島津久基著
義経伝説と文学

第二部 義経文学(判官物)

第三章 義経伝説の凝成としての義経文学――判官物の典型作『安宅』と『勧進帳』
 

第三節 詞章上からの考察

今度は残った書即ち詞章である。つまり謡曲文である。素材を択び、脚色を立て、それを文学的表現を用いて纏め上げて、始めて一番の能が出来る。この最後の即ち文学としての――能の脚本としての――仕上げという観点からの『安宅』は如何であるか。先ず第一に、その詞章は謡即ち韻文的な部分と、詞即ち独白及び対話の二部分とから成り、且主としてその謡われる韻文的な部分――詳しく言えば抒情詩的叙事文(詞に連続する場合も無論屡々ある)とも呼び得べき部分――は先進文学から獲て来た美辞の点綴であることは、他の一般の謡曲と同様である。その著しい部分に就いて言うと、全曲の詞章中に古歌から来ている句が三つほどある。(引用の謡曲詞章は主として観世流謡本に拠る)即ち

これやこの行くも帰るも別れては別れては、知るも知らぬも逢坂の、
は『後撰集』(巻一五、雑一、蝉丸)の
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
上に続く
山隠す霞ぞ春は恨めしき恨めしき。
は『古今集』(巻九、羇旅、おと)の
山隠す春の霞ぞ恨めしきいずれ都のさかひなるらむ
浅茅色づく有乳山
は『新古今集』(巻六、冬、人麿)の
矢田の野に浅茅色づく荒乳山嶺の淡雪寒くぞあるらし


が、それぞれの典拠である。この三つは共に道行体の文中に含まれている。道行体の文は『伊勢物語』の業平東下り以後軍記物を経て愈々型式が出来上ってしまって居り、謡曲文の一要素にすらなっている。北國方面の道中も、既に『源平盛衰記』(巻四六)に平大納言時忠流罪の道行がある。
 

それより湖水漫々と見渡して、浦々宿々打過ぎつつ、敦賀の中山遙々と、木の間を分け、岩根を伝いて下りけり。いつしか打時雨つつ、嵐烈しくしては虜を徹し、木の葉狼藉(さわが)しうしては道を埋み、荒乳山・木邊峠を越え行けば、越の初雪踏分けて、■(火+遂)山・柚尾坂・越前國分・金津宿・蓮池・細呂宜山を越え過ぎて、加賀國須川社を拝しつつ、篠原・安宅打過ぎて、日数経れば、能登國鈴の御崎に著き給う。


『安宅』が直接これに倣ったのではあるまいが、謡曲作者が初めて綴った北國の道行ではないことが、これで証せられよう。又古詩を出典とする句には菅原雅規の

礙石遅来心(ヘラレテニクレバ)窃待、牽流■(山+而+しんにょう)過手(カレテニクケレバ)先遮(『和漢朗詠集』巻上、三月三日)
から来た
面白や山水に、盃を浮べては、流にひかるる曲水の、手先づさえぎる袖触れて、
があり(『愛寿忠信』にも類句が用いられているが『安宅』の方が早い)、故事としては(上の句も曲水の宴に関しているがそれは原詩句に於て既にそうである)「鴻門楯破れ」の鴻門の会(『史記』項羽本紀)、「処も山路の菊の酒」の南陽■縣の菊水(『抱朴子』僊薬篇)乃至彭祖が長寿の菊酒(『列仙全伝』巻一)と、いずれも支那の故事が含まれている。又『光明童子因縁経』の
 
日月星辰可墜地、山石従地可飛空、海水淵深可令枯、仏語決定無虚妄矣。
から出た
日月は未だ地に落ち給はず。
或は『天台釈』の
欲知過去因、見期現在果。欲知未来果、見期現在因矣。
から出た
げにや現在の果を見て、過去・未来を知るという事、今に知られて身の上に、
或は『大論』の
如虎尾踏、如毒蛇首踏矣。
から出た
虎の尾を踏み、毒蛇の口を遁れたる心地して、
の如き、経文に関係ある仏語もある(なお「履虎尾」は『易経』(履卦)『書経』(君牙)等にも出ている語句である)。クセの
 
然るに義経、弓馬の家に生まれ来て、命を頼朝に奉り、屍を西海の波に沈め、山野海岸に、起き伏し明す武士の、鎧の袖枕、片敷く隙も波の上、或時は舟に浮み、風波に身を任せ、或時は山脊の、馬蹄も見えぬ雪の内に、海少しある夕波の、立ちくる音や須磨・明石の、とかく三年の程もなく、敵を亡ぼし靡く世の、その忠勤も徒らに、なり果つるこの身の、そも何といへる因果ぞや。……直なる人は苦しみて、讒臣は弥増に(の〔宝生・金剛・喜多〕)世に在りて……唯世には、神も仏もましまさぬかや……。


は腰越状に拠って書かれたと思われ、特に
 

朝敵を傾け、会稽の恥辱を雪ぐ。勲功に行はるべきの所に、思の外虎口の讒言によって……讒者の実否をただされず、……宿運極めて空しきに似たるか、将又前世の業因を感ずるか。

平家を攻め傾けんが為に、或時は峨々たる巖石に駿馬に鞭打って、敵の為に命を滅ぼさん事を顧みず、或時は漫漫たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めん事を痛まずして、屍を鯨鯢の腮にかく。加之、甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、しかしながら亡魂の鬱憤をやすめ奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外は他事無し。
然りと雖、今愁深く歎き切なり。仏神の御助にあらざるよりは、いかでか愁訴を達せん。(此処には『義経記』所載の文を引いて置く)

等の各節から採られている。これは『能作書』に世阿弥が
能には本説の在所あるべし。各所旧跡の曲所ならば、その処の名歌・名句の言葉を取る事、能の破三段の中の詰とおぼしからん在所に書くべし。これ能の堪用の曲所なるべし。


と説いている定式の法則に恰当する。兎に角腰越状を此処へ使ったのは、いい着眼であった。採入れ方も、ぐっと和らげた柔みのある平易な叙述の中に、情味を籠めたしんみりした表現である。又『能作書』には

その外、善き言葉、名句などをば、為手(して)の云ふ事に書くべし。
と訓へてあるが、これも「げにやくれないは園生に植えても」や、「人が人に似たるとは」をはじめ、緊要な詞や警句などはやはりシテに用いさせてある。

末尾の「鳴るは瀧の水」の延年唱歌は、既に流行してよく知られていた句を、眼前の光景に取りなした即興であることは、「これなる山水の、落ちて巌に響くこそ」とある上の一節が説明しているが、『平家』(巻一)の額打論で観音房・勢至房が舞うた際の歌詞も
 

うれしや水、鳴るは瀧の水、日は照るとも、絶えずとうたり。(『盛衰記』巻二にも載せ、唯「日は照るとも云々」を欠いている。)


