島津久基著
義経伝説と文学
本篇

第一部 義経伝説

第二章 義経に関する主なる諸伝説

第三節 義経得意時代に属する伝説

義経の生涯中最も史実的色彩の明瞭なのはこの時代で、即ち奥州から馳せ上って兄頼朝の軍に加わり、他の異母兄蒲冠者範頼と並んで頼朝の代官として上洛し、木曽義仲を誅伐し、平家を西海に遂い落し、一の谷・屋島等に大捷を博して、終に長門の壇の浦に之を亡ぼした戦功赫々たる時代である。従ってこの時代に属する伝説は比較的少なく、有っても大抵史実の分子の贏っているもののみで、前時代のそれのように、神話的若しくは童話的性質を帯びているものは殆ど無い。僅かに逆落伝説に神話的分子を強いて認めれば認められようし、八艘飛伝説に牛若丸時代の童話的傾向の名残を纔に留めているに過ぎない。木曽追討に関するものとしては宇治川先陣伝説、又屋島の戦に於いては扇の的の伝説があるが、前に立てた方針によって、直接義経に関係あるもののみを攻究することとし、同じく屋島合戦に於ける継信戦死の話は、摂待伝説の條に譲って、本節には省くことにする。


(八)逆落伝説

詳しく言えば鴨越逆落伝説である。そして逆落は実は「坂落」なのであるが、終に逆落と記されるに至った(近松の『源義経将棋経』には既に「鴨越の逆落し」とある)のは、鴨越を極端な峻坂としてしまったもので、同時に義経に益々神人的性格を発揮させる所以であり、愚に似ているとは云え、伝説としての面白味は却って「坂」より「逆」の字の上にある。

内容

人物 
源義経及び配下の軍勢、武蔵坊弁慶・鷲尾三郎経春(『源平盛衰記』)(『平家物語』は鷲尾三郎義久、幼名熊王丸、『長門本』には加古菅六久利、『盛衰記』所載の「異説」にも多賀菅六久利とし、『義経興廃記』には鷲尾庄司武久の子三郎経久、幼名熊王丸としてある。『義経勲功記』は『平家物語』と同じである。又『広益俗説弁』(後編巻三、士庶)には三郎経春と云う名ではなく、十郎清久と云い、義経から義の一字を賜って義久と称したとしていて、各々一定しない)
年代 元暦元年二月七日払暁(『盛衰記』『平家物語』)(『吾妻鏡』も同じ)
場所 摂津国一の谷鴨越


一の谷の城廓に立籠る平軍を攻める為、範頼は大手生田口に向い、義経は搦手一の谷口に向ったが、敵の不意を襲おうと、義経は密に佐藤兄弟・畠山次郎重忠・佐原十郎義連・伊勢三郎義盛・武蔵坊弁慶等、手勢僅かに数十騎を率いて、一の谷の後の山鉄拐ヶ峯に登り、弁慶が探し出して来た猟人の究極の若人に鷲尾三郎経春と姓名を与えて、召して案内者とし、鴨越とて人馬も通はぬ巖石峨々たる嶮岨の坂を、鹿の越えるに同じ四足の馬の越え得ぬ筈やあると、先ず二頭の馬を追い下して試みた後、義経自ら陣頭に立って馳せ落し、敵陣の後に出でて虚を衝き、城を陥れて大捷を収めた。なお『盛衰記』にはこの伝説の一挿話として、畠山重忠が愛馬を負って峻坂を下った逸話を含んでいる。

出処】『平家物語』(巻九、老馬・坂落)、『長門本平家』(巻一六、一谷合戦事)、『源平盛衰記』(巻三六、鷲尾一谷案内者、巻三七、義経落鴨越並畠山荷馬附馬因縁)等。

型式・構成・成分・性質】特殊の型式のものではない。戦争説話と云う汎称の下に呼ぶ外はないであろう。そして前半は鷲尾経春に関する英雄立身譚で、これが後半の序を成し、後半が即ち逆落しで、これは一面の意味では、武術説話中の馬術説話とも観る事が出来る。本伝説に於いては史実に空想的成分が加わって、伝説的興趣あらしめ、神話的成分は主人公たる義経の行動にその面影を認め得ると言ってよい。史譚的武勇伝説である。

本拠】本伝説には骨子をなす明らかな史実がある。即ち『吾妻鏡』(巻三、寿永三年二月七日)に次の記事がある。

七日丙寅。雪降。寅刻源九郎主先引分殊勇士七十余騎、著于一谷後山号鴨越。爰武蔵国住人熊谷次郎直実・平山武者所季重等、卯刻倫廻(ヒソカニ)于一谷之前路、自海辺競襲于館際、為源氏先陣之由高声名謁間、(中略)其後蒲冠者井足利・秩父・三浦、鎌倉之輩等競来、源平軍士互混乱、白旗赤旗、交色闘戦、為体(テイタラク)、響山動地、凡雖彼樊■(ロ+会)・張良、軋難(タヤスク)敗績之勢也。加之、城廓石厳高聳、而駒蹄難通。■(さんずい+?)谷深幽、而人跡巳絶。九郎主相具三浦十郎義連巳下勇士、自鴨越此山猪鹿兎狐之外不通険阻也被攻戦間、失商量敗走。或策馬出一谷之館、或棹船赴四国之地矣。(下略)


上の文は当日の條に見えるが、後の記述にかかることは『吾妻鏡』の他の部分に於けると同様で、敢えて珍しい事ではない。併しその詞章を読むと、余りに『盛衰記』の文に近く、殆どその簡訳ではないかと疑わせる程である。「鴨越」とある下の分註の如きも、何となく『盛衰記』の既成を予想させるような筆遺いのようにも思われる。殊に『吾妻鏡』の前半は後の追記に属する部分であるからである。が又逆に、『盛衰記』の同條が『吾妻鏡』に拠って書かれたとも考えられる。少なくともこの文が『盛衰記』の文と密接な関係あることは否定し難い。殊に「或策馬出一谷之館、或棹船赴四国之地遺矣」の文は、『平家』(巻七)の「一門都落」の末節

或は磯辺の波枕、八重の潮路に日を暮し、或は遠きを分け、嶮しきを凌いで、駒に鞭つ人もあり舟に棹す者もあり、思い思い心々にぞ落ち行きける。
又『盛衰記』(巻三二)の平家都落の條の冒頭
落行く平家の人々、或は式津の浪枕、八重の塩路に日を経つつ、船に竿さす人もあり。或は遠きを凌ぎ近きを分けつつ、駒に鞭つ人もあり云々。
に余りに酷似しているではないか。又、「三浦十郎義連巳下勇士」と義連一人の名を特に挙げたのは、『盛衰記』及び『平家』に於いて真先に落した特筆すべき戦功者が、佐原義連であることによって、一層意味が明瞭となるように思われる。
夫れより底を差覗いて見れば、石厳峙って苔蒸せり。刀のはに草覆えるようなれば、いといぶせき上、十二十丈もや有らんと見え渡る。下へ落すべきようもなし。上へ上るべき便りもなし。互に堅唾を呑みて思い煩える処に、三浦党に佐原十郎義連進み出でて、我等甲斐・信濃へ越えて、狩し鷹仕う時は、兎一つ起いても、鳥一つ立っても、傍輩に見落されじと思うには是に劣る所やある。義連先陣仕らんとて、手綱掻くり鐙踏張り唯一騎、真先蒐けて落す。(『盛衰記』巻三七)
以上の確に関係があると認められる部分のあることを知って、更に両書の文を比較すれば、
源平軍士等互混乱、白旗赤旗、交色闘戦、為体、響山動地、凡雖彼樊■(ロ+会)・張良、軋難敗績之勢也。(『吾妻鏡』既出)
追手の軍は半と見えたり。喚き叫ぶ聲、射違う鏑の音、山を穿ち谷を響かし、赤旗赤符立並べて、春風に靡く有様は劫火の地を焼くらんもかくやと覚えたり。(『盛衰記』巻三七)義経兵法その術を得て、軍将その器に足れり。相従う者又孟賁の類樊■(ロ+会)の輩なりければ、連いて同じく通りにける。(同巻三六、鴨越を越ゆる條)
昔項羽が鴻門に向いしが如し。何かは是を攻落さんとぞ見えたりける。(同巻、一の谷の要害を記せる條)
加之城廓石厳高聳、而駒蹄難通。■(さんずい+?)谷深幽、而人跡巳絶。(『吾妻鏡』)(既出)
彼の山道は長山遙に連きて、人跡殆ど絶えたり。鴨越とて由々しき嶮難の石厳也。(『盛衰記』巻三六)
の如きも、それぞれ詞章上相互の類似が恐らく偶合ではあるまいと思わせるものを示している。即ち『吾妻鏡』の記事を本として、之を文学的に潤色したものが『平家』『盛衰記』なのか、或は『吾妻鏡』の或部分は却って後者にその材料を仰いだものであるのか、なお研究の余地がある。いづれにせよ、両者が必ず直接の関係があるということも、単に本伝説に関する部分の如上の比較によっても明らかに知り得る所である。それは兎も角、義経が鴨越を越えたことは確実であろうし、それが伝説的誇張を以て語られているのが本伝説である。なお伝説としての鴨越坂落、即ち『平家』『盛衰記』に見えるそれには、支那説話の斉の管仲が老馬を雪に放って道を知った故事(『韓非子』説林篇、『蒙求』巻下)が一部に採入れられ、『義経興廃記』(巻七)の逆落は、同じく支那説話『三国志』の陰平の嶮を冒して蜀の成都を襲った魏将■(登+こざとへん)艾(とうがい)の行動がその脚色を助けたのを見るのである。

解釈】本伝説は軍将としての義経の超凡独特の容相を紹介する所以のもので、即ち奇襲の戦略は彼の得意とする処、渡辺の渡海と共に之を例証する主な事件であり、かのカルタゴの勇将ハンニバルがアルプスの嶮を越えたのにも比すべき、東西一対の快事である。その上、義経の性格も如実に具現せられていて、冒険的奇捷を好むも無謀の挙に出ることはなく、敵の機先を制する神速を尊びながら、なお微細な点にまで周到な用意を怠らず、或は源平と名付けた二頭の馬を遂い下し、源氏の馬が恙なく、平家の馬が傷くのを見るや、すかさず軍士の気を攬って之を励ますことを忘れず、豪胆敵を呑み、又嶮を呑み、自ら真先に立って手兵に範を示す稀代の名将は、到底好人物にして拉腕の無い大手の大将軍範頼の比ではない。水鳥の羽音に驚き、都の春の昨日を夢みる平軍の敵としては、余りに均衡を失することの甚だしいものがある。なお又本伝説は義経の馬術の精妙を讃え述べるものとしても意義がある。人馬も通わぬ嶮坂を、「■(がけ:石+戔)を落すには手綱あまたあり、馬に乗るには、一つ心、二つ手綱、三に鞭、四に鐙と云って四の義あれども、所詮心を持ちて乗るものぞ。若き殿原は見も習い乗りも習え。義経が馬の立様を本にせよとて、真逆に引向け、続け続けと下知しつつ、馬の尻足引敷かせて、流落ちに下」(『盛衰記』巻三七)つた功者さは、その乗馬太夫黒の名と共に、永く鴨越に誉を留めるものである。「逆落し」の語も、「真逆に引向け」の語から出たことは明らかである。そしてこれは又同時に義経の言を借りた当時の坂東武者の老兵が、若輩に訓える乗馬の心得の一般と、彼等が坂東馬を馳駆する状とを示すものとしても観られ得るであろう。

