海士が瀬(越中国新川郡常願寺川北岸。畑等四郎左衛門尉という者が北国落の義経主従に浅瀬を教えた場所という(『北国巡杖記』))、義経雨晴(あまばらし)(富山縣射水郡)、甕割坂(『越後名所志』)、亀井六郎塚 下の亀井松に同じ・鈴木三郎塚・弁慶古跡 下の屋舗跡の事か・長者が原・吉次屋敷跡(『東遊記』平泉)、弁慶堂跡・弁慶松・亀井松・弁慶屋舗跡・鈴木三郎重家屋舗跡(『平泉旧蹟志』)、義経堂(平泉村、柳の御所)、義経首洗井・義経首塚(藤沢町)といったようなものがある。又諸国に拡布している弁慶の足跡(巨人伝説に弁慶が結びつけられたのである)や静の塚墓(美人遊行伝説の現象であること前に説いた)と称するものもある。その他遺物として義経主従の笈や静の舞衣・唐鏡・懐剣・守本尊等を存している所のあることは前に述べたが、伝義経着用の色々糸縅の腹巻(吉野吉水神社蔵、国宝)、同籠手(奈良春日神社蔵、国宝)、同冑・武具(鞍馬寺蔵)、太刀(医王寺蔵)を始め、その愛笛薄墨(浄瑠璃姫に記念に与えたものという。これも前に触れた。三河国矢作町誓願寺蔵)・守本尊(三河国碧海郡妙源寺の黒本尊を九郎本尊と通俗語源説的に解して附会したもの(蜀山人『小春紀行』))、或は弁慶の汁鍋(三井寺)、同じく椀(腰越満福寺)など称する物も伝えられている。又若木櫻制札を始め弁慶の筆蹟、殊に借用証文の残存する滑稽は既に語ったが、史実と共に、否寧ろ義経伝説の影響の広汎、従ってその流布の驚くべき範囲を有することの一斑は以上によっても推知し得られるであろう。

さて義経伝説の成長と共に注意せられねばならぬことは、これに伴ってそれに映し出されて行くそれぞれの時代色の変移である。同一の伝説が時代思潮の影響、土地・習俗の差異、文学の種類、作家の個性の相違等によって変化を蒙るのは、その性質上必然且自然である。義経伝説に於ける地方的変容現象は、国際的には牛若丸地獄廻伝説の羅馬神話からの移入、安宅伝説の支那説話からの転化等があり、原話とその変容とを比較してその間の民族的差異が自ら看取せられることは既に説いた。又国内的には地名の異同、事件の小変動、或は物見の松や静の塚墓の遊行等無いではないが、特にその地方々々を表している程の著しいものは余り見ないようで、僅かに義経生脱伝説の進展と、弁慶の生国に関する伝説の拡布など注目せられ得るだけである。それよりも遙に興味あり意義あるものは、義経伝説を借りて現れている時勢粧のさまざまでなければならない。

先ず室町期のものを一顧すると、其処では仏法と歌道とが思想の中心を成し、浄土が欣求せられ、法華経が尊ばれ、本地が信ぜられ、又秘事・秘伝・講説・教訓の時代であることは、直に義経伝説の上にも現れ、一個の完全な説話の形としての牛若地獄廻に地獄極楽、船弁慶に法力降魔、鞍馬天狗・鬼一法眼・島渡に兵法伝授を各々中心とする伝説となっている外、舞曲『八島』の佐藤が館の持仏堂に「阿弥陀の三尊・人丸の絵像」を掛けた如き、阿弥陀は摂待に相応はしいが、それと並べた人丸は微笑を誘うし、『静』の静御前が、頼朝の前で『源氏』六十帖を引いて身を喞ち、政子の為に『伊勢物語』の奥義を講ずる如き、この期ならでは見られぬ所であり、『天狗の内裏』及び謡曲『沼捜』によれば、頼朝が天下を掌握するに至ったのは、前生に尊信した法華経の功力で、『十二段草子』の矢作の長者は、前生大蛇であったが、今生に長者と生まれたのも、同じ御経を、貴僧の誦するのを常に聴聞した功徳に因るのである。『高館』の重家が、重代の腹巻を舎弟亀井に譲るのにも、熊野の本地の縁起物語が附属し、『十二段草子』には神仏の利益が盛に説き示され、義経その人も神仏の権化とならしめられる(『十二段草子』『御曹司島渡り』)に至っている。又義経が音楽にも長じ(『義経記』『十二段草子』『島渡り』)、学問にも秀で(『十二段草子』『島渡り』『天狗の内裏』)、仏法はもとよりその奥義を極め(『義経記』『十二段草子』『天狗の内裏』)敷島の道にも暗からず(『十二段草子』)、更に書道に至っても弘法に比すべき名手(同)であることは、時代人がその理想に合わせしめんが為に、この崇拝する人物の上に、かような姿を築き上げた結果であり、時代趣味が如実に反映している。

然るに江戸時代に入って、それは漸く変色或は褪色して来、室町時代に於いて判官の最も得意とし、牛若時代のみならず、義経となってからも屡々弄んだ笛も、江戸時代には『橋弁慶』『十二段草子』の如き先進の作を殆どそのまま踏襲したといった場合以外には、その妙音を澄ます新しい機会を余り作らなくなっている。そしてその笛を媒でのロマンスの主人公であった義経が、代わりに江戸時代には廓通いの粋大尽となって、弄笛から口説の技巧のみに転じた(『吉野忠信』『御所櫻』『人目千本』『鐘懸松』及び『風流鑑』『花実義経記』『?軍談』『東海硯』)のは当然であった。異性関係のみでなく、牛若は又寺児として、その鞍馬の師の御坊或は同宿との浅からざる契を仄めかす『義経記』(巻一)及び舞曲『鞍馬出』から、終に『知緒記』『勲功記』では、明らかに覚日坊等に関係せしめられ、『知緒記』の如きは、弁慶と主従の契約を結んだ事実をも、この関係を以て説明しようとするに至った。更に近松の『十二段』(初段)には、大天狗僧正坊すら牛若の「色香に魔道を失い、衆道の街に迷」はしめられることとなっているのは、『門出八島』に於いて次信と鷲尾とが義兄弟の約を結ぶのと相共に、室町戦国以後の念友若しくは衆道の風習を反映するものである。その『十二段』の同條に、謡曲『鞍馬天狗』の「姿も心も荒天狗を、師匠や坊主と御賞翫」の詞句を借りて、「形(なり)も容(かたち)もこの荒天狗を、師匠よ兄よと宣うこと、心根察して痛わしし」としたなど、「坊主」が「兄」となった所に、男色関係が寺から武士乃至一般庶民の社会へ移ったことが説明せられている。又、『義経記』(巻三)の弁慶の廻国は、単なる廻国であるのを、『弁慶物語』にはいさかい修行の為となり、更に江戸時代の『勲功記』(巻四)に降ると、「諸国を巡り、武将の器ある人あらば、主君と頼みて大儀を企て、四海を平治して政道を執り行わば、何ぞ吾が力にても萬民を助けざらんやと思慮して」叡山を後に廻国の途に上る戦国以後の武士そのままと変わり、『伊勢三郎物見松』では、牛若すら武者修行に出て、近江国で大蛇を退治して土民の憂を除くなど、全く岩見重太郎式で、亦時代の変移を見せている。更に又徳川期に於ける西洋文化の影響は、源平時代の逆櫓が、近松の『最明寺殿百人上?』の「阿蘭陀櫓」と変わり、『御所櫻』の伊勢三郎が、南蛮の骨接郷右衛門と称して、素人外科の看板を掲げ、患者の疵を診て、洋語の薬名を出鱈目に並べるのにも投影している。

概して言えば、人物も事件も、徳川期に入っては次第に儒教道徳的、又平民的傾向を帯びて来、源平時代の義経主従の卒直で武人的であった性質を失って来た。室町時代の義経伝説に現れた彼等は、なお源平時代の彼等の面影を存している。それは一には時代がさほど隔たっていないのと、一にはそれが尚古時代であった為とであろう。然るに徳川期に入って、八文字屋流の、故意に町人的にしてしまったものは姑く措き、少なくとも歴史としての意味を有たせようとする時代物乃至は読本に於いてでも、義経伝説に於ける人物の性格も亦事件も、複雑となった代わりに、偏狭となったものが多く、一体に虚飾的、道徳的、教訓的となり、赤裸々な所謂関東武人的の剛直の分子を失い、武勇も、滑稽に近い程極端な弁慶を除けば、余程形式的、附加物的となり、優美・人情・義理・苦節といったような感情的方面と、形式的理知的方面は益々その色彩を濃やかならしめられる反対に、豪宕不撓の自由意志を以て活動し、少なくとも真に武を以て生命とする人物を示し、真に戦争そのものを語るを目的とする意味は、殆どその跡を絶つに至ったのは、又時代の変化である。人物の性格の著しく道徳的となって来たのは、常磐御前・鬼一法眼等にその好例証を求め得べく、又逆落伝説の如き単なる戦争説話は、江戸時代文学の題材には余り採られず、或は堀河夜討すら京の君の自殺事件に絡み、若しくは伊勢三郎の敵討談の機会とならしめられたなど、上述の意味を説明する事例として挙げ得られる。そして『将棋経』(五段目)に大天狗をして判官の好色を訓戒させるのも、彼に対する世人の同情から、之を道徳的に完全な人物としようとするからで、同時に時代の儒教主義的な教訓的傾向を示すものである。

又その平民的となったのは、浮世草子に於ける義経の町人化に限らず、戯曲に於いてもそうであり、『鬼一法眼』では鎌田少進を御供として堂々と鬼一の館に乗り込んで来た御曹司牛若丸も、下僕となって入り込まねば虎の巻の秘巻を獲るの手懸りがなく(『三略巻』)、平家の侍悪七兵衛景清が、頼朝を狙うに、室町時代にはなお仕丁姿で足りたのに、太政入道の息男平家の大将軍新中納言知盛卿は、江戸時代に至っては大物の浦の船頭渡海屋銀平と変名して世を忍ぶこととなった(『千本櫻』)。御曹司奥下りの案内者吉次事、実は鎮守府将軍藤原秀衡の仮装というのも、奇抜ながら自然な著想でもある(『奥州秀衡勇鬘婿』)。『源氏大草紙』三浦の沖の舟遊びの如きは、鎌倉・三浦・重忠・本田次郎等の固有名詞を、江戸・両国・文魚・金魚と変えれば、宝暦・明和の十八大通の川遊そのままを観る心地がする。否寧ろ後に挙げた固有名詞の代わりに古代古武士の名を使ったに過ぎないようなものである。『鳥帽子折』に太刀おっとって夜盗に打向く吉次と、『義経倭軍談』(五之巻)の「さすが町人のあさましさは、いかにもして逃げばやと、高堀乗越え、隣の前栽の陰に身をふるわして隠れ」た吉次とは、又よく時代の変化を示している。純平民文学たる浮世草子の世界に於いては、金売吉次が俄に大勢力家となり、判官の軍用金方となっているのも自然の推具・馬具等の武士のかざりを質に置いて」(『東海硯』二之巻)傾城狂をさせるのは、判官の放埒の口実とは言いながら、武具を質に入れるのも町人の勝利で、且如何に太平の世なればとて、武人の魂を「武士のかざり」と放言して質に置くのは正に浮世草子の世界の特権で、時代相のまざまざとした浮彫である。

