島津久基著
義経伝説と文学
本篇

第一部 義経伝説

第二章 義経に関する主なる諸伝説
 

第四節 義経失意時代に属する伝説

この時代に入って、義経伝説は弥々佳境に入り、益々義経ファンを感傷と緊張に誘う。概しては、史実的分子と空想的分子とが相半ばしている。義経伝説の中枢人物中の主要な人々が、盛に活動するのもこの期に入ってからである。これまでの伝説は、義経自身の独力の活躍壇場であることが多かった。忠信や静や彼等が義経伝説に重きをなす所以は、この期の活動があるによってである。特にこの期は武蔵坊弁慶が立物である。そしてこの期がある為に、史上に没落した義経は、益々伝説的に国民の同情を恣にし、この期がある為に、史上の成功者頼朝は、愈々伝説上に於いて国民の間に信望を失せしめられている。

腰越の哀訴を契機として、昨日まで蒼穹の帝座に輝いた宿星は、忽ち光を失って、色は褪せ影は淡れた。失脚後の浮沈を語る判官劇の本舞台は、有名な堀河夜討伝説に始まる。

(一一)堀河夜討伝説

【内容】

人物 源義経・静御前・武蔵坊弁慶、その他義経の臣下。土佐坊昌俊(謡『正尊』舞『堀
   河夜討』には正尊(しょうぞん))及びその手勢。
年代 文治元年十月十七日(『盛衰記』『平家物語』『義経記』)(『吾妻鏡』も同日)
場所 京都六條堀河義経の館(『吾妻鏡』は六條室町亭)


伊予守義経の討手を命ぜられた二階堂の土佐坊昌俊は手勢を率いて鎌倉を発足し、熊野参詣(『盛衰記』には七大寺詣)と称して上洛した。義経は之を知り(『義経記』では江田源三、舞曲『堀河夜討』では伊勢三郎が、土佐の下人を賺して、これを聞き知り、急報したので、義経は直に土佐の同伴を命じたが、昌俊に欺かれて帯同しなかった為、主君の怒にあって勘気を蒙り、更に弁慶が土佐の宿所へ向くこととしてある。『盛長私記』(巻二四)にも江田としてある。但し勘気のことは無い)、武蔵坊弁慶に命じて昌俊を引立て来らせた(『盛衰記』には唯、土佐坊を召すとのみ見える)。昌俊は判官の詰問に対して起請文を認め、堅く敵意の無い旨を誓い、漸く許されて油小路の宿所(『義経記』)(『盛』には佐女牛(さめうし)町とある。同じ場所であろう)に帰り、その夜俄に堀河の館を襲った。折から弁慶以下の勇臣は、皆各々帰宿して館の内は人少に、且、義経も宿酒に酔い伏しているのを、愛妾静は白拍子にも似ず雄々しく心きいた女性とて、土佐の来襲を予想して油断せず、密に婢女を遣して動静を窺わせ、案に違わず押寄せたと見るより、急ぎ判官を揺り起こしたが醒めようともせぬので、著長を取り出して投げ懸けると、義経は蹶起し、夜襲の報を聴いても動ぜず、静が捧げる武具を取って、逸早く身を堅め、広庭に走り出て、昌俊の軍に駆け向った(『義経記』には大将の馬前に進んで単身敵を禦(ふせ)いだ御厩の喜三太の勇戦を叙してある)。弁慶・忠信その他の勇士は変を聞いて追々馳せ集まり、敵勢を撃って潰走せしめ、終に昌俊は弁慶に虜にせられて(『義経記』、謡曲『正尊』、舞曲『堀河夜討』)、六條河原に斬られた。なお『正尊』『堀河夜討』に於いては、静も判官と並んで敵を斬る勇婦である。

出処】『平家物語』(巻一二、土佐房被斬)、同(剣巻)、『源平盛衰記』(巻四六、土佐房
上洛)、『義経記』(巻四、土佐坊義経の討手に上る事)、謡曲『正尊』、舞曲『堀河夜討』等。

型式・成分・性質】特殊の型式のものではない。戦争説話で、これも史実的成分が主部分を占め、空想的成分がそれを補足している史譚的武勇伝説である。

本拠・成立】骨子をなす史実は『吾妻鏡』(巻四)、『玉葉』(巻四三)、『百錬抄』(第一〇)等に見える。今『吾妻鏡』(巻四、文治元年十月)から引用すると、

九日戊午。可誅伊予守義経之事、日来被凝群議。而今被遣土佐房昌俊。此追討事、人々多以有辞退気之処、昌俊進而申領状之間、殊蒙御感仰。巳及進発之期、参御前、老母並嬰児等、有下野国、可令可憐愍御之由申之。二品殊被諾仰、仍賜下野国中泉庄云々。昌俊相具八十三騎軍勢、三上弥六家季昌俊弟・錦織三郎・門真太郎・藍沢二郎以下云々。行程可為九箇日之由、被定云々。
十七日丙寅。土佐房昌俊、先日依含関東厳命、相具水尾谷十郎巳下六十余騎軍士、襲伊予大夫判官義経六條室町亭。于時、予州方壮士等、逍遙西河辺之間、所残留之家人、雖不幾、相具佐藤四郎兵衛尉忠信等、自開門戸、懸出責戦。行家伝聞此事、自後面来加、相共防戦。仍小時、昌俊退散。予州家人等走散求之。予州則馳参 仙洞、奏無為之由云々。
廿二日辛未。(上略)又風聞説云、去十七日、土佐房合戦、不成其功。行家・義経等、申下二品追討 宣旨云々。二品曽不令動揺給。(下略)
廿六日乙亥。土佐房昌俊並伴党三人、自鞍馬山奥予州家人等求獲之、今日於六條河原、梟首云々。


『盛衰記』の記事は、最も上の史実に近く、これに土佐坊起請文及び静の戒心用意の話が加わっている。『平家物語』『義経記』『正尊』『堀河夜討』に至って、土佐召喚の使として弁慶を起たしめ、或は静の沈着にして勇気あり、機転があって敏捷なる振舞を叙し、且後の二曲に於いては、静は自ら長刀を執って奮戦せしめられるに至った。更に『義経記』には江田の勘気及び戦死、喜三太の働きがあり、『堀河夜討』には、江田は伊勢三郎と変わって、且、戦死の代わりに功名することとなっている。弁慶の猛勇殊勳は最も特筆に値し、『盛衰記』の外皆之を掲げ、その上正史では鞍馬の奥に於いて数日の後義経の家人に捕らえられた昌俊を、当夜虜とならしめて、之を弁慶の手柄に帰し(『義経記』『正尊』『堀河夜討』)、或は鞍馬山といえば昔牛若丸時代に学んだ師壇の好しみある地である所から、義経に好意を有する大衆に捕らえさせ(『平家物語』巻一二、及び剣巻。『盛衰記』て、弁慶に引渡させている(『平家』八坂本)。又注意すべきは、『吾妻鏡』を始め、『盛衰記』『盛長私記』等稍正史に近いものに見える十郎行家加勢のことは、完成した本伝説、少なくとも『義経記』以後(『盛長私記』が『義経記』以後のものであるとすればこれは除外例として)のものには全然省かれるに至ったことである。これはこの常敗将軍たる一怯漢は、本伝説に省いても、殆ど何等の痛痒をも感じないのみか、之を本伝説の人物中に加えて土佐撃退の功の半を頒たしめるのは、寧ろ軍神とも称すべき義経の為に、煩と為り、不名誉となる所以で、正史の上では相提携して頼朝に当らうとした叔姪の間柄であるけれども、我が不生出の英雄、武将の典型たる九郎判官をして、謀反の常習犯とも言うべき陰険懦弱の小人十郎蔵人行家輩と行動を倶にさせるのは、国民の堪えられぬ所であるからである。都落の際、相伴って行粧美々しく立出でた両将は(『吾妻鏡』『盛衰記』等)、船弁慶伝説に於いても亦、義経の傍から削除されたのは、故あることと言えよう。

次に論題となり得るのは、土佐坊昌俊の素性であるが、明確な史料は不足しているけれども、その名は前に引いた條の他にも、『吾妻鏡』(巻三、元暦元年八月八日)の平家追討使として、参河守範頼が鎌倉を進発する條、及び同書(巻四、同二年正月二十六日)の同じく範頼が豊後渡海の條に、挙げてある麾下の連名の末に

一品房昌寛  土佐房昌俊
と出て居り、又、「人々多以有辞退気之処」「進而申領状」したのに見ても、討手に向って和泉の山中に行家を捕らえた常陸房昌明(『吾妻鏡』巻六、文治二年五月二十五日、『長門本平家』巻一九)の類の一勇僧であったに相違無いことは想像が出来る。そして「老母井嬰児等在下野国」とあるから、住国は下野であったのであろうか(縁族に預けてあったのかも知れぬが)。伝説としては大和の出で、奈良法師である。西金堂の衆徒に助力して、南都に於いて濫妨した罪を問われる為、京に召して土肥実平に預けられたが、その勇敢な気性を見込んで実平が伴って関東へ下り、頼朝に推挙した人物で、頼朝挙兵の時、二文字に結び雁の旗を賜ったと言われている(『盛衰記』巻四六)(『扶桑見聞私記』(巻四一)にも同様に見える)。然るに『長門本平家』(巻一)には、例の額打論の興福寺の悪僧の一人を、その前身であるとして、
この観音房と申すは昌俊とぞ名乗りける。後には土佐房と改名して、南都西金堂の衆徒となる。
と記して、上の伝説に連関せしめている。又、更に特異なのは、昌俊の幼名を金王丸とし、義朝の愛臣となさしめた『平家物語八坂本』及び舞曲『堀河夜討』、狂言『生捕鈴木』の類で、而も意外に、以後の文学は殆ど皆この系統を引いている。謡曲・舞曲に、その名を正尊としたのは、同名の人物に憚っての作者の改変であろうと言われている。

又静が長刀を振って勇戦したこと、及びその時の長刀に象ったという静形長刀の説の妄を弁じた『広益俗説弁』(正編巻一四、婦女)は下の如く論じている。
鍛冶の譜に、濃州多芸志津の鍛冶志津三郎兼氏の伝に、来相州為正宗弟子。能作長刀。称之世号志津象とあり。思うに此志津象を誤りて、静形とおぼえ、堀川夜討ちの働までを附会せるものなるべし。

志津象を静形と誤るのは、発音上の類似から来る極めて普通な心理現象で、所謂通俗語源説的解釈である。併し結論に於いて、之を静の勇戦説の生じた原因と断ずるのは早計に近いであろう。或は反対に勇戦説が先だっている為に、この志津象と静形との連結を容易ならしめたのかも知れないからである。兎も角、巴・板額の勇婦を生んだ時代とはいえ、勇気貞烈有髯男子を後に瞠若たらしめる節婦であったとはいえ、吉野の山中に下部共に棄てられて、雪路に泣いた白拍子は、本能寺の夜襲に長刀を振って勇戦した阿能局(『真書太閤記』六編、巻四)の類の室町戦国式勇婦が好範例を与えることが無かったならば、著長を取って判官に投げ懸けた殊勝な振舞に、一歩を進めることが、或はむづかしかったらうも知れぬ。『堀河夜討』『正尊』の静御前には、寧ろ室町戦国の女性の面影が宿って見えるように感じられる。

〔補〕舞曲『和泉が城』の和泉三郎忠衡夫妻の勇戦、特に長刀を振って寄手を追い散らす忠衡が妻は、即ちこの堀河夜討の静と殆ど異なる所が無い。殊に同じ舞曲ではあり、いづれかが他の粉本たることは疑無い。


解釈】義経の運命が愈々迫り、終に鎌倉を敵とするに至り、夜襲の軍は難なく之を撃退し得たが、その瞬間に永く断ち切られた兄弟骨肉の契は、最早、如何ともすることが出来ぬ。頼朝追討の院宣は、伝説の義経の関知する所ではない。親兄の礼を重んじた判官が、今は京に身を置き難く、西国に向って開いたのは、この夜討の変があったに因る。義経はかくて益々世人に哀憐せられるのである。梶原の和讒、腰越の抑留、堀河の来襲、義経は刻一刻、一回又一回、漸次に関東の辛辣残忍な圧迫の手にじりじりと押詰められて来る。而も微塵もそれに逆らおうとはしないのである。土佐を破って之を斬ったのは巳むを得ざるに出たので、正当防衛に過ぎない。而も大事は既に去った。かくして次の船弁慶伝説に移って行くのである。

そして本伝説に於いても、義経の沈毅・豪胆・豁達・武勇は十分に示され、その一騎馬を大庭に立てて寄手を睥睨する英姿は、正に大向うの判官贔屓に声を涸して賞揚呼号させる所、

今日近来、日本国に誰かは義経を思懸くべき。況や昌俊法師をや。あますな者共とて、竪横散々に駆けければ、木葉を嵐の吹く様に、さと左右へぞ散りたりける。(『盛衰記』巻四六)
有様、僅かに七騎を従えて土佐が六十余騎を駆け破る働きは、「灸治し乱れて労(つか)れ」(『盛』)た人とは到底思われず、鏡の宿で単身熊坂の一類を鏖殺した昔を髣髴させて、神人的性行は成長後の判官にも消失せぬのを認めしめるのである。弁慶も亦単騎、土佐が宿所に行き向って、往かじとすまう昌俊を宙に提げ、裸馬に合乗りして、堀河御所に引立てて来、夜討に際しては、急ぎ馳せつけて力戦目を驚かし、遂に敵将を捕らえて君前にこれを献じた。この期からの弁慶は、最早『盛衰記』の一の谷の案内者探しの端役、観音講の道家方に止まらぬのである。殊に本伝説に於いては、猛勇の権化、仁王阿修羅の怒り、獅象の荒れ狂うが如くである。更に本伝説に於いて著しい活動振を見せて、長く国民の脳裡に、賞賛の情と共に深く印象せしめたものは、判官の愛妾静で、その沈勇と用意、機転と敏活、敵を侮らず、又騒がず、著長の音に判官を驚かし参らせ、「さてはと起き給ふまに」それを「取って奉」り、「上帯締め給うまに太刀取って奉る。帯び給うまに甲取って奉る。緒締め給うまに弓取って奉る。張り給うまに矢取って奉る」(『平家』八坂本巻一二)彼女に「あっぱれ静は弓取のおもいものや」(『堀河夜討』)と嘆賞の声を吝まぬ者は、独り判官殿のみではなかろう。思慮周密な判官が、この時に限って打解けたのは、油断の非難を免れないが、判官の油断は即ち静の手柄となる所以で、判官が枕を高うして鼾声雷の如きは、この沈勇の愛妾のあるに安じているからとも言える。かくして静は益々義経伝説中に於ける重要な人物となるのであり、そして前に述べた如く、自ら進んで敵を斬る勇戦をなさしめられるに至って、日本有数の妙舞手としてのみならず、判官は木曽殿に劣らぬ勇敢な婦妾を得られたことになるのである。