とあり、同じく『平家』(巻六)『盛衰記』(巻二六)の淨海入道葬送の夜、六波羅の南に当って舞い踊った怪しの合唱もやはり「嬉しや水、鳴るは瀧の水」であった。直接『安宅』に影響したと思われる『義経記』(巻八)の弁慶の歌舞は、北國落の途上ではなくて高館最期合戦の際のことであるが、同條には
 

囃せや殿原達、東の方の奴原に物見せん。若かりし時は叡山にて、よしある方には詩歌管絃の方にも許され、武勇の道には悪僧の名を取りき。一手舞って、東の方の賎しき奴原に見せんとて、鈴木兄弟に囃させて、

うれしや瀧の水、鳴るは瀧の水、日は照るとも、絶えずとうたり。東の奴原が鎧冑を首もろともに、衣川に切り流しつるかな。

とぞ舞うたりける。


と見えている。これも時にとっての即興に、この唱歌を使って添句までしたので、『安宅』は確にこれから示唆を得たに違いない。
 

もとより弁慶は三塔の遊僧、舞延年の時のわか。


というのも相応じている。ついでに『義経記』の上の條と殆ど大同小異である舞曲『高館』のは
 

嬉しやとうとうと、鳴るは瀧の水、日は照るとも、何時も絶えせじ面白や。花を流すは吉野の川、筏を下すは大井川、紅葉を流す立田川、都あたりに、名川さまざま多けれど、遠國ながら名所かな。霧山高嶺の、残んの雪消え、谷のつららも融けぬれば、衣川の水嵩勝って、奥方の軍兵を、弁慶が薙刀にて、湊を指いて、斬り流す斬り流す。


とかなり長い詞句になっている。又同じ謡曲の『柏崎』にも

又酒盛などの折節は、いで人々に乱舞舞って見せんとて、鎧直垂取り出し、衣紋美しう著ないて、縁塗(へりぬり)取って打ちかづき、手拍子人に囃させて、扇おつ取り、鳴るは瀧の水、
とあるから、相当にこの唱歌は流行ったものであった事がわかる。

その他一句々々に就いて検すれば、第一節に既に『義経記』や舞曲と対比して引用した部分によっても明らかに知られる通り、そして又その他でも、
 

壁に耳、岩に口という事あり。呉藍(くれない)は園生に植えても隠れなし。(『義経記』巻二)
実にやくれないは、園生に植えても隠れなし。(『安宅』)

あの御坊故に所々にて人々に怪しめらるるこそ詮なけれと……腰なる扇抜き出し、痛はしげもなく続け打ちに散々にぞ打ちたりける。(『義』巻七)
僅の笈負って後に下ればこそ人も怪しむれ。……いで物見せてくれんとて、金剛杖をおっ取って散々に打擲す。(『安』)

いつまで君を庇い参らせんとて、現在の主を打ち奉るぞ。冥見の恐れもおそろしや。八幡大菩薩も宥し給え。あさましき世の中かな。(『義』巻七)
たとひ如何なる方便なりとも、正しき主君を打つ杖の、天罰に当らぬ事やあるべき。(『安』)

恐ろしや恐ろしや、世は末世に及ぶといえど、日月は地に落ちず、(謡『花筐』)
夫れ世は末世に及ぶといえども、日月は未だ地に落ち給はず。(『安』)


の如き類似の表現を見出す。「旅の衣は」の次第も『安達原』のそれと全く同じである。唱歌の文句や諺めいた慣用句は無論必ずしも一方から他へ直接採られたと観る要は無いけれども、亦全然没交渉とも言えないのもあろうと思われる(因に、『柏崎』は観阿弥作、『花筐』は世阿弥作と言われる。これを信ずれば共に『安宅』より早い作である。特に後者の場合は恐らく直接『安宅』の詞句に影響したのではあるまいか。『安達原』古名『黒塚』も、禅竹作或は近江能とせられているから、これも或は『安宅』より早いであろう。そしてこれはワキの次第で本格的であるから、その意味でもこれが『安宅』の粉本となったと観るが自然であろうか。『安宅』で次第の次のサシに直ぐ又「都の外の旅衣」と重複するのも、既成の次第の句をそのまま使ったからではあるまいかとも思われる。尤もそれだからとて『黒塚』からのみ直接に借りたとは限るまいが、兎に角既成の句だという感はある)。且、特に舞曲との類似は、その個々の作成の先後の問題が解決すれば、確に一方が他に影響を与えたことは明言出来るであろうことは前に説いた如くである。

更に題材の中軸を成している勧進帳の文詞であるが、舞曲『富樫』のそれは、冗長稚拙は弁護の余地は無い代りに、重衡に南都が焼かれた事実をも述べて、東大寺再建勧進の理由だけは詳細明白である(その南都焼亡の件の文は『平家』(巻五、奈良炎上)『盛衰記』(巻二四、南都合戦同焼失)から出ている)。これに対比して謡曲の勧進帳は再建の因由の説明が省略せられていて、聖務天皇御草創の動機の記述から直に

かほどの霊場の絶えなん事を悲しみて、

と続いているのが、連か唐突の感を免れぬのであるが、全文は頗る簡潔で引締って居り、美しく力があって荘重に、且口調も滑らかで、何となしに音楽的な効果を有って快く耳に響くので、その唐突さをさまで不自然でない気分の中に解消させてすらいる。実演ではこの「……廬舎那仏を建立す」と、「かほどの……」との間隔に、囃子の方で鼓の「習の打切」が挿入せられるので、一段荘重さを増すと同時に、又その文詞の飛躍している不自然さの感じが起ることから一段と観客を救ってくれているのは、意識的ではあるまいが(『正尊』の「起請文」の中でも習の打切は用いられていて、こうした重い物に相応する為に工夫せられてある特異の手だというだけであろう)、思わぬ効果を収めている。一面この説明的詞句の省約という事が、少くとも何か粉本の文例があったのではないかとの感を起させ(謡曲の性質からもそれは矛盾しない)、且舞曲『富樫』の先行を予想してあるようにも解させるが、断定は出来ない。その逆も亦あり得ない事ではない。

さてその全文の上からすれば、『安宅』のそれは、主として文覚の勧進帳に学んだものであろうが、同時に勧進帳というものの一般形式に倣ったことも言うまでもない。文覚のとは内容上には勿論交渉は無いし、詞句上でも僅に冒頭と結尾が特に似ているだけであるが、これも一般形式に通有な部分であるから特に文覚のそれとだけの類似というのでない。けれども同時にやはり文覚のをも模本にしたことは確であろう。又造営の機因をなす南都焼亡の事件は緊密な関係があるから、『平家』『盛衰記』の同條の記述と『安宅』の勧進帳の文詞との間の類似も、偶合としては置けないであろう。

 
それつらつら惟れば、大恩教主の秋の月は涅槃の雲に隠れ、生死長夜の長き夢、驚かすべき人も無し。


という起句を、『盛衰記』(巻二四、南都合戦同焼失)の東大寺縁起を語る條の伊勢大神宮御託宣
 

実相真如の日輪は照生死長夜之闇、本有常住の月輪は掃無明煩悩之雲。我遇難遇之大願、建立聖皇大仏殿故……(『平家』にはない)


