島津久基著
義経伝説と文学
本篇

第一部 義経伝説

第二章 義経に関する主なる諸伝説

第二節 義経伝説の分類

(五)浄瑠璃姫伝説

事件の順序からすれば、次條(六)の次に来べきであるが、(三)及び(四)の(い)と説話上の連関があるから、その意味で取扱を先にしたのである。且元服後の事に属するのであるけれども、近松の『十二段』などには、なお「牛若君」と明記しているのは、これ亦本伝説の義経をやはり年少者として看ようとする希望が十分にあることを語っている。事実、元服したというだけで未だ牛若丸時代と殆ど変わることはないのではあるが、それでも『十二段草子』には判然と「御曹司義経」としてあるのに、却って近世に降ってから、これを「牛若」と呼んで怪しまぬのは、故意にそう改めたのではなくて、東下りの御曹司を依然用い馴れた牛若の称呼とその可憐な若少の姿に於いて幻想したい民衆の何人でもの心持が、殆ど無意識的にはたらいているによると考えられる。『義経記』では次條の鏡宿の強盗戮殺は牛若十六歳の初技としているのに、『十二段草子』では元服後なのを却って十五歳としている矛盾もこの意味で寧ろ興味がある。

【内容】

人物 御曹司義経(牛若丸)。浄瑠璃姫
年代 (義経十五歳。奥州下りの途)
場所 三河国矢矧宿
海道一の遊君と名も高い三河国矢矧宿の長者を母とし、同国の国司伏見の源中納言かねたかを父とし、薬師如来の申子で、「玉をのべたる如く」(『十二段草子』)美しい顔容なので、名も浄瑠璃御前と呼ばれ、萬づの道に暗からず、二百四十人の美女に伝かれて、栄華の日々を送っている姫の邸に、折から金売吉次に伴われて奥へ下る御曹司義経が通りかかり、管絃の音に足を止めて、これほどの遊びに笛のないのは惜しい限りと、名手の若君は堪えかねて、一管に妙音を籠めると、姫は漫にその神韻に酔い、侍女に命じて笛の主を喚び入れさせ、その夜両人は遂に浅からぬ仲となった。枕問答の試査によって、歌道・仏道・故事・恋愛、萬般の業に才識と熱情とを知り得た結果、姫は漸く心を許したのである。行手を急ぐ都の若人は引留める姫を残して名残惜しくも翌日袂を分った。然るにその御曹司は測らずも駿河国吹上の濱で奇病に罹り、吉次に捨てられて困しむのを、源氏の氏神正八幡は老僧と現じてこれを慰め、更に矢矧の姫にこの難を告げられた。吉次が僕の名も知らぬ賤しい冠者と契った姫は、母の不興を蒙って、乳母れんぜい(冷泉)と唯二人柴の庵に佗しく起臥す折からとて、驚き悶え、遂にれんぜいの勤めに任せ、か弱い足で海道を下り、吹上の濱の砂中から病死したその人を尋ね出し、日本国中の神々に祈誓の誠を籠めて辛うじて蘇生させ、辺の伏庵に住む薬師如来の化身と思しき老尼の親切で全く快癒した恋人から、初めて明かされた本名を聞く嬉しさは、起死本復の喜びに加えて譬えようもなく、かくて互に形見を取り交した後、姫主従は義経の呼び寄せた大天狗小天狗の通力で、瞬時に矢矧宿に送り返され、又義経は東下りの旅を続けた末、奥平泉秀衡の館へと入ったのであった。
 

【出処】『浄瑠璃十二段草子』(一名『浄瑠璃姫物語』)

【型式・構成・成分・性質】純粋の武勇伝説ではなく、又特殊の型式というほどではないが、吹笛モーティフ並びに申子モーティフの勇者恋愛譚で(勇者恋愛譚という点とその薄運の哀話という事情に於いて、鬼一法眼伝説及び島渡伝説と相類し、吹笛モーティフという点で、島渡伝説及び『鬼一法眼』の所伝とは一層共通している)、神仏の利益を説く霊験譚的宗教伝説がこれに合体している。説話の構成の上から観れば、前半は純然たる恋愛説話で、後半はこれに附帯した人買伝説の著色を有する託宣モーティフ及び神仏化現モーティフの回生伝説で、霊験的意味は全説話の根幹要素である女主人公に関する申子モーティフの点にも無論あるが(〔内容〕の項には省略したが、矢矧の長者三十七歳、夫の国司四十三歳になるまで子種の無い理由に関して、両人の前生譚、即ち長者は大蛇、夫は鷹であった因果の理を、薬師仏が老僧と現じて細説せられる託宣モーティフが、その中に又含まれている)、具体的な奇蹟の現れとしては、この後半に特に著しい(特に八幡大菩薩は老僧としての他、童子と現じても、姫主従に吹上の濱で病死の義経の居所を教えられる事も、『十二段草子』には語られている)。全般に亘って空想的(仮構的)成分が多きを占め、神話的乃至それに近いものも相当に認められる。二人の歎会を母の長者に見咎められようとして、それを紛らす為、御曹司が鞍馬で習得した山の印・小鷹の印を結んで影を晦しつつ、三重の堀を飛越えて遁れる呪術(マジック)も、近世隠形の術の域を出ないものながら、一方神話に見出されるそれにかなり近接している。が、要するに霊験譚を加味した准史譚的説話である。
 

【本拠】不祥。但し漆桶萬里の文明十七年九月の作で「憩矢作宿」と題した

出刈屋城三里余 宿云矢作記其初
伝聞長者婿源氏 秋水痩辺閑渡鱸
の一首がその著『梅花無尽藏』に載っているのが、高野斑山氏の説(『歌舞音曲考説』)の如く、『十二段草子』以後の作とすれば論はないが、若し然らずとすれば、『十二段草子』に作られる以前に、口碑として本伝説の存したことが考えられるのである。『宗長手記』(享禄四年)、『守武千句』の附合(天文九年)等によっても、牛若に関する浄瑠璃乃至は『十二段草子』或はそれに類するものが室町季世までには既に行われていたことが知られるが、本伝説乃至『十二段草子』との関係は知悉することが出来ない。この二つの資料は併し文明十七年よりは更に四十年以上経過した後のものであるから、『十二段草子』の成立を旁証する意味を強く認めようとする立場を覆す程の力も無さそうである。又喜多十太夫の『猿轡』に見える、文安年中、宇田勾当という盲人の作で『十二段草子』の粉本となったと推定せられる『やすだ物語』という曲も、本伝説に関係があったか如何かは、それが今日伝存せぬので、委しく質すべき手懸りが無い(なおこの伝説乃至浄瑠璃に関しては、柳亭種彦の『足薪翁記』『還魂紙料』を始め、大槻如伝の「俗曲の由来」、萩野由之博士輯『新編御伽草子』(下)の「浄瑠璃十二段草子の開題」、星野恒博士の「浄瑠璃」(「史学雑誌」第四編題四四号)、須藤求馬著『校訂浄瑠璃物語評釈』、及び『歌舞音曲考説』の「十二段草子考」(〔補〕高野博士著『日本歌謡史』第五編第五章「浄瑠璃」笹川種郎博士著『近世文芸志』第一章「浄瑠璃」)等に論考がある)。

要するに少なくとも本伝説は史実の根拠は無くとも、矢矧辺に行われた口碑であったという事は想像し得られる。『宗長手記』(大永七年三月)にも「矢矧の渡して、妙大寺昔の浄瑠璃御前跡、松のみ残りて云々」と見えて萬里の詩に相応じ、『和漢三才図会』には「冷泉寺」の條に本伝説を掲げてある。仮名草子『恨の介』(上巻)にも、「義経の思いしは、静御前や浄瑠璃姫」の詞句が見える。唯、以上の諸記述が『十二段草子』以前の口碑を録したという明証が無い限り(内容としての口碑は勿論記載文献より遙かに旧く溯らせ得ることも屡々許されるのであるけれど)、かの有名な『十二段草子』が語られ読まれて流布した事実に伴って、そうした結果を齎したと観ることも決して不自然ではない。結局、この口碑が『十二段草子』に素材を与えたのか、或は却って『十二段草子』を本源として本伝説が発生して口碑化したのかは、確定的な資料に不足する以上、断定は一寸困難である。

『十二段草子』以前、口碑の存否如何に拘らず、本伝説或は『十二段草子』が鞍馬天狗伝説より後のものであること、そしてその影響を受けていること、特に恐らく舞曲『未来記』の影響下にあること(小鷹の印を結ぶことなど)、それから類推して舞曲『鳥帽子折』からも影響を受けていること(義経東下りとそれに関連しての吉次の対義経態度、青墓宿の長者の館に於ける義経の吹笛、熊坂戮殺の夜の御曹司の装束の記述――『十二段草子』では「笛の段」の中にそれが含まれていて明確に共通した点が示されている――等)がわかるし、又これは孰れが先後か即断は許されないが、御伽草子『鬼一法眼』との説話上及び詞章上の交渉は否定出来ない。『鬼一法眼』を通してか或は別にも『御曹司島渡り』が又間接に本伝説に連関を有するかも測られない。唯、説話の素材上では『鬼一法眼』の方が本伝説に先行するように思われるが、詞章及び作品としての構想の或部分(例えば管絃の場面や、艶書の文辞など)は寧ろ『十二段草子』から学ばれたという関係に立つのではないかと推測せられ得る。それから謡曲『隅田川』に於いて既に流布している梅若伝説も本伝説に粉本を示しているに違いない。
 

【解釈】東下りの道途に於ける一挿話として唯一の彩りをなす伝説で、鬼一法眼伝説及び島渡伝説と共に義経の年少時に於ける情事方面が叙べられ、成長後に於ける判官のこの方面へもの伸長を暗示している。且これは手段としてではない純然たる恋愛譚で、殊に「観音・勢至の化身かや、普賢・文珠の再来かや」(『十二段草子』)という御曹司と、峰の薬師の申子の姫とのロマンスは、美しく哀れなばかりでなく、貴く神秘的な意味まで附加せられている。この点、二人の本地を説く『御曹司島渡り』と類縁をなしていて、時代色を発揮している。又本伝説に於いては島渡伝説同様、笛の妙手としての義経を力説してい、「男女の中をも和ぐる」媒に、和歌の代わりに一管を活用した形になっている。
〔型式〕の項にも述べた通り、薬師如来の霊験と正八幡の利益とが特に強調せられ――この両仏神がそれぞれ二人の守本尊としいて終始加護を垂れ、二人の契合は即ち又この両者の連結でもある――、その他、和歌及び仏法の問答、故事因縁の講釈、託宣、申子、人買習俗等に室町時代そのままが投影している。

【成長・影響】近世文芸の精華をなしている浄瑠璃の鼻祖と仰がれる『十二段草子』は浄瑠璃節としての史的展開の将来を示す意義深い法燈を挑げていることは言うまでもない。文学としてもその追随者を後代に続出せしめつつ、説話それ自身の成長改変をも営んでいる。特に成長後の本伝説で注目を惹くのは、浄瑠璃姫の死である。即ち『十二段草子』では、その終が不明であるが、徳川期に入って、姫は「御曹司恋しやとその恋風が積もり来て、無情の風のやまふの床、終に果敢なくなり」(『源氏冷泉節』)とせられているのは、作者近松の有意か否かは別として、そのいづれであっても鬼一の姫(『義経記』『鬼一法眼』)の伝説が移って来たものと思われる。次いで出た『勲功記』の浄瑠璃姫も御曹司を恋い侘びて病死している。『東海道名所円会』には「浄瑠璃姫の塚」を載せ、『三才円会』の「冷泉寺」の條にも、義経出立後、再会の期無きを悲しみ、菅生川に投身したので、侍女冷泉が尼となって、供養の為阿弥陀堂を建てたのがそれであるとし、西村白鳥の『煙霞綺談』(巻一)には、岡崎附近の大平川の辺に在る禅寺成就院が冷泉の開基で、浄瑠璃姫入水の地は此処としてある。近松の『十二段』(四段目)で、姫が従弟矢矧の藤太に殺されることになっているのは、作為であること明らかであるが、それと共に、この愛人を恋い焦れつつ果敢なくなった可憐な若き姫、而も薬師の申子として名も有難い浄瑠璃御前の、その死を尋常に終らしめたのでは、世人の飽き足らずとする所であろう。其処を狙って巣林子は熊と兇刃に斃れさせ、而も奥から攻め上る途にこれを耳にした義経がその墓を弔うと、忽ち光明赫灼たる薬師如来の姿と現じて、恋人にその身の本地を告げることにし(『十二段』五段目)、或は一旦死んでも瑠璃光如来の仏力で女護島の司、長生殿の天女と再生する奇蹟的な幸運に恵ませるのである(『源義経将棋経』四段目・五段目)(但し、これは一面支那説話、『長恨歌』の楊貴妃に暗示を獲たので、しゆくわい仙人の海尊は即ち玄宗の為に蓬莢島に使した臨卯の道士に似た役割を勧めさせられている)。

