島津久基著
義経伝説と文学
本篇

第一部 義経伝説

第二章 義経に関する主なる諸伝説

第一節 義経伝説の分類

扨愈々義経伝説を構成する義経に関する各伝説――義経伝説圏に属する個々の伝説――に就いて考察を加えて行こうと思うが、取扱の便宜の為、外形的にでも大体の分類をここで試みて置きたい。それには前に揚げた四要素によって諸伝説を分けるのが簡便であると思う。が、義経伝説と地名との関係は前にも述べた通りであるから、これを地名によって分類することには余り意味がない。やはり義経伝説の分類法としては、四要素中、最も重きを置くべき二要素を中心として、人物的分類と事件的分類とを用いるのが最も妥当であると信ずる。

人物的分類というのは、義経を中心として、これに他の副人物をも併せ配して取扱うのを意味するのであるが、それと共に又義経一人の上に就いても時代的要素の立場をも加味して、その生涯の転換の劃線に随って大体三期に分ち、更にそれを小区分することも出来るから、こうした方法を採るのもいいかと思う。尤もこの種の分類法によれば、多少の錯綜を免れない。今仮にこの立場から極めて概略に区分してみると、
 

義経の系譜乃至父母に関する伝説
義経の幼年時代に関する伝説
義経の得意時代に関する伝説
義経の失意時代に関する伝説
義経の末路に関する伝説
義経の妻妾及び臣下に関する伝説
静御前に関する伝説
弁慶に関する伝説
継信に関する伝説
忠信に関する伝説
伊勢三郎に関する伝説
鷲尾三郎に関する伝説
鈴木三郎に関する伝説
常陸坊に関する伝説


等が主なものであろう。厳密には、義経に関する伝説が以上で尽きているとは言えないこと勿論で、この憾は事件的分類には一層感じられる所である。

事件的分類というのは、各伝説の内容を形成する事件別に分けるので、叙事を生命とする武勇伝説にあっては、最も緊要な分類法であらねばならない。但し、その事件別の称呼は、特に改める必要の無い限り、なるべく在来の慣用を踏襲して置く方が、寧ろ便益が多いと考えるから、殊更に異を樹てないことにする。即ちその件名はその伝説の内容を簡易に示し得べき最も顕著な事項に由る便宜的なものであるに過ぎない。又時に人名或は地名を以てするものもあって、それは人物的分類・地名的分類と紛らわしい惧れがあるけれども、常に称呼の主眼は、それら人名・地名ではなくして、それらの人名・地名によって現される事件にあることを記憶せねばならぬ。そして事件的分類では、人物的分類にすら相応ずる悉くの伝説をば網羅し得ぬ欠点があるのであるけれども、兎も角も従来それぞれ一の纏まった著名な事件として、称呼を与えられているものはすべて義経伝説の代表的のもののみであり、それらを採上げるだけでも武勇伝説としての義経伝説の考究には十分であるに庶幾い。事実、家系・生地・死地に関するものの如き、その多くは本来武勇伝説の真髄ではなくして、他種の伝説、例えば祖先伝説・地名伝説等が、或伝説の成長進展の間に自ら包含せられ吸引せられて来たに過ぎない場合が■(尸+婁)々ある。但しこれらは仮令その性質が純粋の武勇伝説でなくても、義経伝説という一の大きな武勇伝説の全体を構成している一分子たることは否定し難いのであるから、全然顧慮しないのも当を得ない。故に主として事件を骨子とする各個の伝説を攻究の対象とし、附加的のものは随時併せ含めて取扱い(既に説術したものもある)、尚特に必要なものは別に一括して考察しようと思う。

今上に述べた方針に基づいて、主な義経伝説を事件的に分類すれば、

(A)直接に義経に関係ある伝説

(1)鞍馬天狗伝説 (2)鬼一法眼伝説 (3)地獄廻伝説 (4)橋弁慶伝説 (5)関原与市伝説 (6)熊坂長範伝説附山中常磐伝説(常磐御前殺害伝説) (7)浄瑠璃姫伝説 (8)島渡伝説 (9)鴨越逆落伝説 (10)逆櫓論伝説 (11)弓流伝説 (12)八艘飛伝説 (13)腰越状伝説 (14)堀河夜討伝説 (15)吉野山伝説 (16)安宅伝説 (17)笈捜伝説 (18)摂待伝説 (19)含状伝説 (20)野口判官伝説 (21)蝦夷渡伝説
(B)間接に義経に関係ある伝説
(一) 常磐御前に属するもの
(1) 伏見常磐伝説 (2)山中常磐伝説(重出)
(二) 弁慶に属するもの
(1) 橋弁慶伝説(重出) (2)船弁慶伝説附沼捜伝説 (3)立往生伝説
(三) 忠信に属するもの
(1) 狐忠信伝説 (2)碁盤忠信伝説
(四) 静に属するもの
(1) 鶴ヶ岡舞楽伝説 (2)胎内さぐり伝説
のようになる。なお他にも(A)には舞曲『笛之巻』の題材のような、牛若に結びつけられた名笛来由伝説や、又(B)には伊勢三郎仕官伝説(『義経記』巻三)、鷲尾三郎仕官伝説(『平家』巻九、『盛』巻三六)、伊勢・駿河討死伝説(謡・舞『清重』)、鈴木三郎生捕伝説(『追懸鈴木』『語鈴木』『生捕鈴木』)、海尊登仙伝説(前章第二節(四)の(は)参照)等がある。

以上二種の分類法は何れも得失があるが、比較的相互の欠陥を補い得る為には、両者を併せ用いるがよいと考える。重複を厭わず、やはり主なものについて、下にこれを試みてみよう。(?符を附したものは、異伝があって確定し難いもの)
(A)牛若丸時代に属するもの

(い)幼年時代
(1) 伏見常磐伝説
(ろ)鞍馬山時代
(2)鞍馬天狗伝説 (3)地獄廻伝説 (4)橋弁慶伝説(?) (5)鬼一法眼伝説(?)
(は)東下り
(6)関原与市伝説 (7)熊坂長範伝説附山中常磐伝説 (8)浄瑠璃姫伝説
(に)奥州時代
(9)島渡伝説
(B)得意時代(平家追討時代)に属するもの
(10)鴨越逆落伝説 (11)逆櫓論伝説 (12)弓流伝説 (13)八艘飛伝説
(C)失意時代に属するもの
(い)蹉跌
(14)腰越状伝説 (15)堀河夜討伝説
(ろ)西国落
(16)船弁慶伝説 (17)吉野山伝説附狐忠信伝説 (18)碁盤忠信伝説 (19)鶴ヶ岡舞楽伝説附胎内さぐり伝説
(は)奥州落
(20)安宅伝説 (21)笈捜伝説 (22)摂待伝説
(D)末路に関するもの
(23)弁慶立往生伝説附含状伝説・野口判官伝説 (24)蝦夷渡伝説
(E)その他の義経伝説
系譜・出生等に関する伝説、その他


末路に関するものは、失意時代に含ませてもよいのであるが、義経伝説には特に著しいものがあるのみならず、観方によっては、これから又新生面へ発展して行く一区劃でもあるから、特に別項としたのである。既に言及したように、事件的分類のみによる時は、主な著しい事項だけが、個々独立的に取扱われる憾がないでもなく、従って連続した一生に関する義経伝説全体が示し得られない最大短所がある代わりに、それらはその義経の伝説的生涯の最も色彩の濃い、それぞれにやまをなしている各主要部分であるから、他の比較的著しくない部分をも、代表し得る利便がある。よって常に各伝説間の連続的関係を認めつつ、同時に各伝説を各独立した一個の武勇伝説と看ることが、取扱上必要で至当でもあると思う。そこで類話や派生話や関係あるもの等をも、同一項に於いて取扱うのを便宜とする場合もあろうしするから、必ずしも上の分類の順序に拘束せられる必要を認めない。即ち前掲三様の分類法を以て、義経伝説を縦列的と横線的との両方面から、稍完全に近く概観し得たことを以て満足し、各伝説の論考に際しては、既出の分類の大綱を破らない範囲に於いて、最も便宜と信ずる順序に随うこととする。その順序の表は改めて此処には掲げない
 
 

第二節 牛若丸時代に属する伝説

義経の幼時に関しては、史実にこれを徴すべき資料が頗る乏しい。僅に『吾妻鏡』(巻一、治承四年十月二十一日)の頼朝・義経黄瀬河対面の條に、

此主者、去平治二年正月、於襁褓之内逢父喪之後、依継父一條大蔵卿長成之扶持、為出家登山鞍馬。至成人之時、頻催会稽之思、手自加首服、恃秀衡之猛勢、下向于奥州、歴多年也。而今伝聞武衛被遂宿望之由、欲進発処、秀衡強抑留之間、密々遁出彼館首途。秀衡失悋惜之術、追而奉付継信・忠信兄弟之勇士云々。
又腰越申状(同巻四、元暦二年五月二十四日)の中に
事新申状、雖似述懐、義経受身体髪膚於父母、不経幾時節、故頭殿御他界之間、成狐、被抱母之懐中、赴大和国宇多郡寵門牧之以来、一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命、京都之経廻難冶之間、令流行諸国、隠身於在々所々、為棲辺土遠国、被服仕土民百姓等。(下略)
高館自刃の條(同巻九、閏四月三十日)の附記に
左馬頭義朝朝臣六男、母九條院雑仕常磐。
と見えるくらいに過ぎないが、上の記述を総合して、普通に伝えられている所が大体に於いて根拠の無い浮説のみではないことが知られるのである。併し三期乃至四期に分けた中で、最も史実的色彩が希薄で、多くは准神話的或は童話的な説話に傾いているのはこの期である。が、史実に欠けている所が多いだけ、伝説の領域は拡大の余地が愈々大きい。又、主人公の年少時代に属するが故に、自ら童話的傾向を帯びているのも当然と言える。以下この期に含めて考察する伝説中には、元服後のものもあるが、大体に於いて年少期のものであるから、便宜この期に一括して取扱うことにする。現に謡曲『熊坂』などにも、やはり「牛若殿」としてある。さて順序として先ず伏見常磐伝説から始める。
 