なお義経伝説の主人公たる九郎判官義経の性格・風貌等の伝説的成長に就いては、特に言うべき事が多いから、別に一節を設けて考察することにする。

第三節 義経の伝説的英雄としての成長附弁慶の伝説的成長

(一) 義経の伝説的成長

判官贔屓の対象たる九郎判官義経が、伝説・文学に於いて如何なる姿相で成長して行ったかを観るには、先ず史上に現れた彼を知らねばならないのであるが、史上の彼の性格を知るに便宜な資料は、僅にその短日月な得意時代のものに限られていて、十分ではない。併し少なくともそれらの断片的資料を集めて帰納する時は、伝説上の義経とは全くは同じでない性格の人であることの結論に到達するように思われる。進歩的で破壊的で我儘な気象が余程勝っている青年英雄だったようである。その行動に観ても、兄に対して全然恭順を旨とすることに終始したのではなく、又西国落・北国落も、実は再挙を計る望が絶えたが為とは言えないのである。然るに伝説に於いては、次第に義経の欠点短所は弁護補足せられ、或は削除し去られ、長所は益々発達せしめられて、義経は漸次理想化・完全化して行った。

義経の理想化・完全化】先ず第一に試みられたのは、義経の性格の完全化である。史上の義経はその頼朝に忌まれるに至った責任を、全然他に転嫁し了することは出来ない。何となれば西征に際して範頼が一一使を以て大兄にその命令を要請したのに対し、彼は常にその天才に任せて専断の所置に出て居り、頼朝の怒に遇うに及んで、今更の如く使者を献じ起請文を上ったけれども、時既に遅いのである(『吾妻鏡』)。又兄の推挙を待たずして左衛門少尉に任じ、平大納言時忠の女を娶り、後白河法皇の御信任を得、頼朝追討の院宣をすら請うて、京畿・西国に号令しようとした(『吾妻鏡』『玉葉』『愚管抄』『百錬抄』等)ではないか。それが伝説・文学の世界では頼朝・義経不和の素因は全く梶原の讒に帰せられ、義経は兄に対しては毫も異心無く、唯恐懼自ら世を狭め、又卿の君の婚姻は父大納言の悪計に発し(『御所櫻』)、頼朝追討の院宣は左大将朝方の奸策と改められ(『千本櫻』)、憐むべく同情すべき冤罪の人、功はあっても過は無きに、薄幸の日を送らしめられるという、全くその失脚の因由を自身の中に見出し得ない人物たらしめられるようになった。逆櫓論の短慮も、対手の梶原を極悪人とすることによって、義経の性格の完全化を防げることから救われるのである。『秀衡入』の如きに於いては、堪忍宏量の傑れた大人物となって、この短気性急という彼の性格の最大欠点は積極的に補正せられて、愈々完全な理想人に近づかしめられている。

次に義経は容貌に於いて漸次完全化せられた。将帥としての英姿は『平家』(巻一一)の屋島合戦、『盛衰記』の院参(巻三五)・鴨越(巻三六)等に描出せられているが、その風采の優雅という点では、木曽などにこそ比べられね、「平家の中の選屑よりも猶劣れり」というのが、恐らく時人の動かぬ評語であったろうし、その容貌は、『盛衰記』以来『義経記』舞曲等に至るまで、なお向歯反って猿眼の小男である。併し斯くては花の如き九郎御曹司という幻想と一致しない。浄瑠璃姫と一対の内裏雛としてはどうにも釣合が取れない。況や彼の母は千人が中から選り出されたという天下一の美人常磐御前(『平治物語』巻三)ではないか。国民はこれらの信條からして、義経は容貌に於いても亦必ずや日本の英雄中第一位を占める人でなければならぬと、自ら疑問を呈出して、自らそれを肯定するに至った。即ち既に『義経記』には、「容貌世に超えて」(巻一)、「いつくしきともなのめならず、南都山門に聞えたる稚児」(巻二)と賞め、舞曲『富樫』の「向歯反って猿眼、小鬢の髪の縮んで色の白き」の反歯猿眼は『十二段草子』では終に省かれて、「せい小さく、鬢の髪少し縮みて飽くまで色白」の公達となり、「玉をのべたる如くな」る浄瑠璃姫と対せしめられた。江戸時代に入って愈々この傾向は進んで来て、「その美しさ尋常さ、絵にも及ばぬ御風情、(中略)世界の器量を一つにして、ころりとこいで丸めても、いつかないつかなとどくまじ」(近松『十二段』)、「さすが名将の御子とて、御器量人に勝れ、美童の形類なければ」(『鬼一法眼虎の巻』)と、最早公然と認定せられてしまい、唯先進の文学の内容を踏襲したものは、その容貌も巳むなくそれに随っているのもあるが、その場合でもなお『風流西海硯』の如きは、「九郎は丈小さき男の、色白く当門歯(むかば)少し出で、見知りよき人相」と、わざわざ「少し」と弁護的な説明の副詞を附加しているのは頗る面白い。先の『十二段草子』がちぢれ髪を「少し」と遠慮して言っているのも同断である。更に義経の美貌説を極端に力説するものは『義経勲功記』で、東白老人なる者に態々問を発せしめ、常陸坊の残夢仙人の口から、「義経朝臣は世に云う如く美男なり。面体面長にして細く、目付黒眼大なり。髭も生ぜず、人相愛々しかりし」(「夢伯問答」)と言わせ、反歯は山本兵衛義経と誤ったのであると屡々弁じ(「夢伯問答」及び巻九・巻一六)、殊に巻一六の「守覚法親王与匡範・敦重・重政等御物語事」の條は、殆ど義経の美貌に関する談話を以て一貫し、義経に対する同情の声で終始している。

要するに義経の容貌を完全ならしめる為に、或は常磐の子であるから美しいと推論し(巻二)、或は異性では浄瑠璃姫(同)・皆鶴姫(巻三)、又同性では鞍馬の禅林房覚日(巻二)、仁和寺の守覚法親王(巻四)を始め、孰れも心を迷わす美男であると説き、弁慶の随仕もその窈窕(あてやか)さに思慕の情を寄せた為とし(『知緒記』上巻)、或は前代以来の義経の容貌観を否定するに、同名の他人との誤聞を以てするなど、『勲功記』及びその本をなしたと思われる『知緒記』は極力之を努めている。偶然にも義経と同じ時代には、史上にも見える同名の人に山本前兵衛尉義経・伊賀守源義経・波多野右馬允義経等があり、又摂政藤原良経も同訓の名の堂上である所から、没落後の義経は、義行・義顕とも改名させられたのであった。斯く数人の義経があるので、全く予想だもせぬ役割を振り当てられて、同名異人の九郎判官の完全化の犠牲に供せられた義経をも出す結果を生み、特に山本義経は瘤取の童話を逆にしたような形で、生まれもつかぬ父母の遺体に整形手術を強制せられた上に、「反歯の兵衛」の嘲笑的渾名まで無理に与えられて、最もその貧乏鬩(?)を引かせられたのである。『勲功記』(巻九)に、平家の軍中で、義経の容貌を評する時、周防の国の住人岩国三郎兼末という者の口を仮りて、又々例の山本九郎と源九郎の間違を述べさせ、判官義経は「二十ばかりにして色白く、面長にして鬚もなく、一向の小冠者にて候。京童が義経は空見することの癖ありと申し候が、実にも折々は上の方を見あぐる癖の候なり。世に■(齒+向)のさし出たると風聞仕り候は大なる人違えにて候。其は近江源氏の山本九郎義経にて候」と言わせるのは、噴飯に値する念入りの註釈であるけれども、亦義経に対する同情の一端である容貌の理想化・完全化の努力が、似て非なる考証癖に結び附いたものを、其処に観ることが出来るのである。歌舞伎の義経の如き、二枚目役者か女形の役処になってしまった観があるのも興味が深い。

容貌の完全化と共に、義経の行為好尚も、理想化・完全化せられようとする。例えば義経にとって最も忌まわしい建礼門院に関する流説は、『盛衰記』(巻四六・四八)以来の事であるが、『義経記』系統の義経物は全く之を採らないのみか、日本臣民として日本武士としての義経の人格を傷けるこの説の弁解は、必ず試みられざるべからざる所である。読本の『義経岩石伝』はその一で、これを江川源三の口から弁明させただけでは猶不足とし、更に「稗史氏云」として、著者自身亦この説を否定している。又牛若千人斬も、義経を完全な理想英雄たらしめる所以では決して無いのであるから、或は弁慶の上に移され(『弁慶異伝』『誉軍扇』)、或は臣下を得る為の方便と苦しい釈明が下されて来た(『孕常磐』『三略巻』)。更に『勲功記』の義経は、頼政の敗亡を予言する先見神の如き奇童であるのみならず、『盛衰記』(巻四三)の、田内左衛門を降す伊勢三郎の功も、「義経秘計の事」(『勲功記』巻一〇)となって、義盛は唯授けられたその所謂秘計に「是れ不測の上策、陣平・張良も争か及び候べき」と驚嘆して、予定の筋書通り命令のまにまに遂行するに過ぎないロボットとなった。又義経対女性の関係も、室町時代のものは大抵義経の方がアクティヴであるのに、江戸時代のものは却って反対に義経はパッシヴの位置に立って、女から恋せられる場合が多い。これは時代の変移にもよるのであるが、形の上からすれば、美姫に思われる才貌双絶の完全な人となったのである。戦略兵法の道はもとより、風流情事に於いても人後に落ちず、強からず弱からず、萬の芸能に達していたことは中世以来各種の文学に於いて描かれている。

