島津久基著
義経伝説と文学

第二部 義経文学(判官物)

第三章 義経伝説の凝成としての義経文学――判官物の典型作『安宅』と『勧進帳』

第一節 素材上からの考察

前章に於いては義経伝説を殆ど網羅集成した作品で且純義経文学の鼻祖たる『義経記』に就いて論究した。上の二つの主要條件を一作品で具有している点から、義経文学の半面はこれで代表させることが出来ると思う。併し義経文学を完全に代表させるには、『義経記』だけでは不十分である。猶もっと大切な方面が遺されている。それは一は義経に関する諸伝説を一に凝成したようなもの、即ちこの一を取れば義経伝説の全豹を推知し得る如き、最も有力緊要な伝説を素材とした文学を、そして今一は義経文学中の最も優秀な作品を、選び出すことでなければならない。幸にして『義経記』の場合と同様に、又この二つの主要條件をも同時に充し得べき判官物として、我等は謡曲『安宅』及びこれから出た歌舞伎の『勧進帳』を、躊躇なしに推挙することが出来るのである。以下この両者に就いて考察を加えてみようと思う。

先ず素材上から観てであるが、これは両者全然同一で、――もっと正しい言い方をすれば、『勧進帳は殆ど『安宅』そのままであるから、『安宅』に就いて論究すれば、略々十分であると言える。そこで謡曲『安宅』の素材――世阿弥の所謂「種」――はというと、一言で言えば即ち安宅伝説である。つまりこの曲は「本説」のある「種」を取扱っているのである。そしてその「本説」たるこの伝説は世俗的に有名な為ばかりでなく、説話上からも義経伝説の最も代表的なものである(義経伝説中で最も有名になったのも、一はこの説話内容が群を抜いている為で、作品として又演劇としての傑出、従って好評流布という事実と、その功を折半すべきでなければならぬ)。改めて詳説を要するまでもなく、義経伝説は――委しく言えば、義経伝説の個々が連続的な姿に於いて――漸次に義経の一生を此処まで叙して来て、その命運の窮迫を如実に示す事件の悲痛さも、その熱狂的な感激も、この安宅伝説で将に最高潮に達しようとする。此処に立って顧眄すると、前半生の伝記が懐憶の悲喜に包まれて油然として幻出し、此処に立って望見すると、焦眉の急を免れた安堵の中に、なお高館の惨劇が不安憂愁の暗雲を隔てて何がなしに直感される。過去を語り、未来を告げ、環境・事態を一目瞭然とさせる極めて重要なポイントである。造形美術の術語を借りて言うと、安宅伝説は実に義経伝説のフルフトバールモメントである。

斯く安宅伝説は義経伝説の全貌を連想させる性質を有してその中心点をなしていると同時に、武勇伝説としての特殊型式は具えていぬけれども、義経伝説の一般的性質・中心思想・人物の性行等、殆どこの一伝説中に凝成せしめられたかの観がある。謡曲『安宅』に義経を子方として弁慶を活躍させているのも、能としての構成上の約束を離れても、義経伝説の一斑を代表して居り、少くとも北國落に於ける次々と遭遇する類型的な各所の厄難を代表している。即ち三の口関・念種が関・平泉寺・如意渡・直江の津、乃至関守・長吏・渡守・代官と、地名こそ違え、人こそ異なれ、いづれも弁慶の勇智によって危地を脱するを常とする、要するに安宅式の事件で、それらが安宅伝説に凝成させられていると言える。そして謡曲『安宅』に就いてならば、後にも説くようにそれが一層確実に、且有意的ですらあると言明し得るのである。又その所謂子方式な取扱を受ける義経は不遇可憐の主君として写され、その恭悌・堪忍・品位・大度・慈愛に対照して、これが庇護者である弁慶の、思慮・老巧・能弁・速智・豪胆・洒落が顕著に示されている。特に、武人として、文人として、仏者として、舞師として、忠の人として、勇の人として、智の人として、涙の人として、一行を統轄する大先達として、殆ど伝説が作り上げた弁慶の性格の全面が、遺憾なく表現されている。そして同情の涙を注がざるを得ない失意時代の義経の境遇と心緒と、これに対する弁慶の臣節と沈毅と、即ち義経伝説の中心思想をなす所のものを、最も力強く具現している点に於いても、義経伝説を代表させるに十分である。

さてこの『安宅』の素材となった安宅伝説の本拠その他に関しては、既に同伝説の條項で縷述したから再び繰り返さぬ。唯同伝説が謡曲『安宅』として完全な文学的形態を取るに際して、他の先進の文学、例えば『盛衰記』特に『義経記』からの影響を容受した点が少くないのを認めたいということを指摘したい。又先後は姑く措き、舞曲とも密接な内容上の関係がある――詞章的にまで――ことをも併せて注意したいのである。

先ず前にも論じたように、安宅伝説乃至『安宅』の骨子をなす二重点、即ち勧進帳読みと主君打擲とは、前者は『平家』『盛衰記』の文覚勧進帳読みが範を示し、後者は『義経記』の如意渡の難と富樫の館の條、三の口関の條、念種の関の條等とを一つにして作り出したのであろうと思われる。若し又後の事件が支那伝説に胚胎するとすれば、それは既に説いたように、如意渡の難として語る『義経記』を介して、間接に『安宅』に影響したに過ぎないのであろうと推断したい。元来、時と場所とを異にして起った他の事件を、同一人物に関するという点で統一し、又は別箇の事件を時或は場所を同じうするという点で統一して、それぞれ一曲中に渾成し、或は人物・時・場所等を異にするが事件が相似している場合、その類話という点で統一して一曲中に類化させる手法は、謡曲文学には珍しくない所である。吉野静伝説を船弁慶伝説に結びつけた『船弁慶』は第一の例、同じく吉野静と吉野忠信とを連結した『吉野静』は第二と第三とを兼ねた例、三保の松原の天人舞楽伝説(『海道記』)を同じ土地の白鳥処女伝説(若し同地方の口碑であったとすれば)に混融させた『羽衣』は第三だけの例、その『羽衣』は又上の駿河の羽衣伝説(或は上の舞楽起源伝説だけで、白鳥処女説話の方はこの丹後からの移入かも知れないが)に比冶山の白鳥処女伝説(『丹後風土記』)を採入れて類化させた天では第四の適例である。又反対に全曲の統制上から必要な劇的省約が施されることのあるのも通例である。『隅田川』に「見申せば船中にも少々都の人も御座ありげに候」とワキの渡守の詞にはあつて、ツレの旅人は唯一人である如き、『夜討曽我』の曽我十番切が古屋五郎一人で代表させられている如き、又『接待』に継信兄弟の妻女二人が省かれている如き、この類である。右の意味からも『義経記』が謡曲『安宅』、舞曲『富樫』等から――或はその素材である同じ内容の伝説から――その内容を成す事件を採って、これを多くの異なった事件に分割したと見る不自然さを敢えて犯すよりは、謡・舞曲、就中舞曲よりも一層主観的に作者の劇構成意識が作用し、舞曲よりも一層舞台上の制約に拘束される謡曲にあっては、『義経記』中の類似の諸事件を一に凝集させ、又史実、『義経記』及び舞曲にすら見える北方を全然閑却し去る如きは、寧ろ頗る当然であったとする見解の方が極めて自然さと妥当さとを以て許されねばならぬであろう。