に、及び同巻同條大仏焼亡の惨容を叙した
 

八萬四千の相好は秋の月四重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞は夜星十悪の風に漂わす。(『平家』の文小異)


に比するがよい(舞曲の方も前に述べたように『平家』『盛衰記』から来てはいるが、これと同じではない。「みぐし落ちて塚の如し。御身は湧いて山の如し」などいう句がその例である)。又文覚勧進帳(『盛衰記』巻一八)の起句は
 

夫以(オモンミレバ)、真如広大、雖断生仏之仮名、法性随妄之雲厚覆、自聳(タナビキシヨリ)十二因縁之峯以降(コノカタ)、本有心蓮之月光幽、而未顕三毒四慢之大虚。悲哉仏日早没、生死流転之衢冥々兮。(『平家』巻五所載のも殆ど同文)


となっている(舞曲のも「悲しき哉や恩愛別離の生死の小車……」の如き、これから出ていると思われるし、「和州山科の里、東大寺勧進の事、殊に十万檀那の助成を蒙らんと欲す」も、普通の形式、特に『東大寺造立供養記』所載の勧進帳の形式を襲っていると同時に、「請殊蒙貴賤道俗助成高雄山霊地建立一院、令勤修二世安楽大利、勧進状」というのとも類している)。結句は
 

……俊乗坊重源諸国を勧進す。一紙半銭の奉財の輩は、この世にては無比の安楽に誇り、当来にては数千蓮華の上に坐せん。帰命稽首敬って白す。(『安』)
夙聞聚砂為仏塔之功徳、忽感仏因。何(イカニ)況於一紙半銭之宝財乎。……都鄙遠近親疎黎民緇素、歌堯舜無為之化、披椿葉再会之咲。……速至一仏菩提之台、必翫三身満徳之月。(『盛』)
この供養をのべん為、六十六人のさても小聖(こひじり)、六十六箇国へ各々廻って、勤むる所の勧進也。一紙半銭入れたらんず輩、今生にては安穏快楽の徳を蒙り、来世にては弘誓の船に棹さし、千葉の蓮華に戯れんずること、疑あるべからず。南無帰命稽。(『富』)


というように共に相類似している(就中謡曲と舞曲とは特に近い)。その他『文治二年神宮大般若経転読記』(一名『俊乗坊参宮記』)所収の東大寺造立願文、後白河法皇院宣、四月二十六日御供養の啓白、二十九日供養の啓白(これだけは「忽開千花台上之露、三身萬徳之月貌、始耀長夜無明之闇……」など、文覚の勧進帳と似た句は含まれている)、晦日転読の表白、『東大寺続要録』所載の建久六年三月十二日大仏供養に於ける後鳥羽天皇御願文、若しくは『東大寺造立供養記』等からの直接詞句上の影響は殆ど無いようである(後のものは舞曲の勧進帳とは寧ろ交渉があるらしく見える)。そして謡・舞曲相互間に確に直接交渉のあることは否定し難いに拘らず、勧進帳の詞句だけで観ればその類似は意外に僅少で、全く別様の形と内容とを有していることを、特に注意すべき事実として指摘して置かねばならない。

なお『安宅』の用語に就いて一瞥すると、仏語の多いことが顕著なのは、元来謡曲文の特質である上に、この曲は現在物であるけれども、問答・勤行・勧進帳等、全曲の主要部分を仏教乃至修験道に関する事柄が占めている為であること言うまでもないが、「につくい山伏」「なんぼう」「落居の間」「めだれ顔」(謡『烏帽子折』にも「めだれ顔なる夜討はするとも」とある)「抜群に」「盗人(たうじん)ざうな」(間狂言の詞にも「ようのかはのおしやつそ」)など、当時の俗言や慣用語句も散見し、「兎角の是非をばもんだ(問答)はずして」と、名詞をそのまま活用させた用例も含まれている。それから詞章は各流で小異があり、それぞれ長短があるが、演能の場合はおのづから別として、文学としては、平均して全体的に観世が最も勝れてよく整って居り、表現も妥当な箇所が多い。次には宝生が略それに近い。

之を要するに『安宅』は他の一般の謡曲の例に漏れず、その詞句は先進文学からの転借点綴であり、仏語・漢語・和語・俗語の混用であり、対句・掛詞・縁語を以て修飾の主要な技法としている。けれどもその点綴さに無理が少く、その混用が頗る自然で調和を得て居り、修飾も亦濫用が避けられ、全体としてよく整備している。恰も素材・脚色を他に仰いでも、これを自家薬籠中の物として一曲を構成して成功していると相応じて、詞章の側からも略々同様の事が言える。次第・道行もクセも佳く書かれて情景並び具して居り、ノットの詞も勧進帳も荘重厳粛で且ムダが無い。殊に問答は迫力に満ちて対戦応酬の妙を極めている。そして全曲に亘って悲痛な雰囲気と烈しい気魄の中に情味溢れる快感が流れ、特に片言隻句にも沈毅胆勇の弁慶の性格が注意深く描出されている。総じてこの曲は題材が既にそのままアトラクティヴな劇的事件である上に、表現も謡曲文通有の余りに非合理的に過ぎた文飾の羅列に堕することから救われ――その代りに併し超現実的な感じの濃い所謂謡曲文らしさはかなり稀薄にされてはいる。尤もそれは現在物であることが大きな素因でもあるけれども――、而も劇的対話に富んで、余程普通の演劇脚本に近づいている――だからこそ詞章も大体そのままで歌舞伎へ引直すことが容易に出来たのである。又その漸層的に畳み込まれて行く事件の進行抑揚も、十分に劇的効果を発揮するように留意され、能として舞台で鑑賞せられる場合は勿論であるが、それを俟たずとも、単に一個の読む脚本としての謡曲乃至文学作品としてすらも、立派に完璧を成し、読者をぐんぐん引きずって行ける力を有っているのは、やはり凡手でないことを思わせる。そしてこの点は歌舞伎の脚本としての『勧進帳』が、到底演劇としての傑作であって、文学としての価値は殆ど主張し得ないほど拙劣なものであるのと、決して同日の談ではない。

そこでその『勧進帳』の方であるが、詞章の側からは如何に贔屓目に見ても及第点はやりにくい。先ず大体の輪廓と骨組は全然『安宅』そのままである。詞句すらも『安宅』のままの部分が多い。そうした部分の中に佳句なり旨い表現なりがあっても、それに対する推賛は当然『安宅』が受けるに値せねばあんらぬわけである。勿論『勧進帳』だけに見られる文辞も相当にはある。即ち謡曲張から長唄風に直された詞句、能がかりから歌舞伎式に改められた白、それらは必然の結果としてそうあらねばならぬ筈であるし、又その同じ用意から新に補入或は削減せられた部分もある。ところがその改変せられた部分の辞句は、それによって歌舞伎的な気分或は平民的な臭いを漂わせるに役立つ以外には、僅少の箇所を除き、大抵は変り栄えがせぬどころか、却って劣悪なものになり了っているのが笑止である。例えば初めから謡曲では直に
 