なお義経を完全ならしめる為に、その母常磐を益々苦節の貞女となし了り、その臣常磐坊を怯者から蝦夷渡の案内者の大役に廻して、勇将の下に弱卒あるの非難をも自ら除去せしめ、更に『勲功記』に至っては、不義の臣泰衡までも、父の遺言を守って義経を蝦夷へ落す忠孝両全の人と転向せしめられた。これは又一には蝦夷渡伝説の可能を肯定する為にも必要であったのであろう。斯様にして義経はあらゆる点に於いて、国民によって完全化せられ、理想化せられて行った。唯斯く国民の理想的英雄とならしめられるに当って、その理想の基準、模型が、時代により階級により、文学の種類によって、多少の差異があるだけである。

義経の町人化】清和天皇の後胤、左馬頭義朝朝臣の息男、九郎大夫判官源義経朝臣は、江戸時代に入って俄に市井の町人となり、廓通りの大尽となった。これは平民勃興の時代、従って平民文学流行の時代となった自然の結果と、又特に浮世草子という特異の町人文学に故意に変身術を施された為である。但し義経の町人化の傾向は、既に御伽草子『秀衡人』に暗示せられていると言ってもよい。吉次が御供して下った牛若君に向って、秀衡はこれを慰めつつ、先ず入浴を勧める。

それはともあれかくもあれ、先ず風呂を結構に飾って、旅の御やつれを直し申せや人々と仰せける。御曹司は聞召し、なのめならずに思召し、御風呂へ入らせ給う。昨日までも、只一人すごすごと下らせ給うとはいえど、風呂の御供は三千余騎とぞ聞えける。秀衡の総領錦戸・次男泰衡・三男泉の三郎を初めとして、五人の子供は弓手馬手より御垢にまいりける。

これは未だ純粋の意味での町人化ではないにしても、義経伝説が平民的となろうとする姿だけは看取出来る。風呂の御供の三千余騎は如何にも御伽草子らしいが、五人の子息等が総がかりで浴室での垢すりは、何としても平安文学でも亦中世文学すらもの本態でもない。

江戸時代の町人化した義経は又実に異様なものである。戯曲の義経に於いて、既に鬼一の下僕となり(『三略巻』)、九條町の色里に通い(『吉野忠信』)、又堀川御所の今様舞台で、「これは色里の傍らに住む者なり。我れ好色に身をやつし、太夫・天神」云々の唄につれて静が舞う「花扇邯鄲枕」の一曲に興ずる判官(『御所櫻』五段目)は、もう明らかに町人義経である上、八文字屋本に至っては全く純粋な町人化を観るのである。『平家』『盛衰記』で見ても相当にあるが、『義経記』(巻四、義経都落の事)に至っては、「忍びて通い給いける女房二十四人とぞ聞えし」という今光君の判官は、浮世草子の世界に於いては、どうしても廓通いをせずには済まされぬ。『義経風流鑑』『風流?軍談』『風流東海硯』等の判官は、日夕遊女買に現を抜かし、『風流西海硯』では、平家追討の本陣に遊女屋を宛てて、太夫勝浦を召して遊宴する。?に於いて白拍子静は必然にこの色里の太夫と転化せねばならない。果して、『花実義経記』『風流?軍談』がある。矢矧長者の家は、勿論遊廓であらねばならない。果して『義経風流鑑』がある。もっと具体的に町人化の好適例を示す為に、次に『風流東海硯』の義経を紹介して見たい。即ちこの浮世草子で義経が殊更田舎めいた姿に窶して京の六條三筋町の遊女屋浮島屋に来て、全盛の太夫貴宝寺屋の花紫を買うのは、言うまでもなくそれがもう純然たる町人化なのであるが、その夜が明けて迎えに来た供人が捧げる衣服を取って、賎服と着替えた扮装は、前の

結柴小紋の木綿布子に、股引其儘、革柄の大小、所々破れし菅笠をかづき、さながら田舎のやす侍と見えし。(一之巻)

に引きかえて、
 

肌着に隠し緋むく、上には黒縮緬に思い入の敷紋、帯は薄鼠のまがい織、八反がけの八丈嶋に、茶繻子の裏を附けし大臣羽織、金拵(ごしらえ)の大小に平印籠に色革の巾着(同)


という寛濶姿である。そしてこれが遊ぶその六條三筋町も、
 

その比諸国の遊里の惣本寺と聞えし、都六條三筋町の体、その花麗にして女郎も古代の風とは替り、昔渡の緞子、地なしの鹿子、八反掛の八丈嶋をかさね、真なしの一幅帯に、二布もの緋縮緬の二重に袷縫にして、匂油も常にかわり、顔に白粉色どらず、口に紅ささず、肌色のままに見せかけ、素足の道中勿体ありて、底から光る艶顔(えんがん)、地女の白壁程白粉を塗りこくるとは格別。(同)


とあって、些しも義経を連想させるような背景ではない。唯現れるものは上方文学式の遊里そのままである。「古今無双の名将と仰ぎし九郎大夫判官、六條の女色遊び日々に盛に成って、堀川御所より三筋町への御通い」(同二之巻)とは堀川御所と三筋町、何と皮肉な対照ではないか。而もこの三筋町に通う判官の豪華さは、
 

その身は金銀珠玉をちりばめし花笠を召して、紅の惣鹿子の廣袖を上召になされ、その比粋と都にて言われし太鼓共を五六人も同車にのせられ、(中略)四挺三味線にて騒ぎ歌を歌わせ、(同巻)


飾り立てた鳥羽車に乗って、之を十人ばかりの小童に曳かせ、山車の長刀鉾然たる行粧で色里へ繰込むというのである。

浮世草子の義経は斯く平家追討の大将軍から潔く転職して、立派な粋様になりすましている。だからこれも幇間になり替った海尊に囃したてられて、住吉屋へ通っては、太夫静の前を宗盛の二七大尽と争う一八大尽ともなり(『風流?軍談』)、「元来優美の大将にて、常に茶を好き給う故、陣中なれども茶坊主を召しつれ」(『風流西海硯』)、静太夫が廓の駆落の詮議を聞きながら、「莨盆引寄せて、灰ぜせりしておは」(『花実義経記』二之巻)すのである。古今の名将九郎判官の御前に於いて、稀世の賢人畠山と無双の勇士忠信とが、互に口角泡を飛ばして論ずる所は、先陣争か、非ず。戦略上の意見の衝突か、非ず。身受金六百両の手付三百両也を入れた女郎の、所有権の所在についての問題である(『花実義経記』二之巻)。故に浮世草子の世界、従って廓の世界、従って町人の世界に於いては、逆櫓論は酒論となり(『花実義経記』『風流西海硯』)、梶原の讒言の原因は遊女の買論から起り(同・同)、鴨越の逆落は太鼓持「鴨越の権兵衛が酒落し」となり(『風流西海硯』)、弓流は女郎の「指流し」と変り(同)、大物の浦の平家の怨霊は難破の遊女に形を借りた梅の精と現れ(『義経風流鑑』)、山伏摂待は「流を立る散茶うめ茶の遊女摂待」(『東海硯』目録)となった。結局義経の町人化である、平民化である。が、この義経の市井人化は、一面では時代の変移を映していると共に、八文字屋本にまで義経が材料に供せられるに至ったのは、外貌的に観て、義経の価値が下落したとのみ認定すべきではなく、偶々最も有名な、最も民衆に親しみのある、最も世人愛好の標的である、花も実もある史人英雄を拉し来って、町人文学・廓文学に移し生かして興味百パーセントの素材としたので、如何に義経の、又義経伝説の人気が大きいかを示すものでもあり、同時にその読者等がこの歴史・伝説の偉人の世界への親近を一層増した事を自ら感じて悦喜する所以でもある。そしてこの世界への移植に際しても、勿論義経はこの世界、この道での理想人、完全人として写される用意は決して忘れられていないのである。

義経の子方化】義経の町人化は伝説英雄としての義経の成長の正道では無論ない。判官贔屓の人気役者を武人の世界から市井人の社会へ引下した興味と、その義経が偶々女色の大将であったことが、浮世草子の大尽に利用せられるのに好都合であっただけのことで、謂はば義経伝説に加えられた好奇的、遊戯的な民衆の享楽趣味の逸興の発作とも言うべき、一種の変態的成長現象に過ぎない。この町人化とは無関心に、武将としての義経は、謡・舞曲や『義経記』系の義経物等、即ち純正の義経文学によって漸次に完全化せられて行き、神に近い大将と崇められるにまで進展したが、一面、義経に注がれる国民の無限の同情は、その極、知らず識らず終に義経を子方乃至は無能力者に類する者にすら化し了った奇現象をも呈して来た。特に失意時代の義経に於いてそれを観るのである。これは或意味で余りに度を越えた判官贔屓に引倒されたとも言えよう。

『平家』『盛衰記』の義経は威風凛然たる三軍の将帥、機略縦横の兵術家なのに、『義経記』以後の義経は何時かその雄姿を朧化しようとしてすら来ている。『義経記』に於ける義経が既に、その牛若時代は実に超絶の神童であるに似ず、成人後は見識も智略も漸減せしめられ(勿論幼時の面影が皆無となったのではないが)、一難至る毎に独力でこれを切り抜けることが困難に身受けられる。舞曲の各篇に於いても亦同様である。そして名実共に義経の子方化が最も極端に示されているのは、言うまでもなく――この子方という用語を其処から借りて来た事でも自ら説明せられているように、――謡曲に於いてである。牛若時代の彼を主人公とする『鞍馬天狗』『橋弁慶』『湛海』『鳥帽子折』等の曲に於いて、事実から言っても、役処から言っても、彼が子方であるのに不思議はない。ところが成人後と雖も猶、特にその失脚以後を取扱った『船弁慶』『安宅』の如きに至るまで亦、義経は子方である。然らざれば『正尊』『摂待』のようにツレである。シテとして写された『八島』『野口判官』などが無いではないが、僅に『八島』に軍記物のままの武将らしさが稍窺われるというだけで、彼を主人公として新に大英雄の面目を描き出そうと努めたものは謡曲文学の世界には一も無い。兎に角、役の上に於いて子方に割り当てられているに応じて、その義経の言動は驚くべき程に子方化し、没落以後の判官は、実にその激変ぶりに怪訝させられると言ってよいくらい無能力者化し、お坊ちゃん化し、依頼心の強い弱者となり、三太夫任せの御大名に近いものとなって、その難関に遭遇する場合の、御大将の口から発せられる紋切型の仰せ言は「ともかくも弁慶計らい候え」の一点張と固定するに至った。