もとより『義経記』との関係の有無を別として、『安宅』の素材に供せられた斯の種の伝説――勿論『安宅』の内容そのままではないような――が既に行われてもいたであろうとの仮定は可能である。そしてその伝説は『義経記』から出たのであったかも知れず、或は又『義経記』にも素材を与えた同祖の口碑であったかも知れない。が『安宅』がそうした安宅伝説から直接に想を構えたのであったとしても、少くとも『安宅』の作者は又『義経記』の追随者でもあり、『安宅』の成立は『義経記』の感化を除外しては考え得られないという事も否めない事実である。前章に論じたように『義経記』の製作が世阿弥以前乃至は同時代少くとも世阿弥作と伝えられる『二人静』以前であることを信ずれば、世阿弥の孫観世信光の作と言われる『安宅』が『義経記』より後のものであることは略確でなければならぬから、その影響下に在るべきは疑うを要せぬのであるけれども、この立論の憑拠は客観的な徴証に於いてなお十分でないから幾分の躊躇無きを得ない。併しこれを旁証しつつ前に立てた仮想の見解をなお一層有力ならしめる如き感が与えられるのは、『安宅』の内容を成す説話に就いて、単なる漠然たる関係以上に、その類似を、詞章の上までからすら、歴々『義経記』中に求め得るからである。即ち勧進帳読みがないだけで、東大寺勧進の山伏と名告って弁慶が富樫の館に乗込むことは同書(巻七、平泉寺御見物の事)に明らかに出ているし(而もその條の光景は『平家』『盛衰記』の文覚勧進の條に髣髴しているから、謡曲作者がその粉本を文覚の條に求める心的推移を頗る容易自然ならしめたと推断し得られる)、又打擲の件は、如意渡の條だけでなく、念種の関(舞曲『笈さがし』のねづみつきの関に当る)の
 

判官をば下種山伏に作りなし、二挺の笈を崇高に持たせ奉り、弁慶大のしもと杖につき、歩めや法師とて、しとど打ちて行きければ、関守共これを見て、何事の咎にてそれほど苛み給うと申しければ、弁慶答えけるは、これは熊野の山伏にて候が、これに候ふ山伏は、子々相伝の者にて候が、彼奴を失って候ひつるに、この程見付けて候間、如何なる咎をもあててくれうず候。誰か咎め給ふべきとて、いよいよ暇なく打ってぞ通りける。関守どもこれを見て、難なく木戸をあけてぞ通しける。(巻七、直江の津にて笈探されし事)


とあるにも恰当するではないか。扇よりも答は一段金剛杖に近接している。渡場より関所はそのまま安宅となり得る。関を越えてからの弁慶の恨み泣き、判官の慰謝、一行の感傷は、如意渡の打擲の後の
 

かくて六渡寺を越えて、奈呉の林をさして歩み給いける。武藏忘れんとすれども忘られず、走り寄りて判官の御袂に取りつきて、声をたてて泣く泣く申しけるは、いつまで君を庇い参らせんとて、現在の主を打ち奉るぞ。冥見の恐れも恐ろしや。八幡大菩薩も免し給え。あさましき世の中かなとて、さしも猛き弁慶も伏しころび泣きければ、侍共も一ところに並み居て、消え入るように泣きいたり。判官、これも人の為ならず。斯程まで果報拙き義経に、斯様に志深き面々の、行末までも如何と思えば、涙のこぼるるぞとて、御袖を濡らし給ふ。各々この御詞を聞きて、なおも袂を絞りけり。(同、如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事)


とあるそのままである。又その愁歎の場へ関守富樫が酒を携えて来て先刻の無礼を詫びるのを、「げにげにこれも心得たり。人の情の盃に、浮けて心を取らんとや。これにつきてもなおなお人に、心なくれそくれはとり、怪しめらるな面々と、弁慶に諌められ」(『安宅』)るのは、『義経記』(巻七、平泉寺御見物の事)の平泉寺で長吏が先刻管絃を所望した礼にと送った酒を、争って飲もうとする人々を弁慶が窘めて、萬一酔って本性を取乱し、「北方に今一つ申せ。亀井や片岡思ひざしせん。伊勢の三郎持ちて来よ。いで飲まん弁慶」など、口に出して大事を破ったらば何とすると制して、上下向の間禁酒の誓を立ててあるとて、そのまま送り返したのから採ったのであろう。弁慶の舞に至っては能の構成上欠くことの出来ない一要素を此処に含ませる為に、平泉寺の管絃を延年舞に替え、それに『義経記』(巻八、衣川合戦の事)の高館での「鳴るは瀧の水」の弁慶の舞を借りて来て活かしたのである。それにはこの弁慶が遊僧としての名をも伝えている事が
 

抑も遊楽体とは舞歌なり。舞歌二曲の態をなさざらん人体(にんてい)の種ならば、如何なる古人名将なりとも、遊楽の見風あるべからず。この理を能く能く案得すべし。(中略)此の如き遊士(中略)此の如き遊女、これは皆その人体何れも舞歌遊風の名望の人なれば、是等を能の根本体に作りなしたらんには、自ら遊楽の見風の大切あるべし。(『能作書』)


という世阿弥の作劇理論にも頗る都合好く合致する(但し幽霊能ではないが)のを看るのである。而も亦延年舞は修験道でも大切な十種修行作法の内でもあり、旁々頗る好適であった。そして最後に漸く「毒蛇の口をのがれたる心地して陸奥の国へと下」(『安』)つたのは、取りも直さずその平泉寺を「鰐の口をのがれたる心地して」(『義』)辛うじて通過したそれである。富樫が後から追って来たのも、平泉寺の「心ある大衆達、徒歩にてむらむら消え残る雪を踏み分けて二三町ぞ送りける」(『義』)とあるに示唆を獲たのかも知れない。勿論その酒を齎したのには、シテの男舞を導き出す予備行為になる意味が認められもするのである。即ち『安宅』の結尾の酒宴はこの舞の為に必要上案出せられた場面に過ぎず、つまり能の脚色上添加せられた部分で、説話としては殆ど意味の無いものとして、十分説明が出来、又それでよいのであるけれども、なおこの一曲を作るに当って、偶然にもこの脚色の必須要件にも恰当するような事実を、幸にも『義経記』中に見出して、それを利用したと考えても、決して不当ではないであろう。

以上のような考え方が許されるとすれば、『安宅』は恐らくその素材としては主として『義経記』を本として――世子の作劇法の基準からも撞著が無い――これに『平家』乃至『盛衰記』から借りて来た構想を按配して全説話を組成し、それに能劇としての必要の操作を施して創り上げたものと観てよいであろうと思う(『盛長私記』や「弁慶状」の採用し難い事は前に論じた通りである)。

なお同時に看過出来ないのは舞曲『富樫』及び『笈さがし』との関係である。若し仮に舞曲のこの二番が『安宅』より早い作であったとすれば、必ずや又『安宅』の創作に素材上或は詞章上に於いてまで、有力な幇助を与えたことは疑無いとせねばならぬ。それほどに両者の間には密接な関係のあることは否定し難い。勧進帳読みは『富樫』にあり、判官を打擲することは『笈さがし』(上田博士校訂本『舞の本』所収本)にある。唯富樫の館に赴くのが弁慶一人だけであるのは『義経記』に近く、ねづみつき関で弁慶が馬上から強力姿の判官を鞭打つのは、寧ろ支那伝説の痕跡が残っているようにも見られる。説話の骨子は謡・舞曲殆ど同一であり、部分的の共通点、詞章上の類似は、『義経記』と『安宅』との間隔より一段近いものがあると言ってよい(総じて謡曲よりも舞曲の方が『義経記』に近い内容を有しているが、同時に謡曲と舞曲とは又頗る親近な関係に在るようである。つまり説話内容からすれば舞曲は恰も『義経記』と謡曲との中間に位置すると看られる。此処では安宅伝説の場合を取って言っているのであるが、他の場合でも大略同様である)。一二の例を挙げると、舞曲『富樫』の
 

富樫聞いて、さて御坊は、判官殿の御内なる膝元去らずの西塔の弁慶にてはなきか。何処に候。それ山伏の名、世の常多しと申せども、判官坊・膝元去らずなどという山伏の名、今こそ聞いて候へ。富樫聞いて、さやうに才覚まはつて弁舌の明らかなるは、さて弁慶にてはなきか。武藏聞いて、才覚まはつて弁舌の明らかなるが弁慶ならば、さ宣ふ富樫殿も、才覚まはつて弁舌の明らかなるは、さて御身も弁慶よ。


の弁慶の弁才は、謡曲『安宅』の
 

何と、人が人に似たるとは、珍しからぬ仰せにて候。


と同巧異曲、又
 

武藏南都の勧めとは述べたれども、勧進帳の有らばこそ。……往来の巻物一巻候ひけるを、おつ取って差上げて、勧進帳はこれにあり……。(『富』)
もとより勧進帳は有らばこそ。笈の中より往来の巻物一巻取出し、勧進帳と名づけつつ、高らかにこそ読み上げけれ。(『安』)