同じ『将棋経』(初段)の姫は、義経を恋い、「せめて思いも晴るるやと、牛若君と我が身の上、人知れぬ忍びねを、十二段の物語に作り、自らこれに節博士を附け、(中略)ささやかなる人形に色々の衣裳を着せ」て、操の遊をするのが奇抜だが、この由が鎌倉へ聞え、召されて頼朝の御前で、若君頼家元服の祝儀に操狂言を上覧に供することとなり、姫はその狂言に託して梶原が奸曲を刺り、又人形使に扮した鈴木三郎重家が現れ出でて義経の寃を直訴し、景時父子を懲すのは、本伝説に謡曲『語鈴木』の伝説を結び付け、且静の鶴ヶ岡舞楽伝説にも形を借りたものである。それに出雲のお国の面影も連想せられぬでもなく、十二段の物語を作るのは勿論小野お通の事を思い寄せたものであろう。

又本伝説を逆にして、矢矧川に舟遊する義経に、廊の主の娘浄瑠璃姫が児姿で侍女十五夜の手引によって近づき、笛を吹いてその心を牽き、遂に契を結ぶこととしたのは、浮世草子の『義経風流鑑』(一之巻)である。

〔補〕明治三十四年三月歌舞伎座の大切に出した『三河島の別荘に一人娘の婿えらみ縁結矢矧戯』は「浄瑠璃姫実は娘おきよ、矢矧の息子長之助」という役名で、本伝説から著想した常磐津の所作事であった。
御伽草子『鬼一法眼』が本伝説の影響を受けているであろうことは前に説いたが、古浄瑠璃『牛王姫』も亦本伝説の一種の変形である。同じく吹笛モーティフを含む恋愛譚で、唯愛人の為に犠牲になるのは『島渡り』のあさひ天女の方に近い(矢矧の長の姫から鎌田が妹牛王に変わったに就いては、謡・舞曲の『烏帽子折』の烏帽子折の妻が故殿の遺孤に寄せた好意から、進んで斯うした転移を誘導して来たものと解せられる)。
〔補〕宇治嘉太夫(加賀掾)の正本『天狗の内裏』は前條の伝説の終に補述したように、主に本伝説を内容とするもので、
第一 てんぐのだいり
第二 うし若殿かかみのしゆくにてがうどうを討給事
第三 上るり姫くはんけん井うし若殿四きのてう
第四 うしわか殿上るり姫のねやにしのひ給う事
第五 うし若殿平家をせめ上り井れいせいに逢給う事
の五段から成り、『十二段草子』と『天狗の内裏』とを併せたような作で(『源氏十二段天狗の内裏』という不思議な外題を附しても呼んでいたようで、即ち両伝説を殆ど機械的に結び合わせた如き内容を、その題名がよく示してもいる)、『十二段草子』から直接だけでなく、この曲を経て近松の『十二段』の構想は下されていることは上の各段の組織によっても直に想到し得られる。
又同じ加賀掾の正本『冬牡丹女夫獅子』(下の巻、閏十三段)では本伝説と鞍馬天狗伝説とが結びつけられた。


【文学】本伝説を内容とする作品として先づ挙げられねばならないのは無論『浄瑠璃十二段草子』である。略して単に『十二段草子』とも言われ、又『浄瑠璃御前十二段草紙』とも『浄瑠璃姫物語』『浄瑠璃物語』などとも呼ばれている。写本・絵巻・板本各種(慶長活字本・寛永木活字本・正保三年板・寛文板等)がある。又、十二段本の他に八段本・十五段本・十六段本等もあるが、やはり十二段本が古いのであろう。この草子を以て浄瑠璃の始源とすることの誤であることは既に殆ど定説となっている(種彦『足薪翁記』『還魂紙料』、星野博士「浄瑠璃」の論考、『歌舞音曲考説』等)。併し後世これを院本の祖とし、この流れを酌んでいることも亦事実である。仮令『やすだ物語』その他先行の曲があったとしても、所謂浄瑠璃節の発達に直接の源泉をなした史的意義は没却すべからざるものがある。そしてその時流に迎えられた原因としては、主人公として国民愛好の標的たる御曹司義経を捉え来ったことも、確にその一に数えらるべきであろう。又謡曲・舞曲の一段一曲式の体裁を破って、十二段の続き物の形をなしていることも、『やすだ物語』の継承ではあろうが、それが形式の上にも詞章の上にも、亦音楽の上にも大成して、兎も角も、一つの纏った完全な曲となったのは、恐らくはこの曲が始であろうし、先進の同類の曲が亡びた間に、独り栄えて、長く世人に喜ばれたことを思えば、自ら其処に理由がないではないであろう。十二段に分けたことの意味も、或は薬師の十二神に象るといい、或は平家の巻数に倣ったといい、又作者が小野お通であるということの真否、乃至その改補説(「俗曲の由来」)等も古来屡々論ぜられたが、推測の域に止まり、なお確説がないと見るが至当であろう。なお又この草子は浄瑠璃とはいっても、今は語られず、既に早くから御伽草子の一として、読み物ともなっていたことは、書名の示す通りであり、『嬉遊笑覧』(巻三、書画、絵双紙)にも、明らかに御伽草子の中に数え、又萩野博士刊行の『新編御伽草子』中にも収められている。その制作年代は、「十二段草子考」の説に従えば、文安以後文明以前、足利義政の初世であろうという。

この草子から出て、本伝説を題材とした江戸時代の戯曲には、『吹上秀衡入』『新十二段』(〔補〕『天狗の内裏』)等の古浄瑠璃を始めとして、近松の『源氏冷泉節』(主に下の巻、且、下の巻の終の部分に、「冷泉節」の一段がある)、『十二段』(後に『源氏十二段長生島台』と改題)、『孕常磐』(四・五段目)、海音の『末広十二段』及び近松の『十二段』を改作した出雲等の『児源氏道中軍記』(四段目)等がある。歌舞伎では元禄十七年市村座春狂言の『星合十二段』が「押合十二段」の地口の出来たほどの盛況であったのと、この狂言中、初代市川団十郎が私怨から鼓打の杉山半六(一説、半之丞)に刺されて舞台で斃れた(一説には宝永三年『八島合戦』の狂言の時、継信に扮しての事ともいう)事とが記憶されねばならぬ出来事であった。その他にも歌舞伎に屡々演ぜられ、黙阿弥にも『西東恋取組』(矢矧の寮)の作がある。『勲功記』には巻二に見え、読本としては『絵本浄瑠璃姫譚(ものがたり)』(表紙の見返しには『矢矧長者浄瑠璃姫物語』とある)がある。その他一代記風の義経物、及び俗曲(一中節の『浄瑠璃供養』など知られている)・俚謡等に本伝説を採ったものが多い。
 

(六)熊坂長範伝説附山中常磐伝説及び関原与市伝説

これも事件の順序からは関原与市伝説から熊坂長範伝説へ、そして浄瑠璃姫伝説へと進んで行っているのであるが関原与市の方はさほど重要でないから熊坂伝説に併せて考察しようとするのである。山中常磐伝説は別種のそして後の発生であるから、これは熊坂伝説に附随して取扱おうと思う。又これらの諸伝説の義経は関原与市の場合は当然牛若時代であり、熊坂の場合も元服後数日で殆ど牛若時代そのままと言ってよいばかりでなく、『義経記』では明らかに元服以前の出来事になっている。山中常磐伝説ですらも、牛若丸としての義経に於いて語ろうとしている。
 

(い)熊坂長範伝説

内容

人物 牛若丸(源九郎義経)・三條吉次信高。熊坂長範(『義経記』は藤沢入道・由利太郎)
   及びその部下
年代 (奥州下りの途。舞『烏帽子折』は安元元年三月、『義経記』は承安二年二月三日夜、 
   牛若丸十六歳。『曽我物語』は十三歳)
場所 近江国鏡宿(『義経記』)(謡『烏帽子折』、舞『烏帽子折』には元服の場所を鏡宿と    
   している)或は美濃国青墓宿(舞『烏帽子折』、謡『現在熊坂』)又同国赤坂宿(謡
   『烏帽子折』『熊坂』)又同国垂井宿(『曽我物語』)


牛若丸は鞍馬山を脱出し、金商人三條吉次信高に伴われて奥秀衡の許へ下る途、近江国鏡宿で元服して源九郎義経と名を改めた。偶々近郷に聞えた強盗の張本熊坂長範という者、吉次が高荷を奪おうと、部下を率いて吉次一行の旅宿に来襲したのを、御曹司は勇戦して巨魁長範を始め数人を斬り、その他を走らせた。

出処】『義経記』(巻二、鏡の宿にて吉次宿に強盗入る事)、『曽我物語』(巻八、太刀刀の由来の事)、謡曲『烏帽子折』『熊坂』『現在熊坂』、舞曲『烏帽子折』等。

形式・構成・成分・性質】競勇型勇者譚に属する競武型且闘戦型の説話で(この点橋弁慶伝説と類型をなしている)、又強盗補戮説話である。謡・舞曲の『烏帽子折』には前半に義経元服の事を(又舞『烏帽子折』には別に草刈笛の由来に関する音楽伝説即ち山路伝説をも)、説話瘤として有しているが、主題説話と必然的関係は無い。又舞『烏帽子折』の所伝では義朝父子三人の霊が義経の枕上に賊徒の来襲を告げる夢想説話(託宣説話の一様式)を含んでいる。本伝説は説話成分の上からは空想的傾向に於いて勝り、神話的分子は単身剛敵数十と闘い勝つ牛若の神人的武術及び剛勇の上に認められ、舞『烏帽子折』に於いては特にそれが著しく、且種々秘法を用いる呪術(マジック)が語られている。史実的成分も朧げには残存しているらしく見えるが、かなり空想化せられている。が、要するに史譚的武勇伝説である。

本拠・成立】吉次に伴って奥へ下った事は『平治物語』(巻三、牛若奥州下りの事)、『平家』(劔巻)にも見え、名は記さぬが唯金商人に具して行ったとは『盛衰記』(巻四二・四六)にも伝える。

鏡宿での元服の事はやはり『平治物語』(巻三、牛若奥州下りの事)に

生年十六と申す承安四年三月三日の暁、鞍馬を出でて、東路遙に思い立つ、心の程こそ悲しけれ。その夜鏡の宿に着き、夜更けて後、手づから髪取り上げて、懐より烏帽子取り出し、ひたと打著て打出で給えば、陵助、早御元服候ひけるや。御名はいかにと問い奉れば、烏帽子親も無ければ、手づから源九郎義経とこそ名告り侍れと答えて、(下略)
と見えるが(場所は明記してないが『吾妻鏡』(巻一)にも、「手自加首服」とある文(一九五頁参照)と一致する。謡・舞曲の『烏帽子折』の鎌田正清が妹の家で烏帽子を所望するのは、この史実が伝説化した形であろう。そしてそれには『広益俗説弁』(残編巻七、器物)の説のように、『盛衰記』(巻二二)所載の石橋山敗戦に烏帽子商大太郎という者が頼朝に佐折の烏帽子を献じた伝説が転移して来たものと思われる。なお『義経記』(巻二、遮那王殿元服の事)では却って鏡宿の強盗戮殺事件の後、熱田大宮司の元で元服した由になっている)、それに続いて黄瀬河著の次に、
爰に一年ばかり忍びておはしけるが、武勇人に勝れて、山賊(やまだち)・強盗を縛め給うこと、凡夫の業とも見えざりしかば、(下略)
とあるのは、後の添加でないとすれば(前にも抄出したように、腰越状にも「令流行諸国、隠身於在々所々、為栖辺土遠国」の一節がある)、本伝説の成形が暗示せられていると観るべき記述である。同書京師本に至っては更に詳しく、更に本伝説に近接している。
かくて一年許り有りけるに、御曹司野に出でて狩りしけるに、馬盗のあるを、人々搦めんとしけれども、その長六尺許りある男、大木を後に当て、刀を抜き、死狂いに狂いける程に、召捕る者なし。まして近処へ寄る者なし。数十人ありけれども、持あつかいけるを、御曹司彼盗人の脇の下につと寄り、刀持ったる臂を、したたかに足にて蹴上げ給う。刀をからりと落とす。さて袴の腰に取り附き、中に上りてしたたかに打附け搦捕る。又或時深栖が家近所の百姓の家に、盗多く入りたりけるに、彼御曹司太刀ばかりにて出会い、盗六人走せ入りけるを、四人その場に斬り殺し、二人に手負わせて、我は恙もなかりけり。(『参考平治物語』巻三)
これを舞曲『烏帽子折』の熊坂が、その素性と、盗人になった動機とを部下に語る條の
いでいで長範が、盗みしはじめし由来を、語って聴かせ申さん。某が親にて候し人は、越後と信濃の境なる、熊坂という所に、唯仏のようなる正直人なり。某は如何なる仏神の計らいぞや、七歳の年、長野郷という所にて、伯父の馬を盗み取って、ならび飯田の市にて売ったるに、ちっとも仔細候はず。それよりも盗は、資本(もとで)も入らぬ、よき事と思い定め、日本国を走り廻って盗をするに、一度も不覚をかかず。
という文に比較すると、馬盗人の事といい、又前文の六尺許りの大男という点など、何等かの関係を連想させるものがある。そして上の『平治』の記載本伝説成立後それから出た書き振りとも思われず、且、特に京師本にのみ見える所からしても、本伝説の原形と看られ得べき口碑として、即ち上の文中の二つの事件を合一して本伝説の素描が出来上ったのではないかとの推測も許されそうにも思われるのである(なお巨盗長範が倫盗学への入門が馬盗人であったことは、文学としては余り取扱われていないけれども、本伝説成形後と雖も地方口碑としては彼と馬盗みとの関係は消失せず伝えられているようである。『謡曲拾葉抄』所引の『雑々拾遺』にだけは熊坂の通称を太郎とし、且七歳の時、或福僧の土蔵の鍵を盗んだのを発見せられたので、転びながら泥にその鍵型を付けて置き、相鍵を造ってその藏の物を盗み出したのが手初めとしてあるが、少し理に堕ちても居り、多分後世からの附会であろう)。