成長・影響】弁慶・静等に関する部分の成長に就いては既に〔成立〕の項で自ら触れたから重ねて説かない。

堀河夜討の際に働いた判官の部下で姓名の明記せられている数は、下に示すように、史実から伝説へ進展するままに漸増し、『義経記』に至って一座総出演の幕を観るのである。

『吾妻鏡』     佐藤四郎兵衛尉忠信等。
『盛衰記』     源八兵衛広綱・熊井太郎。
『平家』(八坂本) 江田源三・熊井太郎・武蔵坊。
『平家』(流布本) 伊勢三郎義盛・佐藤四郎兵衛忠信・江田源三・熊井太郎・武蔵坊弁慶
『義経記』     喜三太・武蔵坊・片岡八郎・伊勢三郎・亀井六郎・備前平四郎・江田
          源三・鷲尾七郎・佐藤四郎兵衛・駿河次郎。


そして『盛衰記』の「舎人、馬を待儲けたり」とあるその舎人は、『義経記』には喜三太の名を採って忠戦し、身分こそ卑しけれ、忽ちにして弁慶・忠信等と比肩して功を競う大勇士となった。又、『長門本平家』(巻一九)には源八・熊井・江田は却って頼朝から副えられた土佐が部下のように記されている。

次に敵手たる土佐坊昌俊に関して二つの妄説があることは既に述べた通りで、即ち一は前名を金王丸と云ったという説、二は謡・舞曲に正尊と名を改めさせられている事実であるが、舞曲『堀河夜討』以後『源氏鳥帽子折』『御所櫻堀川夜討』等皆金王説を襲い、且、渋谷の姓を加え――これは舞曲『鎌田』から来ている――て居り(『広益俗説弁』(正編巻一二、士庶)には渋谷は源氏で、二階堂は藤氏であるから別人であろうと、後に附加せられたこの渋谷姓を取上げて論断しようとしている)、又、『御所櫻』は昌俊・正尊両説があるのを利用して、二人土佐坊があったとし、正尊は梶原景時の郎党で、常に芝居の端敵に廻っている番場忠太(『番場忠太紅梅箙』は除外例)に振り当てられ、

扠(さて)こそ贋と正真の土佐坊昌俊・土佐坊正尊、二人の土佐が名の紛れ、義経公に敵対しは、この正尊が事なりけり。
とするに至り、その正尊の名の説明としては、弁慶の滑稽引導の詞の中に、
今日只今昌俊が名を藉って殺さるるは、汝(おのれ)が損の名に取って、正尊と付けてこます。
と牽強したのは、例の院本作者一流の戯謔に過ぎないけれども、代わりに昌俊は意外にも善人となり、『吾妻鏡』に自ら進んで追討の使を申受けた土佐坊は、戯曲の世界では、心ならず判官に敵対し、或はそれは討手を梶原に命ぜられんことを恐れ、故意に自ら申受けて、内心義経と頼朝との仲を和げようとする苦衷に出たとせられ(『御所櫻』)、之に反して正史に於いて義経を助けた備前守行家は、却って梶原と心を合せて義経を陥れようとする敵人とされるようになったのは、さもありそうな傾向ではあるが皮肉である(『右大将鎌倉実記』初段、『吉野静人目千本』第三、行家館の段)。又舞曲『堀河夜討』の義盛勘気の一條は、橋弁慶伝説の牛若千人斬に結び付きつつ、本伝説の土佐坊に対して敵討譚を作り出させた。義盛の父俊盛が千人斬の一人として討たれたと思っていたのが実は金王丸時代の昌俊に誤って殺されたのであったというのである(『御所櫻』二段目・四段目)。その他土佐起請文の一件は、祇園の一社である四條京極染殿の冠者殿の社に於ける、毎年陰暦十月二十日の誓文祓の神事――商人・遊女が平生客を欺いた罪を祓う為の――に結び付き(『義経興廃記』巻一〇、『風流東海硯』)、又起請誓紙の華街の風習に誂え向である所から、浮世草子には彼をさして「男傾城とや申さん。手次(てついで)に土佐ぼんに指切らせて、取って置かれなば」(『花実義経記』三之巻)よかったものをと、色町の太鼓共の笑の種に用いられている。

更に本伝説の進展と共に結び付けられて来たのは、京の君の伝説である。『吾妻鏡』に見える義経の正妻川越重頼の女と、『平家』『盛衰記』に見える平大納言時忠の姫君とを混同したようなもの、これが伝説上の京の君(或は卿の君)で、義経の北方にこの名を与えたのは、『右大将鎌倉実記』あたりが初めらしく(それには卿の字にしてある)、『千本櫻』『御所櫻』もこれを襲用している。そしてこの名の来由に関して、時忠卿の姫君であるから卿の君としたのであろうとは三田村鳶魚氏の説(『芝居と史実』)である。或はそうであろう。但し京の君というのは既に『義経記』には義経の兄の名(巻一「京の君円信」巻二「六郎は京の君」)とせられ(『平治物語』(巻三)では卿公円済は乙若の方で、卿と京との流用は此処でも見られる)、又片岡八郎の山伏名も同じく京の君とせられている。院本作者は恐らくこの既成の人名を借用して、都合好く当て込んだのであろうかと思う。さて『鎌倉実記』及びその後に出た『御所櫻』に於いては彼女は時忠の姫であるが、その又次の『千本櫻』では川越の女で、時忠の養女という事になって居り、『一谷嫩軍記』『古戦場鐘懸松』になると、又時忠の女としてある(『義経記』の義経の正妻は、久我大臣の姫で、北国落に伴われ、高館で自刃した。これも亦正史の川越の女と混じたのである。『盛衰記』の方では奥へ下ったのは川越女となっている)。そしてその京の君が本伝説に関係せしめられるに至ったのは『御所櫻』以来で、頼朝からの訊問数箇條中の一箇條は、義経が頼朝の許可なくして平氏の女を室としたことにある(義経が時忠の婿になったのを、頼朝が忿った事は『盛衰記』(巻四四、頼朝義経中悪)にも見える所である)。堀河夜討は畢竟これらの罪を問う為なのであり、そして頼朝から求められたのは彼女の首である所から、所謂弁慶上使の段となり、武蔵が女信夫は未見の父が手に懸って、主君の身替に立つこととなるのである(その上使に来た弁慶が京の君に産婦の心得を説くことがあるのは、『義経記』(巻七)の北国落の途亀割山での北方の御産に弁慶が介添した事から出ている)。そしてこれは『鎌倉実記』の、卿の君が弁慶の諷諫によって自刃することの変形で同じ趣向は『千本櫻』では、鎌倉からの不審の申開きの為に自殺することともなっている。『嫩軍記』の京の君の自害だけは本伝説に関係無く、その原因は父時忠が義経を亡ぼそうと企む悪心に恥じてのことと変わっているが、『御所櫻』等に於いても時忠は大悪人として取扱われている。

本伝説で有名となった所謂堀河御所の旧蹟は『和漢三才図会』(巻七二、山城国)に

源義経之館 楊梅通(ヤマモモノ)油小路西、謂六條堀川館。
    土佐坊正俊夜討之騒此処。今為荒田。
と見え、又同書(同巻)に
武蔵坊弁慶宅  二條河原東南。
    土佐坊潜責堀川館時、弁慶自此馳向焉。為荒地、稱弁慶芝。
とある。

文学】『平家物語』(巻一二)『盛衰記』(巻四六)に於いて大体の白描が成り、『義経記』(巻四)に完成し、謡曲『正尊』(その「起請文」は「勧進帳」「木曽願書」と共に能では三読物の一とせられている)、舞曲『堀川夜討』に至って、愈々伝説的分子を増している。『正尊』は大略『堀河夜討』と同じで、唯謡曲としての構成の為に省約を施された如き形である。正尊の名まで同一であり(『堀河夜討』の一名を『正尊』と呼ばれている)、共に弁慶と土佐が郎党姉羽平次光景との一騎打があるのでも、確に孰れかが他に倣ったものと思われる。近世のものでは『義経興廃記』(巻一〇)、『義経勲功記』(巻一二・一三)、『金平本義経記』(三之巻五段目・六段目)等いづれも『義経記』と略々同じく、又『■(歹+粲)静胎内■(てへん+君)』(初段)、『清和源氏十五段』(初段)、『義経千本櫻』(序の切)、『吉野静人目千本』(第三、行家館の段)等の院本にも取材せられているが、本伝説を主題としてあるのは外題の示す如く『御所櫻堀川夜討』である。『義経記』、謡・舞曲及び『右大将鎌倉実記』等に材を仰ぎ、義経の千人斬供養、義盛の仇討、弁慶の情話、信夫の身替、静の兄藤弥太の改心、贋土佐の堀河夜討等の新趣向をも加えて構想に変化を求めている。三の切「弁慶上使」、四の切「藤弥太物語」が有名である。青本に『義経堀河夜討』、黄表紙に『二人義経堀河合戦という作もある。浮世草子の『義経風流鑑』『花実義経記』『風流東海硯』にも採られ、その他『勇壮義経録』を始め一代記風の義経物に多く取扱われている。『日本楽府』中にも「大天狗」と題して本伝説を詠じた作を収めてある。明治以後では榎本虎彦作『堀川夜討』(三幕)が歌舞伎座に出た。

〔補〕松居松葉の『堀河夜討』(大正六年三月号「早稲田文学」)は本伝説を喜劇化した一幕物で、守田勘弥の文芸座で上演した。


(一二)船弁慶伝説

内容

人物 源義経(及び静御前)・武蔵坊弁慶。平知その他平家の怨霊
年代 文治元年十一月(『吾妻鏡』には六日)
場所 摂津国大物の浦(『笈さがし』には北国落の途)


義経は終に都を後にして西国へ下ろうと、大物の浦から船出すると、暴風忽然と吹き起こり、これに乗じて壇の浦で亡んだ平家一門の怨霊が新中納言知盛を先として続々と現れ、義経に迫った。太刀を抜いて斬り払おうとする判官を、押隔てて弁慶は数珠さらさらと押揉みつつ、祈り懸け祈り懸け、さしもの悪霊を遂に攘いしずめた。但し、『義経記』では法力の代わりに弓を射て魔雲と現じた平家の死霊を散ぜしめたことになっている。なお謡曲『船弁慶』には、出船の前に静との別離がある。

出処】『義経記』(巻四、義経都落の事)は未完型。完形が載せられているのは謡曲『船弁慶』、舞曲『四国落』及び『笈さがし』

型式・成分・性質】怨念説話。又降魔型法力説話で、安達原伝説と同種のものである。その意味では、宗教伝説であるが、同時に武人而も義経伝説の中枢人物に関するものであり、敵の怨霊も亦武人で、即ち武勇伝説に結合した降魔譚である。従って奇蹟・呪術を含む神話的成分が主要素で、空想的成分と史実的成分とがこれを輔けている。即ち准神話的武勇伝説である。

本拠・成立】先ず史実に就いて調査すると、『吾妻鏡』(巻五、文治元年十一月)に

三日壬午。前備前守行家櫻威甲・伊予守義経赤地錦直垂萌黄威甲等赴西海。先進使者於 仙洞申云、為遁鎌倉譴責、零落鎮西。最期雖可参拝、行粧異体之間、巳以首途云々。前中将時実・侍従良成義経母弟一條大蔵卿長成男・伊豆右衛門尉有綱・堀弥太郎景光・佐藤四郎兵衛尉忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎・弁慶法師巳下、彼此之勢二百騎歟云々。
五日甲申。関東発遣御家人等入洛。二品忿怒之趣、先申左府云々。今日予州至河尻之処、摂津国源氏多田蔵人大夫行綱・豊島冠者等、庶前途、連発矢石。予州懸敗之間、不能挑戦。然而予州勢、以零落。所残勢不幾云々。
とある都落及び河尻合戦の次に、
六日乙酉。行家・義経於大物濱乗船之刻、疾風俄起而逆浪覆船之間、慮外止渡海之儀。伴類分散。相従予州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉・堀弥太郎・武蔵房弁慶井妾女字静一人也。今夜一宿于天王寺辺、自此所遂電云々。今日可尋進件両人之旨、被下 院宣於諸国云々。
とある日の事件である。十一日庚寅にも
爰義経・行家巧反逆、赴西海之間、於大物濱漂没之由、雖も有風聞………
と見え、同日近畿の国司に賜った院宣にも去六日於大物濱忽逢逆風」の一句がある。
廿日巳亥。伊予守義経・前備前守行家等、出京都、去六日、於大物濱、乗船解纜之時、遭悪風、漂没之由、及風聞之処、八島冠者時清、同八日帰京畢、両人未死之旨、言上云々。(下略)
という記事も出ている。そしてこの逆風に対して、
折節十一月の事なる上、平家の怨霊や強かりけん、度々船を出しけれども、波風荒うして、大物が浦・住吉の濱などに被打上て、今は不及於出船。(『盛衰記』巻四六)
という時人の解釈に拠る風評の平家の怨霊は、『義経記』には一歩を進めて、
弁慶申しけるは、この雲の気色を見候に、よも風雲にては候まじ。君はいつの程に思召し忘れ給いて候ぞ。平家を攻めさせ給いし時、平家の公達多く波の底に屍を沈め、苔の下に骨を埋み給いし時、仰せられ候いし事は今のようにこそ候へ。源氏は八幡の守り給えば、事に重ねて日に添え安穏ならんと仰せられし。如何さまにもこれは君の御為悪風とこそ思い候へ。あの雲砕けて御舟にかからば、君も渡らせ給うまじ。我等も二度故郷へ帰らんこと不定なり。
という怪奇の悪雲となって義経に障碍をなそうとし、『四国落』に及んでは終に具象化して、
かかるきざみに平家の悪霊達、その数涌出せられ、
そして『船弁慶』では
天命に沈みし平氏の一類……一門の月卿雲霞の如く、波に浮みて見え
ただけでなく、
夕浪に浮べる長刀執り直し、巴浪の紋あたりを払い
威容堂々と
抑もこれは桓武天皇九代の後胤、平知盛幽霊也。
と平軍の勇将に名告りを挙げさせているのである。
一方この悪霊を降伏する側からは、素蓋鳴尊大蛇退治神話にまで溯源せずとも、本伝説はその前身乃至原形とも見られ得べきものにまで辿って行くことが出来る。即ち下に表示してみると、

   〔『古事談』第四    
    『宇治拾遺』巻四〕     
     献弓(義家)・・・・・・・・・ もののけ
       ↓         ・     │ 
   〔『平家』巻四       ・     │
    『盛衰記』巻一六〕    ・     │
     鳴弦(義家)・・・・・・・     │
       ↓              ↓
       射術                        怪物
┌──────┴─────┐    ┌───┴───┐
(1清盛)〔『盛衰記』巻一〕        化鼠(1)
(2頼政)〔『平家』巻四        化鳥(2・3)
     『盛衰記』巻一六〕    └───┬───┘
(3広有)〔『太平記』巻一二〕            |
└──────┬─────┘        |
       ↓              | 
      〔『義経記』〕          ↓
     射術(弁慶)・・・・・・・・・・ 怨霊
       ↓        ・
     〔『船弁慶』〕     ・
     法力(弁慶)・・・・・・ 

となり、『義経記』の弁慶が弓射を以て悪風を攘うという形が介在することによって、この変移の経路の説明が一層自然さを増すのである。又渡海に際して暴風波を起す魔力を有しているものと、これを鎮定する人と手段に於いても、自ら変移する時代がそれぞれに順応した姿で現れる。

          (『平家』巻五
(『古事記』中巻   『盛衰記』巻一八   (『義経記』  
 『書紀』巻七)     舞曲『文覚』)     謡曲『船弁慶』)
   海神 ―――――→ 龍神 ―――――→ 平家の怨霊
    ・         ・           ・
    ・         ・           ・
弟橘姫(入水)――→ 文覚(怒号)――→ 弁慶(射術若しくは法力)