元来史実的本拠の明らかな伝説にあっては、その伝説としての意義と興味とは、空想的分子が加えられて、如何ほどまでその史実が伝説化したかという点にある。併し本伝説の如きは特に史実との間に大きな距離を置かしめられるに至らなかったので、僅かに鴨越の嶮岨が極端に誇張された難所となり、従って義経は愈々神人的人物に近づかしめられたところに、その傾向が認められるのみである。

又、前半の鷲尾の出世物語は、弁慶・義盛等のそれと同じく、譜代の臣の少ない義経が、新に獲た従士に関する伝説で、これが鴨越の案内者であるに於いて、逆落伝説と結付けられているのである。これは一には彼の徒手孤独の幼年時代から、一躍三軍に将として平家討滅の大功を十分に収め得たことが、余りに容易であったのについて、彼の天性の偉大なものがあると同時に、必ずやこれが輔佐腹心の無い筈はないという想定から、必然に発生して来たものであろうし、又実際に於いてもこのような例があったのでもあろう。又一方から言えば、義経の没落以後も主君の為に逆境に甘んじ、常に彼と運命を共にし、終に最後まで志を変えなかった主な人物は、史実は兎も角、少なくとも伝説に於いてはこのような特殊の事情で臣下となった経歴を有している者であるからでもあった。例えばこの鷲尾について見ても、「是より思付き奉りて、一の谷の案内者より始めて、八島文司(もじが)関、判官奥州へ落ち下り給いし時、十二人の■(そら)山伏の其一也。老いたる親をも振り捨てて、愛(かな)しき妻をも別れつつ、奥州平泉の館にして最期の伴をしたりしも、情ある事とぞ聞えし」と『盛衰記』(巻三六)は語っている。武勇の名誉は、やがて立身の保証である戦争時代、燃ゆるが如き若い功名心が、草深い山奥にくすぶる狩猟の生業から、馬を躍らせ太刀を横たえる武士の晴の舞台に誘う切なるものがあったとは云え、「七十余なる翁と六十余なる嫗と」(同巻)「愛しき妻」(同)とを振り捨てて、長く戦場の人となった理由の一つは又、義経の恩義に感じ、威容に信服した為でないことがあろうか。伊勢三郎義盛の場合も亦同じである(『盛衰記』『義経記』)。測らず宿し参らせた源家の公達と、主従の約を結んでは、愛妻を空閨に残し留めて淋しさに泣かしめても、猶主君を一人慣れぬ長途に出で立たせ奉るには代え難いとするのも、三郎が主君大切と思う誠意と共に、義経の一見忽ちに百年の想を以て懐しまれる人格の一半を偲ばしめるに足るものがある。要するに本伝説の前半は、義経の臣従の多くは、如何にして獲られたのであるかを説明すると同時に、その偶然の動機から臣下となることを許されたこの新主を、爾後長く「思付奉」らざるを得ない良主将として、咄嗟の間に感じさせる偉大な英雄であることを示すものである。

成長・影響】本伝説は後の伝説・文学への影響は特に言うべき程ではない。唯『真書太閤記』(二編巻一五)の木下藤吉郎秀吉が稲葉山の城攻に瑞龍寺の峯を越えようとして、猟人堀尾茂助吉晴を獲て案内者とした説話は、全然の仮作か否か、史実の暗合の有無如何を問わず、本伝説の影響もかなり与っているのではなかろうか。それから八文字屋本の『風流西海硯』(二之巻)に、判官を刺そうと幇間に身を扮し、鴨越権兵衛と変名して近づいた平家の士上総五郎兵衛忠光を、烱眼の義経は看破して、却って「洒落しに問落して」一の谷城内の敵状を察知することとし、「逆落し」を「酒落し」にとりなしたのは、浮世草子作者の常用手法である。又源平の亡者軍と閻王との戦を題材とした『小夜嵐』(巻五、軍勢賦(くばり))に

九郎判官義経はかすみが嵩・山彦が峰を落さんとて、近習の侍鈴木の三郎重家………河越の三郎宗頼を先として、究竟の強者五十四萬八千余騎、明業寺を越して閻魔城のうしろ、無別法の森へ忍び入るこそあぶなけれ。
とあるのも、本伝説をもじったのである。

本伝説の成長過程に於いて最も注意の焦点となるのは、逆落の舞台である鴨越の難所の記述にある。文学・絵書等何れも如何にしてその嶮岨の一半だけでも描き出そうかということに心を用いたようで、従って漸次に誇張されて来た。

(A)鴨越此山猪鹿兎狐之外不通険阻也(『吾妻鏡』)(既出)
   石厳高聳、而駒蹄難通。■(さんずい+?)谷深幽、而人跡巳絶。(同)(既出)
(B)彼の山道は長山遙に連きて、人跡殆ど絶えたり。鴨越とて由々しき嶮難の石厳也。
   自ら鹿ばかりこそ通りけるに、(『盛衰記』巻三六)(既出)
   夫れより底を差覗いてみれば、石厳峙って苔蒸せり。刀のはに草覆えるようなれば、  
   いといぶせき上、十二十丈もや有らんと見え渡る。下へ落すべきようもなし、上へ 
   上るべき便りもなし。(同巻三七)(既出)
(C)峨々たる石は高く聳えて雲に連なり、恰も虎豹の蹲まるが如く、絶谷もとより路無
   くして、千尋の石壁削り成せるが如し。(中略)数十丈の岩石屏風を立てたる如く、
   岩角するどにして刀山剣樹の如し。雪は村々に消え残りたるが、瓶下(つるべおろ)
   しに聳えて、人馬の足可立様も無かりければ、(『義経興廃記』巻七)
の三類の文を比較してもその一斑は窺い知られるであろう。今も世に書かれる逆落の絵には、鹿兎はおろか神ならでは越えられまいと思われる程の巉厳絶壁に、七つ道具を背負った法師武者を後に随え、翩翻と翻る白旗の下に、悠然として太夫黒を立てて敵城を瞰下する、颯爽たる判官の英姿を見るのである。こうして義経は益々軍神の如き将帥となったのである。

なお本伝説の発達と共に附随して来たのは、鐘懸松の伝説である。即ち『興廃記』(巻七)に、

義経を手本にして乗下せ者共と、鐘を扣いて鴨越の峯に鐘懸松あり人馬をすすめ、曳也聲を合わせて真先に進み、千尋の石壁を手綱掻くり乗り出し給えば、
と見えるのがこれである。これは恐らくは宇治川の戦に際し、義経が川辺に高櫓を造らせ、平等院の御堂から太鼓を取寄せ、櫓の下で之を打って軍勢に下知したこと(『盛衰記』巻三五)から出たのであろう。そしてこの鐘懸松の釣鐘は、弁慶が勇力を以て鴨越の上に曳き上げて来たものとされるに至った(『武勇功亀鑑』)が、これは又弁慶が叡山の谷間から山上へ釣鐘――俵藤太が龍宮から持帰った三井寺の宝物を叡山へ奪われていたというその梵鐘――を引上げたという伝説(『源平武者鑑』等)が転移して来たものである(この龍宮の釣鐘が三井寺炎上の時、山門の手へ渡り、撞いても鳴らないので山法師共が怒って谷間へ落したことは『太平記』(巻一六)の俵藤太百足退治伝説の條に見えるが、それが弁慶の勇力説明伝説となって、曳鐘伝説を生んだのである)。

文学】『源平盛衰記』(巻三六・三七)『平家物語』(巻九)及びこれらを受けた江戸時代の『義経興廃記』(巻七)、『義経勲功記』(巻七)、又浄瑠璃には『寿永楓元暦梅源平鴨鳥越』、歌舞伎の脚本には『一谷坂落』がある。その他一代記風の義経物には大抵之を収めている。又謡曲『二度掛』(一名『坂落』)の題名は、梶原父子の事から出たのであるけれども、『箙』『梶原座論』等に関係のある程のものですらなく、別名の示す如く、寧ろ本伝説を主部分としている。即ち鷲尾が案内者に召されての老父との別離を前半とし、梶原が敵中に見失った我が子源太との再会を後半として対照させ、親子の情愛と人生の離合とを見せようとした作である。鬼外の戯曲『弓勢智勇湊』にも本伝説と鷲尾の事が採入れられ(〔補〕鷲尾の伝説に取材したものでは『鷲尾出世』という説教節も作られている)、また鐘懸松に関して戯曲『源頼朝源義経古戦場鐘懸松』及びこれから出た同名の青本がある。

(九)弓流伝説及び八艘飛伝説

(い)弓流伝説

この時代に属するもので、義経の人格の一半を語る美しく優なる物語は弓流伝説である。

内容

人物 源義経。平家の軍兵
年代 元暦二年二月二十日(『盛衰記』)(『平家』には十八日。『吾妻鏡』は十九日)
場所 讃岐国屋島浦


屋島合戦に平家は又もや義経に不意を襲われ、内裏を追い落されて海に泛び、陸の源氏と戦う間の出来事である。『源平盛衰記』の原文を左に引こう。

平家射調れて船共少々漕返す。判官勝に乗って、馬の太腹まで打入れて戦いけり。越中次郎兵衛盛嗣折を得たりと悦んで、大将軍に目を懸けて熊手を下し、判官を懸けん懸けんと打懸けけり。判官■(しころ:革+固)を傾けて、懸けられじ懸けられじと太刀を抜き、熊手を打除け打除けする程に、脇に挟みたる弓を海にぞ落しける。判官は弓を取って上らんとす。盛嗣は判官を懸けて引かんとす。如法(もとより)危く見えければ、源氏の軍兵あれは如何に如何に、その弓捨て給え捨て給えと聲々に申しけれども、太刀を以て熊手を会釈(あいしら)い、左の手に鞭を取って、掻寄せてこそ取って上る。軍兵等が縦い金銀をのべたる弓也とも、如何寿(いかがいのち)に替えさせ給うべき。浅猿(あさま)し浅猿しと申しければ、判官は軍将の弓とて、三人張五人張ならば面目なるべし。されども平家に被責付て、弓を落したりとて、あち取りこち取り、強きぞ弱きぞと披露せん事口惜しかるべし。又、兵衛佐の漏れ聞かんも云甲斐なければ、相構えて取りたりと宣えば、実の大将也と兵舌を振いけり。
『平家物語』には
源氏勝に乗って、馬の太腹つかる程に打入れ打入れ攻め戦う。船の中より熊手薙鎌を以て、判官の甲の錣にからりからりと打懸け打懸け、二三度しけれども、御方の兵共太刀長刀の鋒にて打払い打払い攻め戦う。されども如何はしたりけん、判官弓を被取落ぬ。うつ伏し鞭を以て掻寄せ、取らん取らんとし給えば、御方の兵共、ただ捨てさせ給え捨てさせ給えと申しけれども、終に取って笑ってぞ被帰ける。おとな共は皆爪弾をして、縦ひ千疋萬疋に代えさせ可給御手馴(たらし)なりと申せども、争(いかで)か御命には代えさせ給うべきかと申しければ、判官弓の惜しさにも取らばこそ、義経が弓と云わば、二人しても張り、若しは三人しても張り、叔父為朝などが弓の様ならば、熊とも落いて取らすべし。■弱(わうじゃく)たる弓を敵の取持ちて、是こそ源氏の大将軍九郎義経が弓よなど、嘲哢せられんが口惜しさに、命に代えて取ったるぞかしと宣えば、皆又是をぞ感じける。
(なお『盛衰記』には上の話に引続いて、大将を救おうと馬を游がせた源氏の武士小林神五宗行が、判官を懸け外して無念がる盛嗣の熊手に兜を懸けられて、互に勇力を出して引き合い、終に■(しころ:革+固)を引ちぎった話を載せてあるのは、『平家物語』の景清・三保谷の錣引に相当する)

