島津久基著
義経伝説と文学

本篇

第一部 義経伝説



 

第二章 義経に関する主なる諸伝説
 

第四節 義経失意時代に属する伝説


(一五)安宅伝説附笈さがし伝説

吉野を落ちた判官は史実では南都方面に暫く潜伏したようであるが、伝説では山伏姿の北国落となり、その行途の苦難を語ると同時に、義経伝説中でも最も主要で、且有名なのが即ち安宅伝説である。

(い)安宅伝説

内容

人物 源義経・武蔵坊弁慶(四天王その他の従臣。なお一行の人数は謡『安宅』は主従十二人、舞曲は十三人に少人姿の北方都合十四人、『義経記』は十六人に少人姿の北方を加えて十七人)。安宅関守富樫(左衛門)
年代 文治三年二月下旬(奥州落の途)
場所 加賀国安宅関


義経は巳に西国落に蹉跌し、さりとて都にも足を停められず、吉野を遁れて後、奥秀衡を頼もうと、弁慶を先達とし、主従十二人作り山伏となって都を後に北国路を志し、諸所の難を経、辛酸を嘗めて加賀国安宅に着いた。旅人の言に聞けば、鎌倉の厳命によって、当国の守護富樫某(『勧進帳』では左衛門)が新関を据え、特に山伏を固く詮議する由、一行は歩を止めてこれが善後策を講ずるのであった。弁慶は血気に逸る一同を制し、判官を強力姿に窶させて、悠々関所にかかった。果たして富樫に沮止せられたのを、弁慶は東大寺再建勧進の一行と巧に陳じ、勧進帳を聴聞したいと望まれるままに、少しも動ぜず、笈の中から往来の巻物一巻を取出し、勧進帳と称し即智文を行りつつ、高声に読み上げた。甘服した関守に許されて関を越えようとしたその時、強力姿の判官を富樫に見咎められてしまった。弁慶は偽り怒って、そのあらぬ人に似た面憎さと、日頃の怠慢とを責め罵りつつ、金剛杖を執って散々に主君を打擲したので、富樫は漸く疑念を晴らして一行を無事に通過させた。関外人無き所、弁慶は判官の足下に伏して天罰の恐ろしさを懼れ哭するのを、義経は却ってその機転を賞し、救命の恩を謝し、互に悲運を喞ち述懐に時を移し、一行は皆篠懸の袖を絞る。折から後を追って来た富樫は先刻の無礼を詫び、且酒を贈って一行に贐し、弁慶は謝して起って舞い、やがて人々を促して奥へと下った。

出処】完成した本伝説を収採している――同時にその作によって本伝説は完成せられたということも出来る――唯一の古文学、謡曲『安宅』の梗概は上の如くである。同材を取扱った舞曲『富樫』(一名『安宅』)には勧進帳読みだけがあり、打擲は『義経記』(巻七)にはあるが、如意渡の難として伝えられ、本伝説としての完形では無い。舞曲『笈さがし』の一本にも、ねずみつきの関での打擲のことがある。『盛長私記』「弁慶状」等を典拠とし難いことは下に論ずる通りである。

型式・構成・成分・性質】説話としての本伝説の骨子は(一)義経主従が作り山伏となって奥州へ下る途、加賀国安宅関へかかった事、(二)関守富樫に怪しまれて、弁慶が勧進帳を読んだ事、(三)強力に扮した判官の危急を、先達の弁慶が打擲して救った事に要約し得る。全説話としては特殊の型式のものでは無いが、主君を佯打してその危難を助けるというモーティフを含む打擲型の遊離説話型を認めてもよいであろうことは〔本拠〕の項に掲げるような数種の支那説話の存在事実によって許さるべきであろう。そしてこの打擲も勧進帳読みも、複雑な道徳意識に結びついてはいるが、又、智力の勝利を説く童話的な一面もあると観ることが出来る。又一種の難題説話でもある。本伝説は史実的成分を本として、空想的成分が多きを占め(神話的成分は無い)ている史譚的伝説である。直接の武勇譚ではないけれども、英雄武人に関する意味でも、義経伝説の一単位を成す伝説としての意味でも、無論武勇伝説と目せられて支障は無い。

本拠・成立】判官主従が山伏姿となって奥へ下った事に関しては、『吾妻鏡』(巻七、文治三年二月)にも

十日壬午。前伊予守義顕、日来隠住所々、度々遁追捕使害訖。遂経伊勢・美濃等国、赴奥州。是依恃陸奥守秀衡入道権勢也。相具妻室男女、皆仮姿於山伏井児童等云々。

と見える。この義顕というのは義経を、後京極摂政良経と同音なので、朝議で一度義行と改め、更に斯く改められた判官の名で、これも『吾妻鏡』(巻六、文治二年)に
 

去月朝宗(比企藤内)等打入南都、雖捜求聖仏得業辺、不獲義行本名義経去比改名之間、空以帰洛……(十月十日)大夫属入道(善信)申云、義行者其訓能行也。能隠之儀也。故于今不獲之歟。如此事尤可思字訓。可憚同音云々。依之猶可為義経由、被申摂政家云々。(十一月五日)
可捜求義行改義顕事、去十八日、於院殿上、有公卿僉議如先度。……(同廿九日)


と出ている。義行が能行に通じて未だに影を晦しているから、今度はよく顕れるようにと三度義顕に改められるなどは、児戯に類した姓名判断で滑稽の感がある。それは兎も角もとして、吉野の衆徒に答えた静の詞にも「伊予守者仮山伏之姿逐電訖」とあり、鎌倉での口状中にも「自其所似山伏之姿、称可入大峰之由入山」ともあった事も此処で重ねて指摘して置きたい。妻室をも伴った事は『盛衰記』(巻四六)にも
 

年来の妻の局、河越太郎が娘ばかりを相具して下りにけり。


と記し、『義経記』及び舞曲中の奥州落を取扱った『富樫』『笈さがし』『やしま』の三曲共、少人姿の北方を山伏の同勢中に加えていて、史実の通りである(但し『義経記』では久我大臣の姫君としてある。又謡曲『安宅』には義経を子方とした為、故意に省いたものと思われる)。

又謡曲『安宅』に「時しも頃は二月の、二月の十日の夜、月の都を立ち出でて」と、主従が都を立った日を二月十日としてあるのは、恐らく『吾妻鏡』の判官奥州落の記事の見えている日附が前掲のように文治三年二月十日であるのを採ったのであろう(『義経記』には出立の日を二月二日としてある)。安宅関でこの事件の起こったのをば「憂き年月の二月や、下の十日の今日の難」としてあるのも、臆測を許されるならば、この出立から大体起算してあるのは言うまでもなかろうが、その「下の十日」の詞句は或は同じく右の上の十日から導き出されたのではなかったろうか。それからやはり『吾妻鏡』(巻八、文治四年十月)に
 

十七日己卯。叡岳悪僧中、有俊章者。年来与予州成断金契約。仍今度牢籠之間、数日(一本、月 令隠容之。又至赴奥州之時者、相率伴党等、送長途。帰洛之後、企謀叛之由、有其聞。仍内々窺彼左右、可召進其身之旨、被仰在京御家人等云々。


という記事も見える。正史の俊章は即ち伝説の弁慶の役を勤めた奥州下りの先達であったのであろう。後に引くように『盛長私記』が俊章をして弁慶の位置に代らしめているのも、自然な著想として肯けるところである。

一方対手方の関守富樫が一行を抑止した事に関しての正史の徴証は無い。富樫氏の系譜は『富樫記』によると、その先藤原利仁に出、末葉は斉藤・林・富樫の三家に分かれて加賀・越前に勢を張ったが、富樫入道家通、法名仏西(『平家』には仏誓)が木曽方として越前燧ヶ城に籠って勇戦した事があり、その子次郎家経頼朝から加賀国を賜り、その子の家直は承久の乱に大忠があったとしてある。本伝説の富樫の名が家直とせられるようになったのは、この人物に当てようとしたのである。入道仏誓が燧ヶ城で敗戦して加賀へ退いたのを追って平軍が富樫・林の二城廓を奪取した事は『平家』(巻七、燧合戦)、『盛衰記』(巻二八、源氏落燧城、北国所々合戦)にも見え、富樫次郎家経が馬を射させたのを、新参の臣新三郎家員という者が己が馬に乗せて落した事も『盛衰記』の同條にあり、家経を「富樫介」とも記してある。又「安宅の渡」に構えた城郭を「安宅の城」と読んでもあるし、後のものでは『太平記』(巻二一、仁遺勅被成綸旨事附義助攻落黒丸城事)に「加賀国富樫が城」とある。舞曲『富樫』に「富樫が城」とあるのがこの安宅の城或は富樫が城で、謡曲ではそれが関になっているだけである。又『義経記』(巻七)に「篠原安宅の渡をせさせ給いて、根上りの松を眺めて」とあり、やはり舞曲の『富樫』には安宅の松とも根上りの松とも古歌に詠まれていると、里童等が語ることのある名松は、これも『盛衰記』の同條に
 

根上りの松という所は、東は沼、西は海、道狭くして分内なし。


と見えている。長唄の『隈取安宅松』の外題の出所、且、法螺貝の弁慶と俗に呼ばれる『安宅関』第一場の背景の大樹が即ちこれである。

次に有名な勧進帳読みの一條は『平家』(巻五、勧進帳)、『盛衰記』(巻一八、文覚高雄勧進、仙洞管絃)の文覚上人が高雄神護寺建立の勧進帳を読んで、院の御所を騒がせた事件が粉本を与えたものであろう。文覚と弁慶との性行の相似が一層この転移を容易ならしめたに相違無い。なお東大寺造営の為の諸国への勧進及びその大勧進の上人が俊乗坊重源であった事は『吾妻鏡』『東大寺造立供養記』『俊乗坊参詣記』等に見えている明らかな史実である。殊に『吾妻鏡』には周防国から東大寺造立の木材を採って上せた事、それに就いての重源の訴状、長さ十三杖の棟木用の材が同国から獲られた事、佐々木高綱が主として奉行した事等が主に巻七・八・九等に散見し、巻八(文治四年三月)には
 