即ち前述謡曲の各曲ではそれぞれ他の主要人物をシテとして創作せられている為、義経はこうした位置に廻された結果になっているのであるが、それは先行曲の模擬という事から来る場合も無論あるけれども、少なくともそうした傾向が馴致せられて来たことは、又時代の趨向でもあり、能では恰もそれを具象化している形だとも観られ、且その結果はかくして愈々義経は可憐なものとなって、益々世人の同情を惹くのである。同時に他面に於いてこの傾向は又一つの別の意義を有する。義経の子方化は、即ち弁慶の活動を意味するからである。弁慶が失意時代の義経を擁護して、進んでシテの役を引受け、十分に活動するに応じて、義経はおのずから子方乃至ツレ或は無能力者に近いものとならざるを得ないのである。『義経記』以来奥州落の義経は、頓に幼年時代の頴悟と豪胆とを失って、屡々逢著する難問題の解決には、歯がゆいまでに優柔不断で、幾度か陥った危地を脱するには、常に弁慶の智と力とに俟たねば十死に一生を得る事が出来ない。『義経記』及び舞曲に珍しく義経一人で働いた笈さがしの弁解も、結局大先達の弁慶が顔を出さねば治まりがつかないのである。斯様にして義経は竟に殆ど人形然たる人物とならしめられようとする。併しそれは所詮、一時国民の同情の発現が極端にまで趨り過ぎた結果であり、義経の為にさして悲しむべき現象でもないのである。引倒しの偏愛主義が却って義経に真の英雄たるの資格を失わしめて来たことの自覚が目ざめて来れば、この傾向は自然に緩和されねばならぬからである。果たして江戸時代に至っては、再び義経は義経伝説を指導する活動の中枢となり、智勇兼備の武将となって、失意時代に於いても多少の意志を働かし、単に弁慶に任せて晏如たる人物では無くなって来た。そして弁慶は『義経記』、謡・舞曲に於いて担当したシテの役柄の大部分を次第に再び主君に返納して、自身はツレ中の大立物となり、発展の舞台を主として滑稽の方面に転ずるに至った。
 

義経の純伝説的英雄化及び神仙化と再生説】高館に於いて史上の義経は歿した。併し同時に彼はこの瞬間以後、純粋な伝説的英雄として飛躍する自由が与えられた。或は弁慶立往生の偽計で重囲を生脱したとし(『将棋経』)、或は大天狗の迎にあって昇天し(『野口判官』)、或は神仙となって長寿を保つとする(『勲功記』)。何れも高館に徒死させない点に至っては同一である。蝦夷に於いて義経大明神と仰がれるに止まらず、昇天生脱は即ち一種の准化仙譚でもある。況や『勲功記』の残夢の言に従えば、仙人となったのは独り海尊のみでなく、義経も弁慶も、既に高館滞留の間に仙人となっていたのである。国民の同情は竟に判官を殺さないのである。神仙化は実にその便宜な且神秘の一方法なのである。今一つの手段は義経を再生せしめるにある。仏法の輪廻説を利用して、後世に更正せしめた上で十分に技倆を振わせ、幸福或は美名を享けさせて、その前生の不遇を償わしめるのである。『最明寺殿百人上臘』に義経は北條天女丸時宗と再誕し、『英草紙』には紀任重(きのたふしげ)の裁断によって、楠公と生まれ出ることと定められたのは即ちそれである。

併しこれらはなお、国民自身十分の満足と確信とを与えられ、或は他に与えしめる所以ではない。最も自然らしく、且最も愉快な、そして最もしの効果の大きいのは、やはり人間とし武人として高館を生脱させ、更に進んで外地の征服者たらしめることである。野口判官伝説も高館生脱説ではあるが、決して進取的のものでは無い。義経の末路を説くものとして蝦夷渡伝説が最も有力となったのも故ある事と言わねばならぬ。義経が蝦夷に復活したのは、つまり輪廻説に由らずして義経を再生せしめたもので、その再生の場所を当来に求めずして、現世に延長して、成功の国土を更えしめたものである。而も一度蝦夷に渡らしめた風雲の勢は、更に駆って大陸にまでこの新生英雄を進出させ、韃靼に入り、金国に仕え、続いて支那四百余州に君臨した清朝の祖とせられ、終には東洋史から西洋史の領域にまで侵略を試みさせて、蒙古の太祖成吉思汗とならしめられた大発展は、恐らく九郎御曹司にとって思い設けなかったところであり、日本国民自身も亦予期しなかったところであろう。創作家「判官贔屓」の神偉力唯々驚嘆に値するのみと繰返すより他は無い。そしてその鐵木真の孫である世祖忽必烈が日本に来寇したのは、祖先の為に故国を併せようとする恢復事業であるとまで言われる一方に於いて、之を撃退殱滅した日東国の英俊は、敵の祖先の後身であるという摩訶変妙の矛盾を呈して、我等をしてその驚異的な錯覚に戸惑いさせられるのも可笑しい。併しこの生脱説と再誕説との衝突の滑稽も、所詮はやはりその絶大な判官贔屓の発動現象を確証させる契機であらねばならぬ。兎も角も義経は史的英雄から伝説的英雄へ、島国的英雄から大陸的英雄へと、漸次に推移進展せしめられて行ったのを観るのである。
 
 

(二)弁慶の伝説的成長

次には弁慶の伝説的成長に就いて一瞥したい。

伝説的英雄としての興味は義経よりも弁慶の上にあることは言うまでもない。それは史上に於いては殆ど認められない程の些々たる人物に過ぎないのに、伝説界に於いては、日本の勇者を代表する義経臣下の大立物であるからである。前にも述べたように、彼は実存した事は確実ではあるけれども、その詳らかな出自・性行等に関しては殆ど史上に所見が無い。併しそれだけ彼は伝説的人物として十分に活躍する自由を与えられている。そして彼は義経伝説の進展成長に伴って、漸次にそれを構成する主要人物の位置に就かしめられ、単なる英雄僧としてのみならず、判官の為の大黒柱となって、彼無くしては義経伝説は殆ど成立出来ぬほど、欠くべからざる傑物にまで作り上げられてしまった。その間、彼は紀州(『義経記』『弁慶物語』)或は雲州(『四国落』)という生国、熊野別当(『義経記』)或は岩田入道(『義経勲功記』)という父、それに申子の因からは若一(『弁慶物語』伽『橋弁慶』)、畸形の出生からは鬼若(『義経記』)の幼名を国民から与えられ――実際は成人としての弁慶が先ず知られ、溯ってその誕生・家系・生地等が穿鑿せられ説述せられたのである――、かくて産声を揚げた超人的奇童は、続いて恐らく国民の希望した通りに、叡山に上せられ、書写に遊学させられ(それらの伝説の成形を促した何等かの史実的片鱗があったのかも知れないが、全然その学証の手懸りは無い。少なくとも大部分は仮想の所産であろう)、学問の修得と乱暴の性行とを附加せられて、?に義経伝説への登場を期待せらるべき一箇の荒法師の白描が成ったのであった。そしてその輪廓の描出と成長完成の過程には、我が国の文覚や漢土の張飛・魯智深・李逵等、先輩英雄の直接間接の支援が容認せられねばならない。

弁慶の生国・父母等に就いての諸説に関しては森洽蔵遺稿『弁慶法師』中に分類表示が試みられているのを借用するが便宜と考えるから、それを多少補正して次に掲げようと思う。そして出生地に就いては、紀州説が先行し、それが雲州説に転移したであろうとの森説に、賛同したいということをも一言附して置きたい。

この表(次ページ)によっても知られるように、紀州説がやはり有勢で、その熊野から出雲の同名の地熊野へ生地が移動したのは、出雲の御穂崎から駿河の三保へ大国主神と御穂津姫命が飛行降下せられたという伝説と類を同じうするものと言える(駿河の三保にはその二神を祭る御穂神社が現存している)。
 
 

生  国 書   名
紀伊国  熊野別当弁正

二位大納言女

白拍子山の井
義  経  記
義経勲功図会
武藏坊弁慶異伝
同弁心
同 


同弁真


弁 慶 物 語
寛  文  記
謡  古  抄
弁 慶 の 誕 生
孕  常  磐
鬼一法眼三略巻
鬼一法眼虎の巻
義 経 一 代 記
同湛増

天 狗 の 内 裏
橋 弁 慶(伽)
和漢三才図会
同教真 義 経 知 緒 記
同弁暁
藤邦綱
本 朝 通 鑑
三  州  志
岩田入道寂昌 義 経 勲 功 記
出雲国 熊野別当湛増
 

天    狗 


 

紀州誕象女

四 国 落(舞曲)
懐  橘  談
弁  慶  状
雲  陽  志
近 江 輿 地 志 
後太 平 記
閑 田 耕 筆
近江国 摂  待(謡曲)
伊勢国 僧浄智 伊勢渡会氏系譜
               

弁正・弁心並びに弁真・弁暁の一群は同一人名の遊行現象、教真も弁心からの転生(弁真は所載文献の時代から推して、又恐らくその教真の真から出て、原の弁心に融化した形かと思われる)、湛増は熊野別当という称呼から、『平家』『盛衰記』によって当時の実存が証せられている人物への類化、邦綱は『弁慶物語』『橋弁慶』(伽)等で若一を拾って育てた養父五條大納言からの類化(五條大納言邦綱卿は福原の里内裏を造営した人。『平家』(巻五、新都)に見える)、白拍子山の井は『義経記』の鬼若の叔母の夫で且その養父となった山の井三位からの派生である。やはり『義経記』の弁正(或は弁昭・弁照・弁昌か)が最古で且その本源であるようである。『勲功記』の寂昌もそれからの派生であろう。岩田は紀州の地名である(熊野参詣の重盛が岩田川を渡った時の伝説は『平家』(巻三、医師問答)に見えて有名である)。中に奇抜なのは天狗の子とする『雲陽志』で、これは湛増を認容し難い為に、それを同音の女性に転じて誕象とし(紀州だけは認めるのか、或は転移に際して自然附帯して来たのか孰れかであろう)て、怪婚説話を形成させたのである。

又弁慶の名義に就いては、『義経記』には実父の弁と師匠のくわん慶の慶を取ったとし、『橋弁慶』(伽)には養父五條の弁新大納言の弁と叡山の師の坊慶心の慶とを合わせたと説明せられている(なお『松屋筆記』(巻九三)に『元享釈書』(巻一三、俊?伝)を引いて、同名異人の弁慶がいたことを指摘してあるのは面白い)。武藏坊の来由は昔叡山に西塔の武藏坊と号した悪を好む者がいたのに肖って自ら附けたとする『義経記』(巻三)に自然さを見出す。