そしてその対手方の賊首に熊坂長範の名が与えられるようになったのは、謡曲及び舞曲に見えるのが初で、『義経記』(巻二)ではこれが分身しているような由利太郎・藤沢入道の二人となっている。併しその説話の内容は、全く同じであるばかりでなく、

褐の直垂に、黒革縅の鎧着て、兜の緒を締め、黒塗の太刀に熊の革の尻鞘入れ、大薙刀を杖につき、
という越後の住人藤沢入道が、女とまがう遮那王と闘う状は、やはり大長刀を打振う(謡『烏帽子折』だけは大太刀としている)、謡曲・舞曲の加賀国の住人熊坂長範と少しも異っている処がない。而も舞曲『烏帽子折』にはその生国を、越後と信濃の界としてあるのも連絡が無いではない。『諸国里人談』(巻之四)の如きは、越後国関川と小田切との間の熊坂村の産として録している。つまり、由利・藤沢を一人とした者が熊坂であるとも観られ(『牛馬問』(巻三)の新井白蛾もこの意見を述べている)、或は藤沢は熊坂に、由利太郎は熊坂の部下中での首領株の磨針太郎(謡『烏帽子折』『熊坂』)に相当するとも観られ得る。要するに唯人名を異にするというだけで、別箇の事件というよりは、先ず同一伝説の異伝と見るが妥当であろう。舞『烏帽子折』に、義朝の寵を受けて一女萬寿姫を挙げた青墓宿の長が御曹司を見て、義朝・義平・朝長の父子に似通う容姿を訝ることが見えるが、『義経記』でも、その鏡宿の長者が末座の遮那王を見て、「頭の殿の二男朝長殿に少しも違い給わぬものかな」と驚き異しむことのあるのと相応じているのも、上の推断を助けるのである(青墓の長者大炊の女延寿が義朝に愛せられて、夜叉御前という一女を設けたことは『平治物語』(巻二、義朝青墓に落ち着く事)にも見えるが、これも略史実に近い事は、『吾妻鑑』(巻一〇、建久元年十月二十九日)に頼朝上洛の途、青波賀駅に立寄り、長者大炊や息女等を召して禄を与えた事、長者大炊は義朝上下向の度毎に止宿して寵倖した女であった事、その妹は又為義の妾で乙若等四人の母であった事等の記事が出ているのでも知り得る)。兎に角熊坂と藤沢との関係が以上の如くであるから、両者を一にした『藤沢入道熊坂伝記』という黄表紙が出たのも偶然ではない。

熊坂の姓が加賀国の地名から出たことは明らかで(『吾妻鏡』(巻三、壽永三年四月六日)にも「熊坂庄加賀」、『盛衰記』(巻二八)には「熊坂山」とある)あるが(『里人談』の所伝は前に引いたが、これは遙に後世の書であるから、その伝説の発生をどの程度に溯らせてよいか躊躇を感ずる)、長範の名は博奕の用語を連想させる一方、中世武勇伝説界に名を謳われている支那の二英雄をも想起させる。果然『勲功記』(巻二)には「熊坂入道張樊」とし、「我張良が智にも劣らず、樊■(ロ+会)が勇をも欺くべしとて、自ら張樊と号し」たと記している(『謡曲拾葉抄』にも『異本義経記』を引いてこの説を載せている)けれども、恐らく同音に牽強しての通俗語源説的説明に過ぎないであろう。

なお熊坂長範の事に関しては、小山田与清の『強盗熊坂長範考』(『講史資料古老遺筆』にも収めてある)及び『強盗熊坂長範考追加』(『古老遺筆』及び『松屋叢書』第一二冊所収)に考証があって、『松屋叢書』に自ら記す所によれば、「所答平戸侯隠君松浦静山君之問」であるとしている(そして『甲子夜話』(続編巻一三)にも、下に見える『文章緒論』をはじめ、熊坂に関する諸資料と共に「松屋が考説あり。下に附す」として載せてある)。その要旨は、「考」に於いては『雑々拾遺に見える、長範の藤原氏たる説、並びに『謡曲拾葉抄』所引『異本義経記』の張樊説の妄を弁じ、「追加」に於いては、熊坂の子孫と称する陸奥人熊坂邦(字、子彦。号、台州)著『文章緒論』に、長範はその祖先である由を述べて、信州の名族、義朝の臣であったと説き、剽掠は寧ろ平家の粟を食むのを潔しとしなかったからであるとして賞讃したのを嗤(わら)い、熊坂は地名であること、長範の話は全く伝説であることを論じ、且それは『義経記』の藤沢入道を、舞曲に熊坂長範と改め用いたので、その理由は「当時藤沢氏に憚る人などありてのわざにや」と附言している。概ね肯綮に中っているが、藤沢を故意に熊坂に改めたとするのだけは、少し即断に過ぎはしまいか(謡曲『正尊』で、昌俊の名を時人に憚って正尊としたと言われているのから想到したのであろうが)。やはり異伝として置くべきものであろう。

又鏡宿の藤沢が青野ヶ原の熊坂に転化したのであってもなくても、換言すれば、最初から熊坂の名で青野ヶ原の賊魁が呼ばれていたのであってもなくても、美濃のこの地方に事実としても盗賊引剥が横行していて、その地勢と事情とからも、かような伝説を発生し易からしめ、或は牛若との関係の有無に関せず、それに近い事実をも起こさせたのであったかも知れないのである。『熊坂』の謡の、

御覧候如くこのあたりは、垂井・青墓・赤坂とて、その里々は多けれども、間々の道すがら、青野ヶ原の草高く、青墓・子安の森茂れば、昼ともいわず雨の内には、山賊夜討の盗人等、高荷を落し里通いの、下女やはしたの者までも、打ち剥ぎ取られ泣き叫ぶ。
というのは、強ち謡曲作者の舞文ではないであろう。思うに幾多の吉次・吉六や次に説く常磐御前ならぬ常磐御前が幾度この魔の原の宿駅や森陰で脅され悩まされ続けて来たでもあろうことが考えられる。
 

解釈】義経伝説としての意義は、牛若丸の胆勇武芸を示す所にある。大男の賊魁熊坂の入道首は、蕾の花の小英雄が東下りの首途の贐(はなむけ)、吉次を証人としての秀衡への土産話に相応はしいものであった。蛇は寸にして人を呑む、後来勇武の誉高き名将軍の幼少時代にこれが萌芽、若しくは早成の実証としてのこの種の伝説が伝えられるのは如何にも首肯出来る所である(『義経記』(巻二、義経陵が館を焼き給う事)の陵某が味方せぬ不満さに、火を放ってその館を焼き払い、吉次に舌を巻かせたのも、亦伊勢三郎を信服せしめた(同巻、伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事)のも、同様の意味を有している)。況や我等は牛若丸に就いて、鞍馬の大天狗僧正坊からの兵法授受の事実を知っていて、而も未だこれを十分に実地に試みさせてはいない望洋の歎があるに於いてをやである。本伝説に附して説こうとする関原与市の伝説も、畢竟同意義のものである。特に舞曲『烏帽子折』の牛若は、多くの敵を斬って力漸く弛んで来ている末に、又巨盗長範と渡り合い、稍危く感じたので、僧正ヶ崖で習った霧の法・小鷹の法を使って、終に長範を斃したのは、愈々鞍馬山奥で習得した秘法を実際に応用したものである。而も謡・舞曲の『烏帽子折』に於いては、元服後の事件として伝えているから、源九郎義経と名告ってからの武芸試練の第一聲で、烏帽子を着た祝言の余興の劔の舞といった観すらある。

又舞『烏帽子折』の吉次の対義経態度は、世間を憚る表面上の警戒という用意というよりは、浄瑠璃姫伝説に於けると相通ずる人買風の意味が認められ、義経は京藤太という従者名で呼ばれて吉次が太刀坦ぎであり、又長者の館で酌せよと命ぜられ、馴れぬ業とて銚子の酒をこぼしては叱責せられるのである(謡『烏帽子折』にも商人と主従となったとあるが、『義経記』にはこの傾向は見えない。併し腰越申状中にも「被服仕土民百姓等」と義経自身も言い、又『盛衰記』(巻四二)に平家方の武蔵有国が義経を嘲罵する詞中に「金商人が従者して、蓑笠背負いつつ、陸奥へ下りし者の事にや」とあるから、必ずしも舞曲作者の捏造とも言えず、こうした伝説の行われていたことも知られる。『義経記』は意識してこの伝説を採らなかったのとも思われる)。同曲では又義経は『十二段草子』と同じく笛の妙手として語られ、且それに連関して、草刈笛の由来伝説まで結びつけられて来ている。そしてそれは説話内容は全然違うが、同じく牛若に連結せられている弘法大師伝来の名笛由来伝説(舞曲『笛之巻』)と同種の音楽説話(名器由来伝説)である点で、又時代風尚の一面を示している(『笛之巻』の名管来由の伝説のことは、小異があるだけで又この『烏帽子折』の曲中にも見えている)。

更に本伝説には、少なくともその成形当時の群盗横行の社会状勢が投影している。かの『建武年間記』に載せた有名な二條河原の落書の冒頭「この頃都にはやるもの、夜討・強盗・謀綸旨」の文句を具象的に示したようなもので、地方は一層甚だしいものがあったであろうし、その強盗の首領等は大抵志を得ぬ或は生活に窮した武士である。やはり東下りの途に義経に見出されて臣となった伊勢三郎も上野国板鼻在で強盗を働いていた人物で、義経は偶然その宿に泊り合わせたのであった(『義経記』巻二、伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事)。『盛衰記』(巻四二)の所伝では、その以前であろうか、やはり伊勢国鈴鹿関で山賊をしたと伝えている。斯様な状態は平安末以来愈々著しくなって来ているようで、『今昔物語』には巻二九に「本朝付悪行」の一巻を立てて、多くの盗賊譚を収めてあるほどで、多衰丸・調伏丸・袴垂(同書巻二五、第七話にも保昌の跡を踵けた有名な伝説がある)など、その錚々たる巨賊連である。就中袴垂は最も群を抜き、且伝説的でも著名である。その他鬼神・妖怪と合体している鈴鹿山の立烏帽子(御伽草子『立烏帽子』)、大江山の酒顛童子(『酒顛童子』)の類もあるが、普通の盗賊譚として鎌倉室町期に伝えられる主なものでは、藤原保昌の兄(或は弟)保輔(『江談抄』第三、雑事。『続古事談』第五、諸道。『宇治拾遺物語』巻一一)――これが何時か袴垂と合一して巨盗の姓名が完備するに至ったのである――、鬼同丸(『著聞集』巻九、武勇)を初め、交野八郎(同巻一二、偸盗)、大殿・小殿(同上)、大太郎(『宇治拾遺物語』巻三)、金山八郎左衛門(『あきみち物語』)等の大賊に関する伝説がある。『著聞集』も亦「偸盗」の一部門を設けて約二十の説話を載せているのである。交野八郎捕縛の際は後鳥羽上皇御手づから櫂を執って御船の上から北面の武士共を指揮し給うた珍しい御逸話として語られている。その交野八郎を『著聞集』には「強盗の張本」と記し、又『宇治拾遺物語』には袴垂をも(巻二)、大太郎をも(巻三)、「いみじき盗人の大将軍ありけり」と言っている。本伝説の熊坂は即ちこの時世に所謂「いみじき盗人の大将軍」としての立派な有資格者である。橋弁慶伝説の武蔵坊も、『義経記』(巻六、判官南都へ忍び御出ある事)の義経の太刀を奪おうとして却って懲らされた奈良法師の但馬阿闍梨も亦、要するに引剥の悪僧で、熊坂と相距る遠からざるものである。又舞『烏帽子折』では、青野ヶ原に集合した大将株七十余人、小盗人三百人が熊坂を中心にしての討入前の謀議、偵察の為に遺されたやげ下の小六の報告、謡『烏帽子折』では、