十日丙午。東大寺重源上人書状到着。当寺修造事、不恃諸檀那合力者、曽難成。尤所仰御奉加也。早可令勧進諸国給。衆庶縦雖無結縁志、定奉加順御権威重歟。且此事奏聞先畢者。此事未被仰下。所詮於東国分者、仰地頭等、可令致沙汰由、被仰遺。


ともある。鶴ヶ岡の社頭で西行法師が頼朝に遇って営中へ招かれ、銀の猫を貰ったという逸話も、亦実はこの勧進に関しているので、
 

是請重源上人約諾、東大寺料為勧進沙金、赴奥州。以此便路、巡礼鶴岡云々。陸奥守秀衡入道者、上人一族也。


と『吾妻鏡』(巻六、文治二年八月十六日の條)に記されてある(西行俗姓佐藤氏で、秀衡と同じ藤原氏である)ような事情であったのである。すると、弁慶が北陸道をば勧進しながら(謡『安宅』)、奥へ――奥秀衡の館へすら――下っても、さまで不似合な姿でも無くなるのである。又今一つ、即席の弁才と朗読という点では『盛衰記』(巻四二)の観音講式の愛嬌も或暗示を与えているかも知れない。

ところが、茲に弁慶の安宅勧進帳読みに就いて、それは「弁慶状」及び『盛長私記』の記事に基づいて、謡曲『安宅』に作られたものとする見解がある。犬井貞恕の『謡曲拾葉抄』の所説がそれである。が、弁慶状は前にも引用して論じたように、義経含状と同様、腰越状に倣った後人の偽作で、勿論信を措くに足りないものであり、
 

折節被奇関守富樫而、叩弁口敵陣、而探当廻文笈、少不騒、逆棒遂披露、遁鰐口下著当国、天命期于今。


という拙劣な文辞から観ても、却って本伝説、と言うよりは謡曲『安宅』に拠って書かれたものと認定する方が、自然の感がある。又『盛長私記』(巻二七)の文は煩わしいが、次に抄出してみる。(注意すべき箇所に、註記を挿み、又さまで重要でない部分は全文を引く代わりに、簡約な記述にして添註することにする)
 

二月十日、前伊予守義顕日来処々に隠れ住て、度々の追討使の害を遁れ、頃日又叡山に隠れ居て、遂に伊勢・美濃等の国を経て奥州へ赴く。是陸奥守秀衡入道が権勢を恃んで也。


註 前掲『吾妻鏡』の文そのままである。なお本書では、『義経記』の久我大臣の姫君は、正妻河越太郎重頼の女とし、金王法橋を頼んで、潜に京から呼び取ったので、河越から附けられた権頭兼房、及び侍女二人と相具して来たのを、弁慶が計らいで児姿に扮装せしめるとしてある(『盛衰記』と『義経記』とに関係がある)
 

義顕以下は悉く山伏の姿を仮たり。相従う郎等には伊勢三郎義盛・亀井六郎重清・江田源三弘元・片岡八郎弘経・熊井太郎忠元・権頭兼房・備前平四郎定清・鷲尾三郎経冶・武蔵坊弁慶・平賀次郎景宗・秋田太郎盛純・信夫太郎季就・福島藤次忠澄以上十三人、義顕を加えて十四人、児童三人井に叡山の悪僧俊章・承意・仲教、先達として上下都合卅余人也。


註 叡山の悪僧仲教・承意等が予州に加担したことは、『吾妻鏡』(巻六、文治二年八月三日)に
去月廿日之此、生虜同意予州悪僧仲教及承意母女之由(下略)
と見える。但し俊章と同じく奥州行に加わったとは明記してないのを、同じ叡山の悪僧というので一に取り合わせたものらしい。なお平賀次郎の名は『太平記』(巻五)大塔宮熊野落の平賀三郎から来たのではあるまいか。片岡八郎も共通している。これは義経の臣の名でもあるが。
さて一行は加賀国に到ると、当国の住人富樫介は

鎌倉殿より別て仰は蒙らざれども、義顕を捜し求むべき由、国々へ宣旨を被下
たからとて(上の一節は『義経記』(巻七、平泉寺御見物の事)の「富樫介と申すは東国の大名なり。鎌倉殿より仰は蒙らねども、内々用心して、判官殿を待ち奉るとぞ聞えける」とあるのから来ているとおもわれる)、
 
安宅の辺に新関を構え(中略)、往還の人を改め通す。就中山伏に於ては押留め僉義す。近辺より修験道を心得たる山伏五三人を召寄置、山伏来れば、役行者より五代の立義を尋問、其言の分明ならざるは悉く搦取、獄舎に入置く。無智の山伏此災難に逢て、籠舎する者六七人に及けり。
関前で旅人からこの由を聞いた一行は、評議の末、運を天に任せて関に差しかかる事となる。
先立たれば、叡山の悪僧俊章・承意・仲教・弁慶等、先行向て関前を通らんとす。関守抑留して云、此所は山伏禁制の関所也。たやすく通すべからずと云。俊章が云、此は東大寺造立に依て、俊乗坊より諸国へ勧進す。巡行の山伏都合二百余人也。是は北陸道より出羽・奥州へ勧進する山伏也。何が故山伏禁制たるやと問。富樫介件の四人を先関屋の内に呼入れて申けるは、山伏を改申こと別義にあらず。伊予守殿鎌倉殿の命に背き、山伏の姿を仮て奥州へ通り玉う由、風聞あるに付て、山伏を抑留すべき由御下知により、如此関を居え山伏を留置候。面々には定て実の山伏にてぞ候らん。夫山伏の法をも承りて後、兎も角も計ひ候べしと、彼呼寄置たる山伏を召出して、問答させけり。俊章・承意・仲教は叡山の学匠也。武蔵坊も又同西塔に居住して、多年の学者なり。何ぞ田舎山伏の尋ることを答えざるべき。結句此方より彼山伏に却て不審を云けるに、答ること不能。四人の者怒て云、汝は山伏にはあらず。修験道の法をも不知、文盲不智の大俗にて、不動袈裟を掛、富樫殿を誑らかし、往還の山伏に無礼の非義を申掛、多くの人を悩すこと、是に増したる国賊なし。此山伏等を玉はり法に行い、後人の懲しめにせんと、申も敢ず武蔵坊山伏二人を捕え、些も不働。残る一人を仲教捕えて表に引出し、いでいで法に行わん。誰かあると喚りければ、十三人の山伏理不尽に押入て、件の三人を引張て引出さんとひしめきけり。富樫介大に驚き佗て云、客僧の御憤り尤至極仕る。渠は田舎の山伏なれば、争か都の客僧に法問に及ぶべき。混う御免を蒙るべしと、様々云ける程に、彼山伏をば赦しけり。富樫申けるは、各々は山伏に粉なき歟。然れば鎌倉殿の御下知なれば、私にも通しがたし。暫く此所に逗留有て、鎌倉殿より検使を受、御対面の以後、検使の下知に随うべしと申ければ、弁慶進出、此義尤然るべし。此所に逗留し、此程の疲れを休むべしと、富樫が右座に無手と居たり。是を見て十七人の山伏、富樫を中に取籠、伊予守殿の詞を待、悪しと云ば差殺さんと、目を配て詰めよせたり。富樫介弥与州なりとは思いしかども、遁難しと思いければ、何共して通さんと思い、富樫介と座を隔て居たる俊章に向て尋けるは、各には東大寺勧進の為、諸国巡行の由承る。若勧進帳や候。然らば聴聞仕り、富樫が如きも奉加仕るべきと申ける時、俊章則笈の中より天台止観を一巻取出して、勧進帳と称して高声に読み上げ、敬白して笈に入たり。其文章詞華を飾り、其正理詳か也。是頗る凡人の及所にあらず。富樫介は究竟のことと思いたる気色にて、此上は紛れなき山伏達なり。通し可申と下知して、悉く通之、剰へ様々の奉加しけり。卅余人の人々命を助りて、件の関所を遁れけり。富樫介は勧進帳にあらざることも、慥かに是を知けれども、一命危かりければ、是に縡寄て、無異義関所を通しけり。


即ち上の文は『吾妻鏡』を本とし、『盛衰記』『義経記』等を参酌して書かれた後人の筆であることは容易に推知し得られる。特に『吾妻鏡』に拠ったものであることは、内容のみならず、文章まで殆ど『吾妻鏡』そのままを仮名交りに書き下したところの多いのでも証左とする事が出来る。且、吾人の見によれば、上の文は謡曲『安宅』の拠り処となったのではなくて、これも亦却って『安宅』から出たものであろうと言いたい。俊章の勧進帳読みも『安宅』の弁慶そのままであり、「役の行者より五代の立義を尋問」「夫山伏の法」も、『安宅』からなど思いついたらしい書振りと言った感じがする。又、「いでいで法に云々」に至っては、愈々能がかり。演劇的である。全体を『吾妻鏡』の筆致に贋せたこの書に相応しくない。必ずや謡曲で既に成った本伝説を、この書の方が採ってそれを事実らしく書きなしたものかと考えられる。