出処】『平家』(巻一一、弓流)、『盛衰記』(巻四二、屋島合戦)。

型式・成分・性質】同じく戦争説話に属せしむべきもので、特殊の型式を具えた伝説ではない。
史実的成分と空想的(仮構的)成分と相半ばしている。寧ろ後者の方が多いであろう。性質から言えば史譚的武勇伝説である。

本拠】明確な史実は無い。故に水府に於いて『大日本史』が編纂せられた時、黄門光圀卿は、本伝説の如きを、史実として義経の伝記中に収めることの不可を論じた。併し義経の性格を髣髴させて史実を補う意味に於いては許さるべき点がないでもない。光圀のこの命があったにも関わらず、安積澹泊等がなお本伝説を棄てるに忍びず、附註の形としたのは、一つには本伝説の魅力に原因するとは言え、又一つには上の意味もあったのであろう。もとより屋島の戦も明らかな史実である。又屋島の戦で源平が互いに陸と海とに分れて闘ったことも事実である。『吾妻鏡』にはこの日の平軍の勇士の中に、盛嗣の名さえ数えている。

(前略)又廷尉義経昨日終夜越阿波国与讃岐之境中山、今日辰剋到于屋島内裏之向浦、焼払牟礼(ムレ)・高松民屋。依之先帝令出内裏御(タマウ)。前内府又相率一族等、浮海上。廷尉著赤地錦直垂・紅下濃鎧、駕黒馬。相具田代冠者信綱・金子十郎家忠・同余一近則・伊勢三郎能盛等、馳向汀。平家又抑船、互発矢石。此間佐藤三郎兵衛尉継信・同四郎兵衛尉忠信・後藤兵衛尉実基・同養子新兵衛尉基清等、焼失内裏井内府休幕以下舎屋。黒煙聳天、白日蔽光。于時越中二郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛尉忠光平氏家人等下自船、而陣宮門前、合戦之間、廷尉家人継信被射取畢。(下略)(巻四、元暦二年二月十九日癸酉の條)
けれども本伝説の直接の本拠となったと認められ得る記事は、正史に求めることは出来ない。『盛長私記』(巻一九)に本伝説が見えるが、同書は伊勢貞丈の否認説(『安斉随筆』巻一八、『貞丈雑記』巻一六)に不十分な点があっても、兎に角後人の(恐らくは江戸時代の人の)偽作であることは略々考え得られるから、徴証とするだけの価値は無い。
 

解釈】義経の沈勇と用意とを語るものである。軽忽のようではあるが小事を苟くもせず、弓は惜しまぬが名を惜しむ武人の心掛けは、『盛衰記』作者をして「実の大将也と兵舌を振いけり」と、自ら舌を振いつつ記さしめた所以である。而も敵中に馬を乗入れて、片手に敵の熊手を会釈いつつ、悠々として落した弓を鞭で掻き寄せ拾上げて帰る不敵さは、判官が平生の負け嫌いの気象を併せ語って甚だ興味がある。況やその命に懸けて弱弓を拾い取った理由は、猛き武夫の優しい嗜に出ているのである。又常に自ら一陣に進んで、死を懼(おそ)れなかったのは、一つには軍兵を励ます為の手段でもあるが、一つには又兄頼朝に好まれぬ自身の性格を知悉し、心私かに死を決してその機会を索めていたのであったことは、屋島の敵を攻めようと出発するに臨み、大蔵卿泰経が、義経の常に自ら先を駆ける無謀と危険とを諌めて、「泰経雖不知兵法、推量之所覃、為大将軍者、未必競一陣欠。先可被遺次将哉者」と言ったのに答えて、「殊有存念、於一陣欲棄命云々」と決然とした色を示していることが『吾妻鏡』(巻四、元暦二年二月十六日庚午の條)に見えるのでもわかる。世に太田道灌の意見と信ぜられている説として、弓一つの為に、軍将の命を軽んじたのを将器に非ずと難じた論(『我宿草』)は、未だその一を知って二を知らざるもの、この決意を胸に蔵する義経が、敵中に弓を拾うのを何で逡巡するものぞ。ましてや惜しい武夫の名を屋島の浦に流すのは、愛弓を流すよりも辛い思いであらねばならなかったであろうものを。全く本伝説は史実の有無如何に関せず、義経の人物性行の一面を遺憾なく物語るもので、伝説的粉飾を剥ぎ去ったならば、これに近い事実も全く無かったと誰が保証し得よう。この敵前の曲芸的行動が、少しも滑稽的意味を附加せられずに、寧ろ敬意を払われて長く国民の間に大喝采を博し、同じくこの地この日この時の出来事とせられるかの扇の的の華やかに勇ましい物語と相並んで、『平家物語』を飾るのは宜なりと謂うべきである。

成長・影響】『興廃記』(巻九)の弓流しに、附帯挿話として、前に述べた宗行・盛嗣の錣引と、三保谷・景清の錣引と両説話を結びつけて、『盛衰記』の小林新五の役を三保谷十郎に勤めさせているのと、浮世草子の『風流西海硯』(五之巻)に、遊女勝浦から貰った小指を入れた服紗包を海に落す「指流し」ともじったことを挙げる外、特に記す程のことは無い。

文学】『平家物語』(巻一一)、『源平盛衰記』(巻四二)、謡曲『八島』『熊手判官』、『義経興廃記』(巻九)『義経勲功記』(巻一〇)、及び戯曲『那須与市西海硯』(五段目)、『弓勢智勇湊』(四段目、春霞八島の磯)等が主なものである。読本浄瑠璃に『源氏の弓流平家の矢合船軍凱陣兜』という作もある。その他一代記風の義経物に採っているのもある。

(ろ)八艘飛伝説

続いて、八島の弓流と好対照をなす壇の浦の八艘飛伝説を次に考察してみようと思う。「八艘飛」は実は無論「八艘跳」なのであるが、これ亦無造作に書き慣らされて来た「飛躍」の「飛」の字の方が、寧ろ理屈無しに、ぴたりと落ち着くのである。実際又本伝説に於ける義経の捷業は、飛躍の度を越えて飛翔の類に近いものと言ってよい。

内容

人物 源義経。能登守平教経
年代 元暦二年三月二十四日(『盛衰記』『平家物語』)(『吾妻鏡』同上)
場所 長門国壇の浦
壇の浦の海戦に一門滅亡の時、平軍の勇将能登守教経は、最後の思出に敵の大将義経を手捕りにしてと、頻りに目を懸けて走り廻るうち、礑と出逢ったので、得たりと組み留めようとすると、義経は小長刀を小脇に掻込んだまま、一躍二丈ばかり彼方の兵船に跳び移った。続いて跳び乗った教経が従って追い入れば従って跳び遁れ、次々と船八艘を追い廻ったが終に捕らえることが出来ず、唖然として九郎の後を見送る教経を、数多の源氏の兵が押隔て、遙に遠く逸し去った無念さに、今は斯うと思い切った能登守は、三十人力を誇る安芸太郎兄弟の組みつくのを左右に挟みながら海に沈んで壮烈な最期を遂げた。

但し『平家』『盛衰記』等に見えるのはなお所謂八艘飛ではない。完全に八艘を飛ぶに至ったのは後の発達で、伝説としての完成した形は無論この所謂八艘飛となってからであるけれども、跳躍の回数を除いては、説話の形貌はその原話に於いて既に全く整っている。

出処】未完の原形は『平家物語』(巻一一、能登殿最期)、『長門本平家』(巻一八、大臣殿父子被生虜給事)、『源平盛衰記』(巻四三、二位禅尼入海井平家亡虜人々)等に載せられている。完形所載の最初の文献は未詳。

型式・成分・性質】特殊な型式という程ではないが、先ず競勇型勇者譚の闘戦型の説話と見てよい。一種の技競説話とも言えるし、又完形の八回八艘飛は九十九モーティフに類するモーティフを含む追跡説話と観ることも出来る。そして両勇者、特に義経は著しく、神人的性格を帯ばしめられ、且完成した八艘飛伝説にあっては甚だしく童話的な説話となっている。即ち史実的成分を骨子とするが、神話的(童話的)成分と空想的(仮構的)成分とによって潤色せられている史譚的武勇伝説である。

本拠】明確な史実は無い。但し、完成した所謂八艘飛は、『平家』『盛衰記』の原話を本としてそれから成長して来ていることは明白である。『盛衰記』の文を下に引いてみる。

判官の船と能登守の船と、すり合わせて通りけり。能登守可然(しかるべし)とて、判官の船に乗り移り、甲(かぶと)をば脱ぎ棄て、大童になり、鎧の草摺ちぎり捨て、軽々と身を認(したた)めて、いづれ九郎ならんと馳せ廻る。判官かねて存知して兎角違うて組まじ組まじと紛れ行く。さすが大将軍と覚えて、鎧に小長刀突いて武者一人あり。能登守懸目(めをかけ)て、軍将義経と見るは癖事欠。故太政入道の弟、門脇中納言教盛の二男に、能登守教経と名乗り、にこと笑い飛懸る。判官は組んでは不叶(かなわじ)と思いて、尻足踏んでぞやすらひける。大将軍を組ませじとて、郎等共が立隔て立隔てしけれ共、除け奴原人々しきとて、海の中へ蹴入れ取入れつと寄る。既に判官に組まんとしければ、判官早態人に勝れたり、小長刀を脇に挟み、さしくぐりて弓長二つばかりなる、隣の船へつと飛移り、長刀取直して、舷に莞爾(にっこ)と笑って立ちたり。能登守は力こそ勝れたりけれ共、早態は判官に及ばねば、力なくして船に留まり、ああ飛んだり飛んだりと嘆(ほ)む。


これは唯なお一艘飛だけである。『平家』の流布本も大体同様で「御方の船の二丈許りのきたりけるに、ゆらりと飛乗り給いぬ」とある。それが『長門本』には

能登殿と判官と寄せ合わする事二度ありけり。(中略)能登守、判官と見てければ、則ち乗移り給いて、艫より舳までぞ追掛け給う。既に討たれぬと見えけるに、判官長刀脇にかいばさみて、そばなる船の八尺余り一丈ばかりのきたるに、ゆらと飛び給う。能登守早わざや劣り給いけん、続いて飛び給わず。かかること二度ありけり。
とあって、二回とはしてあるが、二艘飛でも亦八艘飛でもない。謡曲の曲舞『先帝』(『蘭曲集』)でも、
いざや組まんというままに、打物捨てて、飛んで懸れば、しさって払うさそくに、遙なる味方の舟に、つんと飛び乗れば、早業劣りの悲しさは、続いても飛ばればこそ、せん方なくてそのまま舟に教経は、腹立ち叱って、をめき叫んで坐し給う。
とある一艘飛である。その他、『盛長私記』(巻二一)及び『勲功記』(巻一〇)には、教経の代りに越中次郎兵衛盛嗣としてあるけれども、これも八艘飛ではない。併し「兎角違うて、組まじ組まじ(組まじまじ?)と粉れ行く」とか、「かかる事二度ありけり」とかいう叙述に、所謂完形への進展が暗示せられている。なお〔成長〕の項でも重ねて論述したい。

