島津久基著
義経伝説と文学
本篇
第一部 義経伝説


第一章 義経伝説の四要素
 

第一節 時・人・所・事

すべての史的事実に於けると同じく、又すべての完全な形を具へる伝説に於けると同じく、義経伝説を形成するものは日時(When?)・人物(Who?)・場所(Where?)・事件(What?)、即ち、時・人・所・事の四要素である。即ち時代の背景と、中枢人物と、地名と事件とがこれである。そしてその最も重きをなすものは、人物と事件である。第一の時代の背景に就いては、大略、序篇(第一部、第三章、第一節)に述べたからここには省略し、唯、義経伝説の背景をなす時代が、我が国史上最も興趣深い時代の一つであり、又最も詩的、伝説的な時代の一つであったということを再顧するに止めて置く。義経が我が国武勇伝説の代表的主人公として、国民の同情を集める所以のものは、一に彼の個人的性格・境遇・事業に因るものではあるが、又之を一層華やかに淋しく、美しく哀れに彩ったものは、時代の背景であると言わねばならない。
 
次に地名に就いて観るに、地名が伝説に於いて重きを為すのは、地名伝説の場合で、例えば姥捨伝説の如きそれである。義経伝説中には、部分的には地名伝説を含むような場合もあるが、全体としては、特に重きをなすものは少ない。船弁慶伝説は、西国落の途上での難船史実に結び付けられた事を外にしては、その場所は必ずしも大物の浦でなければならないというのではないのである。仮令遠州灘に代えても、亦越後灘に代えても、全体の説話の形の上には、それほど大いなる影響はないのである。熊坂長範の討たれたのが、近江国境の宿(『義経記』第二)ともなり、美濃国青墓(舞曲『烏帽子折』)ともなり、同国赤坂(謡曲『烏帽子折』『熊坂』)ともなったのは、同一伝説が流移して、異地方の出来事としてそれぞれに伝えられる適例となり得ると同時に、それはその伝説が、一地名に緊密に結び付けられるべき史実の根拠、若しくは必然的理由が存在しないからなのである。併し義経伝説の要素として、主なる地名、或は義経に関して、史的、伝説的、若しくは詩的の連想を容易に惹起し得べき地名は、鞍馬山・三河矢矧宿・京都五條橋・鴨越・屋島・壇の浦・腰越・大物の浦・吉野・鶴ヶ岡八幡・安宅・奥州高舘及び蝦夷等である。就中詩趣に富むのは、鞍馬山僧正ヶ谷・鶴ヶ岡八幡宮・月の五條橋・雪の吉野山等であろう。

武勇伝説の性質上、その要素として第一位を占めるものは、中枢人物であることは言うまでもない。又その人物の活動によって進行する事件が、武勇伝説に在っては特に主部分を成すことも、武勇伝説一般が叙事詩の内容を形成することによっても直ちに知られるであろう。義経伝説の主要素をなす人物と事件とを観ると、先づ事件に就いては、概括しては武勇に関する事件と言い得られるであろうが、仮令型式若しくは性質を同じくするものであっても、その個々の説話に至っては、各種各様、複雑変化があり、決して単調ではない。戦争・武術・情事・音楽・歌舞・信仰等、平安宮廷の生活に坂東武人の本領とする所がよく調和合体して、詩趣ある説話の骨子を成している。唯、大体に於いて、義経伝説を構成する各事件は、史的分子が多いということと、従って大抵史譚的武勇伝説の典型を示すと共に、他の神話的・准神話的の諸武勇伝説の内容をなす如き事件をも■(尸+婁)々類型的に集成代表しているということとが言い得られる。

更に中枢人物に至っては、性格に於いても、階級・種類に於いても、興味ある人物を含んでいる。貴族・武士・行商・僧侶・山伏・尼僧・処女・白拍子・強盗・夷人及び天狗・鬼・幽霊、後に至っては、動物(狐)までも加わっている。もとよりこれらは凡て同時に一伝説中に現れるのではないが、各伝説は義経の一生の一部分をなし、それ一個としても独立した一伝説たり得るものもあると同時に、全体としても亦一伝説と見作し得るからである。尤も右の如き種類の人物は、義経伝説にのみ限っているのではないこと勿論である。それよりも義経伝説の人物に関して特に感興の惹かれるのは、その人物の配合対照にある。武将たる主人公九郎判官に附するに、豪胆で而も滑稽な勇僧弁慶と、麗艶にして義烈な白拍子静を以てし、更に忠信、その他四天王の輩を副へ、これに蚰蜒(げじげじ)の梶原景時を適役に廻して奸曲の限りを尽くさせる。この点他の武勇伝説に対比を求めると、此処でもやはり僅かに曽我伝説があってこれに拮抗する。即ち彼の十郎・五郎が此の判官・弁慶に、虎が静に、そして祐経が景時に大略相当る。兎も角義経伝説の各人物は義経伝説を描き出して行く人々で、それぞれ興味ある特殊の性行を具有している。次にその主要な人物に就いて、史上と伝説上とからの考察を加えてみることとする。
 
 

第二節 義経伝説の中枢人物
 

(一) 九郎判官義経
 
義経伝説の主人公、九郎判官源義経は、清和源氏(陽成源氏との説もあるが暫く普通の説に従う)左馬頭源義朝の第九子、母は九條院の雑仕常磐、幼名は牛若丸、後、遮那王、壽永三年八月六日左衛門少尉に任じ、元暦元年八月二十六日平氏追討使の官符を賜い、二年八月十六日伊予守に任じ、文治五年閏四月三十日奥州平泉衣川館に於いて自殺した。行年三十一歳であった(『吾妻鏡』巻九、文治五年閏四月三十日の條参照)。略系図を示せば、

清和天皇――貞純親王――経基(六孫王:賜源姓)――満仲――頼信――頼義――義家――義親――為義―┐
                                                                          ┘
      ――義朝
               │
          ├―義平(悪源太)
          ├―朝長(中宮少進)
          ├―頼朝(右兵衛佐、征夷大将軍)
          ├―義門(早世)
          ├―希義(土佐冠者)
          ├―範頼(蒲冠者)
          ├―全成(今若丸、醍醐悪禅師、阿野冠者)┐
          ├―円成(乙若丸、今禅師卿公、後義円) ├母常磐
          ├―義経(牛若丸)           ┘
          ├―女子
          ├―女子

余りに有名な義経の史伝を茲で詳述するの要はあるまい。但し史家によって学術的に研究せられた真の詳しい彼の史伝を知る事は、これから試みようとする企図の準備として、欠くべからざる要件でなければならない。そしてこの意味の義経伝の研究として、仮令なお多少伝説的分子の全く排し去られないものがあるとはいえ、先ず最も信頼していいと思われる黒板・中村両氏のそれを推したいという事を述べるに止めて、此処には直ちに武勇伝説の主人公としての義経を観ようと思う。

九郎の名が示すように、又前掲の系図の示すように、彼は義朝の第九子だったのであろう。而もこの点についても、巳に伝える所は区々で一定せず、『平治物語』には九男としてあるが、『吾妻鏡』(巻九、文治五年閏四月三十日、衣川戦死の條)には六男としてある。『義経記』に至っては八男とし、而もそれが九郎と名告る理由としては、

元服の際に於ける義経の口を借りて、
われは左馬の八郎とこそいはるべきに、保元の合戦に叔父鎮西の八郎名を流し給ひしこ  となればその跡を継がんことよしなし。末になるとも苦しかるまじ、我は左馬の九郎といはるべし。(巻二)
と説明を試みてある為、以後は『義経記』の流布と共に八男説が勢力を有するに至った。更に戯曲・草双紙等に至っては、義経は三男となるに至っているものがある(これは常磐腹の三男なのが真の三男と転ずるに至ったのである)のみか、自然の推移か、幸に平家討伐の三主脳をこれに宛てるのが如何にも尤もらしく、且説明の簡便な為か、常磐腹の三子、今若・乙若・牛若を以て頼朝・範頼・義経であるとするようにもなった。近松の『源氏烏帽子折』(初段)はその一例である。

そして我が九郎義経の伝説的生涯は、既に平治の乱に父を喪ふの日、伏見の里の吹雪に逍遙う母常磐の懐の中から始まる。次いで平家に捕えられての母の苦節に続いて鞍馬入となり、落魄の孝子の情に感じた僧正ヶ谷の大天狗は忽然と深山の中からこの鳳雛を他日の名将軍たらしめる恩師として出現し、更に突如としてその前に姿を見せた金売吉次の手は、やがて遠く奥秀衡の許に導き、その途幾多の事件が起って、或は遮那王殿の僧正ヶ谷の兵法に好試練の機会を与え、或は蛇は寸にして人を呑む豪胆穎智は、孤独の身として、よく恩顧の臣従を獲て異日活動の素地を作り、若しくは鞍馬の多聞天の再誕と、峯の薬師の申子との奇しく優しい宿縁に、源家の公達の情史の一頁が夙くも披かれた。

そして同じく情話に絡みつつ、鬼一法眼の兵書を読破して、ここに平家討滅の戦勝の基礎は既に成ったのであった。なおこの間、特に牛若丸時代に於ける重要な一事件は、後年判官義経時代第一の股肱となった武蔵坊との五条橋の出会であった。その後、伊豆蛭ヶ小島の流人兄右兵衛佐頼朝が、以仁王の令旨を奉じて、兵を挙げるに及び、忽ち奥を脱出して来り会した源九郎には、その疾風迅雷的に木曽を亡ぼし平家を追い落した戦功に附して、壮快な鵯越の逆落し、武人の嗜みやさしい屋島の浦の弓流し、軽捷飛鳥を欺く壇の浦の八艘飛びなどの説話が数々ある。が、その快絶の場面は、一瞬にして転換した。逆櫓の論の怨讐は、思いもよらぬ長い恨を腰越の駅に留めさせ、堀河の館の円かな夢をも結ばせず讒奸の舌頭に誤られて、昨日の功勳も水の泡、兄に憎まれて世を狭められるさえあるに、平家の悪霊まで、西国に開く船の行手を留めようとは。吉野山の雪に飽かぬ別れの袂を絞り、一院の御使検非違使五位尉源義経と名告って、陣頭に馬を進めた去にし日に似もやらで、緋縅の鎧、黄金造の佩刀を、兜巾・篠懸・金剛杖に代えて、幾度か虎の腮、鰐の口を逃れ、辛うじて第二の故郷と頼んだ奥に下って、胸撫で下したのも束の間、父の遺戒に背く不信の泰衡に売られて、終に悲惨な末路を以て国史の上に姿を没した。而も不生出にして不遇なこの英雄児は、いつしか再起の命運に際会し、海の彼方に活動の地を得て、死して又生きるのである。何たる伝奇的な彼の一生であろう。

さてこの英雄児義経の性格は、伝説の成長進展に従って、漸次に完全になっては行ったのであったけれども、既に前にも言ったように彼は大体に於て平家の一面と源氏の一面、貴族の風雅と武士の勇武とを兼ね併せたような人物である。真の史上の義経を十分に知悉せずとも、亦史家の説明を俟たずとも、我等国民の眼前に直ちに浮かぶ九郎判官の如何なる人物であるかは、何人も容易に語り得るであろう。即ち伝説の義経は、才貌兼備の人として考えられている。「面長くして身短く、色白うして歯出で」た『盛衰記』(巻四三)の義経は、恐らくはその真を伝えているに近いものであったろうとも思われるが、全く伝説化した義経に於いては、その容貌をなお「向歯の二つさしあらはれ」(『平家』巻一一)たままに留めるのは、国民の堪え得る所でない。「向ふ歯反つて猿眼、赤ひげ」(舞『笈さがし』)の判官は何時の間にか忘られて、鎧を著た業平のような優男となった。殊にその美貌を力説して、反歯説の非を弁じているのは『義経勲功記』である。これはなお後に詳説する。

軍将戦略家としての義経、それは説くまでもない。鵯越・屋島、さては蝦夷征伐、殆ど人間の業ではない。神話的武勇伝説の主人公の面影は、此処に機才縦横の名将の上にその住心地よい仮寓を見出した。萬人の敵を学んで、千軍萬馬を駆使する天賦の才があるのみならず、亦一人の敵をも習って、これを用いた事も屡々ある(『義経記』巻二(藤沢入道等を斬る)・同巻(湛海を斬る)・巻三(弁慶との闘)・巻六(里馬阿闍梨を斬る)舞『鞍馬出』謡『関原与市』舞・謡『烏帽子折』謡『熊坂』『現在熊坂』舞『堀河夜討』謡・伽『橋弁慶』『弁慶物語』近松『十二段』(第二段)『源氏烏帽子折』(四段目)『孕常磐』(初段)等、それである)。併し武芸の妙を示しているのは概して牛若丸時代である。そして鬼一から獲た虎の巻によって永く兵家の祖と仰がれ、大天狗から伝えられた兵法は、鞍馬八流の基を開いた。