兎に角、この書の内容、少くともその骨子は『吾妻鏡』そのままであることは否定出来ない。そしてそれはこれを藤九郎盛長の私記とする以上、『吾妻鏡』の記事と矛盾、差異を大ならしめることを許さない筈であるからである。即ち『吾妻鏡』に載せてある記事の部分は文章も殆どそのまま採用し、然らざる部分を『盛衰記』『平家』等の軍記物(或は『義経記』からさえ)、又は伝説想像等で補ったようである。そしてその補綴の部分も、なるべく『吾妻鏡』と■(てへん+童)著せぬように、或は『吾妻鏡』に見える材料によって脚色しようと力めたらしく、その部分の文体も出来る限り『吾妻鏡』の文に似せてあることが認められるのであるが、而もその補綴の部分は即ち他の文学や想像又は伝説からの借物である為、『吾妻鏡』に似せようと努めながら、猶往々脱線して「……しけり」といった体に傾き、知らず識らず叙事的物語風となって、他の『吾妻鏡』から採った部分との調和に破綻を来させている場合が相当あるのが本書の正体を曝露している。要するに、依拠を努めて『吾妻鏡』に求めようとし、伝説もこれに結びつけられ得る限りは採用しようとしたようである。斯様の建前で、奥州下りの條を、『吾妻鏡』のまま採ったとすれば、俊章等をも棄て去ることが出来ないのは当然で、特に彼等は『吾妻鏡』では、一行の護送車でもある。即ち史実の先達は彼等でなくてはならない。かくて弁慶の御株が彼等に奪われるのは、そうしてそれによって事実らしさを与えようと試みられているのは、怪しむに足りないのである。斯く考えて来ると、『盛長私記』の前掲の記述は『吾妻鏡』の記事と謡曲『安宅』とを併せようとした結果と観ることは出来ないであろうか。又、前掲の文の次の條に見える井上左衛門の事(巻二七)など、余りに突然で、その上、これは他の史料には見えず『義経記』だけに出ている事実であるが、又余りによく互に似ているから、他の部分の類似(堀河夜討の條、忠信吉野山軍の條、秀衡卒去の條、高館合戦の條等)と共に、『義経記』にも確にその材料を仰いだことが愈々証せられるように考えられ(前文弁慶が富樫の側に坐り込んで、鎌倉からの使が来るまで待とうと、わざと落ちつき払って言うことも、『義経記』(巻七、三の口の関通り給う事)から採ったのであろう)、こういう点が又他に正史の資料の無い安宅の條も、同様に謡曲の方が先ではないかとの疑を起させる助けともなるのである。その上に舞曲『富樫』にも俊章でなく、やはり弁慶の勧進帳読みがあって、それが謡曲から出たのなら別として、その確証が無い以上、寧ろ謡曲の粉本となったかも知れず、或は双方の共祖たる伝説の存在を予想せしめ得る余地が十分にあるのである。

伊勢貞丈は、『安斉随筆』『貞丈雑記』等に於いて、屡々この『盛長私記』と『扶桑見聞私記』とを並べて、「私記」という題号まで共通している点をも指摘して、享保年中江戸青山に住んでいた浪人須磨不音、初の名加藤仙安と云う者の偽作であることを論じている。山本北山の『孝経棲漫筆』(巻四)にも、『見聞私記』は原名『廣元日記』といったのを、毛利家から咎められて改めたものとし、享保年中台命によって成島道筑が偽書と断定した事を記し、元水野監物家来、須磨不音と名告っていた青山の浪人、加藤仙安の作で、『盛長私記』も同人が偽作した書だとしている。併し共に本書の方は、『見聞私記』に関してほど確信を以ては論断していない。且、元禄十六年刊の、『義経記評判』の凡例の引用参考書の中に、『盛長日記』という名があり、そして『評判』の註に引用した文について見ると、それが『盛長私記』と同一書であることが明らかである。然らば貞丈の説は少くとも『盛長私記』に関する限り、なお再批判を要する。既に元禄頃この書に『日記』と言っているのを見れば、元はそう云ったのか、或は『日記』とも『私記』とも云ったのであろうか。いずれにせよ、『私記』と云う題号の共通していることによって、『見聞私記』と同一作者の偽作であるとする貞丈の論(『安斉随筆』巻一九)は、さなくとも論旨薄弱であるのに、愈々根拠を失うこととなる(『見聞私記』の原名が『廣元日記』であったとすれば、又その原名にも、改称にも、其処に却って共通した点があることにはなるが)。併し『吾妻鏡』の文体を学んで遠く及ばず、処々に近世の口気が見えるなど、貞丈が『古文後集』の註の事を引いて考証した通り、後光厳帝以後のものである(同)のは勿論で、如何に早くとも室町季世を出でず、恐らくは江戸時代の作であろう。種類と文章とを同じうしている点に於いて、『見聞私記』と同一作者の手に成ったものであろうとの、貞丈の推定は、仙安のことがなくとも、同意したい所である。唯作者の仙安であるとないとを問わず、元禄十六年以前の作であることだけは確である(『盛長日記』というものが、元来在ったか如何かは、自ら別問題であるが、あったとしても、この書とは内容上の交渉は無いであろう。又その書の存在も信憑に値するか疑問である)。若し貞丈の言う如く、仙安の作ならば、本書は『安宅』以後のものであること論にも及ばぬが、仮令仙安の筆でなくとも(仙安が青山に住んだのが享保頃で、作ったのは元禄以前であるとの考を挟む余地はある。が、『評判』の参考書として挙げたのを見れば、今少し早い頃の作かと考えられる)、室町中期以後、江戸初世前後に成った後人の偽作と推定して差支ないと思われるから、やはり『安宅』の方が先行している作と断じても大きな誤ではないであろう。

更に、謡曲『安宅』は、『異本義経記』から出たとする説がある。これも亦『拾葉抄』及び小中村清矩博士の説(『陽春虜雑考』巻七)である。この『異本義経記』なるものには不幸にして未だ接したことがない。探索に時日と労力とを費したが竟に獲ることが出来なかった。同書の存在したであろう事は、『拾葉抄』の外、柳亭種彦の『熊坂物語』にも引用してあるのでも知り得られるが、その実体に関してはかなり疑問がある。即ち私見を以てすれば、この『異本義経記』も江戸時代の作で、謡曲『安宅』との関係はこれも亦却って逆であると推定せざるを得ないのである。何となれば『拾葉抄』所引(本伝説以外の場合をも含めて)の同書の内容に就いて検すれば、明らかに『義経知緒記』或は『義経勲功記』(正徳二年刊)と一致する部分が多く、その点でも却ってさまで古いものでなく、流布本よりは無論新しく、或は『勲功記』か『知緒記』あたりから取って作られたものではあるまいかとすら言いたい。例えばこの勧進帳読みの件の如き

『異本義経記』云、加賀国富樫介家直が関所を通り給う。家直が弟斉藤次助家、その場に在りて見咎めたりしを、富樫大きに制して、真の客僧達にて渡り給うものを、不浄の身として近付申さん事、明王の照覧計り難し。笛には定めて熊野権現の移り給うらんとて、縁より降りて蹲踞頭を傾けて皆々を通したりと云々。

と『拾葉抄』にあるが、『知緒記』(下巻)にも「或曰」として同文が引いてある。『知緒記』の引用した原拠が又その所謂『異本義経記』なのでもあろうが、同書には他の箇所には『義経記』の異本として『吉岡本』『長谷川本』等の書名を挙げて引用を試みているにも拘らず、この『異本義経記』の名は出していない。「或曰」が所謂『異本義経記』なる書からの引用ならば、書名なり、何本とかなり明記していそうにも考えられる。『知緒記』筆者には少なくとも題名不明の書であるらしい。又『勲功記』以前に『異本義経記』が若し行われていたとすれば、『勲功記』の製作の意義と価値とを大半失うこととなる。『勲功記』は海尊の残夢仙人が物語った資料を基礎として綴ったという形式で、義経伝に関する新な発表と言うわけであるから、若し読者の熟知している『異本義経記』と同一記事が積載せられてあるとすれば、殆ど興味は薄められる筈である。『勲功記』作者がそうした愚を学んだとは思われない。或は稀覯の『異本義経記』というものを入手して、その種本の一として、書名を明記せずに屡々引用しているようである。尤も『知緒記』は製作年代が不明であるから、その逆或は両者の共祖の仮想も出来ぬではないが)としても、『拾葉抄』等に引用せられた文章と説話内容とから判ずれば、『勲功記』と余り隔たらぬ時代のものであることを示している。富樫の弟斉藤次助家の伴随する如き、最も有力な証左で、少くとも流布本より遙に後の、恐らく近世の作と断じて誤ないと思われる(「明王の照覧」云々も謡曲から来たのであろう)。これを引用している『拾葉抄』は明和九年の板行、『熊坂物語』は文政四年の作であるから、『異本義経記』が『勲功記』以前の存在であることの確証とはなり得ない。上の如き疑問の書である以上、それに勧進帳読みの事件が含まれているからとて、謡曲『安宅』の本拠と目せられるには多分の危険がある。所詮『盛長私記』「弁慶状」といい、又この『異本義経記』といい、信憑の確実さを欠くこれらの文献に強いて拠るよりは、なお文覚勧進帳の事件を以て、本拠に近いものとするだけで足れりとすべきであると思う。

次は弁慶の主君打擲の一事である。これは『義経記』(巻七、如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事)から出たのであろう。即ち越後国如意の渡で渡守の平権頭という者が、判官を見咎めて渡船を拒んだので、弁慶は佯り怒って義経を砂上に投げ倒し、腰の扇を抜出して続け打ちに打って、流石の渡守に驚きの上に同情をさえ催させたという記述がそれである(打擲は無いが、六渡寺の渡守が舟賃を求める類似の話が舞曲『笈さがし』に見える)。同書(同巻、直江の津にて笈探されし事)の念種が関(この関名は『吾妻鏡』巻九、文治五年七月十七日の條にも見える)でも、判官を下種山伏(つまり強力と大して変りはない)に作りなし、笈を負わせて弁慶が苔で叩きながら追立てて行くことがある。舞曲『笈さがし』(上田博士校訂本所収。『新群書類従』に載せてある寛永本の同曲には出ていない)には、ねずみつきの関(上の念種関のことであろう)で関守井沢与一に咎められたので、弁慶が鞭であいのう(強力のことらしい)姿の判官を打つとしてある。『異本義経記』は弁慶ではなくして、亀井六郎が義経を縁から蹴落して打擲したとし、且場所を直江の津としてある(この点でも『安宅』の本拠というよりは、安宅伝説を改変して、原拠の事実らしく見せようとした感が深い。但しこれは『知緒記』には見えない)由が『謡曲拾葉抄』によって知られる。又『義経記』の富樫の館の條は弁慶一人、一行と引分れて富樫の許に赴き、東大寺勧進の山伏と称して勇力を示し、富樫を服して却って奉加に附かせることとしてある。舞曲『富樫』及び『笈さがし』(但しその冒頭)も大略同材である。そして『富樫』では勧進帳を読めと望まれて困惑すると、「都にてこの度入れたりとも覚えぬ自然の往来の巻物一巻」笈の中にあったという、冥感的な叙述になっている。孰れにせよ、これらの文学の素材となった伝説が種々あったのであろうが(それは同一伝説の異伝もあろうし、異種伝説の混入もあろう)、所謂安宅伝説の完成には、大略それらが綜合的にはたらいたと観ることが出来、特に如意渡の説話など有力に参与していることは争われないであろう。特に舞曲と謡曲とは必ずいずれかが他へ直接影響したのではないかと考えられる。