尤も『義経記』や謡曲時代に風波を起すものが龍神ではなくなったという意味ではないが、猛勇僧文覚の行動が勧進帳読みと共に弁慶の伝説的成長に好範を垂れたことの想像は併せて否まるべきではなかろう。

又これは伝説的変移ではなくて、能の構成上から来た制約に基づく所ではあるが、『船弁慶』の前半を成す静別離の一條は、次條の吉野山伝説からの転入である。

解釈】現世の兄に憎まれて西国へ難を避けようとすれば、幽界の亡鬼に逆風を吹き懸けられて前途を塞がれる。幸に斯の道にも勤修を積んで験徳頼もしい武蔵坊の働によって漸く災厄は免れたが、風浪の烈しさに船は破れ梶は砕けた。今は西海へも赴き得ず、まして都へは還り難い。天地の間に身を容るべき尺寸の地を何処に覓むべきか。義経の不遇な命路、漂浪の道程の一歩は愈々始まったのである。そしてこの大物が浦の風波を平家の怨霊の業とする所、及び弁慶の法力によってそれが祈り却けられた所に、無論本伝説の主な意味はある。それに連関して本伝説に顕著な事実は、薄運の主君を庇護して無二の精誠を捧げる弁慶の活動で、ここに至って、曽ての書写の悪童、五條橋の物取天狗法師であった弁慶は、今や判官股肱の大柱石兼後見役たる本色を発揮することになったのである。而も正史では随従の連名の最終に列している人物が、伝説では――特に本伝説からは、一躍して中心の大立物に昇格したことは頗る興味深い現象である。

もとより又本伝説は、仏法――特に「祈り」の力を説くものである事言うまでもない。武術や宝剣の霊威に依る悪鬼退治(戸隠伝説・鈴鹿御前伝説等)と類縁をなすものであると同時に(『義経記』の所伝は完全に武術に依る降魔である)、妄執にひかれてありし世の姿を現す英雄の精霊が、雲水行脚の一沙門の弔問に逢うて、草木国土まで悉皆成仏する幽玄絶大な功力によって、忽ち解脱得道して、円満の仏果を得る、かの謡曲の本領たる幽霊能と同じ形式、同じ精神である。そして其処には前項に述べた風説から悪霊を具現して来た事実と併せて、時代人の迷信民俗が如実に投影している。

成長・影響】完形の成立に関連しての本伝説の成長過程は前に説いた如くで、なお『笈さがし』では北國落の途上の海路へ移動しているが、完成した本伝説に影響せられて生まれた最も著しい文学的所産は、竹田出雲の戯曲『義経千本櫻』で同曲に於いて本伝説の説話容相も更に一段複雑した変転を遂げしめられた。この戯曲は題名の示すように内容は吉野山伝説が中心であるが、一部は維盛亡命の伝説、そして他の一部は即ち本伝説から成っている。二段目の中「渡海屋」から切「船軍」へかけてが本伝説に関する部分で、それは謡曲『碇潜(いかりかづき)』とこの船弁慶伝説とを合せて脚色したもの、その特色は謡曲『船弁慶』にあっては幽霊である知盛を、実は生きた知盛が幽霊姿を装って義経を欺き殺そうとする形にした所にある。

即ち知盛は世を忍ぶ大物の浦の船頭渡海屋真綱銀平となり、典侍の局はその女房となり、表面その娘らしく見せているのは忝くも安徳天皇におはしますのである。西国へと渡りを求めて立寄った義経の一行をその家に宿させた知盛は、家臣相模五郎に命じて、佯って敵方らしく振舞わせ、これを懲して恩を売った上で、巧に賺して故意に難風の日に船を出させ、自ら幽霊と号して海上で義経を囲み、之を討取ろうと計って却って裏を掻かれ、終に錨をかついで海に身を投ずることに作ってある。これは教経生存率などからも暗示せられて来たのであろうが、『甲子夜話』(巻一〇)には、知盛は壇の浦で入水したと披露し、実は生存して屋島辺の漁戸に混じ隠れて、再挙を計ろうとしたのをば、義経に捜し出され、最後の決戦をして討死したのを、謡曲『船弁慶』には、その亡霊が出たとして面白く作りなしたのであると却って逆に解釈してある。

この説をそのまま文学としたようなものが即ち『千本櫻』である。つまり謡曲で改変せられた実説を偶然復原の姿に引戻したという形になるわけである。が、この説の出処は屋島辺の古老の談として大関土佐守が齎し帰った土産話に基づくので、著者松浦静山侯は「井沢が『俗説弁』にも未だ見えず。奇聞なり」と珍重しているけれども、これは恐らくその地で『船弁慶』の説話が斯様な姿に於いて解釈せられた形を取って流布していた口碑であろうし、若しかしたら却って『千本櫻』の内容が既に口碑化してその地に結びついていたのであるかも測られない。『甲子夜話』の起稿は『千本櫻』上場の延享四年からは既に七十四年後の文政四年十一月甲子であるから、この條の執筆はなおその以後に属するのである。尤も大関土佐守が聞いたのはもっと旧いことも同書で知られ、又口碑になっているのは無論尚遙に早い時からであろうから、『千本櫻』からの影響とのみは断じ難いが、若しこの口碑の方が『千本櫻』に先だっていたとすれば、出雲等がこの口碑を利用したのかも知れぬが、或は恐らくそうでなくて謡曲から著想したのが――そして通俗史学常識からもそうした考え方が導き出されるのは自然である――同一の帰結を見たものではあるまいか。それはいずれとしてもこうした伝説なり趣向なりが生まれて来るのも、決して不自然でないばかりか、実は当時に於いて既に銀平ならざる銀平が実在した事実を、『吾妻鏡』(巻五)が語っているのが一段の興趣を誘う。即ち文治元年十一月二日辛巳の條に次の記事がある。

予州巳欲赴西国。仍為令儲乗船。先遣大夫判官友実之処、有庄四郎者元予州家人当時不相従今日於途中、相逢友実。問云、今出行何事哉。友実任実答事由。庄偽示合如元可属予州趣。友実又稱可伝達其旨予州、相具進行。爰庄忽被誅戮廷尉訖。件庄、実者越前国斉藤一族也。垂髪而候仁和寺宮、首服時属平家、其後向背相従木曽。木曽被追討之比、為予州家人、遂以如此云々。
純然たる敵将ではなく、且、元々義経の臣だった表裏反復の男ではあるが、『千本櫻』作者はこの庄四郎を用いたのではないかも知れぬけれど、その著想もこれによって愈々事実らしさを附与せられることになる。庄が船宿の主であったとまではないけれども、乗船の支度の際といい、諜し合せた相模五郎を取拉ぐ偽忠義の銀平が看破せられて自滅を取る所まで、「渡海屋」の場の為に、モデルが用意せられてあった感がある。執筆の材料を蒐めるに当って、この場受持の作者は『吾妻鏡』をも一瞥したと思われるから、或は暗示を此処に得たとしても有り得ぬことではない。偶合としても亦別様の興味が大きい。

又別に本伝説の変容したものに、謡曲『沼捜(さぐり)』の内容を成している説話がある。判官御遊の折柄、一天俄に掻曇り、雲間に出現した大怪蛇の影を見た弁慶が、放った神通の鏑矢の行方を尋ねて、櫻が池の辺に到ると、やんごとなき女性一人立現れ、その大蛇こそは昔の山田(八岐)の大蛇の精霊で、宝剣に執心を残して生をこの世に引き(これは『盛衰記』(巻四四、老松若松尋剣)、『平家』(剣巻)、『長門本』(巻一八)、『太平記』(巻二五、自伊勢進宝剣事)、御伽草子『相模川』(〔補〕番外舞曲か)等にも見える伝説である)ながら、その素志を果たし得ぬ西海の深き怨を返そうと、今この沼を棲処として、汝等を苦しめようとするのであると告げ、頼朝・景時・義経等の前生(これは同一の説話が『天狗の内裏』にも見える。)を語って、過去の罪業免れ難く、義経・弁慶等はやがて衣川の立浪の辺で亡ぶべき因由を説き、妾こそ先帝の御供して入水した二位の尼よと名告って、一門の悪霊を喚び出し、風雨を起して弁慶を憑り殺そうとするのを、弁慶は諸神を念じて悪霊と戦い、漸く打却けたというのがその梗概である。即ち宝剣伝説、大蛇退治神話、因果前生譚、未来記式予言説話、神仏霊験譚等の諸素材、諸要素が本伝説に結びつけられたものが湖沼退治の地方口碑と合体したようなものである。

今一つは、謡曲『橋供養』(一名『相模川』)で、これは御伽草子の『相模川』と同材をなしていて、頼朝が相模川の橋供養に平家の怨霊に悩まされて落馬し、病を獲て薨じたという伝説に取材した作であるが、特に相模川の波の中から、「あら珍らしや如何に頼朝」と呼びかけつつ、長刀を取直して現れる「教経の怨霊は、即ち『船弁慶』の知盛の変身で、これを祈り鎮める弁慶の役は若宮別当になっている。少なくともこの伝説を採って脚色するに、謡曲『船弁慶』に摸したことは疑う余地がない。

なお『金平本義経記』(四之巻初段)に平家の怨霊が渡海を妨げるのを、弁慶は先ず矢を射て怪雲を払い、更に現れた悪霊を、法力を以て祈り却けるのは、『義経記』と『四国落』及び『笈さがし』とを合せたので、即ち本伝説の原形と完形との重複現象として面白い。又『義経興廃記』(巻一一)では鳴弦を以て怨霊を払い、法力は風向を変えるに用いさせているだけである。

文学】『義経記』(巻四)及びこの系統を引く『興廃記』(巻一一)、『勲功記』(巻一四)はなお完成した船弁慶伝説の文学ではない。完形を題材としている作では謡曲『船弁慶』、舞曲『四国落』(前半)、同『笈さがし』(後半)を主なものとする。『金平本義経記』(四之巻初段)は両者を折衷したもの、謡曲『沼捜』は本伝説を変形したものである。又新歌舞伎十八番の一になっている黙阿弥の『船弁慶』は、殆ど謡曲をそのまま歌舞伎へ移したような作で、他に謡曲から来たものには筑前琵琶の『船弁慶』もある。

その他一代記風の義経物及び絵本に本伝説の採られているのもあるが、何といってもその代表作は謡曲『船弁慶』と戯曲『義経千本櫻』(二段目)である。後者は角書にも「大物船矢倉」として「吉野花矢倉」に対せしめた程で、「渡海屋の段」の如き力作というべく、歌舞伎にも移されて今に及んでもいる。本伝説は川柳にもいろいろ作られているが

白波になって弁慶汗をふき
など最も有名で、これは能の『船弁慶』である。

なお『義経記』(巻四、住吉大物二箇所合戦の事)及び舞曲『四国落』には本伝説に引続く部分として、又謡曲『蘆屋弁慶』は独立曲として、いずれも、この難破の翌朝船が海浜へ吹き寄せられた所を、その地の国人等(『義経記』には豊島冠者・上野判官・小溝太郎、『四国落』『蘆屋弁慶』には、蘆屋三郎光重としてある)が争い集まって、判官を討とうとしたのを、弁慶等が勇戦して撃ち走らせたことが取扱われているが、これは『吾妻鏡』(前掲の如く、敵将は多田行綱・豊島冠者、土地は河尻としてある)、『平家物語』(八坂本巻一二)(これには太田太郎高能・豊島冠者、土地は摂津国小溝)等にも見え、而も大物の浦出船以前の事件であるのを、以後の事としたものである。ついでに『義経記』『四国落』『蘆屋弁慶』等皆、住吉明神が釣翁と原形して、歌を以て地名を訓え給う歌物語が含まれている。
 

(一三)吉野山伝説附狐忠信伝説及び碁盤忠信伝説

(い)吉野山伝説(吉野静並びに忠信身替伝説)附狐忠信伝説

大物の浦難船の次に来るのは、吉野山別離の悲話である。本伝説は自ら二部分に分かれている。前半静御前との哀別(吉野静伝説)と、後半忠信の身替とである。併し、両者は終に相合して、一の伝説となるに至り、両者相合する所に狐忠信の伝説は生まれて来る。

内容

人物 源義経・静御前・佐藤忠信。 源九郎狐(狐忠信伝説)
年代 文冶元年十一月
場所 大和国吉野山


〔イ〕吉野静伝説 

大物の浦の難風に遭い、西走の計画が頓挫した判官義経は伴って来た十余人の妻妾を都へ送り返し、唯静のみを召連れて、弁慶・忠信以下の勇臣と、一時大和の吉野山に隠れたが、衆徒の詮議厳しく、又この山をも見捨てねばならなくなった。放ちともない名残の袂を、弁慶等の切諌に心強く振断って、これまで御供した静をば、秘蔵の初音の鼓を形見に、その他の財宝を添え、供人を附けて都へ還す判官の切なさ、増る歎きは静が身で、泣く泣く返す踵も胸も、路を埋める白雪に弥々冷えたゆむばかり、財宝に眼のくれた供人が途で姿を隠してからは、谺の外は応えるものもない深山に唯一人取り残され、漸く辿りついた蔵王権現の御前で、忽ち寺僧に見咎められ、奉納の舞を強いられた後、捕らえられて都へ上せられ、やがて鎌倉へ送られることとなった。

〔ロ〕忠信身替(吉野忠信)伝説

一方静に別れた義経主従は、南を指して落ちて行ったが、一山の僧徒の追跡愈々急なので、佐藤四郎兵衛忠信は、一人後に踏み留まって防ぎ矢をも射、且は君の御身替として討死し、敵を欺いて心安く落し参らせたいと進んで請うた。屋島に我に代って討たれた兄継信を失うたさへあるにと、惜しんで許さぬ判官に強いて悃願し、終に御名と著長とを賜り、末代の面目と勇躍して後に残り、程なく押寄せた大衆三百人を引受けて華々しく闘い、就中悪僧横川禅師覚範と渡り合うてこれを討取り、恐れて近づかぬ衆徒を前に、自害すると見せて谷間に跳び下り、逃れて密に京へ上った。

〔ハ〕狐忠信伝説 

義経は堀河夜討の変後都を去ったが、伏見で初音の鼓を預けて静を京へ返そうとし、折よく主君の後を慕って駆けつけた帰省中の佐藤忠信には、義経の名と著長とを与えて静の身を託し、自身は弁慶等と西国へ開こうと船出した大物の浦で風難に逢ったので、吉野の河連法眼の許に身を忍ばせている所へ、奥州から忠信が馳せ上って来た。静を伴わぬ不念さを詰って判官が気色を損じた折から、山路を分けて辿り着いた静御前に具して又一人の忠信が参上した。怪しむ義経の仰せを受けて、静は思いついたまま、初音の鼓を以て詮議した結果、静を預かって共に道行をして来たのが贋忠信で、実はその鼓の皮に張られた大和国の牝牡の狐の子であり、その音に誘われて勇士の姿に化して現れた由を白状した。畜類にも親子の濃かな恩愛のあるに感じ、静を守護した功をも賞でて、判官は初音の鼓をこれに与えた。もとより源九郎の名も先に許された。感泣した源九郎狐は謝意を表す為、今宵悪僧等夜襲の企ある旨を告げた上に、衆徒の頭目を一人々々誑して誘い寄せ、判官方に生捕らせた。独り残った横川覚範実は能登守教経は義経からその正体を看破せられ、改めて判官の御名を賜った真の忠信と吉野山で勇戦した末、源九郎狐の助もあって忠信の為に遂に覚範は討取られた。