斯様に候者は、加賀國富樫の何某にて候。さても頼朝・義経御仲不和にならせ給うにより、判官殿十二人の作山伏となって、奥へ御下向の由頼朝聞召し及ばれ、國々に新関を立てて、山伏を固く選み申せとの御事にて候。さる間この所をば、某承って山伏を留め申し候。今日も堅く申付けばやと存じ候。如何に誰かある。


とワキ名告になり、それを「御前に候」と太刀持が受けるが、『勧進帳』の脚本では富樫が番卒三人を連れて出て、
 

富 如何に者共あるか。
卒 御前に候。


とあってから富樫は改めて

斯様に候者は、加賀國の住人富樫左衛門にて候。さても頼朝・義経御仲不和となり給うにより、判官殿主従作山伏となり陸奥へ下向の由、鎌倉殿聞召し及ばれ、斯く國々に新関を立て、山伏を固く詮議せよとの厳命によって、某この関所を相守る。方々、左様心得てよかろう。(上演台本によりこれらの白に多少の異向あることもある)


と、観客に報告するが如く、又番卒に命ずるが如く、名告をする。これを承る番卒の白が又名文で、
 

随分物に心得、我々御後に控え、若し山伏と見るならば、御前へ引立て申すべし。


だの、
 

修験者たる者来りなば、即座に縄掛け討取るやう


など、秀抜な句を吐く。すると
 

いしくも各々申されたり。猶も山伏来りなば、謀計(はかりごと)を以て虜となし、鎌倉殿の御心を安んじ申すべし。この儀屹度番頭仕れ。


と、富樫もなかなか負けてはいない。兎に角謡曲に比べて決して改善とは言おうにも言えない。名告の前の取って附けた尨贅は流石に変と見えて、近頃では削ってしまったのは、さもあるべきである。同じ勧進帳劇でも、『御摂勧進帳』が
 

方々ぬかるな。この関所こそ、この度源二位頼朝公・伊予守義経公、御連枝の御仲不和となり給い、都堀川の館を逐電ありて、行方知れずとの風聞によって、新関を据え置く云々


という出羽軍藤太の白で始まるのが、まだしも歌舞伎らしくてよい――これとて謡曲文には敵わぬが、一寸幕明きの物々しさはあって面白い。

談合の件で義経の「面々計らう旨ありや」は謡曲に無い白、
 

皆々心中の通りを御異見御申しあらうずるにて候。(金剛流では「皆々心中の通り残さず御申し候へ」と、もっとあっさり平易になっている)


という弁慶の語を判官に移したので、これは寧ろ歌舞伎の方を採る。二人の性格描写に少しの動揺はあることになるが、子方に止まっていた義経が幾分でも主君としての重みを見せ、且白の数も稍多くなる為には、適応の改変であろうし、詞も簡潔で意を尽くしている。続いて四天王連の「さん候。帯せし太刀は何の為」までは無難であるが
 

一身の臍を固め、関所の番卒切り倒し、関を破って通るべし。


は急き込み過ぎたと見ても、「ヤアレ暫く御待ち候へ」と落ち著き払う先達も、
 

……我々より後に引下って御通り候はば、なかなか人は思いもより申すまじ。遙か後より御出であらうずるにて候。


と少々辿々しい口つきである。その「ヤアレ暫く御待ち候へ」も、文としては謡曲の唯、「暫く」の一語に千斤の重みあるに無論比ぶべくもない。山伏問答の詞句は「高山絶所を縦横せり」「功徳を籠めり」のような語法の誤りもないではないが、他の白の箇所ほど拙劣でもない。但し九字真言の問答を態々最後へ据えた為に、
 

富 目に遮り、形あるものは切り給うべきが、若し無形の陰鬼妖魔、 仏法王法に障碍(しやうげ)をなさば、何を以て切り給うや。
弁 無形の陰鬼妖魔亡霊は、九字真言を以て之にを切断せんに、なんの難き事やあらん。
から
富 シテ、山伏のいでたちは、
弁 即ちその身を、不動明王の尊容に象るなり。


と、一転したように見えて――実は無理に取って附けて――クサリ山伏扮装の問答があり、終って又思い出したように九字の事に返って、
 

富 抑も九字の真言とは、如何なる義にや、事のついでに問い申さん。なんと、なんと。


となるのは、舞台効果を別にしては、優れた行文とはどうも弁護出来ない。結局九字問答の中間に扮装問答を挿入したと見ればよい。その扮装問答は謡曲の最後の勤を、シテとツレが代る代る謡うのに示唆を得て、そのノットの中の句を殆どそのまま富樫と弁慶との問答の形に引直したので、これは前にも言及した通り確によい目のつけ処であった。特に次第に問答が昂揚して来た末に、謡曲では単に「出で入る息に阿吽の二字を称へ」と平叙してあるシテの句をば、

富 出で入る息は
弁 阿吽の二字
と割って、ガッチリ斬り合わさせた辺りなぞは、やはり大的りである。九字真言の説き明しだけは、演者の方からはむつかしい大事であろうが、少々楽屋落じみて鼻につきそうにもなる。その代り考証癖、活歴好みの九代目には誂えたような材料と悦喜させた事であったろう。尤も「莫耶が剣」も我慢すれば先ず利いている方だとは言えようし、「その徳広大無量なり」は大きい。なおその九代目がこの問答の文句中、「山野を経歴し」を「山野を跋渉し」に、「これぞ案山子の弓に等しく」を「……弓に似たれど」に改めたり、九字真言中「武門に取って呪を切らば、敵に勝つこと疑なし」の一句を除去したりしたのは、適切な改刪であったと言うべきである。打擲・押合の後の弁慶は少し余裕があり過ぎて、弁慶実は市川某という気味があるように描かれているが、その件の
 
番卒共のよしなき僻目より、判官殿にもなき人を、疑えばこそ斯く折檻もし給うなれ。


は富樫の性根を説明する眼目の白で、この方が寧ろ見逃せない。又愁歎の件で弁慶の
 

正しく主君を打つ杖の、空恐ろしく、千斤をも上げる某、腕も痺るる如く覚え候。


という白は謡曲に無い歌舞伎狂言作者の働きとして買ってもよいとして、四天王は「武藏坊が智謀によらずんば」とか、「なかなか以て我々の及ぶべき所に非ず」とか、「驚き入って」と異口同音、此処でも弁慶実は座頭役者の褒め役を勤めさせられるのは巳むを得ぬが、その白が浮調子に傾いて書かれてあるのが、やっぱり歌舞伎で、謡曲の全然それを欠くのと面白い対照である。判官も亦「いかなればこそ義経は」と、六段目の勘平もどきなのも是非が無い。例の特殊語法の「是非をば問答はずして」が「是非を問答せずして」或は「理非を争わず」になっているのは頷けるが、弁慶の物語が終ると、やはり四天王が「とくとく退散」などと、悪魔降伏みたいな事を言うのは困りものである。少くとも閉会の辞があって集会の各自が分散するといった心持である。いずれにせよ、謡曲にはこれは全く無い。要するに判官も弁慶も四天王も、亦富樫も番卒も、能がかった白を言うかと思うと、忽ち武家じみた或は平民じみた詞にすらなってしまう。番卒に向ってすら富樫は「心得てよかろう」或は「心得候へ」と言う口の下から、「いしくも各々申されたり」などと、一寸敬語を混ぜてみたりする。所詮これは、粉本たる謡曲に倣おうとする心理と、それから離れて歌舞伎としての姿になろうとする心理との間に、判然たる自覚が無いのと、狂言作者の学才の不足との為に、鵺的な未熟な相貌になってしまたのである。