加之、茲に注意すべきは、本伝説、特に佯打のモーティフに於いての支那伝説との関係である。新井白蛾の『牛馬問』(巻三)に、

義経奥州下りの時、安宅の関にて、弁慶義経を打ちたるという。安宅関という事、謡等の作意にて、実はなき事なり。扨晋の成都王名は頴というもの反く時に、晋帝此害を恐れて、京を潜幸有りて河陽の渡に至る。津吏是を咎めて河を渡さず。時に宗典という臣下、跡より来て此様を見、則ち鞭を揚げて帝を打ちて曰く、津の長吏は非常の奇を止め禁ずるの役なり。汝今とどめられて、急の道を妨げ、貴人に似たる奴かなといえば、津吏もゆるして通しけるとなり。弁慶義経を打ちたるとは、是より作りたるや。如此の類甚だ多し。

と論じ、星野恒博士の『源義経の話』(『史学叢説』第二集)中にも、同様の意見が述べてある。併し若しそうの支那伝説が安宅伝説の本拠となったものであるとすれば、それは直接の本拠ではなくして、『義経記』の如意渡の難の説話を経過して安宅伝説の形となったと見ることに於いて、一段の自然さを増すのである。渡守に怪しめられたという点まで、そのまま『義経記』同條の説話は『安宅』の方よりは遙に上の支那伝説に酷似しているのみならず、『義経記』は又、確に部分的の挿話の素材に、支那の武勇伝説を借り用いた跡があるのを認めたいと思うからである。勇士の剛勇を語るに、必ず所謂異国の張良・樊■(ロ+會)に比した近古の時代に、支那の史書はもとより、通俗の軍書等も盛に読まれたことは明らかで、仮令後の、殆ど『水滸』『西遊』『三国志』の翻案づくめの馬琴には及ばずとも、『義経記』作者も亦、支那小説翻案の功を首唱するに躊躇しないであろうと思う。例えば、巻三「書写山炎上の事」の弁慶の乱暴は、『水滸伝』の五台山を騒がした魯智深から暗示を得たかの感があり、縦しそれは強ひて確認し得る程でないとしても、巻七「亀割山にて御産の事」の條に、誕生の男子を判官が山中に捨てようと言うのを弁慶が諌止して、

これより平泉へは流石に程遠く候に、道行く人に行き逢うて候はんに、はかなとばしむづかりて、弁慶怨み給ふなとて、篠懸に掻巻きて、笈の中にぞ入れたりける。その間三日に下り著き給いけるに、一度なき給はざりけるこそ不思議なれ。

とあるのは、『演義三国志』の長阪坡の乱軍に、蜀の勇将趙雲が、主君劉玄徳の幼子阿斗を救い出して来たのを見て、この子一人の為に我が勇将を失はうとしたとて、玄徳が取って之を山中に抛ち殺そうとしたのを、趙雲は争い諌めて止めた事、而も趙雲がその幼君を救って母衣の中に入れて戦場を馳せても、声を立てて泣かなかった不思議と、偶合にしては余りに似過ぎているではないか。江戸の読本全盛時代に、その粉本として重きをなした、特に馬琴の玉手箱であった『演義三国志』が早くもここでも日本文学に影響を及ぼしているらしいのは、面白い事と言わねばならぬ。

兎も角、少くとも如意渡の伝説の本拠は、恐らく支那伝説であろう。『牛馬問』の外に、『鎌倉実記』(巻一六)にも宋の羅大経著『鶴林玉露』(『稗海』及び『説孚』所収。日本では寛文二年に印行した)の天集「三事相類」の條を掲げて、如意の渡の話に相類する説話として、読者に紹介している(但し『鎌倉実記』では場所は如意の渡であるが、義経に代えるに、その臣杉目行信を以てしてあるのだけが相違している)。

鶴林玉露曰、楚公子微服過宋。門者難之。其僕探筮而罵曰、隷也、不力也。門者出之。晋王■(厂+欽)之敗、沙門曇永匿其幼子華、使堤衣褒、自随。津暹疑之。永訶曰、奴子何不速行。捶之数十。由是得免。宇文泰与候景戦河上、馬逸墜地。李穆見之、以策扶泰背曰、籠東軍士、汝曹主何在而留此。追者不疑其為貴人。与之馬与倶還。三事相類。

『鶴林玉露の原文も上の通りであるが、伴蒿蹊の『閑田耕筆』(巻二)にも『玉露』所載のこの三話と『義経記』の記事とを四事相類としている。そして前掲『牛馬問』に引いた晋帝の話は右の三事中の第二話に略相当する。近古には既にこの書すらも日本に輸入せられていた筈であるから(『鶴林玉露』の天集は我が宝治二年、地集は建長三、人集は同四年に成った)、『義経記』作者も必ず読んでいたであろう。もとより『鶴林玉露』からでなくとも、その原話から採ったのであっても差支無い。又別に『南史にも沙門が袁昴を杖で佯打して難を救った同型の伝説を伝えている。喜多村信節の『■(いん:たけかんむり+均)庭雑録』(巻上)にも『宋書』(王華伝)に見える前記曇永の故事と、『草蘆雑談』に引いてあるこの『南史』の所伝を安宅伝説の類話として挙げてある。或はこれらの支那伝説も同一伝説の種々の変容であるかとも考えられるが、『義経記』の同型説話は、その本源の形は恐らく支那からの移入と観ることが許されねばならぬであろう。そして『牛馬問』所載の説話乃至『鶴林玉露』の三事中の第二話が先ずその本拠として最も自然な容相を示していると言ってよいであろう。が、或は又支那伝説が日本化するに当たって、一方は『義経記』の話となり、他方では原話が伝説としても語られながら、舞曲に採られたような形としても成長しつつあったのかも知れない。『笈さがし』の弁慶が馬上から鞭で義経を打つという如きは、何となく未だ日本化しきっていない形を――日本化の過程にある支那伝説の姿を、見せているようにも思われるのである。

解釈】義経の窮状、逼難の頂極、覚えず手に汗を握らせるが、大先達武蔵坊の苦肉の計謀と沈毅豪胆とが、勧進帳の即智能文と共に、終に主君を危地より救い出して、奥下りの行途を遂げさせた。要するに本伝説は、弁慶の忠義と智勇を語る代表的のもので、寧ろ弁慶の伝説たるの観がある。そして弁慶の苦衷は――同時に義経の悲運とその忍従とは、又世人の同情を集める所、少にしては吉次が太刀担ぎとなり(『盛衰記』巻四二)、今又剛力と身を窶す義経は、奥下りには常に他人の従者になって酷遇せられねばならぬのも不思議なめぐり合わせであるが、それと対照して鬼のような武蔵坊の眼から迸り出た血涙には、千金の値があり、この場合だけは毫も滑稽感を誘わないのである。弁慶が国民に愛せられ怖れられる所以は他にある。弁慶が弁慶として讃歎せられ推服せられ、同情せられるのは、主として本伝説あるによる。弁慶が義経伝説に重きをなすのも本伝説あるによるのである。弁慶の人格も亦本伝説に至って完成せられたと言ってよい。即ち本伝説は弁慶の智謀を説く如くにも見え、忠誠を叙する如くにも見え、それに関連して富樫の義心を語るようにも見える。がそれは原の形と成長した後の形とによってその焦点が動いて行っているからで、進展した安宅伝説になる程、そのすべてを融化させているのである。そして又本伝説は義経奥州落の途中に於ける辛苦危険を語る――同時に各所で繰返された同様の困厄を、この一伝説に集中し代表させて語る――ものとして、生まれたものであると解することが出来る。同時に頼朝の義経追跡の急迫厳重を極めた史実をもよく反映している。更に山伏姿で潜行する事には、時代が語られている。実際この頃の武人が世を忍ぶ旅装としては、修験道の兜巾・篠懸・金剛杖姿を最も便利としたのであろう。近古の伝説や文学に、その例証が少ないのによっても知られる。大江山伝説の頼光主従(『大江山絵詞』『伊吹山絵詞』、御伽草子『酒顛童子』)、熊野落の大塔宮一行(『太平記』巻五)はその最も著しい例である。

又本伝説の本拠が支那伝説であったとしても、完成した安宅伝説、即ち謡曲『安宅』のそれは全然日本的の説話である。それを完成し、それに魂を吹き込んだものは純日本的な所謂判官贔屓の熱情である。若しその本拠が支那伝説であるとすれば、それが安宅関となり、山伏姿となり、鞭は金剛杖と変り、そして勧進帳読みを加えて、殆ど本拠の痕跡を認めることが出来ぬ程に日本化したところに、甚だ興味を覚えさせられるものがある。即ち純日本的に発生した固有伝説で、彼地の伝説とは偶合であるとの感を抱かしめられる程、国民的のものとなってしまっている点、其処にこそ本伝説の有つ大きな意味が又認められねばならない。

成長・影響】既に〔本拠・成立〕の項でも一応述べたが、説話としての本伝説の成長過程を改めて観察して見ると『義経記』(巻七)の弁慶単身富樫の館に行き向う形は、舞曲『富樫』に至って勧進帳読みを加え、又『義経記』(巻七)の三の口関の難とも合体して――従って弁慶だけでなく一行すべてが安宅の関へかかる事となり、更に同巻の如意の渡及び念種が関の難、乃至舞曲『笈さがし』のねずみつきの関の難(それに『義経記』及び舞曲に見える次條の笈捜伝説をも含めて)をも併せて、謡曲『安宅』の内容のような完全な安宅伝説となり、且却って『義経記』・舞曲の一行十六七人は、「十二人の作り山状」(『安宅』)と減少固定せしめられたのみならず、『吾妻鏡』を始め、『義経記』・舞曲にまで載せてある北方が、一行中から全然省き去られた為に、強烈な同情哀憐の念は、一点に集中せられ、子方たる判官一人――それは能の役柄としての子方であるだけでなく、義経は実に本伝説では紛れもない事実上の子方の位置に置かれてある――の上に向はしめられるに至った。それから『胎内さぐり』(四段目)で縛られたままの弁慶が判官を足蹴にするのは打擲の変形である。又如何に方便とは言え、判官自身の躯を臣下の杖に当てさせるのは、勿体なく又気の毒で堪え得られないという心持から、後には、この如意の渡で打擲せられたのは、義経ではなく義経に似た一行中の臣下杉目行信という者であったとする説まで現れた。『鎌倉実記』(巻一六)が即ちそれで、『義経勲功図会』(後編巻五)もこれを躊躇しているが、代りに斯くては弁慶の苦肉の策は頗る力の薄いものとなり、却って判官贔屓の引倒しとなってしまっている。
 