武の人義経は又、文事芸道にも暗からず、風流才子としての義経に特筆すべきは、音楽、特に笛である。義経に笛を吹かせているのは『義経記』(巻一・三・四・七)舞『笛之巻』舞『烏帽子折』、それから『御曹司島渡り』『鬼一法眼』『弁慶物語』『十二段草子』((四)そとの管絃)『牛王姫』『十二段』(初段)『孕常磐』(四段目)を始め甚だ多い。熊谷次郎直実は「東國に千萬の兵有りと言ふとも、軍場なんどへ笛持つ者こそ有るまじけれ。哀れ都の人程優にやさしかりける事あらじ」(『城方本平家』第九)と歎じたが、義経は実にその「軍場なんどへ笛持つ者」のない「東國千萬の兵」の中にあって、最も平家に近い公達なのであった。管絃と並ぶべき平安貴族の資格に欠くべからざる芸能である詩歌にあっては、義経伝説では顕著なほど、特に優秀な伎倆を賦与せられなかったが、而もなお時代の風尚は、『盛衰記』では僅に平家の虜人を護送するに当り、時忠の北方帥典侍を慰めようと、
都にて見しにかはらぬ月影の明石の浦に旅寝をぞする
と一首を連ねさせ(巻四三)、若しくは都落に際して「思ふより友を失う源の」と愚詠を口吟ませ(巻四六)ているに過ぎない判官に、屡々強いて駄作を連ねる事を敢えてさせている(『義経記』巻五・七・八、『鞍馬出』『笈さがし』『高館』『十二段草子』)。

更に、義経伝説に見のがせないのは、ロマンスの義経である。『義経記』(巻二)の鬼一の女との情話は計略の為、手段の為の恋であるが、蝦夷ヶ島の鬼かねひら大王の女朝日天女との恋(『御曹司島渡り』)は切なる敵人との契、矢矧の長の姫浄瑠璃御前との恋(『十二段草子』)は哀れに美しい抒情絵巻である。

而もその一には、己が為に父の犠牲となる事を肯えてせしめ(『島渡り』)、他の二者には、袂を別って去った人の面影を慕って、恋に病み恋に死なせた(『義経記』『鬼一法眼』、近松『源氏冷泉節』)。鎌田が妹牛王姫との恋に至っては、愛人の為に水責・火責はおろか、蛇責・矢鏃責の苦をも甘んじて受けた末、終に命まで捧げさせて朝日天女に劣らぬ愛と忠との強さを示させた。

都の春に逢った鞍馬寺の児櫻の、綻び初めむ風情は、天下の美人を悩殺せしめずんば巳まぬのである。而もその魅力に加わるに名笛の誘惑がある。学才叡智がある。燃える情念がある。天女を見ては「たとひ命は捨つるとも、一夜なりとも馴れてこそ、この世の思出ともなるべけれと、心も空にあこがれ」(『島渡り』)、或は「軍のにはに駈け入つて討死するも習ひ也。況や是程やんごとなき女房だちに、相馴れて死なん命は惜しからず。忍びて見ばやと思召し」(『十二段草子』)て、浄瑠璃姫の閨に忍ぶと、亭の妻戸が細目に開いているのは「今に始めぬ事なれども、源氏の氏神正八幡の御利生にこそ」(同)と喜ぶ恋の牛若丸は、又恋の義経であった。「大方も情ある上、女などの打堪へ嘆く事をばもて離れずと承り侍る」(『盛衰記』巻四四)と平大納言の息讃岐中将が評した判官義経は、果たして時忠の女を納れて「志深く」(同)、正しく彼等が計ったように「散らすまじき状共を入れたる」(同)文箱を、封を開かずに送り返した人。「都におはしましける時、人知れず情深き人にておはしまししかば、忍びて通ひ給ひける女房廿四人とぞ聞え」(『義経記』巻四)、都落に際して、河越が娘、平大納言時忠卿の娘を先として、十二人の北方(『義経記』では白拍子五人を合せて十一人)を「いづれをも見放ち難う思はれければ、皆引具して」(『八坂本平家』巻一二)下る情の主。

同じ源氏の大将とあれば、今光君とも称えつべき、物語の主人公としても恥ずかしからぬ君であった。山伏姿の北国落にも稚児に窶させて妻女を伴い(『盛衰記』巻四六、『義経記』巻七)、一旦都へ帰れと命じた静に別れを惜しんでは、大物の浦の船出を停め、なお一日逗留しようと発言して弁慶に諌められる(謡『船弁慶』)多情多感の人であった。だからこそ面白い事に、地獄をまで征服した大将軍として、戦捷の祝宴を開いて「討取りし首どもを実検あつて、三途の河原に懸けさせ、死出の山にあがり、遊君数多を召し集め、舞うつ歌うつ酒盛」(『義経地獄破』)することを流石に忘れない人でもあったのである。その中でも最も現実味があり、且別離の最も哀切なのは、やはり愛妾静との語らいであろう。

次に各伝説を通じて義経の性格に著しいのは、勇気と負け嫌いと恭順と慈愛とである。奥下りの途に単身陵が家を焼き(『義』巻二)、或は敵中に馬を游がせて弓を拾う(『平家』巻一一、『盛衰記』巻四二)不敵さは、即ち試された熱鉄の提弦を握って面色をも変えず、頼朝を駭かし、蒲冠者・小野冠者を後に瞠若たらしめて、平家追討の大将軍に入選せしめた(『盛衰記』巻四六)同じ負け嫌いの胆勇であり、「たて給へと申しつる障子をば殊に廣くあけ、消し給へと申しつる火をばいとど高くかき立て」(『義』巻二)て主の賊を待ち、夜討に寄せた百五十騎の土佐が勢に駈け合わそうと大庭に馬を立て、唯一人召具して打出でた喜三太を顧みて、「何ともあれ、おのれと義経とだにあらば」(『義』巻四)と言い放った、人も無げな振舞は又、豪毅と共に、逆櫓を忌み嫌って老獪な梶原と口角泡を飛ばす場面と同じく、性急で肯かぬ気の性質を示して遺憾ないものである。併し史上の義経はいざ知らず、伝説の彼は頼朝に対しては恭順温和な弟である。腰越の哀訴が容れられなくても、鎌倉に乱れ入って、讒臣を討取ろうと勇む亀井・片岡等を固く制し(謡『安達静』『語鈴木』狂『生捕鈴木』)、偏に親兄の礼を重んじて、唯時運の非なるを喞つだけである。而もその臣下に対する慈愛の情は実に深く厚いものであった。屋島で難に代って能登守の矢先に斃れた継信を悲しんでは、鵯越を落した愛馬太夫黒を供養する事を吝まず(『平家』巻一一、『盛衰記』巻四二)、一旦の勘気も、その痛手に弱る哀れな源三を見ては、忽ち怒解けて、枕頭に涙を垂れるのである(『義経記』巻四)。さればこそ、継信の孝養に、弟忠信を始め、これを見る侍共、皆涙を流して、この君の御為に命を失はんことは、全く露塵ほども惜しからじ。(『平家』巻一一)と感激し、又その大剛をめでて家臣としようとした頼朝の厚い詞をも顧みずに「誠は重家を世に立て給ふとも、義経の情には換へまじきものを」(『語鈴木』)と高言して、紀州藤代から遙々奥へ下って主の先途にあおうとする(『語鈴木』舞『高館』『義』巻八)鈴木三郎のような忠義の士も出るのである。秀衡から附けられた佐藤兄弟を除いては、義経には一人も譜代の臣はない。然るに一度主従の約を結んだ者は、義経が逆境に陥っても艱苦を共にして最後まで去る者がなく、而も重家の如き者のあるのは、一に義経が部下を愛する情の厚いことを証して余りあるものである。

義経を敬慕する者は、啻(ただ)に臣下のみではない。逆境に陥ると、我も我もと同情し、支援若しくは隠匿して好意を寄せる者が輩出する。奥の豪族藤原秀衡は、その最有力者であった。更に南都の得業(『義』巻六)・大津次郎(同巻七)・井上左衛門(同)があり、又秀衡の三男泉三郎忠衡(『義』巻八、謡『錦戸』。〔補〕舞『和泉が城』)・富樫左衛門(『胎内さぐり』『風流鑑』等)があり、史上に於いても、後白河法皇を始め奉り、大蔵卿泰経、鞍馬の覚日坊、南都の得業聖弘、多武峰の十字坊、道徳・行徳等の悪僧八人、叡山の仲教・承意・俊章等(『吾妻鏡』『玉葉』『盛衰記』)はその著しいものであり、伝説上での同情者の多いのも、決して架空ではないであろう。無難に奥州へ落ち下ったことを思えば、井上・富樫ならざる井上・富樫の輩も必ずやあったに違いない。中にも、義経の多大の同情者である勤修坊得業が、関東に召喚されて、頼朝の威武にも屈せず、義経の寃を弁じて、頼朝の無情を責めた舌端火を吐く熱弁は(『義』巻六〔『吾妻鏡』巻七、文治三年三月八日庚戌の條参照〕)、愛人を慕う情の前には、征夷大将軍も眼中に無い秋霜烈日の如き静の貞節と正に好一対と謂えよう。

判官は又味方に対してのみならず、敵の正善なる者に対しても慈仁であった。戯曲の世界では特にそれが著しく、窮鳥を助けた宗清の弥陀六が田恩を感銘し(『一谷嫩軍記』)、木曽の遺臣樋口兼光の勇を愛でてはその縛を免し(『ひらがな盛衰記』)、制札の詞に諷意を籠めては若木の櫻の敦盛を救う(『嫩軍記』)情ある大将である。

要するに、伝説の義経は外柔内剛、文武兼備、才貌双絶、部下を慈しみ、敵を憐れみ、又負け嫌いで性急である為に、傍若無人の振舞が無いではないが、兄に対しては曽て逆らわず、感情的で執着心が強いけれど、知的方面に於いても群に絶した天賦を具備してい、色好みであるけれども、単なる遊治郎ではなく、比較的真面目で滑稽家ではないが、淡泊酒脱な点も無いではない。空論の人でなくして実行の人、建設の人ではないが進取の人、多面的に発達して、完全に近い性格の人であるけれども、道徳の権化ではなく、愛すべく、慕うべく、憐れむべく、親しむべく、畏るべき理想的な国民的英雄である。花も実もある武夫とは、義経に与えるに最も適切な評語であろう。
 
 

(二) 武蔵坊弁慶

「判官殿の御内なる膝元去らずの西塔の弁慶」(舞『富樫』)と世に知られた武蔵坊は、実に義経伝説に於いて欠くべからざる大立物である。殊に失意時代の義経に在っては、判官と武蔵とは二にして一、一にして二、孰れが主人公であるかを疑わしめる程である。その風貌たるや、「飽くまで丈は高うて、極めて色は黒くして、眼ににくちをもつたる」(同)見るからに獰猛な大法師、その扮装たるや、「褐の直垂に黒刺繍の鎧著て、法師なれども常に頭を剃らざりければ、三寸ばかり生ひたる頭に、揉烏帽子に結ひかしらして、四尺二寸有りける黒漆の太刀鴎尻にぞ佩きなし」(『義』巻五)、「もとより好む大長刀、眞中取つて打ちかつぎ、ゆらりゆらりと出でたる有様」(謡『橋弁慶』)、『盛衰記』作者をして、「身の色より上の装束まで牛驚く程に有りければ、焼野の鴉に似たりけり」(巻三六)と評せしめたのも尤もである。『盛衰記』(巻三六・四二)『義経記』(巻三・四・五・八)舞『高館』謡『橋弁慶』を始め、弁慶の装束は常に黒づくめである。唯『高館』の戦に暫時卯花縅を着けているのは『八島』(舞)で尼公から貰った忠信の記念の鎧であるからである。

弁慶の扮装に無くてかはわぬ附き物は、その背に負った大工の用具にも似た七つ道具である。但しこれを完備するようになったのは、寧ろ発達いた後の弁慶で(後に詳説する)、原来の彼の武器は「三日月の如くに反りたる長刀」(『義』巻五)に非ずんば、「櫟の木を以て削り」「八角にかどを立てて、もとを一尺許りまろくしたる」(『義』巻三)「名誉の棒」(舞『堀河夜討』)である。この黒装束の黒法師が「小山の動く如く」(『高館』)揺ぎ出て、「かたきを靡けておめく聲、雷電・稲妻・霹靂・獅子・象・虎の吼ゆる聲もかくやと思ひ知られ」る勢(同)に、面を向ける敵なく、結局常にこの八角棒と大長刀との手柄に終らしめるのである。つまり『水滸傳』の花和尚、『盛衰記』の文覚と類を同じくする極端な勇僧である。

余りに度外れの強い者は、一面からは愚に見え滑稽に見える。戯曲に於いて弁慶が、常に京の君の侍女連の笑い草となり、衆人に滑稽視されるのは、毫も不思議ではない。そして彼自身亦、頗る愛嬌たっぷりの滑稽家であり皮肉屋なのである。鵯越の案内者を捜めて山中の茅屋に臨んでも、わざと勿体らしく「声づくろひして、事々しく」主命を演述しつつ、「御使に、武蔵坊弁慶とて、古山法師の怖ろしき者が来れり」(『盛』巻三六)と、我から言い立てるなぞ如何にもその人らしい。礼盤に押上っての俄聖の仁王姿は、「式は観音講、貌は毘沙門講、あな貴、おそろし」と判官に揶揄され(『盛』巻四二)、高言を吐き散らしながら吉野の山川を跳び損じ、熊手に引揚げられた濡鼠の大入道は、敵囲の中の主従に一時緊張を解かせた(『義』巻五)。堀河の土佐坊来襲の夜の如き、縁の板どうどうと踏み鳴らして近づく法師武者に、敵昌俊かと訝る義経から誰何せられて、遠くは音にも聞き給へ。今は近し目にも見給へ。天つ児屋根の御苗裔、熊野の別当弁せうが嫡子に、西塔の武蔵坊弁慶とて、判官の御内に一人当千の者にて候。(『義』巻四)と真面目くさって名告りを上げるふてぶてしい洒落さは、弁慶の人物を彷彿させる。それに全く情を知らぬ木偶人ではない。主君の心情を推察して北国落に北方を伴い参らせ(『義』巻七)、義に感じ時に臨んでは「聲を立てて」(同巻八)泣き、「伏しころび」(同巻七)て泣き、「ちつとも萎れぬ眼より、涙をはらはらと」(『高館』)流すのである。又極端に強い者は我儘で短気なのが常である。『水滸傳』の黒旋風李逵・行者武松、『演義三國志』の燕人張飛、我が国の曽我五郎・坂田公時・朝夷三郎の如き皆然りである。弁慶にも幾分この傾向が認められぬことはない。幼時の鬼若丸時代に於ける彼は殊にそうである。併し五條橋の上で、牛若丸と会して主従の約を結んでから後の彼は性格漸く一変し、無頼の暴僧は何時の間にか智勇具備の大柱石となり、上述の彼と同類の人々が、その性質によって常に惹起するような失敗を学ぶことなく、性急短慮は寧ろ主君義経に譲って、己は沈毅深慮、逆境に処し、難関に遭っても敢えて動じず、常に薄命の君を護って、これを泰山の安きに置かしめる老功の兵として、玄徳に於ける諸葛孔明にも比せらるべき判官股肱随一の名臣である。