長唄の詞章の部分に就いて観ても、やはり謡曲とは到底匹儔出来ない。さてその長唄の詞章に引移されたのは大体、謡曲の謡われる部分――従って叙述体の部分がその主部をなしている――であるのは、自然で当然でもあるが、先ず「旅の衣」から始まる例の道行式の文を判官主従の花道の出に使ったのは、前にも述べたように頗る有効に活かしたと言える代りに、六人の出に当嵌まるようにとの工夫から、長文を節略してしまったので、原謡曲の文辞の妙を大部分減殺してしまった。而も「海津の浦に著きにけり」で下半分を切捨てた為、一行が安宅に到着せぬ内、半途で道行を止めた形である。後を暗示したつもりであろうが、安宅までは未だ大分道程がある。海津の浦は近江の船著場である。この件は暗示的、省略的な謡曲と、山幸海幸の道具を取替えたといった奇現象を呈している。その詞句中では又、「霞ぞ春は恨めしき」を歌いにくい為か改めたはよいとして、「霞ぞ春はゆかしける」とは乱暴を通り越している。流石に係結だけは忘れない所は、天晴れ大文法家の御愛嬌であった。ノットの件になると、山伏問答の方へ正味を持ち去られたので、祈りの詞が物足り無いのと、その接ぎ目に適当の考慮が払われなかった為に、不自然唐突の連接が出来てしまった失策は、既に再三言及した通りである。布施物を並べる件で「士卒が運ぶ広台に云々」の、謡曲に無い、つまり増補した詞句は先ず先ず無難だが、通過を許されて

こは嬉しやと山伏も、しづしづ立って歩まれけり。
の「しづしづ立って」も少々智慧が無いが、「歩まれけり」は愈々恐縮である。愁歎の件に来て、弁慶が「一期の涙」は共感同情の限りながら、それを「殊勝なる」とは不真面目に過ぎた(「ついに泣かぬ」は『千本櫻』から来たことは既に述べた)。歌う人も聴く人も殆ど問題にせず、飽くまで真面目の意味のつもりで慣行せられて来ているようだけれども、弁慶という人物の伝説的、文学的印象が、江戸時代には頗る滑稽味を帯び過ぎていた傾向に馴れきっていた作者の、正直な感銘の發露ではあろうが、それだけこの劇中の大立物の重さを、半意識的には揶揄して軽めた結果となった。仮令従来の弁慶が如何にもあれ、又自身滑稽家であると否とに関せず、この際の弁慶の涙には、「殊勝」の語は不足であろう。原義に用いられたとすれば、宥せぬでもあるまいが、他の部分の学識の程度から類推して、作者は恐らく通俗的な意味に使ったと思われるから、そうならばかなり不愉快な響を有つことになる。少くとも上乗の表現ではない。併し悪い語ではないから、真面目な意に取れば我慢は出来よう。それに続く「判官御手を取り給い」が又珍品である。これは流石に所演後、海老蔵もその敬語法の不注意な使い方に気づいて改めようとしたが、適当な改変が施せず、その上皮肉にも美音で有名な長唄の岡安喜代八が観客のみか楽屋一統をまで魅了した大切な聴かせ所になってしまった関係上、そのままで今日に及んでいる来由附の箇所である。書卸した作者自身が怪しまずに書き流したのでもわかるが、如何にも語呂が滑らかで、一寸はその不合理さに心づかぬほど、実にしっくりした自然らしさを有っている。そうした意味で「平知盛幽霊也」など、正しく言えば「の」の字が脱しているのだけれど、謡い工合からはその方がピタリと来て、聴き馴れては誰異しまぬ謡曲の名文句である。但しそれは「の」が無くても意味上の大きな支障は来さず、或は有るのを、謡う為に呑んだとしても説明はつくが、「御手を」の方は牽強絶対に不可能で、意味の上からは過誤たること明白である。「御」は判官に対する敬語として附けたことは確であるからその位置を換えて、「判官手を御取り給い」としたらという説もあるが、それでは唄にならない。第一「御取り給い」という言い方も無い。「給い」の敬語が下にあるから「御」など不要である。かと言って「判官手を取り給い」では、やっぱり唄にならぬ。「判官手をば取り給い」なら、稍歌えるだろうが、拙劣さは同じである。「御手」がどうしても不合理だというなら、そしてどうにか改めねばならぬということに仮になったとしたら、「おん」という音の上品さと柔かさには及ばぬけれども、「判官その手を取り給い」とすれば、幾分それに近い、そして原文を改めずに正しい意味を通すことが出来ようかというのが愚案である。それから「鎧にそいし袖枕」は謡曲の「鎧の袖枕」を歌い易く延ばしたのであろう。意味上からは蛇足であるが、強いて咎めるにも及ぶまい。「とかく三年の程もなく」を「なくなく」と掛けて受け、それを
 
……いたわしやと、萎れかかりし鬼薊、霜に露置くばかりなり。


と続けたのは一寸面白い――「霜に露置く」は少し気になるけれど。酒宴の件では
 

今は昔の語り草、あら恥づかしの我が心、一度まみえし女さえ、迷の道の関越えて、今また此処に越えかぬる、人目の関のやるせなや。アア、悟られぬこそ浮世なれ。


と来ると、ぐっと砕けて俗化した甘い味が一杯に漂う。粉本が無いだけに、思いきって長唄の柔かい一面が補足された。但し謡曲文の品位には益々遠ざかって来る。以下延年舞の件は曲は面白いけれども詞句は殆ど謡曲のままであるから論ずる要を認めない。畢竟長唄としての『勧進帳』を価値づけているものは、詞章の稚拙さを補うて余りあるそのすばらしい節付である。やはり妙手六三郎が一世一代苦心の作だけある。渋くはないが鹿爪らしく固まらず、さりとて普通の吉原情調的卑野にも陥らず、上品さを失わぬ平俗さを色づけているのが流石で(尤もこれは内容とその粉本の品位とが大に関係してはいるが)、謡風をも採入れてあり、又豪快と優麗と、沈痛と哀愁とを、つまり派手な美しさとしんみりした旨味を巧に按拝し、抑揚変化、長唄の妙用を遺憾なく発揮した渾然たる作曲である――能の粉本があるので割引はされるとは言え、囃子鳴物の調和まで殆ど間然する所ないような名品である。そしてそれが単独にでも十分立派であるが、芝居の地方としての場合一段完璧としての光彩を放つのである――元来その目的で作成せられたものであるし、そして詞章だけとして観れば断続的な姿をしていて完全な文学では無論ない。