〔補〕それとは正反対に義経富樫の関を越ゆる時、弁慶したたかに打ちけるは、面部までも打ち腫らして、その人とも見えぬようにしたる也。
というような滑稽笑止な解釈も生じ(鳥江正路『異説区々(まちまち)』)、これでは弁慶の名策が又余りに行き過ぎて、興さめたものとなってしまった。


が、本伝説での大立物は何と言っても武蔵坊であるから、これを十分にも十二分にも活躍させようとする意識からと、それに構想と眼先の変化とを与えようとする試みからとで、種々説話の上に改変が施されようとする現象を生じた。演劇方面に於いて特にそうで、例えば読み上げた勧進帳を富樫が奪い取って検べると、往来の巻物であったので、怒って弁慶を縛させる皮肉な滑稽は『■(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』の安宅の段、独り後に態と留まった弁慶が、糺明の為に掛けられた縛り縄を、一行が関を越えて遙に隔たった頃を見計らって、大力を籠めて切り放ち、雑兵共の首を引抜いて天水桶の芋洗いに見立てるナンセンスは『御摂(ごひいき)勧進帳』(五建目)の「安宅の関の場」、それとは逆に、察する処方々は俊乗坊に頼まれ、南都東大寺勧進に奥州へ行くのであろうと言い、笈の中に勧進帳らしいものが見える、受取って見るに及ばず、それにて高らかに読み上げられよと、富樫の方から助け船を出す(これは源九郎狐等の守護もあるにも因るが)のは『義経風流鑑』(五之巻)で、更に又『通増安宅関』の富樫が組下塚見占之丞と前以て八百長の協定を遂げておいた弁慶が、勧進帳と称して「道中の小遣帳を高慢に読み上げる」のは如何にも黄表紙らしい解釈、或は「もとより勧進帳のあらざれば、都にはやる踊歌、彼処や此処踊り集め、祭文節」でやってのけた破天荒は流石の関守を浮かれさせて関門を開かせる(踊くどき『富樫の左衛門』)という道化たものにまで変って行ったのも、本伝説の迎え喜ばれた結果である。

茲に注意すべきは、本伝説に於いてそのワキを勤める関守富樫左衛門の人物である。彼を安宅の関守とするのは既に『義経記』から(但しなお特に関所としてないだけで)であるが、その名は唯「富樫の介」とし、舞曲『富樫』『笈さがし』にも姓のみ見え、謡曲『安宅』にも「加賀の国富樫の何某」とあるだけである。『金平本義経記』『義経興廃記』も、『義経記』を踏襲して富樫介とするに止まっている。然るに『義経勲功記』(巻一七)には、「当国の守護富樫介家直」とし、且この書と関係ありと推せられる『義経知緒記』(下巻)にも、「加賀国富樫介家直が関所」と見える。『異本義経記』も同断であることは『拾葉抄』の引用文でわかる。そしてそれが左衛門とならしめられたのは、近松の『凱陣八島』(二段目)に、「富樫の左衛門」とあるのが初めのようで、同じく『■(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』(四段目)にも、「富樫左衛門家直」とし、以後の小説・戯曲・脚本類は、大抵左衛門としているようである。又富樫が関所を据えて判官一行を留めることも、『義経記』にはなお「鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して判官殿を待ち奉るとぞ聞こえる」とあるが、舞曲『富樫』では、頼朝の命に依って城廓を固めて山伏を禁制するとし、『安宅』に於いては、頼朝が諸国に新関を立てさせ、作山伏の義経一行を詮議させるに当り、この地の関守を富樫が承ることとなっている。又『知緒記』『勲功記』以後は、富樫の弟斉藤藤次助家(祐家ども)という者が加えられるに至り(これは富樫と分家関係をなす斉藤の氏名から来ている。助家は富樫介代々の内の家助(『富樫記』)を転倒したか)、後の歌舞伎狂言に屡々用いられるようになった(そして後には富樫とは縁族関係の無い人物としてあるのもある)。

さてこの富樫の人物に就いて、逸することの出来ない最も大切な点は、本伝説の成長進展に伴って、その富樫の性行も亦成長進展して行ったという一事である。それは一言にして言えば、無情峻厳な敵人から、情義を具備した性格の人となって行ったことである。即ち表面は敵意を示して厳酷を極めるが、内心には好意を有して、判官に同情する人物と漸次に変って行ったのを見るのである。先ず『義経記』の彼はなお善悪が判然せず、否鎌倉殿から仰せは蒙らぬが、判官を搦め取って恩賞に預かろうと待ち設けていると噂せられている。言わば判官の一敵国である。少なくとも好意は有しているとは見えない。舞曲・謡曲に於いてもなおその内心の善悪は作者の説明を以ては明示せられていない。極めて表面的に観れば、弁慶の働きによって旨く欺かれた形である。又『盛長私記』では弁慶等に怖れて通過を許している。然るに、近松の『胎内さぐり』(四段目)になると、義経主従の痛わしさと弁慶の苦衷に感じて、判官と知りながら通過を許すのみか、次々の関所の手形までも与えて情を懸ける富樫の行為は、近松の新趣向とはいえ、又国民一般の意見であり希望である所のものを具体化したものである。若竹笛躬・中邑阿契合作の『番場忠太紅梅箙』(五の口)では富樫の代りに梶原の臣番場忠太――平常は端敵に廻される――が義人になって、上の意見を代表しているが、それは富樫と忠太を入れ代えたと言うだけに過ぎない。かくて『義経風流鑑』『花実義経記』『風流東海硯』等を経て、益々富樫はこの情義の心を養われ、芝居の『御摂(ごひいき)勧進帳』に至って愈々それは顕著になった。その代りに敵役を祐家が引受けることになり、左衛門と斉藤次は阿古屋の琴責(『壇浦兜軍記』)の重忠と岩永、或は『生写朝顔話』「宿屋の段」の駒沢と岩代の対照と同型の組合せを示すようになって来た。それより以前の戯曲『番場忠太紅梅箙』で忠太がこの富樫の位置で、左衛門と善悪の対立をしているのは、忠太を主人公とする作意からで、本伝説の発達の上からは寧ろ自然とは言えない。

この富樫が好意的に変わって来た原因は、即ち一は前述の如く国民の判官に対する同情から来たのであろうし、一は富樫の性格を一層複雑ならしめ、且第三者のみならず、直接第二人称の地位に在る者を感動させることとするのが、弁慶の忠義の効果を一層著しく且即座に現すこととなる所以であるにもよるのであろうが、直接には『義経記』の如意渡で弁慶の余りな打擲の烈しさに、却って打たれた判官に同情して、船賃として獲た北方の惟子をこれに与えた渡守権頭の変身である意味が恐らく認められるべきであり、それと共に一は又実際当時の人の中にも、判官に好意を有する人物もあったであろうとの想像も手伝っているのであろう。これが為には、例えば『義経記』(巻七)に見える、通行の途上判官一行に遭って、之を免した井上左衛門の如き、直接そのモデルとして自己を提供し、その想像に裏書したものもあるであろうし、近松が富樫に左衛門の名を附与したのも必ずやこれに出ていることは疑を容れない。そしてこの富樫が斯様な人物となろうとする傾向は、既に酒を携え一行の後を追って、その無体を詫びる謡曲『安宅』にその端を発している。併しながら翻って考えると、若し富樫が判官と知って之を免したとなれば、弁慶が絞り出した知嚢の放果はかなり消極的とならざるを得ない。関守を欺いて主君を救った機智と苦計とは、それのみを以てしては成功しなかったこととなる。同時にその代りには又、元来好意を有する、若しくは全然好意を有せぬ――そうならば一層――対手たる富樫の胸奥に、感激の心を揺り動かさせた血涙の忠誠は、一段武士道的光輝を放って、弁慶の資格を単なる智力の勝利者から道義の勝利者へと高めて行ったこととなるのである。

本伝説は義経伝説中最も主要な又最も有名な伝説であるだけに、そして能として、謡曲としての『安宅』によって一層著名にせられているだけに、影響する所も頗る大きく、後世これに取材した多くの文学を生み、又本伝説の変容や勧進帳の捩り文が続出した。特に近松は好んで安宅式の構想を用いたようである。即ち変容としては『文武五人男』(四段目)――この浄瑠璃も近松作かと言われている――に於ける、芥川新関をば熊野巡礼に装った
渡辺武綱・坂田公平・碓氷貞治の三勇士が越えようとして、関守河野隼太照廣に止められ、巡礼唄を所望せられて唄い損じ、正体を看破られる段、『吉野忠信』(四段目)に於ける、吉野で静と貞順尼(もと九條の遊女若紫)・花紫の三女性が衆徒に見咎められて詮議を受けるのを、貞順尼が「女郎名よせ」を語って疑を解く場面(花紫は忠信の妻、若紫は忠信が主君の遊興を抑止する方便として態と買った敵娼で、これは力寿・愛寿の二人から思いついたのであろう。三段目に妻の嫉妬に対しての弁疎に、忠信が遊廓の悪口を叩くのを、折から来合わせて物陰に案山子のようにひそまり返っていた貞順尼が聞きかねて、覚えず持った杖で忠信を打つ構想があるのは、狂言『瓜盗人』の趣向を借りたので、やがて三人心解けて、「若紫花紫道行」となり、勝手の宮で測らず静御前と出遇って互に名告り合った所へ、衆徒が集まって来て取り囲むことになっている)、『雪女五枚羽子板』(中の巻)に於ける、斯波左衛門義将の臣藤内二郎の女房が、男装して贋義将となって敵方古川権頭が館に婿入し、系図を責め問われて、出まかせに喋り立てる「もんさく系図」の滑稽、『国性爺合戦』(四段目)「九仙山の段」に於ける、南京の雲門関で国性爺が楊貴妃の廟所、大真殿再興の勧進帳と号して、軍勢の著到一巻を取出して読み上げる光景を、二仙翁が碁盤上に現映させる奇蹟(これは本文にも「我が本国文治の昔、武蔵坊弁慶が、安宅の関守欺きし、例(ためし)を引くや梓弓」と説明の詞句まで入れてある)、或は『曽我扇八景』(中之巻)の十郎が佯っての母打擲、「菊畑」の鬼三太が虎蔵の牛若打擲等がある。八文字屋本の『傾城色三味線』(湊之巻第三、稲荷の化を顕はす手管男)にも下関の女郎歌舞伎に仕組んだ虚無僧姿の義経主従の女郎衆が揚屋の富樫屋左衛門の関で詮議を受け、美女の姿の註文を読めと責められて、弁慶が懐中より書出し一通取出して読み上げる趣向があり、この章の文も謡曲『安宅』をもじってある。又、安宅関へ弁慶を始め、『鏡山』のお初、『伊賀越』の沢井又五郎など、義経伝説に関係ない人物まで通りかかって、思い思い滑稽な芸づくしをして通過する『滑稽俄(おどけにわか)安宅新関』も、先ず本伝説の進展の結果として来た別種の形への変容であり、又本伝説からの派生でもある。