 

(一) 伏見常磐伝説

内容

人物 常磐御前及び今若・乙若・牛若
年代 平治二年(『平冶物語』には二月十日)
場所 山城国伏見


左馬頭源義朝は平治の乱に敗れて、尾張に走った。多くの子女の中、軍に従った者は、或は討死し、或は捕らえられ、留まっていた者は、平家の捜索の手が急且厳なので、義朝の愛妾九條院の雑仕常磐は、その所生の三子、八歳の今若、六歳の乙若、二歳の牛若(『義経記』(巻一)には当歳児と見える)を伴い、大和国宇多郡龍門の親族の許に身を寄せようと、雪路の伏見の里にさまよう哀れな物語である。

今若殿を前に立て、乙若殿の手を引き、牛若丸を懐に抱き、二人のおさあひには物もはかせず、氷の上を徒跣にてぞ歩ませける。実にやつめたや母御前とて泣き悲しめば、衣をば幼き人にうち着せ、嵐のどけき方に立て、我が身は烈しき方に立ち、はぐくみけるぞ哀れなる。(『参考平冶物語』巻三)
とある『平治物語』の異本(京師本・松雪本・鎌倉本・半井本等)の一節がその状を最もよく描き出している。

【出処】『平治物語』(巻三。頼朝生捕らるる事附常磐落ちらるる事)、舞曲『伏見常磐』。(従って伝説としての成形はこれらの文献に採録せられる以前或は少なくともそれと同時でなくてはならない。以下成立は特に必要ある場合にのみ説述する)

型式・成分・性質】特殊の型式を具えたものではない。空想的な気分には包まれているが、史実的成分が寧ろ多く、史譚的説話と言うべきである。

本拠】前に引いた腰越状の一節
被抱母之懐中、赴大和国宇多郡龍門牧
とあるのが史実の本拠である。『平治物語』の記述も史実とさまで大きな距りは無いであろう。

解釈】この伝説は孰れかと言えば、義経には間接に関係のあるものに属するのであるけれども、義経伝説と密着している母常磐を主人公とする意味に於いてと、義経の数奇な一生の第一頁、換言すれば義経伝説の発端をなす説話である意味に於いて、注意せられねばならないものである。自覚こそせざれ、慈母の懐裡に未来を夢みつつある鳳雛は、その意味で又、この光景の中にあって主要な役割に与ってもいると言える。

なおこの伝説に引続く事件は、常磐が平家に捕らえられた老母(『義経記』(巻一)には名を「関屋」と記してある)を救おうとして自首したのを、太政入道清盛はその容色に優でて之を寵し、老母をも亦三子をも助命した事である(『平治』巻三、常磐六波羅に参る事)。そして『平治物語』(流布本巻三、牛若奥州下りの事)に

さればその腹の男子三人流罪を遁れて、兄今若は醍醐に上り、出家して禅師公全済とぞ申しける。希代の荒武者にて、悪禅師と云いけり。中乙若は八條の宮に候いて、卿公円済と名のりて、坊官法師にてぞおはしける。弟牛若は鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が弟子に成りて、遮那王とぞ申しける。
とあって、ここに牛若の鞍馬入りとなるのである。一方常磐は、操を売って愛子を助けたとて、却って永く国民の同情を贏ち得た。

成長・影響】この伝説の成長の間、進入して来た一人物として弥平兵衛宗清のあることが特に顕著である。即ち『平治物語』及び『伏見常磐』で、伏見の里の雪の夜に情の宿を常磐に恵んだ田舎人(『平治』では女とし、『伏見常磐』には老夫婦としてある)は、近松の『源氏烏帽子折』――及びそれから出た『恩愛■(ひとめ:目+責)関守』――に於いて、懐に入った窮鳥を放つ、情あり義ある平家の士宗清と変わっているのである。『一谷嫩軍記』(三段目)の「熊谷陣屋」でもこの時の救命の事が語られている。これは彼が清盛の継母池の禅尼に頼朝の命乞をした(『平治物語』巻三)人物である所から転移して来たもので、やはり近松の『孕常磐』及び『平家女護島』に於ける宗清対常磐母子の関係も畢竟その変形である。常磐母子を助けたのは上に説く如く後の転化であろうが、頼朝を助けた事と宗清の性格が伝説乃至文学のそれと大差無かったらしい事とは、正史の徴証がある。即ち『吾妻鏡』(巻三、元暦元年六月一日)の頼朝が池大納言頼守(禅尼の息)を招待した條に、その臣従をも召したとあって、

武衛先召弥兵左衛門尉宗清左衛門尉季宗男。平家一族也。是亜相(頼盛をいう)下著最初、被尋申之処、依病遅留之由、被答申之間、定今者、令下向歟之由、令思案給之故歟。而未参著之旨、亜相被申之。太違亭主御本意云々。此宗清者、池禅尼侍也。平治有事之刻、奉懸至武衛。仍為報謝其事、相具可下向給之由、被迎送之間、亜相城外之日、示此趣於宗清処、宗清云、令向戦場給者、進可候先陣。而倩案関東之招引、為被酬当初奉公歟。平家零落之今、参向之條、尤称恥存之由、直参屋島前内府(宗盛)云々。
と見えている。情誼に篤くて而も清廉剛直な「熊谷陣屋」の白毫弥陀六実は宗清は並木宗輔の筆を俟たずして既に正史の上でその面影に接し得られるのである(〔補〕長門の油谷湾に臨む向津具半島に宗清の地名を存し、宗清の墓と称するものも同所に在る)。

又別に、牛若が鞍馬に登ったのは、同姓の誼みから、孤児となったのを憐れんで救った源三位頼政の計らいであったとの伝説(畑維龍著『四方の硯』花の巻)も生じた。即ちこれでは宗清の役割を鵺退治の武将が奪った形で、珍しい説と言うべきである。

今一つ注意すべき事象は、常磐の苦節に対する国民の同情的解釈が、彼女をして陽に清盛に従いながら、陰に源家再興の計謀を廻らす女丈夫たらしめるに至った事で、『孕常磐』(三段目「露の轡蟲」)にもその傾向が見え初めているが、『平家女護島』(三段目)では色に託けて見方を集め、『三略巻』「大蔵卿館」では楊弓の遊と見せて清盛の影像に呪の矢を放つ絡繰を以て、狂言に現を抜かす大蔵卿の佯阿呆と対せしめている。かくして牛若の生母から両夫に見えた汚濁を拭い去ると同時に、一段深刻な苦慮と貞節とを発見して、義経伝説の主人公をば愈々(いよいよ)非難の余地の無い、却って益々同情歎服に値する烈女の子として確認しようとするのである。

文学】舞曲『伏見常磐』(一名『伏見落』)、及びこれから出た『金平本義経記』(初巻、四段目)と合巻『義経一代記内伏見常磐』があり、又巣林子の『源氏烏帽子折』(二段目「常磐御前道行」)、それから出た一中節の『妹が宿』、富本節の『雪解松操繖』等があるが(『外題年鑑』によると、豊竹座にも『伏見常磐昔物語』という作が掛けられている)、最も有名なのはやはりその近松の「常磐御前道行」から出た常磐津の『恩愛■(目+責)関守』即ち俗に言う『宗清』である。梁川星厳の名吟

雪灑笠檐風捲袂 呱々索乳若為情
他年鉄枴峯頭険 叱咤三軍是此聲
もこの伝説を題材としたのである。なお、舞曲『常磐問答』はこの以後の事を取扱った作で、『鞍馬常磐の一名が示す如く、鞍馬寺で別当東光坊と仏法問答をする事をその内容としているが、同じ舞曲中曽我五郎でも頼朝の面前で法華経を説く(『十番切』)時代色で、格別奇とするにも足らない上に、『平治物語』(巻三常磐落ちらるる事)の、この雪路の道行の前夜、清水寺に通夜して観音に安穏の祈誓を籠める件と相応じていて、直接交渉は無いかも知れぬが、常磐が信心者で且法華経に日夕親しんでいたという点で矛盾は無い。清盛の寵を受けてから後の常磐を描いた他の作で知られているものには、既に述べた近松の『孕常磐』『平家女護島』(三段目切)、文耕堂の『鬼一法眼三略巻』(四段目切)がある。


(二)鞍馬天狗伝説

内容

人物 牛若丸。鞍馬山の大天狗僧正坊
年代 (牛若丸十五歳頃(『義経記』巻一)承安年中)
場所 山城国鞍馬山僧正ヶ谷(舞『未来記』には、僧正ヶ崖)


牛若丸は鞍馬山に登り、覚日阿闍梨の弟子となって、遮那王と云ったが(『平治物語』による。『平家』(剣巻)には東光坊阿闍梨円忍が弟子、覚円坊阿闍梨円乗に師事したとある)、平家を覆滅して父兄の仇を報い、源氏の世に返そうとの願望を起こし(『平治物語』(巻三)には諸家の系図を閲て発憤したとし、『義経記』(巻一)には父の乳母子鎌田次郎正清の子三郎正近、出家して正門坊と号した人物の勧めによって思立つとしてある)、昼は学問を修め夜は鞍馬の奥僧正ヶ谷で武芸を励んでいたのを、山の大天狗僧正坊がその志を憐れんで師弟の約を結び、自ら兵法を授け、或は小天狗等と立合わせて腕を磨かせ、且その将来の守護を誓った。