かく白も長唄地も、文学としては謡曲に対比して、虎を描いて猫に類するの嫌がないでもない。唯、勧進帳の文句は大略『安宅』と同様であるが、謡曲の方で再建の因由を欠いてある部分に
 

……廬遮那仏を建立し給う。然るに往時(いんじ)寿永の頃焼亡し畢んぬ。かかる霊場絶えなん事を歎き……


と、「然るに云々」の一節を補足したのだけは、至当の用意である(『御摂勧進帳』では猶謡曲のままである)。謡曲でもそれが省略せられているのが決して賛成だというのではない。ましてより現実的合理的な傾向を有つ歌舞伎の方では、一層罅隙が目だつからである(舞曲の勧進帳からの暗示もあるかも知れぬが、常識的に気づいての補入であったのであろう)。そしてその「寿永の頃」を九代目団十郎が「治承の頃」と改めたのも史実に拠ったので適正な変更であった(これは彼と親しいそして演劇改良の志を同じうする学者連の助言に従ったのであろう)。三位中将重衡の放火による南都炎上は治承四年十二月二十八日夜の出来事である。又部分的に「故に上求菩提の為」とか「無常の関門に泪を落し」「上下の親族を勧めて」とか、謡曲に無い詞句が埋められたりしているが、それらは謡曲より良くなったとは見作し得られない程度のものであり、その他「涕泣御涙乾く時なし」が「涕泣眼に荒く……」或は「紫摩黄金の台(うてな)に」が「数千蓮華の上に」と、九代目によって謡曲の原文に復帰せしめられたりしている箇所もある。要するに前掲「然るに云々」の部分以外に於ては、依然謡曲の槽粕を誉めているに過ぎない。なお「無常の観門云々」は文覚勧進帳の
 

故(かるがゆえに)文覚、無常観門落涙、勤上下真俗、上品蓮台結縁、建等妙覚王霊場也。(『平家』巻五)(『盛衰記』の文は「催上下親族之結縁、上品蓮台運心」となっている)


から採ったのであろう。従って「関門」「親族」は「観門」「真俗」の誤であること明らかであり、又九代目は「落し」を「流し」と改めたが、原文が「落し」であるから、口調を他にしては強いて変えるにも及ばないわけである。
 

(附記)上述九代目団十郎の『勧進帳』字句訂正に就いては、『歌舞伎十八番の内勧進帳考』(伊坂梅雪著、大正三年四月刊)所収の「師匠の弁慶に就いて」(幸四郎談)を参考した。


以上観て来たように、詞章は謡曲に借り或は倣って更にそれに劣り、内容は又全然謡曲の踏襲に近いとすれば、文学としては殆ど論ずるに足りないものとなる。それは謡曲『安宅』が文学作品としても相当優秀な位置を以て待たるべきであるのに対照して、余りに淋しい。『勧進帳』の生命はやはり全体としての舞台劇という点にあらねばならない。その素材と、その劇的脚色とその劇的演出効果と、俳優の演技と、音楽と、それら総合的な力が偉れた芸術を生み来るのである。そしてそれが刻々描きながら進めて行くストオリイと印しつける人物の言動の間に、おのずから創り出される戯曲的事実の展開の上に、所期以上によい収穫として一個の生々した文学を屡々享受することが出来るということを言い添えて置かねばならない。

 

第四節  概括――能の『安宅』と歌舞伎の『勧進帳』

『安宅』と『勧進帳』との部分的の長短得失は、如上三様の観点から細説を試みた。全曲として両者を今一度重複を顧みず総括的に概評して論を結ぶことにしたい。

『安宅』は幽霊能ではない。だから能の本態即ち本色を発揮した典型的なものではないが「種」に勝れ、「作」が面白く、又「書」が佳く、現在物としては最大傑作と推賞するを憚らない。同時にそれが直に移して以て、歌舞伎劇として成功する所以である。

『勧進帳』は即ち市川家の歌舞伎十八番の随一、荒事なり歌舞伎味なりという側からだけならば、『暫』があり『矢の根』があるが、筋を有って内容のガッチリした演劇という点では、国民精神と武人気質と能趣味の品位とを代表して、一方江戸ッ児気性と市井情義と通人好みの遊楽風尚とを具現している『助六』と、剛柔相対する十八番中の双絶である。而もこの二者はそれぞれ中世以降の国民伝説及び文学の中心をなす義経と曽我とに関するものである事は、偶然の一奇であると同時に、又頗る自然さ当然さをも有つ現象として我等の興味を惹くものがある。

『安宅』の作者に擬せられている観世小次郎信光は音阿弥元重の子で世阿弥には甥に当り、永正十三年七月七日に八十余で歿した人である。『熊本作者註文』によれば、創作した能の数は三十一番に上っていて、その曲目に就いて検べると、『船弁慶』『羅生門』『張良』『大蛇』など、好んで武勇伝説に取材しているから、そういう物を得意としたらしい。その中でも『安宅』は
恐らく会心の作であったであろう。『安宅』が小次郎の新作或は改作若しくは他の作者の手に成ったものであると否とに拘らず、素材の取扱と脚色の工夫とに於て、能の本格をかなり大胆に崩して写実劇へ一歩も二歩も進めて来たのは、そしてそれに成功したのは頗る興味ある事であったが、家芸の復活に因んで、この写実能をそのまま活用しようと着眼した四世海老蔵も流石に凡ではなかった。これより前三世海老蔵(四代目団十郎)の『御摂勧進帳』もやはり『安宅』に摸したのであったが、それは形だけの追随で、且歌舞伎色の方が濃かったのを、四世の七代目は意識的に本行に直接侵入して行ったのが、一面歌舞伎の逆転で且歌舞伎の委棄でもあったけれども、確に異とすべきものがあったと思う。