さらばそれにて遊ばせ。これにて聴聞を申さん。(『富』)
勧進帳を遊ばされ候へ。これにて聴聞申さうずるにて候。(『安』)

たばかり事とは申しながらも、正しく主君の打つ杖の、天命争で免れ候ふべき。(上田博士校訂本『笈さがし』)
たとひ如何なる方便なりとも、正しき主君を打つ杖の、天罰に当らぬ事やあるべき。(『安』)


等の詩句を比較すれば、決して偶合でなく、少くともいずれかが他に摸したものである事は、何人も認めざるを得ぬであろう。但し斯うした謡ひ物類である以上、両者相互に影響し合いながら成長して行ったのでもあろうから、現存の上の詞句を通してだけでは、いずれが原であったか、又両者の書卸当時の原文がそれぞれどの程度に上の各々の詞句から遠くないものであったかを、無批判に盲断することは出来ない。或は両者の共祖的なものの存在を仮想することも不可能ではないが、同時に、又はその仮想の必要が無いほどに、確に両者が極めて密接な交渉を有っているという事だけは争えない。そして舞曲の文の方が謡曲のそれを更に通俗化したという感じも与えられぬではないが、大体の印象からすれば、少くとも形の上では、他の曲の場合と同様に、否一層著しく、舞曲――『富樫』と『笈さがし』の連続曲――を更に洗煉し緊縮したように見えるものが謡曲『安宅』である。勧進帳の文詞は双方かなり異なっているが、謡曲の方は著しく簡約せられた趣があり、殊に意識的に或部分(東大寺焼亡の事実の説明)が削除せられている如きは、必然に或形の既存したことの予想を促す(これは或は初めにはその部分があったのが、所演の都合で省かれるようになってしまったのであるかも知れぬが、そうならばその部分の詞句を含む古い形も、文献としてだけでも遺っていてもよい筈である)。又鞭で馬上から打つよりも、金剛杖を振り上げるのが如何にも山伏に相応しい。惟ふに従来行われていた安宅式の義経伝説を採集し、これを取捨按拝して、完全な一曲に創り成そうと企図せられた結果が、謡曲『安宅』になったのではなかったろうか。

なお『安宅』を殆どそのまま移承した『勧進帳』の素材は大体『安宅』と全く同じなのではあるけれども、併しそれに加えられた僅少の新しい素材とも観るべきものが無いことはない。その一は富樫と弁慶の山伏問答で、これは海老蔵(七代目団十郎)が当時評判を取っていた釈師の南窓・燕凌等の講談から採入れたと言われている。がこれも厳密に言えば、後に説く如く、この問答の一部には謡曲『安宅』の最後の勤の祈りの詞句を切断してその資料に用いてあり、他の部分はそれに関連した修験道の来由と九字真言の神秘の解明で、これだけが謡曲に無いというだけ――それすら『成長私記』には既に「役行者より五代の立義を尋問」などと「問答せさせ」たと出ている――である。もとより「問答」は能の術語でもあり、関守との問答は又『安宅』の曲を構成している大切な部分の一でもある。又内容は違うが関守や長吏と弁慶或は判官との問答の事実は『義経記』(巻七)の荒乳の三の口関・平泉寺・如意渡・直江の津等随所に繰返され、平泉寺では「大衆に問答の間」、直江の津では「判官問答し給ひけるは」と、「問答」という語すら用いられて居り、平泉寺の際は特に山伏の出身・姓名、少人の姓名・学問等に就いての問答もある。歌舞伎乃至その粉本たる講釈の全然の創意から出たというほどでもないのである。

〔補〕昭和五年一月号「歌舞伎」所載「歌舞伎十八番の勧進帳になるまで」と題する関根正直博士の所論中、『源平盛衰記』と同名の貸本屋物の十二巻本の写本になっている通俗義経一代記があるとし、
 

扨同書巻十二の中に「義経主従如意の渡を越ゆる事並びに山伏問答の事」という一章があって、平権頭が山伏を船にのせ、弁慶と問答する事になっている。問答の詞は悉(すっかり)皆芝居ですると同様である。櫻田はこれを捉えて、富樫との問答に引き直し、安宅の関へ取り入れて云々


と説いて、山伏問答の出処として紹介してある(上の文中の「櫻田」は「並木」の記憶違いであろう)。が惜しい事にこの写本が『勧進帳』初演の天保十一年三月よりも以前の物であるという事についての何等の明証も示されていない。『北窓瑣談』に『太閤真顕記』の事を論じてある一節を引用して、

 
此の俗本『盛衰記』も、恐らくは同じ類であろう。


と簡単に同類視去つてあるだけである。この種の実録風の通俗貸本小説は他にも多数あり、作られた年代も区々であるべきであるから、この『盛衰記』が『真顕記』と同類の作ではあっても、必ずしもそれが同時代の作であるという事までは意味した事にはならない筈で、もっと確実な外証が無い限り、これが直に『勧進帳』の山伏問答の原拠であると断定するに足る絶対の資料にはなり得ない。若し天保十一年以後の作ででもあるなら、却つて反対に『勧進帳』のそれをそのまま採入れることも、寧ろ自然ですらある。

而も尚一の疑問が懸け得られるのは実録体の義経一代記である『義経勲功図会』(安政の末年に成った事が序文で知られる)の内容が上の関根博士所引の『源平盛衰記』に余りによく一致し過ぎることである。これは前後二編各五巻であるが、写本で通して十二巻の本もあっても不思議ではない。その『盛衰記』という物を触目したことが無いので、対較出来ないが、「この如意渡の條だけで観れば、後編巻五の「弁慶於如意渡擲杉目條」という段がそれで、判官に似た杉目行信を打擲するのであるが、打ってから後、渡船の中で渡守平権頭が弁慶と山伏問答をするので、その問答の詞句は全然『勧進帳』の通りであり、『盛衰記』の内容として指摘してある前掲の記述と全く合致する。又この書全体の内容も
 

『義経記』や謡曲『安宅』などを取って配列し、


と関根博士に説明されている『盛衰記』と同様であり、而も
 

「義経蝦夷渡海の事」を以て終結する。


という結末まで完全に一致しているのである。両書の親近さは否定出来ない。或は同一書の写本の失われた表題に、何人かによって、さかしらに『源平盛衰記』の題号が附せられたりなどしたものではあるまいかとすら、臆測したくなるのである。その題号の不適切な理由もこれで解決出来るのではなかろうか。『勲功図会』一名『檜本義経勲功記』が貸本小説たる事に於いても全く撞著する所は無い。

なおこの『勲功図会』には如意渡の條の前章として巻四の終に「弁慶安宅読勧進帳條」があって、勧進帳読みと、やはり判官――これは正真の判官である――打擲がある。そして同條の富樫が「判官にてもなき人を、狐疑えばこそ斯く折檻し給へ。今は疑念晴れ候。疾く疾く連れて通り給え」という詞は、又『勧進帳』の富樫の白そのままである。少くともこの『勲功図会』は『勧進帳』以後の物で、而も全く一致した詞句である以上、明らかにそれから採ったと断じてよいであろう。渡守との山伏問答というのも創案としては少し唐突の感がある。『義経記』を踏襲して如意渡の打擲を語る以上、安宅関に山伏問答を残さずして、本拠たるこの件に還元し、芝居と故意に違えた形にして、実録らしさを示そうとするのは、斯の種作者の慣用手段でもあり、渡船の間としたのが思いつきのつもりなのかも知れない。而も関守との息詰まる対決的問答であってこそ面白いので、事件落着後の船中対話では平坦な説法に堕してしまった。況や問いつめられてでもなく、ついでに所望された質問に、大先達が軽々しく、九字の深秘を細々と喋ったり、『軍林宝鑑』『抱朴子』その他の諸書にあると、その出典の種明しをするなど滑稽で、「この問答の間に船著きければ」という一句も、愈々『勧進帳』劇からの移入の種明しをこの書自らしているようにも見える。
 