大手がくわっと開けたるは、内の風ばし早いか。さん候。内の風早くして、或は討たれ、又は重手負いたると申し候。
という隠語や、
さて松明の占手は如何に。一の松明は切って落し、二の松明は踏み消し、三は取って投げ返して候が、三つが三つながら消えて候。それこそ大事よ。それ松明の占手といつは、一の松明は軍神、二の松明は時の運、三は我等の命なるに、三つが三つながら消ゆるならば、今夜の夜討はさてよな。
という迷信的慣習やが、夜盗団の映像を一層判然と浮び上らせている。
 

成長・影響】本伝説は熊坂長範の名の方で成長進展もし、同時に後代文学や伝説へも影響を与え、『義経記』の藤沢・由利の名の方では殆ど発達しなかった。そして謡曲はいづれも単独らしく見えるが、舞『烏帽子折』には長範父子六人とし、又金商人も『義経記』は吉次一人であるが、謡『烏帽子折』には吉次・吉六兄弟とし、舞『烏帽子折』では三人兄弟となって、吉次・吉六・吉内とせられている。これは大体に於いては成長であろうが、必ずしも上の順序通り漸次に増加して行ったわけではなく、中には逆に縮約せられたという方が真である場合もあるかも知れない。又場所は鏡宿から美濃の方へ移ったのではないかと想像せられるが、美濃の垂井・青墓・赤坂の三説はいづれが先であるとしても、隣接の宿駅であるから、流移は極めて容易であり、大きく観れば同一としても差支ない程である。それは兎も角もとして、本伝説流布進展の結果、長範は頗る有名となり、前に述べた袴垂保輔及び後世の石川五右衛門と並称せられて、殆ど本邦強盗の代表者たらしめられるようになった。又本伝説成長の間、少なくとも文学の構想及び表現の側から、橋弁慶伝説との流通も行われたと観られる節がある(落語の『熊坂』の二人の闘戦状況の如き、その好い例証である)。それは或意味での類話である関係上自然でもある。又戯曲・演劇の趣向の変化警抜を求める傾向から、伊勢三郎とも(『末広十二段』『殿造源氏十二段』)、或は鬼一法眼伝説及び弁慶生立伝説とも(『勝時栄源氏』)結合せしめられるに至った。

舞曲『烏帽子折』の説話内容乃至作品としての同曲から『十二段草子』が影響を蒙っていることは前に述べた。併しこれはやはり同舞曲及び謡曲『烏帽子折』から古浄瑠璃『牛王姫』に与えた影響と共に、本伝説の挿話的或は部分的の交渉に止まり、本筋の上での転化というのではない。それよりも本伝説から派生したものとして注目に値するのは山中常磐伝説で、これは特に別項として説くこととするが、その他にも、熊坂長範物見の松或は古跡の松の伝説がある。

この伝説は説話形態を有する筋立った伝説というのではなく、本伝説に附帯し或はそれから派生した古蹟的口碑である。即ち

あれ御覧ぜよ向ふなる、高き一木の梢こそ、盗人の首領長範が、物見の松と呼んで、数人のあばれ者、暮るれば其処に集まりて、押入がんだう辻切の、手分を致し候由、(『末広十二段』二段目)

物見の松とて長範が駈けのぼる大木の下へ集まり、(『義経倭軍談』五之巻)

美濃国垂井と赤坂の間青野原に、熊坂が物見の松あり。相伝う、昔長範この松の上に潜りて。往来の人を窺いけるといえり。(『諸国里人談』巻四、生植部、物見松)

美濃国青野ヶ原に小松原あり。東へ下れば道より右の方也。その中に高さ十間ばかりの松あり。これを張樊が物見の松といえり。この松に登りて、東西四五里が程を見すまし、人馬の足の運びを見て、荷物それぞれの様体をさとりて、手下の者にいいつけて、その物を奪い取らしむと云々。(『謡曲拾葉抄』、熊坂)

とあるのは、熊坂が部下の群盗招集の場所にしたり、或は旅客の通行を遠見したりした来由があると知られるが、
その行方は白波の、古跡を今に熊坂が、物見の松に行き暮れしが、(『サンシズカタイナイクン■(歹+粲=サン、白米のこと)静胎内■(てへん+君=クン、拾うこと)』五段目)
美濃国青墓の宿はづれ、青野が原に長範塚と申して、熊坂が亡き跡の標を、物見の松と言いならわせ、この塚人詣でて萬づの事を祈るに、大方はその奇特を見せける。(『義経風流鑑』一之巻)
とあるのは、その松下に葬って墓標代わりにもしたと聞え(この松の附近に熊坂の墳の在ることは既に謡『熊坂』にも語られている)、而も祈願を叶える霊験があるとは、流石に非凡人の名残で、如何にも俚民に起りそうな迷信でもあり、思わぬ罪滅しの功徳と見える一方、
此処はかの青野が原、熊坂が物見の松、この所に休らえば、懐中の物も失うと伝えしが(『サンシズカタイナイクン■(歹+粲=サン、白米のこと)静胎内■(てへん+君=クン、拾うこと)』五段目)


とも信ぜられ、殺生石ならぬ偸盗執心の固着も、亦俚民心理に生じ得べき自然さがある。青本にも『熊坂長範世語古跡松』、黄表紙に『熊坂長範物見松御休所』、歌舞伎の外題にも『熊坂長範物見松』の名が見える。黒本の『伊勢三郎物見松』――伊勢国二見にその名の松もあったと『理斉随筆』(巻一)に見える――も、この熊坂の物見の松からの転移であろう。同じく強盗であった点もそれを容易ならしめる。現に両人は『末広十二段』では血縁関係に置かれ、『殿造十二段』では同一人とすらせられ、それより早く『義経地獄破』(二段目)では、義盛の前名は、長範の一党たるやげ下の小六であったとせられてもいるのである。なおこの松は正徳年中大風で倒れ、植続の松も上田秋成の存生時代に枯れたと見え、馬琴の『覇旅漫録』(巻中、京師の人物)に、京師での今の人物として皆川文藏・上田余斉二人を挙げた條の後に、

今、上方にて人口に膾炙する歌
美濃国熊坂物見の松枯れたりければ詠める
風騒ぐ緑の林根を断ちて戸ざさぬ御代に青墓の宿 秋成
おなじこころを
熊坂の物見の松も枯れにけり何いたづらに年をぬすまん 李花園
と録せられている。元来この物見松は『新撰美濃志』によると、幣懸(しでかけの)松というのが原名のようで、朱雀天皇の朝、南宮の社に将門調伏の祈祷があった時、幣を懸けたにその名が起因する名木で、熊坂伝説が流布するに及んで、それが、転移して来て、終にその名を奪われるに至ったのである。謡曲『熊坂』にも、一木の松とだけで物見の松とは明記せず、又細川幽斉の『老之木曽越』に
青野が原にいと古りたる松の一木立てるを見て
経てや来し幾夜嵐の松一木なれぞ我が身の老の友なる
とあるから、物見の松の称は或は徳川期になってから獲たものであろうか。青野ヶ原には他に長範腰掛岩、熊坂隠し厩の跡など称するものが残っているが、又『塩尻』(巻八六)に、やはり長範が海道の馬を盗んで来ては繋いだという古厩という地名、その地に在る長範が盗んで来た白馬を黒色に変じさせたという毛替の地蔵、又その東平針村の長範が馬場等の古跡が尾張国に在るのを訝しんで、
美濃国赤坂にこそ熊坂が物見の松及び盗みし馬を藏せしとて洞もありとかや。(中略)如何なる盗人を言い誤り侍る知らず。
と誌されている。熊坂伝説の遊行と、従って同伝説の拡布を語るものと言える。 

又長範が盗の為に高野に登り、思いの外に菩提心を起して、自ら向歯を打ちかいて骨堂へ投げ入れ、

高野山峰の嵐は烈しくとこのはは残れ後の形見に
と詠じた奇抜な伝説も生じた(『新著聞集』第一八、雑事篇)が、これは熊坂ほどの強悪にも菩提心を発せしめる霊地の尊奇を讃えようとする宗教的意味から生まれた伝説である。そして実は足利義教の詠と逸事を訛伝したものであることは、『燕石雑志』(巻之二、古歌の訛)に馬琴が『室町殿物語』と『曽呂利咄』を引証して論断しているに加える所は無い。伝説ではないが、本伝説から出た服飾名に長範頭巾があり、又他人の財布をあてにし、或は成功を見込しての冒険の前祝の意に用いられる「長範があて飲み」という俗諺も、舞『烏帽子折』の
大幕三重に引かせ、大筒大瓶かき据え、我等が財(たから)を飲まばこそ、吉次が皮籠(かわご)を飲むなるに、飲めや唄えやざめけとて、舞うつ唄うつ酒盛をする。
とあるのから来ているのであろう。それから義経は睡眠する際はいつも半眼で眠ったと言い伝えているのも、やはり同曲に
笄(こうがい)抜きて枕と定め、髭切の御佩刀を腹の上にどうど置き、弓手の足をさし延べ、馬手の足をきっと立て、弓手の御目のまどろむ時は、馬手の眼が天井を、はったと睨んで、宿直(とのい)をしてこそ臥されけれ。
とあるのでその来由がわかる。

更に本伝説を変形し、又は熊坂の名を借りて趣向を立てた文学も多く出ている。例えば『熊坂今物語』(西沢一風)、『熊坂長兵衛女金商花盛雛献立』(古今亭三馬)、『物見松女熊坂』(東里山人)等の如きそれであるが、何れも直接本伝説を取扱った作品ではなく、影響文学と言うべきものである。

文学】『義経記』には巻二に「鏡の宿にて吉次宿に強盗入る事」の一章がある。但し賊の名を由利太郎・藤沢入道とすることは前に述べた通りである。この系統に属するものに、『金平本義経記』(初巻、六段目)、近松の『十二段』(二段目)、『義経興廃記』(巻二)等がある。それから義太夫が若年五郎兵衛と称した頃、宇治嘉太夫(後の加賀掾)のワキを勤めて『西行物語』の二段目に藤沢入道夜盗の修羅を語って好評を博し、後年立身の基を作った由が『今昔操年代記』(上之巻)に見えるのは、やはり本伝説に関するものであったのでもあろうか。

併し文学としても、熊坂として作られたものの方が有名で、舞曲『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』及び『熊坂』を以てその代表作とする。『熊坂』は『烏帽子折』の後半に相当する部分、即ち純粋の本伝説のみを取扱った作である。謡曲には他に『現在熊坂』があるが、幽霊能の『熊坂』を現在物に脚色し直したといっただけのものである。外記節の『現在熊坂』(『松の落葉』巻二、中興当流浄瑠璃)はこれからでなく、却って『熊坂』の方から来ている。戯曲では『末広十二段』(二段目)、『児源氏道中軍記』(二段目)、歌舞伎狂言では『殿造源氏十二段』『御所鹿子十二段』『勝時栄源氏』『熊坂長範物見松』『熊坂』等の作がある。

小説では『勲功記』(巻二)に張樊とし、又『謡曲拾葉抄』所引の『異本義経記』にも熊坂張樊とあることは既に説いたが、後者は触目したことが無く、真否は決しかねる。その他浮世草子・草双紙等の一代記風の義経物には殆ど採られていないのはない。独立した篇としては、青本『熊坂長範世語古跡松』、黄表紙『藤沢入道熊坂伝記』『熊坂長範物見松御休所』(一九)、合巻『二人児女二人牛稚寄愛度(よせてめでたき)金売吉事』(陽斉南山)、『義経一代記抜萃熊坂物語』(柳亭種彦)等があり、又読本に『新編熊坂物語』(栗杖亭鬼卵)、草双紙風読本に『熊坂長範物語』(笠亭仙果)、絵本に『松白浪熊坂伝記』がある。『熊坂物語』の口絵には、「熊坂が手下の賊姓名異同考」として、謡曲・舞曲、『義経記』『異本義経記』を比較参照して表を作り、一々熊坂一類の肖像まで掲げてある。それから菓子の名の「今坂」に掛けて落ちにした落語の『熊坂』もこの伝説を題材としている。