出処】『平治物語』(巻三、牛若奥州下りの事)、『太平記』(巻二九、将軍上落の事附阿保秋山河原軍の事)、謡曲『鞍馬天狗』、舞曲『未来記』等。

【型式・成分・性質】未来記式予言モーティフを含む兵法伝授譚の典型――所謂鞍馬天狗型で、超人から兵術を相伝せられる説話型――である。舞『未来記』では、兵法というよりも寧ろ一種の法術、所謂「天狗の法」を允可するので、『鞍馬天狗』よりも一層空想的である。『未来記』の所伝に限らず本伝説全体が即ち神話的傾向を有し、天狗が兵法を教えるのは、なお仏神が護符を授け霊薬を与えるのと同類であり、未来を語ってその前途を守ろうと約するのは、神託を夢想に示すのと相距ること遠からざるものである。そして本伝説に於ける天狗は外道的存在から余程転身向上して来ている一種の神人である。又その法を習得し、霧の法・小鷹の法を行って飛躍自在となった牛若丸も、超人的性格の多い幼童である。この類の説話は一芸一能が神に入り、又は非凡の事業を成就した人物の上に■(尸+婁)々伝えられ、その伝授者は神仏又は仙人・異人等超人である場合が多い。その一般的な場合を伝授説話の称呼で総括したいが、その中で特に武勇伝説の場合にあっては、兵法伝授説話の形をとるのが普通である。但し発生当初の本伝説に於ける兵法とは、主として剣術を意味する(後の発達したものでは軍術の意に拡大している)のであるが、上に謂う兵法伝授説話の名称は、広義に用いたいので、剣法をもこれに含ませ得ること勿論である。
本伝説は即ち史実的成分は少なく、空想的成分が多分で、且神話的成分も混じていて、准神話的の説話である。

本拠・成立】史実の根拠は不明である。『義経記』にすらこれを載せてはいない。併し『盛衰記』(巻四六、義経行家出都並義経始終有様事)に、

三郎は義経ぞかし。稚きより鞍馬寺に師仕へせさせて遮那王殿とぞ云いける。学文なんどせんと云う事なし。唯武勇を好みて、弓箭・太刀・刀・飛越・力業などして谷峯を走り、児共若輩招き集めて、碁・双六隙なかりければ、師匠も持ちあつかいて過しける程に、(下略)
とあり、更に進んで『義経記』(巻一、牛若貴船詣の事)に、
鞍馬の奥に僧正が谷という所あり。(中略)世末になれば、仏の方便も神の験徳も劣らせ給いて、人住み荒らし、偏に天狗の住所となって、夕日西に傾けば物怪をめき叫ぶ。されば参り寄る人をも取り悩ます間、参籠する人もなかりけり。
とあるのはやがてこの伝説の発生を暗示している。『平治物語』(流布本、巻三)に
昼は終日学文を事とし、夜は終夜武芸を稽古せられたり。僧正が谷にて天狗と夜な夜な兵法を習うと云々。
とある記述を以て、『義経記』以前の所見と看るべきであろうけれども、この條(「牛若奥州下りの事」)以下は京師・岡崎二本にあるだけで、他の諸本はその前節(頼朝遠流の事附盛安夢合の事)で終わっているし、大体からみて、後の加筆の部分ではないかの疑がある。「兵法を習うと云々」の詞句も、それを旁証するかにも見える。『吾妻鏡』等には常に用いられるが、『平治物語』全篇の中に於いて、斯くの如き語法は他処に見出されないからである。恐らく本伝説の成形後に添加せられた事を示すものではなかろうか。京師本でもなお、
僧正ヶ谷とて天狗化物の棲所へ、夜な夜な行きて兵法を習う。彼難所をも夜々越えて、貴舟社にぞ詣でける。(『参考平治物語』巻三)
とあって、『義経記』と同様に、未だ直接天狗に教を受けたとは明記してないのも、上の推測を助ける。が、『太平記』(巻二九、将軍上洛事附阿保秋山河原軍事)の、秋山新蔵人光政の名告りに、
鞍馬の奥僧正ヶ谷にて、愛宕・高雄の天狗共が、九郎判官義経に授けし所の兵法に於いては、光政是を不残伝へ得たる処なり。
とあるのを見ると、『太平記』成立の頃までには、本伝説の完成流布を見ていたことが知られるから、『平治』(流布本)の記述は仮に後の添加であるとしても、少なくとも流布本の『義経記』以前既に成形していたことが認められてよいであろうし、そうならば『義経記』作者は、余りに非現実過ぎる為にこの伝説を採らなかったと看るべきであろう。それから、僧正ヶ谷の名称に関しては、井澤長秀が、
今按するに、鞍馬の僧正ヶ谷は僧正という天狗の棲める故の名にはあらず。真言伝に、鞍馬の僧正ヶ谷、稲荷山の僧正が峰は、壷演僧正慈済の行い給いける跡と記せり。(『広益俗説弁』正編巻一二、士庶)
と言っているのが正しいであろう。猶御伽草子『ささやき竹』には鞍馬の西光坊の霊が天狗になったのが僧正ヶ谷の由来だと説明せられているが、これは本伝説発生後、この珍しいそして伝説的由緒ある幽谷に対して、地名説明伝説的解釈に依る心理から作り出された所のものであろうと思われる。又直接の関係は無いであろうけれど、本伝説に先行して、鞍馬の奥に三十年も山籠して修行した山伏に、右大臣橘千蔭の子忠こそが師事して、山に入る説話が『宇津保物語』(忠こその巻)にあるのが面白い。

又牛若丸の生立は、前掲『盛衰記』の所伝では全然乱暴の悪童で、弁慶の鬼若丸時代と相類しているのに、『平治』の方では文武兼学の天才少年である。これは異伝とも進展ともいづれとも考え得られるが、『義経記』は両者を折衷した形で、正門坊の勤説後、性行が一変して学問を放擲したという事になっている。異伝とすれば『盛衰記』はその変化後の牛若を伝え、『平治』はその以前のままを併存した事になる。いづれにせよ、『義経記』所説の形は両異伝のいづれをも採ろうとした結果と観るべきが先ず自然であろうか。

更に神人からの兵法伝授という点で、本伝説の本拠となったのは、黄石公・張良の支那説話(『史記』留候世家)であることが、この故事を『鞍馬天狗』に引いて、大天狗と牛若との師弟の約を結ぶのに比しているのによっても推知せられる。もとより古今和漢相類の故事を引用並記するのは、近古文学の通有性の一ではあるが、こうして両者が比較せられる以前に於いて、故意に或は自然に、此は曽て彼から出て日本化したもので、本源は実は同一のものである場合が決して尠くないと思われる。特に支那の英雄謀士中最も日本人に親しまれ、軍記物等に於いては、樊■(ロ+會)と並べて異朝の理想的英雄として必ず引かれるのは張子房で、現存の舞曲四十数番中、唯一の支那伝説を素材とした曲も『張良』である。謡曲にも亦『張良』がある。この人物に関するこの伝説が日本化するのは甚だ容易で、又最も自然である。そうでない方が寧ろ不思議な位である。そして若しこの推測が中っているとすれば、甚だ興味深いのは本伝説が全然日本的となっていて、殆どその本拠の跡を留めていないことである。

併しながらこの張良が、本伝説の唯一の本拠では無いであろう。兵法伝授はこうした准神話的伝説以外、既に八幡太郎義家が大江匡房に相伝した有名な史話として、人口に膾炙せられてもいる(『古今著聞集』巻九、武勇)。その他一般に中世は伝授熱流行の時代であるから、この種の伝説も自ら生まれて来べきでもある。要するに、牛若丸が平家討滅の志を懐いて、日夜励努を怠らず、天狗も棲むという深山に、胆を練り腕を磨いた事実に始まって、その物凄い山中から、天狗は国民の支援によって具象化せられて姿を現し、我が少主人公の師となり守護者となった一方、支那伝説はその成形に好適な範例を賦与し、更に時代の風尚は愈々(いよいよ)この伝説を完成に導き、流布を容易ならしめたと観るべきであろう。若し又、後に言うように、萬一何人かからの師承の事実でもあり、或は本伝説は鬼一法眼伝説の変容ででもあるとすれば、本拠の論考は又新に問題を提出されることになるのである。勿論独立した伝説としては次項のものとは全然別箇の説話として取扱われねばならない。又それだけの理由と価値が自ら存する。

解釈】本伝説発生の動機並びに主眼は、成長後に於ける義経の非凡な大功に対して、その由つて来る所を説明しようとするにある。そしてその希代の戦術と剣法とを愈々(いよいよ)神ならしめる為に、超人間の出現を促して、その手からこれを授けさせたのである。

更に副次的の意味ではあるが、この説話の中心をなしてもいる所の、天狗が兵法を教えるという一事は一層注意せらるべき事象である。天狗はもと星の名であるといい、或は金剛界・胎蔵界のことであるともいわれ、『地蔵経』の文によれば一種の鬼神らしく(『閑田耕筆』巻三)、又『杜工部文集』(巻一)の「天狗賦」には獣とせられている(支那の冶鳥のこととする俗説もある(『広益俗説弁』遺編巻五、畜獣))。印度から支那を経て来た三国伝来の怪物(『今昔物語』巻二〇、第一話・第二話)であるけれども、今日我々の想像上の天狗は、全く日本的のものである。天狗という語が我が文献に見えるのは『舒明記』に