加之、彼は又主君に劣らぬ多芸多能、特に「三塔一の遊僧」(謡『摂待』)で、屡々延年の舞の手を示し(『義』巻五・八、『高館』謡『安宅』『勧進帳』)、又、即智能文「草案までもなくし、唯一筆に」(舞『腰越』)腰越状を認め、「笈の中より従来の巻物一巻取り出し、勧進帳と名付けつつ」(謡『安宅』)高らかに読み上げ、頓才雄弁よく危地に安路を開くのである(『義』巻七、舞『富樫』『勧進帳』)。もとより山育ちの法師で、幼時は「学文世に超えて器用な」ので、「衆徒も、形は如何にもわろかれ、学文こそ大切なりとて、彌々指南し」(『義』巻三)た程であるから、その道に暗かろう筈がない。清水の観音堂で御曹司と出遭って、法華経を競い読むと、参詣の人も鳴りを鎮め、行人も鈴の音を止めて聴聞した(『義』巻三)有難さ、或は大物の浦で平家の怨霊を法力を以て鎮めた(謡『船弁慶』、舞『四國落』『笈さがし』)尊さは申すばかりもない。僧形だとは云え、山伏修験の道にも精通して、大先達の貫禄は十分である(『義』巻七 三の口の関通り給ふ事『安宅』『勧進帳』)。無骨一遍の荒くれ法師かと思えば、亀割山では北方の産婆役をつとめ(『義』巻七)、水に入っては一言もない黒旋風同様、陸のみの勇かと思えば、北国落の難船に際して、「不思議やな武蔵は、文にも武にも達者なるが、船路の道をも、これほどに心得たるか、不思議や」(『笈さがし』)と判官をして漫に嘆賞させたほど、舟手の業にも慣れている。射術に於いても亦人に譲らぬものがある(『義』巻四 義経都落の事、住吉大物二箇所合戦の事 謡『沼捜』)。持前の勇力は、もとより鬼若以来の自慢である。「相手嫌はぬいさかひ好む」(『義』巻三)書写の悪僧信濃坊かいえんも、彼の手にかかっては一丈一尺の講堂の軒に投げ上げられ、「聞ゆる大力」(『義』巻四)の土佐坊も、彼に攫まれては猫に遭った鼠同然である。そして自ら進んで危地に入り、却って敵を欺き伏せしめて勧進の斉料までも出させ(『義』巻七 三の口関を通り給ふ事、平泉寺御見物の事『笈さがし』)、敵前に悠々乱拍子を揚げ(『義』巻五 吉野法師判官を追掛け奉る事 巻八衣川合戦の事 舞『高館』)た不敵と余裕とは、心に泣いて相恩の主君に杖を当てる(『安宅』『勧進帳』)智略と深慮とに相俟って、判官の重臣としての彼を愈々重からしめる所以である。平均して言えば、義経は牛若丸時代には極端に穎悧であるが、不遇時代は著しく萎縮的になっているのに、弁慶は鬼若丸時代の乱暴に引代えて、沈着な勇僧となっている。義経の失意時代は或意味からすれば、弁慶の得意時代である。繰返して言うが、五條の橋の出会を以て、両者それぞれの性格に一転期を劃した観があるのが面白いのである。中間に挟まれている平家追討時代は、伝説上では洵に瞬間的であるのみならず、弁慶に関しての材料が甚だ欠乏しているので、上のように言っても敢えて不当ではなかろうと思う。要するに後年の武蔵坊は、子房・孔明と樊■(ロ+會)・英布とを一つに合せたような人物である。

兎も角も色白の短小な判官と、真黒な丈高の武蔵坊、性急な義経と沈着な弁慶、柔和な主君と勇剛な臣下、色好みの御曹司と女嫌いの荒法師、情の人と意の人、慈愛と忠義、打物と腕力、緋縅と黒革縅、滋藤弓と大長刀とは、常に絶好の対照をなして、而も互に相助け相補う分身一体、異体同心の主従である。

然らば、この判官膝下第一の豪傑の家系由緒は如何と尋ねると、憐れむべし史上に於ける弁慶法師は、僅かに『吾妻鏡』(巻五)の文治元年十一月三日義経西国落の條と、同六日大物濱難船の條とに、その名が見え、而も一行の最後に録せられた一僧兵としての外、その家門も性格も功業も毫も知る事を得ないのである。『盛衰記』に於いてすら、僅かに三草山合戦に大続松を用意せよと命ぜられて途々の在家に火を放つ條(巻三六)と坂落しの案内者を捜す條(同)、それに滑稽な観音講式の條(巻四二)等に短い記述が見えてはいるが(その他巻三五・三六・四一・四二・四三等に、名の出ている箇所がある)、なお判官直参の臣僧であるに留まり、さして顕臣であるとも見えない。それ故、『大日本史』『日本外史』も皆単に一個の判官の臣従として記述しているに過ぎない。即ち『大日本史』には「義経列伝」中に二個所 一谷道案内と西国落と 見え、『外史』には「僕弁慶」とあるだけである(これは重野博士講演及び森洽藏氏遺稿にも指摘してある)。併し『吾妻鏡』に看ても、悲境に陥った義経に従う僅少の臣下の中に加わっている点からして、判官の部下中全然名もない懦弱な者ではなかったであろうということと、眼前の時運によて、向背定めない輩ではなかったであろうということとは、想像を許され得べきではなかろうか。凡そ史実に拘束せられることの少ない人物に於けるほど、伝説はその領分を拡げ、その想像の翼を自在に働かしめ得るのである。史上に父母を有せざる弁慶は、伝説上で国民からこれを与えられた。出生国、幼名も亦同断である。これらはなお後に特に章を設けて述べることにする。末路に於いても、義経と去就を与にし、終りを同じくしている。即ち死せる弁慶としては、衣川立往生の有名な伝説を生み、奥州に死せざる弁慶としては、蝦夷征伐の功臣の名を留めた。
 
 

(三) 静御前と佐藤忠信

次に義経伝説の中枢人物として、重きをなすものは、判官の愛妾静と、寵臣忠信である。而もこの二人は特に、吉野山の別離に際しての、両主要人物として活動していると共に、その結果、両者が終に結び附けられるに至って益々好対照をなしている。そして又両人共、弁慶に比すれば、史的人物としての色彩も鮮明である。

(い) 静御前

静が都北白河の白拍子(『義経記』巻六)で、判官の愛妾であること、
(『吾妻鏡』巻五、文治元年十一月六日に「妾女 字静」、同十七日に「豫州妾静」又「九郎大夫判官 今伊豫守 妾」、巻六、同二年三月一日に「豫州妾静」、四月八日に「豫州妾」、五月十四日に「豫州者鎌倉殿御連枝、吾者彼妾也」。その他『平家』巻一二「土佐房被斬」、『盛衰記』巻四六「土佐房上洛」〔『盛衰記』には「禅」とある〕、『義経記』巻四・五・六等)

その母が有名な男舞を創めたといわれる磯の禅師(『徒然草』二二五段)であること、
(『吾妻鏡』巻六、文治二年三月一日に「母磯禅師」、同五月十四日に「静母磯禅師又施藝」。『平家』巻一二に「磯禅師と云ふ白拍子が娘静」、『盛衰記』巻四六に「磯禅師が娘、禅と云ふ白拍子」、『義経記』巻五・六に「母の禅師」又「磯の禅師」、『徒然草』に「禅師が娘静」)

及び判官都落に際して、伴はれて、大物の浦の難船に遭い、終に吉野から都へ還されたこと、
(『吾』巻五、文治元年十一月六日・十七日、十二月十五日。『義経記』巻四・五)

途に吉野の衆徒に捕えられ、都六波羅の北條の亭に引出されたこと、
(『吾』巻五、文治元年十一月十七日・十八日、十二月八日・十五日。『義』巻五)

更に鎌倉へ送られて訊問にあったこと、
(『吾』巻六、文治二年三月一日・六日。『義』巻六)

舞を所望されて鶴ヶ岡の神前で妙技を示したこと、
(『吾』巻六、文治二年四月八日。『義』巻六)

懐胎した義経の胤を由比ヶ濱に捨てられたこと、
(『吾』巻六、文治二年閏七月二十九日。『義』巻六)

それらは歴史も伝説も大略一致している。

その生国を相模国小磯(『和漢三歳図会』)とし、或は丹後国磯村(『丹後海陸巡遊日録』『義経勲功記』巻一六「或日」)とするのは母の名に、又淡路国志津郷(『重修 淡路常磐草』『義経知緒記』)とするのは静の名に関係を求めた為らしく、何れも地名の通俗語源説的の解釈から生じたものである。。更にその死地に至っては、粉粉として一定せず、静の墓と称するものが諸処に残っているのは、曽我伝説に於ける虎御前のそれと同じである。

『義経記』(巻六)には十九歳で尼となって京地で二十歳の秋に死んだとしてあるが、『牛馬問』『淡路常磐草』『淡路國名所図會』等は淡州説で、『讃岐大日記』は讃州説、『丹後海陸巡遊日録』『義経勲功記(巻一六「或日」)は丹後説、『前橋風土記』は上州説で、『半日閑話』には武州栗橋の古跡を録し(静が義経を慕って奥へ下る途、その死を聞いて引返し、此処で残したと伝える)、『奥羽観蹟聞老志』に至っては、陸奥長袋村に静の墓があるとしてある。静が後年尼になったとは、又諸説の多く一致する所であるが、その動機を夫に別れ子を殺された憂に帰しているのは、『義経記』(巻六)であり、義経が奥州で自害の由を聞いたのに因由するとしているのは『勲功記』(巻一六「或日」)及び『淡路國名所図會』所収の福田寺の志津賀女の縁起である。而も後種のものでは皆その法名を再性尼といったと伝えている。

その他静には、その舞衣(鶴ヶ岡八幡・光了寺)・唐鏡・守刀・守本尊(光了寺)(『光了寺縁起』の文詞、蛙蟆龍の舞衣、守刀のことなど、『甲子夜話』(続編巻八六)にも詳しく出ている。この光了寺はもとは栗橋の静村(今、大字高柳)に在ったのが、現今では茨城見猿島郡中田村に移っている)、それから結び柳・思案橋・静返し(以上玉川附近〔蜀山人『向岡閑話』〕・静の楊枝の柳・静ヶ谷村(静帰りの意という)(以上栗橋〔『半日閑話』〕)など諸処に種々の遺品田蹟が残っている。この墳墓遺蹟の諸方に散在しているのは、多くは所謂美人遊行伝説の諸現象として説明せられ得る性質のものであるが、畢竟彼女の終焉が詳らかでないところに起因している。併し、事件として、静に関する最も重要な伝説は、何といっても、堀河夜討と、吉野山の別離と、鶴ヶ岡の歌舞と、胎内君の悲劇とであろう。

然らば伝説乃至文学上の静の人物は如何。彼女は義経伝説の中枢人物中の一点紅と言うべく、義経の妻室として、平大納言時忠の姫君(『平家』巻一一、『盛衰記』巻四四)、久我大臣の姫君(『義経記』巻七)、河越太郎重頼の女(『吾妻鏡』巻三、元暦元年九月十四日、『平家』巻一一、『盛』巻四四)等が無いではないが、伝説的には静に比べれば、甚だ重きをなすものでない。静は実に弁慶・忠信等と匹敵すべき地位を占めて、義経伝説を飾る名花である。その容貌は『義経記』作者の筆によれば、

鎌倉殿静を御覧じて、いうなりけり。現在、弟の九郎だにも愛せざりせば、とぞ思召しける御気色に見え給ひけり。(巻六)
静を見るに、我が朝に女ありとも知られたりとぞ仰せられける。(同)
とあるのによっても想像する事が出来よう。その得技たる白拍子の舞の妙は、早天に雨を降らせて「日本一」の宣旨を蒙った事(『義』巻五 静吉野山に捨てられる事 巻六 静若宮八幡へ参詣の事)によっても著しい。それ故特に静の舞に関しての伝説・文学が多い(『義』巻五・六、謡『船弁慶』『安達静』『吉野静』『二人静』、舞『静』)。而も静にあって賞すべきは、白拍子に似げない貞烈の女である事である。これを最もよく語る者は、即ち鶴ヶ岡伝説で、六十六国の総追捕使、征夷大将軍と後に仰がれたその実権を、既に掌握している源二位頼朝の勢威を前にして、「吉野山峯の白雪踏み分けて入りにし人」を慕う思を二首の歌に寄せた彼女の心情は、その翻す舞の袖の神技と共に、独り満堂の大小名に止まらずして、後人をして且酔い且泣かしめるのである。その上『吾妻鏡』(巻六、文治二年五月十四日)に見える、工藤祐経等が静の旅宿を訪れて宴を催した時、酒興に乗じて戯れた梶原景茂の無礼を面責した一事は、愈々彼女の奪うべからざる気節を示している。
 