又鬼外の『嫩■(容+木)葉相生源氏』(第四、板鼻の段)には伊勢三郎の女房の話として本伝説は採られ、合巻『新編月熊坂話』(時太郎可候)は、熊坂の生立を綴ったものであるが、舞曲『烏帽子折』に見える熊坂自身の物語とは全然関係なく、且前編のみで、なお牛若との交渉に及ばず、巻末に、

後篇 さんでうのえもんみぶの
   こざるあそうのまつわか
   すりはり太郎おのおの

三冊 ごうどうしてうしわかの
   てにほろびししまつを
   ごらんにいれ申候

とある予告によって、その意志はあったことが知られるけれども、後編は発刊を見なかったようである。

又熊坂のことは見えないが、謡・舞曲の『烏帽子折』から出て、烏帽子折の件を素材としたものに、近松の『源氏烏帽子折』(三段目「烏帽子折名づくし」)がある。


 

(ろ)山中常磐伝説(常磐御前殺害伝説)

熊坂長範伝説の変容又はそれからの派生、少なくとも関係が密接で、進展の後は明らかに同伝説と合体しているのはこの山中常磐伝説である。

内容

人物  常磐御前・侍女。御曹司義経(牛若丸)。熊坂長範乃至その一党、或は同類の賊徒(〔補〕『山中常磐双紙』には、てんぴいなづま・はたたがみ・せめぐちの六郎(以上舞曲『山中常磐』と同じ)・ほりの小六よかはの太郎(舞には「余川の十郎」)・いますの七郎(舞には「いまづの与太郎」)の六人としてあるが、舞曲『烏帽子折』の長範が部下中の、さいぐちの七郎・やげ下の小六等の名と流通しているものがあることが認められる)

年代 (牛若奥州下りの後)

場所 美濃国不破山中宿
 

牛若が鞍馬から脱出したとの報に接した母常磐はいたく驚き愁い、侍女を伴って後を追い、美濃不破山の山中宿に泊まった夜(〔補〕『山中常磐双紙』(『山中絵巻』)及び舞曲『山中常磐』には病を獲て滞留したとある)、熊坂一味の強盗に襲われ、衣服を剥がれた上、無惨にも殺害せられたのを、知らずして此処を通過しようとした牛若がこれを聞いて悲歎痛憤遺る方なく(〔補〕『山中絵巻』及び舞曲には、母の夢をのみ見るので恋しさに奥から再び京へ上る途、一日違いでこの宿の同じ家に泊まり、母の夢想によって、事情を知り且復讐を嘱せられたとある)、その後吉次が財宝を奪おうと乱入した熊坂を斬って、測らずの母の仇を報いたのであった(〔補〕『山中絵巻』及び舞曲では牛若が宿の女房と謀って態と目ぼしい什物を飾らせ、賊共を誘寄せて討取り、母の怨を復したとなっている)。

出処】(〔補〕舞曲『山中常磐』、御伽草子『山中常磐双紙』)。
『■(歹+粲=サン)静胎内■(てへん+君=クン)』(一段目)。御伽草子『天狗の内裏』(下巻)の未来記中にも

ここに一つの大事あり。汝が東へ下ると聞かば、母の常磐が追っかけんその為に、跡を慕いて下るとて、美濃と近江の界なる、山中という所にて、熊坂という夜盗の奴原に、害せられんぞあさましき。よしそれとても力なし。これも前世の宿業なり。
とあり、金平本『義経地獄破』にも、美濃山中で変死した事を、常磐の霊が自ら大天狗に語る事が見える。『広益俗説弁』(正編巻一四、婦女)には場所を青墓としながら、この伝説を「これを山中常磐という」と記している。青墓と同郡ではあるが、山中は別の宿駅である。詳しく調査するに及ばなかったのであろうかと思う。

形式・構成・成分・性質】それ自身山中常磐型とでも言うべき説話型を形成している。一種の美人遊行伝説でもあり、それが出家結庵或は入水等の形を取らず、強盗譚と連結して其処から勇者復讐譚を生成し、それが又競勇型勇者譚の闘戦型説話でもある点は、熊坂長範伝説と同じである。空想的(仮構的)成分が最も多く、神話的成分も牛若の神人的手腕に認められ(〔補〕『山中絵巻』では舞『烏帽子折』と同じく霧の印と小鷹の法を用いる呪術(マジック)があり、又亡霊の夢想託宣があって、神話的成分が増している)、史実的成分は牛若母子の史的人名の上に見出される他、極めて稀薄である。准史譚的武勇伝説とすべきであろう。

本拠・成立】史実の根拠は皆無であるばかりでなく、常磐は清盛の寵が衰え(一女を生んだ事が『平治』(巻三)に、その女は廊の御方とて、花山院内大臣の北方になった事が『盛衰記』(巻四六)に出ている)て後、一條大蔵卿長成に嫁して(『吾妻鏡』巻一。『平治物語』巻三、牛若奥州下りの事)侍従能成(『吾妻鏡』巻五、『盛衰記』巻四六)外数子(『平治』巻三)を生んで居り(能成は『吾妻鏡』(巻五、文治元年十一月三日)都落の條には「侍従良成義経母弟一條大蔵卿長成男」、『盛衰記』にも「義経が同じ母の弟」と明記してある)、且義経が頼朝に憎まれて没落した当時、鎌倉方に捕らえられたと見え、『吾妻鏡』(巻六、文治二年六月)に、

十三日己未。当番雑色宗廉、自京都参著。去六日於一條河崎観音堂辺、尋出与州母井妹等生虜。可召進関東由云々。
と出ているから、その頃まで存命であったことは明白である。妹とあるのは長成の子であろう。能成も判官に縁坐して、その前年十二月十七日に解官せられている(『吾妻鏡』巻五、文治元年十二月二十九日、『盛』巻四六。共に「能成」と出ている)。

愛し子の跡を追っての東下りは、恐らく梅若伝説(謡曲『隅田川』)の変容であろう。近松が本伝説に取材した『十二段』(二段目)にそれを利用しているのも矛盾無く首肯出来ると同時に、又その前身を暗示している観がある。同じ賊人の行動という点で、自ら熊坂伝説と吸着し合った別箇の発生を有つ伝説かも知れないが、『義経記』にも見えぬこの牛若の強賊戮殺という殆ど同一の事件から観れば、やはり熊坂伝説からの転移と見るが自然のように思われる。復讐的意味の加えられた点でも後のもののような気がする(〔補〕東下りの途に於いて吉次が狙われる方が自然で、『山中絵巻』や舞曲のように一旦奥へ下った牛若が再び京上りする途にこの事変に遭遇するというのも、少し作為或は空想的分子が多きに過ぎて、後の発生であろう推断を愈々助ける。法術を用いるのも舞『烏帽子折』の影響ではなかろうか。尚、同双紙及び舞曲に、常磐が賊の為に身ぐるみ剥ぎ取られたので、余りに情無い仕打、せめて膚を隠す小袖一つは残せよ。それが叶わずば命を取れと喚びかけて、終に刀下の鬼となるのは、室町時代の小説『三人法師』の三僧の懺悔談中、第二人目の三條の荒五郎が発心の動機、強盗渡世の昔、北野参籠帰りの上臘を引剥し、膚小袖まで奪われては命生きて詮なし、殺されたいと言うにまかせて一刀に刺し殺したのが第一人目の僧の在俗当時の愛人であったという構想と全く一致している。先後の徴証は無いけれども、恐らく『参人法師』の方が古くて、それから採ったものではあるまいか)。が、刊行すら萬冶二年の『天狗の内裏』に既に見えているのであるから(〔補〕且舞曲及び絵巻にも作られているし)、一般の義経伝説より(特に熊坂長範伝説よりは)稍成形は遅いとしても、やはり室町末、少なくとも徳川初世頃までには相当流布していたものと想定してよいであろう(〔補〕寛文元年刊、或は初刊は萬冶四年かとも言われている『義経地獄破』(二段目)に熊坂一類の強盗を列挙した中に「かいつかみの鷲四郎・窓を覗くはにらめくら・ともを迷わす狐三郎」とあるは舞『烏帽子折』と、そしてその次に「てんぴいなづま・はたたがみ・せめぐちの六郎」とあるは明らかに『山中絵巻』及び舞曲と一致する。この点でもそれらの双紙乃至はその内容説話が同曲以前にかなり知られていた伝説であったことを示すものである)。

山中地方の口碑としては勿論行われ、その北嶺石原峠に常磐御前の墓と称する三基の石塔婆を存し、芭蕉の『甲子吟行』(『野曝紀行』)にも

大和より山城を経て、近江路に入りて美濃に到る。今須・山中を過ぎて、古へ常磐の塚あり。
と見え、貝原益軒の『木曽路記』(巻下)にもこの墓の事を載せ、又新井白蛾の『牛馬問』(巻三)には
美濃と近江の国界寝物語の里を越えて、山中の里と云う所に、常磐御前の古墳有り。少し行くに黒血が橋有り。橋より左に当りて本陣屋敷跡有り。是昔義経熊坂を討ちたる所という。土人が曰く、義経盗等を切って庭地に満つ。その池水血に染みて流れ下る故に、黒血川・黒血が橋の名有り。池の所今に存すという。野上・山中は古への本宿なりしに、今見れば僅かに草の扉のまばらなるのみ。
と見えている。『俗説弁』にも「今に墓あり」と記して、その妄を弁じ、
常磐が後に長成の妻になれる事を知らざる者、牛若奥州下向の時、かくやありけんと想像して、妄作しけるを伝え来りて実とし、他人の墓などを常磐が墓と誤り言えるなるべし。
と推断している。果然、上の墓は一説には鎌倉の六波羅探題、北方常磐駿河守範貞の墓とも言われているという(『大日本地名辞書』美濃、不破郡、石原峠)。真否の程は明らかでないが、若しそれが事実とすれば、――或は伝説でも差支ないが、その方が先立ってさえ居れば――同名の「常磐の墓」が男性から女性へ移行しても不思議ではない。但しいづれが口碑として先行したかは無論詳らかでない。如上諸書に記載せられてある点からも、常磐御前としての方が早いかも知れない――少なくとも古くから著名であることだけは確である。又別に常磐を殺したのは山中地方の不成人(かたは)猿の祖先で、その報として子孫代々不具に生まれるという伝えもあるらしい(『織田真記』)(『大日本地名辞書』所引)。これもその発生は本伝説といづれが先か明証は無いが、恐らく後のもので、且原は本伝説とは全然無関係の地方口碑で、猿神式の犠牲伝説の不完形、乃至不具の血統に関する迷信的説明伝説であったのが、常磐御前殺害伝説と混淆して来たのではあるまいか。そしてこれらの口碑は仮に後の発生であったとしても、本伝説の原拠となったのは、やはり何等か美人遊行伝説に融化した別箇の斯の種の地方的口碑であったのではあるまいかと考えられるのである。苔蒸した無縁の塚なども、この伝説の完形を促進するに、無論与ったことであろう。

なお又、説話上の交渉は無いが、地名が同じ山中である点で、次條の関原与市伝説とも、何か関係がありそうにも思われるけれども、いづれからの転移か確証は無い(次條(は)参照)。

解釈】本伝説には前條の伝説に於けると略同じ意味が認められる他、義経伝説の主人公の生母の終焉悲劇を示して伏見常磐伝説に相応ぜしめ、これ亦数奇の一生を送った同情すべき一女性として、それに劣らぬ宿命を約束せられた所生の英雄に対せしめられてい、それに関連して、牛若丸は武名に加うるに仇討の孝子の誉をも賦与せられ、平家討滅という父兄の為の会稽を雪ぐ以前に於いて、母の慰霊を営んでこの点までも伝説界の対手たる曾我兄弟に比肩し得る完全な資格を贏ち得た。