天保十一年三月五日から河原崎座を開けた際の口上看板の写が『続歌舞伎年代記』(巻一四)に出ている。
 

乍憚以口上書を奉申上候

御町中様益々御機嫌能被遊御座、恐悦至極に奉存候。随而も当春狂言殊之外御意に叶い、古今稀成大入り大繁昌仕候義、座元権之助並私義不及申上、此度再勤仕候尾上菊五郎始惣座中難有仕合奉存候。分而(わけて)申上候者、私先祖より伝来候歌舞伎十八番の内、安宅の関弁慶勧進帳之儀は、元祖市川団十郎才牛初而相勤、二代目団十郎柏延迄は相勤候得共、其後打絶候故、私多年右之狂言心掛、種々古き書物等取集相調候処、此節漸々調候に付、幸い元祖才牛儀当年迄百九十年に及候間、代々相続之寿二百年の賀取越として右勧進帳之狂言相勤申候。右勧進帳之儀は、外記やうのものにて、余り古代に相成候間、幸い杵屋六三郎儀は私幼年よりの朋友、此度一世一代として三紘手事節付新に致させ、棲門五三桐とおはん長右衛門の間にて相勤奉入御覧候。誠に古代にて御意に叶い候義は有之間敷候得共、先祖の俤而巳市川代々御贔屓の御余光に而、二百年来の御取立と被思召、被仰合賑々敷御見物之程、偏奉希上候 以上。

三月  市川海老蔵


又同時に贔屓連中へ配った摺物にも
 

勧進帳之儀者、元祖団十郎相勤、二代目団十郎へ相伝、其後絶えて興行不仕狂言一條全を不得、家之伝書も蠧而切々相成居り、多年補綴し、漸々当春其全を得、幸い今度百九十年之寿に相勤候得共、元禄年間古雅成立振舞故、思召にも不叶申恐入候。百九十有余年無為替御贔屓之御恵、御機嫌宜舗御見物奉願上候云々


と見える。『筆始勧進帳』や『大■(だいだんな)勧進帳』は外題の借用だけで内容は『暫』であるけれども、同じ市川の而も曽祖父の『御摂勧進帳』は立派に安宅劇であり勧進帳劇であるのに、これは黙殺して二代目以来の復活という意味を強調しようとしている。古代で見物に見馴れぬであろうと頻りに弁解しているが、これは本行仕立で在来の歌舞伎の行き方と変っているのを言ったので、或は興行上の冒険という不安も無いではなかったろうが、同時に自信ある出し物に就いての自賛の口気は争えない。中絶復活というが実は七代目の創作という方が真である。殊に作曲の六三郎(四世)と振付の西川扇蔵(四世)と、いずれもその道の天才の、いわば一世一代が三人揃っての合作と言ってもよいくらいであるから、秀抜なものが出来上ったのはさもあるべき事であった。『続歌舞伎年代記』の豊芥子が
 

西塔の武蔵坊弁慶は力萬人に勝れ、市川海老蔵が芸は萬人に秀でたり。

都にはあらぬ吾妻の武蔵坊芸の力は一騎当千


と賛したのは、溢美の言ではなかったであろう。そして又その陰にその功の一半を頒たねばならぬ扇蔵のいることも忘れることは出来ないであろう。なお初演当時の役割は、
 

武蔵坊弁慶 海老蔵。 判官義経 団十郎(八代目)。 常陸坊海尊 市蔵(左野川)。 卒子兵藤 菊四郎。 片岡八郎 黒猿。 伊勢三郎 赤猿。 卒子伴藤 箱猿。 駿河次郎 海猿。 卒子権藤 萬作。 富樫左衛門 九蔵(六代目団蔵)。


それに長唄囃子連中は
 

長唄 芳村伊十郎・岡安喜代七・芳村金五郎・岡安喜久三郎
三絃 杵屋長次郎・岡安若三郎・杵屋弥七・杵屋三五郎
長唄 岡安喜代八
笛 福住長五郎。 小鼓 六郷新三郎。 太鼓 小泉長次郎・六郷新十郎。 小鼓 望月太左衛門
振付 西川扇蔵
三絃 一世一代 杵屋六三郎 相勤


というのであった。その後、海老蔵は文字通り一世一代の触込みで入道頭の珍しい『勧進帳』を、嘉永五年九月同じ河原崎座で復勤め、その前に八代目も演じ、続いて九代目が伝承して愈々これを完成した。上演の度数熟成という事実と共に、改補の用意、人物に対する解釈・描出、演技に更に磨をかけた点、役の柄、芸の向、すべて恰も九代目その人の為に作られたかの観があって、『勧進帳』劇は七代目と九代目との共作とする方が妥当であるとすら言ってよいであろう。就中、明治二十年四月二十六日、麻布鳥居坂上の外相井上伯邸に於て、左団次(先代)の富樫、福助(歌右衛門)の義経と共に弁慶を勤めて、明治大帝の天覧を忝うし、又二十九日には英照皇太后の台覧を賜った事は、日本演劇史上特筆せらるべき光栄の記念であった(本書口絵のは二十三年五月新富座の時の団・菊・左の『勧進帳』の錦絵である)。九代目没後、段四郎・幸四郎・羽左衛門・菊五郎・吉右衛門等の諸優によって演ぜられ(〔補〕新國劇の澤田正二郎や最近では前進座の河原崎長十郎、それから曽我廼家五郎まで演じた)、近時は独参湯の占有権を『忠臣蔵』から奪おうとさえしている有様である。そして所演回数からは幸四郎が筆頭で、先師九代目をすら遙に凌駕している。
 

(附記)『勧進帳』の所演年時・配役等は前記伊坂氏の『歌舞伎十八番の内勧進帳考』に「天保以後勧進帳の年表」として掲出せられていて便利である(〔補〕昭和版のは更に増補せられて昭和四年六月にまで及んでいる)。その後も五年一月歌舞伎座(幸・羽・宗十郎)、六月明治座(吉・宗・福助)、六年三月歌舞伎座(幸・左・宗)、十月東劇(幸・菊・福)、七年七月大阪中座(幸・吉・鴈治郎)、十一月歌舞伎座九代目団十郎三十年追遠(幸・羽・菊)、八年一月同座追遠延長(同前)、同追遠、三月大阪歌舞伎座(幸・羽・宗)、十一月新橋演舞場(長十郎・翫右衛門・國太郎)、九年三月歌舞伎座(菊・吉・宗)、十一月歌舞伎座(幸・羽・菊)、十二月京都南座(幸・羽・我童)等の所演を見た。即ち毎年二回ずつぐらいの割合で上場せられている。


さて斯うして成った『安宅』と『勧進帳』とを比べてみると、その優劣は一概には断じ得られない。勿論演者の巧拙が大に関係するが、それは姑く措く。又何と言っても後者はそれの臨■であるという点で前者に一籌を輸するという負目がある事も改めて指摘するまでもない。つまり単なる臨■とだけで片附けられるか如何かに問題は存する。公平に観て双方共にそれぞれ互に他が企及し得ない佳い所を有っている。相似ていて、やはり各々独自の異なった味を出している。一方を全然の独創であり、他方を摸倣以外何物でもないという程に軒輊の甚だしいものとしてしまうのは、余りに皮相的な観方であろう。又一を能楽の本態ならざるが故に与し難いとするなら、他も亦純歌舞伎劇でないという理由で同様の論難が加えられねばならぬのである。『安宅』は幽霊能ではないが、そしてかなり芝居がかったものではあるが、所詮なお能である。「幽玄」という意味よりは「物真似」という側が強められることに傾いている写実能とは言えるが、勿論普通の演劇ではない。形式も精神も能を離れてはいない。