景茂傾数盃聊一酔。此間通艶言於静。静落涙云、豫州者鎌倉殿御連枝、吾者彼妾也。為御家人身、争存普通女哉。豫州不牢籠者、対面于和主、猶不可有事也。況於今儀哉云々。
凛としたその態度、刺すような言句、而もその相手が夫判官の最も嫌悪し、且夫判官を今日の窮境に陥れた奸悪景時の三子であるに於いて更に興味がある。この二つの物語はいづれも判官に対する彼女の熱愛と共に、夫の仇敵に対する憤怨の迸りを窺わせる好談柄である。更に以後の生涯を墨染の衣に送ったことに見ても、白拍子とはいえ、判官の正室にも劣らぬ貞淑の女であった。流石は「六人の女房達、白拍子五人が惣じて十一人の中に、殊に御志深かりし(『義』巻六)者ほどあったと言うべきであろう。兎も角も、彼女はこれらの物語によって、秋霜に譬うべき節婦として『本朝烈女伝』(巻七)に列せられ、多くの史家に賞揚せられ、『駿臺雑話』(三「烈女種なし」)をして、中村タ斉の『姫鏡』にこれを逸したことを難じさせるに至った程、婦人の鑑として長く後毘に崇ばれている。
 

次に、それが愛の力から出たものであろうし、又元来の天性でもあろうが、右の二つの物語に於いて静に認められるのは、彼女の勇気である。この勇気は又実に彼女をして堀河夜討に活躍せしめる所以のものであり、謡曲・舞曲の如きは、判官と並んで、敵を斃す長刀の名人である。啻に勇気のみでなく、堀河夜討の静は、細心にして周到、沈着にして敏捷、六尺の男子を後に瞠若たらしめ、真に日本の名将軍我が九郎判官の室たるに恥じないものがある。実際、堀河夜討の際に於ける静の行動は、最も推賞に値するもので、その功を論ずるに当たっては、弁慶も忠信も恐らく彼女に譲らざるを得ないであろう。この勇婦があって初めて、判官義経が起請法師の来襲の夜、「終日の酒盛に酔ひ」「前後も知らず臥し」(『義』巻四)ていたことに、意義を有らしめるのである。

併し静はやはり女である。吉野山で棄てられた彼女が、偶々蔵王権現の縁日に遇つて、唯先ず「安穏に都に返し給へ」(『義』巻五)と第一に祈り、老僧に御託宣と唆されて、神前に法楽を舞い(同)、更に衆徒にその素性を責め問われて、「いかにもして隠さばやと思えども、女の心のはかなさは、我が身憂き目に逢わんことの恐ろしさに、泣く泣くありのままに」(同)語ったのは、胎内の君の御胤を大切に思っただけではなかったのであろう。天下の武将、列座の諸侯の前をも憚らない静も、理も非も知らぬ荒法師共の前には、鷲に捕られた小雀にも似ていたに違いない。謡・舞の『堀河夜討』に於ける静の勇武の如きは、実は成長した後の伝説の姿であり、本来の彼女は勝気で勇気はあるが、長刀よりは舞を生命とし、寧ろ弱く優しい、唯愛には強い白拍子であったのであろう。数多の妻妾の中に唯一人、而も妓女である彼女に「わりなき御心ざしにて、人々数多渡らせ給ひしかども、所々の御住居にてこそ渡らせ給ひしに、堀河殿に取置かれ」(『義』巻六)、そして都落にも、大物の浦の難船後、多くの上掾E白拍子達は皆都へ還されたのに、彼女一人吉野の奥まで伴われたのは、判官との情愛が如何に濃に、切ないものがあったかを思わしめる。その雪の山路の悲しい別離は、又如何に血に泣く苦しみであったか。さればこそ鶴ヶ岡社頭の舞楽にも、吉野の奥を想い起こしつつ、「昔を今に」と繰返し歌い、蔵王権現の神前にも、
ありのすさみのにくきだに、ありきのあとは恋しきに、飽かで離れし面影を、いつの世にかは忘るべき。別れの殊に悲しきは、親の別れ子の別れ、すぐれてげに悲しきは、夫妻の別れなりけり。(『義』巻五)
と、みすみす我が身の素性を疑わるべき不利を齎す歌とも心づかず、悲しみの余り、恋しさの余り、我を忘れて謡ひ出た常住夫を想うその心事は掬すべく同情すべきものがある。而も思えば彼女の一生も南山の雪終古に解けぬ根深く、夫の君にも儔へつべき同じく幸運にして薄命な二十年であった。かくて主人公義経の好配をなして、静御前は義経伝説を彩っている。今も鶴ヶ岡八幡宮に詣でる人は廻廊の邊「白き小袖一襲唐綾を上に引重ねて、白き袴蹈みしだき、割菱縫いたる水干に、たけなる髪を高らかに結いなして、(中略)薄化粧眉細やかにつくりなし、皆紅の扇を開き、宝殿に向」(『義』巻六)うて立っている優姿が髣髴として現れるのを見るであろう。
 
 

(ろ) 佐藤忠信附継信

佐藤四郎兵衛忠信は、義経の臣下中、最も史的な、家系由緒の明らかな人物の一人である。そしてその史的一生と伝説的一生とは、これも略々一致している。即ち彼は奥州の藤原秀衡の老臣、信夫佐藤荘司(又、湯荘司)元司(又基冶)の第二子で、兄三郎兵衛継信(又、嗣信、或は次信とも)と共に、義経が頼朝の挙兵を聞いて奥から馳せ参じた時、秀衡から附けられた股肱の勇士(『吾妻鏡』巻一、治承四年十月二十一日、巻六、文治二年九月二十二日)で、且判官の乳母子(『盛衰記』巻四二、『義』巻三)である。官は兵衛尉、而も院から直接に賜ったのであった(『吾妻鏡』巻四、元暦二年四月十五日)。母は即ち謡曲『摂待』舞曲『やしま』の尼公であるが、『平治物語』(巻三)には、上野国大窪太郎の娘で、秀衡の妻にならうとして奥に下ったのを、信夫(『平治物語』には信夫小太夫としてある)に途で横取りされてその妻となったと見えている。『義経記』(巻八 嗣信兄弟御弔の事)では、「如何に泉三郎」と忠衡を呼び捨てにしている点が、秀衡との関係を曖昧にしているが、舞曲『やしま』では秀衡の妹ということになっている。それの正否は別としも、『吾妻鏡』(巻六、文治二年九月二十二日)の忠信戦死の條には「是鎮守府将軍秀衡近親者也」と明記してあるから、秀衡と何等かの縁続関係があったのではあるまいか。

佐藤兄弟は上のように義経の挙兵以来の功臣で、又実にその寵臣である。継信は鴨越の坂落しに、判官の乗馬大鹿毛に乗らしめられ(『盛衰記』巻三七)、君に代わって馬前に命を殞した時も枕下近く居寄って、「義経世にあらば、汝兄弟をこそ左右に立てんと思いつるにとて、手に手を取合って泣き給」(『盛』巻四二)ひ、片時も身を放さぬ愛馬太夫黒を以てその孝養に供へられ(同巻。『吾妻鏡』巻四、元暦二年二月十九日)、又忠信は吉野山の急難に、君の御名を賜って、唯一人踏み留まろうと乞い、惜しんで許さぬ判官も強ひて望む赤心に動かされて、漸くその望を果たさしめたのであった(『義経記』巻五)。

が、義経伝説の中枢人物としては弟を推さねばならない。奥を出てから或は木曽誅伐に、或は平家追討に、諸処に転戦して武功を頸はし、殊に屋島の合戦に、兄継信が平軍の雄将能登殿の矢先に斃れたのを、首を取ろうとして馳せ寄った教経の童菊王を射て、処も去らず、兄の仇を報じた健気な働き(『盛衰記』巻四二)、堀河夜討に奮戦して敵を撃退し(『盛衰記』巻四六、『義経記』巻四)、住吉・大物二箇所の合戦に敵の両将を海中へ射落として、「不覚とも高名とも沙汰のかぎりとて一の筆に」(『義』巻四)付けられた殊勲はとりどりであるが、主君の窮運はやがてこの忠勇の臣にとって最後の花を咲かせる機会へと導いた。判官義経が愛妾静と別離の袂を絞った吉野山は、又寵臣忠信をも、泣く泣く死地に残し留めた恨深い地であった。一山の衆徒数を尽くすとも、鳥合の法師勢、蹴散らして捨てるに何ほどの事があろう。なれども今は世を忍ぶ望ある身、犬死せんも無益、さらば心に任せよとあって、御名と御佩刀と御鎧とを賜った四郎が面目、諸士の羨望は如何ばかりであったろう。斯くて、雪の深山に唯一人、僅かに五六人の手勢を以て、大衆三百人を待ち迎えての勇戦奮闘、此処を死出の山と思い切って働けば、流石に擬勢こそは盛でも、悪僧横川の覚範が討たれたと見るより、「大衆是を見て、覚範さえもかなわず、まして我々はさこそあらんず。いざや麓に帰りて、後日の詮議にせん」(『義』巻五)と僧兵根性を曝露して、間近くは寄せようともせぬので、思わぬ命を拾い空腹を切って敵を瞞し都に上り(同巻。謡『空腹』)、君の御跡を慕おうとしたが、昔語った女の許に、その心変わりをも知らず不覚にも情の露の一夜の宿を求めた為、却って女夜叉の毒刺に遇い、六波羅の討手に囲まれて、終に勇ましく自害を遂げた。生年二十八歳と云う(『義経記』巻六)。

忠信の剛勇は吉野軍に最も著しいものがあるが、その得意とする所は射術である(『盛』巻四二、『義』巻四 土佐坊義経の討手に上る事住吉大物二箇所合戦の事 巻五 忠信吉野山の合戦の事 巻六 忠信最期の事)。殊に悲壮を極めているのはその最期で、
哀れ剛の者かな。人ごとにこの心を持たばや。九郎に附きたる若党、一人としておろかなる者なけれ。秀衡も見る所ありてこそ、多くの侍の中にこれら兄弟をば付けつらめ。如何なれば東国に是程の者なからん。余の者百人を召使わんよりも、九郎が志をふっと忘れて、頼朝に仕えば、大国小国は知らず、八箇国に於いては、いずれの国にても一国は。(『義』巻六)
と頼朝に愛惜させ、

忠信程の剛の者、日本を賜ぶとも、判官殿の御志を忘れ参らせて、君に随ひ参らせ候ふまじきものを。(同)
と重忠をして嘆ぜしめた彼忠信は、勇といい、忠といい、才気といい、威容といい、将た家系といい、官位といい、而も判官の乳母子であるといい実に君の御名を預けられるに最も相応はしい武夫であった。

併し彼は又実に優しい情の半面を有っていた。剛の極を目のあたりに見せた吉野の忠信も、「日夜朝暮かた時も離れ奉らず、仕え奉りし御主の御名残も、今ばかりなりければ、日比は坂の上の田村丸・藤原の利仁にも劣らじと思いしが、流石に今は心細くぞ思い」(『義』巻五)、又故郷の母を思い、妻子を思えば、木石ならぬ胸奥の涙を止め得ないのである。
君の御下り候はば、母にて候者、急ぎ平泉へ参り、忠信はいづくに候ぞと申さば、次信は八島、忠信は吉野にて討たれけると承りて、いかばかり歎き候はんずらん。それこそ罪深く覚えて候へ。君の御下り候うて、御心安く渡らせおはしまし候はば、次信・忠信が孝養は候はずとも、母一人不便の仰せをこそ預かりたく候へ。(『義』巻五)と申しも果てず、■(さんずい+玄)然と泣く孝子の至心には、判官も十六人の友輩も、誰か鎧の袖を濡らさぬ者があろう。

孝の人忠信は又悌の人忠信である。兄継信に対する深い友愛の情は、屋島に討死した兄の亡骸を、暗夜海渚に尋ね(舞『やしま』)、吉野の奥に君に従った日も、身に着けた鎧は、兄が屋島で最期に着用したものであった(『義』巻五)のにも知られる。そして母の尼の評したように、「天性極信の者」(『平治物語』巻三)であったからこそ、女の心の移ったとも知らず、昔の情に惹かされて、夏虫の自ら飛んで火に入ったのであろう。兎もあれ佐藤四郎兵衛は、剛柔を兼ね、勇と情とを併せた青年武士で、十指を屈する判官の名臣の中で、小義経とも謂うべきは彼のみである。或はその性行の一半は、主君判官の感化もあろう。これに私淑した結果でもあろう。

彼の兄継信も、亦大剛の強者であった。そして弟に勝るとも劣らぬ至忠孝悌の士であった。極信な忠信に対して、彼は「御用には立ち進らすべき者なれども、酒に酔いぬれば少し口荒なる者なり」(『平治』巻三)と、母なる尼は義経に語っている。弟よりは一段豪快味を帯びた男であったらしい。而も能登守の強弓に首の骨を射られて、さしもの猛勇も唯弱りに弱る痛手の苦しみ、主君に励まされて息の下から吐き出した最期の一言は、