出処
〔イ〕『義経記』(巻五、判官吉野山に入り給う事、静吉野山に捨てらるる事)、謡曲『二人静』『法事静』(『平家』(剣巻)及び『長門本』(巻一九)には、静のみを具して吉野へ入った事だけ見える。但し『長門本』には吉野と明記はしてない)。

〔ロ〕『平家物語』(八坂本巻一二、吉野軍)、『義経記』(巻五、義経吉野山を落ち給う事、忠信吉野に留まる事、忠信吉野山の合戦の事)、謡曲『忠信』(一名『空腹』)。

〔ハ〕『義経千本櫻』(四段目・五段目)。

型式・構成・成分・性質】前半を構成する吉野静伝説は特殊の型式のものではない。唯歌舞伎伝説(芸術伝説)が一部に挿入せられ、後の進展した同伝説では舞徳説話の意味が明瞭に賦与せられて来ている。後半を構成する忠信身替伝説は義光型忠臣身替譚の変種――身替には立ったが佯りの討死――で且競勇型勇者譚に属する闘戦型で競武型の説話である。そして吉野山という同一の場所によって両説話は連繋せられている。史実的成分が空想的(仮構的)成分によって潤色せられている史譚的武勇伝説である。狐忠信伝説となると、これに禽獣説話(テイルザーゲ)の要素が加わった、複身モーティフ(擬似分身)と動物報恩モーティフを含む怪異譚で、神話的成分も認められ、准神話的且准史譚的武勇伝説である。

本拠・成長・影響】吉野静伝説は殆どそのままの史実を『吾妻鏡』(巻五、文治元年)に求めることが出来る。

十七日丙申。予州籠大和国吉野山之由、風聞之間、執行相催悪僧等、日来雖索山林、無其実之処、今夜亥刻、予州妾静、自当山藤尾坂降、到于蔵王堂。其体尤奇怪。衆徒等見咎之、相具向執行坊、具問子細。静云、吾是九郎大夫判官今伊予守妾也。自大物浜、予州来此山、五箇日逗留之処、衆徒蜂起之由依風聞、伊予守仮山伏之姿、遂伝訖。于時与数多金銀類於我、付雑色男等、欲送京。而彼男共取財宝、棄置于深峯雪中之間、如此迷来云々。
十八日丁酉。就静之説、為捜求予州、吉野大衆等又蹈山谷。静者執行頗令憐愍、相労之後、稱可進鎌倉之由云々。(以上十一月)
八日丁巳。吉野執行送静於北條殿御亭。就之為捜求予州、可被発遣軍士於吉野山之由云々。
十五日甲子。北條殿飛脚、自京都参著。被注申洛中子細。(中略)次予州妾出来。相尋之処、予州出都、赴西海之暁、被相伴至大物浜。而船漂倒之間、不遂渡海、伴類皆分散。其夜者宿天王寺、予州自此遂電。于時約曰、今一両日於当所可相待。可遣迎者也。但過約日者、速可行避云々。相待之処、送馬之間乗之。雖不知何所、経路次有三箇日、到吉野山。逗留彼山五箇日、遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪、希有而著蔵王堂之時、執行所虜置也者。申状如此。何様可計沙汰乎云々。(下略)(以上十二月)
但し蔵王堂の法楽舞(『義経記』)は口碑に基づいたか或は次條鶴ヶ岡舞楽伝説からの移入かも知れない。

後半忠信身替伝説に於ける衆徒の探索追跡の事も上の文によって事実であったことがわかるし、義経が吉野から多武峰方面へ逃れたことは

廿二日辛丑。予州凌吉野山深雪、潜向多武峰。是為祈請大織冠御影云々。到著之所者、南院内藤室、其坊主号十字坊之悪僧也。賞翫予州云々。

廿九日戊申。(上略)又、多武峰十字坊、相談予州云、寺院非広、住侶又不幾。遁隠始終不可叶。自是欲奉送遠津河辺。彼所者、人馬不通之深山也者。予州諾之、大欣悦之間、差悪僧八人送之。謂悪僧者、道徳・行徳・拾悟・拾禅・楽達(一本、遠)・楽円・文妙・文実等也云々。 (以上十一月)

とあるので知ることが出来る。この十字坊は或意味で『千本櫻』の河連法眼に略々恰当する。吉野の奥に義経潜伏の僧坊を構案したのは、静が鎌倉での答申にも「当山僧坊」とあり、又吉水院に隠れていたという伝えもある程であるから、あり得ない想像ではなかろうが、右の史実に示唆を得たとしても不自然ではない。現に二段目に「落ち行く先は多武峰の十字坊云々」と明らかにこの史実を採入れてもある。かく『吾妻鏡』の記事が利用せられている以上、同曲に銀平のモデルの一要素として庄四郎が借りられて来たかも知れないという臆測も、亦無稽さから一層遠ざからしめられて来ることになるであろう。が、河連法眼は寧ろ次に引用する『盛衰記』(巻四六)の金王法橋――これが又吉野の執行と十字坊とを合せたような面影がある――から来たものと看るが穏当であろう。さすれば十字坊とは間接の関係になって来る。

さる程に義経都を落ちて、金峯に登って、金王法橋が坊にて、具したりし白拍子二人舞わせて、世を世ともせず二三日遊び戯れて、ああさてのみ非可有(あるべきにあらず)とて、白拍子を此より京へ返し送るとて、金王法橋に誂え附けて、年来の妻の局、河越太郎が娘ばかりを相具して下りにけり。

『千本櫻』(四段目)に毎日琴三味線で遊宴が催されているというのも、舞台効果と近代世相以外に、この記事にも都合よく相当するのである。又、河越の娘を具して下ったとは即ち奥州落である(安宅伝説〔本拠〕の條参照)。前記史実の八人の悪僧等の事は伝説化するに至らなかったらしく、『義経記』にすら載せていない。

忠信・覚範勇戦の事は『平家』(八坂本)には見えるが、流布本にも『盛衰記』にも無い。惟うにこれは後の附加の部分で、『義経記』に見えるのがやはり最も早いと思われる。そしてその條の本拠は不明であるが、若し『義経記』が『太平記』以後の作ならば、村上義光の大塔宮身替(『太平記』巻七)に、範を仰いだ点が必ずあるであろうと推断していいであろう。これはなお後に詳述したい。それと同時に一面兄継信の身替説話の転移とも看ることが可能であろう。

狐忠信伝説の本拠並びに成形に関して注意すべき要点が四つある。(一)は静と忠信が結び付けられたこと、(二)は二人忠信の趣向、(三)は源九郎狐、(四)は初音の鼓のことである。先ず(一)に就いて考察してみる。元来静と忠信とは、判官の愛妾と寵臣で、人物の上から言っても好一対をなしている。この二人は之を相対せしめ相並べるだけでも興趣が深いのに、時間の上に多少前後の差こそあれ、判官に対して、同じ時、同じ場所で、同じ別れをしているのみならず、雪の吉野という背景まで用意せられてある美人と勇者とは、互に結び付けられるに頗る恰当な自然の口実を有している。つまり院本作家等の前に、殆ど組み上りの脚色案として投げられた好餌の誘惑でなければならぬ筈である。加之、数ある思い人の中で、唯この一人をのみ見放ち難く、大物の波に揺られた後を、又吉野の奥までも伴って来た判官の愛妾静を、名もない貪慾怯懦の供人に委せるのは、時運の非なるが為とは言いながら、判官も心苦しく、国民も亦飽き足らない所で、?に於いて義経の御名を賜る程の忠臣、一山の大衆を白雪と蹴散す大剛の士に之を託せしめるに至ったのは、故の無いことではないのである。そしてこの両人の結び付けられる傾向は既に謡曲『吉野静』に於いて認められる。大衆の前に法楽の舞を舞って心を奪わせ、その隙に安く君を落し参らせようと計る才あり勇ある白拍子と智を以て敵を欺き、武を以て仇を挫く誠忠無二の勇臣とが、相謀って共に山に留まったことは、

さても静は忠信が、その契約を違えじと、舞の装束ひきつくろひ、忠信遅しと待ち居たり。(『吉野静』)
の一節がそれを語っている。『千本櫻』は更にこの傾向を、一層進展させて、完形にまで導いたものと言えよう。

次に(二)『千本櫻』の二人忠信の趣向は原伝説に於いて忠信が義経の姓名を賜って、二人義経の形となったことにも関係があるであろうし、――源九郎と源九郎狐と、二人源九郎になったのも亦これの変容とも観られる――又別に二人義経として用いられた趣向の端は、既に同じ竹田出雲の作『右大将鎌倉実記』(初段)に発し、それには源九郎義経と、山本九郎義経の二人義経を出している。併し同一人物を二人として出す趣向――説話の側からは分身伝説と似た(或時は一致もするが)複身伝説であるが――即ち所謂「二人何々」の型式なり構想なりは、これらに始まったのではない。謡曲には、それを曲名とするものさえある。例えば『二人祇王』『二人白拍子』『二人猩々』『二人神子』、就中この忠信の相手となった静に関する『二人静』の如きそれである。これら、特に『二人静』の如き、亦二人忠信の構案の上に影響した所が必ずあったろうと考えられ得る。尤も謡曲の「二人何々」は単調を救い、新奇変化を喜ぶ意味が含まれてはいるが、それは舞台上の対偶を求める為に案出せられた(二人を共演させようという演者の側の都合から来ることも有り得よう)舞台の方から来た形と言うべき性質のもので、文学内容としては重要な意味は有していないと看てよいであろう。

『二人静』から示唆を得たと思われる近松の『■(歹+粲)静体内?』の二人静の趣向の方が、戯曲的構想の複雑さという点で却って何等かの範例を垂れたかも知れない。それよりも更に直接的に影響した先行の構想は『千本櫻』より十三年前の同じ作者の『蘆屋道満大内鑑』(四段目)の二人葛の葉で、而も同じ狐の化身である点も確証を提供する。即ちそれの男女の性を変えて狐忠信は登場したこととなる(狐には関係無いが、二人男という点ではその前に『大内鑑』から三年経って『御所櫻』に善悪の二人土佐坊が文耕堂等によって創り出されている。又『大内鑑』より三十三年前、歌舞伎の『高館弁慶状』(元禄十四年中村座)に大当たりを取った二人弁慶の趣向もあった)。なおその『大内鑑』の葛の葉狐の構想の基づく所は、その粉本となった古浄瑠璃『信用妻』(山本土佐掾正本)にまで溯らせられねばならない。但しそれは二人葛の葉ではない。伝説としての複身型式の怪異譚は謡曲時代よりは更に旧く既に『今昔物語』(巻二七、第二九話)「雅通中将家在同形乳母二人語」の二人乳母、同(同巻、第三九話)「狐変人妻形来家語」の二人妻の伝説がある。特に後のものは即ち『大内鑑』の二人女房――同じく狐の化身による――の前身とも観られ得べき全く同型の説話である。

又二人忠信の変容は黄表紙の『源九郎狐葛の葉狐いかに弁慶御前二人』の二人弁慶で――二人弁慶の趣向は前記の如く前にもあるにはあるが――、その一方は即ち狐弁慶である。そしてそれでは葛の葉伝説とも結合している。

(三)に狐が人身に化した怪異は数多く伝えられて居り、就中古くは『日本霊異記』(巻上、第二話)の怪婚伝説(『水鏡』上巻、欽明天皇の條にも出ている)があって、前記信田妻伝説即ち葛の葉狐子別れ伝説(『信田妻』三段目、『大内鑑』四段目)の本拠を成しているが、狐忠信の源九郎はその系統を引く葛の葉狐を性の転換によって院本作者が作り上げたというだけでなく、既にその以前に伝説上での出現を見ていたようである。『千本櫻』(四段目)の狐忠信の白に

その忠信になり代わり、静様の御難儀を、救いました御褒美と有って、勿体なや畜生に、清和天皇の後胤、源九郎義経という、御姓名を賜りしは、空恐ろしき身の冥加、
とあり、その四の切の結びに、その名を解剖して命名の由来を説明したような形で、
源九郎義経の義という字を訓(よみ)と音(こえ)、源九郎義経附添いし、大和言葉の物語、その名は高く聞えける。
とあるのによって考えると、源九郎義経の「義」だけを音読して、源九郎義経即ち源九郎狐とする通俗語源説的解釈の附会からその名と趣向とを思いついたようにも思われるのであるが、或は上の文は既存の源九郎狐に対する通俗語源説的説明を後から附したので、他の場合の例ですれば、
法師と見せて武をかくす、文字を直に武蔵坊、父弁真の弁の字と、性慶阿闍梨の慶の字を、一つに寄せて弁慶々々弁へよろこぶ法の友。(『鬼一法眼三略巻』)
といった院法常用の同一筆法であるとも見ることが出来る。果然、下に説くように『千本櫻』に先立って、源九郎狐のことの作られた文学がある以上、後者の見解の自然さに就かねばなるまい。その上、この源九郎狐に関しては、別にその本拠となった伝説がある。『諸国里人談』(巻之五)(菊岡米山著)に
延宝のころ大和国宇多に源五郎狐というあり。
と見え、百姓の農事の手助けをしたので、農民共に愛せられたことを記し、その妻狐の名を小女郎といったとの伝説を載せてある。但しこれは義経伝説とは全然関係は無い。米山は即ち江戸の俳人沾涼で、恰も『千本櫻』が上方で上場せられた年(延享四年)の十月二十四日六十余歳で残した人である。『里人談』は、その成った年が詳らかでないのは、随時に書き続けた為であろう。併し文中「亨保十五年の春」と記してあるのが、年号を記した中で最も新しい年時のようで、その他は大抵それ以前の年号を引いてある。上の記事が亨保十五年以後の見聞乃至筆録に係るものとしても、亦「延宝のころ」とある時代(米山の未だ生まれない以前、若しくは生まれた頃に当たる)に誤があるとしても、少なくとも延享四年以前に上の伝説が行われていたことは確である。それが一字違の源五郎と源九郎と誂えたような名称の類似は、極めて容易に、源九郎を主人公とする義経伝説に結びついて来た筈であった。狐忠信の源九郎の出生地がやはり大和であることが、この転移を明証している。

併しながら、源五郎改め源九郎狐を義経伝説に加えた優先権は出雲には却って許されない理由を提示する事実がある。それは延宝からは約四十年弱後、延享四年からは三十二年前に当たる正徳五年刊行、八文字屋自笑の浮世草子『義経風流鑑』(巻之五)の内容で、奥州落の途中義経が兼房及び妻妾等と共に、弁慶等の一行に引き分かれて微行し、越前荒血山に着いた條に