弁慶は滑稽の男なり。むさし坊とつきたる事は、弁の字を片仮名にて読めるなるべし。
という『南留別志』の説は、余りに諧謔趣味に拘れ過ぎた牽強で、一時の思いつき程度の洒落でしかあり得ない。『非南留別志』『南留別志の弁』等に駁せられているのは当然である。『義経記』好きであった筈の来翁も、上の一節を看過したものと見える。

さて弁慶はその不鮮明であった正体を斯様にして明確に映出しつつ、又同時的にも継時的にもその影像をさまざま流動変移させつつも、おのずからその間に印象を固定させつつ、自身を刻み上げて来た(その後と雖も、断えずその流動変移を続けていることは、前掲表中の書名に近世のものが多く見出されることと、上に加えた説明とによっても明瞭であろう)。が、先ず白描として出来上った姿の弁慶は、なお「いさかい」を生命とする悪僧たるにとどまり、橋弁慶伝説に於いて良主を得るに及んで、その性格に一変化を来さしめられるまでは、殆ど乱暴そのものの具象化の観があった。謡曲『橋弁慶』の彼を見るがよい。単なる不敵の曲者というだけのことで、五條の橋に化生が出ると聞いても、一旦「さあらば今夜は思い止まらうずるにて有るぞ」と人並に一寸怖じながら、「いや弁慶程の者の聞き遁げは無念なり」と復思い返して出かけるという男である。而も初めの高言に似もやらず、小童牛若に散々に悩まされ、終に手もなく打負かされて呆然とする人物である。勇は余りあるが智慮を欠いている。要するに斬り殺されないで幸に臣従となった湛海、或は熊坂なのである。旦那の秘蔵っ子の坊ちゃまの御守を仰せつけられて、その御相手となり、戦ごっこをして逃げまわっては、坊ちゃまの御笑顔を拝して有難がる愚直強力の権助である。総じて生立時代の弁慶は唯極端な勇者の他何ものでもない。唯『弁慶物語』の弁慶だけは、報恩的精神に富んでいるが、畢竟なお強盗式の人物に過ぎない。その武藏が義経に臣事して後は、この剛勇に胆略・智才・法力・忠誠等種々の美徳或は器量を加えて来て、異常の成長を遂げ、判官失意時代に進んでは、主従の孰れが伝説の主人公であるかを疑わせる程の大立役となり、智勇兼備の参謀長となるに至った。そしてその弁慶の完全化の頂点は実に安宅伝説である。

一方彼の剛勇の方面は益々進展発達せしめられ、殆ど極度に誇張せられ、且、七つ道具という奇抜な持物をまで負わされることとなった。室町期の物にはこれを明記したのは無いが、江戸初世にはもうかなり有名となっていたらしく、正保板の『義経記』の挿絵でも弁慶はそれを背負って居り(〔補〕『弁慶誕生記』(『外題年鑑』に元禄七年興行の『弁慶出生記』とあるがこれか)の四段目には
 

好む所の道具には、熊手・薙鎌(ないがま)・つげの棒・拈り(ひねり)・刺又(さすまた)・鉞(まさかり)なんと、背(せな)にひっしと差並べ、外にすぐれし大長刀、真中取って杖につき、ゆらりゆらりと唯一騎、五條の橋へぞ急ぎける。


と出ているのにその完成が示され)、宝永七年興行の『源氏冷泉節』(下之巻)にも
 

七つ道具に六つ武藏、弁慶は押えの役。


正徳三年(〔補〕或は同じく宝永七年か)興行の『孕常磐』(初段)では、清盛に五條橋上の天狗冠者退治を依嘱せられた弁慶が

この法師生まれてより人に物貰わず。お床に立ったるあの長刀、御門にかかりし突棒・刺股、火消道具の熊手・鋸・大槌など、貰いは致さぬ、欲しさに取ると、引寄せ引寄せ一つに取ってからげ、


それに為朝の獲道具であったという「銀のづく打つたる鐵の棒」まで、「これにて童を打ちひしげ。遣りはせぬぞ、さあ取れ」と浄海に投げやられて、

三本、四本、五本、六本、これこそ忝け七つ道具。
と勇んで出向くとしてある。その他江戸時代の文学・絵画・人形の弁慶には、七つ道具は必ず附き物となって、川柳子から
弁慶は四日一分の「出たち」なり
と、一日一朱の本職大工と極めを附けられてしまった。『勝時栄源氏』の狂言に至っては、この七つ道具は盗人の道具で、それを熊坂長範から甥の鬼若に譲り渡して弁慶と名を改めさせる(『歌舞伎年代記』)などは、笑止千萬の悪戯である。尤もその七種を完全に背負い且持っていない画姿が随分多く、又七種の名称も互に出入して一定していない。『鬼一法眼三略巻』(五段目)の如きは

熊手・薙鎌・鐵の棒・木槌・鋸・鉞・刺股で、これだけでもう七具ある他に、又大長刀を持っている。即ち初めは長刀を加えて七具であったのが、七つ道具の語が固定してからは背負っている物だけを七つ道具として、手に持つ長刀は除外せられて来たのであろう。弁慶七つ道具にも亦こうした成長が看られる。が、兎も角これが弁慶その人の看板になり了った事実は
 

色の黒い武藏殿は、悉皆田舎大工じゃまで。七つ道具の鋸・木槌、どっちへ置いてござんした。弁慶という証拠が無い。(『右大将鎌倉実記』初段)


の白にも現れている。大工見立てはこうして既に浄瑠璃作者以来だということもわかるのである。

弁慶以外に七つ道具を負わされている者に狂言『朝比奈』の朝比奈がいる。その扮装に「七つ道具」が規定せられて居り、本文にも
 

やいやい、これはその時手柄をした七つ道具じゃ。
朝比奈腹をすえかねてすえかねて、熊手・薙鎌・鐵撮棒を、持たする中間の無いままに、閻魔王に閻魔王に、ずっしと持たせて朝比奈は、浄土へとてこそ急ぎけれ。


とある。この狂言の製作年時があきらかでないので、弁慶との先後が判然せぬが、若し他の多くの狂言と同じく室町期に成った作とすれば、弁慶七つ道具の確証は江戸時代に入ってからの事であるから、この方を先とせねばならない。併し上の本文からも、少なくとも七つ道具という物が固定し且有名になっているらしく測定し得られるから、或は弁慶の方が出来上ってから、それが借りられて来たとの推考の余地も無いではない。弁慶のも室町末までには成形していたのではあるまいかと考えられるからである。それよりも確に弁慶よりは先立つと信ぜられ得るのは『太平記』(巻二二、畑六郎左衛門事)の畑時能主従の「七つ物」である。但しこれは

或は大鎧に七つ物持つ時もあり。
とだけで、その七つ物の名称は挙げてない。弁慶の七つ道具はこの時能の七つ物や朝比奈の七つ道具の先縦を襲ったものであろうが、弁慶自身亦七つ道具を生成させる萌芽とその傾向を既に有していることは、伊勢貞丈が指摘した(『安斉叢書』巻七)通りで、即ち『義経記』(巻四、住吉大物二箇所合戦の事)に
武藏坊はわざと弓矢を持たざりけり。四尺二寸ありける柄装束の太刀佩いて、巌通しと云う刀をさし、猪目ほりたる鉞・薙鎌・熊手を舟にからりひしりと取入れて、身を放たず持ちける物は、櫟(いちい)の木の棒の一丈二尺ありけるに鐵(くろがね)伏せて、上に■(虫+屋)巻したるに石突したるを、脇に挟みて、小舟の舳に飛び乗る。
とあるがそれであり、又山崎美成の『海録』(巻八)には上はなお六種であるが、幸若の『高館』に
一尺八寸の打刀を十文字に差すままに、箙刀・首掻刀・薙刀・小反刃を取りちがえ、鞍の前輪に締めつけ、左手に熊手をおっ取って、右手に薙刀打ちかたげ、膝にて馬に乗ったりける。弁慶が駆け出づれば、唯小山の動く如くなり。
とあるのこそ七種で、恰も七つ道具に叶っていると引証しているのも当っている(小反刃は「小反刃の長刀」と狂言の『富士松』に見えるそれで、即ち小さい薙刀であり、上の文の薙刀小反刃は或は一個をさしているようにも取れないではないのであるが、『義経記』(巻六)の南都で但馬阿闍梨一味が義経に斬られる條にも「薙刀・こぞりはの間に四つ切り落し給えり」と見えているし、前文に「取りちがえ」とあるのも刀二種、薙刀二種をであろうから、やはり大小別々で、その大の方は手に持つ恐らく一層の大薙刀の替えの具なのであろう)。そして先にも説いた朝比奈の七つ道具なども、或は少なくともこれらから派生乃至転成して来たのではなかったろうか。つまり弁慶七つ道具の名称は兎も角も、実体は既に室町期に成形しつつあり、或は成形していたとすら推定が出来るのではあるまいか。孰れにせよ、貞丈・美成の引用した如上の本文が、順次に弁慶七つ道具伝説の成長過程を説明していることだけは言明し得るのである。『諸書当用抄』(北畠家の記録であると云う)に具足・刀・太刀・矢・弓・母衣・兜を正しくは七つ道具或は七つ物という由が見える(『安斉叢書』『海録』、橋本経亮『橘窓自語』巻三等)けれども、惟うにそれは七つ道具の名称が流布してからの、強いて合理化せられようとして考案せられた解釈に過ぎないのであろうと思われる。

又、文学には余り取材せられなかったが、口碑としては釣鐘弁慶や力石の膂力が語られる事となり、大太郎法師(ダイタラボッチ)と混化して巨人の遺蹟を各地に留め、更に剛勇以外の弁慶を記念するものとして、勧進帳の能文、腰越状の才筆と共に、若木櫻の制札その他の手跡を後人に珍重せしめた如きは興味ある収穫である代りに、迷惑の限りは借用証文の累積であろう。而もそれすら贋筆の弁護まで生じた(『ひらがな盛衰記』)のは、やはり忠臣の余徳と言うべきであろうか。