弓矢取る身の習也。敵の矢に中つて主君の命に替るは、かねて存ずる処なれば更に恨に非ず。唯思う事とては、老いたる母をも捨て置き、親しき者共にも別れて、遙に奥州より附き奉りし志は、平家を討ち亡ぼして、日本国を奉行し給はんを見奉らんとこそ存ぜしに、先立ち奉るばかりこそ、心に懸り侍れ。老母が歎もいたはし。(『盛』巻四二)
とさながら弟と割符を合わすものがあり、弟にて候ひける忠信をば、相構えて、御不便にせさせおはしますべし。(『八坂本平家』巻一一)と、臨終の際にもその弟の行末を思い、そして
就中源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信と云ひけん者、讃岐国八島の磯にて、主の御命に代つて討たれたりなんど、末代までの物語に申されんこそ、今生の面目、冥途の思出に候へ。(『平家』巻一一)
と、莞爾として御大将に忝くも名残の手を執られながら眠って行ったこの兄、かの弟、真に一対の武人の鑑であった。『盛衰記』(巻四二)に随えば、判官四天王の二人として数えられているのも故ありというべく、殊更両人ながら君の命に代って誉を末代に留めたのは、かえすがえす奇しき宿縁の限りであった。

継信の墓は香川県の牟礼八栗に在る他、兄弟及びその父母基治夫妻の墳が福島県飯坂温泉附近の平野村医王寺に現存しているが、忠信のは下野大関にも在る由が『甲子夜話』(巻九)に見える。
 

(四) その他の人物

義経伝説の中枢人物として、その他には所謂四天王、又、鈴木三郎・常陸坊・鷲尾三郎・喜三太及び金売吉次等があり、敵役としての梶原景時がいる。

(い)四天王

世に伝えられる所謂義経の四天王は、亀井・片岡・伊勢・駿河であるが、何時の頃からこれを四天王と称し始めたのか詳らかでない。舞曲『笈さがし』に、「亀井・片岡・伊勢・駿河」と並べてあるが、四天王とは記してない。そしてそれは「武蔵坊弁慶・常陸坊海尊」(同)とある次に書き続けられてある。狂言『ひめ糊』にも「亀井・片岡・伊勢・駿河・武蔵坊弁慶」と並べてあるが、四天王とは明記してない。又謡曲『安宅』には「さて御供の人々には伊勢の三郎・駿河の次郎・片岡・増尾・常陸坊、弁慶は先達の姿となりて、主従以上十二人」とあって、なおこの頃までは所謂四天王は明確には出来上っていないらしいのである。『義経記』にも勿論見えない。却って早く『盛衰記』(巻四二)に義経の四天王としては、両佐藤、両鎌田を挙げてある。

即ち、判官には多くの郎等の中に、四天王とて、殊に身近く憑け給へる者は四人あり。鎌田兵衛政清が子に、鎌田藤太盛政・同藤次光政と、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信也。(『義経勲功記』巻九にもこれを採ってある)
とある。この盛政は一の谷で討死し(『盛』巻四二)、又『盛衰記』(同巻)の記す所によれば、継信の孝養に大夫黒を引かれた時も、継信だけでなく同時に戦歿した光政と両人の後世の為にと、高松の僧庵へ送られたのであった(但し『吾妻鏡』(巻四)及び『平家』(巻一一)には継信のみの為とし、光政のことは見えない)。然るにこの両鎌田は、伝説では有名とならなかった為に、いつか四天王は移って、例の四人となったものであろう。真の四天王の中、忠信を除いた三天王が、皆源平合戦の際早く討死した事も、この名が他の後々まで残って義経と不遇時代を与にした人々の上に移って行くことを助けたことと思われる。そして例の四人が四天王となるようになったのは、上に引いたように、舞曲や『義経記』等に列記並称せられる場合が多かったからに因るのであろう。且、その推移の時期は、恐らく江戸時代に入ってからのことではないかと思われる。但し『ひめ糊』の並列は既に四天王の成立を予想してあるようにも解せられるから、或は室町末までに出来上りつつあったのかも知れない(江戸時代の近松の『源氏冷泉節』(下之巻)にも、「かかる処に武蔵坊弁慶、亀井・片岡・伊勢・駿河」とある。がやはり四天王と明記はしてない)。

『盛衰記』に語るような、事実上の四天王は仮に姑く措くとしても、所謂義経の四天王が伝説上に生まれて来るということは、例の彼の祖先である頼光に四天王があって、普く人耳に親しいのであるから(『古今著聞集』(巻第九、武勇)の鬼同丸の條に「綱・公時・定道・季武等皆供にありけり。(中略)四天王の輩我も我もと駈けて射けり」と既に見える)、これにもそれに対化するものが考えられて来ても寧ろ自然ですらある。まして事実四天王と喚ばれた人物が居たとすれば、その成生は一層容易であった筈である。

なお普通の四天王以外に、佐藤兄弟・弁慶・海尊を数える説のあったことが、『松屋筆記』(巻九三)に『盛衰記』を引いて、義経の四天王は両鎌田・両佐藤である由を論じ、世に亀井・片岡・伊勢・駿河とも、継信・忠信・弁慶・快存ともいうは誤なり。とあるので知られる。が後者の方は広く流布しなかったようで、今日でもなお行われているのは前者のみである(上の文中の快存は海尊のことであることは明らかである。海尊は又海存とも記されている場合が多い)。但し歌舞伎の『勧進帳』だけは、四天王の一人が便宜除かれて、代りに海尊が加えられているのが普通のようである。これは三人の若者に一人白髪を交えて変化を求めた用意からで他に意味は無いであろう。
 

さてその所謂四天王に就いて観察を加えると、その中で最も史的人物で、且史上の義経の臣下中最も重きをなしているものは 伊勢三郎義盛である。(『吾妻鏡』には能盛とし、『盛衰記』『平治物語』『義経記』には義盛としてある)。史的人物としては、又少なくとも『平家』『盛衰記』等に於いては、彼は弁慶よりも遙にその名とその功勲とを知られている。

殊に讃岐国で僅かに十七騎の小勢を以て、阿波民部成能が嫡子、田内左衛門尉成直の三千余騎を、刃に衂らずして降ろし(『盛衰記』巻四三)、又壇の浦の戦で、波に漂う内大臣父子を引揚げて捕らえた(『吾妻鏡』巻四、元暦二年三月二十四日、『盛衰記』巻四三)殊勲は、特筆すべきものである。屋島合戦に疲労しきった味方の軍勢が前後不覚に眠に落ちた時でも、判官とこの義盛だけは敵の夜討に備えて一睡もせず、主従二人で終夜歩哨に立ったほどの老練であった(『平家』巻一一)。生国は伊勢、姓は江、上野国荒蒔郷に住んだとしてあるのは『盛衰記』(巻四六)、同じく伊勢二見の住人、伊勢のかんらひ義連と云う大神宮の神主であった者の子で、上野国板鼻に住したとしてあるのは『義経記』(巻二)、伊勢国の目代に連れて、上野国松井田に下った者としてあるのは『平治物語』(巻三)、日光育の児としてあるのは『長門本平家物語』(巻一八)である。その義経と主従の約を結んだことについては、伝説に詳略異同があるけれども、『長門本』を除く上記諸書に伝えられる所は、大礼、強盗を世渡としていた義盛の家に、牛若が奥州下りの途、測らず宿って相識るようになるというのが骨子で、『平治物語』の如きは、伊勢三郎の名も義盛の字も、義経から賜ったものとしている。『盛衰記』(巻四二)では伊勢の鈴鹿の関でも山賊をしていたとあり、又同書(巻四三)に「義盛は究竟の山賊・海賊、古盗人の謀賢しき男也」とも見えている。末路は又明白に史上に跡を示してい、即ち義経が都を没落した時までは扈従している(『吾妻鏡』巻五、文治元年十一月三日)ようであるが、後思う所があるとて、暇を乞うて故郷に帰ったが、討手に囲まれて誅せられたのであった(『玉葉』巻四七、『盛衰記』巻四六)。舞曲『清重』でも義盛は駿河次郎と共に頼朝方に討たれて死ぬことになっていて、その点史実に幾分近いが、『義経記』に於いては最後まで判官に随って死生を共にしたことになっている。

次に片岡八郎弘経の名は『吾妻鏡』(巻五、文治元年十一月三日都落の條)に能盛・忠信・弁慶等と並記せられてあるから、これも明白に史上の人物である。『平家』(巻一一)に

宝剣は失せにけり。神爾は海上に浮びたるを、片岡太郎経春が取上げ奉りたりけるとかや。
とある太郎経春とは別人であろうか。『盛衰記』(巻三六)には判官の「手郎等」として「片岡八郎為春」の名が見え、巻四一にも同じ名が出ているのを見ると、両者の混同があるらしく思われる。現に『平家』(巻九)の同條ではそれがやはり「片岡太郎経春」になっている。或は弘経と経春と同一人ではないかの疑も懸け得られぬではないが、鷲尾に経春の名を賜ふ時、「片岡と同名なれども、多き人なれば事欠けじ」(『盛』巻三六)という義経の詞もある上、『吾妻鏡』(巻二、治承五年三月二十七日)に
片岡次郎常春、依有謀叛之聞、遣雑色於彼領所下総国、被召之処、称乱入領内、乃傷御使面縛云々。仍罪科重畳之間、被召放所帯等之上、早可進件雑色之由、今日被仰下云々。
又同書(巻九、文治五年三月十日)にも
片岡次郎常春、依有奇謀之聞、雖召放所領等下総国三崎庄、舟木・横根、如元被返付之処、沙汰人等以日者之融令忽緒之由、訴申之間、可停止之旨、被仰下云々。
という記事が載っているから、なお別人かと考えられる。そしてこの記事の内容から推しても、この片岡は義経の「手郎等」とは受けとれない。然るに、又やはり同書(巻五、文治元年十月二十八日)には
片岡八郎常春、同心佐竹太郎常春舅一、有謀叛企之間、被召放彼領所下総国三崎庄畢。仍今日、賜千葉介常胤。依被感勤節等也。
と出ている。これは上の文治五年三月十日の記事と相応ずる事実を指していることは明白であり、一字違いではあるがその片岡が前記の次郎常春と同一人であることは疑を容れない。それが又恰も八郎になっているから、愈々粉紜を来すのであるが、これで見ても、若し後の誤写でない限り、正史の上でも、既に当時斯様の混同があったことが知られるのである。但し、義経伝説に於いては、混同せられたままの片岡一人で足りる。

亀井六郎の名はこれも『吾妻鏡』(巻五、文治元年五月七日)に「源廷尉使者号亀井六郎」と分註にあるだけであるが、『盛衰記』(巻三六)には「亀井六郎重清」と見える。鈴木三郎重家の弟として『義経記』(巻八)、舞曲『高館』等には伝えている。駿河次郎に至っては確実な正史の上には全くその名が見えない。『盛衰記』にすら僅かに「駿河次郎と云う仲間」(巻四四)とあるのみで、宗盛の末子副将を六條河原で斬る太刀取の役を務めてい、且それも河越小太郎茂房の仲間のようにも見られぬでもない。尤も茂房が判官の仲間駿河を相具して行ったものとも解せられる。『義経記』(巻四)でも土佐坊を六條河原で斬る太刀取が又駿河次郎で、巻八には「雑色」とある。何れにせよ、伝説上では、恰も亀井の名を傾倒した清重という字を与えられて、仲間から一跳に四天王の一人に列している。そして亀井は『義経記』、舞『高館』等に、又駿河は舞『清重』謡『清重』でそれぞれ特に活動の舞台を有っている。なお此等の人物及びその他の義経の臣下に関して、一々その出処由緒について説明を試みようとしたのは『義経勲功記』であるが、伝説的に意義ある資料ではないから省略する。


(ろ)鈴木重家・鷲尾経春・喜三太及び金売吉次

前節にも述べたように、四天王の一人亀井六郎の兄に鈴木三郎重家がある。これも『盛衰記』(巻三六)の一の谷発向の勢揃に、判官の「手郎等」として佐藤兄弟・片岡八郎・備前四郎等と並べて、武蔵坊弁慶の上に「鈴木三郎重家・亀井六郎重清」と記されてあるだけで、義経得意時代には殆ど現れないが、紀州藤代の鈴木党の人とせられ、奥へ下った主君の後を慕い、遙々旅立ちして高館に赴き、衣川合戦に弟と共に血戦闘死した(『義経記』巻八、『高館』)。その奥下りの途に、一度捕らえられて(『追懸鈴木』)、頼朝の許に引かれた時には、御前に義経の寃を弁じ功を論じた侃諤の熱弁家である(『語鈴木』)。

更に伝説的興味のある義経の部下としては、鷲尾三郎経春(『盛衰記』巻三六)(『平家』(巻九)には鷲尾庄司武久の子、三郎義久、幼名熊王。又『盛衰記』所載の「異説」には播磨国安田庄の下司、多賀菅六久利)と、下部喜三太とを挙げなければならない。一は鴨越坂落しの案内者として記念の姓名まで拝領し(『盛』巻三六、『平家』巻九)、「十二人の空山伏」の一となって奥まで御供した(『盛』巻三六)健気な勇士、他は「下なき下郎」(『義』巻四)ながら堀河夜討に高名して、「何ともあれ、おのれと義経とだにあらば」との御感を蒙り(同)、更に鬼一法眼と結びついては、一躍して重要な人物となった(『鞍馬獅子』の所作などでは、卿の君若しくは静の相手役を勤めさせられて忠信の位置をすら凌ぐに至っている)。

その他、熊井太郎忠基・江田源三・権頭兼房などあるが、特に著しいというほどではない。女流では静以外には浄瑠璃姫・皆鶴姫及び京の君(『御所櫻堀河夜討』(初段)では時忠の姫とし、『千本櫻』(初段)では河越重頼の女を時忠の養女にしたと作って、二女を合一させてある)が注意せられねばならぬ。史上では稍その名が顕れ、都落にも随伴し、且、『吾妻鏡』(巻五、文治元年十一月六日)によれば、大物の浦難船の後まで判官を離れなかった「伊豆右衛門尉・堀弥太郎・武蔵坊弁慶、井妾女字静」の僅々四人中の筆頭たる義経の婿で、源三位頼政には孫、伊豆守仲綱の男に当る伊豆右衛門尉有綱(『吾妻鏡』巻四、元暦二年五月十九日の條にその事が見え、又文治二年六月十六日、大和国宇多郡に敗死した由が巻六、文治二年六月二十八日の記事に出ている)の如きは、却って終に義経伝説中の人物とはならなかったが、その代わりに上四人の中の堀弥太郎景光の前身であるとさえ目せられる。