若男一人声をかけ、遊屋御前・牛王の姫を同道し、君奥州御下向と考え、御供申したるといえば、列家の小左衛門と聞えしは汝なるか。いしくも来たるものかなと御悦喜浅からざりしに、又同じ年ぱいなる男、浄瑠璃姫・十五夜親子・冷泉をいざない御前に畏まる。こは珍しの源九郎狐、誠にその方へ尋ね度き事有り。去比堀川の館へ、と仰出さるるを、源九郎狐承り、さればその土佐坊が夜討の時、松に懸け給いし具足の動きしは、皆我が脊属の所為なり。扨も今めかしく候えども、某昔君の御厚恩を受け、源九郎といえる名迄下され、先年奥州より打ってのぼり給いし時も御姿にかわり、御舎兄範頼公と御一緒に上洛せしめ、君の御かたちを借り申したる威を以て人人に敬われ、最も野干中間の誉と成りぬ。此度も奥州への御供申し度候えども、我稲荷よりの贈官を以て、大和国中の野狐惣府使に任ぜられ、自今は大和の源九郎と名乗る。扨これなるは某が旧友、江州列家の小左衛門狐、初めて御見えのしるしに牛王の姫・遊屋御前を御供申しぬ。重ねて御用の事も候はば、仰付けられつかわさるべしと申す。


とある一節がそれである。大和の狐であることも、義経から源九郎の姓名を賜ったことも既に含まれていて、狐忠信でないだけである。そしてこれこそ『里人談』の源五郎伝説から――直接『里人談』からでなくとも――来ていることは確で、『里人談』所載の源五郎・小女郎の伝説は義経に関係無く、且地方口碑として寧ろ自然な内容であるから、この『風流鑑』の内容のような説話から派生したものとは思われない。必ずや大和の宇多地方に早く発生した民間伝説であったに相違ない。兎も角上の『風流鑑』によれば、源九郎狐は余程源九郎判官と親しいようである。この書以前に義経と源五郎乃至源九郎狐とは関係を結ばしめられているらしくも推せられる。義経伝説に関してはいないが、後にも述べようとする近松の『天鼓』の五段目に「大和狐源九郎」とあるのは見逃せない。而も同じ條に「江州月の輪小左衛門狐」の名もあり、諸国に名を獲た狐共が各自通力を以て、諸方に分散していた一家の人々を瞬時に伴って来る場面からも、『風流鑑』に臨本を与えていることを認めさせる。その上、源五郎でなくて、早くも源九郎になっているのは、義経と関係ある曲でもない以上、近松が故意に改めたのではなかろうから、或は伝説としても、義経に結びつく以前に既に源九郎に転じていたのでもあろうという推測を可能にするのである。『天鼓』は著作年代に疑問のある作とせられているが、『風流鑑』の刊行から十四年前の元禄十四年よりは少なくとも降るまいし、井上播磨掾の正本であったとすれば、なお十数年引上げられねばならず、『里人談』に言う「延宝頃」に接近して来るのである。いずれにせよこの源五郎の源九郎は『天鼓』から『風流鑑』を経て狐忠信となったものかと思われる。又『歌舞伎年代記』(寛保二年七月、中村座)に『後の月吾妻扇』の狂言に

名残狂言中山新九郎。大和国新九郎狐所作大当り也。
と見える。これは新九郎の芸名に因んで、わざと「源」を「新」に改めたのであろう。そしてこれも延享四年から八年前である。

そして又今一つ、これは静と忠信との違いはあるが(同時に二人は又密接な関係ある人物でもある点が注意せられる)、亨保二年(延享四年からは三十年前)刊の、『鎌倉実記』(巻一六)の左の文と『千本櫻』との間にも何等かの交渉があるであろうという推測も許されそうに思う。
 

或記曰、義経は(中略)吉野多武峯の間隠住給いけるに、(中略)義経が此山に忍び入ることを、大衆の中に聞らん知らずとて、其夜俄に吉野を出で、宇田郡奥郷(むら)法眼が許に入せたまふ。弁慶も跡より御供して、宇田の道筋を行に、備前平四郎さきに立、忠信はあとに来りしが、二人ともに見失い、雪かき曇る空あやしふ、路の違いたる様なれば、そこらを見廻すに、里に出べき路もたしかならず。心も茫然たるほどに、姑(しばら)く心をしずめて居るに、静が俤に似たる女一人山路を行く。不思議に思い近く寄るに、狐と成て谷に下る。弁慶此に心付、己畜類としてかかる清浄の身を犯さんやと、古き礎の有りけるを手比の物と引起しうちつくる。狐は逃げ延てうちはずす。又引起してうちつくるに、初うちたる石にうちつけて、益なき石二つ宛にわれたり。其石の中より煙立て暫消ず。そぞろに気味わるく、何とぞ里へ出でんとすれども出不得。


そして此処でも亦十字坊乃至金王法橋の伝説化したらしい奥郷法眼が愈々『千本櫻』の河連法眼の直接の前身たることを語っているように感ぜられる。なおついでに『千本櫻』で覚範を教経の後身とする創案は教経生存伝説がその源泉であると同時に、前段の銀平の知盛に対照せしめられたものであろう。そして又忠信に兄継信の仇討をさせるに究竟の趣向であった。

要するに『千本櫻』は、これら先進の、文学や伝説に直接或は間接に素材・構想を借りたものの多いことは、殆ど否認し難いであろうし(なお全体としては『義経記』以来の諸作品、特に近松の『吉野忠信』などその主な粉本である)、作品の内容としての素材の豊富さ、構想の複雑さは又自ら説話の成長を意味している。更に前記『鎌倉実記』の狐静とは別に、狐忠信から、狐静の趣向が生まれるのも頗る自然で、果たして黙阿弥に『狐静化粧鏡』の作がある。そしてこれは静御前実は千枝狐で、即ち下の女夫狐を介しての、狐忠信伝説からの転成説話と言うべきである。その『女夫狐』も狐忠信から派生した歌舞伎の所作で、富本の『袖振雪吉野拾遺』(天明六年十一月、中村座)、清元の『御摂花(めぐみのはな)吉野拾遺』(文化十一年十一月、市村座)の又五郎狐実は塚本狐と弁内侍実は千枝狐、常磐津の『吉野山雪振事』(天保十一年九月、市村座)の千枝狐と又五郎狐等がそれであり、同じ吉野を舞台として南北朝時代に転移させたのである。衛士又五郎の名は『徒然草』(一〇二段)から、千枝は信田森の楠の名木(『歌林良材集』巻下)から来て、後のものは葛の葉狐に縁由もある。又別に常磐津の『女夫狐』即ち『恋鼓調懸罠(しらべのかけわな)』は鼓を打つのが郷の君で、狐静と狐忠信が女夫になっている。黙阿弥はつまり前者と両方共採合わせたわけである。更に富本及びそれから出た清元の『碁盤忠信』では次條の伝説と結合して、碁盤を枕に眠る忠信の傍へ、小狐丸の名剣の焼刃の血潮に用いられた狐の妻小女郎が懐かしみ近づき、その恩愛に感じた義経から子狐の為に源九郎の名を賜るという形に変容し、鼓は名剣に変わって小鍛冶伝説(謡曲『小鍛冶』)に結びつき、静は忠信と代わった。小女郎の名は前に見える大和の口碑から来ている。又後に挙げる如く、落語では狐から猫の忠信への転化も行われた。

(四) に狐忠信伝説に於いて中心をなす初音の鼓は、早く『義経記』(巻五)に見え、その製作は

紫檀の胴の羊の革にて張りたりける啄木の調の鼓
で、その由来は静に与える際の義経の説明に聴けば、
この鼓は義経秘蔵して持ちつるなり。白河院の御時、法住寺の長老の入唐の時、二つの重宝を渡されけり。名曲という琵琶、初音という鼓これなり。名曲は内裏にありけるが、保元の合戦の時、新院の御所にて焼けて無し。初音は讃岐守正盛に賜うて秘蔵して持ちたりけるが、正盛死去の後、忠盛これを伝えて持ちたりけるを、清盛の後は誰か持ちたりけん。八島の合戦の時、わざとや海に入れられけん、又取落してやありけん、波に揺られてありけるを、伊勢の三郎熊手に懸けて取上げ
たものである。『千本櫻』では頼朝追討の院宣と偽る右大将朝方の奸計に利用せられて義経に授けられ(初段)、そして「羊の革」は「狐の皮」に変わり――それは桓武天皇の御宇、内裏での雨乞に大和国に千年の劫を経た牝牡の狐の生皮を取って張り用いられたものであった――、その愛着の音に鼓の子の源九郎狐を引き寄せるのである(四段目)。この親子の恩愛に絡まる鼓の奇特は謡曲『天鼓』の題材となっている支那説話が本拠で、鼓が天から降ったと母が夢みて生まれた天鼓という者が、その後真に天から降って来た希代の鼓を愛惜して帝へ献上しなかった為に殺されたが、それ以来音を停めてしまった鼓を、宣旨によって老父が打つと初めて音が出、又帝の管絃講の御弔に感応して天鼓の霊が現れたというのがその内容である。但しそれは狐でも、従って狐の生皮でも無いが、この謡曲から出た近松の同名の曲――特に五段目は原謡曲の詞章まで採入れている――では天鼓の名宝は即ち丹波の国の千年狐の皮で作られ、之を守護する老狐の子が鼓の持主沢潟姫に化して寄手と戦って殺された(四段目)のを、親狐が敵を討つことがあり(五段目)、『千本櫻』はこの両先進説話を併せて更に創意を加えている。狐の化した沢潟姫と真の沢潟姫との複身も、完型ではないが、二人葛の葉の形を通して二人忠信への転化過程の示唆にはなったかも知れないと思う。以上の他にも面白い事には、義経伝説に直接関係は無いが、同じく吉野の地名によって結びつけられて『千本櫻』(三段目)に挿入せられた維盛弥助の伝説にこの近松の『天鼓』は関係がある。

三位中将維盛の亡命説は八島の戦場を逃れての高野入(『平家』巻一〇、横笛・高野巻・維盛出家・熊野参詣・維盛入水)に端を発して居り、『千本櫻』の維盛出家の構想も此処から来ている。そして松村操著『実事談』(第二四編・第三〇編)の考証では、所謂維盛弥助の件は『明良洪範』(後編)所載の清水清左衛門・小松弥助の事から出、鮓屋のお里は延享頃「お里が鮓」と謳われた大和国五條の里の鮓屋弥助その妻お里を借り、いがみの権太は「寛保三年三月記畢」とある『南窓漫記』所載の河内生まれの不孝者権太郎召捕一件を利用したのであろうとしてある。維盛が入水と佯って熊野の山奥に潜み、清水清左衛門という者の婿となり、その数代の後の清佐の弟が小松弥助と名告って家名再興に志したという『明良後範』の記事は山崎美成も『提醒紀談』(巻四)に転載して肯定しようとし、又蜀山人の『一話一言』(巻四七)には代々小松弥助を名告る家の「小松弥助由緒書」という物を載せてある。

併し『千本櫻』との関係先後は遽に決するわけには行かない。現にお里鮓の如き『三十三所図会』には、もと下市の宅田屋某という魚商の家の名物であったのを、『千本櫻』にこの家の事が仕組まれて流布してから、主人の名まで弥助と改めるに至ったと見えるのが、寧ろ真に近いのではなかろうか。唯、清左・弥助の名なり伝説なりは、或は前記のそれが本拠となったかも知れぬが、少なくとも『千本櫻』の弥左衛門・弥助の父子の名は出雲等が創出したのでなく、近松から――或は地方口碑に発生したのを用いた近松から(その原作の古浄瑠璃に既に用いられてでも居れば又別の作者から近松が継承したのである)――移って来たのかと考えられる。それは即ち『天鼓』の沢潟姫に化した狐が「伊賀国に隠れなき、上野の弥左衛門狐という老狐が子弥介という狐」(四段目)と名告り、又その親も「身共は伊賀の上野に隠れもない弥左衛門という古狐……悴弥介という狐……」(五段目)と言っているからである。勿論この狐共は維盛にも義経にも縁故は無く、且伊賀上野の産であるけれども、同じ五段目に見える同類の源九郎狐の活用と共に、それをも源九郎の住地たる大和へ移して、正真の人間の名に転借したのであろう。この点からも愈々『天鼓』が『千本櫻』に影響していることの旁証は獲られる。又権太郎のモデルも実在したかも知れぬが、その名は既に同じ出雲の『右大将鎌倉実記』(三段目)に、忠信を訴人する放埒な極道息子小柴文内を曽て勘当した父として「日南(ひなみ)権太郎」と使っている。父子の性格を転換させてはいるが、「ひなみの権太郎」と「いがみの権太郎」との語呂の類似も偶然ではないかも知れない。この名に加えて、性行の粉本としては『千本櫻』より十年前の『御所櫻』(四の切)の藤弥太が学ばれたであろうことは疑を容れない。

狐忠信伝説は即ち吉野山伝説の成長且変容現象の最も主要なものであるが、その他にも二三論及して置かねばならぬ変容或は影響現象がある。その中での最も顕著なのは、前にも述べた如く吉野静伝説が船弁慶伝説に附著移入せられて来た(謡曲『船弁慶』)ことで(『船弁慶』で弁慶の苦諌によって静が都へ返されるのは、『義経記』で既に吉野での出来事としてあるのをば採入れたのである)、これは前シテと後シテと柔剛を同一人に兼役させて鮮やかな変り目を見せようとした企からの試みであるが、代わりに説話の側からは大物難破後の事件がその以前に繰上げられ、同時に本伝説にはかなり密着している地名から遊離させられてしまった結果となった。但しこれは仮作の意識が判然している為か、伝説としては発展しなかった。謡曲『二人静』はこれも吉野静伝説の影響文学であるがその中に勝手明神の宝蔵に納めて置いた舞衣を取出させて舞うことがあるのは、前掲『吾妻鏡』の記事などが本であろうと共に、

義経之鎧及静之舞装束有当社宝蔵。(『和漢三才図会』巻七三、大和、吉野郡、勝手社)
という所伝にも関係があろう。又同曲に吉野の菜摘女に静の亡魂が憑霊することのあるのは、所謂二人静の合舞の準備ではあるが、類似の地方口碑か何かもあったのかも知れない。多分偶合であろうがそれとは又別に静の憑霊伝説が淡路国洲崎に伝えられている。百井塘雨の『笈埃随筆』(巻一一)には、同所で無名の古塚を掘出した老人が狂い出して静だと名告ったので、人々が舞を所望すると舞って見せ、又和歌をと望まれて
問う人もなくて静が塚なるをまれに言問う峯の松風
と詠じたという口碑を録し、新井白蛾の「牛馬問」(巻一)のはその塚の周囲の木を伐った牛飼に静が憑いたとし、舞と歌の事は同じであるが歌の第三句以下が「墓なるに哀れを添ふる松風の音」とあるだけの違いである。要するに美人遊行伝説の一現象で、同時に地方的な民俗信仰に関した口碑でもあるに過ぎないが、「近頃聞く」「これ近代の事にして」と両書にあるから、謡曲とは交渉は無いのであろうけれども、静の憑霊という点とそれが舞を舞ったという点で類縁をなしているのが面白い。若し相互間に交渉があるとすれば、歌の文句まで寧ろ謡曲の方からの影響かも知れぬと思われるほど似た所があるが、先ずそれとは関係なく地方的に発生した心霊科学的事実として置いてもよいであろう。或はその憑霊現象は事実であったとしても、歌詞などはこの謡曲を知っている人の心象が憑移したと観れば却って会得は出来る。それと共に、これに類した口碑が古く行われてもいて、それが謡曲に素材を与えたという事も亦有り得るであろう。