成長・影響】常磐殺害の盗人を熊坂とするのと、そうでないとするのと、何れが早いか明らかでないが(〔補〕『山中常磐双紙』及び舞曲『山中常磐』の出現により、後者の方が先のように思われるが、『天狗の内裏』に熊坂と既にあるから、これも一概に排し去れない。縦い『天狗の内裏』の製作が舞曲や『山中絵巻』より後であっても、甚だしく年代が隔ってはいないであろうし、既成の異伝をそれぞれに採ったのであるかも知れないからである)、成長の間自ら熊坂の方へ帰一して行ったようである。近松の『十二段』(二段目)には『義経記』に学んで藤沢・由利とし、且梅若伝説の形を応用して渡船の舟長から牛若が事変を聞くことになっている(詞章も謡曲『隅田川』に摸した所がある)。(〔補〕この『十二段』四段目「浄瑠璃御前道行」の姫主従の道行及び姫が無頼漢藤太に殺害せられる事、同五段目、義経が奥から攻上る途に姫の墓を弔う事の構想は恐らく本伝説特に『山中絵巻』の説話の変容と思われる。『山中絵巻』はやはり義経が攻上る途に山中宿で母の墓を弔う事に終わっている。但し後の構想は既に『十二段』の前身たる古浄瑠璃『天狗の内裏』で変容せられているのを通してである)同じ近松の『■(歹+粲=サン)静胎内■(てへん+君=クン)』(初段)の方は熊坂で、これは義経の昔語りの中に、熊坂が母常磐を殺した怨讐を、吉次を襲った夜復した模様が述べられ、海音の『末広十二段』(二段目)は同じく熊坂であるが、これは却って源氏の遺臣で、過って常磐主従を捕らえたけれども、部下の手前、侍女で実は己が娘の千草のみを殺し、常磐御前は隠し置いて牛若に渡すことに変わって来ている(但し、『胎内■(てへん+君=クン)』よりはこの方が早い作である。『十二段』よりは後であるが)。且この曲では長範は伊勢三郎義盛の叔父とせられてしまっている。歌舞伎の『熊坂長範物見松』もこの系統を引くもので、青墓宿を襲って熊と牛若に斬られ、隠してある常磐を土蔵の中から出して、自身は源家の義臣たる素性と本心を打明けて死んで行くのである。要するに本伝説の進展と共に、熊坂の性格も鬼一と同様、善化への改変を蒙りつつ、成長して行っている。

文学】(〔補〕『いろは名寄』や『能の図式』に見える廃曲名に『山中常磐』があり、古浄瑠璃にも同名の曲があったようであるが、伝存せぬので、古い作に接することが出来なかったのを、昭和三年十二月、第一書房主長谷川巳之吉氏が絵巻物『山中常磐双紙』(伝岩佐又兵衛筆、十二巻)を入手、次いで複製領布を見たので、この罅隙が捕らわれた。この巻子本の絵詞は御伽草子式であると同時に、舞の本及び古浄瑠璃に近いようなもので語り物風の所もある。然るにその後、笹野堅氏蔵の舞曲『山中常磐』――『山中絵巻』と同一素材、唯詞章に異同がある――の発表があって(「国語と国文学」昭和七年九月号「大橋中将と山中常磐」)、愈々本伝説の原典とも称すべき作品が紹介せられた上に、従来『伏見常磐』の一名かと疑われていた『山中常磐』の実存が、幸若舞曲の曲目に又一番を増加する結果となった)

明らかに徳川期に入ってからのものでは、既に引いた『十二段』(二段目)、『末広十二段』(二段目)、『熊坂長範物見松』等がある。

(は)関原与市伝説

東下りの初頭に於ける事件で、序に附して説くべきはこの伝説である。

内容

人物 牛若丸。関原与市(又与一)
年代 (奥州下りの途。『異本義経記』には安元三年初とあると『塩尻』に引かれている)
場所 山城国粟田口、松坂(舞『鞍馬出』)或は美濃国不破、山中宿(謡『関原与市』)


鞍馬を脱出した牛若が東走の途で、平家の士関原与市の一行とすれ違った時、与市の馬が潦水を蹴上げたのが直垂にかかったので、牛若はその無礼を詰り、少年と侮って傲慢な与市主従を散々に打懲した。『鞍馬出』では与市は弱敵と蔑んで討とうとして、却って刀で馬首を打たれて落馬し、泥水には濡れ、牛若には嘲弄せられ、面目無さに馬も下人も打捨てて山科寺の傍に深く身を隠したとし、『関原与市』では手勢を打散らされて、怒って自身闘ったが、斬られて命を殞し、牛若はその馬を奪って奥へ下ったとしている。

出処】舞『鞍馬出』、謡『関原与市』。『塩尻』(巻五六)に『異本義経記』を引いてあるが、同書が伝存せぬので質すに由が無い。

型式・成分・性質】熊坂長範伝説と同じく競勇型勇者譚に属する競武型且闘戦型説話である。熊坂伝説よりも史実的成分は一層薄い。神話的成分はやはり牛若の神人的闘戦乃至武術の上に認められ、且『鞍馬出』ではこれ亦「僧正が崖にて習わせ給いし天狗の法、出逢う所と思召し」、これを試みることになっている。性質から言えば、准史譚的として取扱っても差支無いほどの史譚的武勇伝説と言うべきであろう。

本拠・成立】本拠と目すべき史実は全然無い。『義経記』にもこの伝説を載せていない。唯、同書(巻一、遮那王殿鞍馬出の事)に
都は敵の辺なり。足柄山を越えんまでこそ大事なれ。坂東というは源氏に志のある国なり。言葉の末を以て、宿宿の馬取りて乗りて下るべし(中略)と宣へば、吉次これを聞きて、かかる恐ろしき事あらじ。毛のなだらかならん馬一匹だにも乗り給はずして、恥ある郎等の一騎をだにも具し給はで、現在の敵の知行する国の馬を取りて下らんと宣ふこそ、恐ろしけれとぞ思いける。されども命に随い、駒を早めて下る程に、松坂をも越えて、四の宮河原を見て過ぎ、逢坂の関を打越えて、(下略)
とあるのは、謡『関原与市』の所伝を通して観る本伝説の発生が、暗示せられているようにも感ぜられる。又舞『鞍馬出』は粟田口辺で待合せようと約した吉次が見えずして、松坂(日岡の坂の一名、粟田口から山科へ出る路)で与市一行に行逢ったとしてあり、この粟田口で待とうとの約束をした事及び其処で落ち合って同伴した事は『義経記』(同條)にも見え、且『鞍馬出』の前半は吉次が牛若に対面しての奥州物語の件で、やはり『義経記』同巻の前章「吉次が奥州物語の事」に全く相当するのである。少なくとも本伝説は『義経記』以後の発生であろうと想測される(『平治物語』(巻三、牛若奥州下りの事)は、吉次と約束はしながら、京を出る際は陵某と同道した事になっているから、必ずしも吉次と伴って都を出たという伝説ばかりが行われていたのでないことも知れるのであるが、この方は又少し特殊の所伝になっているから――『義経記』では途に陵の家に立寄ったことにしてある――本伝説との交渉は先ず認められない。若し交渉があるとすれば、その吉次と同道しなかったという点だけが或は間接に本伝説の成形を助長したかも知れないが)。

関原与市を美濃国の住人とするのは謡・舞共に略一致してる。但し『鞍馬出』の方は美濃から大番の為上洛するとし、『関原与市』は反対にこの度美濃中川庄を賜って入部するとしてある。然らば後者では元来の美濃の国人ではないのかも知れないようでもあるが、兎も角美濃に領地を有する人物としてあるのが共通している。この点からして、その姓はやはり美濃の地名から来ていると観られ得る(後者の方の事件の起った地名、山中も即ち関ヶ原村の大字であるから、やはりその地に関係ある姓を有する人物たることは同断である)。そして美濃の住人が上洛するという方が自然さがあり、又場所も松坂の方が自然らしくもあって、舞曲の所伝の方が古いのではあるまいかという気がする。併し地方口碑としては両方各々行われている。又美濃山中宿というのが前にも述べたように前條の山中常磐伝説と偶合していて、何れかが本源でありそうに思われる。少なくとも前伝説はこの地名が必須條件を成し、その点他に異伝が無いようであるが、本伝説ではそれが必須の場所ではなく、移動の可能性があり、現に両様の所伝のあることは注目すべき点であろう。但し、後の流移の方が却って或地名に固着してしまうことも有り得るから、勿論一概には定められないが。

解釈】熊坂伝説の條に説いた通り同じく兵法実地の試練と牛若の胆勇を叙する伝説で、且その対手が平家の士であるに於いて、牛若の敵愾心を著しくさせ、同時に東下りの手初に端くれながら敵の一人を圧服して、成長後の平家討滅の素志成就の吉兆を予見した事を、国民は牛若と共に祝福するのである。

成長・影響】本伝説は他の諸伝説に比して著しい成長も後代文学・伝説への影響も殆ど見なかったようである。唯、『鞍馬出』では与市の従者は僅かに若党三人、中間六人だけなのが、『関原与市』では入部というのでもあるが手勢七十余騎である。そしてこの大勢が牛若を取込めて討とうとし、却ってその鬼神の如き働きに多く死傷し終に敗走するので、これは恐らく説話としての進展であり、且後者は熊坂伝説の影響を受けてかかる形に成長したものらしく、『関原与市』の描写・詞章がそれを示している。

又、古跡として山城の方は「蹴拳水」(『雍州府志』(九、古蹟下)、『塩尻』(巻五六)等)(現に蹴上の地名も存して有名である)、美濃の方も「蹴あげの清水」「蹴あげの茶屋」(『新撰美濃志』不破郡、関ヶ原村)の名を遺している。関原の人名からその人名の発生地たる関ヶ原乃至山中へも、この伝説が移って来たのではあるまいか。特に山中は前條の伝説に於いて牛若丸とは因縁づけられている土地でもあるから。

文学】番外舞曲『鞍馬出』(一名『東下り』)、謡曲『関原与市』。既に言及したように、前者は牛若が吉次から奥秀衡の事を聞いて、多聞天の託宣と感銘して鞍馬を去る事に始まり、次に本伝説を取扱い、後者はその後半に相当する部分即ち本伝説を主題とした作である。そしてこの『関原与市』に
これは義朝の末の子、牛若とは我が事也。さてもこの度平家の栄、安芸守清盛が子供、一山の賞翫他山のおぼえ、立交はるも憚りなれば、東とかやに下らんと、忍びて出づる鞍馬寺、
の語句があるのは『鞍馬天狗』から採ったこと明白であり、その他の文詞から観ても、『鞍馬出』の方が早い作であろうかと考えられる。『異本義経記』にも本伝説を語っている由であるが、同書は疑問の書で、若し存在したとしても、『義経記』よりも遙に後の作で、恐らく謡・舞曲に作られてから、それを探入れたのではなかろうかと推測される。それは本伝説の部分に限らす、他の伝説の場合でも同様の推定が下し得られる可能さを多分に有するからである。

 

(七) 橋弁慶伝説

この伝説は普通には鞍馬山時代のように考えられているが、諸伝区々で曖昧であるから、特殊のものとして、此処に置いてみた。

内容

人物 牛若丸(義経)。武蔵坊弁慶
年代 牛若丸十四歳(伽『橋弁慶』)或は十九歳『弁慶物語』(なお同書では弁慶は二十六  
   歳))。(謡『橋弁慶』によれば鞍馬入以前らしく、伽『橋弁慶』は鞍馬時代とし、『義
   経記』では一旦奥下りの後、再び密に上京した時の事としてい、『弁慶物語』もこれ
   に倣っているらしく見える)
場所 京都五條橋(『義経記』のみは清水観音の附近)


最も普通に知られている形では、叡山西塔の荒法師武蔵坊弁慶が、千振の太刀が欲しいとの誓願を立てて、夜々京の五條橋に出て、行人の太刀を奪取していたが、満願の最後に出逢った笛を吹きすさみつつ近づく千振目の太刀の持主こそは、薄衣を被いだ女と見せた源家の公達牛若丸で、両人互いに雌雄を争った結果、弁慶は打負けて降参し、長く主従の約を結んだという伝説であるが、異伝もあり、又これに関連して、千人斬、而もそれにも牛若千人斬と弁慶千人斬との両説がある。即ち弁慶千人斬とは、太刀奪でなくて、毎夜五條橋に出て行人を千人斬ろうとの大願を発したとするもの(例えば『武蔵坊弁慶異伝』)、牛若千人斬とは、牛若が亡父の十三年忌の供養に、五條橋で平家の士千人を斬ろうと誓を立てたのを、その千人斬の風聞を耳にした弁慶が、これを懲そうと出向いて、却って牛若に服せしめられて臣となったとするもの(例えば伽『橋弁慶』)である。