九年春二月丙辰朔。戊寅。大星従東流西。便有音似雷。時人曰、流星之音。亦曰地雷。於是、僧旻僧曰。非流星。是天狗也、其吠聲似雷耳。(『日本書紀』巻二三)
とあるが、最も早いものであろう。併し稍その所謂天狗らしくなったのは、『今昔物語』(巻二〇)に見えるのを初とする。その本体については、仏法を妨げる外道(『今昔』巻二〇)と考えられて居り、又一種の物怪ともせられている(『大鏡』上巻、三條天皇)。更に
今は何をかつつむべき。我は六條の御息所なるが、我一天の虚空として、美女の誉れ慢心と成り、又、一乗妙経を片時も怠る事なければ、是亦却って慢心となり、二の心の障り故、魔道に堕ちて天狗に奪られ、この愛宕山を棲処とせり。
と謡曲『樒(しきみ)天狗』にある通り、何事によらず慢心が強くてこれに執すればこの天狗道に堕し(『盛衰記』(巻一八、龍神守三種心事)にも、文覚の事を「天狗の法成就の人にて」或は「元来天狗根性なる上に慢心強く」と記している)、又邪法を修して人に怨を報じようと誓う時、生きながらこれに化することがある(『保元物語』巻三、新院御経沈めの事附崩御の事。『盛衰記』巻八、讃岐院)。その形貌は翼があって鳥に類している。謡曲『鳶(とび)』によれば鵄(とび)の形であるが、それは、既に『今昔物語』(巻二〇、第三話、天狗現仏坐木末語、同第一一話、龍王為天狗被取語)以来のことである。即ち所謂烏天狗或は木葉天狗と称せられるものの形はそれで、『太平記』(巻五)高時天狗舞の條にも「或は嘴匂(くちばしかがまつ)て鵄の如くなるもあり、或は身に翅(つばさ・はね)有って、その形山伏の如くなるもあり」と見えて居り、『天狗草紙』等の絵巻に看ても同様である。例の長高の鼻を有せしめられるようになったのは、稍後の発達のようである。併し『吉野拾遺』(下巻、鼻の高き狂歌の事)に、内大臣実守公が鼻の高い為に、田舎武士共から天狗の類かと怖れられたので、
天狗ともいわば言わなむ言わずとて鼻低からぬ我が身ならねば
と詠んだ話を載せてあるから、鎌倉末期頃は既に――少なくとも室町初期までには――所謂鼻高天狗の形貌も完成していたことを知り得るのである。そしてその完成には天孫降臨神話に於ける、
有神居天八達之衢。其鼻長七咫、背長七尺余(当言七尋)。且口尻明耀。眼如八咫鏡、而■(赤+色)然似赤酸醤也。(『日本書紀』巻二、神代下)
という猿田彦大神の異形な特徴が恐らく何時か恰好のモデルとして模写されて来たのではなかろうかと推測せられる。

天狗が飛行自在で、魔法を行い、深山を棲処とし、人を攫い或は悩ます話は『今昔』『宇治拾遺』『著聞集』『沙石集』『盛衰記』『太平記』及び謡曲(『鞍馬天狗』『花月』『善界』『大会』『車僧』『飛雲』『樒(しきみ)天狗』『野口判官』『鳶(とび)』等)等に甚だ多い。その暴風の如き騒音を立てて人を畏怖させるのをば「天狗倒」と呼ばれている(『鞍馬天狗』『太平記』巻二七)。そして人間に近づく際には屡々(しばしば・たびたび)同じ人身の姿をとって現れる。『今昔』(巻二〇、第七話)、『吉野拾遺』(上巻、伊賀局化物に遇ふ事)のように鬼形のことも時にはあるが、山賤になっているのは『飛雲』、法師になっているのは『今昔』(巻二〇、第二話)、『著聞集』巻一七、変化)等であり、而も最も多く、且、後には常にそれのみの形相で現れるのは、本伝説に看るような山伏姿で(『鞍馬天狗』『野口判官』の他に謡曲にも『車僧』『大会』等。又『著聞集』巻一七、変化、維蓮坊の條、伊勢国の法師の條、『太平記』巻五、相模入道弄田楽事、巻一〇、新田義貞謀叛事附天狗催越後勢事、巻二七、田楽事附長講見物事、同巻、雲景未来記事等)、「天狗山伏」という語すらも生まれた(『太平記』巻一〇、前出の條)程である(『義経記』(巻三)には太刀奪の弁慶を「天狗法師」と洛中で沙汰したとある)。

そして斯様な伝説的成長を遂げて来た天狗が、兵法を教えるようになったという点が特に面白いのである。即ち仏法障碍を目的とし、悪行邪道を旨とした妖魔が、意外にも武人の本職とする兵術の師範となったのは、一方に於いて田楽法師となって舞い遊ぶ(『太平記』巻五)に至ったことと共に、時代を反映する注目すべき現象であらねばならない。但しかの変幻自在の魔術は敵を折伏打破する神出鬼没の兵術と転化し得る可能性・蓋然性は十分にある。その魔法や(舞『未来記』、伽『御曹司鳥渡り』『十二段草子』)飛行術をも(『義経記』巻二、鬼一法眼の事、巻三、弁慶洛中にて人の太刀を取りし事)これに関連して牛若は授けられてもいるのである。即ち義経伝説としての意義は前に説いた如くであるが、民間信仰としての天狗そのものの観念の成長変化に伴随しつつ、修験道の発達流行の余勢と平安末期以来盛に威力を揮って来た僧兵の面影と、中世の一特色である秘事相伝の風習とを、如実に示す所にも、亦この伝説の特殊の存在価値が認め得られる。又日本武勇伝説としては兵法伝授説話の代表的なものとすべきであろう。

なお又、義経の兵法習得は、義家に於ける如き実際の師伝があって、これが本伝説の如き形に伝説化したものとの想測が加えられて来るのも自然で、『広益俗説弁』(正編巻一二、士庶)には、本伝説を解釈して「疑うらくは義経世を憚りて密に師を求め、夜々剣術を学びたるか」と言い、『源平太平記評判』『本朝武家高名記』等には、東光坊阿闍梨を六條判官為義の末子で、義経の伯父に当たるとし、これが多田満仲以来の兵議並に大江維時入唐伝来の兵法の秘書を牛若丸に伝えたとしてあり、又『義経勲功記』は『義経記』から暗示を得て、同宿の法師がその夜々の外出を怪しみ、或夜密に追跡して、深更山奥に独り兵法を稽古する牛若を目撃し、銷魂して逃げ帰り、夜目に何を見誤ってか、大天狗の指南するのを見たと東光坊に告げることに作って、これを訛伝して、本伝説が生じたのであると説明している。が、何れも後人の解釈で、本伝説の本拠を闡(せん)明すべき資料としても、見るに足べきほどのものではない。上の第二説は後にも説く如く、院本の『鬼一法眼三略巻』や馬琴の『島物語』等の解釈と軌を一にするもので、伝説的解釈を棄てようとして、却って他の伝説的附会の説明に走り、第一説は本伝説の根拠となった史実を予想した説明としての仮定的提案という意味では採用できるが、確証があるのではなく、そして第二説の一般的な場合を抽象的に臆測したという程度のものである。第三説は最も心理的解釈のようであるけれども、これも却って卑俗的に合理化しようとした実録史家の浅薄な現実主義的史観からの尤もらしい説明に止まる以外何ものでもない。但し、三説共に本伝説を否定し、少なくとも本伝説に何等か史実的、或は人事的解釈を与えようと力めた点は同一である。同時に又その伝説としての価値に着眼しなかった憾のあるという点も共通している。要するに此等の説は、単に本伝説を必存の事実と観ての解釈でしかあり得ない。こうした本拠の史実を仮想するのも全然無用ではないけれども、それよりも、本伝説の如きは准神話的空想裡の所産としての、即ち伝説を伝説としての想察に、意義と興味との一層大きなものがあることを指摘したいのである。

成長・影響】本伝説以後のものに、野口判官伝説と牛若地獄廻伝説がある。何れも本伝説と関係があり、而も本伝説の所伝を含む事によって、それより後のものであることが明らかに知られるし、恐らく本伝説から派生したものと推定して誤り無いであろう。浄瑠璃姫伝説にも亦本伝説の影響が認められる。即ち本伝説に於いて師の坊たる大天狗は常に影身に添って将来を護ろうと制約しているがその言を違えずに、果たしてその最後の危機に来会して義経を救っている(『野口判官』)(『源義経将棋経』(五段目)でも漁翁に扮して蝦夷地に義経を助ける)。或は又東下りの時も病死の御曹司を蘇生せしめた浄瑠璃姫主従を義経の依頼によって、片時に矢矧の宿に送り帰し(『十二段草子』)てもいれば、鞍馬時代には牛若丸を導いて、地獄極楽を廻って亡父に再会させ、平家討滅の志を堅めさせ(『天狗の内裏』)てもいるのである。なお野口判官と地獄廻の両伝説も本伝説の派生説話というだけではなく、他の伝説との混合もあるが、それは後の詳説に譲ることにする。又本伝説が島渡伝説にも影響していることも後に述べる通りである。

他面に於いて本伝説が流布してから、後世これと同型の伝説の続出を観るに至ったが、概してそれらは本伝説の変容に過ぎないと言ってよい。そしてその多くは一流と立てた剣法家の自唱に出ているのは、本伝説に倣って、自流の剣法を神秘化しようとする動機に基づくのである。即ち瀬戸口備前の師は自源坊という天狗であるとし(『武芸小伝』)、根岸某は愛宕山の天狗太郎坊に刀術の教を受けたといい(『北條五代記』)、その他或は上野国白雲山妙義法印と号する天狗から兵法を習ったと称する者や、遠州秋葉山三尺坊と称する天狗に剣術を学んだと誇る者等、この種の伝説は、『武芸小伝』『武術流祖録』等の中に容易に求めることが出来る。

なおこれと関連して、本伝説は、武術の一流に鞍馬流、一名、小天狗鞍馬流(天正年中大野(或は小野)将監創始、義経の剣法を伝えたと称する(『武芸小伝』))なるものを生ぜしめた。これは次條の伝説とも交渉がある。又『杼樟記』には、河野五郎通経が義経の烏帽子子として経の字と共に義経流の兵書を相伝したと記してある。やはり本伝説乃至次條の伝説からの派生であろう。