が、兎に角謡曲『安宅』が出た事によって、弁慶は義経よりも先に、室町時代で最早殆ど完全化の極致に到達せしめられた事を保証せられたと言ってよい。斯うしてその完全化の頂点にまで成長して行った弁慶は、江戸時代に入っては今度は次第に滑稽化の傾向を示して来た。元来彼はその容貌・風采に於いて既に滑稽である。又前にも言った通り、剛強の極度に達したものは却って屡々愚に近く滑稽にすら見える可能性がある。弁慶の滑稽化は自然の趨勢であった。加之、これも既に述べたように、彼自身夙く『平家物語』(巻一一)、『盛衰記』(巻四二)の観音講式、『義経記』の堀河夜討の名告り(巻四)、荒血山の説明(巻七)以来の滑稽家(フモリスト)である。そして又皮肉屋の減らず口屋で大の悪戯好きである。江戸時代の戯曲で常住三枚目めいた滑稽家の本性を遺憾なく発揮するに至った、その由来は久しいのである。それと共に、演劇の『勧進帳』や『安宅関』のように、謡曲等の先進文学を殆どそのまま踏襲した僅少のものを除いては、戯曲の弁慶は概して再び昔日の蛮勇一遍、浅智短慮の愚直者に、幾分逆転したかの感がある。

そして作者が之を描くに当って、屡々有意的にこの喜劇人を紹介しつつ、諧謔的な筆を弄するので、為に弁慶の一挙手一投足が滑稽に見えない時はなく、武藏坊の片言隻句笑の種とならないものはない有様である。偶々法師の役を引受けさせられたかと思えば、次信の死骸に向って、伝説の一休和尚の鯉の引導そのままの漫語を吐き(『門出八島』)、その泣く状は「御運の程の口惜しやと、満月の如き両眼に、涙をはらはらとぞ流しける」(『胎内さぐり』)といった描写である。弁慶をして重きをなさしめる所以の性質の特徴は次第に稀薄になって行きつつ、曽て室町時代の彼にはその一面に潜在して、時々現れるだけであった滑稽の分子が、俄に優勢を示して来て、江戸時代の彼は殆ど滑稽の権化のような人物となった。徂来が武蔵坊の名を解するにも、彼を滑稽な男として先入主的に前提した為に、落語的な解釈と、愈々彼が滑稽家であるとの論結とを獲たのであると思われる。全く彼は作者からばかりでなく、作中の他の人々からも常に滑稽視せられ、彼が剛勇の表徴(シンボル)たる七つ道具まで嘲笑の種に供せられ(『千本櫻』初段、『智勇湊』三段目)、粗忽な失策者は常に弁慶と定まるにも至った(『凱陣八島』四段目、『右大将鎌倉実記』初段、『千本櫻』初段・二段目)。併しその代わりに彼は無邪気で子供らしい愛嬌者となったのである。そして又国民の好奇心と遊戯心とは、余りに罪なと言おうか、茶気満と言おうか、この剛勇無双の荒法師に、作者たり又観客たる国民自身の意表に出る行動を強制し要求せねば措かぬのである。弁慶に於ける涙と女とは、即ち此処から導き出されて来る。実に弁慶は屡々諸人から種々な場合に種々な方法で泣かされようとし、又

なぜだえと武藏静になぶられる
などと、異性を知らぬ木偶人の石部金吉ぶりを、これは又情の道では鮮やかな卒業成績を示している静に皮肉られるであろうと想像せられたり、「弁慶はたった一度ぎり」の奇警な諺が生まれたりもするのである。

弁慶の涙は実は珍しい事でない。『義経記』では既に幾度か泣いている。併しやはり先ず涙は少ない無骨者で、泣いても心から泣くのである。謡曲『安宅』の涙の如きに至っては、毫も滑稽の意味を認めることが出来ないばかりか、真に胸も張り裂く血涙である。然るに江戸時代の戯曲では、却って弁慶は甚だ涙を知らない。そして偶々一生に一度流すことのある涙は、如何にもわざとらしくて、その泣き方まで滑稽である。彼自身は本心から涙を流しているのであるが、作者・読者は初めから予想の色眼鏡を掛けて、それを滑稽化して見るのである。而も当の木念人は常に自ら強がり、飽くまで真面目がるが故に、愈々滑稽に見えるのである。

弁慶も大声上げ、その心とは夢にも知らず、諷言(あてこと)言うたこらえて下され。あったら女房殺して退けた。おれの目にも涙があるやら、煙たくて耐らぬ。坊主の役じゃと屍骸を抱え、弁慶が泣顔を頭巾被ぬ大黒とは、ついに見た者あるまいと、泣く泣く御前を立ちにける。(『右大将鎌倉実記』初段)
とは、義経に対する諷諌を、我が心に引き受けて自殺した卿の君に注がれた弁慶の後悔と同情の涙である。
無念無念と拳を握り、終に泣かぬ弁慶がたしない涙を
こぼすのは、『千本櫻』(二段目)、それに輪を掛けた念入りの泣かせ方は
生まれた時の産声より、外には泣かぬ弁慶が、二十余年の溜涙、一度にせきかけたぐりかけ
る『御所三』の上使の段、或は又『弓勢智勇湊』(三段目)では、鷲尾三郎義久の養父武藏左衛門有国とその実子が節義に迫っての死に流石の弁慶も
産まれて以来(このかた)覚えぬけむたさ、黒い面のはげる程、溜涙を流したはやい。
と袖を絞るのである。最も真面目な涙を描くべき筈の安宅伝説、而も謡曲『安宅』を殆どそのまま踏襲した長唄の『勧進帳』すらも、なお前掲『千本櫻』の詞を採って、
ついに泣かぬ弁慶も、一期の涙ぞ殊勝なる。
と、強いて賞讃めいた語句を附した為に、却って真摯を欠く印象が与えられるのであるが、それは弁慶の涙が如何に珍しく江戸時代には感ぜられることになってしまっているかをも、語っていることになるのである。『御摂勧進帳』の安宅の関で、態と縛られた弁慶が佯ってめそめそ泣くので、端敵の出羽軍藤太が「コレ坊よ、わりや泣くか。ヤレヤレ可愛や可愛や」と弄るなどは愈々珍であるが、これも同じ意味をも含んでいると思われる。

次に弁慶に押附けられたのは、一生一度の情事説である。元来弁慶は川柳にも

女に目のある男は武藏坊
とある通り、「随分堅き武藏坊」(『凱陣八島』)、「余の事はともあれ、一生不犯の武藏坊」(『将棋経』)として、これまでは世人に知られていたのに、『御所櫻』(三段目)で、おわさ・信夫という母子の人物が登場して、昔書写山の鬼若丸時代の、播州福井村の艶物語が突然公表せられてから、その不犯の堅さに罅(ひび)が入って来た。全く「肌押脱けばこは如何に」で、夢にも思い寄らぬ緋縮緬、大振袖の伊達模様は、おわさより先に見物の方が度肝を抜かれる。蛮勇一遍漆黒の荒坊主と女色に赤繻絆、何という不思議な取り合わせであろう。彼自身は真面目過ぎる程真面目なのに、急迫して息づまる緊張裡でも、読者乃至聴衆観客の間にあっては、同情の中に自ら笑を禁ぜざらしめるものがあるのは、弁慶と言えば直に連想せられて来る程、彼の特異な風貌(ママ)・性行が――而も伝説的にすっかり作り上げられてしまっているそれが――何人にも余りに親しいものとなっているからである。但し弁慶と女との関係はこの戯曲に始まったのではない。『義経記』(巻四)の堀河夜討の條に
武藏坊・片岡両人は六條なる女の許へ行きてなし。
と記されてあるから、実は格別大騒する程の事ではないらしい。それを奇想天外の問題として珍しがるのは、弁慶の伝説的成長並びに流布が江戸時代には此処まで来ていたことを反証する。又『御所櫻』の所謂「後にも先にもたった一度てんがうな事し」たというその武藏坊取って置きのロマンスも、それより十一年前の出雲の『右大将鎌倉実記』(初段)に「一生にたった一度、女と寝てから悟を開き」と既に先鞭を附けられているし、『義経知緒記』『閑田耕筆』の如きは弁慶には晨尚という子があったとまで伝えている。「弁慶上使」の悲劇はつまりこの情話伝説を雑婚の民俗を借りて具体的に説明しようと試み、それに寺子屋型の身替説話を絡ませたのである。青本『振り袖弁慶』、読本『武藏坊弁慶異伝』等亦同材を取扱った作である。

弁慶の情事説と共に世人を意外ならしめるのはその美貌説である。即ち『清悦物語』『塵塚物語』『右大将鎌倉実記』等に説くものがそれで、『塵塚物語』(巻三)は

扨弁慶が姿を恐しくいぶせく絵に画き来れり。大きなる僻事と見えたり。上の反故の中に、弁慶を美僧なりという事、数多その世の僧共の文あり。格別千萬の事也。
と、怪しの古反故の史料価値よりも、書かれた内容の新発見に驚喜しているのに却って驚かされ、又『右大将鎌倉実記』(初段)の
器量よう生まれつきしが学問の妨げと、我と目口を切りひろげ、面を炎天に千日曝し、生まれもつかぬ黒弁慶。
とは、とんだ能因第二世で、「我と目口を切りひろげ」など、何処までもふざきている。畢竟彼の美貌説は弁慶が実際余りに醜黒なグロの大坊主なので、それに応ずる対照の観念が反動的に皮肉的(アイロニカル)に起って来る為なのと、彼も亦寺稚児時代を有し、且は女との情事説も伝えられるによるからであろう。反歯猿眼の主君といい、畸形の鬼子の臣下といい、共に美貌視せられるようになった動機は必ずしも全然同じではないが、いづれも国民の理想化の眼鏡を通しての姿である点と、完全化への伝説的成長を営ましめられつつある点では一であると言うべきである。唯弁慶の白面は一応再応聴かされただけでは到底信じ得られぬまでに、黒さ醜さが一般人の脳裡に滲み込んでしまっているので、好奇心を一時満足させる程度に止まり、遂に旧い印象を改変するには至らなかったようである。『鎌倉実記』が若少の時の美容は認めながら、成長後の弁慶にはやはり普遍性のある御馴染の面貌を持たせねば済まなかったと見えて、故意に醜怪にすることを敢えてさせたのにもそれが語られている。

なお弁慶は浮世草子の世界では主君と共に町人化し、『勲功記』では主君並びに海尊と同じく神仙化し、蝦夷に渡ってはシャマイクルの勇名を残して、オキクルミの判官と並び称せられた。