然らばそれと余りに酷似している所謂『盛衰記』が『勧進帳』劇に粉本を与えたとする関根説は、なお、決定的な支持を得るにはもっと有力な理拠が要求せられねばならぬ事になるであろう。我等の遽に賛同するに躊躇を感ずる所以である。但し山伏問答が講釈から来たのが真とすれば、実録風読物が又講釈の種本であることも屡々あり、或は講釈本が転写されて貸本小説となることもあるしするから、そして源平に関する講釈を漫然『源平盛衰記』という外題で釈師が読むということもありそうな事であるから、関根博士所見の『盛衰記』もそう言った意味のものであるのかも知れず、若しそうならばその意味で首肯出来るが、併し前掲の文によれば如意渡での事として記されていることは確であるから、少くとも南窓等の読んだ安宅の山伏問答の直接の種本ではなかったのであろうと推定してもいいのではあるまいか。同書の原をなした本が別にあって(『勲功記』なり或は他の本なり何でもよい)、南窓等の種本が其処から材を仰いだ事はあるかも知れぬが、所謂『盛衰記』はやはり『勲功図会』系の物で、この問題を解決するに足る特殊資料としての価値は案外少いのではなかろうかと思われる。


それからその二は

士卒が運ぶ廣台に、白綾袴一重、加賀絹数多取揃え、御前へこそは直しけれ。
とある富樫が勧進の施主につく件で、それを奉謝しながら弁慶が
重ねて申す事の候。猶我々は近國を勧進し、卯月半ばに上るべし。それまでは嵩高の品々御預け申す。


と何くわぬ顔で言って、沙金の袋だけ受取るのであるが、これは謡曲を飛越えて、『義経記』(第七、平泉寺御見物の事)の富樫の館で、讃岐の阿闍梨と名告って単身乗込んだ弁慶が勧進をと乞うと、
 

富樫、よくこそ御出で候へ。加賀の上品五十匹、女房の方より罪障懺悔の為にとて、白袴一腰、八花形に鋳たる鏡、さては家子・郎党・女房達・下女にいたるまで、思い思いに勧進に入り、総じて冥帳につく百五十人、勧進の物は只今賜るべく候へども、来月中旬に上り候はんずれば、その時賜り候はんとて、預け置きてぞ出でにける。
とあるから来ている。その三は打擲の後、関守と山伏と互に詰寄るのを留めて弁慶が
まだこの上にも御疑の候はば、あの強力め、荷物の布施物諸共に、御預け申す。如何やうとも糺明あれ。
と言い放つのは、これも同巻(三の口関通り給う事)の三の口関で、判官の真偽を決しかねた関の者が関東へ使を差立てて指図を仰ぐ間、一行を留めて置こうと言うのを、弁慶却って、これこそ金剛童子の御計らい、御使上下向の間心安く休息して下ろうと、悠然として人々と共に関屋の内に腰を下す不敵さを換骨奪胎したのであろう。その四は「ついに泣かぬ弁慶も、一期の涙ぞ殊勝なる」の件、その五は「一度まみえし女さへ」の件、いずれも既に説いたような弁慶に関する伝説を採って来たのである。その他勧進帳の文言に必要な一句を加えたり、延年舞の段に「萬歳ましませ云々」の今様がかったものを添えたりしているのが謡曲に無い所であるが、これらは説話としての素材上の改変というほどではない。なお海老蔵は浄瑠璃の『番場忠太紅梅箙』からも暗示を得たと伝えられるが、これも素材的には大きな影響は無いと言ってよかろう。要するに『安宅』が歌舞伎に移されるに際して、補足に用いられた素材上の資料が観客たる大衆に親しい講釈種や俗伝と共にやはり『義経記』に覚められたのは、いずれもそれぞれの意味に於いて、同様に自然ではあるが注意せらるべき事たるを失わぬ。

 

第二節  脚色上からの考察

世阿弥は『能作書』の中で能の作劇法に関して、
 

一に能の種を知る事、二に能を作る事、三に能を書く事なり。


と、種・作・書の三道を説いている。即ち一番の能を新作するに、その創作過程として、素材・脚色(構想)・詞章(表現)の三段階を必要とするという意味である。従ってこの三方面は能の脚本が成立する為の必須の三要素であると同時に、その脚本としての能を分析し論究する場合の大切な三つの観点でもなければならない。そして又それは他のすべての文学作品の創作並びに批評に関しての場合に就いても、齊しく言われ得る事である。そこで前節に種の側から考察したのに続いて、上の順序に随って今度は作即ち脚色の側から『安宅』と『勧進帳』とを検べてみる。

さて素材を安宅伝説に採った謡曲作者は、如何にそれを脚色したか、又その脚色を立てるにどんな用意をしているか。先ず武勇伝説たる本説を有する種を能に組立てるに二様の方法がある。一は二段組織(複式)にした二番目物の幽霊能で、即ち修羅物に作るのである。同じ義経伝説に例を取れば『八島』がその典型であろう。今一は(い)一段組織(単式)の四番目物、即ち現在物に作るのである。『摂待』がその例であるが、『吉野静』のように、ワキに忠信があっても、シテが女性である為、三番目物とせられている物でも、構成から言えばこの部類に属すべきであるから、屡々所謂略四番目としての取扱を受けるのも当然と言える(反対に『摂待』が略三番目物とせられているのも、老女がシテであるからで、これと逆の意味がある)。さなくば(ろ)――主に鬼畜怨霊等が主役である場合は――複式の五番目物即ち鬼畜物に作るのであるが、これは准幽霊能であると共に、その登場人物中に超人間が含まれてはいるけれども、現実世界で人間と交渉行動するのであるから、言わば現在物の変種でもあり、つまり幽霊能と純現在物との中間に在る性質のものと言える。組織の方からも前後シテが「入り替る」複式になっている点と、本態としては直面(ひためん)物でない点とに於いて、幽霊能と似ている。この部類の物では『船弁慶』『鞍馬天狗』が好い例であろう(中には素材からは明らかに四番目物と言ってもよいが、シテが前後別で且後シテが直面でない『烏帽子折』のようなのもあり、又二番目と同類で略二番目に用いられる『熊坂』のような曲もあるが)。

『安宅』は上の二種乃至三種の様式の中で、純五番目でもなく、又幽霊能でも無い代りに、現在男物として純四番目物の典型である(略二番目或は略五番目の取扱をも浮けている)。安宅伝説を能劇化するに、その種が鬼畜物では勿論無いし、修羅物としての適材でもないから、やはり現在物として構成せられるのが、最も自然でもあり当を得たものとすべきで、否、そうしたればこそ安宅伝説は最もよく作り活かされたと言わねばならない。なおもっと詳細に考察してみると、この曲は先ず場面からすれば、関所通過前、関所、関所通過後の三場面に自ら分たれ得る。併し第一の場面はその重要さに於いて後二場面ほどでなく、特に能としては第二の場面に連続包含させて、第三の場面と二大段に区分して差支無い。中入を隔てとしての前後シテの入り替りこそ無いが、斯うした単式能でも、長い曲になるとやはり自然二段式の形に近い形を取るのは、寧ろ必然の状勢であろう。現に四番目の現在物でも、中入によって前後別個の場面を区分している物が多い。『橋弁慶』『正尊』『錦戸』の如きはその例で、判官物以外では『鈴木』『夜討曽我』などそれである。そしてこれらは後場ではシテが装束を改めて出る場合が多いから、本格の複式能に准ずる物と言ってよく、幽霊能をその本格の複式能とすれば、構成の上では二段組織から一段組織への変移の順位は
 

複式
(1)純複式  幽霊能――八島(修羅物)・東北(鬘物)
(2)准純複式 脇能―――高砂
(3)複式   鬼畜物――紅葉狩
(4)准複式  中入を含む四番目物――鉢木

単式
(5)准准複式 中入を含まぬ准二段組織の四番目物――安宅
(6)単式   一段組織の四番目物――小袖曽我(現在男物)・百萬(狂女物)・切の半能
(7)純単式  祝言能――枕慈童(四番目物)・猩々(五番目物)・脇の半能


と観ることが出来よう(これは勿論各種様式の発達の順序とは必ずしも一致せぬ)。即ち『安宅』は単式能ではあるが複式能に接近している構成を有している。中入を含まぬけれども二段組織に近いと言うのは、単なる二場面という程度でなく、関を通過してから、ワキが太刀持と共に後座の囃子座の後へ入って休息する――これは脇座を子方の判官に譲る為でもあるが――ので、前場と全然異なった場所である感じを一段明確にし但し中入はせず、従って装束も改めないので純粋の二段組織ではない特殊の形式であるから、准複式に又准ずると観たのである。