出処】『義経記』(巻三、弁慶洛中にて人の太刀を取りし事、同、義経弁慶と君臣の契約の事)、『弁慶物語』、御伽草子『橋弁慶』、謡曲『橋弁慶』等。

型式・成分・性質】競勇型勇者譚に属する競武型且闘戦型の説話で、一騎打の形に於いて熊坂長範伝説の熊坂・牛若の闘戦と類型をなしている(謡『烏帽子折』が大太刀であるのを除けば、獲物まで長刀と小太刀で同一である)。義経伝説中での最も童話的な説話の一で、巨人対小人の勝負型とも観ることが出来る。又、千振太刀奪或は千人斬には九十九伝説のモーティフが認められるから、九十九モーティフの競武型伝説とすべきである。それから吹笛という点に音楽説話の要素が含まれているが、楽徳説話ではない。大体本伝説は童話的な空想的(仮構的)成分が大部分を占め、史実的成分は漠然と輪廓をなしているだけである。神話的成分はこれも熊坂伝説や関原与市に於けると同様、誇張せられている牛若の神人的武芸の早技の上に見出される。性質からは准史譚的と言ってもよい程の史譚的武勇伝説と目するが穏当であろう

本拠・成立】史実の徴証は無い。『義経知緒記』(上巻)に、

広田社日次記に、安元の比五條の橋に夜遊の僧有て、往来の人を辛苦(ナヤマス)と有。弁慶が史(フミ:ママ?)か。
及びこれに拠ったと思われる『勲功記』(巻四)に、
弁慶義経を窺いしことを考うるに、広田の社日次(ヒナミ)記に、安元の比五條橋に夜遊の僧有りて、往来の人を辛苦(ナヤマス)とあり。是弁慶が史(フミ:ママ?)ならんか。
とあるのは採るに足らない。本伝説の最も古く見えるのは、やはり『義経記』(巻三)であろう。唯同書には五條橋とはせず、又弁慶との出会は、前後二回とし、一回は六月十七日五條天神に参詣した夜、二回目は翌十八日清水観音の御堂での事としている。弁慶の太刀取の狼藉、御曹司の弄笛の優雅、巨人と幼童との闘戦、君臣の契約等、本伝説の骨子である部分は皆備っている。その上、第一回の出会乃至闘戦が五條天神への途の辺であるのも、五條橋への転移――橋弁慶伝説の完形への進展――を暗示してもいる。『弁慶物語』は三度の出会とし、
第一回 六月十五日夜 北野社での出会。弁慶秘蔵の棒を切り折られる。
第二回 七月十四日夜 法性寺の御堂での出会。
第三回 八月十七日夜 清水での出会。打連れて下って五條橋で勝負を決する。
という順序で、『義経記』と五條橋の伝説(謡『橋弁慶』、伽『橋弁慶』)とを併せたような形を成している。但し御伽草子『橋弁慶』が『弁慶物語』よりも先進の作であるとは定め難く、或は後の作であるかも知れぬが(『弁慶物語』は『看聞御記』にその名が見えるので、略々永享頃の作かと平出氏の『近古小説解題』に推定せられている)、別に同一系統の伝説を取扱っている謡曲『橋弁慶』もあり(この謡曲は日吉安清作(或は世阿弥とも)と伝えられるが、伽『橋弁慶』はこれを敷衍潤色したものか、或は謡曲の方がそれから出たものか不明ではあるが、他の伝説物に取材した謡曲の一般から推して、伽『橋弁慶』そのものでなくても、その内容を成す伝説から採ったことは明らかで、同曲以前に五條橋の伝説が成形していたことの想像は十分可能である。世子作ならば『弁慶物語』より勿論古いことになるが、さなくとも『弁慶物語』よりは早かろうと思われる)、『弁慶物語』が『義経記』の影響下にあることは確実である(同草子では百振奪で、その百本目は納めの太刀故「音に聞く源九郎御曹司の黄金作の太刀を取らばやとぞ思いける」とあるから、既成の伝説乃至文学の流布を予想している事がわかる)と共に、五條橋の勝負を創作したのではなくて、それ以前に成形していた五條橋伝説をも採入れたものと想定していいのではあるまいか。もっと立入って言えば、『義経記』に倣って――或は『義経記』の所伝から出て、多少形が改変せられていた本伝説を主として――叙べようとするのが作者の意図であるにも拘わらず、既に五條橋の伝説として有名になってしまっている事実を捨て去る事が出来なかった為に、否寧ろそれを利用しようとした為に、態々二人を五條橋まで赴かせて、それをも終局に加えたというのではなかったろうかと考えられる。即ち本伝説は『義経記』の所伝のようなのが原形であったのが、五條橋と結合して所謂橋弁慶伝説の完形を成したものと観られ得ると同時に、その橋弁慶伝説の成形も、余り下った時代ではなく、少なくとも永享以前には、早くもその流布を見ていたと推測せられ得るのである。

太刀奪も千人斬も本伝説にとって主要な事件ではあるが、併し本伝説特有とも、亦本伝説に始まったとも言えない。太刀奪の如きは『義経記』中にすら類話を語っている。即ち巻六の「判官南都へ忍び御出ある事」の條で、而もその人物が弁慶・湛海と優劣を争うようなそして殆ど類を同じうする悪僧但馬阿闍梨を筆頭として奈良法師の痴者共六人、やはり長刀を振りまわし、而も亦対手は同じ判官義経、その上同じく笛を吹きすまして出会うのである。伝説として本伝説と発生はいずれが先であったか明らかでないが、何等か交渉がありそうに思われる。又、直接の本拠ではなくても、これらの伝説と関連して、市原野の月夜、衣を剥がうと尾行する賊魁袴垂を後目にかけて、悠々一管の朗音に襟懐を遺る平井保昌の風流と豪胆と(『今昔物語』巻二五、第七話、『宇治拾遺物語』巻二)は、五條橋上の明光を浴びつつ、太刀を剥がうと荒れ廻る大法師を、徐に名笛を吹き止めて、子扇に打悩ます御曹司の優美と武勇とに相距る遠からざるものがあることを想はせるのである。

千人斬の迷信的習俗は、謡曲『千人伐』に、

ワキ「扨この千人切をば、何の為にさせられ候ぞ。」 シテ「これは親の孝養にて候よ。」 ワキ「扨人を討ちても、志になり候よなう。」 シテ「いや是は願にて候。」 ワキ「何れの仏の誓願に、千人伐を立て給う。」 シテ「天竺に斑足王と申す人は、千人の王の首を切らずや。」 ワキ「それも仁王般若経の八句の文にやはらげて、その千人は切らざりしよ。」 
とあるので、その斑足王と普明王の故事である印度の宗教伝説(『仁王経』護国品)から由来したのであろうと考えられるが、父の孝養というのは、舞曲『小袖曽我』に、これも印度の宗教伝説で、天竺のせんなら(戦捺羅)の子兄弟が斉日に多くの人を殺したのを怒って責めた父の首をも刎ね、母の歎を物ともせず、
兄弟の者承り、とても父せんなら、我等をよかれと思召さるまじ。いざや父の孝養に、千人斬して遊ばんとて、此処の辻、彼処の門にて斬る程に、九百九十九人切って、今一人足らずして、懺法堂へぞ参りける。
とあるその兄弟が蓮池の亀を切って人に代えようとして却って奈落へ沈む事が見えているので、その意味が理解出来そうに思われる(そしてこの千人斬の原伝説がもう即ち九十九モーティフのものである)。『鬼一法眼』(巻四)にも、とうかい(湛海)坊を、
二十七の年より三十になるまでに、人を千人斬りて、親の孝養にせんという大悪人なり。
と言い、『秋の夜の長物語』の山門三井寺合戦にも「千人斬の荒讃岐」の名が見える。これらの中には或は本伝説から転移したのも無きを保し難いが、兎に角こうした伝説なり迷信なり慣習なりがあって本伝説の成立をも成長をも助け(殊に『秋の夜の長物語』などは室町初世頃の早い作であるから)、又以上の諸伝説乃至諸作品と互に流通しつつ、相互に成長して行ったのでもあろう。

本伝説の成形には以上のような諸要素が与っていると思われるが、その成形に際して、これを固定させるに頗る都合の好い或遊離した説話型が、この伝説の外殻として自己を提供したものはなかったであろうか。即ち史上英雄に就いて――義経伝説の両大立物に就いて語られてはいるけれども、〔型式〕の項にも言及した通り、日本童話の典型の一である和尚と小僧型と類種をなす大動物と小動物の勝負型、乃至、巨人と小人の勝負型の遊離童話型が、こうした史譚的な伝説内容を有つようになったのではなかろうか。そうした童話では普通には小者の智力の勝利を説く形になっているが、本伝説では武芸の勝利――それも併し勇力ではなくて早技であり機才であり、そして純重な巨象が狡智の子鼠に悩まされると同断である――で、且史上の英雄武人である点で、武勇伝説の形相を成しているというだけである。かく考えると、本伝説が童話的である理由が理会し得られるように思う(九十九モーティフは原からあっても、別に加わっても支障はないが、太刀奪といい、千人斬という條件から推して、武勇伝説としての説話内容の方に附帯したものであったろうと考えるが自然であろう)。『義経記』の所伝でもこの遊離童話型の傾向は認め得られるが、愈々判然としているのは完形の橋弁慶伝説に於いてである。仮に一歩を譲って、若し本源の姿が童話でなく、やはり伝説であったのであったら、少なくともそれが完形の所謂橋弁慶伝説となる際に、全く間隙無く当嵌まり得るこの遊離童話型が、自然に流入融化してしまったと観ることは容認せられてよいであろうと思う。

解釈】本伝説は童話的ではあるけれども、牛若丸時代に属する伝説中、又義経伝説全体としても、重要な意味を有っている。九郎判官の股肱の随一で、特に後半生に於ける義経と、殆ど一心同体の英雄僧である武蔵坊弁慶を獲た機因を語る伝説であるからである。もとより又牛若の武芸の至妙を示すものとしても意義がある。そして大と小、黒鎧と白衣、剛と柔、粗宕と優雅、獰猛頑強の荒入道と紅顔軽捷の貴公子との対照、絵巻にも似た京の山水を背景に、月は天心にあり、夜は深き五條の橋上、大長刀と小太刀とが、空に舞い地に落つる活劇は、全く生きた綿絵そのままで、どんな名優でもその一半をも写し得ぬであろうような舞踊舞台に、我等の幻想を誘って行く。童話としての両雄の勝負はこれ亦勇ましく面白い事この上なく、少英雄達を愉しませる効果は、鏡宿の強盗退治の比ではない。

地「不思議や御身誰なれば、まだ幼き姿にて、斯程健気にましますぞ。委しく名告りおはしませ。」牛若「今は何をかつつむべき、我は源牛若」地「義朝の御子か。」牛若「さて汝は。」地「西塔の武蔵弁慶なり。」互に名告り合い、互に名告り合い、降参申さん御免あれ。……位も氏も健気さも、よき主なれば頼むなり。……これ亦三世の奇縁の始め、今より後は主従ぞと、契約固く申しつつ、薄衣被かせ奉り、弁慶も長刀打ちかついで、九條の御所へぞ参りける。(『橋弁慶』)
の結末は――「一人と見えつる」長範も「二つになって」失せた熊坂(謡『烏帽子折』)でもなく、刎ねられた首を法眼が膝の上に投げられた湛海(『義経記』)でもなく、耳鼻を削がれて追放たれた但馬阿闍梨(同)でもない、互にめでたい明るい終局は――又我人共に満悦せしめられる所で、童話としても好適であり、既に上の謡曲の「降参申さん御免あれ」の一句まで、作者の意識しない所かも知れぬが、如何にも童話的なのが愉快である。

これほどの重要な又有名な伝説なのに、その年代が諸説一致せぬ事が少し甚だし過ぎるのが注意を惹く。これを義経の成人後とすれば、両人の対照の上に、従って童話的な説話の上に、興味を夥しく減殺して来る。そこで牛若丸時代として語られる方の所伝が優勢となって来た傾向が認められるのは甚だ当然といわねばならぬ。然るに若しそうならば、鞍馬入との関係は如何かの問題が起る。即ち鞍馬時代とすれば、服従後の弁慶をどう処置したかの疑問が提出せられて来る。謡『橋弁慶』が