要するに弁慶は乱暴の狂童から沈着な謀臣へ、剛強短慮の武弁から忠誠機才の英雄へと成長して行き、更に逆転して無謀朴直に還り、且無邪気な滑稽の発動家となったのであったが、併し江戸時代に入ってからでも、主君の保護者としての尊敬すべき彼が国民の間から影を没したのでは決して無い。一面に於いては真摯に彼を稀世の豪傑として畏服し、安宅の苦哀に涙を注がぬ者は又無かった。一代の名儒熊沢蕃山をして、宝鳩巣に嘲笑せられるほど(『駿台雑話』異説まちまちの條)にまで弁慶に心酔させ、智仁勇三徳兼備の武人の典型であるとの賛辞を吝ませなかった(『集義和書』巻一)のは、この国民の心意を反映していると観ることが出来る。出自不明の史上の一寒僧が、聖人の教、君子の道を説くに、その儀表として亀鑑として推薦せられるに至るとは、伝説の力、文学の力も亦恐るべく将た偉なりと言わねばならぬ。

第四節 義経伝説の中心思想

義経伝説の成長を眺め、同時にそれに相応じて映動する時代的着色の変移を辿って、我等は縦に下って来たのであったが、更にそれらの各伝説を横に連ねているとも言うべき、即ち義経伝説の各個に通有してその根基を成している中心思想を検討して、我が国民性の一面を把捉してみたい。国民性の研究はもとより伝説の側からのみでは完全な成果を期し得ない。併し国民全体の無邪気な共同創作である国民伝承の一種たる伝説に、国民性と国民精神がおのずからそして赤裸に反映せしめられていることも事実であり、国民伝説の研究も或意味からすれば――そしてそれは最も主要な意味でもある――此処に窮極せねばならぬ筈である。唯義経伝説は大略武勇伝説に局限せられているので(個々としては他の要素も附帯したり混合したりしてはいるが)、その根基を成している所のものも、亦おのずから国民性の或側面のみが特に強調せられている傾きがあるのは当然であり、又他の武勇伝説とも勿論共通している点が必然に存し、寧ろその意味では、他の類の伝説、少なくとも他の武勇伝説から引離して義経伝説だけの中心思想を論究することは必ずしも十分に当を得ているとは言い難いものがある。けれども――そして殆ど常識的に予期せられている以上に興味ある結論は獲られないのであるが――猶、我が武勇伝説を代表しているという意味に於いて、且その中での又特殊な意義をも有する一集団でもあるという意味に於いて、取上げられてよい値は十分に認めらるべきものであると信ずる。

先ず義経伝説の中心思想を形成する第一の要素として顕著なものは、判官贔屓と密接な関係を有する英雄崇拝の信仰的理念である。元来英雄崇拝は世界の各民族に共通した思想であり、その民族・種族乃至氏族を代表する理想的英雄を崇拝し尊信し、その功業を賛え、その感化を仰いで、自ら誇り自ら満足し、そして自らその英雄に己を近づけようと努力するのである。就中、我が国には古来この信念が不断に熾盛である。武の国日本は伝説英雄が特に作り出されるまでもなく、既に正史上に於いても、理想的英雄を国民に提供するに、余りに夥多の実例を有し過ぎるくらいである上に、世界無比の家族主義的な祖先崇拝をその一大特色とする我が民族は、従って又実に熱烈な英雄崇拝の民族なのである。

英雄崇拝と祖先崇拝とは頗る親近な関係を有して居り、英雄というのも、その民族或は氏族の祖先中に於ける英雄を崇拝するのが本来の形である。その民族乃至氏族を代表し指導する偉大な人格がそれらの民族・氏族から尊崇せられ信頼せられるのは自然の情勢であると共に、斯様な人物がその民族・氏族の子孫をも永く常に精神的に指導し感化し、従って尊仰せられるのも極めて当然の事である。国境・種族を超越して外国の英雄を崇拝することも事実として有り得る。それは何人にも通有する英雄的気分の普遍性がそうさせるのであるが、而も実は殆ど無意識に自国の祖先英雄に近い姿を見出して、これに私淑し親しもうとするに他ならぬのである。要するに祖先崇拝は又即ち建国の或は興家の祖先英雄を神聖視することから発源して来ている。その祖先英雄の血統を尊重し、その祖先英雄の累代の子としての父を敬愛するのである。その血統の継承という意味が重視せられているのが祖先崇拝で、それが次第に淡められ、偉大なる超人への拝跪という意味の方が特に強調せられている信仰が即ち英雄崇拝である。かくて祖先崇拝とは別に血縁の有無乃至直接間接に関せず、英雄心の満足と同時に、自己或は国民の指導者を当代の或は過去の理想的偉人に覚めようとする英雄崇拝が発達して来るのである。外国英雄の崇拝はこの心持の更に拡充せれた特殊の場合なのである。而もそれすら結局祖先英雄崇拝の一変形に過ぎない。尤も同時に一種の誇張された自卑の心意傾向から、外国或は他族の英雄を、反動的に尊仰する気持が加わることも往々あるが、一般原則としては、又窮極は、やはり自国の英雄、自国の国民精神を発揚し、国民理想を顕現した英雄の尊崇ということが、その本態であらねばならない。

斯様に祖先崇拝とはそれぞれ別種のものとして成長はしたけれども、所詮相通ずるものを有する同胞関係に立つ信仰である。特に我が国の如き皇室を中枢としての同祖同族の国民にあっては、祖先崇拝と英雄崇拝とは完全に一致している。そしてこの祖先を崇拝する敬虔純誠な心こそ、日本国をして今日あらしめる所以の尊い誇であり、精神的に大和民族を結合する中軸として重きをなす力である。日本の国家の成立も、敬神尊皇の精神も、家門家名の伝統を重んずる慣習も、皆この祖先崇拝と云う語によって説明し得られるのである。そしてこの思想が、その崇拝の対象を、宗教的意義を以て神話の中に求めた時は主として神道の領分に入り、人間的意味に於いて歴史及び武勇伝説の上に求めた時は、英雄崇拝となるのであると言っても謬では無い。この祖先英雄の崇拝――この思想を中心として義経伝説の核髄は成立している。義経に対する同情・嘆美・尊仰は皆この源泉から湧き出た暖い情念の流である。「判官贔屓」も決して単なる弱者に対する憐愍・同情だけではなく、一層有力な基礎をその根柢に有することを知らねばならぬ。義経を完全化し理想化するのも、主としてこの想念に基づくのである。そしてその義経を理想化するのは、一にはそれによって益々完全な崇拝の対象を得ようとの熱望から来るのである。

この祖先崇拝乃至英雄崇拝に関連して考えられねばならぬのは、皇室尊崇及び史的英雄の祭祀信仰と義経伝説との関係である。これは義経伝説に於いては特に重心をなしている程のものではないが、なお一言を費やす必要を認める。換言すれば、義経伝説からも敬神尊皇・忠君愛国の思想が看取せられねばならぬ筈であるが、事実は如何かと言う問題と、国民の理想的英雄である義経が、何故に国民神としての祭祀――それが常に日本国民の英雄崇拝の最後の到達点である――という恩恵を蒙らしめられないかという問題とである。

先ず第一の問題であるが、『千本櫻』(二段目)の銀平内の場で、弁慶が知らずして不図お安を跨がうとして忽ち足が踈むことのあるのは、『盛衰記』(巻四六)の壇の浦の御座船中に於いて源氏の軍士等が内侍所を開こうとして眼昏んだ神威と同じ想念で(これは『吾妻鏡』巻四、元暦二年三月廿四日の條にも見える。『千本櫻』の上の構想は恐らくこの話から示唆を獲たものであろう)、これらの皇室尊厳神聖の思想の閃きは義経伝説に於いても勿論認められる所である。そして如何に義経が理想化され国民化され、神人に近い英雄、日本第一流の武将とならしめられても、決して皇室に対して敵対する叛臣とはならしめられることはないのである。仮令事実は朝敵であっても好んで皇室に反抗する挙動には決して出でしめられていない(原史実でも平家討伐の時は平家から観てこそ逆臣であろうが、もとより純粋の朝敵ではない。都落以後も四囲の情勢で朝敵の汚名を受けることを余儀なくさせられただけであった)。安徳天皇を西海に攻め奉るのも、一院の御使としての役を果たしたに過ぎないのみか、終には如何にもしてこの御いたわしい幼帝を救い奉ろうとするに至る(『千本櫻』)。或は制札の「一枝」の謎を提示し、直実にそれを解かせて一子直家を身替に斬らせたのも、敦盛卿を院の御胤と知っていたからであった(『嫩軍記』)。日本国民の通念たる尊皇思想の発現で、消極的ながらも義経伝説にもそれが明らかに観られ得る。特に江戸時代の作に於いて、即ち成長した義経伝説に於いてこの傾向が著しいのは、一面時代を語ると共に、義経の完全化が愈々進められて来た現象として眺めることが出来る。

然からば第二の問題はどうか。凡そ日本の英雄で、国民崇拝の標的となった人物は、多くは神社に祀られ、生きては国民的人傑として、又死後は護国の国民神として敬仰せられる。正成といい、秀吉といい、又家康といい、皆それである。日本に於ける大偉人は、国民からして必ず神の地位にまで昇格せしめられねば巳まぬのである。然るに武将の典型としてその戦略は殆ど神に近い義経がかような意味の国民神としての国民崇拝の対象たらしめられないのは、何が故であろう。彼は死後その首を埋められた藤沢の地に、一小祀を与えられなかったのではない(『新編相模風土記稿』)。海を越えて安住を求めた蝦夷の地に、却って義経(オキクルミ)大明神として崇められていないではない。併しながら、白旗明神は天満宮・東照宮のようにその祭神の代名詞となるはおろか、湊川神社・建勲神社のように祭神と併せてその名を知られるにも至らないのみか、その名さえ、或はその祭神さえ忘られ、国民の中には寧ろ鎌倉八幡宮に隣接した頼朝父子を祀ってある白旗神社は知っていても、別に義経を祭った同名の神社の存することさえ知っている者の稀なのは不思議な程である。又偶然にも内地に於いて神とならずして、夷狄の地に大明神となるに至ったのは、為朝が八丈島に八郎大明神の名を留めたと同じく、その地の文化を開き、或は外敵を攘って恩沢を施した偉人を記念する為に、その土人が建て、或はその伝説に基づいて、後世好事の人が建てた類で、我が国民の信奉する神道思想の純正観念から創成せられた国民神の信仰からでは無いのである。