静及び忠信が判官と別離した季節は前掲『吾妻鏡』によっても明白な如く、所謂玄冬素雪の交であった。『義経記』も忠実にそれに随っている。然るに『千本櫻』(四段目)の「道行初音旅」では時候を延長して

軒は霞に埋れて、殊勝さまさる蔵王堂、櫻はまだし枝々の、梢淋しき初春の空。
としている。純粋の色模様の道行ではなくとも、兎に角勇士と美人の艶麗な道行ぶりに、背景が雪では殺風景である。殊更花が連想されぬ程寒風に閉じられていては観客の期待に欠け、三芳野の面目にも関るのであろう。舞台芸術という立場からは理由のある事と言うべきである。そしてこれは実は謡曲の『二人静』でもう改変の筆が著けられてもいる事である。

さる程に、次第々々に道せばき、御身となりてこの山に、分け入り給う頃は春、所は三吉野の、花に宿借る下伏、というクセの文句がそれである。が、『千本櫻』の原作ではまだ上のように「梢淋しき初春の空」と遠慮がましく史実に相当の敬意を払っている形であるが、現時の歌舞伎の舞台は最早完全に思い切って、目のさめるような一面の淡紅の背景に、一文字まで一杯の満開の櫻の釣枝で彩られ、「入りにし人の跡」さえ蔽った白皚々の全山を、「霞の奥は知らねども見ゆる限り」暖雪の一目千本に変えてしまっている。

又『千本櫻』で創作せられた狐忠信の出現と同時に、その衣裳に初演の際人形遣吉田文三郎(初世)の考案で附けられた源氏車には面白い因由があり、『竹本豊竹浄瑠璃譜』に

源九郎故、源氏車の模様を付けしにはあらず。この趣向最初より狐と見せざること故、玉もつけられず、いろいろに工夫をなし、右狐場を勤むる政太夫の紋所源氏車故、源氏のゆかりにて源氏車の模様付けし故、今も歌舞伎などには長上下にてすれども、どこぞのはづみにてはこの姿にならねば源九郎狐めかず、これも三代前吉田文三郎仕始めて、何国にてもこの姿でなければ源九郎狐は出来ぬなり。
と見えているが、この偶然の著想から尓後これが忠信の定紋のように固定して歌舞伎にも移承せられて今日に及んでいるのは、これも本伝説の成長が史人としての忠信に加えた変粧の特異の片鱗と言うべきであろう。それから例の『五人男』の「判官の御名前騙」の忠信利平も吉野忠信伝説の影響現象の一である。

なお吉野山中には義経の留まったという吉水院(吉水神社)、暫時隠れたという中院谷、忠信が潜抜けて逃れたという蹴抜の塔等の古蹟を残している。

解釈】大物難破後に引続く義経の窘窮、史実では多武峰・十津河・南都等へまで連続している潜行を伝説では吉野に凝集させた形を呈し、と言うよりは吉野の事件が特に力説せられ流布したのである。そしてそれは十分に理由のある事であった。即ち静との別れを点じ、忠信の血戦を含んでいて、事件そのものが既に劇的であるからである。静に対しては愈々国民の憐愍を集め、史実に於ける、多少同情の対象とならしめられる事を些かでも薄めるような点は、伝説としての成長の間に全く脱落させられてしまい、又忠信の行動は伝説的色彩が一層濃く、兄継信に学んで相共に主君に代わる忠烈と栄誉とを競はしめられた。二人に対する情義の主としての判官の面目も本伝説に於いて遺憾無く発揮せられている。又仮名の類似が介縁となって本伝説に偶然加入して来た源九郎の狐忠信によって、怪婚伝説からの浄化的脱化の痕跡を留めつつ、狐妖の怪異が人間を誑し害する単なる悪戯的行動の域から、准人間的心意に基づいて活動する准神仏的加護者――それは稲荷の神使と目せられる民俗信仰からも来ている――の地位にまで高められたのは面白く、同時に禽獣の肉親愛の切実さが、堕落して行く人間の家庭愛への皮肉な諷刺ともなり、他方では、一個の人物から分身して、二個以上の同一個体が生ずるのに似た、他の妖性が変身(化身)の魔術を用いて複身現象を惹起す典型を完成流布させるに、葛の葉伝説とその功を分っている点が注視せられる。

文学】本伝説の前半吉野静伝説に取材したものには謡曲『二人静』があり(これも『義経記』とも関係があるとも思われるが)、これと『義経記』とを併せた謡曲に『法事静』がある。但しこの二曲共、蔵王権現の前で歌舞した事実に重点が置かれて、静の霊が法楽の舞を演ずる事が作られている。『船弁慶』の中入前も同伝説が借りられ、これは義経との愛別が中心になって、それに静の舞が附随せしめられている。『義経勲功記』(巻一五)もこの前半の部のものに属する。新しいもので筑前琵琶の『吉野静』は『義経記』から来ている。後半忠信身替伝説を取扱った作には『平家物語』(八坂本、巻一二)、謡曲『忠信』、戯曲『佐藤忠信廿日正月』『吉野忠信錦著長』がある。黙阿弥の『千歳曽我源氏礎』所謂『碁盤忠信』では二幕目である(筑前琵琶の方でも『吉野の忠信』という曲が作られてもいる)。両部共に含むものは『義経記』(巻五)、謡曲『吉野静』、『義経興廃記』(巻一一)、『金平本義経記』(四之巻四・五・六段目、五之巻初段)(但し、忠信・覚範の闘は無い)、『吉野忠信』(四・五段目)、『義経千本櫻』(二段目の一部及び四・五段目)、これから出た『吉野静人目千本』(第一〇、吉野館の段、第一一、吉野塔の段)、それに八文字屋本の『花実義経記』(四・五之巻)等である。そして屡々述べたように『千本櫻』は即ち狐忠信伝説の文学で、これが操に掛った時、その狐忠信で人形の耳の働く仕掛が初めて案出せられたと伝える(『浄瑠璃譜』)。「この新浄瑠璃古今の大当りにて大入なり」と『浄瑠璃譜』に見える通り絶大の好評を博し――その主因は人形の新工夫や名演技によること勿論であったろうが、作意も勝れていた為でもあったろう――歌舞伎に移されても益々有名となった。他の各段も例えば「堀河夜討」「鳥居前」「渡海屋」「木の実」「鮓屋」「河連館」等操に歌舞伎に屡々出ているが、就中「道行」の所作は最も知られて居り、原作では伏見稲荷の鳥居前に静が縛られている所へ出て来る逸見藤太まで、今ではこの場にも加えられて滑稽味を交えることになり、『忠臣蔵』の「おかる勘平道行」に於ける伴内と同型を成していいる。「鳥居前」の場面にも藤太の出るのは旧の通りで、其処へ突如狐忠信が現れて藤太を取拉ぐので、場所を稲荷社にしたのも、その出現に縁由と自然さとを持たせる為である。歌舞伎では、その忠信は花道の引込に所謂狐六法を踏む約束になっている。『吉野山狐忠信』(其水)も『千本櫻』から出た狂言である。又歌舞伎の「吉野山道行」の地方は、常磐津(『雪颪卯花籬』)、富本(『幾菊蝶(いつもきくてふ)初音道行』)、清元(同上)等それぞれ用いられたが、近時は竹本と清元の掛合が普通のようになった。又常磐津の『恋鼓調懸民』(『女夫狐』)は狐忠信伝説の変形を内容とした作、富本及び清元の『碁盤忠信』は所謂碁盤忠信伝説を内容とするものでなく、それを名に借りて碁盤を利用したやはり狐忠信伝説の変形を取扱ったものであることは前に説いた通りである。それから落語の『猫の忠信』も狐忠信伝説の変容で、義経が弁慶橋の吉野屋常吉、静が常磐津の女師匠文字静、初音の鼓が初音の三昧で、その皮に張られた猫の子が、常吉に化けて文字静の愛絃に慕い寄るという二人常吉の怪異譚である。

兎に角『千本櫻』が如何に歓迎せられたかは、黒本・青本・合巻・絵本等にまで同名の小篇があるのでもわかるが、同曲の構想から出た義経物には上に挙げたものの他に黒本『源九郎狐出世噺』(?未見。仮に義経物と推定して置く)、黄表紙『源九郎狐葛の葉狐いかに弁慶御前二人』、『其句義経真実情文櫻』、読本『西海浪間月』等があり、趣向を借りてはいるが義経物でないものには『狐川源九郎お猿畠与次郎千本櫻祇園守護(ちもとのはなぎおんのまもり)』『女忠信男子静釣狐昔塗笠』『千本櫻後日仇討』等の合巻物がある。

又歌舞伎には本伝説と次條の伝説とを併せた名の『吉野静碁盤忠信』という外題で、初代団十郎の扮した忠信とその子九蔵の扮した忠信の子忠若の父子が、碁盤で覚範を圧へての荒事が演ぜられた吉野山の場が評判であったという狂言もある(近松の『国性爺合戦』(四段目)に「本朝にても、かかる例は、先例吉野の碁盤忠信」の句があるのは、これを指すのかと考えられる)が、文学としては取上げられるほどのものではなかったであろう。

(ろ)碁盤忠信伝説

忠信身替即ち吉野忠信伝説に継続してその後日譚を語るものが碁盤忠信伝説である。

内容

人物 佐藤忠信・力寿(『義経記』には、かや)(及び愛寿(謡『愛寿忠信』))。討手(北條義時)
年代 文治二年正月六日(『義経記』)(『吾妻鏡』には九月廿二日)
場所 京都粟田口(『義経記』は四條室町)(『吾妻鏡』には中御門東洞院)


吉野山中で空腹を切って大衆の眼を瞞した後、忠信は密に都に上り、年来相馴れた女力寿の許を訪れたが、既に心変わりしていた女は酒を勧めて忠信を酔い伏させ、密夫に告げて六波羅に訴人したので、直に江間小四郎義時が討手に向った。ありあふ碁盤を枕に転寝していた忠信は、俄に轟く人馬の音に蹶起し、討手と見るや、女の不信を怒りつつ碁盤を取って寄手に投げつけ、前に進む者を斃してその太刀を奪い、奮戦力闘の末終に敵前に割腹して、勇士の最期の手本を示した。

但し『義経記』『愛寿忠信』にはなお碁盤のことはない。そして『義経記』には、女の名を小柴入道の娘かやとし、忠信は一旦討手の囲を斬り抜けて義経の曽て住んだ堀河御所で敵を待って勇戦自殺することとし、『愛寿忠信』は、力寿が俄に姿を隠したので、心変りして密訴したことを覚り、去って今一人の馴染の女愛寿の許に入り、慰められて休息している折柄、力寿の訴によって押寄せた討手を引受けて戦死し、愛寿も長刀を振って敵に向い、遂に自害して同じ枕に伏すこととしてある。

出処】『義経記』(巻六、忠信都へ忍び上る事、忠信最期の事、忠信が首鎌倉へ下る事)及び謡曲『愛寿忠信』は未完形。完成したものを載せてあるのは金平本『碁盤忠信』が初らしく、『義経勲功記』(巻一七)にも見える。

型式・成分・性質】競遊型勇者譚の闘戦型で、且、立腹型の勇者(英雄)最期譚である。史実的成分が主で、仮構的成分が附加せられている史譚的武勇伝説である。

本拠・成立】本拠は明らかに史実に徴し得る。即ち『吾妻鏡』(巻六、文治二年九月)に次の記事がある。
 

廿二日乙丑。糟屋藤太有季、於京都生虜与州家人堀弥太郎景光。此間隠住京都又於中御門東洞院、誅同家人忠信云々。有季競到之処、忠信本自依為精兵、相戦軋不被討取。然而以多勢、襲攻之間、忠信井郎従二人自戮訖。是日来相従与州之処、去比自宇治辺別離、帰洛中、尋往日密通青女、遣通書。彼女以件書、令見当時夫。其夫語有季之間、行向獲之云々。是鎮守府将軍秀衡近親者也。予州去治承四年被参向関東之時、撰勇敢、差進継信等云々。廿九日壬申。北條兵衛尉飛脚参著申云、去廿二日糟屋藤太有季虜堀弥太郎、誅佐藤兵衛尉者。景光白状云、予州此間在南京聖仏得業辺。(下略)


伝説に於いては、上の糟屋有季は江間小四郎義時となり、青女はかや乃至力寿の名をば与えられるに至った(『義経知緒記』(下巻)は女を力寿、討手を糟屋としてある)。なお本伝説の完成には、後の項にも説くように、『長門本平家』の越中次郎兵衛盛嗣の伝説、及び舞曲『景清』の内容説話との交渉が恐らくあろう。碁盤を使用させるに至った理由は明確でない。これは最初の作者の無造作な思いつきなのではなかろうか。それとも口碑でもあったのであろうか。

解釈】世を狭められた義経の与党の捕戮、判官股肱の勇臣の最期の史実を伝説化したもの。そして又強剛忠信の油断というよりも、寧ろ優しい半面を語るものである。『義経記』の如きは頼む女の心変りに対照して忠実な婢女の急告を配し、而も利慾の為に先夫を訴えたかやを、密夫に「色をも香をも知らぬ無道の女」と爪弾きさせて、著しく教訓的意味を含ませているのは、判官贔屓の時人の批判が投影しているのである。更に結果から観て、前條の吉野忠信伝説から継続して、未完に終わった身替説話の結末をつけた形になっている。『義経記』で態々堀河御所に走って其処を最期の場所に択んだのは一層この感を深めさせる。

成長・影響】忠信が馴染んでいた女に訴えられたことは、前に引用した『吾妻鏡』にも見えるのであるから、恐らく事実であろう。これに酷似した伝説は平家の武士越中次郎兵衛盛嗣が、平家没落の後、但馬国気比権守道広の娘に通じてその家に身を忍ばせていたのが、密に京へ上って昔情を交した女の許に宿った折、女は密夫に告げて、鎌倉殿へ訴えたので、討手が盛嗣を捕えた事件(『長門本平家物語』巻二〇)と、今一つそれはこの盛嗣の伝説から出たかと思われる舞曲『景清』の、同じく平家の武士悪七兵衛景清が、舅熱田太宮司の許に潜んでいたのを、二子まで設けた深い仲ながら、利に迷った清水の遊女あこわうが、その行方を訴え、その上斯くとも知らず上って訪れた景清を酒に酔い伏させ、梶原景時の兵を手引して囲ませたので、景清はあこわうの不信を怒り、二子を殺し討手を切り抜けて、尾張へ走ったという伝説とである(『長門本』には景清は頼朝へ降人に出て(巻一九)、大仏供養の日を期して湯水を断って死んだ(巻二十)としてある)。この両説話共に原は本伝説から出たその変容かも知れないが、同時に又本伝説成長の間その進展完成を助けたことも否定し難い。特に『景清』との関係に於てそれを見るのである。即ち『右大将鎌倉実記』に忠信の忍び妻の名を安督(あごう)としたのは、貞烈の性行は『愛寿忠信』の愛寿に相当するとしても、その名から出たのではなかろう。却って『景清』のあこわうに余りに近似している。要するに、忠信最期の史実が伝説・文学となって行く一方に於いて恐らく同じ本拠から盛嗣・景清の伝説が生じ(或は他の要素も入っているかも知れぬが)たのであろうし、忠信の伝説が説話の輪郭を作り上げるに際しては又却ってそれらの説話に■本を借りて来たのではなかったろうかと考えられる。文学としての忠信最期の伝説は、『義経記』が最も早く、次に出たのは、謡曲『愛寿忠信』のようで、その粟田口力寿は、『義経記』の「四條室町に小柴の入道と申す者の娘にかやと申す女」に当り、同じ家の忠実な婢女を、忠信の情を受けた今一人の女と変容させたのが即ち六條愛寿なのではあるまいか。「忠信が伏したる所に走り入りて荒らかに起こして、敵寄せて候と告げ」た、まめやかさ健気さは、長刀おつ取って敵を防ぐ愛寿にまで進展させて、鎧を投げ懸け長刀を振ふ『堀河夜討』の静御前に比肩させるに十分な可能性がある。同時に忠信の死所は、『義経記』に於いては六條堀河の主君の御所の跡なのである。その連想からも、謡曲に於ける愛寿の勇敢な行動の上に、夫の主君判官の愛妾に学ばせられた所が、必ずあったであろうことを疑わぬ。