更に本伝説が後代に及ぼした偶然の影響とも見るべきは、未来記式予言説話型、即ち氏族又は個人の将来の運命を超人或は卜者等が予示するという説話型の発展であろう。後代文学のそれがすべて必ずしも本伝説からのみ移承せられて来たとは言い難いであろうが、又、全然それを否定することも出来ないと思う。正成の天王寺未来記(『太平記』巻五・六)は姑く措くとしても、同じ『太平記』の「解脱上人事」(巻一二)、「宮方怨霊会六本杉事」(巻二五)、「雲景未来記事」(巻二七)、「吉野御廟神霊事」(巻三四)等と共にその先をなし、そして寧ろ本伝説などが中心となって、その趣向乃至同説話型の発展を促進したものと見るが至当であろう。『鞍馬天狗』にも大天狗が牛若に対して未来を予言し、前途の庇護を口約することがあるが、更に一層詳しいのは、その題名の示す如く、舞曲『未来記』である。即ち平家の悪逆と、源氏が興起してこれを亡ぼすこととを語り、その使命を果たすべき人物は牛若丸であると教え、最後に「扨(さて)その後に牛若殿、兄に憎まれ給ふなよ。梶原に心許すべからず」と細々と未来を戒めている。『源義経将棋経』もこれらから構想を移承している。そしてこの超人間、就中天狗が未来を語る構想を用いた最も有名な文学は、例の崇徳院の尊霊に西行法師の見え奉ることを作った上田秋成の『雨月物語』(巻一)の「白峰」――その素材は『保元物語』『盛衰記』及び『撰集抄』、謡曲『松山天狗』等から出ている――それに倣った曲亭馬琴の『椿説弓張月』(後編、巻四)の「八郎決死詣霊墳」の條であろう。天狗ではないが、未来記の型式は『天狗の内裏』謡曲『沼捜』中にも採られている。

なお本伝説自体の成長進展については、次條の鬼一法眼伝説と密接に関連しているから、同條で併せ説くことにしたい。

文学】謡曲『鞍馬天狗』、舞曲『未来記』はその最も代表的のものである。『義経興発記』には巻二に、海音の『末広十二段』では初段に見え、近松の『十二段』でもその第一段を成し、且それでは僧正坊は世之介という奴に化して牛若を愛護するのは西鶴『一代男』の影響であろう。『嫩■(容+木)葉相生源氏』の「第一、鞍馬山之段」には、本伝説を夢にとりなし、『鬼一法眼三略巻』(三段目切)では大天狗は鬼一法眼の仮装、又『風流■(言+花)平家』(二之巻)では、常磐御前の変粧と変わっている。その他院本に『鞍馬山師弟杉』、黄表紙に『鞍馬天狗三略巻』、合巻に『鞍馬山源氏之勲功』等があり、長唄には歌舞伎の『鞍馬山だんまり』(黙阿弥作)に用いられた『鞍馬山』があって行われている。又、一代記風の義経物には大抵この伝説を採っている。傍系的のもので本伝説が相当重要な素材として用いられているのは、謡曲『野口判官』、御伽草子『天狗の内裏』であるが、近松の『源義経将棋経』(五段目)も魚翁姿の大天狗が義経主従を戒め、且討手の来襲を告げて之を破らせ、終に蝦夷人に大王と崇めさせるという構想で、『野口判官』と同じく末路の義経を救援するのであり、又最後に爾後の指針を予示することがあって、これは前にも触れたように未来記式趣向の襲用と言える。

〔補〕宇治加賀掾正本『冬牡丹女夫獅子』の下の巻の切(即ち『孕常磐』の四段目に当たる部分の次に補足した一節)が本伝説で、且、二人僧正坊――分身伝説の型式――の趣向を用いている。謡曲『善界』の影響をも受けている。
 


(三)鬼一法眼伝説

内容

人物 牛若丸。兵法家鬼一法眼・同息女(皆鶴姫)・鬼一高弟北白河の湛海。
年代 (牛若丸十七歳(『義経記』『鬼一法眼』には十七歳――十八歳(治承元年十一月――同二年))
場所 京都一條堀河(『鬼一法眼』には今出川)


京の一條堀河の陰陽師鬼一法眼は、文武二道に達し、且、六韜三略の兵法の秘巻を蔵していた。牛若丸はこれに師事して、その相伝を望んだが、許されない為、美人の聞え高い鬼一の三の姫に契って、兵書を盗み出させ、密に読破して六韜の奥義を得た。これを感知した鬼一の怒は甚だしく、牛若を賺し出して、高弟湛海をして途に殺させようとしたのを、牛若は却って湛海を斬り、その首を携げ帰って、法眼の心胆を寒からしめた。願望を達した牛若丸が、名残の袂を分って立去った後、姫は御曹司を慕うの余、終に恋に病んで果敢なくなった。

【出処】『義経記』(巻二、鬼一法眼の事)、『鬼一法眼』(一名『判官都話』)、謡曲『湛海』(〔補〕御伽草子『皆鶴』)等。

型式・構成・成分・性質】前項の伝説と同じく兵法伝授説話ではあるが、稍類を異にし、即ち鞍馬天狗型ではなく、外観的には史話に近い形を採っているけれども、型式からすれば寧ろ勇者求婚説話型に属すべきものである――即ち本伝説の含んでいる情話は説話構成の素材からは、主要事件の挿話に過ぎないが、全体として一の型式を作り出しているほど、有機的にその主要事件に結合していて、これを分離させようとすると、本伝説の説話としての存在価値が甚だしく稀少となるのである。但し、後半湛海の部分は附帯説話として取扱われ得る。この伝説の恐らく原形かと思われる次條の島渡伝説に於いて一層その明証が得られる。即ち宝を獲ようとして敵人の許に入った英雄が、種々の難題を課せられて困しむのを、敵人の女と契ってその助によって免れ、終に目的を果たす機会をも与えられるという一般型式は、本伝説にも大体認められる。湛海の事件の如きは、その難題の一とも、亦宝を盗んで走った後、これを敵人が追跡する常型の変形とも見ることが出来る。併しながら本伝説は完全な求婚説話でないばかりでなく、余程人事的史実的である。或は実際これに近い史実があって、その形が恰(あたか)もこの説話型に相応ずるのではないかとも思われないこともないが、確証は無く、又縦し、史実らしいものがあったとしても、それに関せず本伝説が次に説こうとする伝説から転移したであろうことも想像が可能であるから、いづれにせよ一の求婚説話型の伝説とも認めて差支ない。そして若しこの推断に誤が無いとすれば、一見実話とさえ思われるほど、よく変容し、よく神話的分子が抽出せられているのを見るのである。が、なお本伝説及び次條の伝説の如き、形態上に於いて神話的であるばかりでなく、本伝説の小主人公牛若丸は、「口一丈の堀、八尺の築土にとび上り」(『義』巻二)、法眼の館人に肝を消さしめる奇童で、史譚的武勇伝説時代の所産ながら、神話的武勇伝説の片影をも看取し得る。次條の島渡伝説に於いてこの傾向は一層著しい。

即ち本伝説は空想的成分が多きを占め、神話的成分は説話型としての形相と牛若の行動の上に痕跡を留めている。併し純粋史実ではなくても(仮構的の事実であっても)、少なくとも事実らしさを主成分として構成せられてある点は否定し得ないから、准神話的要素は含むとしても、性質上からはやはり史譚的武勇伝説とするが穏当であろう。

また、本伝説に附帯的に含まれる一挿話――湛海斬りの伝説は競武型で闘戦型でもある競勇型勇者譚である。そしてこれも史譚的武勇伝説である。

本拠】後に述べるように、前伝説と共同本源の、或は本伝説だけの本拠をなす隠れた事実があるかも知れないとの仮想は提示出来るが、それに相当する史実の徴証は全然無い。或は恐らくは次條の島渡伝説の変容ではあるまいか。人間的実話的であると、神話的童話的であるとの差はあるが、両伝説を比較する時、全く同種否寧ろ同一のものではないかと想わせるものがあるからである。前項にも既に指摘したが、尚詳論すれば、先ず秘蔵の兵書のある由を聞いて尋ね至り、伝授を乞うことが第一の共通点である。許されないのでその愛娘と契り、これが手を借りて素志を果たし、秘巻を披見会得することが第二である。女の父が之を知って激怒し、牛若を殺そうと計ることが第三である。牛若が愛人の助によってその難を免れ、命を全うすることが第四である。その後父の怒に触れた女の死に結末するのが第五である。女の死は病死と殺害との差はあるが、牛若の為に身を喪うのは同じである。殊に鬼一の名も恐らくは島渡伝説に於いてそれに相当する蝦夷が島の鬼王に関係があるのではなかろうか。徂来が、「鬼一法眼は紀一なるべし」(『南留別志』)と言ったのは、余りに穿ち過ぎた言であろう。現にこの両伝説をそれぞれ題材とする『御曹司島渡り』と『義経記』(巻二)の「鬼一法眼の事」との、形の上での中間者の観をなしている『判官都話』がその原名を『おにいち法眼』と呼ばれているのにも、この間の消息が窺い得られるような気がする。この御伽草子だけに限らず『義経記』の古板本などにすらも(例えば元録十年板の巻二の目録に)、「鬼一法眼(おにいちほうげん)の事」と振仮名までしてあるほどである。「鬼一(きいち)」と読むのは或は比較的後のことかも知れぬが併し『三略巻』の外題ではもう「鬼一(きいち)」と読ませていた筈であり、又徂来の説からみても少なくとも元禄頃は両様に読まれていたのでもあろうか。後世は「きいち」に定まったようである。