解釈】義経の軽捷と機敏とを示すものである。そして特に説明はないが、鞍馬天狗伝説に於いて大天狗から授けられた兵法を、実際戦場に於いて役立たしめた所以のもので、二丈ばかりの間を、何の苦もなく飛び越える放れ業は、流石に天狗の直弟子たるに恥じないものがある。同時に前伝説と共に、義経が武運めでたき名将であることを、一種の誇――そしてこれは能登守に対しては一種の愚弄侮蔑の念である――を以て力説している。敵手が平軍第一の大勇士であるに於いて、愈々この感を深からしめる。曲芸的の弓流と軽業式の八艘飛とは、観衆をして固唾を嚥み、手に汗を握らせながら、嘆賞と満足との結末に導く点に至っては一である。敵手の教経まで扇の的と同様我を忘れて喝采を吝(おし)まぬのは、益々本伝説の童話味を増している。

成長・影響】既に説いた如く、『平家』『盛衰記』の原説話のままで既に殆ど輪廓は出来ていて、それが一層誇張せられて、所謂八艘飛の完形にまで成長した――但し成長したと言っても、それは飛躍した船数の上だけで、説話の筋立には殆ど大きな改変は蒙らない。つまり両書の唯一回の事件を船数に於いて乃至は反復に於いて示し、特に最後の八回目の場合に置き換えたと言うに止まるような形になっているに過ぎない――のであるが、何時頃から所謂八艘飛となったかは明らかでない。もとよりその時期の不明であるだけ、即ち何時とはなしに八艘飛となって行っただけ、愈々伝説的意義は大きいと言えるが、要するに一艘を飛び越えさせるだけでは飽き足らず、更に多くを「飛」ばせようとして、我が国に於いては常に多数の意に用いられる数字を以て、その跳躍の回数とするに至ったものであろう。「八艘飛」の語が出来たのは室町末か(併し室町期の物には未だ所見が無い)或は恐らく江戸時代に入って後のことではあるまいか。慶長以後寛永以前の作とせられている『尤の草子』の「飛ぶ物のしなじな」の中に本伝説を挙げてあるが、飛移った船の間隔が「三丈ばかり」に進展しているだけで、やはり八艘飛では無い。が、少なくとも江戸時代の中期までには既に完成流布していたと見えて、享保十九年八月豊竹座上演の並木宗助作『那須与市西海硯』に

八島の浦にて義経の、八艘飛とはこれとかや。
又、延享四年十一月竹本座上演の出雲作『義経千本櫻』に
八島の戦義経を組み止めんとせし所、船八艘を飛越え、味方の船へ引きたるは、計略の底を探らん為、
とあり、以後の一代記風の義経物、特に絵本には八艘飛のことを載せぬものは殆ど無いようになった。唯その八艘飛という意味について、解釈がまちまちで、普通には跳躍を重ねた船の数、即ち跳躍を試みた度数を八つとする、つまり義経は九艘目まで飛んだが、教経は八艘目までで終わったという形で語られているのであるが――少年時代に我々の聴いたのはこれであった――、これはじつは更に進展した後の姿らしく、八艘飛伝説となってからでも、その初期には八回八艘飛ではなくて一回八艘飛であったようである。前に引いた『西海硯』は、教経ではなく盛次であるが、
六艘隔てて味方の船へ飛越して、ついでに盛次此処まで来たれと、にっこと笑い立ったる有様、八島の浦にて義経の……
として前文に続いている。『千本櫻』の方は教経で、これも「船八艘を飛越え、味方の船へ引きたるは」という叙述が、明確さを欠くがやはり一回飛と解するが妥当かと思われ、降って天保七年の合巻『源平武者鑑』(下巻)でも
八しまだんのうらのたたかいに、平けの大せうえつ中の次郎びゃうえもりつぐ、よしつねとくまんとす。よしつねここんのはやわざにて、ふねを八そうとびこえて、みかたのふねへうつりたまう。
と、盛次と代っているだけで同様の記述である。然らばこの一回八艘飛は「二丈ばかり」という距離を並んだ船の数で表したに過ぎないので、全然原説話と同じであり、斯うして八艘飛の語が出来それからそれに就いて八回八艘飛の新解釈が生じて、その解釈に順応した説話の進展をも見たのであろう(これを暗示助成した分子が原説話に既存することは〔内容〕の項に指摘して置いた)。成長過程としてもそれが最も自然である。

更に是非此処で考えて置かねばならぬのは、既に屡々試みた多くの引例によって明らかであるように、本伝説の一対手たる教経を、盛嗣に代える系統のものも、少なからざる勢力のあることに関して起る疑問である。そしてこれには又壇の浦で勇戦した教経は、真の教経ではないとする説の一類のあることも関連している。即ち以上の異説が起って来るのには、教経一の谷戦死の真否如何という事にその主因が存するのである。『吾妻鏡』(巻三、寿永三年二月)は

十三日壬申。平氏首聚于源九郎主六條室町亭。所謂通盛卿・忠度・経正・教経・敦盛・知章・経俊・業盛・盛俊等首也。(下略)
十五日甲戌。辰刻、蒲冠者範頼・源九郎義経等飛脚、自摂津国、参著鎌倉、献合戦記録。其趣、去七日於一谷合戦、平家多以殞命。前内府宗盛巳下、浮海上赴四国方。本三位中将、生虜之。又通盛卿・忠度朝臣・経俊巳上三人蒲冠者討取之・経正・師盛・教経巳上三人、遠江守義定討取之・敦盛・知章・業盛・盛俊巳上四人義経討取之。此外梟首者一千余人。凡武蔵・相模・下野等軍士、各所竭大功也。追可註記言上云々。
と明らかに両所に列記した平将の、戦死者中に教経を数えている。そして壇の浦戦死の平将の中にはその名が見えない。然るに一方に於いて『平家』『盛衰記』は、屋島で継信を射、壇の浦で判官を遂うた教経の勇戦を記している。是が疑問を生み、異説を生ぜしめる因由で、『吾妻鏡』を正しとして、両軍記の記事を否定するものは、壇の浦で義経を捕らえようとしたのは、身分こそ能登殿に及ばざれ、同じく平軍中の大勇士である越中次郎兵衛盛嗣であるとなし(『盛長私記』『勲功記』、その他この系統を引いているもの)、両説共に正しとして、その間に何等かの解釈を試みようとするものは、一は一の谷に教経が戦死したと伝えるのは雁首を以て味方を励ます為の義経の計ではないかとし(『義経興廃記』巻七)、他は教経が実は一の谷に陣歿したのを、戦死と披露しては味方の勇気の沮むことを惧れ、他の勇士を教経と名告らせて置いたのが、壇の浦に勇戦した能登守であるとして、之を平家方の謀計に帰している。

そして後説では、その替玉の人物に就いて又異説がある。『鎌倉実記』(巻一三)『千本櫻』『弓勢智勇湊』等には教経の郎党讃岐六郎経時(但し『智勇湊』には七郎義範)とし、『義経勲功記』(巻九)には教経同腹の弟紀の小次郎景望という者とし(但し『勲功記』では前述の如く義経を遂うたのは盛継であったとしてある)、『須磨内裏■(子+子+勇)弓(ふたご)勢』には双生児の弟熊野次郎という名になって居り、更に『那須与市西海硯』では例の弥平兵衛宗清としたのは奇抜である――尤もこれは明白に仮作の構案であるが。又太田道灌の随筆かと言われる『我宿草』にはこの時身替に討死したのが教経の乳夫長沼十郎であったとの説を掲げてある。要するに『吾妻鏡』の記事と『盛衰記』等の記事とが一致しない所から、この替玉の伝説が生じ、その替玉が又数説を生んだものであろう。且この教経の生死に疑がある為――壇の浦では替玉を用いて敵を欺いたと解し――彼を生存せしめて再挙させるに都合が良いので、『千本櫻』には横川禅師覚範と変身し、『智勇湊』は之を襲って海賊玄海灘右衛門と仮称せしめられるに至った。そして又半ばはこの伝説に助を借り、半ばは勇士を生脱させようとする国民の同情と好奇心とからして、『千本櫻』では新中納言知盛までも壇の浦に死せずして、大物の浦の船宿の主渡海屋銀平と呼ばれる人物となって、密に源氏に報復しようと計る平家の残党の意志を具体化せしめられることとなっている。教経の灘右衛門の如きは、近松の『博多小女郎浪枕』の毛剃九右衛門(実名は八右衛門)を摸すると共に、そのモデルを、この銀平にも求めたと看るが至当であろう。

なお又、教経に代えるに盛嗣を以てする伝説の派生して来た因由は――教経戦歿を肯定する立場からであるは言うまでもないが、何故に特に盛嗣と伝えられて来るようになったかは、『平家』(巻一一、遠矢)の壇の浦海戦直前、新中納言知盛の指揮下に、平家方の諸勇士が競い勇む條に、

上総悪七兵衛進み出でて、それ坂東武者は、馬の上にてこそ口はきき候とも、船軍をばいつ調練し候べき。譬えば魚の木に上つたるでこそ候はんずらめ。一々に取って海に漬けなんものをとぞ申しける。越中次郎兵衛進み出でて、同じうは大将の源九郎と組合い給え。九郎は背の小さき男の、色の白かんなるが、当門歯(むかば)の少し差出でて、特に著(しる)かんなるぞ。但し鎧直垂を常に著替うなれば、きっと見分け難かりなんとぞ申しける。悪七兵衛重ねて、何條その小冠者め、縦い心こそ猛くとも、何程の事かあるべき。しや片脇に挟んで、海に入れなんものをとぞ申しける。
とあるによって説明し得られるであろう。景清としても寧ろ進展すべき可能性が約束せられてあるように見えるが、『盛衰記』(巻四三)によると、義経を組み伏せようとの素志から、特に「縁に付いて」その容貌扮装をまで内偵して置くほどの用意ある盛嗣の方に、やはり転移が容易で滑らかであったのであろう。景清の重ねての大言も、『盛衰記』の方では「人々口々に」となっていて、景清への転移力は余程薄くなってもいる。

次に注意すべきことは、場所の変移、寧ろ混同である。前に引用した『西海硯』には、「八島の浦」、『千本櫻』には「八島の戦」と記し、『武者鑑』には「八しまだんのうらのたたかい」と、屋島と壇の浦との戦を同時同所のようにしてしまっている。これは有名な両所の戦を、俗に屋島・壇の浦と続けて呼び慣わした為、終に混同するに至り、それから八艘飛も壇の浦から屋島に移ったものであろうが、屋島附近にも亦壇の浦という地名があったのであろうと『大日本地名辞書』に考証してある。但し本伝説は長門壇の浦でのことであった(『平家』『盛衰記』)のが、上述のように、屋島に移って来たので、つまり伝説の遊行である。又八島は、屋島の誤であるが、久しく八島とも記されて来ている。
 

文学】完成しない以前のものとしては『平家物語』(巻一一)、『盛衰記』(巻四三)、『義経勲功記』(巻一〇)、『金平本義経記』(三之巻四段目)等があり、又曲舞に『先帝』がある(尤もこれは安徳天皇御入水が主題ではあるが)。八艘飛となってからのものには、これを主題とした文学作品として主なものは無い。僅に『那須与市西海硯』(五段目)、黒本『壇浦二人教経』等に作られているくらいのものである。但し一代記風の義経物及び絵本等には、大抵載せられていて、甚だ人口に■(ロ+會)炙している。

義経は八艘飛んでべかこをし
という川柳に、童話的な形で本伝説が民衆に親しまれている姿が最も面白く映っている。又「驕る平家久しからず」を「踊る平家久しからず」ともじって落ちにした落語『源平盛衰記』は本伝説を転化させて、義経を捕えようとした教経が浮かれ出したので、平家が滅んだのだと洒落れてある。