又勧進帳のもじりには近松の『百日曽我』(二段目)の「傾城請状」、前記『吉野忠信』の「女郎名寄」、『曽我虎が磨』(下之巻)の虎御前が勧進帳(これも本伝説の変容でもある)、『国性爺』「九仙山」の勧進帳(「もんさく系図」も著想は勧進帳のもじりである)、前出『傾城色三味線』の諸国美女探しの「姿の註文」、それから西沢一風の『御前義経記』(巻之五)の「風呂屋勧進帳」、石川雅望の「狂歌勧進帳」(『狂文吾嬬那萬俚(あづまなまり)』)、謡風のもじりの『乱曲扇拍子』の「大尽安宅」、半太夫節の『絵合源氏色安宅』(六段目)の「名寄祭文」、宮園節の「廓進帳」の類がある。

なお安宅の関址は今は海上一里乃至三里の沖合に位置していると伝えられる(『三州名跡志』)。
 

〔補〕近時上の説を否認して、安宅町の南、住吉神社の在る二つ堂山附近を関址とする説が現地では唱えられ、記念の碑石まで建てられている。又、昔は扇投げの松というのがあったとのことで、里の子等に弁慶が間道を問うた時、その礼に与えようとした扇の数が主従は八人、童は九人で一本不足した為、躊躇する間に童等は道を教えずに逃げ去ったので、弁慶が扇を投げて泣いた跡だとの口碑が伝えられている。説教節の『弁慶安宅関』にはこの口碑が採られている。


文学】謡曲『安宅』とこれから出た歌舞伎の脚本『勧進帳』がその代表である。前者の「勧進帳」は能の三読物の第一に数えられ、後者は歌舞伎十八番の随一として、歌舞伎劇の典型としても、歌舞伎化せられた松羽目物の典型としても、亦舞踏劇としても、舞台劇として重きをなしている。その他舞曲『富樫』(一名『安宅』)は勧進帳読みはあるが打擲を欠き、『義経興廃記』(巻一二)は打擲はあって勧進帳読みを載せない。『勲功記』には巻一七に出ている。変容としてでなく、安宅伝説を浄瑠璃に作ったものには、近松の『凱陣八島』(二段目「義経道行」)『■(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』(四段目「義経道行」)がある。前者は謡曲の『安宅』から出、後者は謡『安宅』と舞『富樫』とを併せたようなものである。並木宗助等の『清和源氏十五段』(四段目)にも安宅の関の件があり、若竹笛躬等の『番場忠太紅梅箙』(五段目「道行越路篠懸」)では勧進帳読み、打擲、延年舞などすべて謡曲から採ってあるが、前に述べたように、富樫は適役になって居り、関所を越えるのが番場忠太の情によってであるという点が妙な新趣向である。歌舞伎方面では『握虎齢泉寛濶武蔵星合十二段』(元禄十五年二月、中村勘三郎座、一説には十七年春、市村座)が嚆矢で、三升屋兵庫の作者名で初代市川団十郎自作自演、勿論弁慶は団十郎、義経(水木富之助)・京の君(沢村小伝次)その他四天王等があり、和泉三郎(市川弁十郎)と弁慶との関所問答の半ばへ朝比奈三郎(市川団十郎)が出て、義経主従を救い、奥州へ落としてやるという筋で、二月二日から六月廿五日まで百五十日間打通し、大入満員の盛況は「押合十二段」の地口まで生じたと伝えられる(『役者江戸櫻』)。そしてそれに追掛けて同じ登場人物を用いた『女高砂勢松女熊坂妬松高館弁慶状』を七月から出したと言われるが、『歌舞伎年代記』は十七年説で、且『弁慶状』の方は十四年七月で、大谷廣右衛門と市川団十郎の二人弁慶が好評であったと記している。その後『隈取安宅松』(所作)、『御摂勧進帳』(芋洗いの弁慶。初代桜田治助作。初演は三世市川海老蔵即ち四代目団十郎)、『筆始勧進帳』『大■(だいだんな)勧進帳』(但し『筆始』には富樫も出るは出るが、実はこの二つは団十郎の熊井太郎で『暫』である)等を経て、四世海老蔵即ち七代目団十郎の『勧進帳』(三代目並木五瓶作)が天保十一年三月木挽町河原崎座で出てから、市川家十八番の家芸として極めが附けられると共に、演劇としての本伝説も最高峯にまで到達した。その後には『滑稽俄安宅新関』の安宅劇の喜劇化があり、『胎内さぐり』の安宅の段の前に『安宅松』を採合わせて脚色した榎本虎彦作の『安宅関』(法螺貝の弁慶)、川上音二郎の『義経安宅問答』などいうものも出た。以上の操・歌舞伎の安宅劇には大体能(『安宅』)系統のもの――その代表は『勧進帳』――と、舞曲(『富樫』)系統のもの――その代表は『胎内さぐり』の安宅、従って法螺貝の『安宅関』――と、二つの主な流れがあり、両者に跨ったようなのもある――『御摂勧進帳』はそれである。
 

〔補〕明治四十四年七月東京座で女優市川九女八の引退狂言に『安宅関』が出た際は、弁慶の舞を見せる為に、関所の後へ川辺の場を附けた。踊れぬ八百蔵に書卸された脚本を、斯うて活かそうとしたのであった。又、十八番の『勧進帳』は宗家の許可がむずかしいので、それを少し変えたのを、関所を川辺にして背景を附けた『安宅川新関』という外題にして、関三十郎が大正七年六月、四谷大国座で演じたのを観た事がある。「安宅川の弁慶」がこれであるが、背景の写実と調和せぬ妙なものであった(赤い篠懸は『安宅関』の弁慶に倣ったのであろうか)。照葉狂言の泉祐三郎一座の三味線地の能の『安宅』の方がまだ観られると思った事であった。
『続々歌舞伎年代記』で見ると、明治三十四年二月真砂座に『淑女勧進帳』というものが出ている。その前年七月の春木座の狂言にも『処(むすめ)女勧進帳』があるが、これは内容は櫻山入道の息女八重衣を中心にした太平記物で、義経伝説ではない。
大正十年十一月、東京上野鶯谷の国柱会館で、国性文芸会によって田中智学作『義経北国落』が演ぜられたが(『栗橋の静』も同時に上場)、これは『義経記』の原話即ち如意の渡の事件を脚色したもので、加藤精一の弁慶、義経は横川唯冶(山田隆弥)であった。


小説では八文字屋本に『義経風流鑑』(五之巻)、『花実義経記』(七之巻)、『風流東海硯』(五之巻)、黄表紙に『通増安宅関』、合巻に『義経越路松』(これは安宅関に到る前の富樫が関での打擲で、且富樫の臣佐久味兵衛の義心になっている)がある。その他一代記風の義経物には無論大抵載せている。歌曲にも多く採られ、土佐節に『安宅勧進帳』、半太夫節乃至河東節に『安宅道行』『弁慶勤の段』『勧進帳』、一中節にも『安宅道行』『安宅勧進帳』、踊くどきに『富樫左衛門』等があり、『松の落葉』(巻六)の「中興当流所作」の中にも、「竹島幸左衛門・同幸重郎」として『とがし城』というのを収めてある(その歌詞は舞曲『富樫』から出ている)。長唄では『隈取安宅松』即ち『安宅』(明和六年十一月市村座で出した櫻田治助作『雪梅顔見勢(むつのはなうめのかおみせ)』の内『安宅松』の所作の地で、節附富士田吉次、弁慶(羽左衛門)が草刈童等に道を問う事に取材してあり、歌詞は謡『安宅』に、構想は舞『富樫』に借りてある)、及び『勧進帳』(四世杵屋六三郎(後、六翁)一世一代の作曲)が最も有名であるが、この『勧進帳』には台詞が無いので、謡曲『安宅』の詞句を基として一中節の『勧進帳』に近い文詞に作ったものに、大薩摩絃太夫(後、十一世杵屋勘五郎)が慶應三年に作曲した『安宅勧進帳』が出来、単独にも、亦普通の『勧進帳』と掛合にも唄えるようになっている。併し一般にはやはり普通の『勧進帳』の方が行われる。
 

〔補〕義三太にも謡曲に基づいて『加賀海文治荒涛』(安宅関所の段)という曲が作られ、説教節に『弁慶安宅関』(山伏問答)『安宅勧進帳』(山伏問答)があり、筑前琵琶に『勧進帳』『安宅関』『荒乳関』、薩摩琵琶(錦心流)に『勧進帳』、浪花節にまで『勧進帳』(義経安宅関)が出来ている。大抵謡曲と長唄とから出ているが、説教節の二曲は稍異色があり、舞曲の系統をも引いている所もある上、他と比べると独特の構想を有している。
本伝説を詠んだ歌俳も少くないが、有名な作は余り無いようである。寧ろ川柳の
珍しい忠義主君をぶちのめし
五條ではぶたれ安宅でぶち返し
草刈に年玉をやる武蔵坊
など面白い。最後のは蜀山人の狂歌
弁慶が里の子どもにくれてやる堀川御所の萬歳扇
と同巧である。