解釈】鞍馬天狗伝説に関連して注意を払わるべき主な義経伝説の一である。即ち前伝説と略同じ動機によって発生せしめられたもので、唯彼を神的解釈と言うことが出来るならば、此は人的解釈とも言えよう。義経をして機略縦横用兵の妙を尽さしめるのを観る所以の説明としては、人間以上の或力を有するものから、兵法を授けられると解釈するのも一つの考え方であるが、又堂々たる兵略の大家の秘書に就いて自得させることも、国民の同情的驚異心からして、自ら想い到らしめるべきは理由のない事では無い。況や前伝説の牛若の稽古する所、乃至大天狗が伝える兵法は、主として戦術よりは寧ろ一人の敵たる域に徘徊しているからである。なお前伝説と相関的に、本拠に就いての仮想、或は相互の変移交渉等の問題に関して考察解明を要する点が少ないが、便宜次の〔成長・影響〕の項で詳論する。

次にこの伝説に含まれる二箇の副事件に関してであるが、それは一は主要事件と不可分の関係に立つと観るべき、兵法習得の経に緯をなしている恋愛譚で、今一つは主要事件に従属した湛海一党の戮殺である。そして前者には仮令手段的の意味が多分にあっても、義経の情事方面が語られて居り、後者では橋弁慶伝説と同じく義経の武芸と胆勇とが示されている。

なお本伝説に於いて鬼一法眼が兵法の秘巻を愛蔵することは、秘事秘伝を尚び、これが相伝を軽々にしなかった中世の一般風潮をよく語るものであるのは勿論、後にはその兵書が江家相伝のもので(『義経勲功記』巻三)、大江匡房卿から八幡太郎義家に伝えたのを、更に鬼一の祖先に預けられて、代々相承した(『鬼一法眼三略巻』)(『勲功記』には鞍馬寺の宝庫に藏められてあったのを、夢想によって奏聞し、勅許を得て之を賜るとしてある)とするに至って、かの『著聞集』の逸話に結びつけられて、終に兵法の門家を作り出した所に、平安朝以来漸次諸道諸芸が専門的世襲的となり、近古から近世へかけて、和歌の二條・冷泉、蹴鞠の飛鳥井、挿花の園、神紙の吉田等の如く、全く家道家芸に固定してしまった現象が、ここにも影を投げているのが認められ、前伝説と同じく、義経伝説としての外、他の意味に於いても時代を語る興味ある資料と言うべきである。

成長・影響】本伝説で最も重要な問題の根基は、所謂六韜三略十六巻(『義経記』)(『鬼一法眼』『御曹司島渡り』には四十二巻)である。鬼一との交渉経過も、又それに絡まる挿話的な恋愛譚も、全く唯これを獲ようとの牛若の願望から進展し、湛海が依嘱を受けるのも使命を果たした上はかねて懇請の相伝を允可せられるとの條件の下にで、唯この兵書の秘巻を中心としいて前説話は成立している。而も義経の戦術は、一にこの秘巻から出たとせられているから、後世軍学家が義経を宗として、この兵書を貴ぶのは当然の事で、為にする者が又その兵書を伝説から具現して宝物とし、或は自ら之を伝えたと称し、或はこの兵書そのものであるとして示すようになったものがあるのも不思議ではない。殊に『鬼一法眼』の終に、法眼が泣く泣く愛女を荼毘に附して、その兵書をも火中に投じて焚いたところ、諸巻の中、虎の巻だけは焔の中から飛び上って失せたとあるのは、同書の伝存を唱えるのに都合の良い口実を与え、さなくとも、牛若の書写した物が伝わらない筈はないとの考も、これに手伝っているのであろうから、終に『兵法義経虎巻』(上中下三冊)と称する異様なものを伝えるに至った。同書の序文によれば、明暦丁酉仲春・勢州渡会浮萍(ふへい)という人の家に秘して伝えたのを刊行すると記し、四十二ヶ條の詞書に各絵図を挿んだものである。四十二ヶ條あるのは所謂四十二巻に象ったのであろうか。扨(さて)その四十二ヶ條とは、例えば、

第一   軍場出作法之事
第二   敵打行時酒飲作法之事
第十   甲冑箭不融秘術之事
第十二  魔縁者切秘術之事
第卅一  敵為火中被責入其火難遁秘術之事
第四十二 神通箭作秘術之事
といったように、間々軍礼作法を規定する條項のある外、大抵秘法秘術で、且その各條の内容は、殆ど皆各の場合に於ける真言神呪の詞、唱え方、及び印の結び方であり、図にも武者姿の人物でそれを示している。一例を第一ヶ條に取れば
 
第一 軍場出作法之事 
敵をうちに行時、随兵共にもしらせず、ひそかに東にむかいて、左の手を拳にして、左の腰に置き、右の手を施無畏にして三度垂れ、くたし膝をして、この真言を七返気のした誦せよ
■ ■黒坦宅吠梨耶莎賀(おんまくこくたんたくへいりやそわか)
此神呪をとなえれば、詩天童来りて、この人の甲冑ひたひたごとに入りて、敵をほろぼし、吾随兵にちからをそえて、ついに勝事を得さしむべき也。(『義経虎巻』上巻)


概ね上の類で、笑うに堪えたものである。巻首に同書の由来を記し、黄石公から子房に授けたのを、大江維時入唐帰朝の時将来して、江家に伝えたのを、義家の懇望によってこれを「和仮名」て授くるものである由を、大江匡房の筆として記してあるのも可笑しく、而も匡房には匡房(ただふさ)と訓じてある。そして鬼一の秘庫に蔵していたのを、義経が披閲して後世に伝えたものであるとしてある。余りに児戯に類するようなもので又通俗に堕しているものではあるが、偶々以て義経乃至虎の巻が、如何に自称兵法家や武芸者の間に尊重せられていたかを旁証する一資料とはなるであろう。実際義経は史上の名将として、兵家の祖と仰がれるのみならず、斯く伝説上に於いても一層その傾向を増大していて、後世義経の軍法を伝えていると称する輩が少ないのも事実である。虎の巻の名も本伝説の流行と共に愈々普遍化し、あらゆる秘事秘訣の代名詞のようになった極端な一例は、遊女の手管を写した洒落本にまで『当世虎之巻』(田螺錦魚作)という題名を附しているのでも知れる。

本伝説自体の成長進展は特に複雑を極めている。先ず第一は鬼一に新に姓名が与えられるようになったことである。即ち一は『勲功記』『義経記大全』注、『風流■(言+花)車談』の一団で、これらは憲海と号せしめるのである。例えば『勲功記』(巻三)は、「その比都一條堀河の辺に、鬼一法眼憲海と云う法師あり。元来伊予の国吉岡の産なり」とし(『義経知緒記』(上巻)も同説)、且同書に記した系図を表にすると、

 ┌実方中将
 |
 └{仗律師(実光)三代孫――吉岡憲清――鬼一法眼憲海(童名鬼一丸)
となる(『天狗の内裏』(下巻)には、「四国讃岐の国ほうげん」としてある。同書は室町末の作であろうが、刊行すら万治二年で、『勲功記』より約四十年も以前のものである)。これらに対する他の一類は『鬼一法眼三略巻』『鬼一法眼虎の巻』であるが、これには姓のみを記している。この姓を吉岡とするのは両説共通で、唯その由来としては、『勲功記』は上の如く伊予の地名から出たとし、『三略巻』(三段目)は戯曲常套の通俗語源説的説明を用いて、「元来鬼一が家と申すは、君の御先祖八幡太郎義家公に宮仕へし天野某、八幡殿鎮守府の将軍となって、奥州を知り召されし時、本吉・長岡の二郡を領地に賜り、本吉・長岡の下の文字を取って吉岡と改め」としている。併し鬼一が吉岡姓を附与せられるに至った理由は、次に掲げるような染色師で剣法家であった吉岡建法の事に因由するは疑を容れない。
 
『常山紀談』五之上巻に、慶長年中禁裏に猿楽の有りし時、貴賤群集しけり。吉岡建法という染物屋、剣術の妙手にて有りしが、無礼の事有りしを、雑色咎めければ、建法外に出で、羽織の下に脇指を隠し、元の所に入り、先の雑色を只一刀に切りて、夫より縦横に駈廻るに、元来飽くまで手利なり、手負数を知らず云々。さて太田忠兵衛というもの、建法を打留めたる由委しく見ゆ。建法小紋は此吉岡建法が染出せりとなん。可尋。(小山田与清『松屋筆記』巻九四)


上に引用せられた『常山紀談』の文は、同書の「吉岡建法狼藉、太田忠兵衛手柄並太田武政を論ずる事」の條にある。『駿府政事録』『武芸小伝』にもこの事件を載せ、慶長十九年六月二十二日の出来事としてある。又『武芸小伝』(巻之六、刀術)に、

吉岡拳法

吉岡者平安城人也。達刀術、為室町家師範。謂兵法所。或曰、祇園藤次者得刀術之妙、吉岡就之相続其技術也。或曰、吉岡者鬼一法眼流而京八流之末也。京八流者、鬼一門人鞍馬僧八人矣。謂之京八流也云々。吉岡与宮本為勝負。共達人而未分其勝負也。

とあるのは、やがて鬼一と建法とが結び附けられ、吉岡姓を名告らしめられる経路を示すもので、『三略巻』以前、既に建法の事は、近松にも『傾城吉岡染』(正徳二年十一月、竹本座)に作られ、これには兵法家を憲法として憲法染を案出することとし、吉岡は吉原の遊女の名に用いられ、特に奇抜なのは、憲法が石川五右衛門の師匠になっていることである。又野田富松作の『吉岡建法染』という戯曲も出ている。そして建法の名も実話資料の方でも、建法(『駿府政事録』『常山紀談』『松屋筆記』)拳法(『武芸小伝』)、又は憲法(『雍州府志』)と種々に記して一定しない。鬼一に憲海の号を与えた『勲功記』は、正徳二年三月の刊で(近松の『傾城吉岡染』の上場より早い)あるから、貞享三年刊の『雍州府志』に載せた憲の字を利用したとの推断が許されるであろうし、近松は勿論直接そのままを採ったのであろう。