以上の所伝では本伝説の名称の由来する碁盤を欠くだけで、説話の形は殆ど成っているのであるが、金平本『碁盤忠信』(延宝四年、八文字屋八左衛門板)に於ては全く完成し、

碁盤を引寄せ枕として、前後も知らでぞやどられける。(中略)こは何とせんと思いつつ、あたりをきっと見てあれば、枕にしたる碁盤あり。あっぱれこれこそ忠信が、最期の太刀よと喜びて、碁盤おつ取りさしかざし、寄せ来るかたきを待ち懸くる。(二段目)
とある。その女を粟田口力寿、今一人を四條河原の安寿とし、討手を江馬小四郎とするのは、『義経記』と『愛寿忠信』とが合したことを証するものである。所謂碁盤忠信伝説はこの曲などから起ったのか、或はこの頃までには既に同伝説が行われて居り、それがこの文学となったのか、孰れかであろう。兎も角この曲の刊行された年から二三十年後には、所謂碁盤忠信伝説として甚だ有名になっていたことは、二十五年後の元禄十四年十一月竹本座興行の『曽我五人兄弟』(三段目「つはものぞろへ」))に
追手の軍兵引受けて、枕の碁盤振上げ振上げ、四鳥にかけて追廻れば、さしもに勇む六波羅勢、先手も後手も打乱れ、命を生きん駄目もなく、鏖殺(みなごろし)にぞなりてげる。さてこそ碁盤忠信と、たぐいなき名を残しける。
とあり、又その後の作の
 
佐藤庄司が二男とは、京わらんべもことわざの、碁盤忠信ごばんより、将棋の陣のほまれ有る(宝永三年正月『源義経将棋経』四段目「軍法将棋経」)
勇力武略例(ためし)なき、末代碁盤忠信と、幟(のぼり)兜や江馬殿の、手柄の程こそ隠れなき。(亨保九年十一月『右大将鎌倉実記』三段目)


等の詞句によっても知られる。この『鎌倉実記』に、女の家を四條室町の碁将棋の会所としたのは、碁盤の存在を唐突ならしめざる用意に出たものであろう。その女安督は形の上ではかや乃至力寿の位置で、人物からは愛寿に匹敵してい、訴人は密夫でなくて父の文内であるが、その姓小柴は『義経記』から来ている。又正徳二年刊の『義経勲功記』(巻一七)にも、女の名はやはり力寿で、場所だけは『吾妻鏡』から採って、東の洞院とし、力寿を妾とする今の男の名を、七條の銅細工宗紀太守貞という者として、訴によって糟屋有季が打向ふと、
 

折節忠信は板縁の内に碁盤を枕として伏居しが、人馬の音に驚き頭をもたげ見れば、早り雄の若者共我れ先にと競い入る。真先に進んだる者共は、早七八人ばかり縁に飛騰らんとす。忠信礑と白眼んで、己等何者なるぞ、奇怪なりと云うより早く、碁盤を取って抛げつくる。是に当って敵二人縁より下に打落さる。


とあるのを見ても、史実に近づこうと努めながらも、なお明らかに後の生成である碁盤忠信伝説をそのまま採入れざるを得なかった程、最早それが人口に■(ロ+會)炙していたことが推知し得られる。又狐忠信伝説と結合して小女郎狐の怪異伝説が生まれた(富本節『碁盤忠信』)ことは前條で述べた。碁盤を枕にして忠信が眠るというモーティフだけが両者の共有点で、それが転移の契機をもなしている。

『甲子夜話』(巻九)の静山侯は野州大関土佐守の領内に忠信の墓の在る由を録して、忠信京師討死説を疑い、身替説まで立てようとしているが、この義経から二重の身替という趣向までは文学としても企てられなかったようである。唯、忠信生脱の構想は『右大将鎌倉実記』(三段目の切)に試みられ、一旦捕えられた勇士をば、北條の仁恵で、安督父娘に下げ渡された廻国の厨子の本尊の機関(からくり)に秘めて、
 

開く扉の笈の中、木像ならぬ生仏四郎兵衛忠信、親子はハハハハはっとばかり、死に入りし気も生返り、


と驚喜させる。これは時政の前生譚として伝えられる六十六部法華経六十六国奉納の因縁即ち時政の前生時政(じせい)法師の廻国伝説(『太平記』巻五、時政参籠江島事)――これに義経・景時の前生譚が附加したものが『天狗の内裏』や『沼捜』に見える鼠の業因伝説である――から来ているので、この意外の取計らいは安督の父文内はその時政法師から勘当を受けたままの子、そして北條時政は同法師の再生である関係からで、父への不孝の滅罪に、同法師の廻り残した国々へ、この笈を負って、文内父娘が修行に出るというのが段切れになっている。そして又上の趣向がそのまま後の『一谷嫩軍記』(三の切)の弥陀六が貰う鎧柩の秘密と熊谷の修行の門出に粉本を示しているや論無き所である。但しこの『鎌倉実記』忠信生脱は四段目に至って、鎌倉で妻安督と共に判官と静御前の身替になって忠死を遂げるので、結局、身替から最期への従前の伝説に復帰した形になっている。

それから勇士の立腹切りは本伝説に限ったわけではないが、村上義光の最期(『太平記』巻七)及び本伝説等によって説話型としての完成と流布とを看たことも事実で、それが後世へ影響したことも確であり、近世末の歌舞伎で有名な五人男の随一、弁天小僧の立腹(『青外稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』)のようなものまで成形させた。

文学】早いものでは『義経記』(巻六)次いで謡曲『愛寿忠信』、完成した所謂碁盤忠信伝説になってからのものは、『碁盤忠信』(金平本)、『義経勲功記』(巻一七)を始め、出雲の『右大将鎌倉実記』(三段目)、これから出た八文字屋本の『互先碁盤忠信』(後『頼朝鎌倉実記』と改題)がある。同じく浮世草子の『義経風流鑑』(五之巻)及び『風流東海硯』(四之巻)には碁盤忠信伝説は吉野山伝説に結びつけられて吉野山での出来事に作られている。両伝説の連結の傾向は既に元禄歌舞伎の『吉野静碁盤伝説』に於いて看る所であることは前條吉野山伝説でも述べた。その他本伝説に材を取った歌舞伎の狂言に『碁盤忠信』(亨保十三年の中村座顔見世で、所演俳優は二世団十郎であるが、『歌舞伎年代記』には「評判わるし」と出ている。代りに翌春の『矢の根』は古今の大当りを取り名誉恢復をした上、家の芸となるに至ったのであった)、『碁盤忠信雪黒石』『千歳曽我源氏礎(碁盤忠信)』(三幕目)(〔補〕それを補作した帝劇での幸四郎襲名狂言『碁盤忠信』等がある。『鞍馬山源氏之勲功』『義経誉軍扇』を始め一代記風の義経物に採っているものもある。それから稍変った内容を取扱っているのは富本及び清元の『碁盤忠信』である。

(一四)鶴ヶ岡舞楽伝説附胎内?(たいないさぐり)伝説

碁盤忠信伝説が吉野忠信の後日譚であるに対して、吉野静のその後の動静を語るのがこの二つの伝説である。

(い)鶴ヶ岡舞楽伝説

内容

人物 静御前。源頼朝・畠山・工藤・梶原、その他大小名
年代 文治二年(『吾妻鏡』には四月八日)
場所 相模国鎌倉鶴ヶ岡八幡宮


吉野の衆徒に捕らえられて都に送られ、更に鎌倉に護送せられた静は、義経の行方を訊問せられたが知らぬと答える他はなかった。彼女こそ後白河院から日本一の宣旨を賜ったと聞く舞の妙手、この機会にその一手を観ずばと、頼朝は鶴ヶ岡八幡に参詣の砌、廻廊に召して神前で舞を所望した。固辞しても許されず、強いてとの仰せで、巳むなく静は装束を着けた。畠山次郎忠は笛の役、工藤左衛門尉祐経は鼓を打ち、梶原平三景時は銅拍子を合わせる。舞手は神泉苑の雨乞に雨を呼んだ稀世の名人、満座は唯恍として酔った。静はやがて聲朗らかに
 

しづやしづしづのをだまき繰返し昔を今になすよしもがな
吉野山峯の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき
 
と歌い上げた。頼朝は流石に沸然としてその歌意を詰ったが、重忠の執成しで(舞曲『静』)心が解け(『吾妻鏡』には政子が自らの往時に思い比べて頼朝を宥めた由が記してある)、厚く静の神技を賞した。

なお『義経記』にはこの舞は工藤祐経の妻に賺されての事とし、謡『鶴岡』では静に舞を勧めるのは祐経自身になっている。又『安達静』では鼓を打つのは安達三郎である。

出処】『義経記』(巻六、静若宮八幡へ参詣の事)、舞曲『静』、謡曲『二人静』『鶴岡』『安達静』等。但し『鶴岡』『安達静』は共に歌を載せていず、却って『法事静』には二首を採入れてある。又『二人静』と『静』には「しづやしづ」の歌だけが見える。

型式・成分・性質】舞楽説話で特殊の型式のものではない。仮構的成分は比較的少なく(神話的成分は無い)、史実的成分が殆ど全部を占めている史譚的伝説である。もとより武勇伝説では無いが、義経伝説圏に属して、義経伝説の体系を形成している伝説であるという意味に於いて、やはり義経伝説と呼ばれて差支無い。

【本拠】『吾妻鏡』(巻六、文治二年四月)の文を下に引けば、本伝説が殆ど史実そのままで、僅かに、或は政子諌争のことのないのと(それが重忠に代わっている形も生じたが)、或は楽人に多少の異同がある位の部分的差異に止まっていることが知られよう。
 

八日乙卯。二品井御台所御参鶴岡宮、以次被召出静女於廻廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之処、申病痾由不参。於身不肖者、雖不能左右、為与州妾、忽出掲焉砌之(けちえんのみぎりに)條、頗恥辱之由、日来内々雖渋申之、彼既天下名仁也。適参向帰洛在近。不見其芸者、無念由、御台所頻以令勧申給之間、被召之、偏可備 大菩薩冥感之旨、被仰云々。近日只有別緒之愁、更無舞曲之業由、臨座猶固辞。然而貴命及再三之間、憖廻(なまじひに)白雪之袖、発黄竹之歌。左衛門尉祐経鼓、是生数代勇士之家、雖継楯戟之基、歴一?上日之職、自携歌吹曲之故、従此役歟。畠山次郎重忠為銅拍子。静、先吟出歌云。
吉野山峰ノ白雪フミ分テ入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ
次歌別物曲之後、又吟和歌云、
シヅヤシヅシヅノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ
誠是社壇之壮観、梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云、於八幡宮宝前、施芸之時、尤可祝関東萬歳之処、不憚所聞食、慕反逆義経、歌別曲、奇怪云々。御台所被報申云。君為流人、坐豆州給之比、於吾雖有芳契、北條殿怖時宜、潜被引籠之、而猶和順君、迷暗夜、凌深雨、到君之所。亦出石橋戦場給之時、独残留伊豆山、不知君存亡、日夜消魂。論其愁者、如今静之心。忘与州多年之好、不恋慕者、非貞女之姿。寄形外之風情、謝動中之露胆、尤可謂幽玄。抂可賞翫給云々。于時休御憤云々。小時押出御衣卯花重於簾外、被纏頭之云々。


つまりこの史実の伝説化したものが本伝説なのである。

なお静女訊問の事は同巻(同年三月)に
 

六日甲申。召静女以俊兼・盛時等、被訊問予州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。静申云、非山中、当山僧坊也。而依聞大衆蜂起事、自其所似山伏之姿、称可入大峰之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居辺之処、女人不入峰之由、彼僧相叱之間、趣京方之時、在共雑色等、取財宝逐電之後、迷行于蔵王堂云々。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨、与今口状頗依違、仍任法可召問之旨、被仰出云々。又或入大峰云々、或至多武峰後、逐電由風聞。彼是間定有虚事歟云々。廿二日庚子。静女事、雖被尋問子細、不知予州在所之由申切畢。当時所懐妊彼子息也。産生之後、可被返遺由、有沙汰云々。


又同巻(同年九月)にも
 

十六日己未。静母子給暇帰洛。御台所井姫君依憐愍御、多賜重宝。是為被尋問予州在所、被召下畢。
而別離以後事者、不知之由申之。則雖可被返遺、産生之程所逗留也。


と見え、史実に於いても、言を濁して要領を捕捉させず、遂に実を吐かなかった事がわかる。又『義経記』に祐経の妻が静母子を賺して歌舞させようとその宿所を訪ねて遊宴することのあるのは、同書(同巻、同年五月十四日の條)の工藤祐経・梶原景茂等が静を訪うて酒宴遊芸し、且、酒間に景茂が静に戯れて叱せられた事から出たのである。なお同巻(五月廿七日の條)には、静が頼朝の女大姫君の仰せによって、南御堂で芸を施した由も記されている。畠山・梶原等が遊芸の嗜のあったことも、同書(巻三、元暦元年十一月六日の條)に、同じく鶴ヶ岡八幡の神楽に、同じく頼朝参詣の時、梶原平次景高は唱歌し、畠山次郎重忠は今様を歌ったことが見えるのでも知れる。『安達静』に静の相手として安達三郎が鼓の役を勤めているのは、これ亦同書(巻六、文治二年三月一日の條)に
 

今日予州妾静依召自京都参著鎌倉。北條殿所被送也。母礒禅師伴之。則為主計允沙汰、就安達新三郎宅招入之云々。


とあるのから来ているのであろう。静の生んだ男子を由比ヶ浜に捨てる役もやはり安達であった。

静が歌った二首の詠は当座の思いつきであろうが、各々その本歌がある。即ち「しづやしづ」は『伊勢物語』(三二段)の
いにしえのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな
の初五を改めたもので、己が名の静を利かせたのでもあろう。又「吉野山」の方は『古今集』(巻六、冬)壬生忠実の
みよしのの山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれもせぬ
の第一・第二・第五句を変えて歌ったものと思われる。