(一〇)逆櫓論伝説及び腰越状伝説附含状伝説と弁慶状

一の谷に屋島に、又壇の浦に、連戦連勝忽ちにして平家討滅の大功を遂げ、年来の志望を果たした判官義経の、武勲赫かしい得意時代は僅かに二年にだも如かずして終わった。逆落に奇捷を収めた稀代の戦略家、弓流・八艘飛に武運のめでたかった名将も一朝にして失脚の悲運に遭遇せねばならなかったのは、皮肉にも余りにあっけないことであった。而もそれは、その常勝の栄誉に萬人を羨望せしめた得意の絶頂に立っている時なのであった。そしてその悲運の胚胎は既に平家討伐の陣中に於いてであり、華々しい戦功時代にあったのであった。結果から言えば、義経が平家覆滅の日次を急いだのは、却って己が蹉跌の時を速く所以であるのを知らなかったのである。第二の平家たるべき、憐むべき武家政治の犠牲は、先ず目前の狡兎を斃さしめた後、やがて烹られる走狗であったのを自ら悟らなかったのである。史上の義経もそうであったろうが(尤も、殊に存念が有るとて戦死を望んだのは、この機微を感じ得ていたのでもあるようであるが)、少なくとも伝説の義経は実に斯くの如き憐むべき英雄であったのである。即ちこの失意時代を導き出した主要な動因と目せらるべき、梶原讒訴の来由を説明する逆櫓論伝説に就いて述べねばならぬ順序となった。
 

(い)逆櫓論伝説

内容

人物 源義経。梶原平三景時。(及びその他)
年代 元暦二年二月十六日(『平家物語』)(『盛衰記』では十五日らしく読まれる)
場所 摂津国渡辺(『平家』)(『盛衰記』には摂津国大物浦)
屋島の平軍を襲う為、四国へ渡ろうと、義経が軍議を開いた席で、梶原景時は逆櫓の計を献じた。即ち船の舳(へさき)にも艫へ向けた櫓を立てて、進む時は艫の櫓を以てし、退く時はこの舳の逆櫓を用い、駈引自在の法であると説明する。判官は聞くより、左様にかねて逃支度して軍に勝つべきかと嘲るのを、
大将軍の謀のよしと申すは、身を全うして敵を亡ぼす。前後をかえりみず、向う敵ばかりを打取らんとて、鐘を知らぬをば、猪武者とてあぶなき事にて候。君はなお若気にて斯様には仰せらるるにこそ。(『盛衰記』巻四一)
と憚らず申し放った景時が詞に、
判官少し色損じて、不知とよ。猪鹿は知らず、義経は只敵に打勝ちたるぞ心地はよき。軍と云うは家を出でし日より敵に組んで死なんとこそ存ずる事なれ。身を全うせん、命を死なじと思わんには、本より軍場に出でぬには不如。敵に組んで死するは武者の本也。命を惜しみて逃ぐるは人ならず。されば和殿が大将軍承りたらん時は、逃儲けして百挺千挺の逆櫓をも立て給え。義経が舟にはいまいましければ、逆櫓と云う事、聞くとも聞かじ。(同)
と叱責して、衆人環視の中で赤面させ、猶怒りをさまらぬ若大将の
抑も景時が義経を向う様に、猪に喩うる條こそ奇怪なれ。若党ども景時取って引落せ。(同)
と下知の下、伊勢・片岡・武蔵坊等一度に立ちかかるのを景時は見て、
軍の談議に兵共が所存を述ぶるは常の習、よき義には同じ、悪しきをば棄て、如何にも身を全うして平家を亡ぼすべき謀を申す景時に、恥を与えんと宣えば、却って殿は、鎌倉殿の御為には不忠の人や、但し年比は主は一人、今日又主の出で来ける不思議さよ。(同)
と、矢をさしくはせて判官に向い、子息景季・景高・景茂等も続いて進む。判官も赫となって太刀を取り、あわや事の起ろうと見えたのを、三浦・畠山・土肥の宿将等双方を宥めて漸く鎮めた。併し景時は判官の下に属くことを快しとせず、引分れて範頼の手に赴いた。そしてこの逆櫓の意趣を結んで、梶原は甘言を以て頼朝に讒を構えた。義経の悲境はこうしてここに兆し初めるのである。

出処】『平家物語』(巻一一、逆櫓)、同(劔巻)、『盛衰記』(巻四一、梶原逆櫓)等。

型式・成分・性質】特殊の型式のものではない。戦争説話の挿話的一談柄である。史実的成分が殆ど全部を占め、空想的成分も幾分加わってはいるが、神話的成分は消失している。史譚的武勇伝説。

本拠】『盛衰記』の同條の外明確な史実は無い。『吾妻鏡』(巻四、元暦二年二月十八日の條)には、その前日義経が風波を冒して渡辺から渡海し、阿波に上陸して平将桜庭介良遠を攻めたことを記しているのみである。即ち逆櫓論はこの渡海前の出来事なのである。『平家物語』(巻一一、壇の浦合戦)には別に義経と景時との先陣争の事が見え、逆櫓と先陣争とが異なっているだけで、その條の方が筋も詞章も寧ろ『盛衰記』の逆櫓論の條に殆ど近似している。詳しく言えば『平家』では逆櫓論の際は、あわや同士軍しそうに見えて讒に事無きを得たが、壇の浦の先陣争で終に両者の衝突を見、三浦・土肥等の調停で穏便に済んだとし、そして『盛衰記』には先陣争の事は載せていない。実際に斯様な類似の事件が両度あったのか、又はその両度が一つに混ぜられて『盛衰記』の逆櫓論となったのか、逆に一回の事件が二様に両度の事として伝えられているのか、或は又互にその何れかが本の事実で、他はそれの変容であるのか、若しくは両説共仮構の物語であるのか、遽には定め難い。併し軍陣評議の際、そういうことは有りがちの事であろうし、又史上に於ける義経の人物と梶原の性行とに照して考えても、到底相容れる両人ではない。何等かの事に、或いは事毎にさえ、衝突したであろうとは略々想像し得られる。景時が陣中から頼朝に上った書状の文も、この推測に大きな助けを与える。事実は措いて、伝説上では類似の事件が両度あっても支障は無い。

先陣争の如きは当時常に有りがちの事である。宇治川先陣(『平家』巻九、『盛衰記』巻三五)や熊谷・平山の一二の懸(『平家』巻九、『盛』巻三七)は余りに有名である。平家方の越中次郎兵衛と海老次郎(『盛』には江見太郎守方)が先陣を争って、戦機を逸した事も『平家』(巻一一)、『盛衰記』(巻四二)に見えるが、明確な史料にも、『吾妻鏡』(巻三)の寿永三年二月一日庚申の條に

蒲冠者範頼主蒙御気色。是去年冬、為征木曽上洛之時、於尾張国墨俣渡、依相争先陣、与御家人等闘乱之故也。其事今日巳聞食之間、朝敵追討以前、好私合戦、太不穏便之由、被仰云々。
と、範頼が先陣争によって頼朝から咎を蒙ったことを記録している。逆櫓論乃至先陣争の如き恐らくそれに類する事件があったことは事実に近いであろう。特に頼朝の代官たる俄主将と、戦闘の主体を以て自ら任ずる鎌倉の御家人との間が、動もすれば円滑を欠くことがあったであろうことは、是亦想見し難くはない。右の記事によっても御家人に恩を示して彼等を統轄することに苦心した頼朝には、親の心子知らぬ斯うした争が甚だ苦々しい事に感じられたであろうし、義経・梶原の逆櫓論乃至先陣争は、梶原の和讒が無くても頼朝の好まぬ所たるや明白である。

結局、逆櫓論と先陣争は二にして一、いづれが本にせよ、逆櫓論を以て代表せしめられて不都合無きものであろう。少なくとも『平家』の記述は『盛衰記』のを二回に分割したかの観がある。若しその逆が真ならば『盛衰記』の縮約の手際が讃えられてもよいであろう。

解釈】得意時代の義経の将帥振りを語っているけれども、其処には失意時代の暗影が早くも差している。景時を稠座の中で嘲って、我は顔をする狡獪爺に恥辱を与え、独り自ら快しとする満足は余りに刹那的であり過ぎた。既に言及した如く伝説上の景時は、実にこの遺恨に対して、讒言の武器を以て痛烈に残酷に判官に報復したのであった。史上の義経は素より兄に容れられなかった事は、左衛門少尉に任官した旨を鎌倉に報じた際、その潜越さを頼朝が忿った由を『吾妻鏡』(巻三、元暦元年八月十七日)に「此事頗違武衛御気色」と記し、而も「凡被背御意事不限今度歟」とも書き添えてあるのでも知れる。又、讒言を俟たずして範頼も先陣争の戒飭を受ける程であるから、影時の激発無くとも、平穏には済まなかったに違いないであろうけれども、ましてや御気に入りの平三が侫弁を弄するのであるから、その結果は想察に余りがある。史実もそうであったかと思われるが、少なくとも伝説に於いての判官の以後の運命は、実にこの争論によって不意に一大鉄槌を下され、兄頼朝との親愛の覊は、この瞬間に景時の心中に深く根ざした怨恨の刃によって、永久に断たれてしまったのである(『平家物語』『盛衰記』『義経記』巻四、舞曲『腰越』等)。この意味に於いて、本伝説は義経の失脚不遇の因由を語る絶対唯一の重要な伝説であると言ってよい。

そしてこの伝説で我等は一層端的に赤裸の義経に接し得る。負け嫌いで人もなげな振舞、性急、短慮、その人物を好まず、その意見を不可と認めれば、兄から附けられた監軍であれ、鎌倉殿の愛顧を恣にする御家人であれ、自らの臣従と択ぶこと無く、又戦術にかけては人に譲らぬ不抜の自信、あらゆるものを己に随わしめねば巳まぬ強い意思、進むを知って退くを欲せぬ猛勇、仮令それは大度謙譲の徳に於いて欠け、敵を知り己を量る萬全の策としては慊(あきた)らない所があって、完全な将器を以ては許し難いとする評者もあろう(『理斉随筆』巻一、『そしり草』)が、而も彼義経は、渾身英気に溢れる青年英雄である。進取は彼の生魂であり、突破が彼の旗幟である。是が為には一身を犠牲に供しても敢えて吝まないのである。鴨越の逆落も、渡辺の渡海も、畢竟逆櫓に反対した彼の意思の具現に外ならぬ。猪武者と喚ばば喚べ。虎穴に入らずんば虎児は獲難い。「進め!」唯「進め!」是が彼の軍法の奥義で、彼の戦捷の秘訣だったのである。そしてこれこそ実は敵を知り己を量る彼の神算の結論だったのである。

なお本伝説は、前に一言したように、平家追討の頼朝の代官と、これに附けられた鎌倉の御家人との間の事情を語る史的意義をも含むものとしても興味ある説話である。

成長・影響】近松の『最明寺殿百人上臘』(初段)の式部冠者時定征伐の評定に、本伝説の趣向が応用され、又「逆櫓松」の角書まで添えられてある『ひらがな盛衰記』(三段目)には、亡君の怨を報いようと計る木曽義仲の遺臣樋口次郎兼光が、船頭権四郎の入婿となり、逆櫓に熟練している由を申立てて義経の乗船を覆そうと企て、看破せられて虜となることに作ってある。所謂「逆櫓の段」で義太夫にも歌舞伎にも著名である。又、浮世草子では、例によって遊廓化している。即ち戯曲『那須与市西海硯』から出た『風流西海硯』(二之巻)には、「逆櫓」は「酒論」と変わって、義経と景時とが遊女勝浦を争い、『花実義経記』(六之巻)には愈々変容して、同様に「静という遊女の買論」となってしまった。