(ろ)笈さがし伝説

安宅伝説に附帯して一言すべきはこの笈さがし伝説である。

内容
人物 義経・北方・弁慶以下の一行。直江太郎(『笈さがし』)(『義経記』には、らう権頭)その他浦人等
年代 (い)に同じ。
場所 越後国直江の津

判官の一行が直江の津に着いた時、土地の者共に怪しめられ、問答の末、所持の笈数挺の中を探され、甲・籠手・臑当等を入れた笈の中までは運強くも検べを免れたが、北方の櫛・唐鏡などが顕れたので、愈々咎められたのを、弁慶巧に陳弁して、却って仏法の威徳を説いて群衆を圧服した。

出処】『義経記』(巻七、直江の津にて笈探されし事)、舞曲『笈さがし』。

【形式・成分・性質】特殊の型式のものではないが、(い)よりも単純で、智力の勝利を説く童話的な難題説話であり、空想的成分がかなり多きを占めている史譚的説話である。

解釈】要するに安宅伝説と同種のもので、義経主従奥州落の途上に於ける危難を語り、その難題の解決者、危急の救助者としての弁慶の機智と忠義とが語られていることは(い)と同断である。

本拠・成立・影響】史実の本拠は無い。安宅伝説ほどの大きさと複雑さと深さとが無いから、同伝説のような成長も影響も見られなかった。『■(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』(四の切)の安宅関で、弁慶の誠忠に感じた富樫が、主従を助ける為に、汝等はこの頃斬った多くの山伏共の同類で、判官・弁慶に似せて熊と搦めさせ、我に不覚を取らせん謀と看破したと叱責して、関を追い立て、一行を通してやると、
下部の雑色、笈に当ってからりからりと鳴る音に、ヤアこの笈には鎧あり、留まれとこそ。富樫抑えて、さてたくんだりくんだり、判官殿に似せんとて、鎧まで入れたるな。
かくては行く先々の関所で、「判官顔しては関守をなぶるは必定、憎さも憎し、ついでに判くれんず」と、誰にも咎めさせぬ関手形を投げ与えるのは、近松が本伝説を利用したので、即ち安宅伝説の中に採込まれたのである。

 
〔補〕『義経東六法』(下の巻)に「幸若舞曲『笈さがし』のもじりあり」と『近世邦楽年表』(義太夫節之部)に見える。
なおこれは本伝説から直接派生したというのではなく、山伏姿の奥州落に関連してであるのは勿論であるが、笈を中心とする伝説を取扱ったついでとして言うべきは、義経主従の使用した笈と称する物が諸処に伝存することである。即ち橘南渓の『東遊記』(巻四、義経の笈)には、各地の難を辛うじて免れて、一行が出羽国三瀬という海浜に着いた時、これから先は安全であるとの理由で、山伏姿を解き改め、氏神三瀬の社に詣でて其処に残し留めたという笈が七箇、同社の宝物とせられているといい(『甲子夜話』(続編巻六二)所載の『墨多筆記』には『東遊記』の同記事を漢訳して録してある。因に『墨多筆記』は蒲生亮秀の撰で、静山侯は「何に拠る知るべからず。蓋居処の採録なり」と記しているが、『東遊記』前半を漢文に簡訳したものであることは、両書を対比すれば明白である)、桂川中良の『桂林漫録』(下巻、義経之笈)にはその改装の時の七箇は山形の領内七箇寺に一つづつ伝来し、義経のは小形で内部を観音経で張り、伊勢三郎のは大形であると紹介し、又常陸国月山教寺にも義経の笈を伝え(栗山潜鋒の『幣帚集』「弁慶が笈の記」に見えると、山崎美成の『提醒紀談』(巻三)に引いてある)、亀井六郎の笈は平泉中尊寺に遺され(『東遊記』前出同條)、弁慶が笈は佐藤庄司館跡に什物とせられ(『奥の細道』所見。医王寺現蔵)、別に又紀州熊野本宮の祠官和田廣高という旧家にも弁慶が笈という物を蔵している(「弁慶が笈の記」。前出同断)ほどで、奥州落の伝説から生まれ出た仮想が各地を遊行して、それぞれの地の古笈に附著せられて行ったものであろう。

文学】『義経記』(巻七)、舞曲『笈さがし』『金平本義経記』(六之巻三段目)、『義経勲功記』(巻一七)等。舞曲の『笈さがし』は『富樫』の下の巻で、文詞もそれに連続して居り、且、船弁慶伝説と同型の説話を含み、又一本ではねずみつきの関の難を語って、これは安宅伝説と密接な交渉のあることを示している。

(一六)摂待伝説

内容
 

人物 義経以下の一行。佐藤兄弟の母尼公(及び兄弟の後家(舞『八島』)、或は継信の遺子鶴若(謡『摂待』)。)
年代 奥州落の途(文治三年)
場所 陸奥国信夫、佐藤庄司館


途上各所の難を弁慶の計で辛く免れた後、漸々奥近くなったが、恰も佐藤庄司元冶の後家で、継信・忠信の母なる尼公の家で山伏摂待を企てていたのに宿り合せた一行を、老尼は両愛子の未亡人・愛孫等と共に歓待して、継信・忠信の身の上を聴こうとする。初めは裏んでいた判官も漫ろに哀憐の情を催し、終に姓名を明し、そして弁慶に命じて、継信が屋島で敵将能登守教経の矢先にかかって判官の命に代ったその場で、忠信は教経の童菊玉を射て兄の仇を報じたこと、又、忠信が君の御名を賜って吉野に残り、終に都で討死したこと(忠信最期の物語は謡曲『摂待』にはない)等を談らせた。老尼は兄弟の勇ましく誉ある戦死の状と、主君判官の仁心の物語とを聞いて感泣し、判官も亦今昔の想出に哀傷を新にし、並居る人人皆涙と共に夜を明した。

なお『摂待』には姓名を隠して告げない一行の誰彼を、その声音によって老尼がよく言い当て、又、若しこの中に判官殿とおぼしき人があれば告げよと判官に言われて、継信の遺子鶴若が誤またず義経を指したので、判官は流石に哀れを覚え、堪えかねて膝に抱き上げて愛撫し、泣く泣く名告りをしたが、夜明けて出発しようとすると、鶴若は一行の袂に縋って君の御供をと願って巳まぬのを、弁慶等が賺し慰めて出て行くことにしてあり、『八島』では佐藤の館と知らずして投宿したとし、且、『摂待』の鶴若のいじらしさの代りに、継信兄弟の妻等が、母の考案で、小櫻縅と卯花縅の鎧を著けて、継信・忠信が帰ったとて、病床の老父を慰めた事を、老尼の談話中に含んで居り、そして弁慶は初め屋島の戦場に通り合わせた客僧として、継信戦死の状を物語ったが、後終に義経始め一同名告りをすることになっている。

出処】謡曲『摂待』、舞曲『八島』。

【型式・成分・性質】これも特殊の型式のものではないが、中に含まれる継信の最期は義光型の身替説話、『八島』の二嫁女の件は孝行譚で、且甲冑堂の由来説明説話(縁起伝説)である。そしてこれも空想的成分が大部分を占めている史譚的伝説である。

本拠・成立】本伝説全体としての史実の本拠は無いのみか、義経奥州落の頃は元冶はなお存命で、継信・忠信の母は後家となってはいない。『吾妻鏡』(巻九、文治五年八月八日)に、頼朝の泰衡征伐の時、信夫庄司戦死の記事を載せてある。
 

八日乙未。(上略)又泰衡郎従信夫佐藤庄司 又号湯庄司。是継信・忠信等父也 相具叔父河辺太郎高経・伊賀良目七郎高重等、陣于石那坂上、堀湟懸入逢隈河水於其中、引柵張石弓、相待討手。爰常陸入道念西子息、常陸冠者為宗・同次郎為重・同三郎資綱・同四郎為家等、潜相具甲冑、於株之中進出伊達郡沢原辺、先登発矢石。佐藤庄司等争死挑戦。為重・資綱・為家等、被疵。然而為宗殊忘命攻戦之間、庄司巳下宗者十八人之首、為宗兄弟獲之、梟于阿津賀志山上経岡也云々。


これは『廣益俗説弁』の著者も既に指摘している(正編巻一四、婦女)。但し、『吾妻鏡』同巻十月二日の條には「囚人佐藤庄司(中略)帰本処」とあるによれば、庄司のみは生捕られたのかもしれない。この庄司が継信兄弟の父であることは佐藤系図にも見える。尤も継信等は秀衡の叔父忠継という人物の子という異説(奥州御館系図)もないではない。この系譜はかなり怪しいものではあるが、兄弟が秀衡の縁族であったのは確のようである(『吾妻鏡』忠信戦死の條)。母が二子を慕って尼となったという伝説は『北越略風土記』にも伝えられ、更に橘南渓の『東遊記』(巻一、甲冑堂)に見える磐城才川駅高福寺の甲冑堂の由来伝説は、次に引くように、父の代りに母としてある外、小異を除き、大体舞曲『八島』の素材と一致する。恐らくは斯様な口碑がその地方に行われたのが、舞曲等に採られたのであろう。若し然らずとすれば、この舞曲から出た伝説とすべきである(『甲子夜話』(続編巻六二)転載の『墨多筆記』にもやはり『東遊記』から漢訳せられてこの伝説が出ている)。
 

奥州白石の城下より一里半南に、才川という駅あり。この才川の町末に、高福寺という寺あり。(中略)この寺中に又一つの小堂あり、俗に甲冑堂という。堂の書附には故将堂とあり。(中略)婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。いかなる人の像にやと尋ねるに、佐藤次信・忠信二人の妻なりとかや。その昔義経、鎌倉殿の義兵を挙げ給うを聞き、秀衡に暇乞して鎌倉へ赴き給う時、佐藤庄司我が子の次信・忠信を御供に出せり。その後(中略)次信は八島にて能登殿の矢先にかかり、忠信は京都にて義の為に命を殞し、兄弟二人とも他国の土となりて、形見のみかえりしを、母なる人悲しみ歎きて、無事に帰り来る人を見るにつけて、せめては一人なりともこの人々の如く帰りなばなど泣き沈みぬるを、兄弟の妻女その心根を推量し、我が夫の甲冑を著し、長刀を脇ばさみ、勇ましげに出立ち、只今兄弟凱陣せしと、その俤を学び老母に見せ、その心を慰めしとぞ。その頃の人も二人の婦人の孝心あわれに思いしにや、その姿を木像に刻みて残し置きしとなり。