(『平治物語』(巻三)に、「堀弥太郎と申すは金商人とぞ聞えける」とある)金売吉次こそは義経伝説中の稍異色ある存在である(堀弥太郎景光の名は『吾妻鏡』には他にも出てい(巻四、元暦二年五月十五日・六月二十一日、巻五、文治元年十一月三日、巻六、同二年九月二十二日・二十九日等)、京都で生捕られて、判官の行先を白状している(九月二十九日)のをみると、義経の臣下中最も金鉄の士でないらしく、この点市井人めいた疑はなきにしもあらずである)。その後身は如何であろうとも、又堀弥太郎は義経伝説に、全然位置を与えられていないとはいえ、三條吉次信高(『義経記』)(『平家』(劔巻)には「五條橘次季春」、又『平治』には唯「吉次」とのみある)は、牛若丸時代の義経と、必ず結び付けて考えられなければならない人物である。兎に角一かどの豪商で旅行家、『義経記』(巻二)及び謡曲『烏帽子折』によれば、武芸の心得も全然無いのでもないらしく、又『義経記』(巻一)で見ると、奥五十四郡の状況を牛若に語るに、滔々懸河の弁を弄するあたり、世辞馴れのした講釈家も顔負けの形で、源氏の公達を「誘拐し参らせ、御供して秀衡の見参に入れ、引出物取りて徳付けばや」(『義』巻一)と打算するのは、流石商売気からの抜目なさの上に、奥州者といい、金商人だけでなく、人買人の面影まである。果然、『義経記』の吉次は、牛若を良馬に乗せ、「いとどかしづき奉りて」(巻二)下っていて無難であるが、『十二段草子』、『秀衡入』、舞『烏帽子折』になると、全く下部扱いで太刀を持たせ、雑駄に水飼わせて、長柄を取落したと云っては窘め、病に臥せば捨てて去る酷使振りで、梅若を見殺しにした奥の人商人某と殆ど択ぶ所は無い。尚彼は謡『烏帽子折』では吉六という弟を、舞『烏帽子折』では吉内・吉六と二人の弟を与えられている。平泉には長者ヶ原の名と、屋敷跡を留めた(『東遊記』巻五、平泉)。
〔補〕近頃栃木県足利に吉次の墓と称するものが現れた。
 
 


(は) 常陸坊海尊附残夢仙人

更に意外に伝説的に発展したのは、常陸坊海尊である。彼は弁慶よりも一層史的色彩の薄い人物である。『盛衰記』にすら僅に一箇所、屋島合戦に、

武蔵房・常陸房、旧山法師にて究竟の長刀の上手にて、七八人歩立になり、長刀十文字に採り、帚木を以て庭を払うが如く薙入れければ、平氏の軍兵十余人薙ぎ伏せたり。(巻四二)
と見えるだけである。その素性は『義経記』によれば、
「又園城寺の法師の尋ねて参りたる常陸坊」(巻三)とあって、弁慶及び佐藤兄弟・伊勢三郎と共に、義経が頼朝の軍に加わろうと、奥を進発する当初からの郎等である。併し舞曲・謡曲等では名の見えるのはあっても、少しも活動していず、『義経記』に於いても殆ど重きをなさぬばかりでなく、衣川合戦に先だって、俄に踪跡を晦ます一怯僧である。それ故常陸坊を初めとして、残り十一人の者共、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰らずして失せにけり。いふばかりなき事どもなり。(『義』巻八)
と『義経記』作者も歎声を発している(吉野を落ちる時でも、追手に驚いて海尊は真先に逃げ出している(『義』巻五)のである)。然るに海尊はこの以後に於いて大いに発展し、一方に於いては仙人となって方術を行い、蝦夷渡の先導者の役を勤め、一方に於いては之と関連して、長生の奇僧釈残夢の伝記に結びついて、その名を襲うに至った。煩しいが、他の義経の臣従とは少しく類を異にした人物ではあり、又特に海尊の伝説的成長の項を設ける程でもないから、便宜此処で一二の頁を費やすことにしよう。

一体海尊はその終が詳らかでない。既に『義経記』に於いてすら不明としている。この行方不明の一僧兵のその後の行動を想像する事は、伝説的好奇心を有する人にあって、興味の無いことではなく、又義経の臣下中に、主を捨て去る不忠の徒輩のある事は、延いて義経の価値にも関係を及ぼすことにならぬでもないので、この逃亡僧を異人に会わせて仙人となし、且その亡命が却って義経を蝦夷へ導く動機となったと説明する伝説を生ずるに至ったのである。この伝説を採入れた文学としては近松の『源義経将棋経』が始で、常陸坊は名を改めて「しゆくわい仙人」となっている(天草騒動を取扱った同じ近松の後年の作『傾城島原蛙合戦』にも、切士丹の法を行う森宗意軒をモデルにしたらしい人物に、仙術を用いる海存の名を利用してあるが、これは仮称義経物に属する)。

次で『源氏大草紙』(五段目)は、この曲に学んで、海存仙人が現れて、朝比奈義秀をば蝦夷に於いて義経大王と敬われている義経の許に導くことがある(この朝比奈が義経大王の許へ渡る趣向は直接には為永太郎兵衛の『鎌倉大系図』に倣ってもいるが)。『大草紙』』は鬼外の作である。そして同じく発端に海存仙人を借り用いた『泉親衡物語』が、鬼外の門人二代目鬼外の作であるのは偶然ではないのである。『大系図蝦夷噺』では、全篇の内容を物語る仙人となっているが、その内容の説話と海尊との直接関係は認められない。既に仙人となった彼が、幻術者となり了るのは敢えて奇とするに足りない。『通俗義経蝦夷軍談』(この作では夷人の妖術を破る大軍師で、『水滸伝』の入雲龍公孫勝と同型の人物である)『泉親衡物語』『駿河清重伊達紙子笈捨松』(この黄表紙に現れる海尊は、種々の幻術を以て泰衡を悩まして病伏させる。頼光を苦しめる土蜘蛛に似ている)の海尊がそれである。更に幻術使いの異人が、一転して天狗になるのも容易である。殊に彼は僧形で、名も相応しい為常陸坊は終に天狗化するに至った。青本の『義経一代記』(「ぜんざいぜんざい、われはこれくらま山そうぜうぼうなり。かりにひたちぼうとげんじ、これ迄なんぢに付そいたり。なをなを此すへまもらんぞや」)、合巻の『義経誉軍扇』に於いては、海尊は鞍馬の大天狗の化身であり、又一九の合巻『勇壮義経録』では、その僧正坊の高弟なのである。以上は『笈捨松』を除いては、何れも残夢の伝説に関係のない『将棋経』以来の一団である。

が、海尊が仙となる説は『将棋経』以前にあった筈で、残夢の件の如き、これを助けた主因であろう。即ち常陸坊海尊は、衣川合戦の時生き残って仙となり、残夢と号して長生したという伝説である。これは残夢の名によって伝えられる『本朝神社考』『会津旧事雑考』『狗張子』『義経知緒記』『義経勲功記』の一類と、残月の名で亀井六郎と結びつけられて伝えられる『老談一言記』(新井白石の妻の弟朝倉景衛の著)『孝経棲漫筆』(山本北山著)の説との二つに分かれてはいるが、実は同一伝説の異伝に過ぎないと思われる(殊に『神社考』『義経知緒記』の残夢・松雪は即ち『一言記』『孝経棲漫筆』の残月・宗雪であることは明らかで、『一言記』の文を載せた『提醒紀談』(巻一)の山崎美成も残夢と残月とは同人であろうと論じている。又浅井了意の『狗張子』(巻一)には摂津国石動里の鳥岡弥二郎という者が富士に登り、風難に遇ったのを、六十余の法師が助けて、残夢という者である由を告げ、且、弥二郎から当時の世相を聴いた奇談が出ている)。兎も角もこの残夢説を最も早く文献に載せたのは、林羅山の『本朝神社考』であろう。この書は羅山が家康の前で天海僧正と仏法の得失を論じた余憤に成ったものであるから、江戸時代初期に出たものである。且、為にする所があるので、本伝説に関しても、天海を暗に嘲っているのが感じられる。

近世有人、云、奥州有残夢者。自字曰呼白。又自称秋風道人。不僧不俗風顛狂漢。自曰、与須休友善、得其禅要。又時々与人語以元暦・文治之事。而曰、其時義経為何事、弁慶為其事。誰某作此事。与平氏戦于某。其話殆如親見之者。人怪而詰之、則曰我忘之矣。浮屠天海及松雪者遇残夢。残夢好枸杞飯食之。海亦喫之与人語曰、残夢長生不速事。而服枸杞故也。人怪之曰、彼蓋常陸房耶。海聞而喜之。人送枸杞。海受為采飯、餌焉。海之言曰、任意随時勿急勿速、緩々慢々是延寿命。人或信之。嗚呼浮屠妖惑之幣無所不至。昔漢文之好長生也、文成五利之儕説帝曰、黄帝不死。帝羨之封禅。然其効亦可覩矣。今日残夢不死。然其何在哉。彼一詐也。此一詐也。由是観之、人君之嗜好不可不慎。(『本朝神社考』下之六、都良香の條)
なおその他の所伝を下に掲げると、
 
往昔、奥州に残夢と云者有。出生行年知ず。元暦・文治の事を能語る。義経又は家人の人相迄語る。義経は今世に云様には非ず、無男也。弁慶も人の云如なる姿にてはなく、美僧と云へり。常に常陸坊海尊なる由自称す。主君の滅後の所なれば、懐布、其跡を慕いて衣川の辺に至所に、老翁来て我に赤色の菓を与、其味甚美也。其後無病長命と云えり。古事を知りたる者有て、昔の事を尋ねる、其答不分明、世人偽詐と云えり。

其頃奥州最上に渡辺氏の者有。旧記を能覚え知る。残夢が事を聞て尋逢て物語を聞に、世に云伝る程の事を残夢語に、言語爽に而其諺今眼前に見が如し。然共其詞不分明、又此方より尋るに、不知事多く而年久敷事なれば忘ると云り。渡辺笑て曰、某は義経の御内に有し常陸房海尊と云法師の還俗したる者也。義経の御事又御内の者の人相言訛歳の程迄尋玉へ。具に語り聞せ申さんと云に、残夢詞無りしとぞ。残夢作り者乍、詞遺人相何れ唯者とは不見。按に物覚能口功者なると見えたり。昔の事を具に知りたる者と見ては、年久敷事なれば忘しと云て、前に語りし事共を云わざりしと、渡辺語りしとぞ。(『知緒記』下巻)

昔常陸坊海尊とかや、源の九郎義経奥州衣川高館の役に、一族従類皆亡びけるに、海尊一人は軍勢の中をのがれて、富士山に登りて身を隠し、食に飢えてせん方のなかりしに、浅間大菩薩に帰依して守を祈りしに、岩の洞より飴の如くなる物涌き出でたるを、嘗めて試むるに、味ひ甘露の如し。是を採りて食するに飢えをいやし、おのづから身もすくやかに快くなり、朝には日の精を吸いて霞に籠もり、終に仙人となり、折節は麓に下り、里人に逢いてはその力を助け、人の助かる事、今に及びて、世に隠れてありという。(中略)法師語りけるよう、我はもと東国の者なり。久しく奥州衣川のあたりにありて、心の外なる災のありしを、纔にのがれて此処に隠れ、身を行い魂を練りて、年の過ぎる事を覚えず、独り楽しみを得て、折節は昔を思い出で、奥州にも行き通う事あり。(中略)さるにても御名ゆかしくこそ。名告りて聞かせ給えと言う。法師は眉をひそめて、名告るにつけてはあやしかるべし。まことは我が名は残夢という。(下略)(『狗張子』巻一、富士垢離目録には「常陸房海尊事」と出ている)吾こそ常陸坊海尊なれ。仙人と成て後、名を晴庵主と改めしが、その後又改めて、当時は残夢仙人と号するぞかし。(『義経勲功記』附録「夢伯問答」)

加州の坂井順元云、三十年許以前に加州へ残月という六十ばかりの老僧来りて、加州城下の犀川と、あさの川の東西に流れるを見て、昔は此水南北へ流れし。かく流れざりしと云事より起りて、城下の春日山というを見て、此山にて義経を富樫が酒宴せし事こそ有つれ。安宅の関より跡を追い、おのが館の山にて酒宴したりき。昔物がたりに判官殿十二人の作り山伏にて通られしなと云事跡かたもなき事なり。其時ここを通られしもの、百四五十人計にて有つる也といえり。此残月が住居を能々尋ねれば、越後の田中と云駅の辺に一室を作りて、小松原宗雪と云六十計の者と同宿してあり。殻を絶て喰わず、松脂を煉りて服餌す。二人ともにいかなる者とも知らず。誰ともなしに言出していい伝えし所は、残月は常陸坊海尊、小松原は亀井六郎なりという。昔の事問えど答えずとなん。(『孝経棲漫筆』巻三)
(『提醒紀談』に載せてある『老談一言記』には「小瀬復庵云」として、上と殆ど同文に近い記事が出ている。原拠としてはこの方がずっと古いが重複を避けて省略する)。