解釈】愛の静、貞の静、気節の静、義経の妾としての静、舞妓としての静が同時によく現れている。鎌倉殿の威武にも、権貴にも畏れぬ勇気は、もとより天性と舞台度胸にもよるであろうが、翻袖の間おのずと迸り出た満腔の鬱屈した悲憤敵愾の熱意が覚えず彼女を駆らせたのでもあることは、かの二首の吟詠が雄弁にそれを物語っている(『吾妻鏡』の記述によって察すれば、史実では十分意識して二首を用意したようにすら見える)。さしもの暴君(タイラント)頼朝も、彼の権力の前はに蟻螻にも等しいこのか弱い一女性から、その愛と芸術とに敢然として生き抜いた魂を奪うことが出来なかったのみか、満堂環視の中に却って彼の超特の大頭に忸怩の色を染める意外の機会を、自ら彼女に対して準備した結果となってしまった。其処に義経伝説としての本伝説としての本伝説の意義があり生命があり、其処に世人の喝采賞美の聲は集まる。功有って罪無きを逐うて不遇に泣かしめる冷心酷情の兄の前に起こって、その生贄の弟の愛妾が、叛逆者と呼ばれる夫の為に、愛恋の曲を高唱して気を吐く背後に、三斗の溜飲を下げつつ声援を吝まぬ民衆が居るのである。そして彼女の妙技神に入り、梁上の塵殆ど動かんとした瞬間、識らずして芸術を以て夫の為に美しい報復をなしたのである。本伝説があって特に静の芳名は国民の間に不朽の光を保ち、本伝説があって義経の人格は更に高く浄く、そして一層美しく懐かしい色彩を添える。

又義経伝説を離れては、本伝説は母の磯禅師が創出した男舞の継承者否その達成者としての舞踏天才静女の名演技を語り伝える芸術伝説で、同じく彼女の神泉苑の祈雨に関する舞徳説話(『義経記』巻五・巻六)及び吉野蔵王堂の歌舞伝説(前條、吉野静伝説参照)等と共に、そしてそれらよりは一層史的背景を有つ華麗な説話として、一層国民に親しまれる。

成長・影響】伝説に於いて楽人の中に梶原の加わらしめられたことは、如何にも皮肉である。併しそれが後の戯曲に利用せられる種材となったのは偶然の僥幸とも言うべきであろう。即ち『右大将鎌倉実記』(四段目)には、場所を鶴ヶ岡とせずして鎌倉御所としてあるが、静は舞いながら刀を振って太鼓の役梶原源太景季を斬り殺し、憎さも憎き敵人の片割に、斯うして夫の怨を報いしめられることになっている。そしてそれには水干に太刀を佩く男舞の姿が都合好く使い活かされている。『御所櫻』(四の切)の磯禅師が藤弥太を斬るのも同じ趣向で、恐らく、これの摸倣であろう。謡曲時代までは流石にこれほどの荒療治はさせないが、頼朝の御前に召されて舞うのは、兎に角夫の寃を訴える好機会には違いない。『安達静』で舞いながら「しづやしづ」の歌の代わりに、義経の異心無き旨を諷するのは、謡曲作者の試みそうな所である。かの二首の吟詠が既に無意味のものでない以上、それを一段積極化した形に進展しても奇でないのである。又同曲に、義経の著馴れた直衣、鳥帽子を与えて装束させるのは、この愛の人貞烈の女に対する国民のせめてもの好意で、更に感慨を深からしめる所以である。そしてそれは本伝説が愈々成長して来たことを示している。又、如何に天下の武将の厳命とはいえ、夫を憎んで逐ったその人の為に、夫の前ならではと念ふ舞の袖を翻すことは、もとより心すすまぬ所ではあるが、一つには飽くまで固辞すれば愈々夫の為に不利ともなろう、且は神前の舞ではあり、思い余ったこの小さい胸を、神明仏陀も愍みを垂れ給うべく、夫の前途の幸運を祈るよすがともならうと、辛く決心せしめるのは、『義経記』『静』『安達静』等大抵同じなので(唯、それが、母或は他人の勧めによるのと自身の決心からとの差があるだけである。渋って快くは領承しなかたのは史実でもそうであった)あるけれども、『安達静』では作意に偏するほどに特にこの点にも念慮を費し、この敵人ともいうべき人の為に舞う心苦しさを――否そうした静を観る心苦しさを――釈明する為にも、その衣裳を意味あらしめ、即ちその悲しさ遺瀬なさを転じてこの愛人の旧衣を懐かしむ思慕の上に移させて、纔に安心納得しようと苦心しているのを見るのである。

『安達静』にも頼朝から直接に義経の行方を追及せられる事があるが、舞曲『静』では頼朝の前で詰問せられた静が、身の佗しさを源氏六十帖を引いて語った詞の中で、壁に生える短命の「いつまで草」に己れを比せられたと頼朝が憤るのは、静訊問の史実が伝説化して頼朝自身の問審の形となり、それに本伝説が変容して合体したものである。『安達静』も結局同じ行き方であり、前に述べた舞いながらの諷詞が即ち変容した本伝説で、尋問の答申と同時でないだけである。又『源義経将棋経』(初段)の浄瑠璃姫が頼朝の御前で操狂言を演ずるのも本伝説の変容であることは浄瑠璃姫伝説の條で既に指摘した。更に静の歌舞の事は『義経追善女舞』(初段)の静御前の妙音尼が大磯小磯の白拍子を集めての故判官追善の勧進舞、『御所櫻堀川夜討』(五段目切)の静が今様「花扇邯鄲枕」等を始め、多くの文学に採り用いられている。それは本来白拍子であるが故にではあるが、祈雨伝説、蔵王堂法楽舞伝説(これも亦本伝説の変容かも知れないがそうであっても亦別個の発生であれば尚、別の伝説として取扱われ得る)等と共に、否それらよりも最も直接に最も有力に、本伝説が実例を与えているに因るのである。
 

〔補〕大正十年十一月、東京上野鶯谷の国柱会館で演ぜられた田中智学作『栗橋の静』は、同地の口碑を素材として、静の歌舞を劇化したものであった。勿論本伝説の影響も受けている。


又舞曲『元服曽我』に五郎元服の席上、鳥帽子親の北條に所望せられて辞みかねた十郎が
 

舞はじものをと思われけれども、舞はでは座敷の興も無し。舞はばやと思召し、一聲をこそ揚げにけれ。
しづやしづしづのをだまき繰りかえし昔を今になすよしもがな
昔を今になさばやと、やや暫く謡ひしが………


祝言に相応はぬと心づき、急に「君をはじめて拝むには千代も経ぬべし姫小松」と歌い直したとあるのは、本伝説からの影響であろう。

文学】『義経記』(巻六)、舞曲『静』(『静物語』としても知られ、『考古画譜』には「一巻、飛鳥井栄雅入道女一位局書画一筆」と見えている)、謡曲『鶴岡』『安達静』、『義経勲功記』(巻一五)、戯曲『金平本義経記』(五之巻六段目)、『右大将鎌倉実記』(四段目)、合巻『鎌倉山黄金千代鶴』等。黙阿弥の『千歳曽我源氏礎』(四幕目)にも作られている。上田秋成の『藤簍冊子(つづらぶみ)』(巻之四)に「剣の舞」と題して収めてある一文も、本伝説に取材したもの、題意は「扇を剣と打振りつつ」とある最終(はて)の剣の舞に因由するので、且歌詞も「しづやしづ」ではなく、すべて変えてある。又

繰糸
工藤銅拍秩父鼓 幕中挙酒観汝舞
一尺之布猶可縫 況此繰車百尺縷
回波不回阿哥心 南山之雪終古深


と熱血詩人をして『日本楽府』中に詠ぜしめているのもこれである。一代記風の義経物に本伝説の見えるのも少なくない。

〔補〕笹川臨風の歴史小説『舞殿』もこれを題材としてある。

(ろ)胎内さぐり伝説

静の鎌倉召喚に関連して、前伝説(い)に附随して伝えられるのはこの伝説である。

内容

人物 静御前・嬰児・磯禅師。源頼朝・梶原景時
年代 (い)に同じ。
場所 相模国鎌倉


訊問の為呼下された静が判官の胤を宿していることが知られ、産児が女ならば助けよ、男ならば棄て殺せとの頼朝の下命を、梶原景時がその誕生を待つまでもないとて、静の胎内を探って母子共に命を断とうと謀ったのを、母磯禅師が政子に愁訴してその難からは救い得たが、誕生の若君は無斬にも由比ヶ浜で海に投ぜられてしまった。

出処】舞曲『静』、『金平本義経記』(五之巻四段目)、『右大将鎌倉実記』(四段目)等。

型式・成分・性質】特殊の型式のものではない。史実的成分が骨子となり、空想的(仮構的)成分で潤色せられている史譚的伝説である。

本拠・成長・影響】(い)よりも発生はかなり後であると思われる。その史実の本拠は『吾妻鏡(巻六、文治二年閏七月)に

廿九日庚戌。静産生男子、是予州息男也。依被待期、于今所被抑留帰洛也。而其父奉背関東、企謀逆逐電。其子若為女子者、早可給母。於為男子、今雖在襁褓内、争不怖畏将来哉。未熟時断命條、可宜之由冶定。仍今日仰安達新三郎、令棄由比浦。先之新三郎御使、欲請取彼赤子。静敢不出之。纏衣抱伏、叫喚及数刻之間、安達頻譴責。磯禅師殊恐申、押取赤子与御使。此事御台所御愁歎、雖被宥申之。不叶云々。


と見えるそれである。静懐妊の事は他の條にも出ている。但し史実では鶴ヶ岡の歌舞は出産以前であるが、『義経記』では順序が逆になって伝えられている(後のものでも『右大将鎌倉実記』などは歌舞の方が前になっている)。そしてその『義経記』(巻六、静鎌倉へ下る事)に
 

鎌倉殿仰せられけるは、九郎が子を妊じたる事、世に隠れなし。只今陳じ申すに及ばず、近きうちに産すべきとこそ聞きつれ。頼朝が為には全く敵の末なれば、静が胎内をあけ、子を取って失え、梶原、とぞ仰せける。静も母もこれを聞きて、兎角の御返事にも及ばず、手に手を執り組み、顔に顔を合わせて、声も惜しまず悲しみけり。二位殿も聞召して、静が心の中をこそ思いやられ給いけん、御幕の内に御落涙の音頻りにこそ聞えけれ。


とあるのが、やがて舞曲『静』の内容の如き、景時の奸計に転じて実行に移されようとした形に進展したのである。つまり「静が胎内をあけ、子を取って失え、梶原」の一句から本伝説は胎生したと言うことが出来よう。『義経記』では頼朝のこの厳命だけで、却って梶原がそれは余りに惨虐故、程近い出産を待つべき旨を答えて止めたので、人々が末代の珍事と意外に感じたとしてある。誕生の嬰児を由比ヶ浜で棄てるのは史実通り安達新三郎である。胎内?の執行に対して、母禅師の歎願と助命の事は舞曲に見える所であるが、政子が母子に特別の好意を寄せ憐愍を施した事は、前掲及び(い)の〔本拠〕の項に出した『吾妻鏡』の随処の記事にも知られるから、そうした史実から出たのであろう。『金平本義経記』は舞曲を継承し、『右大将鎌倉実記』に産婦の静を預けるのが工藤祐経であるのは、『義経記』に、今までの宿所堀藤次親家が許を産所としたい旨を、祐経を以て静が願う事、祐経の妻女が静を見舞う事などがあるのから来ていようし、その工藤の館へ梶原が日参して監視した上に、
 

これはまあ何時生む事。胸が焦れて耐らぬ耐らぬ。帯落(ほぞおち)するまで待って居られぬ、腹な餓鬼を引摺り出す分別、これ見られよ薬師堂の早め薬、一服食わせ、手短に将明けん。煎じ様は常の通、薑(しょうが)の代わりに芥子(からし)を入れ、鼻からなりと生ませたいとぞもがきける。


というのは、進展して称変容した胎内さぐりである。

併しながら以上のものはなお事実としての胎内?の悲劇とはならずに済んだ。これを進めて真の事実となし、而も静を二人として、その一人とその胎児を以て、真の静母子の身替にしたものは、近松の『■(ふたり:歹+粲)静胎内さぐり』(三段目)である。即ち梶原景季が、静の隠れ家を囲んで之を捕らえ、大津松本の船頭、大津二郎の許に宿った夜、静が俄に産気を催したのを、大津二郎はその父磨針太郎が熊坂長範の手下として常磐御前を殺した罪障を滅する為、妻の勧めに従って同じく懐妊していた妻の腹を割き、その胎児を取り出して之を景季に与えて、静母子を救うこととしてある。形に於いては複身型式の二人静の趣向を謡曲『二人静』に学び、内容に於いては胎内?を舞曲『静』に採って、更に身替説話(先ず寺子屋型の異型と観てよいであろう)としたものである。山中常磐伝説の影響をも受けている。兎に角、本伝説の影響文学として最も顕著な作である。
 

(附記)この作の外題の「■(歹+粲)」は「さんにん」と訓むべきであるという説が饗庭篁村によって提唱せられたが、なるほど「■(歹+粲)」は音「サン」であり、又「産人(さんにん)静」を利かせたと観れば、一応首肯出来るが、併し確に『二人静』から暗示を得て構案したものに違いなく、そしてその連想を誘う上でも、「ふたりしずか」と訓ませるのが近松の本意であったと思われる。尤も「産人」の意をも裏に籠めて胎内?に掛けて洒落たつもりで、特に「■(歹+粲)」の字を用いたという用意まであったのかとも考えられ、そうならば猶面白いということにはなるが、「さんにん」と改め呼ぶのは妥当であるか如何か、遽に賛し難い。


その後に出た松貫四の『吉野静人目千本』の前半は上の曲の改作で、唯静に代えるに卿の君を以てし、且脚色に多少の変更を加えてある。

又馬琴の『椿説弓張月』(続編、巻五)の「撈(さぐりて)腹阿公奪赤子」という條の、琉球の悪老巫女阿公(くまぎみ)が、妊婦新垣が胎を割いて嬰児を奪う残忍は、恐らく本伝説あたりから構想の示唆を得たものであろうと思う。

解釈】原史実そのものが既に悲惨で、現状をまざまざと見るような『吾妻鏡』の叙述は惻々として胸に迫るものがある。伝説化した方の胎内?の蛮行こそ不快の度を越えて、危く児戯に類する滑稽に堕せんとしている。唯、頼朝の冷酷と景時の奸譎とが此処に至って愈々極端に具象化せられた形を呈し、静及びその嬰児を対象として、又間接にはその嬰児の父義経に対して、民衆の判官贔屓が倍加して来る結果を来さしめるのである。又この胎内?は実は迷信的な未開習俗の遺風の投影でもあろう。

文学】〔出処〕の項に掲げた諸作、及びこれも既に揚げた『■(歹+粲)静胎内?』『吉野静人目千本』等。
 

〔補〕胎内さぐりでなく、原史実乃至『義経記』の内容程度の所謂、静の鎌倉召喚と幼児由比ヶ浜投棄を題材としたものであるが、明治四十二年十一月「スバル」に発表せられた鴎外の『静』は、現代語で取扱われた史劇の先駆をなしたものである。又静の心境に一新釈を与えてあるのも特色で、後に大正十年三月守田勘弥の文芸座が、勘弥の安達新三郎、初瀬浪子の静で帝劇に上場した。又この他にも平山晋吉作『静と西行』と最近に佐々木信綱博士作『静』がある。共に西行と静とを結びつけようとしたのが狙い所で(前者には鶴ヶ岡歌舞も採られている)、特に後者では両人に対面話談までさせてある。これは歌右衛門の出し物であった。西行は吉右衛門。

 

第二章 つづく



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源義経研究

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2001.12.1
2002.2.14 Hsato