義経が日本人に尊仰せられるのは、決して神としてではないのである。彼を崇拝する国民の情は実に熱烈ではあるが、なお彼を神となし了るという傾向へは進められないらしいのである。そしてそれは一には又実に義経自身にあっては、国民神たるが為に必要にして且最も大切な資格に於いて欠けている所のものがあるからである。その第一の理由、そして最も主な理由は、前に一言したように、義経の日本国民としての尊皇の観念乃至行動が積極的でない点にある。国民は義経に許すに、花も実もある英雄、日本一の名将の賛辞を以てはするが、楠公・和気公に与えて吝まぬような勤王家・大忠臣の名を冠しようとはしない。伝説化した義経でもこの権利を主張することは出来ないのである。この第一の主要な資格を欠く上に、神としての存在が確認せられるには、九郎判官はその個人的性行に於いて、道徳の権化乃至は国民理想の顕現者として、なお十分に完全な人物ではない。若し神としての崇敬を鍾めるとすれば、纔に軍神としての意味に於いてでなければならないが、それすら伝説の義経には一層望めない状勢にある。英雄といい勇将といっても、田村将軍の如く、将た鬼上官の如く、武勇を擬人したといったような印象とは類を異にして居り、勇者と言う語では、その半面しか現し得ない程、優麗さ柔美さが彼には多分に具有せしめられている。愛慾に溺惑し過ぎる嫌すらある程、貴族趣味で女性的で、野生の男性的な豪快味が、伝説的に成長して理想化せられればせられる程失われて来てしまっている。つまり彼は強さに徹しきるには余りに弱いのである。神格を以て擬せられるにはなお余りに人間味が多過ぎるのである。けれどもこの一面に偏倚しない所が、却って義経の国民に愛好せられる所以でもある。神になりきれない所が彼の国民に親しまれる所以でもある。欠点のある所が、超俗でない所が、実は彼を国民の彼たらしめているのである。その不足している点までも理想化完全化して神にまで昇せられようとはせぬ所が義経のいのちである。要するに義経は飽くまで人間である。一段高い所に位するのではなくて、国民と同じ世界に住む人間である。而も忠臣でも道徳実践家でもない所に、彼の面目がある。義経に我等が接する時、神厳の感は起らない。その代わりに何となく暖い柔かい嬉しい、謂わば春風に面するような快感を覚えさせられるのである。繰返して言う、彼は神として国民に尊ばれるのではない。人間として国民英雄として、剛柔相和した典型的日本人として尊ばれるのである。否尊ばれると言はうより、やはり愛せられ、或は好まれると言う方がより適切であろう。国民信仰の最高の対象として崇めるよりは、いつまでも懐かしい愛人として彼を日本人は有っていたいのである。

次に英雄崇拝と当然連関して、義経伝説の中心思想を成している今一つの主要な要素は言うまでもなく武勇乃至尚武の観念である。これも亦実に武を以て国を樹て、武を以て生命とする日本国民の必然の所産であることを示すものであり、この尚武的精神が義経伝説の形成者であると同時に、又義経伝説の上に宿って、幾百年来士気振興に寄与しつつ国民教育の局に当って来たのである。

そしてこれに伴って、それを一層論理化した形相に於いて義経伝説の基調を成すものは、所謂武士道の精神である。即ち先ず最も著しいのは、その精髄をなす忠義の観念で、義経の臣下が主君判官に対する忠誠は、国民によって涙を以て描き出され、涙を以て迎えられる。主君の為には身をも家をも妻子をも忘れる尽忠の念の極度の発現の一は即ち身替説話であり、この犠牲的、献身的精神は、義経伝説に於いては継信・忠信の兄弟の上に代表されて現れている。そして判官の従臣等は、測らずも主君の不遇時代の来たことによって、一層その赤誠を捧げ、義心を披瀝すべき絶好の機会を与えられた。失脚後の判官に対する弁慶の忠義は即ちこれを代表するものであり、それは種々な場合に於いて、種々な手段によって、種々な姿で表示せられている。安宅の苦肉策は又その最も代表的なものである。その他泉三郎の義死といい、鈴木三郎の高館下りといい、いずれも亦この精神発現の好例証であろう。又義経自身にあっては、恭順孝悌で、寃を知りながらも親兄に逆らわず、甘んじてその咎を受けようとする所に、武士道の本義とする礼節と忍従と、犠牲的精神の一端とが併せ示されている。その他義経及びその周囲の人物の上に、忠孝・義烈・貞節・慈仁・友愛・守信・協同等の徳目の名によって表されるような、国民の倫理観念の中心をなす武士道・人道・婦徳・臣節の根本思想が遺憾なく現れているのは、一々例証するまでもなかろう。殊に勇猛心と敬愛心と、又悪を蛇蝎視し、正義を何処までも守ろうとする心持とは、主従に不断に通有して流れている所であり、如何なる場合にも協力同心、苦楽死生を共にする君臣一体の涙ぐましい結合は、即ち日本国家の縮図とも観ることが出来る。義経主従が国民に敬慕せられ、義経伝説が国民に広く流布し永く生命ある所以は決して偶然ではないのである。

それと義経伝説に看過し得られないのは、その中心をなすこの武勇精神とは、全く対蹠的な位置に立つ優美典雅の詩情が横溢していることである。一見それは矛盾している如くであるが、これが義経伝説をして単なる武勇粗宕のものたらしめず、一層伝説味を豊ならしめ、芸術精神へも連なろうとしている軽視出来ない傾向で、そしてそれは又実は所謂「武士は物の哀れを知る」という心情に通ずるものであり、やはり武士道精神の重要な部分と深い交渉を有っているのである。この剛柔両面、尚武魂とロマン的抒情精神との併有ということは、屡々説いたように、主として主人公義経の性格から来る所のものが大きいのであるが、彼を囲繞する臣従にもこれが行亘っていて、義経伝説を柔く色彩づけている。静御前は言うまでもない。御曹司の弄笛や情話やを再三繰返して眺めずとも、かの鬼神・猛獣そのものの如き武藏坊が、三塔一の遊僧、舞延年の達人だという奇蹟的な事実を指示するだけでも足りるであろう。先にも述べたと同じ事を再説することになるが、義経が愛せられ、義経伝説が歓ばれるのは、即ちこの両面の性質が偏頗なく具えられているからで、かの天照大御神の御姿の上に拝し奉るこの文武乃至勇美の二面こそは、日本国民性の基本的な容相であり、これを国民の最も愛好する義経に於いて見出す喜悦と、一層それを助長賦与して更により理想的な彼を迎えたい気持ちとが必然に発動し活躍するのは、当然過ぎることであらねばならない。

更にこの心持とも関連しつつ、義経伝説に著しく現れているのは、弱者を憐れむ精神、所謂判官贔屓であろう。これも亦頗る義経伝説の形成にも成長にも、与って重きをなす力の一であることは既に論じた。そしてこれも亦弱きを扶けて強きを挫き、善に与して悪を懲す武士道の精華である。即ち判官贔屓は単なる弱者への同情というのでなく、正しくして弱小なる者が正しからざる強大者に圧迫せられるのに対する義憤であり任?心である。否、弱小者というのも、正善でありながら力の足りない、若しくは実力は十分にありながらその発揮が抑止せられている、即ち実は順理正道の上では強者勇者でありながら、境遇に於いて、地位に於いて、権力に於いて、弱小なる者の謂である。その恵まれざる勇者が主張する正義が容れられず、赦すべからざる悪の跳梁する非理不道は、苟くも純なる者、直なる者の正義感を猛然として揺り起させずにはいないのである。そしてその弱者いじめに得々然たる冷酷傲岸な強大者を憎み抜かずに措かぬのである。祐経を嫌い、尊氏を責め、将た正成に同情し、秀頼を憐れむのは皆この同じ心情からである。これは実に又日本国民性の尊い浄い頼もしい美点である。而もその恵まれざる正しき弱者が、華やかな半面と悲壮な半面とを併せ、豪快放胆な一面と風雅慈温の一面とを兼ね、血と涙と、力と才とを具備した花実全き国民英雄の典型であるに於いて、この同情、この支援、この傾倒、この感憤は、竟に極度に無限に昂揚し来らねば巳まないのは亦必至の勢でなければならぬ。即ち祖先英雄の崇拝、同時に国民的理想人への憧憬を根基としての、弱者に対する人道的武士道的任?心――それは又更に、国民性乃至国民精神、同時に又人間性そのものに強く深く根ざしている所のものである――この複雑な併し極めて単純性を以て奔放に働きかける強烈な情念が、義経を中心として綜合結晶する時、其処に我等の義経愛好熱の表徴語たる「判官贔屓」の実体が生まれ来るのである。斯くてこの情念は義経伝説を育成しつつ、亦義経伝説に宿って燦然として光燿するのである。そしてその結果、義経伝説に共通して看られる現象は、如何なる伝説、如何なる文学に於いても、義経を悪人とすることが決して無いという事実である。

最後に、落魄時代の義経伝説に於ける判官主従は、概して寧ろ大人物ではない感があるが、蝦夷に渡島させられてから後にあっては、日本国民の進取的気象、海外発展の意気が投影して、義経を夷狄の征服者、又進んでは世界的大英豪たらしめようとしている。島渡伝説を発生せしめたのも、亦この気象であろう。然るにもかかわらず、転身せしめられた成吉思汗を、正史上から眺むればいざ知らず、日本人の想念の中に生きている義経は依然として島国的英雄でしかあり得ない。まして都落以後奥下りの彼を観る時は、唯これ小心翼々として己を防護することにのみ辛労し、天地に俯仰して哀哭することはあっても、天地を吐呑するの気魄は無く、歩々自ら活動の世界を狭め縮める環境には順っても、歩々積極進運の段階を築き、或は飽くまでも自ら樹てた遠大の目的の貫徹に向って質実に努力する熱意を欠き、力強く粘り強い執着心も、一難到る毎に屈せず益々奮起して新途を拓かうと志す不撓の精神も殆ど認め難く――弁慶には却ってそれが認められるが、併しそれとて決して積極的ではなく、憂鬱な中での力づけ、淋しい中の強いての笑に過ぎない――、要するに大夫判官義経は――国民の作り上げた源九郎は、飽くまで現世的で人間的な、温和で華やかで純情で気短かで、熱するも早く冷めるも亦早く、パッと咲いてはパッと散る「旭に匂う山櫻」のような日本国民一般の通有性を、遺憾無く具えさせられているのを見るのである。日本国民に最も愛好せられる人物は、又実に日本国民自身を最もよく照出する明鏡でなければならない。
 

本篇第一部 第三章了



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源義経研究

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2002.2.18 Hsato