上の如く中には残夢海尊説を否定しているものさえあるのであるが、『勲功記』だけは之を利用し、殊に全篇をこの残夢の海尊が物語った所に基づくとし、その上彼を牛若に謀叛を勧める発頭人たらしめて、『義経記』(巻一)の正門坊を移借した観があるので、海尊は愈々重要な人物となるに至り、高館逃亡も、実は君命によることとなって、大に面目を改めている。

併しながらこの残夢説の起るにも亦自ら因由がある。それは『本朝高僧伝』(巻四四)の「常州福泉寺沙門残夢伝」に、

釈残夢或号窟(?)山。不詳其嗣承。永禄中遊化関東、住常州福泉寺。東叡山慈眼大師小時逢夢、聴禅要。後謂人曰、吾参残夢和尚而得長生之術矣。(中略)天正四年三月二十九日、至夜二更、無病俄化。小頃蘇生、呼筆書偈。(中略)喝一唱擲筆長往。寿秩一百三十有九。(下略)
とある。この書は元録十五年の撰であるが、上に引いた文の後に、「頃世儒生之言、残夢平生好飯枸杞。天海学之以至長生矣」とあるのは、『神社考』を指していること明らかである。惟うにこの伝に見えるような、出処不明の僧であることと、長生の術を得ていたと云うことからして、海尊に附会せられるに至ったものであろうと思われる。

なお附けて言わねばならないのは、長生の異人が昔見物した義経・弁慶の物語をしたというのは海尊仙人の他にも往々あるという面白い事実で、その最も著名なのは八百歳の長寿を保ったという若狭の八百比丘尼で、これが義経の奥州落を見たと語ったことが山崎美成の『提醒紀談』(巻四)「若狭の八百尼」に見える。この尼は馬琴の『八犬伝』にもその名が妙椿狸の化尼の上に利用せられて、又有名となってもいるが、実在の人物であったことは古く『臥雲日件録』の文安六年七月二十六日の條にその都入りの記事があって京洛に騒がれた由が記されてある。『塩尻』『笈埃随筆』等にもこの尼の事は見えるが、それらには義経の事を語ったとは出ていない。義経を語ったという伝説は海尊仙人と八百尼といづれが先であるか詳らかでないが、海尊の方が自然で尤もらしい。但し存生時代からすれば八百尼の方が実在の残夢より遙に早いが、義経には関係は全く無いから、若し八百尼が語ったという方が古いなら、単なる見聞者としての程度に過ぎない筈であろうが(実際は軍記物などからの知識に過ぎまいが)、それが残夢に移って更に体験者詳説者としての尤もらしさを備えさせられて来たのか、さなくば残夢の海尊が出現して物語を始めてから後に、いつか溯って類似の長生尼の伝説中にも転化混入して来たのであろうと観ねばなるまい。いづれにせよ、海尊ならずとも長生者が義経を語るということが頗る興味があり(これは平曲や奥浄瑠璃等の流布にも関連しようが)、如何に義経が国民に関心を持たれているかをも示している。
 


(に) 梶原景時

次に他の側から観て、義経の相手方として義経伝説中応分の役割を勧めている者に、鞍馬山の僧正坊(これは純支援者の方に入れるべきではあろうが、義経の臣従と同列ではない別格で、且或意味では鬼一と同格であるから仮に此処に並記してみた)・鬼一法眼・熊坂長範・土佐坊昌俊・富樫左衛門等がある。部分的の伝説に於いてはそれぞれ重い位置を占めていることは確で、薄命の天才児、不遇の源家の公達を憐れんで、夜々兵法を教える僧正ヶ谷の超人、愛女の恋の鍵に秘巻の庫を開かれ、無謀の企に却って高弟湛海をも失う一條今出川の兵術家、奥州下りの吉次が高荷を襲って、女とまがう一少年に我と頭を授けた強盗の張本、君命によって熊野詣に装って上洛し、起請の神罰を夜襲の功名に購はうとして敗死した法師武者、判官の謀臣武蔵坊の向に廻って、恩威並び示す安宅の関守、何れも義経伝説に逸すべからざる人物に相違ないが、これらは寧ろ各伝説の項で、詳説することとして、ここでは唯、義経の相手方を代表すべき最も重要な史的人物として、梶原景時に就いて一言するに留めようと思う。梶原平三景時は、初め平家に属していた武士であったが、石橋山の敗戦に、土肥の杉山に隠れた頼朝を助けた功によって、その後源氏方に仕えて重用せられた。

『吾妻鏡』(巻二、治承五年正月)に、

十一日戊午。梶原平三景時、依仰初参御前。去年窮冬之比、実平相具所参也。雖不携文筆巧言語之士也。専相叶賢慮云々。
とある。景時はそうした人物であったのである。そしてこれがその出頭の初で、これから後、やがて昇って顕要の任に就き、厚く頼朝に信頼せられた。『吾妻鏡』中の随処に於ける君前での席次や職責や行列の順位等を見ると、常に景時は鎌倉の重臣畠山重忠・和田義盛等と同列である(例えば文治元年十月二十四日、勝長寿院供養(巻五)、同四年九月十四日僧都定任参向(巻九)、建久元年九月十五日、頼朝上洛中の奉行任命(巻一〇)、同年十一月八日院参路次警固伝達、九日院参、十一日六條若宮及び石清水参拝(同巻)、建久六年三月十日、頼朝東大寺供養の為南都東南院著御(先陣重忠・義盛、後陣景時・千葉新介)、十二日、東大寺供養警固(巻一五)、正治元年八月十六日、鶴ヶ岡神事警固(巻一六)等)。

彼は東八箇国の侍の所司として義盛と並んで侍所の権を握り(『吾妻鏡』元暦二年四月二十一日(巻四)に両人を「侍別当・所司」と記し、建久二年正月十五日の條(巻一一)にも義盛は別当、景時は所司と見える)、西国征伐に於ける義経の監軍であり(『吾』巻四、元暦二年四月二十一日)、鶴ヶ岡若宮造営には奉行を命ぜられ(『吾』巻二、養和元年七月二十一日)、又御台所政子の御産の間の雑事を奉行せしめられ(同巻、壽永元年七月十二日)たのも彼であった。こうして彼の権勢は昇天の有様で、虎威の仮光を仮りて諸人を睥睨し、故老を凌ぎ、等輩と衝突して憚らず、己れ独り忠義顔して功に誇るのであった。

もとより忽ちの間にかかる枢要の地歩を占め得たのは、石橋山の好意に報いる頼朝の芳心に基づくのではあろうが、景時その人の性行がこれを促進させたのは疑なく、巧言と老獪の世才とは頼朝にとっては頗る重宝な臣下であったに相違ない。義仲伏誅の状況を他の範頼・義経の報告以上に委細に認めて、御感に預かった如きは、萬事に行届いて抜目の無い彼の一班を最もよく語るものであろう。
 

二十七日丁巳。未刻遠江守義定・蒲冠者範頼・源九郎義経・一條次郎忠頼等飛脚、参著鎌倉。去二十日遂合戦、誅義仲並伴党之由申之。三人使者皆依召参北面石壷。聞食巨細之処、景時飛脚又参著。是所持参討亡因人等交名注文也。方々使者雖参上、不能記録。景時之思慮、猶神妙之由、御感及再三云々。(『吾妻鏡』巻三、壽永三年正月)
領国美濃から背と腹の雪白の霊鴨を獲ったといって献上しては「是可謂吉瑞歟」と頼朝を嬉しがらせ(『吾』巻七、文治三年十二月七日)、関東御定運を祈る年来の宿願と称して、鶴ヶ岡で大般若の供養を行っては仰々しい行粧で主君をまで結縁の為に参拝させ(同巻八、同四年三月六日・二十一日)など、何処までも如才が無い。又彼は無骨揃いの坂東武者中、詠歌の嗜のある点で主君の御相手を勤め得る唯一の士人であったようである。泰衡征伐の時、平泉無量光院の供僧助公の訊問を命ぜられ、その吟詠を愛でて却って褒賞の執成しに力を致し(同巻九、同五年十二月二十八日)、上洛の途遠江国橋本宿では
橋本の君には何か渡すべき 頼朝
ただ杣川のくれで過ぎばや 景時
と連歌を試み(同巻一〇、建久元年十月十八日)(『増鏡』新島守巻には「橋本の君に何をか渡すべき」「ただそま山のくれであらばや」として載せてある)、泰衡征伐の奥下りの際にも、
我ひとり今日の軍に名取川、という頼朝の句に、大小名苦吟して附け得ぬ中に、
君もろともにかちわたりせん
と連ね(『盛衰記』巻三七)、又同じく京上りに相模国円子川で乗馬が頼朝に水を跳ね懸けたので、梶原取敢えず
円子川蹴ればぞ波はあがりける
と詠みかけた即座の機転に、御気色忽ち和らぎ、
かかり悪しくも人や見るらん
と附けて興ぜられたと伝える(同)など、この風雅の芸能が一段頼朝を歓ばせ、そして愈々追従に好適な介縁ともなったのであろう(長子景季も(『吾』巻九、文治五年七月二十九日、『長門本平家』巻一六、『曽我物語』巻五)、次子景高も(『吾』巻九、文治五年八月二十一日、『平家』巻九、『盛衰記』巻三七)和歌を好んでいる。一族斯道に遊んでいたらしい)。

更に如何に彼が狡猾で、術策を用いて他を欺瞞するに長けていたかは、下の一條で明瞭である。

五日辛酉。陰。和田左衛門尉還補侍所別当。義盛治承四年関東最初補此職之処、至建久三年、景時一日可仮其号之由、懇望之間、義盛以服暇之次白地被補之。而景時廻■(女+女+干)謀、于今居此職也。景時元者為所司云々。(『吾』巻一六、正治二年二月)
正直な義盛は旨々と一杯填められたのである。満悦の舌を吐いて図々しく居据った老狐が伏誅してから漸く元の職を取戻したのであった。一時の名義借用が約八年の実権奪取に転換して温厚な左衛門を呆然とさせるなぞは全く以て鮮やかな奇術である。後に説く鶴ヶ岡会盟の急先鋒として、義盛が自ら連署の訴状を携行提出し(『吾』同巻、正治元年十月二十八日)、事情の容易でないのに危惧してこれを握り潰していた大江広元に迫って「瞋眼」、「関東之爪牙耳目」として多年を歴ながら「景時一身之権威」を怖れるとは何事ぞと面責して(同十一月十日)遂に君前に披露させた(十二日)のには、公憤と共にこの私讐も大に含まっていたのであったろう。

殊に言語に巧な景時はその武器を利用し――義盛を瞞著したのもそれであったが――、君寵に乗じて同僚先輩を中傷讒誣して、自分一人だけよい子になろうとする。恐らく日本史始まって以来、彼ほどの讒言好きは復と無いであろう。その意味では全く稀代の人間であった。それは伝説上だけでなく、一々史実に歴歴その跡を徴し得るのである。即ち夜須七郎行宗を讒訴して失敗し(『吾』巻七、文治三年三月十日)――この時は行宗の為に春日部兵衛尉が証人に立ったので却って行宗は加賞せられ、景時は「依讒訴之科」鎌倉中の道路工事を命ぜられた。この処罰も甘きに過ぎるのを見ても頼朝の溺愛ぶりが知れる――、畠山重忠謀叛の風聞があると密に言上して頼朝を唆し(同、同年十一月十五日)――この時は結城朝光の諌言によって畠山の親友下河辺行平が使者に立ち、重忠を伴って参上したのを、景時が異心無き旨の起請文を奉れと要請して却って赤誠の重忠に「疑詞用起請給之條者、対■(女+女+干)者時之儀也」と言下に拒絶せられ、そして御前に於いては何等その事には触れず主従唯世上の雑事に興じて無事退化せしめられたのであった――二代頼家将軍の世になっても、その又結城七郎朝光を陥れて之を失はうとし(同巻一六、正治元年十月二十七日)、安達弥九郎景盛の成敗をも慫慂した(同)。安田遠江守義定の誅せられたのも亦彼の讒口に因るものであった(『鎌倉大草紙』)。全く讒訴は景時の先天的な性癖のように見える。

扨当面の問題は就中有名で且以上の諸例を代表しているような義経讒言の一條である。その正史の憑拠はやはり『吾妻鏡』(巻四、元歴二年四月)に

二十一日甲戌。梶原平三景時飛脚、自鎮西参著。差進親類、献上書状。始申合戦次第、終訴廷尉不義事其詞云。
とあって載せた景時の書状である。即ち初の戦況の報告文中には或は郎従海太成光という者に吉祥の夢想があった事や、屋島合戦の時、平家方に雲霞の源軍が幻影として見えた事や、壇の浦で大霊亀が浮出たり、二羽の白鳩が翻舞したり、周防軍で白旗が一流空中に現じたりした事等を数々書き並べて、暗に平家滅亡を義経の戦功でなく、源家の武運、「神明」の冥感に帰しようとし、そしてその終の詞とは、
判官殿、為君御代官、副遺御家人等、被遂合戦畢。而頻雖被存一身之功由、偏依多勢之合力歟。所謂多勢、毎人不思判官殿志奉仰君之故、励同心之勲功畢。仍討滅平家之後、判官殿形勢、殆超過日来之儀。士卒之所存、皆如踏薄氷。敢無真実和順之志。就中景時為御所近士、■(救+心)伺知厳命趣之間、毎見彼非拠、可違関東御気色歟之由、諌申之処、諷詞遂為身之儲、動招刑者也。合戦無為之今、祇候無所拠。早蒙御免欲帰参云々。
という文面で、事実の有無は別として、如何にも旨く言い廻してあることは一読して覚えず微笑させられる。態々親類を使としたのも、公私共大事の用命であるから、心あっての事に違いない。唯誇張とはいえ「如踏薄氷」とは恐らく士卒全般のことではなくて彼の古狸一箇の肚裡を無意識に曝露してしまったものであろう。義経から速く離れたいという希望は事実であったと見え、一の谷の戦には一時引別れて大手口の範頼の部下に参加している程である(『吾』巻三、壽永三年二月五日)。『吾妻鏡』の本文は上の消息文の次に更に
凡和田小太郎義盛、与梶原平三景時者、侍別当・所司也。仍被発遺舎弟両将於西海之時、軍士等事、為令奉行、被付義盛於参州、被付景時於廷尉之処、参州者本自依不乖武衛之仰、大少事示合于常胤・義盛等。廷尉者挿自専之慮、曽不守御旨。偏任雅意、致自由張行之間、人之成恨、不限景時云々。
と記録してある。義経の性行の一面が窺われると同時に、少なくとも景時の報告がかなり鎌倉方には効果的に容認せられたことがわかるのである。果然、それから後、義経から亀井六郎を使者として異心の無い起請文を献じたのを、頼朝は、範頼は終始戦況を告げて指揮を請うたのに、「廷尉者動有自専計。今伝聞気色不快之由、殆及此儀」のは許容の限りでないと、却って「忿怒之基」となったのであった(『吾』巻四、元暦二年五月七日)。