なお判官が逆櫓の策を用いなかったことについて、余りに計を好む将たる器に似ないとしてか、『盛長私記』(巻一九)の如きは次のような笑止な蛇足的説明すら加えるに至った。

凡逆櫓の謀は能術也。然るに義経角悪き様に宜しことは、梶原奸曲にして、知盛水島軍の時仕出し玉ふたる逆櫓を、己が工夫と申なす其偽飾りし■(女+女+女+干)き心根を悪みて、初の如く会釈し玉ひしかども、義経の乗船に兼て皆逆櫓を用意して舟底に入置れしとなり。
これでは全く引倒された「判官贔屓」という態である。
 

文学】『平家物語』(巻一一)、『源平盛衰記』(巻四一)、『義経興廃記』(巻八)、『義経勲功記』(巻八)、『金平本義経記』(三之巻二段目)、(〔補〕『新板腰越状』(二段目))、『那須与市西海硯』(初段)等を主なものとする。謡曲の廃曲にも『逆櫓』の名が見え、山陽の『日本楽府』中にも「逆櫓」と題した詠が収めてある。ついでに、渡海後櫻庭を攻めたことを作った謡曲に『桜間』がある。

(ろ)腰越状伝説附含状伝説と弁慶状

次に右の伝説が直接に基因となって覿面に誘起せられた悲劇「判官劇」の前奏曲ともいうべき腰越状伝説に移ろう。これは失意時代の第一齣とするが妥当であろうが、前伝説と密接の連繋があり、得意時代の終局をも意味するものであるから、便宜併せてここで取扱ってみようと思うのである。

内容

人物 源義経(及び武蔵坊弁慶)。源頼朝(及び大江廣元・梶原景時)
年代 元暦二年六月五日(『平家物語』『義経記』舞曲『腰越』)(『吾妻鏡』には元暦二年五
   月二十四日)
場所 相模国腰越(『腰越』には酒勾)


平家討滅の大功をめでたく畢えた義経が、虜人内大臣平宗盛父子等を護送して鎌倉に凱陣し、舎兄の足下に復命して感賞に与らうと期待したに反し、頼朝は逆櫓の論争に含む梶原の讒を信じて異心あるかと疑い、義経の使者(舞曲『腰越』には伊勢三郎としてある)がその参著の報を齎(もたら)すと斉しく、急に人を遣して(『平家』には梶原父子、『腰越』には土肥次郎実平としてある)、内府父子だけを受取らせ、義経をば腰越(舞曲には酒勾駅としてある)に拒んで鎌倉へ入るを停めたのであった(『平家』には金洗澤に関を据えて、義経を腰越へ遂い返すとしてある)。余りの意外さに義経の驚愁一方ならず、必定影時の讒に因するものと、野心を挟まぬ旨の起請文を幾度も上ったけれども、頼朝の心は解けようともせぬ。よって重ねて一通の款状を認め、大江廣元に頼って寃を訴えた(『腰越』にはその執筆者を武蔵坊弁慶としてある)。世に腰越の申状とも、腰越の款状とも、亦単に腰越状とも称える有名な陳状は即ちこれで、言々悉く熱、句々皆血、義経の心情を披瀝し得て遺憾ない名文字であった。が、かくても頼朝は猶聴かず、義経は遂に血涙を呑み、時運を嘆じて京へ還るの巳む無きに至った。

出処】『平家物語』(巻一一、腰越)、同(劔巻)、『義経記』(巻四、腰越の申状の事)、舞
曲『腰越』同『劔讃歎』等。

型式・成分・性質】特殊の型式のものではない。且多少の伝説化はもとより営まれてい
るが、伝説的と言うよりは、猶史話的領域を出ていないもので、殆ど全部史実的成分から成り、空想的成分はその輪廓をなしているのみである。神話的成分は無い。従って勿論史譚的説話である。

本拠】明らかな史実がある。『吾妻鏡』(巻四、元暦二年五月)に

十五日丁酉。廷尉使者景光参著。相具前内府父子、令参内云。去七日出京、今夜欲著酒勾駅。明日可入鎌倉之由申之。北條殿為御使、令向酒勾宿給。是為迎取前内府也。被相具武者所宗親・工藤小次郎行光等云々。於廷尉者、無左右不可参鎌倉。暫逗留其辺、可随召之由、被仰遣云々。小山七郎朝光為使節云々。
廿四日戌午。源廷尉義経、如思平朝敵訖。剰相具前内府、参上。其賞兼不疑之処、日来依有不義之聞、忽蒙御気色、不被入鎌倉中。於腰越駅徒渉日之間、愁鬱之余、付因幡前司廣元、奉一通欸状。廣元雖披覧之、敢無分明仰。追可有左右之由。云々。
彼書云。
左衛門少尉源義経、乍恐申上候意趣者、被撰御代官其一、為勅宣之御使、傾朝敵、頸累代弓箭之芸、雪会稽恥辱。可被抽賞之処、思外依虎口讒言、彼黙止莫大之勲功。義経無犯而蒙咎。有功雖無誤、蒙御勘気之間、空沈紅涙。倩案事意、良薬苦口、忠言逆耳、先言也。因茲、不被糺讒者実否、不被入鎌倉中之間、不能述素意、徒送数日。当于此時、永不奉拝恩顔、骨肉同胞之儀既似空。宿運之極処歟。将又感先世之業因歟。悲哉、此條、故亡父尊霊不再誕給者、誰人申披愚意之悲歎、何輩垂哀憐哉。事新申状、雖似述懐、義経受身体髪膚於父母、不経幾時節、故頭殿御他界之間、成孤、被抱母之懐中、赴大和国宇多郡龍門牧以来、一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命、京都之経廻難治之間、令流行諸国、隠身於在々所々、為棲辺土遠国、被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而、為平家一族追討、令上洛之手合、誅戮木曽義仲之後、為責傾平氏。或時峨々巖石策駿馬、不顧為敵亡命、或時漫々大海、凌風波之難、不痛沈身於海底、懸骸於鯨鯢之腮。加之為甲冑於枕、為弓箭於業本意、併奉休亡魂憤。欲遂年来宿望之重職、何事如之哉。雖然今愁深歎切。自悲仏神御助之外者、争達愁訴。因茲以諸神諸社牛王宝印之裏、不挿野心之旨、奉請驚日本国中大小神祇冥道、雖書進数通起請文、猶以無御宥免。我国神国也。神不可稟非礼。所憑非于他、偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜、令達高聞、被廻秘計、被優無誤之旨、預芳免者、及積善之余慶於家門、永伝栄花於子孫、仍開年来之愁眉、得一期之安寧。不書尽愚詞、併令省略候畢。欲被垂賢察。義経恐惶謹言。
  元暦二年五月  日      左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿
と見える。伝説に於いては、義経の使者堀弥太郎景光が、伊勢三郎義盛と変わり、内大臣受取の役北條時政が、土肥実平乃至梶原父子と変わっているだけである。腰越状の文詞も、『平家物語』『義経記』『吾妻鏡』等大略同じであるが、『平家』と『義経記』とは特に近似し、それらと『吾妻鏡』とは小異がある(〔補〕『義経物語』所載のは流布本『義経記』よりも『吾妻鏡』に近い)。そして『吾妻鏡』のと『長門本平家』のとは漢文で、他は仮名交り文である。舞曲『腰越』のも大体これらに一致しているが、唯普通の申状の末文に、今度の事を按ずるに、全く梶原の讒に因るものであろうとして、斯様の奸臣は須らく遠島せらるべきであるとの意味の語句が添加せられている。又『盛衰記』だけは腰越状を載せないのみか、本伝説は見えずして、却って頼朝が義経を引見したが打解けなかった(巻四五)と記し、『長門本平家』(巻一八)には一旦対面した後、更に、追返したので申状を上るとしてある。

なお舞曲『腰越』にこの申状は弁慶の執筆に係るとしてあるのは、そういう伝説が成形していたのでもあろうが、
 

それそれ武蔵と仰せければ、弁慶承って、墨磨り流し筆に染め、草案までもなくし、唯一筆にぞ書きたりける。
という詞句を通しても、恐らく『平家』(巻七、木曽願書)、『盛衰記』(巻二九、新八幡願書)に名高く、同じ舞曲『木曽願書』にも題材とせられている大夫房覚明の逸話が、その伝説の本拠、少なくともその表現の粉本であろうことは想測できる。『盛衰記』の
覚明馬より下り、木曽が前に跪いて、箙の中より矢立取出し、墨和筆染、畳紙押開いて、古き物を写すが如く、案にも及ばす書之。
という文が特にそれを証示している。

『吾妻鏡』には更に同巻、六月の條に

九日庚申。廷尉、此間逗留酒勾辺。今日相具前内府帰洛。二品(頼朝)差橘馬允・浅羽庄司・宇佐美平次巳下壮士等、被相副囚人矣。廷尉日来所存者、令参向関東者、征平氏間事、具預芳問、又被賞大功、可達本望歟之由、思儲之処、忽以相違、剰不遂拝謁而空帰洛。其恨巳深於古恨云々。
十三日甲子。所被分宛于廷尉之平家没官領二十四箇所、悉以被改之。因幡前司廣元・筑後守俊兼等奉行之。凡謂廷尉勲功者、非二品御代官、不被差副御家人等者、以何神変、独可退凶徒哉。而偏為一身大功之由、廷尉自称。剰今度及帰洛之期、於関東成怨之輩者、可属義経之旨吐詞。縦雖令違背予、争不憚後聞乎。所存之企、太奇怪之由、忿怒給。仍如此云々。
と記されている。義経の所期を裏切った頼朝の処置は、前掲腰越状の陳訴と併読してその真相が伝説と余り距っていなかったことを知るのである。義経の独力では討平の業績を挙げ得なかったであろうと信じる頼朝の想念も、全くの誤ではないであろうが、頼朝の威勢の背景無くばとおだて上げ、御家人が差副へられずばと強調せられている所に、梶原等の活躍の介在が十分に看取せられる。舞曲『腰越』に判官抑留の場所を腰越とせず酒勾としてあるのは、前掲五月十五日の條に酒勾に著くとし、又六月九日に酒勾辺に逗留したとある事実に相応ずるので、全然の虚構ではない。而も題名を『腰越』としたのは、余りに有名な本伝説、と言うよりは腰越状という称呼に吸引せられてしまったによるのであろう。
 

解釈】既に述べたように、判官得意の頂点に達した日で、同時に失意に顛落した劃線に立つ日の事件を叙して居り、特に腰越状の詞章を通して、一段義経の同情すべき立場と心情とが語られ、他面景時の成功、頼朝の冷酷を指示している。讒言の舌端から渦巻き出た雲霧は、日月と争う戦功の栄光を蔽うさえあるに、曽ては黄瀬河の陣に八幡殿の昔を語り出て、恩愛の歓びに泣いた(『吾妻鏡』巻一、治承四年十月二十一日、『平治物語』巻三(但し大野場としてある)、『盛衰記』巻二三、『義経記』巻三(共に浮島ヶ原としてある))その暖く浄い心をまで昏くした。一身を矢石の巷に曝した疇昔の辛酸も、市に三虎を走らす奸譎の片言に信じて、誠意兄を念う骨肉の衷情を酌まぬ苛遇の前に、空しき「紅涙」となって影も残さぬ。かくて『吾妻鏡』の筆者すら嘆じた如く、腰越の駅は千古悲愁の恨を留めた。