歌舞伎の方では此処の件では関守が一寸愁ひの思入れをして(羽左衛門のように頭を上向に上げる科にかなり誇張した表情で、目立って涙を払うようなこなしをし過ぎる人もある)から、太刀持以下を引連れて臆病口から一旦消えるので、明白に二場面だという事が示される。これは歌舞伎としては当然の行き方で、能の後座にワキがくつろぐのと意味は全く同じである。そして別の場のつもりではあっても、舞台面は変わらぬのはやはり能をそのまま移承している結果である。更に最後に幕を引いてから花道の引込が附いているのは、新場面というほどではないけれども、弁慶の独舞台で、而も重要な見せ場であるから、一の新しい場面に准ずるような部分が添加されたと観ることは出来る。そして能にはそういうものはあり得ない蛇足であるが、歌舞伎としてはその独特の機能を甚だ有効にここへ持ち込んで活用したので、確に『勧進帳』劇としての手柄の一である。

次には登場人物であるが、能ではシテが弁慶、子方が判官、ツレが山伏、それに強力(狂言)を合わせて十二人が正式で、時により又流儀によりツレの数が減ぜられる場合もある。ワキは富樫、それに狂言の太刀持が附いて、番士を代表している。総計十四人の人物である。右の中強力は間狂言の中でも習間と称する重い役で、仕処も相当ある必須の一員である。それが歌舞伎では全然省略し去られて、代わりに富樫の方に太刀持の他に番卒が三人増されてい、而もこれが「四天王は獲易く、番卒は獲難し」と言われるほど難しいとせられている役で、この点恰も能の剛力の位置が移されたという趣がある(なお太刀持は初演の時は無かったのをば、九代目が四度目の上演の時以来、能に倣って加えて今日に至っている)。更に義経(勿論これは子役ではない。即ち子方から成人へ引戻されたのである。但し科白は幾分は加えられているが猶能の子方と甚だしく大きな間隔は無い)・弁慶の他の同行九人が四天王に減少している。四天王の名は時によって不同で、且例の亀井・片岡・伊勢・駿河ではなくて、その中の一人が常陸坊海尊に代えられているのが普通のようである。それは四人の一を老役にして、見た目の変化を求める用意からである(もと亀井・片岡・伊勢・駿河の四天王に更に常陸坊が加わって五人出たこともあるのが今の形になったのらしい)。兎も角萬事象徴的で番衆の大勢をすら太刀持ち一人に凝縮させている能の方が、山伏の一行だけは謡曲詞章の通り十二人の頭数に合わせているのに対し、能より遙に写実的な歌舞伎がこの点だけ能の御株を奪っているのは妙な皮肉な対照である。併しそれは一には四天王という、より民衆に親しい名称を捉えて来た機転と、一にはそれによって、動もすれば多人数過ぎて騒々しくなりがちな能の欠陥から免れようとした賢明な企と解してよいと思う(梅幸・幸四郎の一座で地方巡業をした際、十八番物の許しを市川宗家に乞ふ煩を避けて、わざと本行通り十二人の山伏を出して、『勧進帳』を演じた事がある由を、梅幸丈から聞いたことがある。珍しい『勧進帳』であったろうが、歌舞伎の独特味は消されるわけである)。即ち歌舞伎では登場人物は総計十一人、番卒を殖しても猶能よりは三人減である。

次に事件の進行上から観て、勧進帳読みと打擲が全曲のヤマであること、述懐愁歎の件が謡曲ではクセの含まれている部分で重要な箇所であり、歌舞伎でも長唄地のシンミリした抒情詩的な場面であること、及び最後の延年舞の件が大切な一齣であること、これは能と歌舞伎とに共通している。歌舞伎にはこの他、能に於いてよりもっと長くもっと緊張した問答と、六法の引込とが添加せられている。この両者の脚色上の異同と効果とについて今少しく詳論してみたい。

謡曲『安宅』の構成組織をば、世阿弥が『能作書』に説いている所謂序破急の三部五段論に照して分解してみると、

(1)先ずワキの富樫が登場して直に名告があり、狂言方に命じて関所の警固を命ずる。これが序一段である。

本格的の作ならば
 

開口人出でて、さし声より、次第、一歌まで一段。


とある通りでなければならぬのを、サシ・次第・一歌すべてを欠き、次第の次に来るべき名告だけが用いられている。

○歌舞伎も全くこれと同じである。富樫が出るのも下手の橋掛り(但し揚幕があるだけである)からである。
 

(2)次にシテ以下十二人の出で、次第・サシ・(上歌)・下歌・上歌、それから道行があって、「御急ぎ候程に」の著ゼリフの次に関前の談合があって、終って関へかかる。これが破一段である。

世阿弥が

さて為手の出でて、一声より一歌まで一段。
 
と言っている段であるが、その本格には随はずに、次第で出て(次の歌の部分が長く、下歌の前にも上歌がある)、道行・著ゼリフとなるのであるから、即ち常型ならばワキの引受くべき任務をシテ及びツレが奪った形である(而もこの能では狂言の次第まで附加せられている)。代わりに前段に欠けている要素が此処で補われている。著ゼリフの件もワキが簡略な詞を述べるだけで、直に脇座にくつろぐのと違って、ツレとの相当大切な対話を含む比較的長い或特殊の場面を展開し、且強力が活躍させられる。即ち先達の命で関所の偵察に赴くので、兜巾を脱いで隠し、橋掛りへ行いて望見してから、復命して
山伏は貝吹いてこそ逃げにけれ誰れ追いかけて阿毘羅吽欠(あびらうんけん)


と狂歌を一首連ねた由などを物語るのである。これは実はその間に、前に強力の背から外させた笈や笠・杖等を、子方の判官に著けさせて、強力姿に窶させる支度をする為の用意である。この強力が間狂言として重い役である事は前に述べた通りであるが、宝生・観世・金剛等では貝立の小書附の時は、一行関へ向はうと出立つ時、貝を吹く真似をすることになっている。又この役は

旅の衣は篠懸の篠懸の、露けき袖やしをるらん。
の次第の次に
おれが衣は篠懸の、破れて事や欠きぬらん。


と謡う。即ち狂言次第である。而もこの詞句が余りよい句でなく、全曲緊張した真面目な『安宅』の能には相応はしくない程、滑稽な句であるから、余程名人の狂言方でないと、屡々能全体の気分を壊る惧れがある。狂言としては重く一役立ててある為からであろうが、能としての全曲からは、冷静公平に観て、これだけは決して必須の部分とは言えないのみか、失敗すれば全曲を破懐し去る危険の十分に含まれている蛇足である。物見をする替間の方は全体の能として必須でもあり、自然でもあり、又狂言方の仕処でもあり、名手ならば、全曲を一段面白く活かし得る大切な箇所である。

○歌舞伎は大体は同じであるが、稍違っている。能では揚幕から子方・シテ・ツレ・狂言の順序で登場して舞台で二行に並んで向き合ひで次第を謡うのに対して、歌舞伎では、「旅の衣は」からずっと道行体の文詞を長唄地で歌わせて、花道の揚幕から判官・四天王と順々に出て花道に居並び、最後に弁慶が出る。これは『五人男』の勢揃の出などと同型で、能に観られない歌舞伎独特の形式で、『安宅』の能を歌舞伎化するに当っての成功した用意の一である。此処でも写実的であるべき歌舞伎の方が、却つて先達を後から出して、舞台効果を第一としたのが興味深い。殊に判官が真先へ出るのは恰も弁天小僧に当り、座頭役の日本駄右衛門が殿に貫録を見せて出るに相応じて、それよりももっと観衆に異常の待望した緊張感を持たせて、舞台を圧するような堂々たる弁慶の雄姿が現れるのは、真に快絶である。能の二行に並んでの連吟も、形も珍しく気分もよくて、亦捨て難い。唯歌の部分が長く、而も大体立ったままで動きが少いから、謡が旨くないと単調になって弛れる惧れが多分にある。華やかで変化の多い長唄(ここの道行の音曲が頗る佳い。又その唄い出しには謡の節を採入れて、原の面影を残すと同時に、荘重さを以て始めようとしたのは、珍しい工夫ではないが賛成の出来る作曲の仕方ではある)に道行の説明をさせて、一人ずつ歩いて出る歌舞伎の方が見た目には得をしている。これはそれぞれの特異の行き方を競演している形でいずれも面白い。