景時の讒構が頼朝・義経兄弟不和の唯一の基因では無いまでも、その主因であり又それに油を注いだことは確であったろう。例の腰越の申状(『吾』巻四、元暦二年五月二十四日)中にも、

思外依虎口讒言、被黙止莫大之勲功、義経無犯而蒙咎、有功雖無誤、蒙御勘気之間、空沈紅涙。(中略)不被糾讒者実否、不被入鎌倉中之間、不能述素意、徒送数日。
と具陳せられているのは、義経自身思い当たっていることと、勘気の基因が讒者の策動に存することを確認していることとを示している。そして少なくとも伝説上ではこの讒構の由来した直接動機を、逆櫓の争論にあるとするのも『平家』(巻一一)『盛衰記』(巻四一)以来である(景時が判官を讒することは『平家』(巻一一)『盛衰記』(巻四六)『義経記』(巻四)にある)。自由の天地に遺憾無く敏腕を振はうとする純真な青年天才と、小智を弄し世故に通じた狡獪な小人物とが相容れないのは自明の理で、我こそ頼朝の代官、平家追討使、将軍境を越えては君命だも聴かざる例あり。況や景時輩何をか知ろうと、得意の戦略に腐心して、偏に父兄の為に平家討滅を念慮とする判官と、我は鎌倉殿の寵倖、関東勢の監軍、軍議は先ず我に謀らるべきものと、自ら参謀長を以て任じているのに、特命を以て添えられた老巧の権臣をも無視しての若大将の専断と功勳とに、蔽い難い不快と嫉妬とを植えつけられた梶原とは、到底衝突を免れ得ない筈であった。その上例の性癖は盛に彼を駆ってその満足を求めさせたことは想像に難しくない。前に述べた諸例は特に史上に明記してある人々の場合に過ぎないが、尚『吾妻鏡』(巻一六、正治元年十月二十七日)にも、三浦義村の言として、
凡文治以降、依景時讒、殞命失滅之輩、不可勝計。或于今見存、或累葉含愁憤多之。
と言ってあるのは、強ちに誇大の言とのみも見られ得ないのは、朝光の讒誣を蒙った件に憤懣を勃発させて、常胤(千葉)・義村・重忠・義盛・盛長(安達入道)・義実(岡崎入道)・盛綱(佐々木入道)を始め鎌倉の名臣六十六人が侫奸景時申請けの為、鶴ヶ岡若宮の廻廊に会盟した事実(同、同月二十八日)によっても察知し得られる。こうした情勢であるから、自然、伝説に於いては、頼朝以来の功臣誅滅の罪は、皆梶原一人に負わされるに至ったのは、景時にとっては自業自得で、伝説の進展の一般原則からは又当然の帰趨である。次の一文を見るがよい。
今度佐殿御代に出でさせ給ひて後、御敵になって誅せらるる侍は、相模の国には大庭三郎景親・海老名源八季貞、駿河の国には岡部の五郎・萩野五郎、奥州には館小次郎泰衡・錦戸太郎・粟屋河五郎、此等を始として、国々の侍共五十六人なり。平家には内大臣宗盛の御子右衛門督清宗・本三位中将重衡・越中次郎兵衛盛次・悪七兵衛景清、衆徒の人々三十八人、或は海底に沈み、或は自害し給ふ類、此等を加えて数を知らず。源氏には御舎弟三河守範頼・九郎判官義経・御伯父三郎先生義憲・十郎蔵人行家、御一門には木曽冠者義仲・清水冠者義衡・一條次郎忠頼・安田三郎義定、常陸国佐竹の人々を始として、源平両家の間一百四十余人なり。此内源氏に於いては、皆梶原が申状とぞ聞えし。其中に猶情なく聞えしは、上総介広常を討たれしこそ、梶原が申状とはいい乍ら、無下にうたてくぞ覚ゆる。先年山木を亡くして後、安房の国へ越え給ひ、大勢になり給ひ、世に出で給ひし始め、忠節奉公の士にあらずや。其故に鎌倉殿も折々は、頼朝が殺生の罪業は三人なり。其外は皆自業自得果なり。其三人と宣うは一條次郎忠頼・三河守範頼・上総介広常なり。されば此等が為に、毎日読誦の法華経を手向くるなりと仰せられける。(『大石寺本曽我物語』巻三)
殊に義経が伝説的に成長し、国民の同情を集めるに従って、それに対比して景時は不人望の度を愈々増加して行っている。而もそれは既に『盛衰記』以来のことで、頼朝が義経の討手に景時を任命したのを、弁を弄して辞退したことを記して、「秩父・河越・三浦・鎌倉、高家も党も不悪者こそ無かりけれ」(巻四六)と極言している。文学・伝説に於いてのみならず、正史上に於いて当時既に彼は衆人の怨府であったことは、前述の如く結城朝光事件が動火線となって、義村・朝光の談合(『吾』巻一六、正治元年十月二十七日)から、義盛・盛長の賛同を得て「可被賞彼讒者一人歟、可被召仕諸御家人歟。先伺御気色、無裁許者、直可静死生」とまで両宿老に決意させ(同)、翌日愈々鶴ヶ岡の六十六名士の連判となり、終に陳疎の辞無く縁族を率いて所領相州一宮へ引籠り(同、十一月十三日)、続いて彼の鎌倉追放を見るに至った(『吾』同巻、同年十二月十八日、『玉葉』巻六七、正治二年正月二日、『北條九代記』上、『保暦間記』下)のにも知られ、翌年謀叛を企てて駿河国狐ヶ崎で一門悉く誅滅を蒙った(『吾』同巻、正治二年正月二十日、『玉葉』巻六七、同年正月二十九日、『明月記』巻七、同年二月二日、『愚管抄』巻六、『保暦間記』下)ことは、時人の快哉を叫んだ所であったろう。彼は実に讒によって立身し、又讒によって身を亡ぼしたと言えるのである。

後人が彼を憎むことは遙に時人に超え、殆ど極端にすら達している。義経に同情するのは、即ち景時を憎む所以であるからである。伝説上の義経の不遇は、全く彼一人の責任である。頼朝は讒に彼の傀儡の役をしているだけである。彼が無かったら、吉野の別れも、安宅の苦しみも、衣川の悲劇も起こらなかったであろうことを、判官贔屓の国民は信じようとする。そして伝説に於いて頼朝が世人に憎まれるようになったのは、史上に於けるが如く、必ずしも梶原の讒を待たずして義経を疎んじた点ではなくして、寧ろ奸侫の讒臣に惑わされて、骨肉の親を失った点に存するのである。鎌倉殿の面前で逆櫓論当時の景時の怯懦と無礼とを痛罵して、

正しき一家の御主を、畜類に譬えたる梶原めが、なんぼう存外なる者にて候ぞ。(中略)斯様に悪口申置き、身の置き所なきままに、咎なき義経に讒訴申付くる梶原めに、御同心ある頼朝の、遖れ御運も末にやならせ給ひ候らん。
と慨言した『語鈴木』の三郎重家の詞の上に、伝説に於ける景時の性格・言動、景時・義経の関係、景時を中介としての頼朝対義経の関係が遺憾なく現れている。何れにせよ義経伝説にあっては、梶原は徹頭徹尾憎まれ役で、その極、彼は終に義経を愛慕する国民から「蚰蜒(げじげじ)」の異名を附与せられるに至ったのである。近松の『源義経将棋経』(初段)に、同じく重家の人形が、梶原父子を蔑んで、
 
京わらんべが異名を付け、汝親子を蚰蜒(げじげじ)といい、蚰蜒(げじげじ)を梶原と呼ぶは、かの虫の如く分もなきおのれ等が、人のかしらにのり上り、ざんそう構えて、人のかざりを云いはがすによって、扨こそ蚰蜒(げじげじ)蟲梶原と、虫同然に言わるるを、聞いても恥とは思わぬかや。
と言っているのが、その異名の由来の説明となり得るであろう。

要するに、義経に益々同情を集めんが為には、梶原を極端な悪人として了って、事毎に義経の不利となる事を行わせなければ己まないのである。実際の梶原も幾分そうであったろうが、狡獪・弁侫・権柄・残忍・臆病の人格化したものが、義経伝説に於ける梶原景時で、時代を遂ってその色彩は益々濃厚になって行っている。その為に息景季の箙の梅の優しい物語も、■(尸+婁)々その栄光を蔽われようとし、偶々景時には珍しくも伝えられる、二度の懸の美談も、謡曲『梶原座論』に於いては、父子をして、剛座の上下を争わせる苦々しい物語に化している。事に強悪の標本として最も極端に描かれている一例は、出雲の『右大将鎌倉実記』であろう。

戯曲に於いて善であることがない――例外としては『石切梶原』ぐらいのものであろう――と同様に、浮世草子の梶原は常に野暮――例えば『風流西海硯』の如く――で、判官の粋大尽に対立する。但し『西海硯』の景時は極悪人ではない。又『東海硯』の彼が義経を陥れるのも、頼朝の内命を蒙ってのこととし、幾分消極的傾向の悪として写されているのは稍珍らしい(この二書以外の浮世草子の義経物は、皆梶原を大悪人としている)。併し浮世草子は粋と不粋との対照を主とするもので、善悪の如きは重要な対照ではない。否、浮世草子の世界に於いての善は即ち粋であり、悪は即ち不粋である。結局、蚰蜒(げじげじ)の梶原は、此処でも当然敵役でなければならない。

判官宗の国民が、この奸悪な敵人梶原に、何等かの方法を以て報復を加え、刑罰を与えて、義経の為に怨を晴らそうと希望するのは自然の人情である。殊に善人栄え悪人亡びる定式の時代物の大団員は、自ら此処に到達せざるを得ない。景時一家の末路は史実に於いても前に語った如くであった。それにも拘らず、国民は正史の上に於いてのこの痛快な機会の到来するのをすら待ちきれないのである(〔補〕稍正史に近い形で、堋(あづち:弓を射る時、的の背後に土を山形に築いた所)を射ていた宇都宮朝綱の前を乗打した景時が、朝綱に射落とされるとしたものに『相模川』があり、これを継承したのが『右大将鎌倉実記』(五段目)である)。

間接に六十六士の手を借りて、彼に鉄槌を下すのではもどかしいのである。我が義経を不遇に終わらせ、非命に死なせた彼奴輩は、是非直接にその報罰を義経主従から受けねばならないのである。そこで高館合戦の後、含状によって梶原の侫悪を上申して、終に判官の供養の為に梶原父子を頼朝に追放させ(『金平本義経記』七之巻、六段目。〔補〕舞曲『含状』)、或は同じく義経の含状を啣えた泉三郎忠衡の首をして、頼朝の御前で景時に食いつかせ(青本『義経一代記』)、又は稍異色を加えては、朝比奈義秀に首引抜かせて父の仇を討たせると共に、蝦夷の義経の跡を慕わせ(『源氏大草紙』五段目)、或は敵人宗清の手裡剣を借りて悪魔の片割平次景高を斃し(『嫩軍記』三段目)、喜三太に生捕られた長子景季を、義経の面前で大津二郎に腹を裂かせて女房が胎内さぐりの怨をも返させ(『ふたり静胎内さぐり)』五段目)、更に一歩を進めては、畠山重保・工藤祐経の助力により、義経の若君の手に持ち添えさせた刀で景時に遺恨を復させ(『右大将鎌倉実記』五段目)、若しくは後藤兵衛・佐奈田文藏等に梶原を計らせて、陥井に没入させ、これを判官の御前に引出し、義経自身をして「今はと太刀振上げ、年比日ごろの恨の刃、梶原が首打落とし」(『古戦場鐘懸松』五段目)て、辛うじて鬱憤を散ぜしめ、こうして国民は判官と共に、一斉に万歳を高唱するのである。

兎も角、我が義経伝説の主人公九郎判官をば、一朝にして輝く武勲を地に委せしめて、腰越の恨愁から高館の惨境へ導く為に、さらでも数奇な伝説的経歴を、更に悲痛に更に悽愴に亘らしめる為に、その半生の悲劇の幕を冷酷に切り落とした道具方は、同時にこの悲劇を書き卸した立作者をも兼ねた上に、その劇中に登場する実悪の大立物でもあったのであった。
 
 

本篇 第一部 第一章 了



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2001.12.1
2001.12.7 Hsato