さても牛若は母の仰せの重ければ、明けなば寺へ上るべし。今宵ばかりの名残なれば、五條の橋に立ち出でて、行人を待つとし、臣属した弁慶を九條の館へ随伴するとしているのは、これを解決した一途であろう。けれどもこれは独立した劇曲であるからそれでも許されようが、此処に何よりも困惑せしめられるのは、鞍馬脱出後、吉次に誘われての奥州下向の一事のある事である。この事実はかなり史実の骨子らしいものまで有していて、既に早くから著名になっている。弁慶との出会が鞍馬入以前であろうと、鞍馬時代であろうと、いづれの場合でも、この牛若東下りに没交渉ではあり得ない筈で、それに関連しての弁慶の拳措、若し京へ留まったとすればその動静――吉次と共に牛若が弁慶を帯同したという伝説は殆ど無い。少なくとも古い主な文献には皆無である。又同道したとなると、熊坂伝説や関原与市伝説などが矛盾動揺を来すことになる――等が伝えられねばならない。こういう理由から、かの有名になり過ぎた東下りの伝説乃至それに附帯した熊坂伝説を始め諸伝説とも撞著させぬ為に、『義経記』は一旦奥へ下ってから再び都上りした際の出来事として、辛うじて苦しい合理化の工作を施している(『義経記』作者がこうした救済的補綴を試みたのか、既に別箇にそうした伝説として行われていたのを併せ採ったのか、明証は無いが。なお鬼一法眼伝説の年代も、稍相似た意味を有って、やはり曖昧であるから、『義経記』ではこれもこの京上りの折としている)。これを襲用したと思われる『弁慶物語』も、『義経記』と共に義経時代とするのであるが、一層その年代は曖昧で、鞍馬時代にも連なる如く、又奥から上って来ている如くでもあり、更に終末は二人で奥へ下って平家討滅を策するという事になっている。要するに本伝説は恐らく別箇に独立して――二人の主従契約の機縁に関する伝説として単独に――発生したもので、これが童話的興趣の上からは年歴の矛盾に拘束せられず牛若時代として成長し、年歴と合理化する心意からは義経時代として進展したものと思われる。此処に年代の上での区々たる諸姿が現れて来たものであろう。而も後世は牛若時代として、そして五條橋としての本伝説の流布展開に帰一して行ってしまった。

それから千振或は百振太刀奪でも、千人斬でも、〔型式〕の項で説いたように所謂九十九伝説で、九十九或は九百九十九までは形の如く進行するが、最後の一回で頓挫或は変異が生ずるという説話型で(本伝説では最後の一回に於いて満を欠く條件は定式通りである代わりに、意外の好収穫に終わることになるのである)、これ亦童話的な説話型式であるが、太刀奪はよいとして、千人斬に関しては一応の考察を必要とする。即ちこれを弁慶の所為とすれば先ず論はない――但しそれだとその動機が牛若の場合のような尤もらしさを有せぬというだけである。が、牛若の所業とすると、義経ファンにとって甚だ弁護に苦しむ悪行であるわけである。元来、牛若丸の五條橋千人斬は、亡父の供養に平家の士千人を斬る(伽『橋弁慶』『天狗の内裏』)のであるとすれば、その形に結象した当時の迷信的風習を反映したものに過ぎないとはいえ、所詮笑止愚劣な遊戯に止まり、到底、後年三軍を叱咤して平家を潰滅させようという大望のある英雄の行為ではない。又手に立つ者を試みて、家臣にしようという為(『孕常磐』『鬼一法眼三略巻』)ならば、稍有意味であるが、而も余りに軽忽である。或は真剣を以て人を斬って、兵法稽古の手の内を試す為(『鬼一法眼虎の巻』。牛若と知らずしての平家方の推量)と観るのは、全く江戸時代式解釈で、而もこれも義経を愈々小ならしめる。更に謡曲『橋弁慶』の牛若は、曲中説明の詞句の無い(或は略せられている)ままに解すれば、故無くして五條橋上で行人を斬る愚物である。如何しても、これに素材を与えた伝説、例えば伽『橋弁慶』の内容を成すような伝説若しくは文学の先行の予想を要求させられる。兎も角もこれらは何れにしても、不生出の大英雄としての義経の人格に、寧ろ煩をなすもので、それよりも、源氏再興の宿願に、五條の天神へ参詣する笛の主の公達が、千振の太刀を集めに往還を騒がす「たけ一丈許りある天狗法師」(『義経記』巻三)に偶然出逢って、巳むを得ず闘う方が、論にも及ばず遙に勝っている。そして最古の所伝と思われる『義経記』が即ち略この形なのである。結局弁慶は普通の強盗式の悪僧であったのを、牛若に服せしめられてこれに従ってから、漸次に豪邁の傑物となって行くと観る方が無理でなく、こうして初めて本伝説は、真に義経伝説としての意義を有して来るものであり、今日伝えられる所も亦、この形に落着して来ている理由が十分に首肯出来るのである。

なお又本伝説は熊坂長範伝説と同じく、本伝説結象当時の強盗引剥横行の状勢をも示している。千振りの太刀を取ろうとして、洛中を闊歩した「天狗法師」の類は、時折出現を見たのでもあったろう(〔補〕『弁慶京土産』では天狗の面を着けて出ている)。前にも述べた南都の悪法師輩の場合でも、

その頃奈良法師の中に、但馬の阿闍梨という者あり。同宿に和泉・美作・弁の君、これら六人与して申しけるは、我等南都にて悪行無道なる名を取りたれども、別にし出したる事も無し。いざや夜々佇みて、人の持ちたる太刀を奪いて、我等が重宝にせんとぞ言いける。尤も然るべしとて、夜々人の太刀を取りありく。
と『義経記』は語っている。

又これも既に説いた千人斬の迷信乃至習俗も本伝説の或所伝の形相に投影していることを、重複するが改めて一言して置く。

成長・影響】本伝説の成長に関しては、本項以前に既に言及した所も少なくない。大体に於いて『義経記』の所伝の如き形に始まって種々に変転分化して行った末に、漸次冗贅の分子を篩い落として極めて精髄化し、単純化し、童話化して来たと言える。そして骨子に於いては却って『義経記』の原形に復旧して来たと言っても不可は無い。なおその成長進展の間、熊坂や湛海の伝説等と部分的に流通し合ったり、他の義経伝説と接合連繋したりしている現象も認められる。近松の『孕常磐』(初段)に弁慶が縛られて清盛の館に曳かれるのなどは、『弁慶物語』の義経・弁慶の在所を責め問われようとする師の坊慶心の捕われを救う為に、弁慶が自ら縄に掛かって六波羅の入道相国の前に出て清盛を罵る事からの脱化であろう。それは本伝説直接の変容ではないが、本伝説に附帯して居り、而も『孕常磐』では、その場で放たれて五條橋の怪童退治に派遣されるので、即ち本伝説と緊密に結びつけられているのである。

扨本伝説成長の過程に於いて、特に注意を逸してならない現象は、牛若千人斬と弁慶千人斬との両説が、各々別途に発達して行ったことである。そして前者が後の文学に与えた影響の大きいことは意相外のものがある。

今両説の各々の系統に属するものを試に掲げると、

(一) 前者(牛若千人斬)の系統に属するもの

『橋弁慶』(謡曲)(但し特に千人斬とはしていない。唯辻斬的の意味としてある)
『橋弁慶』(御伽草子)
『鬮罪人』(狂言)
『天狗の内裏』(義朝の語る未来記の中にある)
『牛若千人切』(延宝七年刊古浄瑠璃)
『孕常磐』(初段)
『鬼一法眼三略巻』(五段目)
『御所櫻堀川夜討』(二段目)(これは義経が牛若時代にした千人斬の罪障消滅の為、五條橋上でその供養を為し、遺族を恵むことに作ってある。即ち千人供養である)
『嫩■(容+木)葉相生源氏』(第二、五條橋の段)(これは千人斬は藤九郎盛長の贋牛若の所業としてある。但し、同橋上で弁慶を服するのは真の牛若である)
『風流■(言+花)平家』(二之巻、第三)(これは追剥の仙人の六太を、五條橋上で斬ってから、千人斬と訛伝したとしている)
『義経倭軍談』(四之巻)
『鬼一法眼虎の巻』(四之巻・五之巻)
『鞍馬天狗三略巻』(黄表紙)
『鸚鵡返文武二道』(同、恋川春町作)
『鞍馬山源氏之勲功』(合巻)
『義経一代記』(青本)


(二) 後者(弁慶千人斬)の系統に属するもの

『義経記』(巻三)(千人斬ではなくて、太刀千振を取るとしてある)
『弁慶物語』(同上。但し百振太刀奪)
『金平本義経記』(二之巻五段目)(同上。千振太刀奪)
『武蔵坊弁慶異伝』(読本)
『義経誉軍扇』(合巻)
両者を併せて一にし、千人斬でもなく、又千振の太刀奪でもなく、而も弁慶は子童を義経と知ってこれに近づき、その器量を試みて主と仰ぐ為に、故意に太刀を賜べと威嚇することになっているのは、『義経勲功記』(巻四)である。

そしてこの両系統のものを概観すると、初めは、

(A)牛若千人斬
(B)弁慶千振太刀奪
の形で対立し、作品によって之を示せば、
 (B)弁慶太刀奪   (A)牛若千人斬      備 考
      ┏『義経記』     『橋弁慶』(謡)┓  -線は互に交渉のあることを示す。
      ┃  |          |      ┃ 先後を意味するのではない。
      ┗『弁慶物語』――――『橋弁慶』(伽)┛
で、そして後に(B)から弁慶千人斬が出て、(A)に対立して来ている。即ち弁慶千人斬は、牛若千人斬から転移して太刀奪に代わった後の発達であるのを知るのである。同時に牛若千人斬に関しても、或は贋牛若とし(『相生源氏』)、或は仙人六太斬とする(『■(言+花)平家』)など、弁護的説明を加えて来るようになったものがあり、若しくは千人供養をさせるのがある(『御所櫻』)に至ったのは、一方かの迷信的習俗の廃失と共に、無謀残忍で愚昧な千人斬を、好んで牛若になさしめるのに堪えない国民の同情と敬意とがおのづから生ぜしめた傾向であり、その千人斬が弁慶に移ったのも、亦同様の動機からと一面には千振太刀奪の暴行を既に信ぜしめている悪僧の方ならば、幾分相応でもあるとする考からとに因ると解してもいいであろう。又、この転移以前に、本伝説からのみの影響ではあるまいが、金平本の『金平千人切』の如き作も生まれた。
〔補〕なお福地櫻痴の『女弁慶』は本伝説の変形である。又『近世邦楽年表』(義太夫節之部)には『義経東六法』(中の巻)は謡曲『橋弁慶』のもぢりと見えている。


文学】本伝説に取材した文学は、既に提出したものが多いが、改めて主な作品を挙げると、近古のものとしては『義経記』(巻三)(但しなお所謂橋弁慶ではない)『弁慶物語』(一名『弁慶の草子』)『橋弁慶』(二書共前半は弁慶の生立を記し、又互に関係がある。後半は本伝説である。『弁慶物語』は『看聞御記』(永享六年十一月六日)に「武蔵坊弁慶物語二巻」と見える。奈良絵本もあり、刊本は寛永板・慶安四年板等がある)、謡曲『橋弁慶』。江戸時代の物としては、古浄瑠璃に『牛若千人切』『金平本義経記』(二之巻五段目)(〔補〕『弁慶京土産』(初段)『弁慶誕生記』(四段目)。なお後者は『弁慶物語』を粉本として趣向を立ててある)、近松の『孕常磐(初段)、文耕堂の『鬼一法眼三略巻』(五段目)、鬼外の『嫩■(容+木)葉相生源氏』(第二、五條橋の段)等、八文字屋本には、『風流■(言+花)平家』(二之巻、第三)、『鬼一法眼虎の巻』(四・五之巻)、青本に『振袖橋弁慶』等がある。長唄にも『橋弁慶』があって、謡曲から出ている。その長唄地の歌舞伎の所作では『渡初橋弁慶』が初で、歌右衛門七変化の中にも『橋弁慶』がある(〔補〕説教節の『五條の橋』、薩摩琵琶(錦心流)の『奇縁』、筑前琵琶の『五條橋』皆『義経記』からも来ているが主として謡曲『橋弁慶』の影響作である)。その他『勲功記』(巻四)を始め、一代記風の義経物及び弁慶の伝記様のもの(『武蔵坊弁慶異伝』の如き)等には大抵その一部分を成していないものはない。
〔補〕稍変わったものでは、明治以後の作であるが、本伝説の弁慶に代えるに常磐御前を以てした女橋弁慶の趣向、即ち我が子牛若を意見の為、男装して五條橋に現れるという櫻痴居士の脚本『女弁慶』がある。五條橋での常磐の意見は『孕常磐』(初段)から思いついたのであろう。

川柳に

小腕でも薙刀ばかり二本占め
というのは熊坂伝説と本伝説とを意味するので、〔型式〕の項にも述べたように両伝説の或点での相似を捉え得た観察である。
又、
牛若は千十四人斬り給う
というのも本伝説の千人斬と、熊坂伝説の長範及び部下十三人を斬った(謡『熊坂』『現在熊坂』)というのを指したのである。

観世流の『笛之巻』は本伝説の前段を成す作で、牛若が武芸を好み、五條橋に出て人を斬る乱行を欺く母常磐が、弘法大師伝来の名笛「虫喰」を与えて教訓することを作ってあり、舞曲『笛之巻』と類材をなしている。
 

第二章 つづく


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源義経研究

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2001.12.1
2001.12.29 Hsato