関前の評議まで花道で済ませるのは、これ亦歌舞伎がその本色を発揮している点で、『安宅』の歌舞伎化に於いての当然且自然な考案であろう(弁慶役者の幸四郎が帝劇の『歌舞伎研究会』で初演してからも後も屡々出す『七騎落』――これも能からの移植であるが――の頼朝主従の出に花道を使い、此処に談合するのは、全然『勧進帳』のこの件の摸倣で、義経が頼朝に、弁慶が実平に変って、而も共にそれより心持軽くなったという気味に見える。今一工夫あってよかったのではないかという気がする)。

強力は居ないから、判官は最初から強力姿で出る。というよりは最初から強力姿で出るから、強力は要らないという方が適当かも知れない。強力を省く為には、それは必然適応の処置でなければならなかった。
 

それ故にこそ兜巾・篠懸をのけられ、笈を御肩に参らせ、君を強力に仕立て候。兎にも角にも某へ御任せあって……


と弁慶の白にもそれが説明せられている。花道で強力姿に改装するのは拙策でもあるし、狂言のつなぎを歌舞伎では必ずしも要せぬから、思い切って強力を省略したのは、花道を活かす建前からは確に賢明であった。その代り能の替間の面白さは全く見られなくなってしまった。なお強力を見せぬので、原謡曲に於いて、狂言方によって時々醸し出されるユーモラスな雰囲気が欠ける事になるのを、酒宴になってからの弁慶を中心に番卒との滑稽な科で補ったのは、これも行き届いた注意である。

花道の評議が終って一同本舞台の関所へかかる所は、歌舞伎は平凡である。能の方では此処に相当力が入れてあり、「げにやくれないは、園生に植えても隠れなし」と、やがて見顕しの予示と同時に、弁慶の深策に主従頼みを掛けつつも、互に感懐と不安とに包まれながら、虎口に臨む。子方も此処で謡ふし、
 

よろよろとして歩み給う、御有様ぞ痛わしき。


という地謡の初同も含まれている。此処の沈痛の気分はやはり能でなくては味へないものがある。この件は確に能の勝である。

(3)次に関へかかつてワキとの問答、固く通行を拒まれて決意しての最後の勤、続いて所望せられての勧進帳読上げ、終って通行を許されてから強力姿の判官を見咎められての打擲、通過。これが破二段である。

『能作書』の

その後開口人と問答ありて、同音一謡一段。


とあるに相当する部分である。問答からワキと掛合になり、それから地謡がそれを取るのが本格的であるが、初同は既に前段にある。掛合になる前に祝詞(最後の勤)と読物(勧進帳)があって複雑になって居り、勧進帳の終ったところでワキが謡って地謡に取らせるから、辛うじて一寸形だけ、本格に倣っていると言える。問答は太刀持まで加わって、一問一答寸分の隙間なく書かれている。最後の勤は亦凛然厳粛身の毛もよだつ。「勧進帳」はもとより三読物の随一で重習になっている全曲中での聴き所、従って最も難しいのは言うまでもない。ツレと連吟が常型で、小書附の時だけシテの独吟である。理屈から言ってと、シテの役栄えから言ってなら、その方が当然であろうが、能の本質から言えば、連吟の方が元来の形に近いのであろうと思われる。但し近時は全く小書附の方が常型のようになってしまった。代りに前のノットの所と重複するような印象からは勿論救われる。読み方は流儀によって少異がある。

これで一段が終ってもよいのに、更に次に見顕しから打擲が加えられて愈々複雑化せられている。一旦橋掛りへ行った一同が、その最尾に随う強力姿の判官を、太刀持の知らせで見咎めてワキが抑止したのにハッとして立戻るのを、制してシテは又此処でワキとの問答になり、金剛杖を振上げての打擲という要所、続いてシテの後から二行に詰め寄るツレとワキとの対立と、観衆が固唾を呑んで漸層的に緊張の度を昂めて行く場面の連続である。即ちこれだけで又一段に准ずるとしても差支無い程重要な一段である。
 

若しくは本説の体分によりて、六段ある事もあるべし。


と世阿は言っているから、これを変則に破三段と観て、次を破四段と観ることも或は可能であろうが、前の問答の延長と観て、やはり二段と観る方がよいのであろう。次の段が破三段の正しい内容を具えている点からも、そう観るべきであろう。

○歌舞伎も大体同様で小異がある。問答には太刀持は白がなく、代りに三人の番卒が富を助けて山伏を拒む。そしてその白は大略能のワキの詞の一部と太刀持の詞とを番卒が割白で分担している。此処は能の方が引締って居り、詞もよい。最後の勤のノットは、能ではシテを前列中央にツレが左右二行に並ぶか雁行するかであるが、歌舞伎では四天王が東西南北の四大明王の心であろう、二人宛並んで、その中央に不動明王に象ったと観られる弁慶を囲んで祈るのは思いつきで、形も面白い。唯そのノットの文句が後に山伏問答をするのに用いる為、大部分カットされていて貧弱で、これは能に比べて見劣りがする。況やそのカットされた部分のそれによって払うべき犠牲を補償する用意を欠いて、「それ山伏といつぱ、役の優婆塞の行儀を受け」から一躍「即身即仏の本体を」に飛んでいるのは全く乱暴で、度し難い(これは時節に論ずべきであるが、説明の便宜上触れてみたのである)。

次に勧進帳読みは能と同様に要所で難しい。勿論弁慶の大切な仕処で、能で小書附が近時常型となったのは、一はこの芝居の方の効果多い形に引きつけられたのであろう。この件の富樫との交渉も能は静的で歌舞伎は動的である。「それつらつらおもんみれば」と読み始める所で、

ト富樫、勧進帳を差覗く。弁慶は見せじと隠す。
と『勧進帳』のト書にあり、演技でも両人の気味合が面白く、又読み終ると、
ト巻物を納め、キッと見得。
とあって、不動の見得をする所である(この不動の形にきまる型は九代目団十郎の創案であるという)。面白い事には幸若舞曲の『富樫』に
 
武藏、この勧進帳を高く持って読むならば、後なる人に読まれうず、又低く持って読むならば、前なる富樫にそれはと言われ悪しかりなんと思い、六尺二分の弁慶が、七尺ゆたかに伸び上り、白打出の笠を頭かうに(『大鏡』に「笠頭光に奉りて」とあるそれで、阿弥陀にかぶる意か。でなくば「頭高」であろう)きつと著なして、字ならば二くだり三くだり、そっと開いて双眼に押当てて、何とは知らねども、敬白と上げたりけり。


又それを読み終った所に

南無帰命稽と読み上げ、くるくると引ん巻いて、もとの笈へ投げ入れたる武藏坊が有様、人間の業でなかりけり。
とある。これから直接来たか如何かは保証の限りでないが、舞曲は浄瑠璃・歌舞伎には関係が深いから、間接には影響しているかも知れない。少くともこの舞曲の方が能よりは一段芝居がかっていて、『勧進帳』への進展を暗示しているように見える。能の方はワキは少し体を乗り出して終始熱心に聴耳を立てているだけであるが、それも亦不自然さが少くていい感じである。各流のシテに附合ふのを観る度に、宝生新氏の心持耳を傾けて聴き入っている姿の、何とも言えぬ旨さにいつも牽きつけられて、忘れ得ない印象を度毎に新にしては更に深める。