余程生々しくなりかけてはいるのだが、やはり全体に能の本色たる超現実味と相通ずる心持のいぶしがかけられていて、歌舞伎から受ける印象とはかなりの隔りがある。同じ意味で『勧進帳』は殆ど歌舞伎とは言えない程、能がかったものでありながら、同時に歌舞伎の諸要素を抜目なく集採している。だから能を観ている感じとは別なものが与えられる。能に於て既に全曲に亘っての劇的緊張(テンション)と二個の対立意志の衝突と危機とが具有せられてある上に、抒情詩味と舞踊とが含まれているのであるが、『勧進帳』では山伏問答を加えたり、長唄を使ったり、弁慶の物語の所作を入れたりして、更に一層それを強大にし、効果的にし、且人情味を濃くした。そして能を学んだという点で、全体として――物語や延年舞の純所作を含む上に――一種の所作劇のような形をしているが、単なる所作事では無論無い。寧ろ演劇としての意味の方が重い。つまり能と歌舞伎――而もその三主様式即ち時代・世話・所作の各要素――を融合させようとして、少くとも或意味での成功を遂げたものと言ってよいと思う(題材も取扱方も時代物の行き方で――というよりは能がかりを歌舞伎に崩したから時代物のようになったと言う方が適切でもあろう――、番卒と弁慶の酒興の件などは世話がかっている。これは所作味と一は狂言風を採入れた為である。この件の長唄の詞句にも世話がかった部分が含まれていることは前に述べた)。即ち能から採って悉皆それを歌舞伎にしようとしたのでなく――尤もそれは無理で不可能で無意味でもある――、つまり義太夫・本釣とまでは行かずに、松羽目に長唄雛壇という所に融和点を見出したのであった。この能との不即不離の狙いは、能の歌舞伎化として最も賢明な最も適切な唯一無二の道であらねばならなかった。そしてその結果として、高級芸術としての貴族的な能と一般大衆との距離を短縮させる一面には、卑俗低級趣味の中に育成せられた歌舞伎に品位を与えて、知識士人の鑑賞対象にまで高めることとなるのである。

『勧進帳』は大体それを実現した驚くべき成果を示し、時には本行を凌ぐ場合すらも創出したのを多としたいのである。其処がこの劇をして題材として以外に観衆を魅し去る独自の価値を存して、かの以上の声誉を贏ち得させた所であり、又新歌舞伎十八番や新古演劇十種に追随者を続出させた所でもある。又この能に即かず離れぬ境地こそ、宝生九郎をして九代目の妙技に賛辞を吝まざらしめた所であったのである。

その不即不離の気構えは、番卒三人を出した如き(能の太刀持一人よりは写実的だが、やはり象徴的な技法である)、同行を四天王に減じた如き、花道を利した談合の如き(花道での科白は歌舞伎の約束でもあるが、本舞台で談合しては、関守の座所と重なり合う感じを免れない。能ならばワキは脇座に休んでいるから、其処に居ないものとしての約束の下に、少しも異様の感は与えられない、即ちそれが常型であるが、より写実的な歌舞伎では、花道に離れているだけで、見物の合理性を納得させる極めて自然な方法を有っているのである)、或は押合の型や、腰桶の転用や、物語に舞グセを借りたり、酒興に狂言風を加味したり、「笈をおつ取り」を写実的に取扱ったり、既に前に説いたような種々の用意の上に随処に看取出来る。併し又本行に即き過ぎ、或は本行を脱しきれない箇所も少くない。既に背景がそうである。揚幕がそうである(橋掛りに見立てた下手の揚幕と花道の揚幕とは稍重複の気味が無くもない。もとは下手の揚幕は用いず、又富樫の引込も上手へ、二度目の出もやはり上手からであったようであるが、漸次本行に近づいて来て、現時所演の形になったのである。

一体、九代目は詞句・所作・形式・人物等全面的に余程本行へ接近するように改めた点が多い。それがよい所もある――太刀持を増したなどその一例で、押合の時の見た目もその方がよい――が、又少し行き過ぎて、歌舞伎色を薄めようとする陥井に我から近寄ろうとした嫌も無いではない)。幕明の富樫の名告・呼止、それから打擲・延年舞など皆そうである。音楽も三絃以外には新楽器を加えなかった。逆に本行から離れ過ぎた所もある。九字真言や打擲を反復しようとする科白などそれである。但し花道の出や引込やなどは離れ過ぎて寧ろ奏功した部分であり、問答・押合も新味を出している。更に、半ば本行に即いているとは言え、連挺の三絃を主楽器とする舞台音楽(オーケストラ)としての長唄並びに囃子の音曲的効果の大きいことも閑却出来ない。能の方の囃子もなかなかよいが、それとは十分変った色調になっている。文学のみとしては拙劣見るに堪えない長唄の歌詞すらもが、円かな快い響に渾化せられて、理性の拒否を許す前に、聴衆の感官を陶酔の夢幻世界へ遊神させてしまう。「判官御手を」さえも、却ってその朗音を待望させるに於て、曲が完全に詞を征服した証例を提示する。音楽としての味がそれほど深く滲み込んでいるのである。全く慣性と芸術の力である。その他『勧進帳』に摸せられた所はすべて『安宅』の方が勝っているのは言うまでもなく、摸せられず又摸し得られなかった部分は依然能たるの本領で且その長所であらねばならない。

能はあくまでまじめで緊張しきっている。歌舞伎の方では稍滑稽の成分をも添え、且幾分遊楽的気分をも加えて来ているのも、それぞれの特色であろう。動の中の静、迫った内の落著きは、能の独自の境地であり、その静を遺存しようと努めつつ、更に動に還元しようとし、その落著きを失うまいと心掛けながら、一層迫激した実感を出そうとしたのが『勧進帳』である。平易な語で要約して言えば、『安宅』の能の妙所はお芝居でない芝居である所にある。『勧進帳』のそれは反対にお芝居であってお芝居でない所にある。前者は奥行があって渋い。後者は派手で幅が広い。能と不即不離であることは即ち又大衆と不即不離であることを意味する。そして能楽『安宅』の通俗的な解釈者であり紹介者であると同時に、その筋書の説明者に終っていない所が、そして又原謡曲よりは安宅伝説を一層国民的にした点が、歌舞伎十八番の典型としての『勧進帳』に不朽の栄光あらしめているのである。而も能の純正な姿態からは遠ざかって、歌舞伎劇へ進化しつつある様式としての現在物の力作として書卸された詞章を、そのままに用いて成功を遂げたのであるから、『安宅』の企図した所を『勧進帳』に於て成就したと言っても誣言ではあるまい。『安宅』と『勧進帳』それは併せて一として之を観る時に於て愈々完全に、劇文学としてのみならず、義経文学全般を通じての判官物の白眉であらねばならない。
 
 

第二部 義経文学(判官物)第三章 了
 



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2001.12.1
2002.3.9 Hsato