次に述べねばならないのは、義経の下部御厩の喜三太が、鬼三太清悦となって鬼一法眼と連結せられ、更に鬼次郎幸胤と云う人物が加わって、鬼一・鬼次郎・鬼三太は三人兄弟とせられるに至った事である。この三人が血縁的の関係を結ばせられることになったのは『三略巻』『虎の巻』に始まっているのであるが、後二人の名は文耕堂等の創出ではないようである。『三略巻』は享保十六年の興行であるが、それより十四年前の享保二年に刊行せられた『鎌倉実記』(巻八)に、義経が兄頼朝の軍に奥州から馳せ参ずる條の随兵の名を記して、

九郎殿の近衆には、伊勢三郎義盛・武蔵坊弁慶・常陸坊海尊・堀弥太郎景光・鬼二郎幸胤・鬼三太清悦五十騎。
とあり、又同書(巻一六)には
堀弥太郎景光は、(中略)今度京都にて生捕れ、後命を被助て、子弥次郎経重と父子共に入宋、行衛不知。さて義経の雑色に、鬼次郎幸胤という者あり。景光が甥なり。
又同巻に
鬼次郎幸胤・鬼三太清悦は、片庇の雑色なり。
とも見えている。但し二人を兄弟であるとは明記してないし、もとより鬼一との関係も記してはない。又この喜三太を鬼三太と書き始めたのは、実は『鎌倉実記』が最初ではないので、それより五年前の『義経勲功記』(巻一)に、義経と最初の主従の契約をしたのは、鞍馬の麓の樵夫満間の大太という者で、「後鬼三太と号せし下部」は是であるとしている。そしてその大太を改めて、鬼三太とした理由は、義経が平家追討の大将軍として鎌倉を発するに臨み、大太の従来の功労を賞して、予の今日あるは鬼一法眼の兵書を読むことが出来た為であるが、それは一に汝の功に帰すべきで、即ち汝は、鬼一に勝ることが二つあり、鬼一を説いて予に面謁させたことがその一、嫡子吉岡次郎憲実を賺して、父法眼を諌めさせ、湛海の功を昼餅に帰せしめたことがその二である。よって
鬼一は軍略に達して其智世に超たり。然るに汝が知を以て、鬼一に勝れること二つなるときは、是鬼三なり。今よりして大太を改め、太の字に鬼三の二字を冠して鬼三太と号すべし。(『勲功記』巻六)
と命じて改名させることとしてある。鬼一と喜三太との連結はこれが初である。鬼と喜と同音であるのと、一と三との数字を名に用いたのまで似ているので、両人の間に何等かの関係を附して説明しようとしたのである。『鎌倉実記』を経て、『三略巻』が三人を一連としたのも同じ動機に出ている。そして一層相互の関係を親近ならしめたのである。要するに『勲功記』までは鬼一と喜三太と両人だけが、而も外形的に関係づけられたに止まっていたのを、後二書に至っては、『勲功記』の「鬼一が嫡子吉岡次郎憲実」(『風流■(言+花)軍談』には荒次郎としてある)を吉岡鬼次郎幸胤として、終に鬼一・鬼次郎・鬼三太の三兄弟を作り出したのであった。更にその鬼の字に愈々意味を含ませて複雑化し、三兄弟の父を鬼大輔として、その出生に怪婚伝説を附帯させ、即ちこの人物をば、葛城山の役行者に仕えた前鬼という鬼が大和の郷士吉岡某に通って生ませた者としてしまい、これによってこの一家が鬼の字を名に冠する理由の説明としようとしたのは『虎の巻』で、同じく偶然にも鬼若という誂え向の幼名を有する弁慶に又この三兄弟を結びつける為に、その妹(?)椰子の前(後、お京)という女性を鬼次郎の許嫁としたのは、『三略巻』『虎の巻』である。
〔補〕椰の前を弁慶の妹(?)としたのは、山本角太夫正本『弁慶誕生記』が初である。但し、鬼次郎の許嫁にはなっていない。

次は鬼一の女皆鶴姫のことである。『義経記』『鬼一法眼』共に唯鬼一の三の姫とだけで、媒の女は前者に於いては幸寿、後者に於いては更科としている。この姫が皆鶴とよばれるようになったのは何に始まるか不明であるが、謡曲の廃曲にも『みなづる』があり、又『天狗の内裏』(下巻)に「法眼がひとりびめ、みなづるをんな」とあるなども、その名の見える早い方であろうか(〔補〕『皆鶴』と題した舞曲もあったらしく、又同名の題号を有する御伽草子の伝存が発表せられ、その中には「みなつるごぜん」とあるから、室町末、江戸初期にはもう皆鶴の名が行われたのであろう。『天狗の内裏』の記載と併せてこれを証している)。

『勲功記』以後『風流■(言+花)軍談』『三略巻』『虎の巻』も之を踏襲している。唯『金平本義経記』だけは、かつらの前とし(馬琴の『島物語』(巻六)には『頭書義経記』にかつら姫とある由が記してあるが、近世になってからの註記であることは勿論であろう。これとの先後は不明。又『義経知緒記』(上巻)にも桂姫とし、鬼一の養女と見えている)、『末広十二段』はこれに倣っている(〔補〕『弁慶京土産』には千鳥の前としている)。そして兵法家の女としての皆鶴は、『勲功記』(巻四)に「皆鶴姫被殺変化者事」があって、「今是れを考うるに、『村井本義経記』に此の事を載せたり」と註し、牛若丸が去って後の姫に関しては、古くは、恋病に死んだとの伝説(『義経記』『鬼一法眼』)があるが、後には牛若丸を慕って奥に下り、終に再会の叶わぬのを悲しんで、会津の難波池に入水したとの伝説(『会津風土記』『勲功記』巻五、皆鶴姫奥州下向の事。同、皆鶴姫入水附九郎義経愁嘆同難波寺の事)を生じた。これは美人遊行説話で、浄瑠璃姫や静の伝説との混淆があろう。又、北白河の湛海(『義経記』)は、『鬼一法眼』(巻二)には「五條の悪とうかい坊」として伝えられているが、「たんかい」「たうかい」の音便で、結局同一であろう。これにも姓を与えて、長谷部としたのは謡曲『湛海』で、笠原と呼び始めたのは『三略巻』である。

以上の如く、本伝説の主要人物は皆漸次に完全な姓名を附与せられて来たのであるが、同時に説話の内容に於いても、亦人物の性格に於いても、多少の変容・成長を営んで来ている。その最も著しく且興味あるのは、本伝説が鞍馬天狗伝説及び弁慶誕生の伝説と結合せられて来たことと、鬼一の性格の変化とである。弁慶と関係せしめられたのは、『三略巻』に始まり、その動機は前に述べたように、主として人名の偶然の類似に基づく(弁慶の幼名を鬼若と称するのは早く『義経記』に見え、戯曲作者の故意に作り出した名ではない)ので、本伝説との結合も単に機械的に接合せられている程度のものであるが、等閑に附することの出来ないのは鞍馬天狗伝説と本伝説との混融に就いてである。

発生の主理由が同じく、而も同様の兵法伝授に関する伝説で、大天狗と鬼一とは略々相似た位置に立ち、相似た種類の登場人物であるばかりでなく、被伝授者は同一人なのであるから、両伝説が進展の間に、自ら接近し混融して来たのも偶然ではなく、或は又共同の本源をなす史実をその根柢に有していて、両様の形に展開して来たのではなかろうかとの仮定すら樹て得られる可能さがある。果たしてこの仮設が真であるとすれば、両伝説は一度分離して、再び復た元へ還って合一したものとも観られるのである。或は又史譚的な本伝説が更に神話的に変容して『義経記』等に描写せられてある僧正ヶ谷の背景に融和したのではないかとの想測も不可能ではない。

さすれば同一本源から両様に発展したのでなく、本伝説は前伝説へ進展する段階的位置に立つとも観られ得ることとなるのである。併し何れも猶推測に止まるだけであり、又本伝説は求婚説話型の恋愛譚を含む点で、これが前伝説に変容するにはその重要部分だけが脱落したことになり、少しく自然さを欠く嫌いがある。兎に角以上のような関係がなかったとしても、少なくとも両伝説は、同一の動機から生まれ、同一の理由によって拡布した意味を、少なからず共通に有しているとは明言し得られるであろう。具体的に両伝説の混融の状態を観ようとならば、『三略巻』及び『虎の巻』を抜けばよい。即ち二書に於いては鞍馬山の大天狗僧正坊は、実は牛若に兵書を譲ろうと思惟する源家の忠臣鬼一法眼が、平家を憚る仮の姿であった――これは一は前に出版せられた浮世草子の『風流■(言+花)平家』の常磐御前が天狗の面を被って牛若を励ます趣向に示唆を得てそれを転用したのでもあると思うが――のを、それと知らずに、鬼一に弟子入りしようと館に入り込んだ御曹司に、法眼は娘皆鶴の手から虎の巻を伝えさせると共に実を明し、且、義に迫って自殺することとなっている。これは一面から言えば、形の上では両伝説を結び付けたものであるが、又一面からすれば、兵法を伝授した天狗というのは、実は韜晦した謀士であったとする、前の『俗説弁』式種明し的解釈で、鞍馬天狗伝説を鬼一法眼伝説で説明しようとしたものであるとも言えるし、若し又史実があったとしたら、天狗に仮託した伝説が、恐らく同一本源から出た別箇の伝説によって本拠を暗示せられたということになるのである。同巧異曲の構想でこれに倣ったのは馬琴の『俊寛僧都島物語』である。