併し義経は親兄に対する礼を重んじた。余りと言えば情なの鎌倉殿、憎きは梶原父子、いざ鎌倉殿に参向して讒奸を取拉ぎ、君の寃を雪ごうと逸り猛る弁慶・義盛等を諭し止め(謡曲『語鈴木』『安達静』)、悄然として帰洛する判官の態度は、十分に国民の同情に値し、愈々判官贔屓を深める所以である。

腰越状の筆者が弁慶であるとすることによって、一には彼が主君判官の心腹を最もよく知了し、最も熱烈な同情者であることを、如実に示したことになり、又一には、その本拠の有無を問わず、草案も無く一筆に染め下す即智能文は、笈の中から往来の巻物一巻取り出して読み上げる勧進帳と同巧異曲である。

成長・影響】確実な史料には勿論明記せられていず、『平家』『義経記』に於てすらなお何人の執筆であるかを語っていないのに、舞曲『腰越』になると、右の如く判官股肱の武蔵が仰を承けて認めたと伝え、「かの弁慶が筆勢、賞めぬ人こそ無かりけれ」と称えているのは、即ち本伝説の成長であり、又本伝説からの派生でもある。そしてその弁慶筆と称する腰越状は現に神奈川県鎌倉郡腰越町満福寺の什物とせられている。

これに関連して――実は或はこれから出たのであるかも知れないが、そして又一には相互に弁慶の達筆であった事実とその遺墨の伝存を助証し合ってもいいのであるが――各所に又弁慶の手跡というものを種種伝える。その中で特に知られているのは、須磨寺の

此華江南所無也。一枝於折盗之輩、任天永紅葉之例、伐一枝者、可剪一指。
  寿永三年二月
という所謂若木の櫻の制札で、一子小次郎を切って、敦盛の身替に立てる『一谷嫩軍記』の構想の基づく所のものである。安永二年刊の西村白鳥の『煙霞綺談』(巻一)には
摂津国須磨寺に弁慶が手跡ありて、人よく見知りたる花の制札なり。三河国岡崎近き大平川の辺に、成就院といえる禅寺あり。此所は世にいう浄瑠璃姫入水の地にて、冷泉女が開基の寺なり。其代の古き画像などある中に、弁慶が義経へ戦場にての文通あり。彼須磨寺の花の制札同筆に見え侍る。然れども佐々木・梶原宇治川の事、又木曽義仲粟津にて討死の事などあり。文言読めがたき所間々あり。元暦元年正月三日と有るは、木曽討死の前にかくのごとくの文談いぶかし。相州腰越の寺にあるも、皆手跡よく似たり。真偽は見る人の心にあるべきにや。
とあり、蜀山人の『調布日記』(巻上)には弁慶書写の大般若経並びに自画像のことが見え、その他何故か弁慶筆の借用証文なる物が続出するのが奇抜である。摂津国鵜殿村の庄屋某の家の棟の小箱から現れたのは、義経公平家追討の時秣を借りられた証文(『笈埃随筆』巻一二)、奥州会津池田村百姓惣平の家のこれも棟木の箱から出たのは、これは文が弁慶、筆は亀井と見え、
此度北狄家に渡り候為糧米粟七斗借用候。若帰国無之時は、時之将軍之預裁断者也。
                           伊予守源義経判
                           武蔵弁慶
                           亀井六郎執筆
 会津池田村
   惣 平 殿 
という珍物(『海録』巻一九に「鍋田三善『静幽堂叢書』第一六所載」として採録)、又『塵塚物語』(巻三)には痩馬一疋とか、沙金少しとか、絹一反とか、糧米一俵とか、種々の物それぞれの借状二十通許が蒐集せられた事を記し、『理斉随筆』(巻一)には弁慶から楠正成へ書き送った兵糧米の借状という稀世の古筆を珍蔵している者の話を載せて、道風筆の『和漢朗詠集』、宋版の『大明律』と同類と興じている。かような弁慶借状は文学にも採入れられ、例えば『ひらがな盛衰記』(四段目口)には浪々の梶原源太が辻法印を俄仕立の贋弁慶にして、在所の者から兵糧米を借りて証文を入れる滑稽があり、『吉野静人目千本』には「土佐坊空誓文・武蔵坊借証文」の割書まで添えられている。なお前述棟木から古文書が発見せられる事は、摂津国能勢郡出野村の百姓辻勘兵衛の家の梁に結付けた竹筒から出たという平家の亡命客左少弁慶房朝臣の遺書に関する伝説(『松屋筆記』巻六二、『玄同放言』巻三、『蒹葭堂雑録』巻四等)と同型で(その遺書が後世の偽作であることは『松屋筆記』の高田与清、『玄同放言』の馬琴が各々詳論している)、民屋の棟梁に大切な物を秘め置くことも民族であったと共に、こうした型式の説話が遊行してもいたことは想像が出来る。
〔補〕須磨寺の制札の文言は
折梅逢駅使 乞与隴頭人 江南無所有 聊贈一枝春
という南宋陸凱寄範嘩詩から来ている。即ち「此花」が正しくは梅でなければならぬ筈であることは岡西惟中(『消閑雑記』)も蜀山人(『革令紀行』)も指摘しているところであるが、これが附会せられた所謂「若木の櫻」は又『源氏物語』須磨巻に
須磨には年かえりて日長くつれづれなるに、植えし若木の櫻ほのかに咲きそめて、
とあるのから出て、光源氏の昔語が同じ源氏の源九郎に転移したのであろうとの蜀山人の推定は恐らく謬りないであろう。光源氏と義経との直接交渉の有無は別としても、少なくとも源語から生まれた若木の櫻の古跡が、この制札に結びつき――この制札は元来、梅の為のものであったかも知れず、それがいつか同じ地の名木の方に移って行ったのか、或は梅の詩から著想せられて櫻樹の制札として最初から誰かが認めたのか、いづれかであろう――、そしてこの文言と、若木の櫻の名称から、若木の花の敦盛の哀話並びにその身替の一枝の苦肉策が構え出されて来たことは確であろう。


又、舞曲の腰越状の末尾に梶原処罰の希望が附せられているのは、これも本伝説の成長現象の一と観られ得る。国民の同情が即ちこの添加を要求して、原文の体を壊るのも意とせずそれを敢えてさせたのである。それから若竹笛躬・中邑阿契合作の『番場忠太紅梅箙』(四段目)に、景季の依嘱で紅梅の箙を背にした忠太が景時を諌めることのあるのは、言うまでもなく箙の梅の伝説から来ているが、その忠太が廓に身を沈めている弥平兵衛宗清の女小雪の首を静の身替として腰越状と共に頼朝に捧げるのは本伝説との合体で、而もいつも憎まれ役の忠太が主役の忠臣なのが珍しい。

説話としての本伝説が後代文学へ影響したものには、曲亭馬琴の『朝夷巡島記全伝』(五編巻二)の陸奥の賊乱を平定して凱旋した多田光仲が、嫌疑を蒙って小袋坂の関で停められる條、及び松亭金水が稿を継いだ部分(八編巻一)の朝夷が北條の奸策によって程ヶ谷駅に抑留せられる條がある。これよりずっと古く、近松の『日本振袖始』(二段目)に、悪鬼退治の功を畢えて美濃国から御凱陣の素盞鳴尊を天津児屋根臣が抑止して、宝剣奪還の使命の果たされぬ咎を詰問し、尊は漂泊の旅に上られる場面があるが、事情に異なる所はあるけれども、同じく趣向を本伝説に借りたものに違いない。『義経興廃記』(巻八)に、義経が渡辺渡海の時、暴風の烈しいのを鎮めようと、弁慶に筆を執って願文を書かせ、伊勢太神宮と海神とに祈誓することがあるのも、文覚鎮海の伝説(『平家』巻五、文覚被流、『盛衰記』巻一八、文覚流罪、舞曲『文覚』)や船弁慶伝説或は小田原陣の時秀吉が龍王へ書状を遣わしたという伝説(『豊公逸事録』)等から示唆を得たのであろうが、一面、本伝説(舞曲『腰越』に語られている形としての)及びその本拠たる木曽願書の説話からの影響であることも確である。

又本伝説に附帯して、生成した範頼讒死の伝説がある。『義経記』(巻四)に、判官腰越参著の由を聞いた梶原はさまざまに弁を弄して、鎌倉に召見することの危険を力説したので、頼朝はこれに聴従して義経を腰越に留めるのみか、誅を加えようとしたのを、討手を命ぜられた川越太郎は娘の縁辺に忍びずとして先ず固辞し、次の畠山重忠は却って直言諫止したことを記してある。かくして義経帰京後、終に土佐坊昌俊の上洛、堀河館の夜討となるに至る(『盛衰記』(巻四六)では景時に命ぜられたのを回避して、昌俊が択まれたとしてある)のであるが、『平家物語八坂本』(巻一二、参河守の最後)及び謡曲『範頼』には、京の義経の討手を命じたのを範頼が辞退したので、頼朝は御辺も九郎に同心かと怒り、全く二心に非ざる旨の起請文を以てしてもこれを宥め得ず(ここまでは『盛衰記』(巻四六)にも見える。但しそれには辞退したのでなく、出発の用意までしたのを頼朝が猜疑して中止せしめたとし、『長門本平家』(巻一九)には終に命じて斬らせたとある)、範頼はやがて伊豆修善寺に遂われ、更に頼朝を唆して討手に向った讒奸梶原の為に、終に誅せられることに作ってある。主命とは言え、誰もがこの討ち手を領承することを渋ったのは偽ではなかった(『吾妻鏡』に「此追討事、人々多以有辞退気之処」とある)。範頼が叛逆の疑を蒙って、死を賜わったことはこれ亦事実で(『吾妻鏡』『北條九代記』下、『保暦間記』下、『年代配合抄』)、起請文も明らかに『吾妻鏡』(巻一二、建久四年八月二日)に載せてある。併しそれはなお遙に後の事で、義経の討手を辞したが為ではない。然るに何時か範頼讒死の史実は、川越・畠山乃至は土佐坊が討手の命を蒙った事と結びつけられて、斯様な伝説を生じたものらしく、少なくとも江戸初世までには成形していたものかと思われる。そしてそれはやはり義経に対する民衆の同情の現れでもあること勿論である。又仮にそれから切離して考えても、同じく頼朝の弟であり、同じく相並んで木曽誅伐の代官、又平家追討の大将軍でもある。そして又同じく兄に疑われ、同じく讒者の毒舌に誤られたのである。その人物に大小の差こそあれ、相似た位置と境遇、相等しい運命と末路とは、自ら両者を比せしめるに足りる。況や起請文の哀句と、申状の血語とは、正に絶好の対照ではないか(この範頼讒死の伝説は、次條の堀河夜討伝説以後の事件であるが、便宜此処で述べたのである)。

更に腰越申状から直接に派生したのは、義経含状(銜状)の伝説と弁慶状とである。前者は即ち本伝説の変容であり、且腰越状そのものの変容でもある。即ち義経が高舘で生害の時、一期の遺恨を書き遺して口に銜んだまま自刃したその一篇述懐の文によって、赤心を親兄の明鑑に訴え、頼朝に悔恨せしめようとしたというので、腰越状からの転化であることは、一読瞭然であろう。