勧進帳読みが済むと、歌舞伎では富樫の

勧進帳聴聞の上は、疑あるべからず。さりながら事のついでに問い申さん……


で、山伏問答になる。「事のついでに問い申さん」は如何にも苦しい説明であるが、全くこの問答は無理に取って附けた感じは蔽えない。併し舞台効果は十二分以上で、又不動の形をしたり、九字の真言の件があったり、それに富樫との詰開きが、一問一答毎に緊張躍動を増して行って、一呼一吸、全く「阿吽」の気勢、これ亦歌舞伎独特の成功した脚色である(森鴎外の『日蓮聖人辻説法』の日蓮と進士太郎善春の問答は、この『勧進帳』の問答を粉本としたのだと思う)。ノットの「その身は不動明王の尊容を象り」以下を、此処へ割って持込んだのも失敗ではないどころか、頗る効果を挙げている。脚色効果だけからならば、前でこれをカットした不自然さと、そのカットの仕方の不手際さを、相殺して余りがあると言ってよいほどである(それが為、前の拙劣な部分が光って来るというほどのわけには無論いかぬが)。能でも金剛流には「問答」の小書があり、これは勧進帳の前、ノットの次に山伏問答があるので、その詞句はやはりノットの一部がカットされて此処へ移されているのであるが、ノットの部分は「不動明王の尊容を象り」から「出で入る息には阿吽の」と続くので、詞章上の無理は歌舞伎のほどではなく、幾分緩和されてはいる。併しこれはやはり歌舞伎の影響を受けての新工夫なのではあるまいか。少くとも能の本格とは言えまい。芝居がかった悪趣味であろう。やはりこの小書附でない方がよいと思う。萬一旧くから斯うした演出があったとすれば、歌舞伎の方は素材上のみならず同時に脚色上にも独創さの主張権が余程縮少されねばならない事になる。

なおこの問答は富樫に扮する俳優によって行き方が違うとせられて居り、弁慶も亦それに応じて態度が自然変らねばならぬ。即ち先代以来高島家は喫み合う意気込で行くので、弁慶もこれに反撥的に突っかかるようになる。これに対して助高家・音羽家は勿論意気込は十分でなければならぬが、何処までも問答の心持を失わぬようにという心構で、従って弁慶も沈毅自若として応答する。これは能で(問答――勿論勧進帳の前の――だけでなく全体としてであるが)観世・宝生等、無論芝居のようではないが、いずれもシテがワキへ迫って行こうとする気組が著しいのに、金春流だけは温和な傾向がある(〔補〕最近朝日講堂で観た桜間金太郎氏のも落著き過ぎた程であった)のと対比して興味がなくはない。但し劇的効果、少くとも大衆を湧き立たせるには、高島家式に限る。その意味で故人段四郎と現左団次との組合せは、真に勇壮活溌であった。上品さと寸の足りないのを満身の気魄と芝居上手とで補って余りある沢潟家の弁慶が、形と調子とでは、ともすれば威圧されそうになる高島家の富樫に、撥ね返る弾力を以て全躯を投げつけるように肉薄して行く工合は、文字通りの龍攘虎摶であった。「阿吽の二字」の邊は勿論、それよりも問答の初めからもう殺気立って、場ちがいをも構わず、「台蔵金剛の功徳を籠めり」から一気に畳み込んで「釈尊いまだ」まで続けて、それを張って言い切っての躍り上るような意気軒昂の姿など未だに眼に残っている。音羽家式のでは羽左衛門も本役で申分ないが、女形だのに梅幸の形と気品がよかった事を記憶する。それは鬘物を得意とする宝生の松本長氏の弁慶が野口政吉(兼資)氏とは別な味で、なかなか観られたのと好い対照である(〔補〕近時では幸四郎の弁慶に附合った六代目初役の富樫が予想以上にいいと思った)。左団次の富樫も愈々ヒレが附いて立派になって来ている。幸四郎の弁慶に至っては愈々完璧に近いものとなった。「何と、勧進帳を読めと仰せ候な」の「読め」に変な強調(エムファシス)を置いた耳障りな言い方なども近頃は余りなくなったようである。時々歌舞伎味を裏切るような例の調子癖と、サラリ過ぎて或は極端な非現実の御芝居を努めて避けようとする心構からか科白共に却って連続進展して行く抒情詩味――それは地方と、否対手の富樫すらもが一層濃さを増させるように助長しつつあるのに――を截断する瞬間が動もすれば出来そうになる微瑕を除けば、天与の柄はもとより第一、意気も声量も所作も申分なく、故人には師匠の九代目や、宝生九郎・梅若実の諸名人があろうが、当代では能・歌舞伎界を通じての自他共に許す弁慶役者の名に背かぬ。或意味では史上及び伝説上の弁慶以上の弁慶かも知れない。私は能の新氏の富樫と、歌舞伎の高麗家の弁慶とを安宅劇の双絶と推したい。

次に歌舞伎では富樫が勧進につくことがある。即ち能では勧進帳読みに威圧せられて、つまり「関の人々肝を消し、恐れをなして通しけり」であるが、歌舞伎では勧進帳聴聞の上は疑が晴れたが、猶念の為と山伏問答を試み、響の物に応ずるが如き弁慶の雄弁に悉皆感服して、
 

斯く尊き客僧を、暫時も疑い申せしは、眼あって無きが如き我が不念、今より某勧進の施主につかん。


と布施するのである。歌舞伎の方が理知的で現実的で合理的である。併し能の子理屈なしに「肝を消し」と誇張された気分も非常に快い。山伏問答の劇的対抗という演劇としての重要構成素さへ姑く問題にせずにならば、能の方が遙に勝っている――勧進帳の読み上げを意味あらしめる為にも、引立たせて効果あらしめる為にも。が一方からは、山伏問答の後括りという意味を離れても、上の行き方が歌舞伎らしくはある。

呼止めと打擲は略両者同様。素袍の肩を刎ねて太刀を抜き掛けながら、
 

如何にそれなる(能では「これなる」。又喜多流では単に「如何に強力」)強力留まれとこそ。


と呼止める所が、歌舞伎の富樫は周章し過ぎて調子と形が壊れる人が多いが、此処でも能の新氏がいつも旨いと感心させられる。但し能の方は直垂であるから、呼止めながら右の長袴をパッと前に蹴出す歌舞伎のように派手ではない。

打擲の後の「方々は何故に」から「勇みかかれる有様は」の押合の件は、能はツレが二行になってピッタリ一団に固まって、シテの制止線を突破しようといった意気組で、その背後からグングン目白押に押合いつつ、ワキ方に対立する形が歌舞伎とは又変って勇ましい。唯人数の多いのが歌舞伎に勝って効果が出せる代りに、それが又累となって、統制が取れにくく、唯ドヤドヤとした雑沓感を与えてしまう危惧が附き纏う。歌舞伎は同行の数の少いのは淋しいが、その為に却って一方は金剛杖を一文字に持った弁慶の後に刀を抜きかけた四人、一方はやはり刀に手をかけた富樫を先に番卒・太刀持の四人が、各同数で舞台に丁度封偶的(シムメトリカル)になって、互にジリジリと詰め寄り又押返す息詰まる場面は、形も美しい動く絵であり、働きも勇ましい無声の詩であり、全く言語に絶する壮観を現出する。
                                                                                  

歌舞伎ではこの次にまだこの上に疑あらば強力を預けるか、それとも、「御疑念晴らし、打ち殺し見せ申さんや」と、弁慶が又も杖を振りかぶって駄目を押すのを、富樫がそれは余りに荒けないと止めながら、弁慶の衷情に感動して疑念全く晴れたと明言し、通行を許して退場するが、能では誤解の無礼を詫びて疾く疾くと関を越えさせるだけである。この点歌舞伎は確に所謂御芝居をしている。同時に富樫を適役にする事から救って、これにも花を持たせるのである。
 

(4)次に関を遠く離れてからの休息、主従の述懐感傷で、クリ・サシ・クセと謡曲の中心を成す部分となる。これが破三段である。

即ち世子が

その後また曲舞にてもあれ、只謡にてもあれ、一音曲一段。
と言っている段に当る。クリ・サシを具えている所謂本グセであるが居グセで、舞は無い。シテの熱涙はもとより、子方も此処ではサシを謡い、シテとの君臣の情愛に観衆の胸を打つ。舞台の全員も
夢のさめたる心地して、互に面を合わせつつ、泣くばかりなる有様かな。
と皆シヲルのである。