此に於いては、鬼一法眼を鬼界が島で死せずに、密に京に遁れ帰った法勝寺の執行俊寛であるとして、前の場合の解説に、更に二重に解明を加えたような形をなしてい、鬼一法眼伝説を、更に又俊寛伝を以て説明しようとしたもので、此処に至って、本伝説は戯曲家・小説家によって意外の形貌に進展せしめられてしまった。尤も鞍馬天狗伝説と本伝説との交渉は必ずしもこれら文筆家の想案からのみ出たのではないことは、正徳四年の序のある日夏繁高の『武芸小伝』(巻之六、刀術)に、

兵術文稿曰、源義経住鞍馬寺之日、従鬼之門人鞍馬寺僧、而習剣術於僧正谷。是所以欲深密而神之也。世人不知而謂牛若君師天狗也。
とあるによっても知ることが出来る。これこそ鞍馬天狗伝説の本拠に擬するに本伝説或はその派生説話を以てしようとする民衆の心意の一端を代弁しているものと観ることが出来、『俗説弁』(正徳五年の自序が附してある)にも提示せられてあるような見解に、具体的な断案を早くも下しているものと言うべきである。又、所謂鞍馬八流(京八流)――小天狗鞍馬流も亦この系統か――の由緒に関して、やはり同書の先に引用した「吉岡拳法」の條に鞍馬僧八人から出たとしてある説明と共に、それが又鬼一の門人であるとしてあるから、『兵術文稿』の鞍馬僧で鬼一の門人であるという人物―- 一人のようにも解せられ、或は数人即ち恐らくその八人――と先ず同一と看てよいのであろう(然らば鬼一は自ら大天狗に相当することにもなる)。かくして少なくとも武芸家の側では所謂鞍馬天狗を鬼一門と目して怪しまぬようであるが、それは上に言う如く、鞍馬天狗伝説を鬼一法眼伝説によって解こうとしている心意なり態度なりが発生し成長しつつあるという事実を示すだけで、本拠の発見及び考証というには猶未だ頗る遠い。何となれば鞍馬僧と天狗との親近さは譲歩出来るとしても――これもかなり通俗的な合理化という程度の考え方であるが――鞍馬僧が鬼一の門弟であったか如何かという緊要の前提に於いて、何等有力な明証が挙げられてないからである。要するに前伝説と本伝説との混淆融合の一現象として一顧して置けば足りるのであろう。

又鬼一法眼の人物に就いて検すると、『義経記』『鬼一法眼』『勲功記』等の鬼一は唯陰陽師で、兵法の指南家であり、且平家を懼れ、寧ろ好意を有する外、源氏には無関係である。その性格も、概して単純で、牛若の才を嫉んで、湛海に殺させようとする小人物である。然るに戯曲・浮世草子の鬼一では、元来源氏の臣下ながら今は平家の扶持を受けているとし、牛若に対しても内心はこれを尊敬し、兵法の奥義を伝えたい素志はあるが、名目上の義理に絡まれてそれと顕わに言い得ず、或は僧正坊の姿となって余処ながら兵術を授け(『鬼一法眼三略巻』『鬼一法眼虎の巻』)、或は娘の恋愛を黙認するのみか却って利用してこれに秘書を与え、それを情人に献ぜしめて志を致させ(『風流■(言+花)軍談』『三略巻』『虎の巻』)、斯くして自身は辛うじて不臣不義の責を免れようとする。この情義に挟まれる心中の苦悶、之を解決する実際的方法に就いての工夫、これが江戸時代の文学に於ける鬼一法眼伝説の眼目となって来ているように見える。そして民衆もかくの如き形式的義理に拘泥することを以て満足し、作者もこの点にのみ腐心するのが即ち近世時代色の一面で、本伝説もこの一般傾向の中に動かされて行っているに過ぎない。この態度をなお一段と押進めたのは、『島物語』の馬琴で、鬼一は俊寛僧都の変身となるに及んで、平家に対する恩義乃至遠慮は全然除去せられるようになったばかりでなく、果たし得なかった平家覆滅の企を、牛若によって成就せしめる積極的な後楯となっているのである。概して江戸時代の鬼一は、原伝説に於ける如き剛悪人でなくなって居り、表明は平家に従って、裏面では源氏の忠臣であり、湛海のみが全然の悪人である。この鬼一が表裏二面を有する矛盾は、如何にも弁護しにくい所で、構想の複雑味は添える代わりに、作者は皆この点の取扱に困しんでいるのを観るのである。

なお古跡として鬼一法眼屋敷跡と称する地(〔補〕現、鞍馬電車貴船口駅前、鞍馬小学校校庭の下)に塚が現存し、『山州名跡志』にも「帰一法眼塚」と出ている。

文学】最も古いのはやはり『義経記』(巻二、鬼一法眼の事)であろう。謡曲に『湛海』があって、牛若が五條天神で湛海を斬ることを作ってある。即ち本伝説の後半を素材としたもので、殆ど『義経記』の内容と同じである。恐らく『義経記』から採ったものであろう。唯湛海を法眼の婿とし(『義』は妹婿)且その姓を長谷部としてあるのと、牛若の帰宿先を鞍馬としてあるのとだけが異なっている。婿とする点は御伽草子の『鬼一法眼』と同様である。『いろは名寄』に『みなづる』の名が見えるが、廃曲で伝存しない。『鬼一法眼』(三巻)は前にも述べたように、成立の先後は別として説話の形の上では、『御曹司島渡り』の内容と『義経記』の「鬼一法眼の事」の記述との恰も中介者であるような観がある。が、同書中の牛若と姫との関係を記した部分は、確に『十二段草子』の影響を受けたと推せられる節があり、詞章を比較しても、これが後者より早い作とは思われないから、『義経記』と『十二段草子』とから併せ採って作ったものではなかろうか。もとより『御曹司島渡り』若しくはそれから出たこの書の内容そのままの伝説が既に前に形成せられていて、それが又文学となって現れたのがこの書であろうとも考えられるが、そうならば、その文学化せられるに当たって、前二書の影響があったろうことを認めたいのである。『判官みやこばなし』というのは、『鬼一法眼』の一名と見え、巻末に「寛文十年庚戌正月吉辰林市三郎開板」とある帝国図書館藏の『判官都話』は、「絵入」と冠した五巻本であるが、内容は『鬼一法眼』と全く同じである。又後に同一の書の題簽を改めて、『鬼一三略巻判官都物語義経千本杉』とした五巻本がある由を平出氏の『近古小説解題』に記されてあるが、未だ管見に入らない。又『勲功記』(巻三)には、小早川の慈光院永智尼公が、大阪松の丸殿に献じた『義経虎の巻』と称する上中下三巻の絵草紙があった由を記してある。大体の内容から察すると、この『鬼一法眼』と同一の物ではないかとも思われる。

〔補〕帝国図書館本の『判官都話』を、高野辰之氏藏三巻本を以て校合したものを、拙著『近古小説新■』(初輯)に収めてある。又、昭和八年一月号「国語国文」に「舞の本皆鶴の紹介」と題して清水泰氏の発表があり、その全文が登載された。舞曲と断ずるには猶十分の徴証がほしいが、本伝説を取扱った御伽草子として珍しいものである。

『義経興廃記』には巻二、『義経勲功記』には巻三に見える。古浄瑠璃では『金平本義経記』(二之巻、三段目・四段目)に作られて、これは大体『義経記』に倣っている(〔補〕『弁慶京土産』も本伝説が中心である)。『末広十二段』(初段・三段目)にも採られているが、最も著名な戯曲は言うまでもなく『鬼一法眼三略巻』である。この作では牛若は鬼一へ普通の弟子入をせず、虎藏と名を改め、又鬼三太は智恵内と称し、相謀って鬼一の下部に住み込むのである。虎蔵の名は牛若からの思いつきで(鬼に連関して丑寅の連想)、且虎の巻に掛け(且、奴の名に虎蔵と用いたのは既に近松の『■(もみじ:木+色)狩剣本地』(五段目)の戸隠山の鬼の奴踊に「関内・角内・可内よ、取ったか取らんか虎蔵よ」とあるのから来たと思われる)、又智恵内は、かほど分別ある男に何故智恵ないと附けたかと言う鬼一の詞で説明せられている。「内」は勿論下郎の呼名に掛けたのである。

この曲の三段目「鬼一館の段」は特に謡曲『鞍馬天狗』の詞句を採った所が多い。法眼が二人を試みようとして、智恵内に命じて、牛若の虎蔵を杖を以て打擲させようとするのは、安宅伝説から借りて来たものであろう。歌舞伎でもこの三段目切の「菊畑」及び四段目の「檜垣茶屋」「大蔵卿館」が有名で、「菊畑」は新歌舞伎十八番の一にも数えられている。歌舞伎で本伝説を取扱ったものでは、他に『鬼一法眼指南車』『勝時栄源氏』等がある。『三略巻』から二年後に出た其磧の『鬼一法眼虎の巻』は、同戯曲を浮世草子に綴り代えたもので、部分的に少しづつ変化増減があるのみである。浮世草子にはこれより以前、『三略巻』上場の翌享保十七年の作に、祐佐の『風流■(言+花)軍談』があって、同じく本伝説を題材としている。馬琴の読本『俊寛僧都島物語』は、俊寛に関するものではあるが、又本伝説に取材した作であることは前述の如くである。但し俊寛と牛若とを結びつけた点では、近松の『俊寛牛若平家女護島』(享保四年)を先鞭とすべきであるけれども、それは猶単に二人の事を箇別に同一曲中に収めたというに止まっている。これを一層緊密にし、且本伝説をも応用して一篇を作り成したのが、即ち『島物語』である。その他、一代記風の義経物に本伝説が採られているものの多いのは、これ亦前伝説と同様である。
〔補〕昭和三年七月、帝劇女優劇に書卸された松居松翁の『六韜三略恋兵法』は、『義経記』と「菊畑」とに取材したものである。
 
 

第二章 つづく


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源義経研究

義経デジタル文庫

2001.12.1
2001.12.14 Hsato