義経含状

謹白。抑義経末期、賤出清和之台(うてな)、自継多田満仲家以来、被隔継父清盛、為棲辺土遠国、被服仕士民百姓等。雖然、開当家之御運、被択勅宣之一、或時漫々海上凌風波之難、切敵徒之首、曝鯨鯢之腮、責靡三年三月。非其耳、生捕大臣殿父子、渡京鎌倉、雖雪源氏会稽之恥辱、依梶原讒言、空被黙止莫大之勲功、親兄弟被思召替纔侍一人。唯是不運存。将又似感前世之業因。仰願切梶原父子頸、被手向義経者、不可有今世後世之恨。萬端雖多難尽筆紙。恐惶敬白
  文治五年閏四月廿八日
進上 源右兵衛佐殿
という妙な物で、腰越状に比べると全く虎を描いて猫に類する感があり、「被隔継父清盛」などは噴飯を禁じ得ない。唯、末文梶原父子の処断を乞う詞句は、舞曲の腰越状の末文と流通し合う点のあることを注意せねばならぬ。但し先後は定められない。上に提出したのは『古状揃』に収めてあるのを引用したのであるが、萬一舞曲がこれの影響を受けたのなら、この伝説の形はかなり古いと観ねばならぬが、それでも室町中期以前とは思われない。併し少なくとも江戸初世頃にはこれもすでに流布していたものであることは、『金平本義経記』(七之巻)に載っているので知られる。殆ど同文であるが、所々小異がある。重複するが、比較的古いという点で注目してよいから、参考の為、次に掲げて置こう。
 
つつしんで申。そもそもよしつねいやしくもせいわ天王のうてなを出、ただのまん中の家をつぎより此かた、けいぶ清もりにへだてられ、へんどおんごくをすみかとして、いづ(「土」を「出」と誤写したのに拠ったか或は読み誤ったか)みん百せいにぶくしせらる。しかりといえどもさいわいにたうけの御うんをひらき、ちょくせんのひとつをえらひ出され、或時は野にすみ山にふし、又有ときはまんまんたるかいしゃうにふうはのなんをしのぎ、がうてきのくびをいたづらにけいけいのあぎとにさらし、三とせ三月にせめなびけおわんぬ。しかのみならずおほいとの父しをいけ取、京かまくらを引きわたし、たちまちげんじかいけいのちじょくをすすぐといえども、かじわらがざんによって、ばくだいのくんこうをむなしくし、てんり(「默」を「點」と誤読したか。或は天理か)したしき兄弟をわっかの侍一人におぼし召かえらるる事、是ふうんと存、将又ぜんぜのごういんをかんずるににたり。あふきねがはくはかちはらふしがこうべをはね、よしつねにたむけられば、今生後生のうらみ有べからず。ばんたんひっしにつくしがたし。文治五ねんうるう四月廿八日、ひょうえのすけ殿。みなもとのよしつね判。


これに次いでこの義経の含状を載せてあるのは、近松の『最明寺殿百人上臘』(初段)で、それではその義経の再生たる北條天女丸(時宗)が「さては我が生まれぬ先の筆蹟かと」感激に声を潤ませながら朗読するのである。その前年の作『大磯虎稚物語』(初段)にも含状伝説が使ってある。出雲の『右大将鎌倉実記』(四段目)にはこれを佐藤忠信の忍び妻安督(あがう)の訴訟に応用している。内容は義経の異心の無いことを記したもので、文詞は含状のそれを女の筆めいて少し変えただけである。又、義経に代わって自殺し、所謂義経の含状を衝えた泉三郎忠衡の首をして、梶原に喰いつかせるのは青本『義経一代記』で、その子泉親衡(親衡は実は忠衡の子ではない)をして、含状を以て義勇の士を誘い集めて、義経の弔合戦を企てさせるのは、読本『泉親衡物語』である。又仮称義経物の、大阪陣に取材した戯曲にも、『義経新含状』の名を用いたものさえある。

含状伝説を夙く取扱っている『金平本義経記』(七之巻六段目)では如何かと観ると、これでは義経の首実検をした後、頼朝が火葬にせよと命じたが、奇しや、焼けども焼けども燃えず、首級の色さえも変わらぬ不思議さに、畠山重忠が仰せによって検べると、果たして口中に書状を含んでいた。これを読ませて聴き入った頼朝はいたく感動して、義経主従を神に祭り、且、「かくてかじわら父子共も、よしつねの御たむけ、ついに御ついばつとぞきこえける」という結末で、含状の目的が貫徹せられている。否国民によって彼等の希望通り貫徹せしめられているのである。景時父子の追放は、必ず義経伝説に結びつけられねばならぬ筈の最も快適の且都合好き史実である。この作のような終局の生まれるのは、希望の具現でもあるが、如何にも当然と言った感がある。『右大将鎌倉実記』(五段目)の重忠以下八十余人が忠信夫婦の首を携えて強訴した結果、梶原の断罪を見るのは、明らかに鶴ヶ岡会盟を採入れたものである。

要するに、義経腰越の欸状が高舘の銜状と変わって来たのである。或は含状の伝説が別に早くから行われ、その文を後から作るのに、腰越状に体裁・文辞を借りたのかも知れないが、先ず腰越状から出た伝説と見るが穏当であろう。

〔補〕『義経物語』(巻八)にも含状の事が見え、これが或は文学として最も早いものらしく思われ(金平本のと文詞は同じでないが、内容は略々同じである)、それによって含状伝説が相当古く発生したとも考えられぬではないが、同書の同條は、後の添加ともみる事が出来る部分で、却って『義経物語』の成立が古くない証ともなり得よう。最近伝存が知られた幸若舞曲の『含状』も亦右二書の内容と略々一致する。が、これも金平本よりは古いとしても、詞章から観てやはり比較的後の作らしい。

次に弁慶状であるが、これは詳しくは「西塔武蔵坊弁慶最期書捨之一通」と呼ばれる物で、
 

抑若年の時、寄身于雲州鰐淵山、自童形以来、日夜不怠、粗試阿吽之二字。況至剃除餐髪之頃、向真言不思議窓、転極(ウタタ)頸密之秘法、於入定座禅床、探金胎両部之奥蔵。大日不二之法尤大切也。我自出母胎内以来、不犯禁戒、全護五常之道、欲達現当二世之本懐之処、先世之宿縁難遁而今将(ハタ)果者歟。爰源惣領征夷、大将軍末子牛若御曹子、賢仁異相之若君也。寄都五條橋、為亡夜行悪党、辻斬之風聞承之、貳旦(フタタビ)生弓馬家、起勝負思、既早速致入洛佇橋辺、従夜前及五更天、差合浮船浦浪飛龍伏龍影手、拙者嗜之本手者、虎乱清眼入隠頸籠手(コムテ)薙手開手十文字蟷螂斧(ナル)哉。終被追伏為君臣三世之契約畢。自(シカシテヨリ)示以来奉師伝、仍号副将軍、雖被宛行関西三十三箇国、大将之不運歟、一日片時不遂所知之本意、無播(ノブルコト)萬民鬱憤。動為(ヤヤモスレバ)追討平家、率数萬軍兵、所々城郭発向之刻、非(モノノカズニ)屑某又供奉仕。夏凌炎天、冬戴雪霜、在陸則張魚鱗鶴翼陣、作張良智略、物冷(スサマジキ)矢倉上眺月明夜。赴西海則夜千尋波底懸錨(イカリ)繋船、昼推寄汀、終日為樊■(ロ+會)勇。古武王蓬辛野之軍再来者(スル)歟。己至責状凶徒、欲達本意処、依梶原逆櫓之遺恨、讒者勒(オサヘ)意而偽又為実。御兄弟不和之意趣琢不■(石+米+夕+ヰ)(トゲドモウスロガズ)、結句如雪上加霜。誠作胡越千年之隔。雖日往月来、更無御赦免。弥疎遠而、拙者迄焦心削骨。同氾虫廿余年流浪。因(ヨッテ)茲於都五條油小路、渋谷土佐入道窃(タバカル)之時、八尺二分之手来(ゴロ)棒削八角、落三十三疣訖。其後我君閉籠吉野、鉄塔踏破勢異国本朝無比類者歟。就中関東下向之刻、雖為文武二道之名将、一身難置時窶身、韜(ツツミ)名隠跡、雖天高跼(セグクマリ)、雖地厚不荒踏。漸忍通処、折節被奇(アヤシメ)関守富樫而、叩弁口敵陣、而探当廻(ツレドモ)文笈少不騒、逆棒遂(トゲ)披露、遁鰐口下著当国、天命期于今。然処依秀衡子息三人謀叛、俄君臣共作籠鳥棲。倩案(ツラツラ)事意、四国戦場之雑言者、良薬苦口、金言逆耳者也。須雖有申状、佞人横道更不能上聞。私不運天命也。忽感涙銘肝、言語同断。於高舘麓数日合戦、衣川赫(アケニスルコト)千里、古於鳥江辺、高祖項羽之軍、豈如之哉。雖然貞女不見両夫、賢仁不仕二君、先言保堅固訖。弓箭面目此事歟。今日棄一命揚名萬天、貽誉後代者也。右之一通明日披見旁可預御感者也。
文治五年閏


これも高舘での遺書というわけであろうが、同様に腰越状に摸したものであることは、詞章を比較しても直に察知し得られる。なお前に述べた弁慶の手跡に関する諸伝説の流布が又この弁慶状の生成乃至流布に互に関連してもいることは容易に想像出来る。伝説のように腰越状が弁慶の作る所ならば、さりとは自伝のこの状の余りに愚劣滑稽の文なのが笑止である。推うに含状と弁慶状とは共に略々同じ頃に何人かが腰越状に擬して作ったもので、或はその作者は同一人なのかも測られない。

文学】『平家物語』(巻一一)、『義経記』(巻四)。又舞曲『腰越』は前半は内大臣父子護送の道行、後半は所謂腰越の哀訴である。その道行は『盛衰記』に倣い、哀訴の條は大体『吾妻鏡』に基づき、その申状は『平家』に採りながら、道行が『盛衰記』の文から出ていることは、平出鏗二郎氏の所論の通りである(『近古小説解題』一六六頁)。但し『腰越』に載せた宗盛の「しほぢより絶えずおもひを駿河なる身は浮島に名をばふじのね」、清宗の「我なれや思ひに燃ゆるふじのねの空しき空のけぶりばかりは」の歌は『盛衰記』に無くて『平家』(八坂本、巻一一)にあり、又宗盛の「都をば今日を限りの関水に又あふ坂の影やうつさん」の歌は、これは平出氏の指摘の如く流布本の『平家』と一致している。場所を腰越とせぬ曲に『腰越』の名の附せられているのは、有名な腰越状を含んでいる為、無造作に附けられたのか、或は後から与えた曲名なのであるかも知れない。近世以降本伝説を題材としたものには『金平本義経記』(三之巻五段目)、『新板腰越状』(〔補〕『校註浄瑠璃稀本集』の解題には作者は近松ではなく、錦文流あたりかとしてある)、『番場忠太紅梅箙』(四段目)、新歌舞伎十八番の『腰越状』(『猿若三鳥名歌閧』三幕目)、『興廃記』(巻一〇)、『勲功記』(巻一一)等がある。『義経腰越状』(『義経新含状』の外題替)は本伝説に名を借りた大阪陣物で、義経物ではない。

〔補〕「中央公論」大正十四年三月号に小杉天外作戯曲『腰越状』が載った。「所、相模国腰越村の寺院 時、文治元年五月二十四日」として、この事件を取扱ってある。

含状伝説に取材した文学は前に挙げたから省略する。弁慶状を歌舞伎の狂言名題に使ったものに『高舘弁慶状』があり、『弁慶状武勇封』という合巻もある。

第三節了
 

第二章 つづく


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2001.12.1
2002.1.10 Hsato