○歌舞伎も大略同様だが違いもある。能では脇座に子方が腰桶に掛け、それからツレが順々に大小前まで居並び、シテは中央に坐る(これは関にかかる前の談合の時と同じ形である)に対し、歌舞伎でも関守が退場した後、改めて判官を上手前寄りの上座に直し、弁慶自身は下手にすまひ、四天王は正面奥に居並ぶ。唯判官は腰桶は用いない。これは却って富樫が用い、且後にはその蓋を弁慶が飲む大盃に使用するのは、歌舞伎の施した換骨奪胎の妙手法である。判官も歌舞伎の方でも一番大切な仕処のある箇所で、殊に「判官御手」の件が容易そうで至難とせられている。一体この判官は能の子方から来ているから動きも科も亦白も少く、長丁場をじっとしたまま、品一方で持ちこたえねばならぬ上に、子方でない成人の義経という心持もかなり加えられて、その品位に威厳と優美と可憐と情味をも具えていねばならない難役である。人柄になければ頗る笑止なもので、清玄が借著をして代役で出たような義経を時折見受けることすらある。何と言っても歌右衛門が折紙附である(〔補〕近時では先ず六代目であろう)。弁慶が思い切って泣くことと、それから後で、「鎧に添いし袖枕」の長唄で物語りやうの振りがあるのが、又歌舞伎式であり、且弁慶の仕処でもある。能では「然るに義経」の件はクセではあるが、地謡が謡うだけであるのを、却って本行の舞グセに倣って、所作化した――而も義経の心情に関する説明の文詞の部分であったのを弁慶に移したのは大胆ではあるが――為、単調から救われた。

(5)次がワキが再び出て、酒宴。所望されて「鳴るは瀧の水」の男舞。舞いながら人々を促して出立。無事虎口を遁れて陸奥へ下る。これが急一段である。

即ち『能作書』の

その後、舞にても、働にても、或は早曲(ぶし)・切拍子などにて一段。巳上五段なり。
とある最終の段である。前段のクセの終頃ワキは太刀持を随えて橋掛りに立ち、太刀持に命じて山伏達の後を追わせる。この応待には後見座に休息していた強力が出て当り、シテはその報告を聞いて、判官を退かせ、ワキを迎える。山伏がかりの男舞は又能として重要な部分であるから、「延年の舞」の小書は各流共重習、その他、観世・梅若の「酌流し」等の小書附で演ぜられることもある。

○歌舞伎も大体は似ているが変った所もある。「いざさせ給への折からに」で一同立ちかかる時、富樫が番卒に酒を持たせて顕れる。もとは上手から出たらしいが、今は臆病口又は橋掛りからで、且富樫自身舞台裏から「なうなう」と呼掛で出るのは、却って能の手法を採って来たのである。それから能で扇の酌が、これでは写実の土器と瓢箪になって居り、それに前にも述べた腰桶が使われる。弁慶の酔態の面白さと、それに絡んでの番卒等の滑稽が今までの緊張を頗るなごやかに朗らかにする。三段の延年の舞(これは宝生流に倣い、終に観世の小書の「瀧流し」を採って添えてある)が終る頃、扇で振の中に皆々に立てと知らせる。能では子方・シテ・ツレの順に退場し終曲してからワキが入るが、歌舞伎では義経を先に四天王足早に花道から揚幕に入り、弁慶だけ後に残り、「笈をおつ取り肩に打ちかけ」も、能ではその形をするだけにとどまるが、歌舞伎では前に判官の負うていた物を背負い、金剛杖をも突いて花道へかかる。同時に富樫は舞台中央に出て見送って両方で見得、析が入って幕を引くのが「陸奥の國へぞ下りける」の切れる時になる。

そしてこの後に、幕を引きつけると、鳴物になり、飛六法(且、片手六法)で弁慶は揚幕へ入って勧進帳劇は終る。

以上述べた『安宅』乃至『勧進帳』の構成を更に要約して次に表解して置こう。

安宅』              両者共通           『勧進帳』の異色ある部分

    第一場

〔〕は本格的でない標   第一景

(序)
ワキ名告         (1)富樫登場・名告
             
                                  第二景
(破)

シテ・子方・ツレの出  (2)作山伏の判官主従登場・   (花道)
〔次第・サシ・歌(道行)〕   北國落(道行)
             
                                  第三景

談合(同音)        (3)関前の評議                        (花道)

*******************************************
        第二場


                  第一景

問答・ノット・読物   (4)関守と先達との問答
             (5)山伏一同最後の勤
             (6)先達の勧進帳捧読
                                                            (7)富樫と弁慶との山伏問答

                  第二景

呼止・打擲・押合   (8)関守の強力見咎・先達の打擲・同行の押合

*******************************************
    第三場

                  第一景
三 本グセ
         (9)関外の主従の愁歎
                                                                (10)弁慶の物語(所作)

                  第二景
(急)男舞
            (11)関守再登場・酒宴
            (12)シテの舞・一行退場 
                                                                         (延年の舞・判官主従退場)

                  第三景

                                                          (13)弁慶幕外花道の引込(飛六法)
 

即ち『安宅』は能として、謡曲として、性質・類別の上からも、組織・構成の上からも、純本格的のものとは言えないものであり、かなりに芝居がかった傾向を有している。けれどもやはり大体能としての構成を具えてはいることは、上に示した所でもわかるであろう。そして幽霊能の幽玄こそないが、内容から言っても、脚色から言っても、現在物としては確に圧巻とすべきであろう。唯その既にこのままで一個の優れた戯曲的な構成を有っていて、演劇的な舞台効果を挙げている事実は、正しく明らかに歌舞伎劇への移行を予言しているものである。その意味で『安宅』から『勧進帳』へは、実に一挙手一投足の労であった。そして脚色上では上の表が語ってもいるように、新に加えられた部分は極めて僅少で、否大きな改変を施す余地が無かったほど、整っているのである。

但しその『安宅』の脚色も、部分的に観れば、能の定式に則っている部分以外も、独創的特異さを有つという程の所は殆ど認められない。素材と共に大抵は『義経記』や『盛衰記』やから借りられて来ている。舞曲との先後は明言出来ぬが、萬一舞曲が先行しているとすれば、必ずそれに倣ったと推定し得られる程(又『安宅』の方が先ならば、その関係は全く逆であると言い得る程)、頗る相似した点を有している。例えば『安宅』の関前の談合は『富樫』の安宅の松附近で里の童等に道を尋ね、関所の状を聞いて、一行が驚いて評議する件に当り、且『安宅』ではそれが単に通行の旅人の巷説を耳にしたかと弁慶に問う判官の詞で始められている。又『安宅』の問答で太刀持が昨日も山伏を三人まで切った云々というのは、『富樫』では童等の問はず語りに含まれている上に、松原に梟首してある首共を判官主従が見て悚然とすることになっている。この梟首の事は『安宅』にもあるが、唯それは間狂言の詞、即ち物見をする強力の詞で示されていて、謡曲の本文には無い(判官を強力姿に扮させる事と打擲は舞『笈さがし』と共通)。勧進帳・打擲・延年舞のように、謡・舞曲及び『義経記』或は『盛衰記』と相互共通している点もある。

兎に角『安宅』の勝れた所は、全体として渾然一曲を成し、そしてよく引締って居り、少しもムダが無く、又無理がなく筋が運ばれて行く点に在る。素材なり脚色なりを、仮令他に得たとしても、『義経記』の重複、舞の本の冗長が無く、又その借りた趣向の痕跡が殆ど認め難いほど渾化している。且、問答・勤行・勤進帳読み(歌舞伎はこの次に又山伏問答)・呼止・打擲・押合と、観衆の感情を漸層的に緊張させて行く事件の連続で全曲の主部分を構成し、血に泣く苦肉策が効をを奏して、危く鰐の口を遁れ、緊張が一時に弛むと、忽ち懐故の情を伴う悲歎の場面を出して、観衆或は読者をして、曲中の人物と共に心ゆくまで泣かせ、その涙が尽きようとする頃、一転して、淋しい中に華やかな遊宴歌舞に移らせ、観客をして興奮しきった心持を鎮めて(歌舞伎には始めて爆笑をさへ交えさせて)、不安が決して解消したわけではないが、何となく愉しい朗らかな落著きと満足との中に終局を告げさせるのは、やはり凡庸の作者ではない。そして互に得失はあるが、歌舞伎は一層それを動的に演劇的に作り活かしたのである。  

つづく
 
 
 



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2001.12.1
2002.3.9 Hsato