甲冑堂の事は『和漢三才図会』(巻六五、陸奥国)にも載せてある。又舞曲に鎧を小櫻縅・卯花縅としたのは、『義経記』(巻八、嗣信兄弟御弔の事)の條に一致している。即ち判官が奥へ下って後、兄弟の母の尼公及び後家を召して、兄弟の供養を行い、継信の遺子に三郎義信、忠信の遺子に四郎義忠の名を与え、二人の父が義経に代って討たれた剛勇を物語り、小櫻縅と卯花縅との鎧を二人に賜ったというのがそれで、同條でも兄弟の母は既に尼公なのである。本伝説は恐らく『義経記』のこの條を本として、成生したのであろうかと考えられる。内容に於いても『義経記』と舞曲『八島』とが近接し、又舞曲『八島』と謡曲『摂待』とが近接している。その『摂待』の鶴若が判官を名指せと望まれて言い当てるのは、『義経記』(巻七、如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事)で渡守に詰られる條の
 

弁慶これを聞きて、そもそもこの中にこそ九郎判官よと、名を指して宜へと申しければ、あの舳に村千鳥の摺の衣召したるこそ、怪しく思い奉れと申しければ、


とあるのから来ていると思われる。なお兄弟の母に関しては、秀衡に嫁ぐ為に京から下ったのを信夫に奪われて婚したのであるとの伝説が『平治物語』(巻三)に伝えられている。

次に本伝説中に含まれる継信戦死の事件は史実の本拠がある。弓流伝説の條に引いた『吾妻鏡』(巻四、元暦二年二月十九日)の文がそれである。なお前には略したその下文をも掲げると、
 

………于時越中二郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛忠光平氏家人等、下自船、而陣宮門前、合戦之間、廷尉家人継信被射取畢。廷尉大悲歎、■(ロ+屈)口衲衣、葬千株松本、以秘蔵名馬、号大夫黒。元院御厩御馬也。行幸供奉時、自仙洞給之。毎向戦場、駕之。賜件僧。是撫戦士之計也。莫不美談云云。


その能登守に射られて落馬した継信の首を取ろうと馳せ寄った教経の童菊王が、忠信に射斃される説話は『盛衰記』(巻四二)に於いて既に語られている。継信が主君の身替となったように記述したのは、『平家物語』(巻一一)特に『八坂本』(巻一一)である。『義経記』(巻八)から以後は明らかに義経の身替に立ったこととせられ、謡曲『摂待』では、「継信は心まさりし剛の人にて、御馬の前に駆け塞がりて、義経これに在りやとて、にっこと笑って控えたり」と身替を自ら説明している。そして『盛衰記』で、その死に臨んで、唯故郷の老母の事のみが心がかりと奄々の気息裡に遺した継信の言は、『義経記』(巻五)の吉野山での忠信の孝心厚き詞と相応じて――そして恐らく前者が後者の作者に粉本を与えたでもあろう――やがて本伝説の発生を予言している。

解釈】判官挙兵当初以来の股肱で、而も一は鴨越の険を越えるに、二つの愛馬の一つに騎せられ、屋島に討死した時、又愛馬太夫黒を供養に手向けられた継信と、一は吉野山の難に姓名と鎧とを与えられて、友輩の羨望の的となった忠信との両寵臣、且は共に、伝説上に於いては判官の身替に立った一対の兄弟の忠勇を偲び、臨終の際に両孝子が共々思いを馳せて行末を案じたその母の老尼に、二人の愛子のみを欠いた山伏姿の同行に対面させて、母子の情の哀切さと、未亡人・遺子の健気な言行とに袂を絞らせる所に、義経伝説としての本伝説の眼目があり、これが判官不遇の日であるに於いて、更に感慨を深からしめるのである。同時に、判官の臣下及びその遺族に対する慈愛を示して、判官が恩威並び行う大将であることを裏書し、又近古の武士の母と妻子の姿も髣髴せしめられている。源平時代と言わず、模範的な中世武人家族気質が躍如としている。山伏摂待の如き、近古の一習俗として、又投影している。

成長・影響】浮世草子『風流東海硯』(五之巻)は摂待の当主が母の尼ではなくて、次信・忠信の馴染んだ遊女蚶潟と坂田とに変っている。又謡曲『鶴若』は本伝説から――謡曲『摂待』からと言う方が一層適切であろうが――派生した作である。判官の一行から父の最期の状を聴き得て深く決意し、暁天人々の袖に縋って、「如何に誰かある。馬に鞍置き、靱まいらせよ。君の御供申さうずるに。(中略)君の御供申してこそ親の敵にも逢うべけれ」(『摂待』)と幼な心に勇躍する健気な勇士の忘れ形見は、又一曲の武勇譚の主人公となるに十分である。継信が最期の物語を聞く結果があれば、出陣の愛別も亦自ら題材となり得るは必然である。即ち『鶴若』は継信兄弟の出陣に際して、後から追い到った鶴若が、死を以て戦場への供を乞うのを、病母(これは祖母ではない)を如何にすると情も厚い父に諭されて、心惹かれつつ泣く泣く叔父忠信に馬に掻乗せられて、もと来た路に引返し、父も涙の眼に後影を見送りながら、戦場へ向う親子の訣別を作ったもので、小さい兜巾・條懸を着けて山伏道の御供せんと乞うて巳まぬ『摂待』の鶴若を、「小弓に小矢を取り添えて」父の供せんと追い縋る「弓取の子」としたのは、一面『太平記』(巻一六、正成下向兵庫事)の楠公父子櫻井の訣別にその形を借りたものであろう。又舞曲『八島』に見える老尼が判官に献じた小櫻縅・卯花縅二領の鎧は、舞曲『高館』では、継信の為にと作った小櫻縅は、判官の手から、紀州藤代から馳せ著いた鈴木三郎重家に与えられ、忠信の料にと縅された卯花縅は、弁慶が之を著けて衣川合戦で大勇を顕すこととなっている。

文学】謡曲『摂待』、舞曲『八島』、これらから出た古浄瑠璃に『門出八島』及び『凱陣八島』(三段目)がある。『摂待』からは別に謡曲『鶴若』も出ていることは前項に説いた。舞の本『八島』は『継信忠信記』という題号の絵巻としても伝存している。『近古小説解題』には、別に『八島にこう物語』(刊二巻)というものを提出して、「謡曲『摂待』及び幸若舞草子『八島』と同じ事がらを写せるもの」と解説してあるが、「松会開板」本で内題には「やしまにこう物語」とあるけれども、実は舞曲『八島』と全く同じ物である。又題簽を『新板絵入やしま合戦』とし、巻末に「大阪新町橋東詰藤屋伊兵衛開板」とある書もやはり『八島』と同一物である。近松の『門出八島』は全曲殆ど本伝説に関係があると言ってもよい。初段は佐藤兄弟の出陣、二段目は次信戦死、この段に奥州の父から戦場の兄弟へ小櫻縅と伏縄目の鎧を贈り届けることがある。三段目は忠信が浜辺をさまよって深手の兄を尋ね当てること(舞『八島』から来ている)と大将の御前での次信の臨終、四段目は父庄司が松の枝折れに次信の死を予知すること、次信の妻はや姫が鷲尾の庵で夫の亡霊に逢うこと(謡『八島』から来ている)、五段目は新黒谷での次信追善、妻子の参詣等である(この曲に志田三郎勝平という人物を絡ませてあり、それを津戸三郎としてその往生を主題としてある曲が『津戸三郎』である)。但し眼目の摂待は無い代りに、それが『凱陣八島』の三段目を成している。並木宗助・安田蛙文合作の『清和源氏十五段』は五段目が摂待で、この曲は特にその段だけが有名である。八文字屋本には『義経風流鑑』(五之巻)、『風流東海硯』(五之巻)があり、表具又四郎節にも『山伏摂待』がある。黙阿弥の『千歳曽我源氏礎』の大詰(五幕目、羽州佐藤摂待の場)が『山伏摂待』で、これは新歌舞伎十八番の一になっている。又黒本には『門出八島』がある。『奥の細道』にも二嫁女を翁は偲んでいる。
 

〔補〕奥浄瑠璃『尼公物語』は本伝説を題材としたもので、その二段目「尼の接待の段」及び三段目「武蔵八島物語の段」を昭和五年四月八日四谷寺町西念寺で聴いた(主催民俗芸術の会、演者鈴木幸龍)。説話の内容は舞曲に近いものであった。筑前琵琶にも本伝説を取扱った『信夫の宿』、又両妻女が甲冑姿をした伝説を記念する櫻樹に関してその古口碑を語る『名残の女櫻』という曲が作られている。明治二十一年一月市村座の中幕に出た『会稽源氏雪白旗』は
黄金花さく陸奥山佐藤の館に基冶が未然を察する老巧の諌言、主従の契約に車の両輪兄弟の発足、白銀降積む富士嶽浮島が原に頼朝が平家を誅する義兵の上洛、義経の参著に鳥の羽翼兄弟の対面。


と割書があって、継信兄弟の出陣と頼朝兄弟の対面とを対照して配したものである。近時では佐藤兄弟の門出を題材とした吉田絃二郎氏作『出陣絵巻』が昭和七年十一月歌舞伎座に上場せられた。『吾妻鏡』『義経記』『接待』『八島』等から資料を得て脚色せられている作で、歌右衛門の尼公が主役であった。

本伝説の主要な挿話をなしている継信忠死の事件は『平家』『盛衰記』等の外、謡曲『八島』『熊手判官』にも採られ、又廃曲『嗣信』はこれを題材としたものであるに違い無い。『金平本義経記』(三之巻初段)、前出『門出八島』、『義経千本櫻』(道行)『花軍寿永春』(二段目)、『弓勢智勇湊』(四段目、春霞八島の磯)、前記の『千歳曽我』(序幕)等にも取材せられている。
 
 
 

本篇 第一部 第二章了 



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